本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)
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没年月日:1984/05/05 新制作協会会員の洋画家竹谷富士雄は、5月5日午後7時20分、大腸ガンのため東京都文京区の順天堂大学付属順天堂病院で死去した。享年76。明治40(1907)年12月13日新潟県中蒲原郡に生まれる。大正14年上京し、一時太平洋美術研究所で学ぶ。翌15年法政大学経済学部に入学、昭和6年卒業し、翌7年渡欧する。ベルリンに半年滞在した後翌8年パリに移り、シャルル・ブラン研究所、後半林武のアトリエに通う。10年帰国し、11年第23回二科展に「姉妹」が初入選、この年藤田嗣治に師事する。12年第24回二科展で「夏」が特待賞、15年第27回二科展「壷つくりの女」は佐分賞を受賞し会友に推挙された。しかし16年師藤田の二科会退会に従い同じく二科を退会、新制作派協会に転じ、17年第7回展「休む男」等3点、18年第8回展「働く男」が共に新作家賞を受賞、早くも会員に推挙される。戦後も新制作展に連年出品するほか、美術団体連合展、秀作美術展、現代日本美術展、日本国際美術展、ピッツバーグ国際美術展(42年)、国際具象派美術展、国際形象展などに出品した。36年フランスに渡り、イタリアを回って翌年帰国、同年の第26回新制作展に「坂のある町(シャトル)」などを出品する。41年第5回国際形象展で愛知県美術館賞を受賞、44年再び渡仏し51年帰国するまでパリにアトリエを構えた。昭和15年の第1回個展以来、パリなどでも個展を開催、44年新潟県美術博物館で竹谷富士雄、小野末、富岡惣一郎による県人三人展が開催された。フランスの街景や田園風景をモチーフに好み、穏やかで繊細な色調と油彩の重厚さを押えたパステル調の叙情的な作風で知られた。また大仏次郎、瀬戸内晴美、丹羽文雄らの連載小説の挿絵も手がけている。
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没年月日:1984/05/05 日本近代美術史研究で先駆的役割を果し、戦前には西洋美術の紹介にも功績のあった美術評論家森口多里は、5月5日老衰のため盛岡市の自宅で死去した。享年91。本名多利。明治25(1892)年7月8日岩手県膽澤郡に生まれ、大正3年早稲田大学文学部英文学科を卒業。卒業と同時に美術評論の筆をとり、同11年早稲田大学建築学科講師となる。翌12年から昭和3年まで早大留学生として滞仏し、この間パリ大学で聴講、とくにフランス中世美術における建築、彫刻、工芸を主に研究した。帰国後は早大建築学科で工芸史を講じるとともに、新聞、雑誌等に著述活動を精力的に展開、戦前の著作に『ゴチック彫刻』(昭和14年)、『近代美術』(同15年)、『明治大正の洋画』(同16年)、『美術文化』(同)、『中村彝』(同)、『続ゴチック彫刻』(同)、『民俗と芸術』(同17年)、『美術五十年史』(同18年)などがある。同20年5月戦災に遇い岩手県黒沢尻町に疎開し、以後民俗学の研究を本格的に開始した。同23年岩手県立美術工芸学校初代校長に就任、同26年には新設の盛岡短期大学教授を兼任し美術工芸科長をつとめ、同短大では西洋美術史と芸術概論を講じる。同28年からは岩手大学学芸学部非常勤講師をつとめ、同33年には岩手大学教授となる。戦後の著作に『美術八十年史』(同29年)、『西洋美術史』(同31年)、『民俗の四季』(同38年)などがあり、没後の同61年第一法規出版から『森口多里論集』が刊行された。この間、岩手県文化財専門委員、日本ユネスコ国内委員をつとめ、岩手日報文化賞、河北文化賞を受賞する。
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没年月日:1984/04/26 モダンアート協会会員で、一貫して抽象画を描き続けた洋画家の勝本冨士雄は、4月26日午前9時24分、肝不全のため東京都千代田区の三井記念病院で死去した。享年58。大正15(1926)年1月10日、石川県七尾市に生まれる。鉄道学校機関科を卒業後、京都市立絵画専門学校に入るが中退。昭和21年より自由美術家協会展に出品。同26年荒井龍男、村井正誠、山口薫らの創立したモダンアート協会第1回展に招待出品。翌年同会会員となり出品を続ける。初期には細かい四辺形の色面を複雑に構成した「野性」のシリーズ、同35年頃からアクション・ペインティングの影響を思わせる即興的な筆のタッチと絵具のマチエルをいかした「白」のシリーズを描き、同40年頃から作風は曲線を含む整った幾何学的傾向を強め、画面形体、マチエルの多様性などの研究が試みられた。アジア青年美術展(同33年)、パリ国際青年美術展(同36年)、現代アジア美術展(同40年)など国際展にも出品、版画も手がけ、東京国際版画ビエンナーレ(同39年)、バンクーバー国際版画ビエンナーレ(同42年)に出品する。「科学性と精神性の格闘の現れ」として美術を位置づけ、明快な色調と形体を追求した。モダンアート展出品歴第2回(昭和27年)「洪水」「夜の門」「漂流」「冬の旅」「夜」「朝の窓」「帆船」、3回「朝」「夜」「夜から夜へ」「夜」「朝」「小さな子供」「小さな窓」「港」、4回「フィギュール1」「フィギュール2」「フィギュール3」「フィギュール4」「フィギュール5」、5回(同30年)「角のフォーム」「夜の壁」「円のフォームA」「フォームの間」「円のフォームB」、6回「野性の要素B」「野性の要素A」「荒野のブドウ」、7回「静かなる野性1」「静かなる野性3」、8回「作品A、B」、9回「内なる野性6」「内なる野性5」、10回(同35年)「内部の形象」「レモン・イエロー」「内なる赤い森」、11回「作品-白」「白の形象」、12回「作品-白-61」「作品-白と赤62」、13回「白の中の赤とブルー」「作品-白の菱形」、14回「白い菱形12」「白い菱形10」、15回(同40年)「白い菱形の中に」「白い菱形-28」、16回「白いスペースの中に-10」「白いスペースの中に-12」、18回「Rising Sun-白い菱形」「Rising Sun-8」、19回「Five o’clock a.m.」「Five o’clock a.m.」、20回(同45年)「Five o’clock a.m.」「黎明-A.M.5」、21回「白い世界」、22回「白と赤スペース」「ライジングサン」、23回「Rising Sun-白」「Rising Sun-赤」、24回「黎明-黒」「黎明-白」、25回(同50年)「Rising Sun」「スペースの中で」、26回「黎明-76」、27回「鋭角からの円-Rising Sun」、28回「Rising Sun-白の世界」、29回「鋭角の雲」「鋭角のイエロー」、30回(同55年)「鋭角の雲-風雲」、31回「内なる鋭角-黎明」、32回「鋭角からの地平-5」、33回「群青誕生」
