本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,850 件)





北川桃雄

没年月日:1969/05/19

 美術史家で共立女子大学教授の北川桃雄は、19日血清肝炎のため虎ノ門病院溝ノ口分院で死去した。享年70才。明治32年東京芝に生れ、東京芝中学から大正10年仙台二高を経て、大正13年京都帝国大学経済学部を卒業した。経済学研究に従事し、また昭和12年まで京都第一工業学校教員をつとめ、昭和13年東京に移った。東京帝国大学文学部美術史科を昭和16年卒業、この年共立女子専門学校講師となり、昭和21年同女子大教授となり現在に至った。おもな著書に「法隆寺」昭17(アトリエ社)「秘仏開扉」昭19(矢貴書店)「斑鳩裸記」昭18(文芸春秋社)「禅と日本文化」(翻訳)昭15(岩波書店)「古塔巡歴」昭和22(東京出版社)「石庭林泉」昭27(筑摩書房)「中国美術の旅(一)古都北京」「中国美術の旅(二)大同の古寺」昭44(中央公論美術出版社)「いかるがの里・法隆寺」昭37(淡交新社)「敦煌美術の旅」昭38(雪華社)「室生寺」昭和38(中央論公美術出版)などがある。

中村真

没年月日:1969/05/14

 洋画家、モダンアート協会運営委員の中村真は、5月14日午後10時52分、腹膜細胞肉腫のため大阪市立大学付属病院で死去した。享年54歳。19日阿倍野斎場で、日本美術家連盟小磯良平関西支部長が葬儀委員長となり告別式が営まれた。大正3年5月30日大阪市で生まれる。本名真三郎。昭和3年から赤松鱗作画塾に学び、昭和6年大阪市立工芸学校工芸図案科を卒業、既に在学中の昭和4年春、関西二科系の有力団体である全関西美術展に入選発表しはじめ、同9年全関西美術協会会員に若くして推された。二科展には、同6年17歳の年少で入選し、天才少年画家の出現として衆目を集めた。以後同12年まで発表を続けた。同12年には東京と大阪で抽象画37点による第2回個展を開き、翌13年自由美術家協会展に「秩序について」他4点を出品参加、同14年同展には「描かれたもの」など15点を大量出品して会員に推挙された。同16年~20年兵役に服し、戦後自由美術家協会再建に参加するとともに、いち早く関西美術界の新動向への推進に中心指導者的な活躍を示した。同25年退会してモダンアート協会創立に参加、会の発展に没前まで尽力した。昭和45年4月、第20回記念モダンアート展では、彼の遺作が特別展示されたが、その出品目録で、「彼の芸術への考え方及び作品は常に進歩的で、世に一歩先きんじていた。画面は清潔で色彩は豊富で形態は簡素であり、然もそのデッサンはしっかりしている。それらの画の内には、特殊な現代人の詩情が秘められていた。」と村井正誠が追惜している。展覧会以外の作品に、「キャバレーハリウッド(昭25)」「梅田ビル壁画(昭30)」「各地朝日ビル及びフェスチバルホール、関西電力等建築レタリング」「大阪冨国ビル・ステンレス製壁画(昭39)」「大阪婦人子供服会館壁画(昭39)」「府立勝山高校壁画(昭39)」などがあり、死去前まで万国博日本政府館展示設計者として努力していた。日本美術家連盟関西支部委員長、大阪芸術大学デザイン科主任教授でもあり、関西美術界で幅広い業績を残した。

太田三郎

没年月日:1969/05/01

 洋画家太田三郎は、5月1日、心不全に因り、東京都武蔵野市の自宅で死去した。享年84歳、勲5等に叙せられ、雙光旭日章を授けられた。生誕は、明治17年(1884年)12月24日、愛知県西春日井に於て、枇杷嶋は名古屋向け青物の市場の地、三郎の生家も其の問屋の一つであったが、父が富裕にまかせて風雅に流れ、僊艸の雅号で絵(日本画)をかいたりして、産を破った。文雅と貧窮とを相続して、三郎は、17才で東京に奔り、画業を苦学した。黒田清輝に西洋画を学び、白馬会洋画研究所に通ったが、他方、日本画をも寺崎広業に習った。洋画家として地歩を占めた後も、折々日本画をものし、また洋画に日本画の気味・手法を交へることが有った所以である。日本画には、三郎をもじった「沙夢楼」の号を用いたこともある。洋画は、大正2年(1913)、第7回文部省美術展覧会に『カフェの女』を出品して賞を受け、夙にヨーロッパ留学を企てていたが、世界大戦(第一次)に妨げられて遅れたのを遺憾とした。大正9年(1920)に至り同11年(1922)まで滞欧の念願を遂げ、フォービズムとキュビズムとの影響を受けて帰朝、作風の変化を見せ、爾後、裸婦を主とした作品を官展に発表し、昭和8年(1933)、帝展審査員を命ぜられた。属した美術団体としては光風会を挙ぐべく、又、同郷の和洋画家・彫刻家・工芸家等と共に愛知社を組織したことは愛知県の美術振興に大いに寄与したものである。三郎は、大形作品のほかに、雑誌・新聞等の挿絵に軽妙の筆を揮い、川端康成『浅草紅団』・矢田挿雲『太閤記』のそれなどが代表作である。なお、挿絵類執筆には仮名「君島柳三」を使ったことも有る;之を別人と思う人がままいるのは誤解である。挿絵と共に注目するべきは、明治末・大正初の絵はがき流行の頃、『ハガキ文学』に関係して、スケッチ趣味を世に広めたことである。第二次世界大戦後は、思う所あって中央画壇を去り、郷里に帰住し、地方文化の向上を念として、知事桑原幹根の知遇のもとに、愛知県文化会館の設立に参画し、昭和30年(1955)、同館美術館創設と共に美術館長に任ぜられた。長老として展覧会の割当て等をよく裁いたけれども、同35年(1960)、病いを得て辞任した。むかしスケッチブックを手にして好んで散策した武蔵野のおもかげを僅かに残す玉川上水のほとりに戻り来って閑居、余生十年を得たが、小康の春日、写生に出たのが禍いし、病いを重くして死に至った。故人は、また文筆を善くし、著述が少くない。或いは抒情甘美・或いは叙事優雅なる画文兼作の書-『鐘情夜話』・『武蔵野の草と人』の類-は、之を悦ぶ人が少くなかった。作画榻に凭る 大正14年 第6回帝展裸婦 大正15年 第7回帝展コムポジション 昭和2年 第8回帝展群像 昭和3年 第9回帝展三嬌図 昭和4年 第10回帝展ぐるうぷ 昭和5年 第11回帝展蒼穹佼人図 昭和6年 第12回帝展アラベスク 昭和7年 第13回帝展モデルたち 昭和8年 第14回帝展屋上 昭和9年 第15回帝展房州の娘たち 昭和10年 二部展素衣 昭和11年 第11回文展水辺 昭和12年 第2回文展磯 昭和13年 第3回文展鳴弦 昭和15年 紀元2600年奉祝展多産鑽仰 昭和18年 第28回光風会展著述蛇の殻 明治44年 精美堂草花絵物語 明治44年 精美堂ひこばえ 明治44年 精美堂朝霧(妻はま子と共著) 明治45年 精美堂鐘情夜話 大正7年 文陽堂武蔵野の草と人 大正9年 金星堂金髪の影を追うて 大正12年 朝香屋書店世界裸体美術全集 昭和6年 平凡社裸体の習俗とその芸術 昭和9年 平凡社美と善の歓喜 昭和17年 祟文堂爪哇の古代美術 昭和18年 祟文堂東奥紀聞 昭和23年 新紀元社性崇拝 昭和31年 黎明書房風俗おんな往来 昭和35年 新紀元社

