本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)
- 分類は、『日本美術年鑑』掲載時のものを元に、本データベース用に新たに分類したものです。
- なお『日本美術年鑑』掲載時の分類も、個々の記事中に括弧書きで掲載しました。
- 登録日と更新日が異なっている場合、更新履歴にて修正内容をご確認いただけます。誤字、脱字等、内容に関わらない修正の場合、個別の修正内容は記載しておりませんが、内容に関わる修正については、修正内容を記載しております。
- 毎年秋頃に一年分の記事を追加します。
没年月日:1984/10/29 晨鳥社顧問、日展参事の日本画家麻田辨自は10月29日午前4時、肝不全のため京都市上京区の京都府立医大附属病院で死去した。享年84。明治32(1899)年12月14日京都府富本村に生まれ、本名辨次。大正7(1918)年京都市立絵画専門学校に入学、在学中の10年第3回帝展に旧姓中西辨次の名で「洋犬哺乳」が初入選する。13年卒業と共に研究科に進学、昭和2年より麻田辨次の名で帝展に出品している。4年西村五雲に師事し、帝展と共に五雲画塾の晨鳥社展にも出品、また創作版画も手がけ、5年第11回帝展に日本画「こな雪の朝」と共に「燕子花其他」の版画作品を出品する。戦前の作品としては9年第15回帝展「南瓜畑」、12年第1回新文展「たにま」、15年紀元二千六百年奉祝展「白秋」などがあるが、概して師五雲風の練達した画風の小品に佳作を見る。13年師五雲死去の後暫時低迷するが、戦後、風景画に新境地を開き、25年第6回日展「樹蔭」が特選、27年第8回日展「群棲」が特選・白寿賞を受賞。28年以後たびたび審査員をつとめ、34年第2回日展「風霜」は文部大臣賞、更に36年第7回日展出品作「潮騒」により翌年第21回日本芸術院賞を受賞した。33年より日展評議員、47年理事、52年参与、55年参事となり、52年より名を辨自としている。また晨鳥社顧問をつとめ、38年、48年の2度にわたりヨーロッパを訪遊する。49年京都市文化功労者、50年京都府美術工芸功労賞を受賞、京都府美術工芸功労者となる。著書に『巴里寸描』(52年求龍堂)がある。 主要出品歴大正10年 第3回帝展 「洋犬哺乳」大正11年 第4回帝展 「遊鶴図」大正15年 第7回帝展 「鷲」昭和2年 第8回帝展 「花鳥」昭和5年 第11回帝展 「こな雪の朝」「燕子花其他」昭和6年 第12回帝展 「洋犬図」昭和7年 第13回帝展 「グレーハンド」昭和9年 第15回帝展 「南瓜図」昭和11年 第1回文展鑑査展 「土に遊ぶ」昭和12年 第1回新文展 「たにま」昭和13年 第2回新文展 「霧雨」昭和14年 第3回新文展 「花かげ」昭和15年 紀元二千六百年奉祝展 「白秋」昭和18年 第6回文展 「澤辺」昭和21年 第2回日展 「馬」昭和23年 第4回日展 「たにま」昭和24年 第5回日展 「暮雪」昭和25年 第6回日展 「樹蔭」(特選)昭和26年 第7回日展 「樹間」(無鑑査)昭和27年 第8回日展 「群棲」(特選・白寿賞)昭和28年 第9回日展 「澗」(審査員)昭和29年 第10回日展 「樹園」昭和30年 第11回日展 「飛鴨」(依嘱)昭和31年 第12回日展 「水光」(審)昭和32年 第13回日展 「沼辺」(依)昭和33年 第1回新日展 「新樹」(評議員)昭和34年 第2回新日展 「風霜」(文部大臣賞、審、評)昭和35年 第3回新日展 「魚紋」(評)昭和36年 第4回新日展 「沼」(評)昭和37年 第5回新日展 「鴛」(審、評)昭和38年 第6回新日展 「無月」(評)昭和39年 第7回新日展 「潮騒」(評)昭和40年 第8回新日展 「山湖」(評)昭和42年 第10回新日展 「夕虹」(評)昭和43年 第11回新日展 「暈」(評)昭和44年 改組第1回日展 「曲水」(審、評)昭和45年 改組第2回日展 「飛鴨」(評)昭和47年 改組第4回日展 「虹立つ」(審、理事)昭和48年 改組第5回日展 「遠雷」(理)昭和49年 改組第6回日展 「馬」(審、理)昭和52年 改組第9回日展 「静謐」(参与)昭和53年 改組第10回日展 「聖火」(参与)昭和54年 改組第11回日展 「唐崎之松」(参与)昭和55年 改組第12回日展 「暮雪」(参事)昭和56年 改組第13回日展 「藤なみ」(参事)昭和57年 改組第14回日展 「樹木」(参事)昭和59年 改組第15回日展 遺作「樹下」(参事)