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没年月日:1984/04/21 山梨県立美術館長、全国美術館協議会理事、千沢楨治は4月21日午前7時15分、急性心不全のため東京都渋谷区の日赤医療センターで死去した。享年71。1912(大正元)年9月23日、千葉直五郎の二男として東京に生まれ、1936(昭和11)年、千沢平三郎の養子となる。1937年、東京帝国大学文学部美術史学科を卒業、ひきつづき1941年3月まで同学科研究室副手、1944(昭和19)年3月まで同助手、同年4月帝室博物館鑑査官補、1947(昭和22)年4月、東京国立博物館文部技官となり、1974(昭和49)年3月退官するまでの間、同博物館彫刻室長、東洋館開設準備室長、美術課長、学芸部長を歴任した。退官後は、1975(昭和50)年4月から1982(昭和57)年3月まで町田市立博物館長、1976年から1978(昭和53)年まで山梨県立美術館開設準備顧問、そして1978年8月、初代の山梨県立美術館長に就任。ミレー、コローを中心としたバルビゾン派の作品の収集に努め、特色ある美術館づくりに尽力した。この間、1977(昭和52)年から1983年まで上智大学教授、また講師として出講した大学は、東京女子大学(1941~83)、実践女子大学(1958~62)、東京大学(1966~73)、上智大学(1973~77)、明治大学(1974~78)、学習院女子短期大学(1977~83)、青山学院女子短期大学(1980~84)におよんで、美術史教育にも力をつくした。また地方や民間の美術館運営にも尽力し、顧問、評議員となった美術館は、大倉集古館(1974~84)、碌山美術館(1975~84)、浮世絵太田記念美術館(1977~84)、栃木県立美術館(1978~84)、茅野市総合博物館(1982~84)である。その専門は日本美術史で、特に彫刻および琳派に関する業績があげられる。主な著書に、『金銅仏』(講談社1957)、『宗達』(至文堂 1968)、『光琳』(至文堂 1970)、『酒井抱一』(至文堂 1981)がある。1984年4月20日、勲三等瑞宝章を受章、同21日死去に際して正四位に叙せられた。さらに同年10月、山梨県政特別功績者表彰を受けた。
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没年月日:1984/04/19 武蔵野美術大学教授で、プロダクトデザイン工業株式会社社長の飯田三美は、4月19日午前4時30分、クモ膜下出血のため、東京都大田区の牧田総合病院で死去した。享年59。大正13(1924)年12月1日、茨城県新治郡に生まれる。昭和12(1937)年4月、茨城県立土浦高等中学校に入学。同16年4月、東京美術学校に入り、同23年同校工芸科鋳金部を卒業する。同校在学中の同22年、「鋳銅花瓶」で第3回日展に初入選、同23年4月より26年まで横須賀米海軍基地鋳造工場で、米国工業鋳造の研究にたずさわる。この間、同23年東京都輸出工芸展一席となったほか、同26年の日展にも「青耳紋青銅花生」で入選する。合成樹脂による工業製品の研究に従事し、同27年、日産自動車試作工場で自動車の軽量化を研究、同29年、フジキャビンの製作を手がける。同31年フローレンス国際工芸美術展に出品。同33年、武蔵野美術学校助教授となり、教鞭をとる一方、同36年、合成樹脂とデザイン・造形を結びつけた会社プロダクトデザイン工業を設立する。同42年、自動車ボディーの軽量化の研究の成果として本田技術研究所出品のメキシコレース車ボディーを製作し優賞を受けたほか、同43年日本産業見本市においては艦・樹脂加工部を担当、同45年大阪での万博では電気通信館内合成樹脂部を担当・製作する。また同45年より、武蔵野美術大学造形学部工芸工業デザイン学科教授およびプロダクト・デザイン工業社長をつとめる。著作には、同42年鳳山社刊『現代デザイン事典』のうち樹脂部の項他がある。
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没年月日:1984/04/16 昭和初期、前衛美術運動に参加し活躍した彫刻家浅野孟府は、4月16日午後2時10分、肝硬変のため大阪市東区の上二病院で死去した。享年84。明治33(1900)年1月4日東京都に生まれる。本名猛夫。大正7年東京美術学校彫刻科に入学し塑造を学ぶ。北村西望に師事。在学中の同9年9月第1回未来派美術協会展に出品、同11年第9回日本美術院展に石膏像「頭」を出品する。同年10月神原泰らとアクションを結成。同12年第10回二科展に「肖像」、翌13年同展に「顔」を出品し、まだ出品数の少なかった二科展彫刻部の草創期に名をつらねる。同13年、アクション、未来派、マヴォなどが合同して三科造型美術協会を結成。同15年第1回聖徳太子奉讃美術展に「造型彫刻立像」「造型彫刻顔」を出品、受賞する。昭和2年、東京美術学校を中退。同3年第1回プロレタリア美術展に「レーニン像」、同5年同展に「習作」を出品する。同5年大阪へ移住し、翌年大阪プロレタリア美術研究所を設立。同12年陶芸研究のため野崎村に窯を開き移住する。同15年徴用されて、松下飛行機工場、東宝映画に勤務する。戦後、二科会の再編に参加して会員となるが、同30年野間仁根、鈴木信太郎らによる一陽会に創立会員として参加し、植木力とともに彫刻部の指導的立場にあって出品を続ける。同45年、ギリシア旅行。同47年大阪彫刻家会議初代会長となる。同48年大阪芸術賞を受賞。肖像彫刻ではモニュメンタリティを加えつつ写実的作風を示したが、自由な制作においては写実にとらわれず、対象の形を簡略化、理想化した。初期作品にはアーキペンコの影響が強く見られる。 一陽会出品作 昭和31年(第2回)「テラコッタの馬」、同32年「女」、同33年「無題」、同34年「立像」、同35年「裸婦」、同36年「裸婦」、同37年「方形婦女」、同38年「裸婦」、同39年「姉妹」(レリーフ)、同40~43年出品せず、同44年「裸婦立像」、同45年「中沢良夫先生」、同46年「無題」、同47、48年出品せず、同49年「大阪(習作)」、同50年以降出品せず。