鈴木誠

没年月日:1969/04/21

 新制作協会会員の洋画家鈴木誠は、4月21日、心不全のため東京中野の国立中野病院で死去した。享年71才。鈴木誠は、明治30年(1897)大阪市に生まれ、大阪階行社附属小学校、大阪府立八尾中学校をへて、大正8年東京美術学校西洋画科に入学し、藤島教室に学び、大正11年同校を卒業、直に同校研究科に進んだ。在学中の大正10年、第3回帝展に入選、および同年光風会展に出品して受賞した。大正12年、渡仏し、パリでビシェールに師事、アカデミー・コラロッシにて研修し、イタリアを歴遊して昭和2年帰国した。帰国後は、帝展、槐樹社展に出品し、昭和4年10回帝展では特選となった。また、昭和4年帝国美術学校油画科助教授となり、同10年には引続き多摩帝国美術学校教授となって後身を指導した。 昭和11年、帝展改組、二部会を経て、同志と新制作派協会を結成、以後、会員として同展に主要作品を発表してきた。また、昭和22年多摩美術大学評議員、同28年多摩美術大学油画科主任教授となり、昭和43年定年退職するまで指導にあたった。その他、著書として、『人物画の描き方』(昭和38年・アトリエ社)、『構図の考え方と実際』(昭和41年・アトリエ社)がある。作品略年譜昭和4年10回帝展「新春之写」、同5年11回帝展「トロア・グラース」、同6年12回帝展「文五郎の家庭」、同8年14回帝展「裸体」、同9年15回帝展「春」、同12年2回新制作展「花」「三人」「習作」、(以下、新制作展主要出品作)同13年「習作」、同14年「風雨」「きもの」「浴女」「宵」、同15年「絵を見る女」、同16年「隣組の人々」「光箭」「朝」、同18年「機械と女(その1)」「機械と女(その2)」「若人達」「アイロン掛け」、同21年「裁断師」「窓」「木戸」、同22年「ポートレート」「ヴィオロニスト」、同23年「エスパナ好み」「サボイ好み」「爪を切る」「三面鏡」「顔」、同25年「坐せる裸体」「横臥せる裸体」「黒い帽子」「白い帽子」「鏡のある静物」「Y夫人像」、同26年、「裸体」「母と子供」、同27年「和装」「a Notte」、同28年「横臥裸婦」「白衣像」、同30年「縞のキモノ」「T夫人」、昭34年「失楽園」「賢人達」、同年「室内」「踊子達」、同37年「練習曲」「目白夫人」、同39年「あでやか」、同40年「晴着」、同41年「七五三」「たおやか」、同42年「祭の装い」「黒い着物」、同43年「NU」「祭」。

