中村岳陵

没年月日:1969/11/20
分野:, (日)

 日本画家中村岳陵は、11月20日急性肺炎のため逗子市の自宅で死去した。享年79才。本名恒吉。明治23年静岡県下田に生れ、10才で上京し、13才で野沢堤雨について琳派を学んだ。15才のとき土佐派の川辺御楯に就き、伝統的日本画の諸法を修めた。明治41年東京美術学校日本画科選科に入り、また紅児会にも加わって若い作家と新時代の芸術に対しての共鳴を得、大いに情熱を燃やした。同45年美校を卒業したが、在学中飛び越し進級するなど秀才ぶりがうかがえる挿話もある。卒業の年第6回文展に「乳糜供養」が初入選し、大正3年には今村紫江、連水御舟らと赤燿会を創立した。院展には再興第2回展に「薄暮」を出品して日本美術院同人に推され、その後、院展の中心作家として活躍したが、戦後これを脱退し、以後日展に所属し、ここを舞台に没するまで制作活動をつづけた。この間、六潮会を起し、法隆寺壁画模写主任となり、大阪四天王寺全堂壁画を描き朝日文化賞、毎日芸術大賞をうけた。さらに昭和37年には文化勲章を受与されるなど現代日本画壇の重鎮として、華やかな足跡をのこした。作品は近代西欧絵画の理解による日本絵画への移入を試み、常に意欲的姿勢を示した。日本芸術院会員。新日展運営会常務理事。
 年譜
明治23年 3月10日静岡県下田に生る。
明治33年 上京して本所に住す。
明治35年 はじめて野沢堤雨に師事、光琳派を学ぶ。
明治37年 土佐派の川辺御楯に師事す。この年「名和長年船上山に登る図」を日本美術協会に出品。
明治41年 東京美術学校日本画選科に入学。また紅児会にも入る。「水神」
明治42年 「天草四郎時貞」紅児会展に出品。
明治43年 美校全期合同競技に「山田長政像」を出し甲の部首席となる。その結果、特別進級されて一挙に卒業期に入る。
明治44年 内国勧業博「薬草狩」を出品、三等賞受賞。
明治45年 東京美術学校卒業制作「仏誕」を出し首席卒業。第六回文展「乳糜供養」入選。
大正3年 今村紫紅 速水御舟らと赤耀会を創立。再興院展第一回「緑蔭の饗莚」入選。
大正4年 院展第2回「薄暮」出品と同時に同人に推挙さる。
大正5年 院展第3回「維盛高野の巻」。
大正6年 院展第4回「大月氏行」。
大正7年 院展第5回「にしのひかり」。
大正8年 院展第6回「潮鳴」。
大正9年 院展第7回「千本桜」。
大正10年 院展第8回「輪廻物語」。
大正11年 院展第9回「緑蔭嬉遊図」。
大正12年 院展第10回「昏光経」(鳥獣戯画絵巻)。
大正13年 院展第11回「荒天睨鷲」「動相讃頌」。
大正14年 院展第12回「童謡」朝鮮経由北部中国に遊ぶ。
大正15年 院展第13回「梳髪」。
昭和2年 院展第14回「貴妃腸浴」。
昭和3年 院展第15回「流泉四趣」日本美術学校日本画主任教授となる。
昭和4年 院展第16回「白狗」日光東照宮社務所障壁画制作。
昭和5年 院展第17回「雄鹿鳴く」「鉢かつぎ草紙」日本美術学校教授退職。福田平八郎山口蓬春らと六潮会を創立。
昭和6年 院展第18回「婉膩水韻」多摩美術学校日本画主任教授となる。
昭和7年 東京より逗子に移転、六潮会第1回「軍鶏」「狗児」。
昭和8年 院展第20回「都会女性職譜」多摩美術学校教授退職。六潮会第2回「雪」。
昭和9年 院展第21回「砂丘」六潮会第3回「檜」「筍」「霜晨」両陛下献上画帖「筍」。
昭和10年 帝国美術院改組により参与に推さる。院展第22回「爽秋」六潮会第4回展「春朝」「寒牡丹」。
昭和11年 帝展第1回「豊幡雲」院展第23回「みづかげ」皇后、皇太后陛下御下命の御末広並びに御勅題のもの謹画。
昭和12年 帝国芸術院創設第1回文展審査員に任命さる。文展第1回「砂浜」院展第24回「雨五題」。
昭和13年 院展第25回「爽風」六潮会第7回「秋霜」「潺淙」。
昭和14年 院展第26回「流紋」六潮会第8回「溪澗」三越にて岳陵個人展を開催「青昼」ほか10点出品。
昭和15年 法隆寺壁画模写主任となる。紀元2600年大展覧会審査員となる。「肇国絵巻」執筆。
昭和16年 文展第4回審査員に任命さる。
昭和17年 院展第29回「緑影」文展第5回審査員に任命さる。
昭和18年 院展第30回「まひる」海軍館歴史画制作。文部省美術展覧会委員となり文展第6回審査員に任命さる。