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没年月日:1984/04/11 日展参与の彫刻家後藤清一は、4月11日午後6時45分老衰のため水戸市柳町の青柳病院で死去した。享年90。明治26(1893)年8月19日茨城県水戸市に生まれる。水戸市立三ノ丸高等小学校時代、1級上に木内克がいた。41年上京し遠縁にあたる牙彫家富岡周正に入門、牙彫を学び、大正3年の東京大正博覧会に「竜頭観音花瓶」(牙彫)が入選している。4年東京美術学校牙彫科選科に入学、翌年高村光雲に師事し木彫を始める。8年卒業し研究科に進むが翌年中退、仏教への傾倒を深め思想や仏像の研究を進める。10年美術学校時代の同級生清水三重三らと木牙会を結成、第1回展に「永遠の求道者」を出品する。この後山村暮鳥や小川芋銭、未だ水戸高校の生徒だった小林剛、土方定一らを知る。昭和3年より清水三重三の勧めで構造社にも出品、翌4年第3回構造社展で「少女の顔」が構造賞を受賞した。5年同社会員となり、同年第4回構造社展「弥勒」、6年第5回展「悲母」など深い思索に支えられた内省的な作品を発表する。その後も構造社に「母子」(12年)「誕生仏」(15年)などを出品する一方、帝展、新文展にも出品する。戦後、21年第2回日展よりたびたび審査員をつとめ、25年参事、33年評議員、49年参与となる。この間35年第3回日展で「双樹」が文部大臣賞、39年第1回いばらき賞を受賞、また43年常磐学園短期大学教授、47年日本彫塑会名誉会員となる。主要作品は上記のほか「観世音菩薩」(18年第6回新文展)「笛の声」(29年第10回日展)。48年茨城県立美術博物館で「後藤清一彫刻展」が開催された。著書に青年時代からの断想を抄録した『陰者の片影』がある。
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没年月日:1984/04/11 元国立西洋美術館館長の美術史家山田智三郎は、4月11日午前4時40分、急性心肺不全のため横浜市戸塚区の大船共済病院で死去した。享年75。明治41(1908)年10月11日、東京府日本橋に生まれ、大正15(1926)年上智大学文学科予科にドイツ文学を志望し入学する。この年ターナーの論文を通して矢代幸雄に師事、以後長くその指導を受ける。昭和2(1927)年同大学を中退し渡欧、ミュンヘン大学哲学部に入学し美術史学を専攻するが、翌年ベルリン大学哲学科に入学、同じく美術史学を専攻する。昭和9年同大学博士課程を卒業、「17、18世紀に於ける欧州美術と東亜の影響」を著す。同年帰国し、7月より帝国美術院附属美術研究所嘱託として勤務、9月より同研究所明治大正美術史編纂部で任に当たる。翌10年ベルリン大学よりドクトルの学位を授与され、13年ベルリン日本古美術展開催に際し文化使節随員として児島喜久雄と共にドイツに赴く。17年東洋美術国際研究会編集主任、19年同会主事となり、戦後21年駐日米軍の東京アーミーイデュケーションセンター勤務を経て、28年共立女子大学教授(43年まで)となる。29年フルブライト及びスミス・マント研究員として1年間渡米、また33年イスラエル・ハイファ市日本美術館館長として2年間当地に赴いた後、37年カリフォルニア州スタンフォード大学客員教授、翌38年ニューヨーク・ホイットニー財団派遣教授としてノースカロライナ大学、アイオワ州ドレーク大学でそれぞれ1年間東洋日本美術史を講義した。この間国内の大学での講義も数多く、上智大学(15、26年)、東京芸術大学(32、36、40年)、国際基督教大学(39年)、早稲田大学(40年)などで講師をつとめている。42年国立西洋美術館館長に就任、54年までその任に当たる傍ら、40年ブリヂストン美術館運営委員となり、また評議員として43年東京国立近代美術館、彫刻の森美術館、45年ニューヨーク近代美術館、46年日本美術協会、49年東京国立博物館、50年池田20世紀美術館、52年京都国立近代美術館、山種美術財団、またMOA美術館運営委員となる。54年国立西洋美術館館長を退任後、同年同美術館評議員、海外芸術交流協会理事、ジャポネズリー研究学会会長、55年岐阜県美術館顧問、日仏美術学会常任委員、56年財団法人美術文化振興会理事長、57年財団法人鹿島美術財団理事を歴任し、また安井賞(42、49年)、文化功労者(45、46、52、54、56年)、文化勲章(45、46、52年)の選考委員もつとめるなど、美術文化の振興と国際交流に多大の功績を残した。49年フランスより芸術文学勲章のオフィシェ章、50年イギリスより名誉大英勲章(CBE)、52年オランダよりオランジュ・ナッサウ・コマンダー勲章を受章、55年勲二等瑞宝章を受章した。著書に“Die Chinamode des-Spatbarock”Wurfel Verlag,Berlin-邦訳『十七、十八世紀に於ける欧州美術と東亜の影響』(蘆谷瑞世訳、昭和17年、アトリエ社)、『ダ・ヴィンチ』(アルス美術文庫、同25年)、『18世紀の絵画』(みすず書房、同31年)、『美術における東西の出会い-現代美術の問題として-』(新潮社、同34年)、『浮世絵と印象派』(至文堂、同48年)他がある。
