本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,850 件)





中谷千代子

没年月日:1981/12/26

 絵本作家中谷千代子は、12月26日午後9時49分、心不全のため東京都豊島区の癌研究会付属病院で死去した。享年51。1930(昭和5)年1月16日東京高樹町に生まれ、47年東京美術学校に入学して梅原龍三郎等に学ぶ。52年同校油彩科を卒業し、その後グループ展(MY NAK)・国展等に油絵を出品したが、57年頃より絵本の仕事に興味を持ち、研究を始めた。60年初めての絵本「ジオジオのかんむり」を出版し、62年に出版した「かばくん」は翌年サンケイ児童出版文化賞大賞を受賞する。63年より1年間フランスに滞在し、ボナールやアンリ・ルソーの絵に感銘を受けるとともに、フランスの絵本編集者ポール・フォーシェ、スイスのベッティナ・ヒューリマンらと出会ったことが、絵本作家としての道を進む大きな自信となった。65年の「まいごのちろ」「かばくんのふね」は第14回小学館絵画賞を受賞し、66年に出版した「スガンさんのやぎ」は翌年アメリカでも出版され、シカゴトリビューン・ワシントンポスト紙主催の児童図書フェスティバルで最優秀作品に選ばれるなど、動物を主人公とした作品は海外でも知られた。その後も、「まちのねずみといなかのねずみ」(69年、第1回講談社出版文化賞)、「かえってきたきつね」(74年、第21回サンケイ児童出版文化賞大賞)、「かめさんのさんぽ」(79年、第26回サンケイ児童出版文化賞推薦図書)など意欲的な作品を発表し、この間取材のため、73年フランス、76年にはパリ、ベニスを旅行している。81年には各種の童画新人賞の審査員をつとめたが、「しろきちとゆき」が最後の作品となった。

河合秀甫

没年月日:1981/12/18

 日展会員の漆芸家河合秀甫(本名豊三)は、12月18日午後7時、心不全のため東京都港区南青山の自宅で死去した。享年91。1890(明治23)年7月4日東京・京橋に生まれ、幼少より父亀太郎に蒔絵技術を学ぶ一方、池上秀畝に師事し日本画を学んだ。1930年の第12回帝展に「高嶺の花文庫」が初入選し、41年の第4回新文展で「薬草文飾筥」が特選となる。戦後は、52年第8回日展より委嘱出品、54年第10回日展では審査員をつとめ、53年に会員になっている。高山植物を好んで蒔絵の題材とし、帝展初入選作をはじめ、「衣笠草蒔絵小屏風」(52年第8回日展)「水芭蕉飾筥」(53年第9回日展)など作例は多い。このほか、日本漆工芸会、日本漆芸会、日本漆工協会、全日本工芸美術家協会などの委員や監事をつとめ、73年には長年の業績を認められ、漆工功労者として表彰されている。

張間喜一

没年月日:1981/12/14

 重要無形文化財輪島塗の技術保存会会長の張間喜一(号禧一)は、12月14日午後3時15分、老衰のため石川県輪島市の自宅で死去した。享年79。1902(明治35)年4月19日石川県輪島市に生まれる。21年3月石川県立工業学校描金科を卒業後、東京美術学校に入学し、26年3月に同校漆工科を卒業した。同年4月から六角紫水研究所助手を半年間勤め、その後石川県商工技手工業試験場に勤務、28(昭和3)年からは石川県立工業学校で教鞭をとった。37年の第1回新文展では「漆器花薊化粧筥」が初入選し、42年第5回新文展では「鷺漆器衝立」が特選となっている。戦後46年から静岡県立工業試験場々長を勤めたが、55年輪島漆器研究所顧問となり、69年同研究所々長となった。翌70年には長年にわたる漆工芸啓蒙指導と後継者の育成を認められ、日本漆工協会から表彰を受けている。76年勲五等双光旭日章を受章。翌77年から重要無形文化財輪島塗技術保存会の会長をつとめたいた。代表作は上記新文展特選受賞作。

川端弥之助

没年月日:1981/12/09

 春陽会会員、元京都市立美術大学教授の洋画家川端弥之助は、12月9日肺炎のため京都市左京区の自宅で死去した。享年88。1893(明治26)年12月5日京都市に生まれ、京都府立第一中学校を経て1918(大正7)年慶応義塾大学法律科を卒業する。20年第7回二科展に「桃」が初入選、22年渡仏しパリでアカデミー・コラロッシに入学、シャルル・ゲランに師事し、24年サロン・ドートンヌに入選する。翌25年帰国し同年の第3回春陽会展に「エフエル塔」等滞欧作3点を出品、以後同展に出品を続け32年第10回展に「御陵道」等3点を出品し春陽会賞を受賞、35年春陽会会友となり、37年同会員に推挙される。また、40年の紀元二千六百年奉祝美術展に「琉球ヤンバル船」を出品する。49年京都市立美術専門学校教授に就任、翌年新制大学令により京都市立美術大学となり助教授、56年教授となり、63年定年退官するまで後進の指導にあたった。71年嵯峨美術短期大学教授に就任、79年まで在職する。この間、72年に第1回京都府美術工芸功労賞を、翌73年京都市文化功労賞をそれぞれ受賞した。春陽会展への出品作に、「陽春」(13回)「店頭」(15回)「天主堂」(29回)「疎水」(35回)「坂道」(40回)「白い家」(43回)「木曾御岳」(46回)などがある。

中野蒼穹

没年月日:1981/12/06

 日展会員の日本画家中野蒼穹(本名二郎)は、12月6日午後1時15分、心筋コウソクのため浦和市の自宅で死去した。享年56。1926(大正15)年3月16日福島県原町市に生まれ、45(昭和20)年日本美術学校を卒業し、中村岳陵に師事する。50年の第6回日展に「小駅風景」が初入選し、以後毎回入選、56年第12回日展で「たそがれ」が特選・白寿賞を受賞し、翌年無鑑査となる。60年第3回新日展で「山野根風景」が再び特選・白寿賞を受賞し、翌年から委嘱出品、64年の第7回新日展では「残雪」で菊華賞を受賞するなど、風景画を得意としていた。70年の第2回改組日展では審査員をつとめ、翌年会員に推挙された。81年11月に福島県展功労賞等を受賞した直後の急逝であったが、その業績に対し、82年3月に紺綬褒章が授章された。主な作品としては、上記の日展各賞受賞作のほか、「翠映」(70年第2回改組日展)「山響」(81年第13回改組日展・絶筆)など。

