岩田藤七

没年月日:1980/08/23
分野:, (工,ガラス)

日本芸術院会員、文化功労者のガラス工芸家岩田藤七は、8月23日急性肺炎のため東京都新宿区の東京女子医大病院で死去した。享年87。1893(明治26)年3月12日、東京市日本橋区に生まれ、1911年商工中学校を卒業し、白馬会洋画研究所で岡田三郎助に師事して、洋画を学ぶ、12年、東京美術学校金工科に入学、彫金を海野勝珉に学び、また工芸にも関心の深かった岡田の影響を受け、18年に金工科卒業後西洋画科に再入学する。22年、建畠大夢に彫刻を学び、同年の第4回帝展に彫刻作品「深き空」を出品する。23年に西洋画科を卒業、この頃から吹きガラスに興味を抱き今村繁三にガラス製法の手ほどきを受ける。26年、工芸で進むことを決意し、翌年から帝展美術工芸部に出品し、28年から30年迄、帝展で連続特選を受賞する。この間、岩城ガラス研究室に通いガラス工芸に創作活動をしぼり、31年に岩田硝子製作所を設立。また、33年の第14回帝展では作品陳列に関する不当な待遇に対して当局に抗議を申し込み、その主張が受入れられるなど、先駆者としてガラス工芸への認識を高からしめる。36年、第2回の個展を開催時から、勅使河原蒼風の前衛華道と組んで話題を集め、以後もこれを続ける。戦後は、ヴェネツィア・ガラス、スペイン・ガラス、乾隆ガラスの手法を学び、ギリシャ・ローマ彫刻、縄文・弥生土器、さらにフォーヴィスムなど素材を多様にもとめる。50年、日展参事、58年日展顧問となり、この間51年には第7回日本芸術院賞を受賞し、54年に日本芸術院会員に推される。日展、日本伝統工芸展に出品した他、しばしば個展を開催し、68年岩田藤七大回顧展(高島屋)開催を機に、「岩田藤七ガラス作品集」(毎日新聞社)が刊行される。70年に文化功労者に選ばれる。日本のガラス細工を近代ガラス工芸の域に高めた功績者である。
略年譜
1893 3月 12日 宮内省御用達(美)岩田呉服店店主岩田藤七の長男として東京日本橋に生まれる。幼名、東次郎、母は以ち。
1897 幼稚園(日影)を京都で過ごし、岩田呉服京都支店(両替町御池上ル)から通う。
1899 4月 日本橋常盤尋常高等小学校に入学、1年上の吉田五十八と相知る。白旗橋畔の菊池塾で漢文と習字を習いはじめる。
1900 3月 父没す。藤七の名を襲名。
1907 4月 麹町大手町の商工中学校に入学。このころから入谷、浅草、築地、永代、新川などの各地に交友をひろげ、江戸っ子気質を身につけるようになる。
1908 築地居留地内の英会話教室に通う。
1909 深川八幡境内に住む四条派日本画家稲垣雲隣からツケ立てを習う。
1911 3月 商工中学校を卒業。溜池の白馬会洋画研究所(のち葵橋洋画研究所)に洋画を学び、岡田三郎助に師事す。
5月 住居を現住地の牛込に移す。
1912 4月 東京美術学校金工科に入学。生徒主事大村西崖の影響をうける。彫金を海野勝珉、平田重幸などに学ぶ。漆芸家六角紫水に工芸量産への道なども教えられる。
1913 このころイタリア・ルネサンス期の画家・工芸家ニッコロ・ピザノ、ジォヴァンニ・ピザノなどに傾倒する。
1914 工芸にも造詣の深い岡田三郎助に強い影響をうける。語学を研究し、英仏の文学、美術の書を原書で読むことに努める。
1918 3月 美校金工科を卒業。
4月 西洋画科に再入学、同級の佐伯祐三、伊藤熹朔と友だちになる。
1919 2月 彫刻家竹内久一の長女、邦子と結婚。
1921 10月 長女、澪子生まれる。
1922 建畠大夢について彫刻を研究。
10月 第4回帝展に彫刻「深き空」を出品。