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没年月日:1984/10/18 日本建築協会会長、双星設計社長の福田朝生は、10月18日午前2時30分、肝臓ガンのため兵庫県西宮市の県立西宮病院で死去した。享年67。大正6(1917)年4月29日、京城に生まれる。昭和15(1940)年3月、京都帝国大学工学部建築学科を卒業し、同年4月より同大工学部講師をつとめる。同年12月より同22年3月まで応召。同年9月京都工業専門学校講師となり、同24年5月、同校教授となる。同24年7月、学制改革により京都工芸繊維大学講師となり、同26年同校助教授となって建築計画を講ずる。同31年3月、同校を退職し、双星社竹腰建築事務所(現称双星設計)に入り、同41年4月より同事務所社長をつとめる。昭和36年の大阪市立中央図書館、同45年万国博お祭り広場大屋根(共同設計)、同53年姫路聖マリヤ病院、同56年箕面市立病院、同57年金蘭会学園千里短大・中学・高校校舎、同58年石川県立中央病院などを手がけたほか、日本建築協会会長、日本建築家協会理事、日本建築学会評議員、大阪府建築士会理事をつとめ、日本の建築学の向上にも寄与した。
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没年月日:1984/10/07 明治大学工学部教授で建築史家の木村徳国は、10月7日急性呼吸不全のため東京都港区の東京船員保険病院で死去した。享年58。日本古代建築史と業績の高い木村は、大正15(1926)年5月9日京都府竹野郡に生まれ、東京府立第四中学校、静岡高等学校を経て昭和23年東京大学第一工学部建築学科を卒業、引き続き同大学院へ進み、同27年北海道大学工学部講師に就任、同年助教授となる。初期は日本近代建築史に関する論考が中心で、同35年、論文「日本近代都市独立住宅様式の成立と展開に関する史的研究」で東京大学より工学博士の学位を授与された。同40年明治大学工学部教授に就任、その後40年代の半ば頃から日本古代建築史(住宅史)を主な研究対象とし、同55年「日本古代住宅史に関する一連の研究」を理由に昭和54年度日本建築学会賞(第一部論文部門)を受賞した。著書に『古代建築のイメージ』(同54年、日本放送協会出版)他がある。
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没年月日:1984/10/06 日本芸術院会員、日展常務理事の彫刻家晝間弘は、10月6日狭心症のため東京都葛飾区の第一病院で死去した。享年68。初期の木彫から塑像、ブロンズ等へと領域を広げ、堅実な写実力で独自の造形をもとめた晝間は、大正5(1916)年3月5日東京都葛飾区に生まれた。東京美術学校在学中の昭和14年第3回新文展に「朝晨」で初入選し、翌年同校彫刻科木彫部を卒業、卒業制作「早蕨」で正木記念賞を受ける。同年の第4回東邦彫塑院展で彫塑院賞を受賞。北村西望に師事し戦後は日展に出品、同22年第3回展で特選を受けたのをはじめ、第5-7回展で連続特選となり、第5回展出品作「希望」は政府買上げとなった。同27年の第8回日展で初の審査員にあげられる。同33年社団法人日展会員となり、同37年評議員、同52年理事、同55年からは日展常務理事をつとめる。この間、同39年第7回日展出品作「大気」で文部大臣賞、同45年改組第1回日展出品作「穹」で日本芸術院賞を受賞し、同55年に日本芸術院会員となる。日本彫塑会(同47年理事)にも所属し、同51年から54年まで筑波大学教授をつとめた。