太田英蔵

没年月日:1981/11/28

 染織史研究家の川島織物顧問・文化財保護審議会専門委員太田英蔵は、11月28日心不全のため京都市北区の鞍馬口病院で死去した。享年78。1903(明治36)年2月10日京都府与謝郡に生まれ、1921(大正10)年京都市立第一工業学校機織科を卒業、同年京都西陣の川島織物所に就職し、1957(昭和32)年に川島織物取締役となる。その間、染織史の研究も行い、主として上代裂に関する意見を発表した。京都の精華短大で染織史を講じた。1953(昭和28)年に文化財専門審議会専門委員となる。1973(昭和48)年に勲四等瑞宝章を授与される。

樋口富麻呂

没年月日:1981/11/07

 日本画家の樋口富麻呂は、11月7日午前零時25分、老衰のため京都市左京区の自宅で死去した。享年83。1898(明治31)年3月1日大阪市に生まれ、本名は秀夫。1910年頃より北野恒富に師事し、17歳の時の15(大正4)年第9回文展に「つやさん」が初入選する。その後帝展に19年の第1回から第3回まで入選し、23年(第10回院展「麻雀戯」)からは院展に出品、6回入選している。26年頃遊学のため大阪から京都に出た後、京都市立絵画専門学校に入学し、同時に西山翆嶂に師事、青甲社同人となる。35(昭和10)年に京都市立絵画専門学校選科を卒業し、中村貞以、西山英雄らと親交を結んだ。33年からは再び帝展、新文展、及び戦後は日展に出品し、54年の第10回日展から依嘱出品となっている。58年に師西山翆嶂が没し青甲社が解散した後、団体には所属せず日展のみに出品していたが、69年から院展に移り、小松均にも学んだ。庶民的な風俗を好んで描く一方、仏教美術にも関心を抱き、31年に仏跡を訪れて4ヶ月間インドを旅行(この折カルカッタ美術学校で個展開催)、56年にはインドネシアのバリ島に写生旅行している。晩年は人物や仏教に題材を求めた作品を多く手がけ、62年に高島屋で個展「みほとけ展」、79年には大西良慶・清水寺貫主をテーマに描いた個展「百寿説法展」(高島屋)などを開いている。主な作品は、「つやさん」(15年第9回帝展)「涼庭嬉戯」(26年第13回院展)「往く船」(40年紀元2600年奉祝展)「かぐや姫誕生」(55年第11回日展)「バリ島の祈り」(70年第55回院展)など。

桜井祐一

没年月日:1981/11/04

 国画会会員の彫刻家桜井祐一は、11月4日、肝臓ガンのため、東京都板橋区の日本大学付属板橋病院で死去した。享年67。1914(大正3)年8月24日山形県米沢市に生まれ、24年家族と共に上京した。31年から翌年にかけて小林芳聰に彫刻の手ほどきを受け、32年平櫛田中に師事する。34年の第21回院展に木彫「乞ふ人」が初入選し、以後院展を中心として活動するが、39年の第3回文展に「男立像」が初入選しており、戦前は文展にも出品している。40年日本美術院院友となり、戦後は彫塑に転じて、46年第31回院展で日本美術院賞を、49年には日本美術院奨励賞を受賞する。更に51年第36回院展「青年」52年第37回院展「若い男」で日本美術院賞大観賞を続けて受賞し、55年同人に推挙された。61年美術院の彫刻部が解散したため、彫刻家集団S・A・Sの結成を経て、63年10月国画会に合流、彫刻部の創立メンバーとなる。この頃日本国際美術展、現代日本美術展にも出品している。65年には第1回日本現代彫刻展に「あるポーズ」を出品し宇部市賞を受賞、70年に山形美術博物館で桜井祐一展が開催された。また77年第5回長野市野外彫刻賞を受賞し、79年「レダ」により第10回中原悌二郎賞、翌80年には第1回高村光太郎賞の優秀賞を受賞するなど、戦後の具象彫刻の代表的作家ととして活躍した。代表作は「青年」(51年)「ネグリジェの女」(60年)「若い男」(61年)「あるポーズ」(65年)「レダ」(79年)など。略年譜1914 山形県米沢市に生まれる。1924 上京する。1931 小林秀聰に彫刻の手ほどきを受ける。1932 平櫛田中に師事する。1934 第21回再興院展「乞ふ人」初入選1936 第23回再興院展「壺」1938 第25回再興院展「或る男」1939 第26回再興院展「特務兵」、第3回新文展「男立像」1940 第27回院展「支那の女」院友に推挙される。紀元2600年奉祝美術展「若者」1941 第28回院展「女神像」「女の首」、第3回文展「女立像」1942 第29回院展「梳る」1943 第30回院展「菊子像」「濱の女」1946 第31回院展、日本美術院賞1947 第2回美術院小品展「小児坐像」、第32回院展「祐吉像」「少年」1948 第3回美術院小品展「良寛」、第33回院展「支那服の乙女」「山下義廣先生」1949 第34回院展「相馬氏像」「山下義廣先生」日本美術院賞奨励賞1950 第5回美術院小品展「俳人」、第35回院展「小薗井正一氏像」「女座像」1951 第36回院展「青年」日本美術院賞大観賞1952 第7回美術院小品展「女立像」、第37回院展「若い男」日本美術院賞大観賞1953 第8回美術院小品展「亡き友の像」、第38回院展「裸婦立像」1955 第40回院展「沈む地球」同人推挙1956 第11回美術院小品展「首習作」1957 第12回美術院小品展「かがむ女」、第42回院展「怒りと悲しみと」 1958 第13回美術院小品展「女の像」、第43回院展「おんなの坐像」1959 第14回院展春季展「トルソ」、第44回院展「ネグリジェの乙女」1960 第15回院展春季展「裸婦習作」、第45回院展「ネグリジェの女」1961 日本美術院彫刻部解散、彫刻家集団S・A・Sの結成に参加。1963 国画会彫刻部創立、会員となる。第7回日本国際美術展「ネグリジェの女」1964 第38回国展「腰をかけた女」、第6回現代日本美術展「女」「炎る」1965 第39回国展「裸婦」、第1回日本現代彫刻展「あるポーズ」宇部市賞、第8回日本国際美術展「あるポーズ」、秀作美術展「女」1966 第40回国展「あるポーズ2」1967 第41回国展「あるポーズ5」1968 第42回国展「横たわる裸婦」、第8回現代日本美術展「裸婦坐像」1969 第43回国展「若い女」1970 第44回国展「はじらい」、山形美術博物館で「桜井祐一展」開催。1972 第46回国展「もの想ふ人」1973 第47回国展「やすらい」1974 第48回国展「はたちの女」1975 第49回国展「裸婦」1976 第50回国展「レダ」1977 第51回国展「若い女・淑」、第5回長野市野外彫刻賞受賞1978 第52回国展「腰かけた裸婦」1979 第53回国展「ナイテイの女」、「レダ」により第10回中原悌二郎賞受賞1980 第54回国展「金山国次郎氏像」、第1回高村光太郎賞優秀賞受賞1981 第55回国展「五月の女」