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没年月日:1984/04/05 国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)で、文化功労者の型絵染作家芹沢銈介は、4月5日午前1時4分、心不全のため、東京都港区の虎の門病院で死去した。享年88。略年譜明治28(1895)年5月13日、静岡県静岡市の呉服太物卸小売商大石角次郎の次男として生まれた。明治41(1908)年 静岡県立静岡中学校に入学。中学時代、すでに美術好きの少年で、水彩画家山本正雄のよき指導を得ていた。大正3(1914)年 東京高等工業学校図案科入学。印刷図案を専攻。翌年、図案科は東京美術学校に学務委託され、ここで石版印刷技法を修得した。この頃、雑誌「白樺」「フューザン」の挿画を通して西欧美術に感動、国内では梅原龍三郎、安井曽太郎、特に岸田劉生と中川一政に傾倒、また富本憲吉、バーナード・リーチの作品に惹かれた。大正5(1916)年 東京高等工業学校図案科卒業、静岡市の生家に帰る。大正6(1917)年 2月、静岡市の芹沢たよと結婚、友人太田三男と文金図案社を始め、店舗の装飾、広告、祭の花車等の依頼を受け、大工玩具の考案製造もした。11月からは、静岡県立静岡工業試験場で、蒔絵、漆器、染色紙、木工等の図案指導を行う。この年長女規恵出生。大正8(1919)年 小絵馬の収集始める。10月長男長介出生。大正10(1921)年 大阪府立商工奨励館募集のポスター図案に入賞、福助足袋屋のポスターで朝日新聞ポスター図案に入賞、等各府県、新聞広告の懸賞に入賞多数。このころ、子供の乗物、絵本を作り、劉生風の油絵を描き、自分の子供たちの衣服もデザイン、布染めして工夫して着せるなどした。大正11(1922)年 この年から近隣の子女を集めて「このはな会」と名付け、手芸の図案を与えて、絞り染めや刺繍、編物等の製作をさせた。この年の主婦之友全国家庭手芸展に出品させ、最高賞を受けた。このころ、雑誌「白樺」に柳宗悦の東洋美術紹介があったのに感銘を受け、特に「李朝の陶磁器号」に感動する。11月に次女和喜出生。大正13(1924)年 芹沢家は、親戚のための請判が原因で土地、家屋、山林、田畑のすべてを失い、借家住いとなる。この頃から蝋染を始める。昭和2(1927)年 柳宗悦、河井寛次郎、濱田庄司らが静岡市鷹匠町の宅へ来訪、収蔵の李朝陶器等に賛成する。4月、東京鳩居堂の第1回日本民芸展で古民芸の系列に接す。6月、柳宗悦編「雑器の美」(民芸叢書第一編、工政会出版部)の装幀をする(以後柳宗悦著述本の装幀多数)。この年、朝鮮京城の民族美術館、慶州佛国寺を訪れる。往路、船中で雑誌「大調和」(昭和2年4月創刊)に連載中の柳宗悦の論文「工芸の道」に感銘をうけ、生涯の転機となる。昭和3(1928)年 上野公園の大禮記念国産振興博覧会で、静岡県茶業組合連合会の展示を行う。この博覧会特設館の日本民芸館で初めて見る沖縄の紅型に瞠目する。前後して開かれた啓明会その他の沖縄工芸の展示を見て紅型への思慕を深めた。昭和4(1929)年 3月、京都大毎会館の日本民芸品展に、所蔵の小絵馬、陶器、染物等出品、また國画会展にはを初出品、N氏賞受賞。昭和6(1931)年 雑誌「工芸」創刊され、表紙を1ケ年受け持つ。その型染布表紙は装幀の仕事への端緒となる。この年、三女とし出産。昭和8(1933)年 大連で個展を開催、帰途、満州・朝鮮の各地を回遊。倉敷文化協会主催で同地で個展を開催、大原孫三郎の知遇を受ける。昭和9(1934)年 東京市蒲田区蒲田町に移る。柳宗悦と共に民芸品収集のため四国を一巡する。昭和14(1939)年 柳宗悦他民芸同人と沖縄に渡り、那覇に滞在、各々専門分野で同地工芸の研究を行う。同地壷屋の生地を取り寄せて赤絵を試み、また沖縄の景物を素材とした染絵を多く作り、これらを高島屋の沖縄展に出品。昭和20(1945)年 戦災で工房と全家具・家財を失う。山本正三の発案で型染カレンダーを創始する。昭和30(1955)年 工房を新設し、有限会社芹沢染紙研究所を開設する。昭和31(1956)年 型絵染で重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される。昭和33(1958)年 倉敷の大原美術館工芸館のために、倉庫群の配置換え及びその内外装、展示用家具の設計をする。昭和36(1961)年 大原美術館工芸館第1期工事により陶磁館落成。この年、柳宗悦死去。昭和38(1963)年 大原美術館工芸館第2期工事により棟方志功、芹沢銈介の両館完成。昭和41(1966)年 スペインのバルセロナのカタルーニア美術館を訪れ、近東、欧州各地を巡遊。この年、紫綬褒章を受章。昭和43(1968)年 大阪フェスティバルホールの緞帳の図案「御船渡」を制作、新皇居連翠の間の横額二面の謹作、米国サンディエゴ州立大学の夏期セミナーに招請され、同地及びロスアンゼルス、カナダのバンクーバーで個展開催。昭和45(1970)年 大原美術館工芸館の第三期工事で東洋館完成。大阪大丸百貨店の濱田庄司、棟方志功との「巨匠三人展」に出品。この年、勲四等瑞宝章を受章。昭和46(1971)年 東京の民芸館で「芹沢銈介収集品展」を開催。「このはな会」寄贈によるケネディ記念館のための屏風「四季曼荼羅」を完成。パリ国立近代美術館長ジャン・レマリー氏来日、同館における芹沢銈介展の開催を要請する。昭和48(1973)年 大阪・阪急百貨店で「芹沢銈介 人と仕事展」を開催。昭和49(1974)年 浄土宗開宗八百年慶讃大法要のため、京都・知恩院大殿内陣の荘厳飾布を制作。岡山天満屋百貨店での展覧会「型絵染の巨匠芹沢銈介の五十年-作品と身辺の品々-」を開催。昭和51(1976)年 文化功労者となる。パリ国立グラン・パレにおいて「芹沢銈介展」を開催。昭和52(1977)年 東京・サントリー美術館で、パリ帰国展として「芹沢銈介展」を開催する。昭和53(1978)年 浜松市美術館で「芹沢銈介の身辺-世界の染めと織り展」を開催。国会図書館での「本の装幀展」に特別出品。静岡・西武百貨店で「芹沢銈介小品展-のれん・装幀とその下絵・挿絵-」を開催。静岡市民ホールの緞帳図案「静岡市歌」制作。横浜市港北公会堂緞帳図案「陽に萠ゆる丘」制作。大原美術館で「芹沢銈介の蒐集-もうひとつの創造-展」を開催する。昭和54(1979)年 千葉県立美術館で「芹沢銈介展-その創造のすべて-」を開催。米国サンディゴ市ミュージアム・オブ・ワールドフォークアートで「芹沢銈介展」開催。昭和55(1980)年 東京国立近代美術館の「日本の型染-伝統と現代-展」に出品。中央公論社より『芹沢銈介全集』の刊行を開始する。昭和56(1981)年 静岡市立芹沢美術館が開館。昭和57(1982)年 栃木県立足利図書館で「芹沢銈介の文字展」開催。天心社の依頼により「釈迦十大弟子尊像」を制作。大原美術館で「芹沢銈介作釈迦十大弟子尊像展」開催。紫紅社より『歩 芹沢銈介の創作と蒐集』刊行。昭和58(1983)年 フランス芸術文化功労勲章を授与される。新宿京王百貨店で「88歳記念芹沢銈介展」開催。4月19日に妻たよ死去。8月病に倒れる。昭和59(1984)年 4月5日午前1時4分心不全のため死去。4月26日、日本民芸館にて日本民芸館葬。正四位に叙せられ、勲二等瑞宝章を受ける。