川村驥山

没年月日:1969/04/06

 書道家日本芸術院会員川村驥山、本名慎一郎は4月6日老衰のため長野市の自宅で死去した。享年87才。年譜明治15年 5月20日静岡県磐田郡に生る。川村家は代々学問を以って藩に仕え父肇(東江)も漢学と書をもって家業とし九十三才没。明治18年 父東江に書を習う。漢学を習う。明治19年 論語、孝経、大学、中庸、盂子等素読。大丈夫驥山館明治20年 可睡斎西有穆山禅師に般若心経を学ぶ。明治22年 刮目尋常小学校に入学、2年間で4年の課程を卒業太田竹城の書塾に入門(3年間学ぶ)。明治23年 岡田良一郎主宰の翼北学舎に漢学を学ぶ。岡田良平、一木喜徳郎の実父で代議士になった人。明治25年 二葉と号す。この年より五年間に亘り静岡県知事の推奨により県下各小学校を「豆書家」として父に伴われて巡回模範揮毫をなす。草書細字 孝経驥山館当時の作品各地に散見す時人「神童」と呼ぶ。明治30年 書家として独立、全国行脚をなす京都に谷如意、福原周峯、河馬天江、林双橋、小林卓斎、富岡鉄斎、神田香巌、遠山盧山等の益を受く、富永節堂と共に詩文の研究をなす。詠漁翁 驥山館明治31年 奈良で越智哲に漢学を学ぶ。明治32年 奈良一柳石松の離れ座敷を与えられて詩・書の勉強をなす。一柳氏は俠客。明治33年 神田に本田退庵を知り、又橋本関雪と交り共に将来を誓う。湊川に第一期六ヶ月の書道塾を開き「翰墨林社」と称う。「君は画で行け、僕は書で行く」橋本との約をなす。明治34年 大江卓に招かれて上京す。小美田家に寄寓し、小室届出門に学ぶ。師より号を驥山字を子叔と撰定さる。後に酔仏、長嘯庵人等を用う。中山博道等に書道を教ゆ。明治35年 郷里遠州で徴兵検査不合格。3月驥山改号の披露を曹洞の大寺可睡斎で催す。明治36年 5月奈良県五条桜井寺に寄寓、9月高野山に籠り百日間弘法大師の研究に没頭、この時般若心経を六曲一双に揮毫。草書心経六曲一双 驥山館明治37年 5月長崎皓台寺に寄寓。同寺の碩徳霖玉僊師に師事5年間修業。この間九州各地を歴訪、又中国に渡ること5回、中国の文化人と交流、書の研究をなす。鄭成功の碑を四体に写す。皓台寺明治41年 神戸に帰る、帰神書会を催す。森琴石、江藤翠石、橋本関雪等参会す。京阪神、大和を転々、古筆名鐘をさぐる。神戸に家を持ち再び塾を開き「措陰書塾」と称す。12月右手に書痙攣(県立病院診断)を起し左手で書く。6ヶ月間京都に静養回復す。きく子を娶る。明治42年 10月15日長女出生。名は和気、字は惋愉、号は佩玉。明治43年 清浦奎吾の斡旋により11月上京、内閣賞勲局に勤務。田中光顕、犬養木堂の知遇を受く。明治44年 勧業博覧会の書道展に出品す。明治45大正元年 12月2日長男出生。健爾と命名。大正2年 賞勲局を辞して書三昧の生活に入る。4月新潟に遊び良寛和尚の書に親しむ。大正3年 大正博覧会に出品。神戸長田村に住む懐素の秋興八首の研究をなす。大正4年 1月九州・長崎・熊本・鹿児島に行脚。3月次女出生。8月奈良県五条に書塾を開く。靄子と命名。大正5年 東京赤坂に移り年間定住、依嘱を受けて帝国地方行政学会文書課に勤務の傍ら書道研究と各書道会の育成に努む。大正9年 次男出生。隆信と命名。この時代の作品の多くは震災により焼失す。大正13年 9月6日東京杉並区に新築移転す。大正15年 昭和元年 清浦奎吾、小笠原長生、田中捨身、豊道春海、今泉雄作等と共に書道作振会に参画す。書道会の揺籃時代。戌申書道会、書道作振会、泰東書道院。昭和6年 4月11日。河井筌盧、仁香保香城、西川吉羊、松本芳翠、柳田泰雲・泰麓父子と共に外務省よりの派遣文化使節として中国に渡る帰朝後も中国文人高官と交友続く。東方書道会を興し第1回展を開催す。楷書屏風朽木家殊に蘭亭を尋ね、彼の蘭亭竹を以て杖を作り筆管を作り愛用す。董事審査員たり。昭和7年 東方書道展 2回展。孝経屏風 大倉喜八郎。昭和8年 3回展。8曲屏風書道の歌。山本米三。昭和9年 4回展。教育勅語 植村澄三郎 今村力三郎、植村澄三郎、桜井兵五郎等に書道を教ゆ。昭和10年 5回展。泰山石経「富士登山の詩」成る。桜井兵五郎、驥山館。国分青崖翁に師事す。昭和11年 6回展。草書屏風 高島菊次郎。昭和12年 7回展。17条憲法 「狂草飲中八仙歌」成る。山本米三、川村家 飲中八仙歌は酔中の作此の時代酔仏の名あり。昭和13年 8回展。遺教経 驥山館。昭和14年 9回展。赤壁賦 諸戸家。昭和15年 10回展。中庸 徳川家達氏。昭和16年 11回展。9月夫人とともに中国北京に移り住む、中国書道研究に従事す。忠経、孝経。驥山館。古井喜実等に書道を教ゆ。昭和17年 東方書道展12回展3月中国より帰朝す。金剛経驥山館。昭和18年 東方書道展13回展。飲中八仙歌 高梨正躬。昭和19年 14回展。草章易経 驥山館 報国書道会と改称董事審査員。昭和20年 3月15日戦禍を避けて信州に疎開、柳沢区耕心庵に住居す。5月の空襲で杉並の本邸を焼失す。「楷書蘭亭序」「草書帰去来辞」。6曲1双成る折帖20数点。驥山館。昭和21年 揮毫会を催し、揮毫科を挙げて耕心庵に寄付してその修理を助く。昭和23年 耕心庵幽居時代の作品を携え東京三越本店に於て個展を開催す。第4回日展科に書道が参加し参事審査員となる。毎日書道展第回展開催、審査長となる。長野県書道展開設され以来審査長となる。日展出品荘子逍遙篇。太田喜八郎。個展作品40点賛助出品として家族のきく子、佩玉の作15点。毎日書道展は第1回展以来毎年出品す(作品録略)胃潰瘍を病む。昭和24年 日展出品。隷書聯 文部省 御買上となる。病床にあり。昭和25年 日展出品。酔古堂剣掃語 驥山館 この年も病床に在り。芸術院賞受賞作品。昭和26年 日展出品。篠ノ井町芝沢区に新居建築移転5月26・7・8日善光寺大本願明照殿に於て個展開催。5月16日芸術院賞受賞。9月28日宮中に於て天皇陛下の御陪食を賜う。御陪食の詩成る。曹盂徳の詩 川村家 日本書道聯盟にて受賞祝賀会。長野市、篠ノ井市に於ても受賞祝賀会。昭和27年 日展出品。名古屋市に於て個展開催。周易の一節 驥山館昭和28年 日展出品。六言二句対連 太田喜八郎 国際画報に掲載さる。昭和29年 日展出品。3月より6月迄四国88霊場及び紀州・京都を佩玉を伴うて行脚。李嶠松の詩、四国客中作24点「那智瀑下の詩」成る 驥山館 四国客中作品を織田子青出版す。昭和30年 日展出品。7月-8月北海道を佩玉を伴うて行脚。書斎建築落成。草書真山民詩 北海道客中作「毬藻の詩」成る。驥山館昭和31年 日展出品 良寛詩 驥山館 大額春風秋霜 警視庁。昭和32年 日展出品。四君子の詩。驥山館。昭和33年 日展出品。5月3日長野県文化功労賞受賞。9月22日篠ノ井町名誉町民となる。横預前赤壁一節 驥山館 新日展と改組。評議員審査員となる。終戦以来県書道文化興隆に寄与した功績認められる。昭和34年 日展出品。日本書道聯盟より喜寿記念品を贈呈さる。9月12日長野県書道展運営委員会より金盃受領 虚堂禅師墨竹の賛 驥山館 篠ノ井に於ける喜寿祝賀会に驥山館建設の議起る。昭和35年 日展出品。4月10日美術家祭に表彰さる6月1日篠ノ井名誉市民となる。11月16日驥山館建設敷地払下議決 赤壁前後一節 川村家昭和36年 4月12日財団法人驥山館認可。6月6日-11日長野市丸光百貨店に於て書業年75回顧展開催。10月驥山館完成。11月日本芸術院会員に就任。出品点数60点。昭和37年 5月2日驥山館会館。1月よりきく子夫人病床にあり。昭和39年 日展出品。この年もきく子夫人病床。青山不動白雲去来。昭和40年 3月12日きく子夫人逝去。4月信濃美術館の題字を書く。信濃美術館。昭和41年 勲3等瑞宝章を授与される。米寿を祝して全書道界の105名家より書作品の寄贈を受ける。昭和42年 日展を長野市に招致開催。昭和44年 4月6日 逝去 特旨を以て位記従位追賜。遺作日展出品。日々是好日 静岡県袋井市油山寺驥山生地に埋骨篠ノ井円福寺に分骨。昭和45年 3-4月信濃美術館にて遺作5月11日本葬 (「墨美」111号川村驥山特集号による)