三輪休和

没年月日:1981/10/24

 “休雪白”で知られる萩焼の第一人者、人間国宝の三輪休和は、10月24日午後1時5分、老衰のため山口県萩市の河村病院で死去した。享年86。萩市名誉市民でもあった氏の葬儀は、萩市葬として萩市民会館で行われた。1895(明治28)年山口県阿武郡に旧萩藩御用窯三輪家九代雪堂の二男として生まれ、本名は邦広。1908年明倫館の流れを汲む萩中学校に入学し、優秀な成績で2年に進むが、祖父雪山の「職人に学問は要らぬ」という説得により、同校を2年で退学、以後、技術を父の九代雪堂に学び、家業に従事することになる。祖父の雪山は、維新により御用窯としての保護を離れた窯経営の苦難を乗り越えた傑物であったが、この祖父の強い勧めにより、青年期に、江戸千家流の阿部直彦について茶道を学び、また宝生流の渡辺蒿蔵に謡曲を習うなど、諸芸の修業を積んでいる。27年32歳の時、父の九代雪堂が隠居したため、三輪窯十代を継承し休雪と号した。この頃より古萩名品の鑑賞を志し、28年には益田鈍翁、三井守之助、藤原銀次郎、高橋箒庵らを訪ね、34年の大阪藤田男爵家の売立に赴くなど、名品に触れる貴重な体験をしている。42年三重県津市千歳山の川喜田半泥子宅に金重陶陽、荒川豊蔵、三輪休雪の三人が集まった際「からひね会」を結成したが、これは、戦禍の激しくなる折柄、具体的な芸術活動には到らなかった。44年大阪美術倶楽部で初の個展を開催、また戦後は56年以来日本伝統工芸展に殆んど欠かさず出品し、57年には日本工芸会の正会員となっている。作陶では十代休和襲名の頃から白釉の発色について研究を重ねていたが、やがて萩焼特有の藁灰釉を工夫することで春雪のような温味のある白を完成し、55年前後より「休雪白」の名で呼ばれるようになった。ここに高麗茶碗に和風を調和させ温和な独自の作風を樹立した休和の評価が定着し、57年には「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」として選択を受ける。67年隠居して休和と号し、以後個展をやめ納得のいく作陶に励む。この間、28年7月から72年8月まで克明に記された『窯日誌』は、作陶の苦心と研究をよく伝えている。67年紫綬褒章を受章、70年には重要無形文化財萩焼保持者(人間国宝)として認定され、また73年には勲四等旭日小授章を受けている。職人芸一筋に徹した生涯は、その作品と共に、多くの人々の共感と尊敬を集めていた。年譜西暦 事項1895 4月 20日、山口県阿武郡に旧萩藩御用窯三輪家9代雪堂の二男として生まれる。本名は邦廣。1908 3月 椿東小学校卒業 4月 山口県萩中学校入学1910 3月 祖父八代雪山のすすめにより萩中学校二年修了で退学し、家業に従事する。1911 2月 阿部直彦に師事して江戸千家流の茶道稽古を始め、また渡辺蒿蔵に師事して宝生流謡曲の稽古を始める。1921 2月 上海、蘇州、杭州、広州を旅行して中国陶磁を見学する。 8月 祖父八代雪山没1922 5月 小島芳子と結婚。1923 「郭子儀置物」1926 5月 「布袋置物」1927 2月 父九代雪堂隠居、三輪窯十代を継承して休雪と号す。1928 7月 「寿老人置物」 9月 古萩名品の鑑賞を志し、益田孝男爵、三井守之助男爵、藤原銀次郎翁、高橋箒庵翁を訪ねて古萩名器を鑑賞する。この頃より萩釉の藁灰による白釉の発色について研究を積む。1929 4月 「桃坊朔(東方朔)置物」 10月 「布袋置物」「玉取獅子置物」 11月 「郭子儀置物」1932 9月 休雪の作品頒布会「雅陶会」が結成される。1933 8月 「玉取獅子置物」1934 1月 朝鮮陶磁研究のため京城の李王家博物館を見学し、さらに南鮮方面を旅行する。この時加藤唐九郎と逢う。 4月 大阪藤田男爵家の売立に際し、名器研究のためその入札下見を参観する。「桃坊朔(東方朔)置物」 5月 須子伴二郎所蔵の「仁清水指」を写し焼く。 10月 商工省主催「輸出工芸品展」に「萩焼菓子器」を出品し、入選。1935 5月 「萩博覧会」に出品。 10月 名古屋・松坂屋「全国12名工作品展」に作品30点を出品。 「玉取獅子置物」「夏・冬茶碗」二個、「高彫唐草文大花瓶」 この年、東京在住の塗師能登又平より漆塗りの指導を受ける。1937 6月 大阪・阪急百貨店「萩焼名匠展」出品1938 1月 『茶の湯会記』を書き始める。 12月 古萩を中心とする年譜を作成する。1941 5月 旧藩御用達熊谷家の高麗茶碗、古萩を鑑賞する。1942 2月 津市千歳山の川喜田半泥子宅に金重陶陽、荒川豊蔵、三輪休雪の三人が集い「からひね会」を結成する。1943 1月 技術保存法指定作品山口県認定委員を命ぜられ、同月技術保存法による指定を受ける。1944    大阪美術倶楽部で初めての個展を開く。1948 3月 萩焼美術陶芸協会副会長に推戴される。        この年、芸術陶磁認定委員に任命される。1951 6月 朝日新聞社主催「現代日本陶芸展」招待出品(以後連続)。195311月 父九代雪堂(録郎)、86歳にて没1955 9月 「全日本産業工芸展」に「抹茶碗」が入選し、会長賞を受ける。        この頃よりシリコンを水止めに使い始める。1956 8月 山口県指定無形文化財萩焼保持者に認定される。    10月 「第三回日本伝統工芸展」に「平茶碗」を初出品入選する。1957 2月 山口県陶芸協会が創設され会長に推戴される。     3月 文化財保護委員会より「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」として選択を受ける。     