1923 3月 美校西洋画科を卒業。中学同級生林忠雄の開いた美術品店フタバヤ(銀座)で、西洋の工芸品とくに吹きガラスに興味をひかれる。橘ガラス工場社長、美術愛好家今村繁三に知己を得、ガラス製法の手ほどきをうける。勅使河原蒼風と知り合う。
1924 10月 第5回帝展に彫刻「ある女」を出品。仏国新美術展の工芸に強くひかれる。
1925 10月 第6回帝展に彫刻「聖思」を出品。
12月 長男、久利生まれる。
1926 工芸にすすむことを決意したが、当時の工芸諸運動には参加せず、自己を磨くことに専念する。
1927 10月 第8回帝展美術工芸部に「ルプッセ・ウェストミンスター置時計」を出品。これが東洋時計社長吉田庄五郎に知られ、時計のデザインを依頼される。和田三造、菅原栄造とともに約10年間東洋時計の仕事をつづける。この間にガラスの研究をおしすすめる。岩城ガラス研究室に通う。
1928 10月 第9回帝展に「吹き込みルビー色硝子花瓶」を出品、特選となる。このころから絵日記をつけはじめる。
1929 10月 帝展無鑑査となり、第10回帝展にガラスと金属との混合製作「硝子製水槽」を出品、再び特選となる。
1930 10月 第11回帝展に「はぎ合せ硝子スタンド」を出品、特選となる。特選連続3回により、ガラスもまた陶芸、漆芸、金工と同じく美術工芸の素材となり得ることを世に承認せしめ、草分け時代であったわが国のガラス工芸に光明を与えることとなる。
1931 5月 葛飾区に岩田硝子製作所を設立。
10月 第12回帝展に「吹き込み鉢」を出品。
1932 宙吹法による工芸ガラスの制作をおしすすめる。
1933 10月 第14回帝展出品の作品陳列に不当な待遇をうけ、文部当局に抗議を申し込む。主張が通り陳列替えとなるが、同時にガラス工芸の存在を明確に植えつけることとなる。
1935 5月 ガラス工芸家としてはじめての個展「硝子のよるげてもの展」を上野松坂屋でひらく。同時に当時全盛であった切り子硝子の世界に、色と姿とその持味とを十分にみせる吹き硝子の復興を提唱、新興硝子として、6月第1回岩田藤七創案新興硝子個展を日本橋高島屋でひらき、吹雪手、絞り手、飛雲手などの日本的要素を加味した作品を出品。以後の個展は同会場でひらく。
1936 6月 第2回個展新興硝子器展。勅使河原蒼風が会場に花をいけ、後々もつづく。
11月 文部省美術展に「吹き込み硝子花瓶」を出品。李王家買上げとなる。
1937 4月 明治大正昭和三聖代名作美術展(大阪市立美術館)に出品を依頼される。
6月 第3回個展、トンボ手などの技法の試みをする。
9月 第1回新文展の審査員となり、同展に「吹き硝子花瓶」を出品、政府買上げとなる。
1938 6月 個展を服部時計店(-1943年まで)、高島屋(第4回)でひらき、泡入り硝子、金箔入り吹き硝子、雲母入り吹き硝子など変化に富む作品の試みをはじめる。
9月 パリ万国工芸展に「獅子頭」を出品、銀賞をうける。
11月 文展無鑑査となり、第2回文展に「硝子琅玕巧玉尊」を出品。
1939 6月 第5回個展。
11月 第3回文展に「玻璃黒燿瓶」を出品。
1940 6月 第6回個展。網手の手法なども試みる。
10月 文展に代る紀元2600年奉祝展に「硝子玻璃興抓文壷」を出品。
1941 5月 各務鉱三、小畑雅吉などと工芸作家協会硝子部東京会を結成。
6月 第7回個展。
9月 東京府芸術保存審議会委員、東京工芸綜合展美術工芸部審査員となる。
10月 第4回文展に「玻璃方鼎」を出品。
1942 6月 第8回個展。
11月 第5回文展に「硝子花瓶」を出品。
1943 3月 商工省の重要工芸技術保存資格者に指定され、戦時下のガラス製造残留工場となるも、不当の圧迫をうける。