楳崎洙雀

没年月日:1969/03/28

 日本画家楳崎洙雀は3月28日腹膜下出血のため京都市左京区の自宅で死去した。享年73才。本名金太郎。明治29年愛媛県宇和島市に生れ、橋本関雪に師事した。第4回帝展に「嘉興の暮雨」が初入選し、以後官展を中心に発表し、戦後は日展委嘱として出品していた。この間、独乙ベルリン展、米国トレード展など海外展にも参加し、大正10年以後数回にわたり中国旅行をして画嚢をこやしている。主な作品に「室内静物」(昭26)、「如来像」(昭28)、「博物館」(昭29)、「海の幻想」(昭30)などがある。

岡部繁夫

没年月日:1969/03/10

 洋画家、独立美術協会会員の岡部繁夫は、3月10日午後2時25分、心不全のため東京都目黒区の自宅で死去した。享年57歳。明治45年2月25日広島県呉市で生まれた。高畠達四郎、鈴木保徳に師事、独立美術展に出品、昭和25年独立賞を受け、同30年準会員に推薦され、同34年会員となった。昭和22年銀座・松坂屋で第1回個展を開いたのを皮切りに同31年第2回(銀座・村松画廊)、同38年第3回、同41年第6回(銀座・文芸春秋画廊)と毎年意欲的な個展発表を続行し、しかも晩年は、モノクロームのパートの厚い抽象画態の作品を制作し、殊に“プルシャンブルーの中に自己を求め、自己をみつめ、偶然にたよらず、自己表現を最も明確に自己に忠実でありたい”という作家の言葉通りに独特の作風を創案確立して、しばしば秀作展、国際展に選出された。代表作「春の饗宴」「春の譜」「作品R」「作品US」「作品UZ」など。 略年譜昭和34年 独立美術協会会員に推挙。昭和38年 「芸術新潮」ベストテンに挙げらる。昭和39年 朝日新聞社主催、選抜秀作美術展出品。昭和39年 世界現代美術展招待出品。昭和39年 優秀作品政府買上(国立近代美術館所蔵)。昭和40年 朝日新聞社主催、選抜秀作美術展出品。昭和40年 毎日新聞社主催、日本国際美術展招待出品(優秀賞受賞)。昭和40年 第5回個展(銀座文芸春秋画廊)。昭和40年 現代美術の動向展選抜出品(京都国立近代美術館)。昭和40年 今日の作家’65年選抜出品。昭和40年12月 アメリカ・ヒューストンにて個展。昭和41年 朝日新聞社主催、選抜秀作美術展出品。昭和41年3月 カースル・アタミ壁画制作。ニューヨークにて第1回日本芸術祭招待出品、代表使節団員として渡米、メキシコ、ホノルルを経て帰国。昭和41年5月 毎日新聞社主催、現代展招待出品。昭和41年10月 第6回個展(銀座文芸春秋画廊)アメリカにて個展。昭和42年1月 広島県呉市勤労者文化会館壁画制作。昭和42年2月 拓殖大学壁画制作。昭和42年8月 日本ダイナースクラブ壁画制作。昭和42年10月 第2回日本芸術祭招待出品、ニューオリンズ、ヒューストンにて。昭和43年1月 渡米(ニューヨーク)昭和43年5月 第3回日本芸術祭招待出品、メキシコにて。昭和43年10月 国立近代美術館主催、東西美術交流展招待出品。昭和44年 第4回日本芸術祭出品(国際芸術見本市協会会長賞受賞)。