4月 東京・三越にて「三輪休雪茶陶展」開催。これを機に岸信介ら在京山口県出身名士の発起により「三輪休雪後援会」(会長岸信介)が設立される。     5月 日本工芸会正会員に推挙される。    10月 「第四回日本伝統工芸展」に「茶碗」入選。        この年、アメリカ国際見本市に出品。1958 9月 東京・三越にて「三輪休雪作陶展」開催。    10月 「第五回日本伝統工芸展」に「茶碗」「水指」入選。1959 3月 文化財保護委員会「水指」買上。     5月 国立近代美術館「現代日本の陶芸」に「水指」招待出品。        「九州山口陶磁名品展」に「茶碗」「菓子鉢」招待出品。     6月 名古屋・松坂屋「伝統工芸20展」に「茶碗」招待出品。    10月 「第6回日本伝統工芸展」に「四方鉢」入選。        山口県陶磁協会が萩焼陶芸協会に改組され会長に推戴される。1960 5月 「第9回現代日本陶芸展」に「水指」招待出品。 10月 「第七回日本伝統工芸展」に「茶碗」入選。 11月 東京・三越にて「三輪休雪作陶展」開催。 この年、スペイン国立民族博物館より「茶碗」買上。1961 2月 萩焼陶芸協会が萩焼陶芸作家協会に改組され、会長に推戴される。 4月 名古屋・松坂屋にて「休雪・節夫父子陶芸展」開催。 9月 大阪・三越にて「休雪・節夫萩焼逸品展」開催。 「第8回日本伝統工芸展」に「茶碗」2展入選。 11月 中国新聞社より中国文化賞を受ける。1962 5月 大和大神神社中山宮司により三輪神社を勧請する。 11月 東京・三越にて「三輪休雪作陶展」開催。1963 9月 「第10回日本伝統工芸展」に「茶碗」入選。 福岡・岩田屋にて「休雪・節夫作陶展」開催。 萩市文化財審議委員を委嘱される。1964 6月 国立近代美術館「現代国際陶芸展」招待出品。 9月 「第11回日本伝統工芸展」に「茶碗」2点入選。 11月 文化功労者として山口県選奨規則により表彰される。1965 9月 「第12回日本伝統工芸展」に「茶碗」入選。 「休雪古稀の会」が開催される。1966 1月 朝永振一郎博士ノーベル賞受賞祝賀贈呈の「花瓶」制作。 10月 「第13回日本伝統工芸展」に「茶碗」2点入選。 文化財保護委員会「茶碗」買上。1967 3月 文化財保護委員会により三輪休雪の技術記録が作成され、「茶碗」2点、「水指」1点買上。 5月 隠居して休和と号し、11代休雪を弟節夫が襲名する。 三輪神社、伊勢神宮に参拝し、「茶碗」を奉納。 7月 萩市制35周年記念「産業功労者」として表彰される。 11月 紫綬褒章を授けられる。1968 5月 「日本伝統工芸秀作展」に「茶碗」招待出品。 8月 川端康成ノーベル賞受賞祝賀贈呈の「獅子置物」制作。 9月 「第15回日本伝統工芸展」に「茶碗」2点入選。1969 1月 東京三越・陶裳会同となり「第3回陶裳会展」に「茶碗」招待出品(以後連続)。 3月 大丸・彩虹会同人となり同展に「茶碗」出品(以後連続)。 6月 大阪・高島屋「滉瀁会工芸名作展」に「茶碗」招待出品(以後連続)。 9月 「第16回日本伝統工芸展」に「茶碗」入選。1970 4月 重要無形文化財萩焼保持者として認定される。毎日新聞社主催「人間国宝新作展」に「井戸茶碗」出品(以後連続)。 7月 「三輪休和先生作品懐古展」を萩市民館にて開催。 9月 京都国立近代美術館「現代陶芸展-ヨーロッパと日本-」に「茶碗」招待出品。    「第17回日本伝統工芸展」に「茶碗」入選。    前立腺炎にて山口大学附属病院に入院し、11月治癒退院。1971 6月 毎日新聞社主催「第1回日本陶芸展」招待出品(以後連続)。 9月 「第18回日本伝統工芸展」に「茶碗」入選。 10月 京都国立近代美術館「現代陶芸展-アメリカ・カナダ・メキシコと日本-」に「茶碗」招待出品。1972 4月 大阪・高島屋にて「喜寿記念・三輪休和作陶展」開催。「休和喜寿記念作品集」を花喜多より刊行。 5月 福山・天満屋「藤原啓・三輪休和陶芸二人展」開催。 7月 萩市名誉市民に推挙される。 8月 山口県立山口博物館「三輪休和・藤原啓陶芸二人展」開催。 9月 「第19回日本伝統工芸展」に「水指」入選、文化庁買上。 10月 不眠症となり市内河村病院に入院静養し年を越す。1973 2月 退院して自宅静養する。 4月 勲四等に叙せられ旭日小綬章を授けられる。 9月 「第20回日本伝統工芸展」に「茶碗」入選。1974 1月 迎賓館別館茶室「茶碗」買上。 10月 「第21回日本伝統工芸展」に「茶碗」入選。1975 3月 京都・高島屋「一楽二萩三唐津展」(楽吉左衛門・三輪休和・中里無庵)開催。 4月 「伝統の萩焼と高麗茶碗・古萩名品展」実行委員を委嘱される。 6月 東京・三越「現代名作工芸展」に「茶碗」招待出品。 7月 山口県立美術館(設立準備中)に「茶碗」二点寄贈。 9月 「第22回日本伝統工芸展」に「茶碗」「編笠水指」入選。    文化庁「編笠水指」買上。1976 5月 日本経済新聞社・ドレスデン国立美術館・シュベリーン国立美術館主催「日本陶磁名品展」に「白萩釉水指」出品。 9月 「第23回日本伝統工芸展」に「花入」入選。1977 4月 東京・松坂屋「人間国宝展」に「茶碗」出品。 7月 名古屋・丸栄「十和会展」出品。 10月 岡山・天満屋にて「からひね会展」が初めて開催される。1978 4月 東京・松坂屋「人間国宝展」出品。1979 5月 山口市仁保病院に入院。1981 5月 同病院を退院、帰宅。 6月 萩市河村病院に再入院。 10月 24日、老衰のため死去。 (山口県立美術館「三輪休和展」1982図録参照)