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没年月日:1984/04/02 日本大津絵文化協会会長で、大津絵研究の第一人者であった片桐修造は、4月2日午後3時52分、結腸ガンのため、大津市の大津市民病院で死去した。享年81。明治35(1902)年11月15日、大津市に生まれ、昭和3(1928)年、同志社大学英文科を卒業。同5年、大津市役所に就職し、同20年、同所を税務課長として退く。同21年より40年まで滋賀県庁で図書館司書をつとめる。同45年、大阪で万博が開かれた際には、「大阪日本民芸館」に勤務する。民芸を再評価した柳宗悦に学生時代から師事し、郷土の生んだ大津絵について、広く交通・産業史や文化とのかかわりをも視野に入れて研究し、大津絵の名の由来や、絵画内容の変遷についての論考を残した。一幹を号とする。岩佐又兵衛を大津絵の開祖と考える論に対し、決定的証拠の欠如を理由に反論。また、大津絵の発展過程を、大津仏画がはじめに生まれ、これに大津浮世絵が加わり、大津絵が独自の様式を獲得する時代を経て、大津絵仏画と大津浮世絵が共存するようになったとする論を展開し、従来あいまいであった大津絵研究に、科学的、客観的態度であたり、貢献するところが大きかった。昭和47年より52年までは甲子園短期大学司書兼講師、同52年より55年までは滋賀女子短期大学非常講師をつとめ、教育にも力をつくしたほか、『大津絵について』『原色大津絵図譜』『大津絵講和』および『文献を基とした大津絵略年譜』(『柳宗悦選集』 第十巻 大津絵所収)などの著書がある。『大津絵講話』は昭和59年滋賀県文学祭で入賞している。また、同52年に設立された日本大津絵文化協会では、設立以来会長をつとめ、機関誌「大津絵」にも執筆した。
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没年月日:1984/03/25 二科会理事、元群馬大学教授の洋画家、清水刀根は、3月25日午後1時22分、肝硬変のため前橋市の群馬中央総合病院で死去した。享年79。明治38(1905)年1月10日、群馬県前橋市に生まれる。本名、刀根男。大正13(1924)年、日本美術学校洋画科を卒業。同15(1926)年第13回二科展に「卓上静物」で初入選。以後同会に出品を続ける。昭和6(1931)年第18回二科展に「化粧する三人の女」「二人」「黒服の女」「静物」を出品し、二科賞を受け、翌年同会会友となる。一方、同5年、太平洋画会会員となるが、同10年退会。同9年、前橋に絵画研究所を開く。同18年、二科会会員となる。戦後、二科会の再編に参加。同25年5月、群馬大学教授となり、同45年停年退職するまで長く後進の指導に尽くした。同36年第46回二科会に「街」「牛と子供」を出品して会員努力賞を受賞。同54年、同会理事となった。初期には忠実な写生にもとづく人物像を多く描いたが、戦後マチス風の画風を経て、直線を多用した形態把握と幾何学的に整理された緊密な構図に至った。二科展出品歴–13回(大正15年)「卓上静物」、14回「明石を着たる女」、15回「白布をまとへる裸婦」、16回「後向裸」「A煤煙の町」、17回(昭和5年)「裸体」「赤いペティコートの娘」「花畑」、18回「化粧する三人の女」「二人」「黒服の女」「静物」、19回「ホール」「裸体」「母子供」、20回「舗道」「素人写真」「緑蔭小亭」、21回「河原に働く男」「遊ぶ女」、22回(同10年)「海岸親子」「眠れる母子」「静物」、23回「庭上三人」「浴衣着の女」、24回「唄」「双鏡」、25回「砂上」「風呂」、26回「野」「緑庭」、27回(同15年)「温室」、29回「良民たち」、31回(同21年)「丘」「室内」、32回「室内」「静物」、34回「海辺三人」「画室の二人」、35回(同25年)「海辺裸女」「画室の裸女」、36回「夏」「水」「白裸」、37回「レダ」「娘と猫」「農人」「鳥篭」、38回「子供二人」「母と子」「憂愁」、39回「懐古」「鳩」、40回(同30年)「少年」「群像」、41回「楽器を持つ女」「街と学生」「漁婦」、42回「山の話」、43回「若者」「庭」、44回「山」「村」、45回(同35年)「曳」「プラカード」、46回「街」「牛と子供」、48回「鳥篭」「室内」、49回「親児」、50回(同40年)「親仔馬」、51回「屋外レストラン」、52回「巴里の街(A)」、53回「教会」、54回「聖堂」、55回(同45年)「屋外カフェー」、56回「踊子」、57回「壷」、59回「街の朝」