昭和19年 陸軍美術展「驀進」出品。
昭和20年 逓信院郵務局より新切手図案審査員を委嘱さる。
昭和21年 全日本画家協会常務理事となる。文部省第2回日本美術展覧会審査員となる。第2回日展「樹陰」。
昭和22年 日本芸術院会員に推挙さる。第32回院展「清夜」。
昭和23年 福田平八郎山口蓬春小野竹喬らと彩交会を興し、第1回「軍鶏」第4回日展審査主任、「少女」出品。
昭和24年 日展運営会理事に推挙さる。彩交会第2回「白鷲」。
昭和25年 日本美術院を脱退、日展第6回「気球揚る」出品、意気を示す。彩交会第3回「薔薇」。
昭和26年 日展第7回審査員「孫」出品。
昭和27年 彩交会第5回「けし」。
昭和28年 皐月会第1回「蝶夢」。在外公館装飾用として外務省より依嘱「燕子花」日展第9回審査員。彩交会第6回「軍鶏」第9回日展「窓辺」。
昭和29年 第10回日展審査員。彩交会第7回「鉄線花」第10回記念日展「花と犬」。
昭和30年 神奈川県立近代美術館にて自薦展を開く。燦光会第1回「永日」彩交会第8回「金魚」第11回日展「狭霧霽れゆく」。
昭和31年 彩交会第9回「楽器と花」燦光会第2回「緑庭」第12回日展審査員。第4回皐月会「こねこ」東西画壇デッサンシリーズ(朝日新聞社主催)「岳陵素描展」第12回日展「雪晴」。
昭和32年 五都展「菖蒲」彩交会10回「山かひの春」丹下健三構成による岳陵と蒼風展「月明」日展運営会常任理事に推さる。第13回日展審査員、皐月会第5回「青葉頃」燦光会第3回「叢」武蔵野に因む展「秋皓」大阪四天王寺金堂壁画の小下図に着手す。
昭和33年 社団法人新日展運営会理事。高島屋美術部創設50周年展「嘉例」出品。第7回五都展「牡丹」彩交会第11回「冬柿」弥生画廊10周年展「春さき」新日展運営会常務理事となる。百二会第6回「秋光」「巌」皐月会第6回「煙月」燦光会第4回「陽春」。
昭和34年 宮内省外国使節接見の間に「紅白梅」大阪四天王寺金堂壁画制作始まる。この年「仏誕図」「出城図」完成、第2回日展審査員。
昭和35年 壁画「降魔図」「初転法輪図」「涅槃図」11月3日に完成。東京高島屋にて四天王寺金堂大壁画展開催、称賛を博す。
昭和36年 1月、毎日芸術大賞授賞。朝日文化賞授賞。毎日芸術大賞受賞記念展(三越)開催 五都展「新雪」明治座「花菖蒲」彩交会第14回「清暁」第4回日展「残照」百二会第7回「晴れた海」。
昭和37年 宮中吹上御殿床掛「春蘭」五都展「永日」春風会「静林」現代日本画巨匠展「清晨」彩交会第15回「風濤」東京美術青年会展「月明」紺綬褒章受章。文化勲章、功労章受賞。郷里伊豆下田町名誉町民に推挙さる。
昭和38年 彩交会第16回「海添いの丘」和光展「荒磯海」第6回日展「郷子刀自像」百二会「清晨」
昭和39年 新宮殿豊明殿障壁画雛形小下図完成。白寿会「山湖暁靄」「鹿鳴館頃婦女図」フランス、ポンピドー首相の熱望により日仏文化親善の為贈呈。三越60周年記念展「曙の海」百二会第10回「雨霽」。
昭和40年 春風会「春柳」彩交会第18回「春月」和光展「緑韻」 高島屋現代美術展「山湖爽晨」浜奈寿会「山湖雨情」第8回日展「磯」。
昭和41年 彩交会第19回「爛漫の春」近代日本画巨匠展「晴れし海」 浜名須会「慶雲」白寿会第18回「静韻」百二会第12回「山湖見ゆ」。
昭和42年 第9回日展「那智神滝」彩交会第20回「江頭黎明」百二会「光峰暁月」白寿会「那智御滝」。
昭和43年 芸術院受賞者展「光峰名月」弥生画廊「朝霧の那智御山」彩交会第21回「明けゆく厳島」和光美術展「潟湖爽晨」白寿会「麓清秋」燦光会展「秋晴山湖」百二会「甲斐の山」。
昭和44年 浜奈寿会第9回「駿河路」日本画巨匠展春光会「天地悠久」 彩壺会「山峡爽晨」 五都展「曙光」 松尾「裾野の朝」 高島屋水墨画展「雲門仙境」 彩交会第22回「峻峯溪声」現代日本画巨匠展「天壇内廓」 和光展「濃雲雨意」(絶作) 白寿会(絶筆)11月20日午後1時逝去 (中村溪男編)

出 典:『日本美術年鑑』昭和45年版(80-81頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
『日本美術年鑑』に収録されている以下の記事にも「中村岳陵」が含まれます。
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