山本直治

没年月日:1981/10/04

 二紀会評議員の洋画家山本直治は、10月4日肝臓ガンのため大阪市北区の大阪中央病院で死去した。享年77。本姓秦井。1904(明治37)年8月30日大阪市に生まれる。24(大正13)年から大阪の信濃橋研究所に入り、小出楢重、鍋井克之に指導を受ける。26年、第13回二科展に「春の雪」「造花等の静物」が初入選、以後同展へ出品を続け35(昭和10)年二科会会友となった。戦後は二紀会に所属、48年二紀会同人、68年同会員に推挙され、73年第27回二紀展に出品した「潮岬」「良夜」で鍋井賞を受賞した。76年二紀会委員、翌年同評議員に挙げられた。この間の二紀会への出品作に「夜の操車場」(7回)「夜の色」(10回)「工場街」(15回)「古き家の窓より」(23回)「夜のプロムナード」(30回)「豊饒」(35回)等がある。

松田義之

没年月日:1981/09/09

 東京芸術大学名誉教授の版画家、図画教育家の松田義之は、9月9日老衰のため千葉県市川市の自宅で死去した。享年90。号芳雪。1891年(明治24)年11月9日愛知県北設楽郡に生まれ、愛知県師範学校第二部を経て、1917(大正6)年東京美術学校師範科を卒業した。卒業の年から青森県立青森高等女学校、ついで20年から三重県神戸中学校で教鞭をとったのち、21年東京美術学校助教授に就任、40年同校教授となる。戦後、51年新制大学設置により東京芸術大学教授となり、59年定年退官、62年同大学名誉教授の称号を受けた。この間、29年以後文部省中等教員検定試験委員、40年以後文部省教科書編集委員をつとめるなど、戦前から図画教育界で大きな功績を果した。また、エッチングの草分け的存在でもあり、新文展、日本版画協会展などに出品した。銅版画の主要作品に「樹蔭」「ベービルの田舎屋」「橋」「詩人の家」「村の工房」「船大工の家」「花と時計」などがあり、著書に『美術の話』(1950年、広島図書)『手と道具』(1955年 河出書房)などがある。