大木卓

没年月日:1969/03/02

 太平洋画会委員洋画家大木卓は3月2日死去した。享年70才。明治32年7月4日に都内中央区で大木五臓円本舗の長男として生れ常盤小学校、府立第一中学校を経て、官立千葉医学専門学校を卒業し、薬剤師の免状を受ける。ついで一年志願兵として軍務に服し陸軍三等薬剤官(少尉相当官)に任官して除隊。家業の大木同名会社の副社長時代を経て大木製薬会社取締役会長となったが、かたわら白日会、自主連立展、光風会等へ出品して入選した。とくに太平洋画会では昭和30年(52回)より会員となって出品した。同会出品は昭和27年48回「さつき晴」、49回「凪」「補修船」、50回「湖畔」「外房風景」「照月湖(北軽井沢)」、51回「落之沢二景その一、その二」、52回「越中島橋」、53回「ロンドン郊外セルドンコートホテル」、「チューリッヒ・エンゲチャーチの塔」、「独乙コプレンツ駅前」、「風景」、「モンテカルロにて」、「パリーにて」、「ニースにて」、「香港風景」、54回「二右エ門島」、「五月の伊豆」、55回「海辺(波太)」、56回「蔵のある道」、57回「島の上から」、58回「山湖」、59回「残雪」、60回「清流」、「清潭」、61回「秋色」、62回「寝覚めの床(木曽福島)」、63回「雪の道」、64回「昇仙峡」、65回「静浦風景」、「滝」、「清潭」。

宍戸左行

没年月日:1969/02/03

 戦前漫画を描き、戦中より水墨画を主とした画家宍戸左行(本名嘉兵衛)は2月3日悪性腫瘍のため東京都世田谷区の自宅で死去。享年80。福島県伊達郡に生れ、20才ごろアメリカに渡り、自活しながらキャノンなる画家の画熟に通って油絵を学んだ。約8年間の滞米生活中の観察はユーモラスな絵と文で、(平凡社)に「アメリカの横腹」が描かれている。その後毎夕新聞、東京日日新聞(のちの毎日新聞)などに政治漫画を執筆、昭和5年には読売新聞漫画部に入社、15年11月婦人部に属し、18年4月に退社した。この間児童漫画では「スピード太郎」を創作している。第二次世界大戦中に郷里福島に疎開すると水墨による風景を描くことが多く、また晩年は山路閑古著「柳話的釈尊伝」や水野弘元著「経典物語」などの挿絵などの挿絵および雑誌「大法輪」には昭和6-7年来より未完成となった「玄奘三蔵絵伝」を連載して仏教関係の仕事が増加していた。日本漫画家協会名誉会員(参照昭和44年2月14日読売新聞記載、宍戸三沙子「父・宍戸左行のこと」)

桜井猶司

没年月日:1969/01/30

 永年画商として活躍した兼素洞主人桜井猶司は、1月30日心筋こうそくのため港区の自宅で死去した。享年73才。明治29年群馬県安中に生れ、明治43年上京した。15才で三越呉服店美術部に入り、ここで美術への修練をつみ、鑑賞界に重きをなした「淡交会」「七絃会」「春虹会」などを手がけ昭和21年三越を辞めた。その後画商兼素洞として起ち、数々の展観を活発に主催して斯界における存在を知られた。

宮脇公實

没年月日:1969/01/24

 新制作協会会員の宮脇公實は、1月24日午後5時急性心不全のため東京都世田谷区の自宅で急逝した。享年52才。2月8日自宅で新制作協会葬が行なわれた。大正5年10月1日兵庫県小野市に生まれた。昭和11年多摩帝国美術学校に入学、同年春第23回光風会展に入選、また同年11月、新制作派協会の創立第1回展の公募に応じて、「バーの二人」「茶房の女」が入選した。翌12年同美校を中退したが、第2回新制作派展(12月8日~25日)へ出品<3点入選>しながら、召集されて日支事変から大東亜戦争へと、敗戦まで従軍、長期間やむなく製作活動を中断した。戦後、毎年新制作展に出品を重ね、昭和26年同展で受賞し協友となり、同31年会員に推された。戦後まもない22年から自宅で「小さい画家たちの家」を主宰し、児童美術教育に大きな功績を残した。その関係著書として、「絵遊び、作り遊び」(昭和38年、新書館発行)や「造形遊び」などがある。このような実践によって得た糧を自己の画作に活かし、無造作で奔放な子供の落書きを想わせる独自な作風を確立して注目された。朝日秀作美術展、毎日国際展、毎日現代美術展等に度々選抜されたり招待出品した。個展の開催も意欲的で戦後10数回に及んだ。アートクラブ会員(昭和35年入会)でもあった。代表作に、「庭の動物」(昭和31年)、「人間ドラマ」のシリーズ(同33年)、王様シリーズ「ショウチュウは歌う」(同38年)「健康に乾杯」(同39年)などがある。