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没年月日:1984/03/16 花鳥画一筋に描き続けた日本芸術院会員の山口華楊は、3月16日午後6時28分、肝蔵ガンによる心不全のため京都市左京区の日本バプテスト病院で死去した。享年84。明治32(1899)年10月3日京都市中京区に友禅彩色家の二男として生まれ、本名米次郎。45年格致尋常小学校卒業後、家業を継がせたい父の意志で西村五雲に入門する。大正5年京都市立絵画専門学校に入学、この年早くも第10回文展に「日午」が初入選し早熟ぶりを示す。8年同校卒業後、五雲のすすめで竹内栖鳳の私塾竹杖会の研究会にも参加する。10年頃には、かつて知恩院派と呼ばれた土田麦遷、小野竹喬らが国画創作協会結成前に住んでいた知恩院崇泰院に仮寓し、一時国展の運動にも強い関心を示した。昭和2年第8回帝展「鹿」、翌3年第9回帝展「猿」が連続して特選を受賞、動物画家としてその名を知られ12年第1回新文展に「洋犬図」を出品する。また11年長岡女子美術学校教授、京都市立絵画専門学校助教授となり、13年師五雲が没した際画塾はいったん解散したが、一門により晨鳥社を結成、総務となりこれを主宰した。17年京都絵専教授となり(24年まで)、翌18年には海軍省従軍派遣画家としてジャワなど南方に従軍する。新文展、日展とたびたび審査員をつとめ、また京都市展、大阪市展の審査員もつとめて25年日展参事、26年京都日本画家協会理事長となる。29年第10回日展に斬新で理知的なフォルムと構図、色彩対比を見せる「黒豹」を出品、師五雲の影響を払拭した独自の様式を確立すると共に、現代的な日本画の登場として話題を集めた。31年には前年の第11回日展出品作「仔馬」により日本芸術院賞を受賞、46年日本芸術院会員となる。円山四条派の写実を出発点とし、穏雅で淡々と描き出す対象の中に知的でシャープな現代的感性を盛り込んだ作風は、戦後の日本画壇の動向の中でも一つの指標となった。44年日展改組に際し理事、46年監事、47年常務理事、50年顧問となる。また50年「画業60年山口華楊展」、54年「山口華楊素描展」、55年「山口華楊回顧展」を開催、57年秋より翌年にかけてパリのチェルヌスキ美術館で個展が行なわれ好評をよんだ。日本国際美術展などにも出品している。46年京都市文化功労者、48年勲三等瑞宝章、55年文化功労者、56年文化勲章を受章、57年京都市名誉市民となる。なお、詳しい年譜に関しては「山口華楊回顧展」図録(昭和55年、京都市美術館)等を参照されたい。
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没年月日:1984/03/02 日展理事の洋画家岡田又三郎は、3月2日長野県北佐久郡の別荘のアトリエで椅子にもたれるようにして死んでいるのを、訪ねてきた知人により発見された。前月20日すぎから冬の軽井沢を描くために一人で来ていたもので死因は急性心不全らしい。厳格な写実を基本とし大担な筆触による自然描写で知られる風景画家岡田は、大正3年(1914)年8月2日東京都中央区に生まれ、昭和8年東京府立第一中学校を卒業、同13年東京美術学校油画科を卒業した。卒業の年と翌14年の光風会展で連続受賞し、同15年光風会会友、同18年光風会会員となる。戦後、同21年の第1回日展に「恩師像」を出品し特選、岡田賞を受け、同28年第9回日展に「教会への道」で特選、同30年から日展へ委嘱出品した他、日展、光風会展、新樹会展、北斗会展に出品する。同35年から38年まで渡仏し、同38年パリのル・サロンに出品し銀賞を受賞、同年サロン・ドートンヌ絵画部会員に推挙された。この間、同37年の第6回新日展で菊華賞を受けた。同39年日展審査員をつとめ、同年フランス・アカデミー賞を受賞。翌40年再渡仏し、同年のル・サロン展に「冬の箱根」で金賞を受賞する。同41年「岡田又三郎作品展」を東京・日本橋三越で開催、同45年には「ヨーロッパ風景をテーマに-岡田又三郎油絵展」を同じく日本橋三越で開催した。同46年「大地の詩」で芸術選奨文部大臣賞を受け、同51年には第7回日展出品作「ともしび」で日本芸術院賞を受賞した。
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没年月日:1984/03/01 文化功労者で元日展理事の漆芸家山崎覚太郎は、3月1日午後0時45分心不全のため東京都杉並区のロイヤル病院で死去した。享年84。明治32(1899)年6月29日富山市に生まれる。「北堂」の雅号をもつ。大正4(1915)年高岡工芸学校(現富山県立高岡工芸高等学校)漆工科★漆部に入学し、8年同校卒業と共に東京美術学校漆工科に入学する。在学中いずれも特待生となり、13年卒業。大正14年日本美術協会展に「衣裳盆」を出品し推奨、同年のパリ装飾美術博覧会で「柘榴の硯箱」が金賞を受賞する。また美術団体「无型」の結成に参加し、昭和2年美術工芸部門が加えられた第8回帝展に「化粧台」が初入選した。3年第9回帝展「衝立」、4年第10回帝展「蒔絵ストーブ前立」、6年第12回帝展「サイドボード」といずれも特選を受賞し、7年推薦、以後無鑑査となる。11年より翌年にかけて1年間、商工省、文部省の研究員として渡欧、帰国後『巴里漆芸家訪問録』を出版した。13年第2回新文展に「漆器奔放屏風」、14年第3回新文展に「(蒔絵屏風)猿」と現代的なデザインの作品を発表し、14年よりたびたび審査員もつとめる。この間大正14年東京美術学校助手、15年講師、昭和3年助教授、18年教授(21年依願退職)となった。戦後も日展に出品を続け、27年参事就任、28年第9回日展出品作「三曲衝立猿」により翌年日本芸術院賞を受賞し32年日本芸術院会員となる。一方、26年日本漆工協会初代理事長となり、36年には日展工芸部門の新傾向の作家を糾合して現代工芸美術家協会を結成し委員長に就任、翌年より日本現代工芸美術展を開催すると共に、40年同協会が社団法人となるに際し初代会長となる。また同協会は39年より48年まで北米、中南米、東南アジア、ヨーロッパなど各地で毎年海外展を開催し、日本工芸の海外への紹介につとめた。33年社団法人日展の発足と共に常務理事、44年理事長となるに及んで若返りをはかり日展の改革を敢行、49年会長、53年顧問となる。色漆の技法を開拓し漆芸に絵画的表現を導入、用の枠内にとどまっていた漆芸の近代化を進めて芸術表現の領域まで高めると共に、工芸界の現代派の総帥として大きな指導力を発揮した。代表作に上記作品のほか「群鹿」(昭和28年)、「(漆額面)疾風」(40年第8回日展)、「駛」(52年第9回改組日展)など、躍動する動物を描いた豪快な作風を得意とした。41年文化功労者、45年勲二等瑞宝章、52年勲二等旭日重光章受章。なお、詳しい年譜に関しては、「漆芸65年山崎覚太郎回顧展」(57年、銀座松屋)図録等を参照されたい。