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没年月日:1984/09/24 元女子美術大学教授の洋画家高須靱子は、9月24日午後5時、老衰のため、東京都青梅市の青梅藤ケ丘病院で死去した。享年75。明治42(1909)年1月7日、鳥取市に生まれる。本名川澤雪枝。女子美術専門学校を卒業し、昭和4(1929)年に1930年協会展に出品。のち、独立美術協会に出品、同30年「花A」「花C」で独立賞を受賞、同34年、同会々員となる。また、同21年11月に設立された女流画家協会には、創立時から会員として参加し、のちに委員もつとめる。同23年までは、斎藤雪枝と称した。初期から花を描くことを好み、自由なタッチと豊かな色彩で装飾的な画面をつくりあげたが、同30年代後半から抽象的な傾向を示した。晩年は団体展への出品が少なくなり、同57年には独立美術協会会員を退いている。同30年より女子美術大学芸術学部で教鞭をとり、同46年より同49年まで同学部教授をつとめた。
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没年月日:1984/09/23 舞台美術家の手塚俊一は、9月23日午後6時14分、小脳血管芽シュのため、東京都新宿区の東京医科大病院で死去した。享年39。昭和19(1944)年10月15日東京都新宿区に生まれる。中央大学法学部在学中より舞台美術を志し、高田一郎に師事する。44年早稲田小劇場の研究生となり翌年入団、同年の「劇的なるものをめぐって2-白石加代子抄」では宙吊りにした古障子約50枚を可動させ日常と非日常を同一空間に交錯させた特異な装置を製作、「’70舞台美術フェスティバル」の銅賞を受賞する。49年早稲田小劇場を退団した後はフリーとして活動、転形劇場(「硝子のサーカス」)、演劇団(「邪宗門」)、斜光社時代を含む秘法零番館(「少年巨人」)、転位21(「漂流家族」)、黒色テント68/71(「与太浜パラダイス」)、不連続線、シェイクスピア・シアター、こんにゃく座など、現代の日本の演劇に重要な役割を果たす小劇場演劇を代表する秀作の舞台美術を手がけた。その数は最後の作となった秘法零番館出演「食卓秘法2、いただきまあす、別役実さん」まで50本以上に及ぶ。衣類や布団、トタン、電気器具などの古ぼけた最早廃棄物的な日用品を用い、一見演劇内容と無関係に見える装置で逆に舞台との緊張感と本質的な連繋を生む手法で注目を集めていた。
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没年月日:1984/09/20 慶応義塾大学文学部教授で美学者の木幡順三は、9月20日肝不全のため東京都新宿区の東京厚生年金病院で死去した。享年58。大正15年(1926)年6月29日大阪市に生まれ、大阪府立北野中学校、第三高等学校理科甲類を経て昭和23年東京大学文学部哲学科に入学、美学を専攻し同26年卒業した。同29年から東洋大学で講じ、翌30年同大専任講師、同32年同助教授となり同41年教授に昇任した。同51年慶応義塾大学文学部教授に転じ美学美術史学科で教鞭をとる。この間、同43年に東京大学文学部で講じたのをはじめ、東京芸術大学、東北大学、大阪大学、成城大学、学習院大学等の非常勤講師をつとめた。また、学会にあっては同44年以来美学会委員をつとめ、美学会の運営に尽力した功績は大きい。慶応大学在職中の死去であった。主要著作に『美と芸術の論理』(同55年、勁草書房)、『美意識の現象学』(同59年、慶応通信)等がある他、没後『求道芸術』(同60年、春秋社)、『美意識論-付作品の解釈』(同61年、東大出版会)が刊行された。