鈴田照次

没年月日:1981/09/08

 染色作家の日本工芸会正会員・理事の鈴田照次は、9月8日肝臓ガンのため佐賀県藤津郡国立嬉野病院で死去した。享年64。1916(大正5)年10月27日佐賀県杵島郡で生まれた。1934(昭和9)年佐賀県立鹿島中学校卒業、1935(昭和10)年東京高等工芸学校工芸図案科(現千葉大学工学部)入学、1938(昭和13)年卒業。富本憲吉、稲垣稔次郎の影響が初期の作品には比較的多く見られる。特に型絵染は稲垣稔次郎に師事して学んだのでその傾向は初期の作品にあるが、鍋島更紗の技法の研究を進めて木版摺更紗の独自のものが出来てからは得異の秀作が年々発表された。制作略年譜西暦   昭和1936 11年 東京高等工芸学校講師鹿島英二氏に蝋染を学ぶ1950 25 新匠展蝋染を出品、冨本憲吉氏と稲垣稔次郎氏を知る、その後稲垣氏に型絵染を学ぶ1953 28 佐賀大学教育学部講師 県美術展審査員1955 30 新匠会会員に推薦さる1958 33 東京高島屋美術部にて個展1959 34 型絵染着物「くれおめ」第6回日本伝統工芸展入選以来没年まで毎年入選1960 55 鍋島更紗秘伝書及見本帖を見、この更紗の解明と復元を期す 型絵染着物「歯朶文」日本伝統工芸展入選1961 36 型絵染着物「竹文」第八回伝統工芸展出品、文化庁蔵1962 37 日本工芸会正会員認定、型絵染着物「松文」第九回日本工芸会長賞受賞、文化庁蔵1963 38 日本伝統工芸展染色部門鑑査員、以降十回餘型絵染壁面装飾「老松」1964 39 社団法人日本工芸会理事に委嘱され没年までつとめる。染織工芸の源流を求めて、インドネシア・セイロン・インドに渡り調査研究。 型絵染着物「草文」「芋葉文」第11回日本伝統工芸展出品、「草文」文化庁蔵1965 40 第12回日本伝統工芸展染色及び人形両部門第1次鑑査員委嘱さる 型絵染着物「草の実」「栗文」同展出品、型絵染着物「葦文」(第2回日本染織展出品)1966 41 日本工芸会西部支部幹事長に就任以来81年没年までつとめる 型絵染着物「麦穂波」「松の花文」(第13回日本伝統工芸展出品)「麦穂波」京都国立近代美術館蔵1967 42 第2回国際芸術見本市アメリカ展招待、型絵染着物「麦穂波」出品 型絵染着物「夜香文」(日本染織展出品)文化庁蔵 型絵染着物「山芹文」「草文」(第14回日本伝統工芸展特待出品)1968 43 型絵染着物「渦文」「草文」(第15回日本伝統工芸展出品)同出品作「渦文」横浜シルクセンター蔵1969 44 著書「染織の旅」芸艸堂より出版、鍋島更紗秘伝書を基に鍋島更紗復元に着手、型絵染着物「もくまお」「華文」(第16回展出品)「雨文」「球文」(第6回日本染織展出品)1970 45 型絵染着物「歯朶文」(第17回展出品)型絵染壁画装飾「春暁譜」「秋惜譜」制作1971 46 型絵染着物「麦穂文」(第18回展出品)1972 47 鍋島更紗の技法に基く木版摺更紗を発表 木版摺更紗着物「松文」(第19回展出品)東京国立近代美術館蔵 型絵染着物「笹文」(第9回日本染織展出品)1973 48 木版摺更紗着物「松文」「草穂文」(第20回日本伝統工芸展特待出品)木版摺更紗着物「郭公花文」(西部工芸展出品)1974 49 木版摺更紗着物「おだまき文」(第21回展特待出品)、木版摺更紗着物「歯朶文」(第9回西部工芸展出品)以上二点東京国立近代美術館蔵1975 50 還暦を記念して歌と随想「梅下集」を発刊 木版摺着物「松竹梅文」(第22回展特待出品)木版摺更紗着物「竹文」(第12回日本染織展出品)東京国立近代美術館蔵1976 51 木版摺更紗着物「とり文」(第23回展出品)1977 52 芸術選奨文部大臣賞受賞(第23回展出品作「とり文」が対称となる) 木版摺更紗着物「麦穂文」(第24回展特待出品)木版摺更紗着物「芹花文」(第14回日本染織展出品)京都国立近代美術館蔵1978 53 紫綬褒章受章 木版摺更紗着物「松の花文」(第25回展出品)木版摺更紗着物「竹文」(第15回日本染織展出品)以上二点佐賀県立博物館蔵1979 54 木版摺更紗着物「花文」(第26回展出品)文化庁蔵 木版摺更紗着物「松葉文」(第16回日本染織展出品)木版摺更紗による襖制作1980 55 ロンドン、ビクトリア・アンド・アルバート美術館「ジャパン・スタイル展」に招待出品1981 56 日本経済新聞社主催作品展(鐘紡東京銀座シグナスホール) 56 9月8日没 (鈴田照次作品集型と版染」-1980年 芸艸堂刊-の年譜参照)

米田三男之介

没年月日:1981/09/05

 現代美術家協会常任理事の洋画家米田三男之介は9月5日心不全のため千葉県夷隅郡の大原病院で死去した。享年68。大正2(1913)年2月26日愛媛県上浮穴郡に生まれ、昭和4年日本美術学校洋画科に入学し大久保作次郎に学び、同8年卒業する。同10年第12回白日会展に出品、この年京都で日本画を学び、関西美術院にも出入する。戦前からシュール・レアリスムの流れをくむ作風を示し、戦後は会員として二科展に出品し、同25年九室会にも所属する。同26年、51年協会に参加、同30年には美術文化協会会員となり、以後同展に出品し常任理事をつとめる。同40年、現代美術家協会会員(のち常任理事)となり、死去の年まで同展に制作発表を行う。二科展に「たそがれ」(33回)、「老樹」(34回)、「火炎樹」(35回)、美術文化協会展に「噴花」(15回)「ジュラ紀」(17回)、「月とピエロ」(19回)、「年輪」(23回)、現代美術家協会展に「誘蛾燈」(23回)、「孤独のくじゃく」(25回)、「太陽と森」(33回)、「波」(36回)などの出品作がある。

脇田秀太郎

没年月日:1981/08/22

 美術史家、岡山県文化財保護審議会委員、岡山女子短期大学教授脇田秀太郎は、8月22日午前2時、脳血栓のため岡山市の岡山協立病院で死去した。享年74であった。1906(明治39)年9月9日、和歌山県新宮市に生まれ、第四高等学校(旧制)から東京帝国大学文学部へ進み、1931(昭和6)年、美術史学科を卒業した。その後、京都女子美術学校講師、第六高等学校(旧制)教授を経て岡山大学文学部教授となり、岡山大学を退官後は昭和47年から岡山女子短期大学教授であった。専門は絵画史で、水墨画・文人画に関する研究を中心に日本中世・近世絵画はもとより中国の水墨画や日本のやまと絵に関する論考に至るまで幅の広い研究活動が知られるが、特に文人画の作家研究に優れた業績が集中している。岡山大学、岡山女子短期大学で講義を続ける一方、59年より岡山県文化財保護審議会委員として県内所在文化財の調査研究を行っており、岡山県の文化財に関する著作も多い。多年によたるこれらの活動に対し、76年に第29回岡山県文化賞を受賞し、翌77年秋には勲三等瑞宝章を授与された。主要著述目録単行図書1943年 『日本絵画近世史』 敝文館1950年 『日本美術図説』(共著) 朝日新聞社1974年 『日本美術史概説』 明治書院1975年 『祇園南海・柳沢淇園』(文人画粋編11)(共著) 中央公論社1978年 『浦上玉堂』(日本美術絵画全集20) 集英社定期刊行物所載文献1948年 岡本豊彦伝の研究 国華 6751954年 画僧竈山 大和文化研究 61956年 黒田綾仙碑について 美術史 20溌墨と破墨 岡山大学法文学部紀要 61958年 画の南北 岡山大学法文学部紀要 91963年 つくりゑ拾遺 岡山大学法文学部紀要 161970年 野呂介石の研究 国華 9241978年 吉澤忠著『日本南画論攷』 国華 1008

