海老原喜之助

没年月日:1970/09/19
分野:, (洋)

 独立美術協会々品の洋画家海老原喜之助は、9月19日午前8時30分(日本時間午後4時30分)パリ16区のアパートで消化器系のガンのため死去した。明治37年鹿児島市に生れ、大正11年鹿児島県立志布志中学を卒業して上京、有島生馬に師事し、また川端画学校に学んだ。同12年渡仏し、滞仏12年ののち昭和帰国して独立美術協会々員となった。その後も度々フランスを訪れ、最後は昭和42年10月、師であり親友であった故藤田嗣治看病のため夫人と渡仏し、半年ほど前から健康がすぐれず帰国予定だった。作品は、フォーヴィズムの系統を引くが、独自の画風をもっていて、内外の画壇から注目されその若々しい製作ぶりに期待をもたれていた。
略年譜
1904(明治37)年 鹿児島市に生まれる。
1917(大正6)年 4月鹿児島県立志布志中学校に入学。
1921(大正10)年 夏、上京し、有島生馬に師事し、川端画学校に席をおく。
1922(大正11)年 3月志布志中学校卒業。再度上京し川端画学校、アテネ・フランセに学ぶ。
1923(大正12)年 7月渡仏、藤田嗣治の許に出入りする。9月二科美術展に入選、以後数回出品する。
1924(大正13)年 サロン・ドオトンヌに入選。滞仏中は主としてサロン・ドオトンヌ、アンデパンダンに作品を発表する。
1927(昭和2)年 7月サロン・ド・レスカリエ第10回展に、カンピリ、ジャコメッティと3人展をもち、「姉妹ねむる」などを出品。この展覧会が機縁となって、アンリ・ピエール・ロッシュと交わり、やがて契約を結ぶ。この頃からパリ画壇で存在を注目されはじめ、エコール・ド・パリの次期の担い手として嘱目される。
1928(昭和3)年 ニューヨークでロッシェの企画による個展。翌年にも個展を開く。
1934(昭和9)年 1月帰国。6月日動画廊で第1回個展開催。以後、継続的に個展を開く。
1935(昭和10)年 2月独立美術協会会員となる。3月第5回独立美術展に「曲馬」を出品。これ以後、毎回独立展に出品する。
1942(昭和17)年 11月より、44年1月まで大連に旅行、この間旅宿にて発病する。
1945(昭和20)年 熊本県湯之児温泉で終戦を迎え、8月人吉市に移る。
1946(昭和21)年 3月第1回新興日本美術展覧会審査員となる。
1947(昭和22)年 11月第2回熊日綜合美術展審査員となり「蹄鉄」を特別出品。以後毎回審査を担当するかたわら特別出品する。
1950(昭和25)年 11月第1回南日本文化賞を受ける。11月熊本市に転居。
1951(昭和26)年 2月第3回日本アンデパンダン展に「スタートへ」「殉教者(サン・セバスチァン)」(文部省買上げ)を出品。4月海老原美術研究所を創立。53年に一度閉鎖するが、57年再び開設する。
1952(昭和27)年 3月神奈川県立近代美術館において福沢一郎海老原喜之助展覧会を開催する。5月サロン・ド・メに招待出品。
1953(昭和28)年 1月第4回秀作美術展に「ボンサマルタン」を出品。以後54年「大華山」55年「船を造る人」56年「靴屋」57年「燃える」59年「大道の物売り」60年「蝶」62年「群馬出動」を出品する。5月第3回熊日社会賞を受ける。
1954(昭和29)年 9月海老原喜之助自選回顧展を熊本で開催。11月第3回西日本文化賞受賞。
1955(昭和30)年 3月熊本市郊外小峰墓地の忠霊塔を飾る「殉教者」のブロンズ・レリーフを完成。5月第3回日本国際美術展に「靴屋」を出品、佳作賞を受賞。
1956(昭和31)年 11月第1回グッゲンハイム国際美術賞展に「船を造る人」を出品。
1957(昭和32)年 5月第4回日本国際美術展に「燃える」を出品し、国立近代美術館賞を受賞。6月第4回サンパウロ・ビエンナーレ展にデッサン7点を出品。8月第2回現代ふらんすクリチック賞絵画展に賛助出品する。