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没年月日:1984/02/27 昭和36(1961)年の渡仏後、フランスを中心に活動していた彫刻家伊本淳は、2月27日午後1時15分、悪性リンパ腺しゅようのためパリのパッシー病院で死去した。享年68。大正4(1915)年、東京に生まれ、東京美術学校工芸科鋳金部に学ぶ。同校在学中の昭和12年第24回二科展彫刻部に「婦人首」で初入選。翌年東美校を卒業する。同21年復員帰国し、新制作派協会展に数年出品する。同29年画家野間仁根、彫刻家植木力、浅野孟府らによって創立された一陽会に会員として参加する。同36年春、渡仏、翌37年より42年までサロン・デ・ザンデパンダン展、同38年より42年までサロン・ド・ラ・ジュンヌ・スキュルプチュール展に出品、同40年ギャラリー・サン・ローラン(仏)で個展を開くとともに、ギャラリー・ラ・トゥールでの選抜展にピカソらに混じって出品する。同41年ギャラリー・オー・バットゥリエ(ベルギー)で個展。同42年には7年ぶりに帰国し、高島屋で個展を開いた。マイヨール風の写実的人体彫刻から出発したが、渡仏後、空想や文学から生まれた主題を、人体を基本としてデフォルメした形体で表現する作品に転ずる。金属、特に鉄を主な素材とし、鍵や釘などを熔接してアサンブラージュ的要素をとりいれている。箱根彫刻の森美術館の「断絶」や東京・田町の産業安全会館前の「黎明」などで知られる。一陽展出品歴 第2回(昭和31年)「女人柱像」、3回「女1」、4回「水(テラゾー)」「少女(テラゾー)」「踊る(鋳物)」、5回(同34年)「待望」、6回「作品」、以後出品せず。
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没年月日:1984/02/23 日本版画協会審査員の木版画家黒木貞雄は、2月23日午後6時50分、前立せんガンのため宮崎県延岡市の林医院で死去した。享年74。明治41(1908)年12月8日、宮崎県延岡市に生まれる。昭和5(1930)年3月宮崎県師範学校本科を卒業。翌年同校専科を卒業して上京し、川端画学校洋画科で同9年まで学ぶ。同科在学中の同8年より版画家平塚運一に師事。後に恩地孝四郎にも教えを受ける。同10年第4回日本版画協会展に「ふるさとの山」で初入選、翌年第11回国画会展に「むかばきの夕映」(版画)で初入選し、以後両展に出品を続ける。同13年第7回日本版画協会展に「青島」を出品し版画道賞を受賞。同15年同会に「浜木綿の花咲く青島」他2点を出品し2600年記念大賞次賞を受け、同会会員に推挙される。同17年第17回国画会展に「かんな」「浜ゆふ咲く島」を出品し褒状を受ける。同27年国画会会友となる。浦々庵とも号し、郷里宮崎にあってその風景、風俗に取材した木版画を制作しつづけた。国際展にも出品し認められる一方、郷里の文化発展にもつくした。同30年に画集『日向風物版画集』を刊行している。国画会展出品歴 第11回(昭和11年)「むかばきの夕映」、12回「霧島山早春」、13回「水郷の春」、14回「小雨ふるビロー島」、15回(同15年)「港」、16回「むかばき山遠望」、17回「かんな」「濱ゆふ咲く島」、18回「ひまわり」「さぼてん」、19回「風景」、21回「日向風景」、22回「ジャバ人形のある静物(A)」、24回「盆踊」「臼太鼓」、25回(同26年)「都井の馬」、26回「夜神楽」、27回「風神の舞」「雷神の踊」、28回「天主堂」、29回「七面鳥(A)」、30回(同31年)「公園」「草の中の鳥」、31回「城跡」、32回「石仏(青)」、33回「サボテン」「蕗」、34回「干網」「波状岩」、35回(同36年)「回想」「夜精の舞」、36回「はにわ」「鳥」、37回「群」「網」、38回「魚」、39回「作品」「浮遊」、40回(同41年)「解体された家」、41回「高千穂の曇海」、42回「石仏と鳥」、43回「五匹の馬」、44回「凶影」、45回(同46年)「桜島」、46回「聖者」、47回「巌」、48回「祖霊の山」、49回「仙境暁映」、50回(同51年)「米良三山」、51回「けし」「山波」、52回(同53年)退会
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没年月日:1984/02/17 新槐樹社代表、日展参与の洋画家堀田清治は、2月17日心不全のため東京都三鷹市の厚生会病院で死去した。享年85。明治32(1899)年12月6日福井市に生まれ、県立福井中学校卒業後上京、大正9年太平洋美術研究所へ入り高間惣七の指導を受ける。翌10年新光洋画展に出品し受賞、昭和4年には槐樹社展に「靴屋」を出品し槐樹社賞を受賞、その後「飢餓」「基礎工事」でも同賞を受けた。同8年第14回帝展に「炭抗夫」で特選を受け、同11年には新文展無鑑査となる。戦後は旺玄社を改称し同22年発足した旺玄会に同25年に入会し、のち同会代表をつとめたほか、日展には同31年から出品、同32年日展会員、同37年日展評議員、同44年からは日展参与をつとめる。この間、同33年に新槐樹社を創立し代表となる。翌34年から2年間渡仏し、主にアカデミー・ジュリアンに学ぶ。同50年の日展出品作「磨崖不動明王」で文部大臣賞を受賞する。
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没年月日:1984/01/28 阿蘇山を描き続けた日本芸術院会員、文化勲章受章者の洋画家田崎廣助は、1月28日午後6時、老衰のため東京都練馬区の自宅で死去した。享年85。明治31(1898)年9月1日福岡県八女郡に父作太郎の長男として生まれ、本名廣次。大正5年父の反対で東京美術学校進学を断念し福岡師範学校に入学するが、卒業後画家を目指し9年上京、本郷駒本小学校の図画教師をしながら坂本繁二郎に師事する。関東大震災を機に京都に移り、15年第13回二科展に「森の道」等3点が初入選、この年より廣助と号す。昭和2年一旦上京した後7年渡欧しパリにアトリエを構える。8年サロン・ドートンヌに「パリの裏町」など3点が入選、9年円相場暴落のため帰国し翌10年の第23回二科展に滞欧作7点を特別陳列する。11年石井柏亭らにより一水会が創設されると翌年の第1回展より出品、13年第2回一水会展に「丘の小松」等3点を出品し一水会賞を受賞する。