河合卯之助

没年月日:1969/01/14

 陶芸家河合卯之助は、1月14日午後1時10分、京都府乙訓郡の自宅で老衰のため死去した。享年79才。河合卯之助は、明治22年(1889)3月3日、陶工初代瑞豊の次男として京都五条坂に生まれ、日本画を学び明治44年京都絵画専門学校を卒業した。大正5年自刻木版画集『伊羅保』を出版、大正11年陶芸研究のため朝鮮に旅行した。大正15年『河合卯之助陶画集』を出版、昭和3年に向日窯を築いて作陶、同8年には「押葉陶器」の特許をうけた。昭和12年、パリの芸術と技術万国博に出品、同13年ニューヨーク・サンフランシスコ博に出品、同18年9月『窯辺陶語』を出版した。戦後、昭和22年8月、向日窯を再建して作陶を続け、昭和32年5月には、神戸白鶴美術館において、同年11月には東京三越において陶歴50年記念展を開催した。昭和35年、随筆集『あまどう』を出版、同41年東京三越において喜寿記念展を開催した。生涯のあいだ、いっさい団体展覧会に参加せず、在野にあって独自の道をすすみ、戦前においては正倉院御物唐三彩の研究、李朝窯の発掘で功績をあげ、独自の作風から「赤絵の卯之助」とも呼ばれた。主要作品に、「紅蜀葵海塩彩壺」「孔雀歯朶染付瓶」「野芥子櫛彫瓶」「孔雀朶赤絵盛鉢」「秋海棠群虫赤絵瓶」「杉虫草文様壺」「金彩文花瓶」などがある。