6月 第9回個展。
10月 第6回文展に「花器」を出品す。
1944 5月 第10回個展。戦争激化のため以後の個展を中断す。
11月 戦時特別文展に「花紋鉢」を出品、政府買上げとなる。
1946 3月 文展が文部省主催日本美術展覧会と改称され、この年2回開催、10月の第2回日展に審査員となる。同展に「ガラス花器」を出品。
1947 6月 戦後初の個展(第11回)を高島屋でひらき、工芸界に活気を呼びもどす。
10月 第3回日展に「ガラス鉢」を出品。輸出向け工芸ガラスにも力を注ぐ。
1948 6月 第12回個展を高島屋でひらき、以後の個展も同会場でひらく。
1949 6月 第13回個展。
1950 6月 第14回個展。
10月 日展運営会参事となる。第6回日展に「光りの美」を出品。
1951 5月 前年度日展出品作「光りの美」で昭和25年度日本芸術院賞(第7回)を受賞。
7月 第15回個展。
10月 第7回日展に「あやめ」を出品。
1952 5月 第16回個展。
6月 大阪でも作品展をひらく。
10月 第8回日展に「虹彩瑠華」出品。
1953 5月 第17回個展、6月 小原豊雲とともに「ガラスと花」の二人展をひらく。京都にても作品発表。
10月 第9回日展に「黒水仙」を出品。
1954 1月 日本芸術院会員となる。
5月 東京(第18回)、6月 大阪、名古屋の各地にて個展をひらく。
10月 日展運営会常任理事となる。第10回日展に「野火」を出品。
1955 4月 第41回光風会展に賛助出品。
5月 第19回個展、6月 大阪でもひらく。
10月 第11回日展審査主任となる。同展に「怪鳥と怪獣」を出品。
1956 4月 東宝映画「雪国」の伊藤熹朔セットにガラスの氷柱をつくり撮影効果をあげる(翌年封切)。第42回光風会展に賛助出品。
6月 第20回個展。
10月 第12回日展に彫金「或るミュージックショー」を出品、特選となる。
1957 4月 第43回光風会展に賛助出品。
6月 第21回個展。高村豊周山崎覚太郎楠部彌弌らと葵洸会をつくり、1967年の第10回展まで高島屋で工芸展を開催。ソ連で開催の「現代日本工芸美術展」選定委員となる。
7月 「現代美術10年の傑作展」(東横)に「長頸瓶」が選定される。
10月 第13回日展に「菱」を出品。日展工芸部理事を辞任。
1958 3月 社団法人日展顧問となる。
6月 第22回個展。草月会館玄関ホールのシャンデリアをつくる。
1959 5月 第23回個展。雑誌『日本美術』に「ガラスの魅力」を書く。
1960 6月 第24回個展。新聞(朝日、毎日、読売)に随筆を書くことが多くなる。
1961 6月 個展第25回の記念展を高島屋でひらく。同展で、ガラス工芸の近代建築への発展をめざす前衛的な試みとして、平板色彩ガラスを組み合わせて使い、色と光の建築空間をねらう。この平面色彩ガラスに土方定一が「コロラート」(多彩の意)と名づける。
8月 雑誌『萠春』に「ガラスで抽象作品を試作する」、『三彩』に「コロラートについて」を書く。
10月 横浜高島屋の食堂大壁面に「コロラート」を完成。
1962 5月 ホテル・オークラ(谷口吉郎他設計)に照明具を飾る。
6月 第26回個展。
9月 日本工芸会主催日本伝統工芸展(三越)の授賞選考委員となり、現在までつづく。
12月 ローマに開館した日本アカデミーに作品が陳列される。
1963 6月 第27回個展としてガラス皿百選展をひらき、わが国伝統工芸の皿の美しさにガラス皿の美を加える。
9月 日本生命ビル(村野藤吾設計)内日生劇場入口正面壁面に「コロラート」を完成。第10回日本伝統工芸展に「黄雲」などを出品。