14年一水会会員となり、16年佐分利賞を受賞。戦後一水会に出品を続けると共に日展、現代日本美術展、日本国際美術展などにも出品、四季折々の様々な阿蘇山を描き続ける。また24年自らを中心とする広稜会を結成する。26年日展審査員をつとめ33年評議員、42年常任理事となる。36年「夏の阿蘇山」「朝やけの大山」等の連作で日本芸術院賞を受賞し、42年芸術院会員となった。このほか一水会運営委員もつとめ、48年東郷青児らと中心になり日伯現代美術展を開催、その功績により同年ブラジル政府よりグラン・クルーズ章、コメンダドール・オフィシアール章を受け、54年日伯美術連盟会長に就任する。50年文化勲章を受章すると共に初の回顧展(日本橋高島屋)を開催した。重厚で確かな存在感のある山の表情を日本的情感を込めて描き出したその油彩画は、「阿蘇の田崎」の呼び名を生んだ。53年福岡市美術館に代表作30余点を寄贈、また長野県軽井沢町に財団法人田崎美術館(61年開館)の建設計画を進める。なお、詳しい年譜に関しては『田崎廣助画集』(田崎美術館編)等を参照。
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没年月日:1984/01/28 前東京国立近代美術館工芸課長の杉原信彦は1月28日肺ガンのため東京都中野区の国際仁愛病院で死去した。享年63。大正9(1920)年11月12日山口県大島郡の医師の家に生まれ、昭和19年東京美術学校日本画科を卒業。学徒出陣し海軍に従軍。戦後、同22年帝室博物館に入り埴輪修理室助手をつとめ同25年文化財保護委員会事務局美術工芸課、同26年同記念物課を経て、同28年文部技官となり同無形文化課に勤務、同37年無形文化課工芸技術主査、同39年無形文化課文化財調査官となる。同42年京都国立博物館学芸課、翌43年文化庁文化部文化普及課に併任したのち、同44年福岡県教育庁文化課長に転出する。同46年文化庁文化財保護部管理課課長補佐、同50年同課国立歴史民族博物館設立準備調査室主幹を経て、同51年東京国立近代美術館工芸館設立準備室長となり工芸館設立に尽力し、翌52年同館工芸課長に就任する。同57年停年退官した。工芸、とくに染織研究家として知られ、著書に『染の型紙』(昭和59年、講談社)がある。
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没年月日:1984/01/19 前京都国立近代美術館長で美術評論家の今泉篤男は、1月19日急性心不全のため東京都目黒区の国立東京第二病院で死去した。享年81。戦前から美術評論に従事し、戦後の美術評論界を先駆的に導き美術評論を独自の領域をもつ世界へ高め、また、国立近代美術館の創設に携わり美術行政でも多大の功績のあった今泉は、明治35(1902)年7月7日山形県米沢市に生まれた。山形県立米沢中学校、山形高等学校理科甲類を経て大正12年東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学、主に大塚保治の指導を受けた。昭和2年卒業後同大学大学院に在籍し、同7年に渡欧、はじめパリ大学、ついでベルリン大学へ転じデッソアー、ニコライ・ハルトマン、オイデベルヒトらの講義を受ける。滞欧中、佐藤敬、田中忠雄、内田巌、小堀四郎、森芳雄、野口弥太郎、佐分利真等の作家と知り会い同9年に帰国。帰国の年から美術評論の執筆を開始し、新時代洋画展感想」(同9年)、「梅原龍三郎と安井曽太郎」(同13年)、『ルノアル』(同)等、展覧会批評、日本現代作家論、西洋美術紹介などに精力的に従事した。また、同10年には「美術批評に就ての疑問」を発表、同13年には土方定一、瀧口修造、植村鷹千代、柳亮らと「美術批評の諸問題を語る座談会」を持つなど、はやくから美術批評の近代的な在り様に対して積極的な発言を行い、この間、同11年には美術批評家協会の創立に参加し会員となった。同10年から17年まで財団法人国際文化振興会に勤務、同15年には文化学院美術部長となる。戦後は、同25年跡見短期大学教授生活芸術科科長となり、翌年国立近代美術館設置準備委員に任命され、翌27年跡見短大を退職し同年創設の国立近代美術館次長に就任した。同26年美術調査研究のため欧米を歴訪。同年毎日新聞社主催のサロン・ド・メ日本展が大きな反響を呼び、翌年日本作家がパリの同展に招待出品されたのを見て、創刊間もない「美術批評」誌上に日本作品に対する率直で鋭い批判を行い論議を呼んだ。同29年美術評論家連盟創立に際し常任委員となり、翌30年には仮称「フランス美術館」設置準備協議会委員(33年まで)となる。国立近代美術館次長としては、「現代美術の実験」展(同36年)を開催し、荒川修作・中西夏之ら若手の作家をとりあげるなど意欲的な企画を主導した。また、日本国際美術展をはじめ各種展覧会に関与しその批評を行ったのをはじめ、浅井忠、梅原、安井、坂本繁二郎、熊谷守一から森芳雄、山口薫にいたる近代日本作家論の幅を広げていった。同38年国立近代美術館京都分館長となり、同42年同分館が独立し京都国立近代美術館となり初代館長に就任、これを機に工芸の世界へも強い関心を寄せ、以後、富本憲吉、河井寛次郎、浜田庄司、岩田藤七、芹沢銈介、志村ふくみらをとりあげ、工芸批評に新機軸をもたらした。同44年京都国立近代美術館長を辞任し、同46年からは跡見学園女子大学美学美術史学科教授として西洋美術史を講じ、同49年に退職。この間、同34年に国立西洋美術館評議員となったほか、国公私立の美術館の運営委員、評議員等を数多く歴任した。評論の中心は日本近代作家論にあり、絵画、版画、彫刻、工芸の各領域に及んだが、当初から従来の美術批評における感覚的な印象評を脱し、かつ美術評論を創造的な独自の領域として自立させるため、評論の言語も芸術作品同様の平明さと鋭さを備えなければならないとの信念をもっており、論理的でありながら、その体験に基づく平明な美文調の文章には定評があった。尨大な著述の主要なものは、『今泉篤男著作集』(全6巻 昭和54年、求龍堂)に収められている。
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