鍋井克之

没年月日:1969/01/11

 二紀会会員の洋画家、鍋井克之は、1月11日午後2時30分、壊死性胆のう炎、セン孔性腹膜炎、腸閉そくのため大阪市北区の大阪中央病院で死去した。享年80才。鍋井克之は、大阪に生まれ、大正4年東京美術学校卒業、その年二科展に出品して直に二科賞をうけ、大正7年にも再度二科賞を受賞、ヨーロッパ留学後、二科会会員となったが、敗戦までの大正・昭和と毎年二科展に出品した。大正13年には小出楢重らと大阪市に信濃橋洋画研究所を設立し、関西洋画界の発展に尽力した。戦後は、同志と二紀会を創立し、委員をつとめ、関西洋画壇の指導的地位にあって、昭和25年には日本芸術院賞を受賞、昭和37年には大阪天王寺の民衆駅に壁画「熊野詣絵巻」を制作した。昭和39年には浪速芸術大学芸術学部長に就任。その間にも国内各地を旅行して制作し、重厚な作風でしられたが、演劇を好み、歌舞伎を愛し、また随筆をよくし、著書も多い。年譜明治21年(1888) 8月18日、大阪市に生まれる。父は土佐藩士、田丸良也(当時勇六郎)、母、房。父は、明治元年2月、堺港に上陸したフランス兵と警備にあたっていた土佐藩士と間に起った衝突事件堺事件に連座し、くじにより切腹をまぬがれた9名のうちのひとりであった。明治28年 大阪市西区堀江小学校に入学する。明治29年 本家の鍋井家を相続する。明治36年 大阪府立天王寺中学校に入学する。上級に伊庭孝、折口信夫らがおり、下級に宇野浩二、寺内万治郎、耳野卯三郎、青木大乗、小出卓二らがいた。松波長年につき日本画を学ぶ。明治41年 天王寺中学校を卒業 東京美術学校の受験に失敗し、白馬会洋画研究所に入り長原孝太郎に学ぶ。明治42年 東京美術学校西洋画科に入学、同期に小出楢重、大久保作次郎らがいる。大正2年 巽画会展に「虎の門赤煉瓦風景」出品。大正3年 宇野浩二を通じて広津和郎、葛西善蔵ら早稲田系の文学者、倉橋仙太郎、沢田正二郎ら演劇人と交友する。倉橋、沢田、秋田雨雀らと美術劇場をおこし、有楽座で第1回公演を行なう。そのため卒業は延期されたが、第1回二科展に出品入選する。大正4年 東京美術学校西洋画科を卒業。2回二科展に「秋の連山」を出品して二科賞をうける。宇野浩二の勧めで雑誌『改造』『中央公論』などに小説を発表する。大正6年 平井澄江と結婚する。大正7年 第5回二科展において再度二科賞をうける。大正11年 2月、大久保作次郎、足立源一郎らと同船してヨーロッパに留学。大正12年 5月帰国する。関東大震災のため大阪にとどまる。大正13年 小出楢重、黒田重太郎、国枝金三らと大阪に信濃橋洋画研究所(のちに中之島洋画研究所)を創設する。第11回二科展に滞欧作を出品する。大正15年 中央美術社より『西洋画の理解』出版。昭和3年 東京文啓社書房より、黒田重太郎との共著『洋画メチェー・技法全科の研究』を出版。昭和5年 大阪府豊能郡北轟木村(現、池田市住吉1-12-4)に転居する。昭和8年 東京紀伊国屋で最初の個展を開催する。昭和9年 随筆書『和服の人』(書物展望社)を出版。昭和14年 満州、中国へ4ヶ月間写生旅行、崇文堂より『風景画の描き方』を出版。昭和15年 『富貴の人』(小出書店)を出版。昭和18年 奈良に疎開する。『絵心』(小川書店)を出版。昭和21年 二科会再建に参加せず、中川紀元、黒田重太郎、宮本三郎らと第二紀会を結成する。昭和22年 『寧楽雅帖』(宝書房)を出版。昭和25年 第3回二紀展の出品作「朝の勝浦港」をはじめとする風景作品によって昭和24年度日本芸術院賞をうける。昭和26年 京阪神在住の画家文人、小磯良平、竹中郁らと風流座を結成し、市川寿海の指導によって大阪三越で第1回公演を行なう。以後昭和33年までに6回公演。昭和28年 朝日新聞社より随筆集『閑中忙人』を出版。昭和33年 大阪市民文化賞、なにわ賞をうける。昭和34年 浪速短期大学教授、デザイン美術科長に就任する。『大阪繁盛記』(布井書房)出版。昭和35年 池田市名誉市民となる。昭和37年 国鉄天王寺駅コンコース壁画「熊野詣絵巻」を完成。『大阪ぎらい物語』(布井書房)出版。昭和38年 浪速短期大学壁画「輝やける学園」完成。白浜三段壁に鍋井克之記念碑建てられる。昭和39年 浪速芸術大学教授、芸術学部長に就任する。昭和44年 1月11日死去。1月25日、市立池田小講堂において池田市葬。 作品年譜二科展:大正3年「赤い校舎」、同4年「秋の連山」、同5年「海近き山」「入江の木かげ」、同6年「河岸の家と木」「蓮池」、同7年「せばまりたる海水」「海に沿う丘」「秋」「雪の山」「池畔早春」、同8年「雪の路」「秋の小流」「海辺の断崖」「六月の田園」、同9年「春」「初冬暖日」「曇りの入江」「雪の風景」「夏の池」、同10年「草の中の路」「熱海の早春」「初夏の虎の門女学校」「海岸風景」「晩春の虎の門女学校」、同11年「晩秋の淡路島にて」「池畔の梅林」「静物」「能登の海」「五月の築地河岸」「北国の海岸」、同14年「滝」「山ふところの早春」「庭より見たる春の海」「牛滝山の滝」「伊豆風景」「静物」、同15年「海辺の村」「山麓の村」「海岸の丘より」「入海の風景」「静物」、昭和2年「水車のあるほとり」「春の中之島公園」「隠れた水車」「冬近き風景」「蜜柑山と海」「雪の小停車場」「静物」、同3年「浄山の水車」「谷川の秋」「梅園」「水ぬるむ湖畔」「チューリップ」、同4年「北国の海岸」「湖畔の朝」「伊豆の街道」「春雪」「豹」「夏の山路」「桃」、同5年「弓削島海岸」「汽車の走る風景」「夢殿(法隆寺)」「籠の桃」「海辺夏景」、同6年「北陸勝景」「水際の静物」「春の浜辺」「奈良の月」「湖畔の梅」、同7年「鴨飛ぶ湖畔」「風の日の湖畔」「海水浴場の燈」「滝」「静物」、同8年「春」「虎」「刈田の雨」「水車小屋の富士」、同9年「田鶴の海岸」「田圃の梅」「涼夏山水」、同10年「雪月花(天の橋立の雪、吉野山の花、三笠山の月)」「溪間の流」「芦の湖」「桃」、同11年「榛名湖」「温泉の流れ」「行水」「鮎壺滝の富士」「静物」、同12年「二筋の川のある村」「梅雨時の東郷湖」「牡丹」、同13年「梅薫る」「戦況ニュース」「露の奥日光」、同14年「吟爾浜埠頭公園」「時計屋のある街角(新京三笠町)」「吉林松花江畔」、同15年「時雨るる琵琶湖」「箱根冬の富士」「朝の海」「夏の夜の中之島公園」、同16年「梅雨晴れの野尻湖」「太陽の昇る海岸」「夏季静物」、同17年「湖国のみのり」「風強き日の湖畔」「苺」、同18年「雨来る海岸(志摩安乗)」。 二紀展:昭和22年「風の日の岩角」、同23年「湖上時雪」「花散る湖畔」「白良浜風景」「港の夕映」、同24年「朝の勝浦港」「三段壁」「海近き梅林」、同25年「黒潮」「春の春日野」「海岸の丘より」「白根浜夜景」「静物」、同26年「臨海植物園」「赤目溪谷」「湖岬灯台」「紫陽花と桃」「勝浦千畳敷」、同27年「ヨットのある海岸」「港の夜の雨」「食器と西瓜」「初秋の窓」「燈火静物」、同28年「秋の静物」「夜の窓」「紀伊・勝浦港」「梅林の丘」「南紀東白浜」、同29年「溶樹の庭」「琵琶湖のヨット」「台風のそれる海岸」「名瀬の夕立(奄美大島)」、同30年「雨の海」「秋果静物」「薬師寺」、同31年「月光と海水」「大浦天主堂(内部)」、同32年「梅林の山」「赤い山」、同33年「十二番館の家」「長崎の家(元英国大使館庭内)」「十二番館庭内」「南山手風景(青)」「南山手風景(赤)」「天草灘」「厨房静物」「熊野灘」、同34年「長崎の家(三菱炭鉱クラブ)」、同35年「ツキサップの林檎園」「函館の古き街B」「函館の古き街A」、同36年「南紀の梅林」「北海道行」、同37年「サポッロ北大校庭」「サッポロのリンゴ園」「南紀漁村風景」、同38年「熊野灘」「大内山清雪」「皇居噴水」、同39年「檻野時燈台」「晴れゆく梅林」、同40年「串本」「兜島の熊野灘」、同41年「伊豆熱川海岸」「東本願寺噴水」。