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没年月日:1984/09/12 春陽会会員の洋画家角南松生は、9月12日脳こうそくのため東京都新宿区の駒ケ峰病院で死去した。享年92。本名松三郎。明治24(1891)年12月1日岡山市に生まれる。昭和8年から春陽会洋画研究所で学び、木村荘八、中川一政の指導を受けた。春陽会へは第10回展から出品し、同15年第20回展に「花」で春陽会賞を受賞、翌年春陽会会友、同22年春陽会会員となる。戦前の新文展には第4回から出品、戦後も第1回日展に出品したが翌22年には日展を離れた。同27、35、38、52年の4回にわり欧米を巡遊する。作品に「福沢諭吉像」(現慶応志木高蔵)などがある。また、村武らと浅草で天洋画会を設け、活動写真時代の映画館宣伝の草分けとして活躍したことでも知られる。
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没年月日:1984/08/18 元明治大学教授で日本芸術院賞、日本建築学会賞などを受賞した建築家堀口捨己は1984年8月18日に享年89で死去していたことが、平成7年1月28日に行われた「生誕100年記念シンポジウム」で報告された。本人の意志と家族の意向により死去は11年間公表されず、シンポジウムを機会に弁護士が戸籍を調べて明らかになった。茶室の研究と設計で知られた堀口は明治28(1895)年、1月6日に岐阜県本巣郡席田村上ノ保に生まれた。岐阜中学校、第六高等学校を経て、東京帝国大学工学部建築科を卒業した。大正8(1919)年9月に中国を訪れる。同9年、西欧の新しい建築運動を学んで同志とともに「分離派建築会」を結成。同12年渡欧し、フランス、オランダ、イギリス、ドイツ、オーストリア、チェコ、ハンガリーなどを訪れ、イタリアに同13年まで滞在した。帰国後は日本の伝統建築の研究に向かい、書院造り、数寄屋建築、茶室などを対象に調査し論考を行い、また名古屋市の旅館、「八勝館、御幸の間」を同25年に設計するなど、設計、建築にも当たった。同年6年より同8年まで帝国美術学校教授、同年16年より同21年まで東京女子高等師範学校講師をつとめ、同31年に明治大学工学部建築科教授となったほか東京大学工学部講師として教鞭を執った。日本建築学会のほか関連団体に多数参加し、日本茶道文化研究会理事、日本庭園協会理事、日本陶磁協会理事、文化財保護委員会専門委員などをつとめた。歌人として皇居歌会始めの召人をつとめたこともあり、文筆にも優れ、同24年『利休の茶室』で北村透谷文学賞、同28年『桂離宮』で毎日出版文化賞を受賞した。他の主要な著書に『現代オランダ建築』『住宅ト庭園』『利休の茶』などがあり、建築の代表作には大島測候所、サンパウロ日本館などがある。
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没年月日:1984/08/14 独立美術協会創立会員で、洋画界の長老であった小島善太郎は、7月14日より帯状ヘルペスで入院、治療中であったが、8月14日午前10時5分、心不全のため東京都日野市の花輪病院で死去した。享年91。明治25(1892)年11月16日、東京新宿区に生まれる。同43年、陸軍大将中村覚の書生となり、同年より太平洋画会、日本美術院、葵橋洋画研究所などで学ぶ。安井曽太郎に師事。大正7(1918)年第5回二科展に「冬枯の堀」で初入選し、以後同会に出品を続ける。一方、同9年、東京都主催巽画会に「やわらかき光」を出品して受賞、翌10年大正博覧会には「四ツ谷見附」を出品して受賞する。同11年、野村徳七の後援を得て渡欧、フランス、イタリアを巡歴し、パリのグラン・ショーミエールでシャルル・ゲランに師事、同12年のサロン・ドートンヌに入選する。同14年帰国し、翌年新宿の紀伊國屋で帰国展を開催するとともに、留学時代の友人であった前田寛治、木下孝則、里見勝蔵と一九三〇年協会を創立。フランス絵画の影響の強かった当時の洋画界に、新帰朝者として指針を示した。