志村一男

没年月日:1981/08/21

 春陽会、写実画壇会員の洋画家志村一男は、8月21日午前4時10分心臓衰弱のため、東京武蔵野市の西窪病院で死去した。享年73。1908(明治41)年1月1日長野県諏訪郡に生まれ、27(昭和2)年帝国美術学校(現武蔵野美術大学)に入学した。その後父の死去のため帰郷したが、31年の第9回春陽展に「春光の丘」、第1回独立展に「丘の風景」「富士見駅附近」がそれぞれ初入選し、春陽会研究所で学ぶようになる。この頃1930年協会展や第4回文展(41年)などにも出品しているが、34年の第12回春陽展以後は主に春陽会に出品した。40年、絵に専念する意をかため上京、53年春陽会会員に推挙された。58年には渡欧し、パリのグランド・ショミエールに学び、ヨーロッパ各地を廻っている。72年、写実画壇の結成に発起人の一人として参加し、没年まで出品した。主な作品は「厨房の静物」(48年)「手水鉢」、「河原(夕月)」(73年)など。

辻晉堂

没年月日:1981/08/18

 京都市立芸術大学名誉教授の彫刻家辻晉堂は、8月18日食道がんのため京都市東山区の自宅で死去した。享年70。本名為吉。ユニークな陶彫を中心として国際的に活躍した辻は、1910(明治43)年10月28日鳥取県日野郡に生まれた。31年に上京、洋画研究を志し、翌年独立美術研究所へ入り約1年間素描を学ぶが、33年第20回日本美術院展に「千家元麿氏像」を辻汎吉名で初出品し、木彫作家としてデビューした。独立美術研究所では堀内正和を識る。35年、第22回院展出品作「少女裸形」で奨励賞を受賞し院友に推挙され、同年新海竹蔵の推薦で日本美術院研究所に入る。39年第26回院展「婦人像」、41年第28回院展「村の男」で院賞第二賞を受賞、42年第29回展「詩人(大伴家持試作)」で日本美術院賞第一賞を受賞し日本美術院同人となる。また、38年得度して晉堂と改名した。戦後も57年まで院展に出品したが、58年に脱退し二紀会彫刻部委員となる。戦後、セメントや鉄を素材にした抽象彫刻に先鞭をつけ、昭和30年代からは陶彫による抽象作品に独自の世界を拓いた。57年サンパウロ・ビエンナーレ展に「鳥」他、翌年ベニス・ビエンナーレに「沈黙」他を出品し、国際的な評価を得た。また、日本国際美術展には59年の第5回から8回展まで、現代日本美術展には60年の第4回から6回展まで出品した他、堀内正和、山崎脩との「彫刻三人展」(66年西武百貨店)、「八木一夫、辻晉堂展(67年、東京壹番館画廊)などを開催する。この間、49年に京都市立美術専門学校(のち京都市立芸術大学)教授に就任、63年には美術研究の目的で渡欧、66年にもジャパン・ソサエティの招待で欧米へ旅行した。64年頃、会費滞納のため二紀会より除名処分を受け、以後は京展の他、専ら個展で制作発表を行った。抽象的な陶彫作品の制作は、八木一夫らの走泥社に刺激を与え、その後の京都のオブジェ焼が国際的に注目される端緒を開いたが、最晩年は陶彫作品も具象へ帰っていった。76年に京都市立芸術大学を定年退官し、同年同学名誉教授となり、翌年京都市文化功労者となる。78年、『辻晉堂陶彫作品集』(講談社)を刊行した。没後、83年に「現代彫刻の鬼才 辻晉堂展」(8月3日-9月4日)が京都国立近代美術館で開催された。主要出品歴1933 20回院展 「千家元麿像」1934 21回院展 「田中の頭部」1935 22回院展 「首習作」「少女裸形」1936 23回院展 「Y氏像」「腕をくんでゐる女」1937 24回院展 「裸婦習作」「O氏坐像」「少女頭像」1938 25回院展 「首」「福井博士像」1939 26回院展 「出家」「婦人像」1940 27回院展 「黒田氏像」「こども」1941 28回院展 「夏のあした(平櫛先生古稀像)」「村の男」1942 29回院展 「野良の父と子」「村の女」「詩人(大伴家持試作)」1943 30回院展 「野良の父と子」「鶏と女」1946 31回院展 「胸像」1947 32回院展 「光木氏像」「岩澤惟安老師像」1949 34回院展 「槙本氏像」「琵琶を弾く男」1950 35回院展 「坐像」1951 36回院展 「坐像」「立像」1952 37回院展 「坐像」1953 38回院展 「首」1954 39回院展 「詩人」「旅から旅へ」「虚空はこういう風につかむものだ」1955 40回院展 「トルソ」「クハンダ」1956 41回院展 「切株」「時計」「旅行者」1957 42回院展 「へんな服をきた人物」、4回サンパウロビエンナーレ「★々毿々」「時計」「鳥」1958 39回ベニス・ビエンナーレ「沈黙」「馬と人」「山の人」「牡牛」「寒山」「巡礼者」「蛙」、12回二紀展「拾得」「灯」「人間(椅子に座っている人物)」「迷盲」1959 5回日本国際美術展「詩人(これ我かまた我に非ざるか)」1960 4回現代日本美術展「寒山」、14回二紀展「マウラ」「ホラ男爵」「詰込主義教育を受けた子供」「拾得」1961 6回日本国際展「寒山(HAN SHAN)」、15回二紀展「颱風の四角な眼とムカデ」「薄暮の階段の石にすわるシッド」1962 5回現代日本展「東山にて」(二点)、16回二紀展「水の中に」1963 7回日本国際展「巡礼」、7回全国彫刻コンクール(宇部市)「牡牛(牛)」「山の人(山の男)」「呪術者」1964 6回現代日本展「寒山(HAN SHAN)」1965 8回日本国際展「寒拾(KANJYU)」1966 3回国際現代彫刻展(パリ)「歩く壁」1967 9回日本国際展「非化Q」