1964 1-2月 アメリカ各地を旅行。
4-5月 毎日新聞に「ガラス10話」を連載。
5月 洋菓子店アマンドにシャンデリアをつくる。
6月 第28回個展をひらく。
9月 現代日本の工芸展(国立近代美術館京都分館)に「風雪」「雪空」「涛」が展観される。第11回日本伝統工芸展に「回想」「上古」を出品。スケッチ展を新宿アルカンシェル画廊でひらく。
1965 4月 第5回伝統工芸新作展に「月影」を出品。
6月 荒川豊蔵、加藤士師萌などと「新しい工芸の茶会展」を松屋で開き、ガラスによる茶盌、茶入、水指類を出品、独自の新分野を開く。第29回個展。
9月 大阪ロイヤル・ホテル(吉田五十八設計)入口正面に「光瀑」を完成。第12回日本伝統工芸展に「ガラス抹茶盌」を出品。
1966 3月 日本工芸会常任理事となる。
5月 伊藤熹朔と「ともだち2人会」のスケッチ展を竹川画廊でひらく。千代田生命ビル(村野藤吾設計)に「コロラート」を完成。
6月 第30回個展。茶器展を松屋でひらく。
9月 第13回日本伝統工芸展に「ガラス天目平茶盌」を出品。
12月 芸術新潮に「ガラス拾遺」を書く。
1967 3月 宝塚カソリック教会にステンド・グラスを完成。
6月 第31回個展。
8月 新樹会展に招待出品。
9月 第14回日本伝統工芸展に抹茶盌類を出品。小回顧展を資生堂ギャラリーでひらく。
1968 4月 第8回伝統工芸新作展に「ばら灰皿」を出品。
7月 岩田藤七大回顧展を高島屋でひらく。『岩田藤七ガラス作品集』が毎日新聞社から刊行される。皇居新宮殿に「コロラート」壁面「大八洲」を完成。
1969 1月 第10回毎日芸術賞を受賞する。
9月 第16回日本伝統工芸展に硝子水指「夕映え」を出品。
1970 9月 第17回日本伝統工芸展に「トンボ玉風水指」ガラス花入「湖沼」を出品。
10月 文化功労者に選ばれる。
1971 9月 第18回日本伝統工芸展に水指「水のかげり」茶碗「小町」を出品。
1972 1月 『ガラスの芸術 岩田藤七作品集』(講談社)が刊行される。
9月 第19回日本伝統工芸展に硝子茶碗「藤浪」「蝶の夢」を出品。
1973 9月 第20回日本伝統工芸展にガラス茶碗「迦陵頻加」ガラス水指を出品。
1974 10月 第21回日本伝統工芸展にガラス水指「残雪」ガラス花器「竹」を出品。
1975 10月 第22回日本伝統工芸展に「海底に遊ぶ貝」を出品。
1976 9月 第23回日本伝統工芸展に「じゃかご」を出品。
1977 2月 「岩田藤七制作展」(日動画廊)を開催。
9月 第24回日本伝統工芸展に硝子花器「花貝」を出品。
1978 9月 第25回日本伝統工芸展に「秋」を出品。
1979 9月 第26回日本伝統工芸展に「墨染」を出品。
1980 8月 23日没。
9月 第27回日本伝統工芸展に硝子水指「涼」「藻」が出品される。
〔本年譜は、弦田平八郎編年譜(『岩田藤七ガラス作品集』-1968年、毎日新聞社-所収)を基に作成したものである。〕

出 典:『日本美術年鑑』昭和56年版(258-261頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「岩田藤七」『日本美術年鑑』昭和56年版(258-261頁)
例)「岩田藤七 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9796.html(閲覧日 2024-03-29)

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