鶴田吾郎

没年月日:1969/01/06

 日展会員、日本山林美術協会代表の洋画家、鶴田吾郎(号、玄山人)は、1月6日午後0時35分、胃ガンのため東京信濃町・慶応病院で死去した。享年78才であった。鶴田吾郎は、明治23年(1890)東京牛込区に生まれ、早稲田中学校を中退し、倉田白羊について洋画を学び、同38年赤坂溜池の白馬会研究所に入所、翌39年太平洋画会研究所に移り、中村不折に師事した。大正元年から大正5年までの間に、朝鮮、大連、ハルピンなどに滞在、帰国後は、中村彝、中原悌次郎、堀進二らと交友、大正9年第二回帝展に「盲目のエロシェンコ像」を出品、以後帝展、文展、日展で活躍した。太平洋戦争中は、戦争記録画を描いて知られ、特に「神兵、パレンバンに降下す」は著名。戦後は国内の各地を旅行して国立公園を描き、日本国立公園30点を完成させた。年譜明治23(1890)年 7月8日、東京市牛込区に生まれる。明治36年 倉田白羊に学ぶ。明治38年 赤坂溜池の白馬会洋画研究所に入所。明治39年 太平洋画会研究所に移り、中村不折に学ぶ。明治43年 味の素株式会社広告部に入社。大正1年 京城日報社に入社、京城にて絵画部を担当。大正4年 川端童子とスケッチ倶楽部をつくり、通信教育の講義録を担当する。大正6~9年 大連、ハルピン、シベリアに滞在する。大正9年 帰国。第2回帝展に「盲目のエロシェンコ像」を出品する。以後、官展に出品。昭和3年 第11回帝展に「黒潮に生きる男達」を出品する。昭和5年 シベリア経由でヨーロッパ旅行、フィンランド、スウェーデン、ドイツ、フランスなどを約10ヶ月歴遊する。昭和17年 陸海軍の依嘱をうけて従軍。この年、パレンバンの落下傘部隊を描くため、スマトラへ行く。昭和21年 自宅の画室を開放して「アカデミー美術研究所」を開く。昭和27年 日本国立公園30点の制作に着手する。昭和30年 日本山林美術協会を創立する。昭和37年 インドに旅行、仏跡、ヒマラヤなどを描く。昭和40年 中国対外文化協会の招きにより中国に旅行。昭和44年 1月6日、慶応病院において死去。日展出品作品略年譜昭和26年「朝囀」、同27年「下北半島の杭夫達」、同28年「コンストラクション」、同29年「鷹の巣の雪山」、同30年「ダム・コンストラクション(佐久間)」、同31年「熔鉱炉」、同32年「吾道を行く人々」、同33年「練習中の大交響楽団」、同34年「鳴動」、同35年「颱風」、同36年「夜明け」、同37年「凝視」、同38年「ベナレスの聖牛」、同39年「野鶴」、同40年「存在」、同41年「遶行」、同42年「初転法輪」、同43年「雪後快晴」。

浅野長武

没年月日:1969/01/03

 東京国立博物館長浅野長武は1月3日心筋梗塞のため東京都世田谷区の自宅で死去した。享年73才。明治28年東京に生まれる。東京帝国大学文学部国史科および同大学院を了え、旧広島藩主第16代当主の侯爵として貴族院議員、帝室制度史編纂、重要美術品等調査委員会会長など数多くの要務要職を経て、昭和26年東京国立博物館長に就任し、フランス美術展、正倉院展、オリンピック東京大会日本古美術展など戦後の美術界に大きな話題を提供した大展覧会を開催し、また法隆寺宝物館、東洋館の建設など大規模な事業を遂行する上で果した熱意と手腕を評価されている。また国際博物館会議日本委員会委員長、国立近代美術館、国立西洋美術館など公私の美術館、博物館の評議員、学会の顧問等を兼ね、美術全集の監修等にもしばしば名を列ねて、戦後美術界に大きな足跡を残した。明治28年7月5日 浅野長之侯爵の嗣子として東京に生まれる大正9年7月10日 東京帝国大学文学部国史科卒業同14年7月9日 東京帝国大学大学院終了昭和2年3月31日 学習院講師同15年12月28日 襲爵、貴族院議員同17年5月14日 重要美術品等調査委員会会長となる(24年7月5日まで)同18年7月1日 文部省委員(19年6月30日まで)同21年3月1日 従4位に叙せられる同22年3月28日 学習院評議員(26年3月31日まで)同23年3月22日 国立博物館評議員会評議員(24年6月1日まで)同年4月25日 東方学会会員同24年9月24日 国立博物館評議員会評議員(25年8月29日まで)同26年1月16日 国立博物館長に就任同年2月12日 日本考古学会顧問同年3月22日 正倉院評議会会員同年5月8日 国際博物館会議日本委員会委員同年9月1日 国立近代美術館評議会評議員同28年5月6日 国際博物館会議日本委員会委員長同年7~8月 イタリア、フランス、ベルギー、オランダ及び連合王国へ出張、国際博物館会議総会に出席同30年3月18日 フランス共和国政府よりオフィシエ・ド、ラ・レジオン・ドヌール勲章を贈られる同34年4月1日 国立西洋美術館評議員会評議員同年8月1日 日本ユネスコ国内委員会委員同35年6月8日 フランス共和国政府よりコマンドゥール・タン・ロルドル・デ・ザール・エ・レットル勲章を贈られる同36年4月20日 ヌビア遺跡保護協力委員会委員同年7月12日 オリンピック東京大会組織委員会芸術展示特別委員会委員同年9月7日 オランダ国女皇陛下よりコマンドゥール・イン・デ・オルデ・ファン・オランジ・ナッソー勲章を贈られる同37年7月18日 スペイン国政府よりラ・エンコミエンダ・デ・ラ・エクスプレサダ・オルデン・メリト・シヴィル勲章を贈られる同10月13日 紺綬褒章を賜わる同38年7月22日 カンボジア国政府よりコマンドゥール・ド・ノートル・オルドル・ロワイヤル・デュ・サーメートレ勲章を贈られる同40年10月30日 国際文化振興会評議員(同43年8月28日まで)同41年9月 随筆集「美術よもすがら」(講談社)同41年11月3日 勲1等に叙せられ瑞宝章を授けられる同42年5月1日 国立西洋美術館評議員会評議員同年10月1日 東京国立近代美術館評議員会評議員同43年7~8月 スエーデン、西ドイツへ出張、国際博物館会議総会に出席同44年1月3日 逝去

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