渡辺貞一

没年月日:1981/07/29

 国画会会員の洋画家渡辺貞一は、7月29日胃ガンのため東京都練馬区の自宅で死去した。享年64。1917(大正6)年3月30日青森県に生まれ、33年青森師範図画専科に入学したが、35年上京し37年まで川端画学校で学ぶ。41年第16回国画会展に「温室」が初入選し、戦後も同展に出品し、52年国画会会友に推され、翌年国画会若手グループで「三季会」を結成、56年第30回展出品作「日蝕」で会友優作賞を受けた。57年第1回朝日美術団体選抜新人展に「森の話」を出品、翌年国画会会員に推挙された。62年には第36回国画会展出品作「囚われの船」が朝日ジャーナルの表紙に用いられる。64年から翌年にかけてヨーロッパを巡遊する。国展出品とともに、56年12月の村松画廊を最初に、しばしば個展を開催して制作発表を行い、主なものに66年の西武ギャラリー、72年の日仏画廊、79年の現代画廊などがある。没後、82年に青森市民美術展示館で「渡辺貞一遺作展」が開催された。国展への主な出品作に、「冬の教会」(23回)「裸婦」(26回)「屋上の幻想」(28回)「極光2」(43回)「川原の風景」(47回)「羅針儀の風景」(49回)などがある。

竹腰健造

没年月日:1981/07/28

 建築家で日本建築協会名誉会長の竹腰健造は、7月28日午前10時54分、老衰のため大阪市福島区の大阪大学病院で死去した。享年93。1888(明治21)年6月25日、福岡県に生まれ、明治の代表的な美術評論家岩村透は兄にあたる。1912(大正元)年東京大学工学部建築学科を卒業し、兄のすすめでイギリスに留学、アーキテクチュラル・アソシエーション・スクールで建築を学んだ。14年にローヤル・インスティチュート・オブ・ブリティッシュ・アーキテクトの建築士資格試験に合格し、同年オースチン建築事務所に勤務する。また、建築を学ぶ一方で、17年にロンドンテクノロジーでフランク・エマニュエルにエッチングを学び、ロイヤル・アカデミーに入選する。同年帰国し住友総本店に入社したが、エッチングは翌18年のロイヤル・アカデミーにも入選している。同18年、明治天皇聖徳記念絵画館の懸賞設計に3等当選、また19年には第1回創作版画協会に滞欧作のエッチング12点を出品し会員となるなど、この頃、建築、版画両面にわたって活躍した。しかしこれ以後は建築家としての仕事が主となる。22年住友合資会社技師となり、住友ビル(現住友銀行本店)等の建設に従事、33年同社を依願退社し、長谷部竹腰事務所を設立して東京手形交換所の設計監理などにあたる。45年住友本社に入社し、長谷部竹腰建築事務所を住友土地工務(株)と合併、翌45年11月には同工務(株)を改組して住友商事の前身である日本建設産業(株)とし、初代社長に就任した。47年に同社を退任するが、46年には日本建築協会会長となり(58年まで)、48年双星社竹腰建築事務所を開設(77年株式会社双星設計と改称)、その後、関西電力本社、新住友ビル、大阪市新市庁舎などの建築顧問をつとめ、また大阪市立中央図書館、武田薬品工業湘南工場などの建築に携わった。この間、57年に黄綬褒章を受章し60年日本建築学会名誉会員となり、62年日本芸術院賞受賞、64年勲四等瑞宝章受章、また65年には全国建築審査会協議会会長(78年まで)、68年には日本建築協会名誉会長、71年勲三等瑞宝章受章と、数々の要職を歴任し、顕彰を受けた。このほか、日本万国博覧会協会参与(66~70年)、阪神高速道路協会理事長(67~70年)などもつとめた。

津田季穂

没年月日:1981/07/23

 カトリック聖母献身宣教会修道士、洋画家の津田季穂は、7月23日肺炎のため神戸市立中央市民病院で死去した。享年81。旧姓神吉。隻眼隻脚の絵を描く修道士として知られた津田は、1899(明治32)年11月23日栃木県日光の内科病院長神吉翕次郎の五男として生まれた。1914(大正3)年、事故で右眼を失い、同年叔母の津田姓を継ぐ。19年第6回院展に「山村」が初入選、以後同展に出品したが22年日本美術院洋画部解散にともない団体展から離れた。24年上海に渡航、26年に帰国後漁師になろうとして和歌山県田辺に住む。40年に稲垣足穂の『山風蠱』の装釘にあたり、以後稲垣、石川淳、辻潤らと交友した。43年7月18日洗礼を受け、受洗後は徳島県鳴門市に住む。45年結核性骨髄炎に罹り右足を切断する。48年には鳴門の画会グループによる「ベニウズ」会に参加、以後毎年出品するとともに、67年福岡フォルム画廊での個展を最初に、大阪日動画廊(71年)、日動サロン(72年)、大阪高宮画廊(73-80年)、ギャルリー・ワタリ(76年)などで個展を開催した。この間、70年、77年、78年の3回欧米等に旅行する。80年には高宮画廊から画集が刊行された。遺作に、「雑木林」「教会の見える風景」「十字架の道行」「自画像」「夜明け前」等がある。

金子保

没年月日:1981/07/22

 新世紀美術協会委員、日本山岳画協会名誉会員の洋画家金子保は、7月22日老衰のため神奈川県秦野市の鶴巻温泉病院で死去した。享年90。1891(明治24)年7月6日新潟県三島郡に生まれ、麻布中学を経て東京外国語学校スペイン語科専修科へ進んだが中退し、1915(大正4)年東京美術学校西洋画科を卒業、17年同研究科を修了した。はじめ白馬会研究所に学び白馬会展、及び第1回光風展へも出品したが、19年太平洋画会会員となり、同年第1回帝展に「北国の冬」が入選、以後7回まで連続、及び第10回展にも入選、出品作に「猪苗代湖の冬」(3回)などがある。39(昭和14)年の第3回新文展には「海」を無鑑査出品した。この間、太平洋美術学校で教えた他、31年から武蔵高等学校教授もつとめた。戦後は旺玄会に所属し委員となったが、55年大久保作次郎らの新世紀美術協会結成に参加し、同協会委員となる。旺玄会の出品作に「片瀬海岸」(2回)「江の島の春」(5回)など、新世紀への出品作に「出漁前」(1回)「トラピスト」(6回)「海近し」(16回)などがある。

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