1959(昭和34)年 5月第5回日本国際美術展に「蝶」を出品し、最優秀賞を受賞する。10月西部秀作展に「大道の物売り」を出品し、最優秀賞を受賞する。11月1951~1959・代表作品展を開催し、戦後の代表作10点を出品する。
1960(昭和35)年 1月第5回日本国際美術展出品作「蝶」により第1回毎日芸術賞を受ける。4月第6回ルガーノ国際版画ビエンナーレ展にリトグラフ5点を出品。11月戦後から15年におよぶ熊本の生活をきりあげ、神奈川県逗子に転居。
1962(昭和37)年 10月国際形象展に同人として参加「夜の彫刻」「走馬燈」「海浜の蝶」を出品。
1963(昭和38)年 5月第7回日本国際美術展「走馬燈」。7月海老原喜之助選自展東京・日本橋・三越で開催。出品は第一次滞欧時代の作品から近業まで108点。この回顧展のため「出城」出品。2回国際形象展「ある日」出品。31回独立展「雨の日」出品。
1964(昭和39年) 15回記念選抜秀作美術展「雨の日」招待出品。国立近代美術館において「滞欧作とその後」展「姉妹ねむる」「ゲレンデ」「曲馬」「群がる雀」「殉教者(サン・セバスチャン)」出品。3月、前年の自選展ならびに第31回独立展に出品の「雨の日」の業績によって芸術選奨文部大臣賞を受ける。6回現代日本美術展「夏の夕べ」出品。「スケッチ展シリーズ完結記念」展(銀座・松屋)「厩」「春の日」「夏の夕べ」(素描淡彩)出品。3回国際形象展「扉」「楽園」出品。オリンピック東京大会芸術展示「近代日本の名作」展「雨の日」出品。32回独立展に「夏の夕べ」を出品。
1965(昭和40年) 8回日本国際美術展「花ぬす人」出品。5月14日、横浜モスクワ経由渡仏。8月27日帰国。33回独立展「男の顔」出品。東京日蓮宗寺院・乗泉寺本堂ガラス・モザイク壁画「合掌」完成。画集「海老原喜之助」出版。
1966(昭和41年) 4月13日羽田発渡仏。藤田嗣治のモンバルナスのアトリエに住む。絵を描くことよりヨーロッパ各国の寺院、美術館をめぐる。10月8日、帰国。(11月、海老原美術研究所閉鎖)
1967(昭和42年) 7月、日動画廊で陶彫、油絵、素描を展示する海老原喜之助新作展開催。8月、熊本で海老原喜之助展開催。35国独立展「南の国」(神奈川県立近代美術館蔵)出品。10月25日、渡欧。
1968(昭和43年) 1月、スイス・チューリッヒの病院に入院中の恩師藤田嗣治に付添う。1月29日、藤田嗣治死去。このあとの10カ月間は藤田家の後始末に忙殺される。7回国際形象展「聖像」出品。11月、サンリスへ旅行、このころ「聖堂」など風景を描く。
1969(昭和44年) 1月、ニース旅行。5月ブルターニュ、ロワール地方旅行。車で南下途中、遺跡の町シノンで発熱、疲労がひどく、食べたものを吐く。ブールジュに至る。6回太陽展「調教師の家族」出品。7月、東京・銀座弥生画廊、フジキ画廊で海老原喜之助滞欧小品展開催。ドイツ、ベルギー、ルクセンブルグへ旅行。
1970(昭和45年) 3-4月、「サーカス」「サーカス=白馬」「白い木馬」などを描く。このころ、疲れがひどくなる。5月、夫妻でスイス、イタリアを旅行。7回太陽展に「サーカス」出品。ブルターニュ地方を旅行中、エトルタで吐血する。衰弱がひどくなる。9月19日、午前8時30分(日本時間午後4時30分)死去。肺ガンと診定。9月25日、仮葬儀がペール・ラ・セーズの聖堂で行われる。日本政府から勲三等旭日中綬章が贈られる。10月15日、青山葬儀所で独立美術協会葬が行われる。
1971(昭和46年) 4月、東京・日本橋・高島屋で海老原喜之助展開催。8月、神奈川県立近代美術館で海老原喜之助デッサン・水彩・版画展開催。

出 典:『日本美術年鑑』昭和46年版(103-105頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
『日本美術年鑑』に収録されている以下の記事にも「海老原喜之助」が含まれます。
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