昭和2年「林中小春日」で二科賞を受賞。同3年日本美術学校教授となる。同5年、同志12名と独立美術協会を創立し、二科会を退く。セザンヌを尊敬し、自然との親和をめざした精神性の高い制作態度を貫いて、独自の堅実な画境を築いた。戦後も独立美術協会に出品を続けるとともに、画廊、百貨店で個展を開催。同27年明星学苑理事、同42年東京純心学園短大教授となり教育にも尽くした。東京青梅の自然を愛し、同市との縁が深く、同59年10月1日には同市立小島善太郎美術館が開館することとなっていた。 二科展出品歴 5回(大正7年)「冬枯の堀」、6回7回出品せず、8回(同10年)「ダリア」「四谷のトンネル」、9回「頽庭」「無題」、10回「エチュード」、11回出品せず、12回「エスタークの風景」「巴里近郊」「ネラバレの風景」「マルセイユの近郊」、13回(同15年)「郊外秋景」「青きフォートイユによりて」「秋晴」「巴里ヴアンセンヌの池畔」「クラマール風景」、14回(昭和2年)「林中小春日」「編物」「雑林秋色」「曇日」、15回「初夏の縁」「奈良郊外」「冬日」、16回「梅林」「花」「諏訪湖遠望」「風景」「諏訪湖風景」「舞子」、17回(同5年)「裸女ポーズ」「菜の花」「相州吉濱村」「蜜柑畑」「吉濱村遠望」 独立展出品歴 1回(昭和6年)「嵐山の秋」「雪景」、2回「笛と老人」「花」「嵐山」「駅路の春」「ヴァィオリン弾く男」「秋」「椿」「静物」「嵐峡」、3回「秋の妙義山」「妙義嶽秋景」「石門」「秋山」「秋」「山上の丘」「岩山」、4回「秋晴」「奈良土塀」「秋の景」「雲丘」「雪山」「風景」「春日山」、5回(同10年)「巌壁」「激流」「溪谷」「島」「静流」「溪流」、6回「梅の丘」「南国梅日」「早春麗日」、7回「南国の小春日」「激流」、8回「武蔵野の秋」「村のこども」「多摩川風景」「母子」「村のナポレオン」「庭」、9回「柿ナル里も」、10回(同15年)「妙義山石門」、11回「冬木立」「春庭」「麦踏み」「田園小春」「K夫人像」、12回「風景」「松島」「春帽」、15回(同20年)「静物」「田園早春」「田園早春」、16回「編物」「村の春」「あざみ」「荒地の秋」「秋の湖畔」、18回「椿」「つつぢ」、20回(同27年)「桃」「髪」「松」、21回「仕度」「猫」「静物」、22回「桃」「麦踏み」、23回(同30年)「静物」「狩野川風景」、24回「ざくろ」「静物」、25回「カンナ」、26回「孔雀(壁画の一部)」「ダリヤ(李朝の壷)」「ダリヤ(黒い壷)」、27回「南伊豆風景(B)」、28回(同35年)「早春の長崎港」「長崎の港夕景」「長崎教会堂の一角」、29回「武蔵野の雑木林」「桃」、31回「林中のつどい」、32回「桃」「ダリヤ」、33回(同40年)「いこい」「春庭」、34回「多摩の秋景」「裸女」、35回「早春の庭」「桃」、36回「春庭雨後」「桃」、37回「多摩の秋景」「桃」、38回(同45年)「書見」、39回「桃」「人形」、40回「桃(A)」「桃(B)」、41回「春」「高見」、43回(同50年)「裸婦立像」「裸女背向」、44回「梅びより」「北信濃の桃十二個」、45回「早春暖日」「桃」、46回「女体座像」「志賀高原笠嶽」、47回「夏山白根山上の焼山」「桃源勝沼春景」、48回(同55年)「桃」「甲州桃源」「勝沼街道春景」、49回「桃」「猫」、50回「裸女と孔雀」「ポーズする裸女」、51回「奥多摩秋景」
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没年月日:1984/08/12 童画家で日本童画家協会理事をつとめた黒崎義介は、8月12日脳こうそくのため神奈川県藤沢市の藤沢市民病院で死去した。享年79。明治38(1905)年3月25日長崎県平戸市に生まれる。長崎県立平戸中学猶興館を中退し大正15年上京、川端画学校に学び翌昭和2年から童話の挿絵を描く。同6年小茂田青樹に師事し同18年からは安田靫彦の指導を受け院展に出品(同23年「宝生寺」他)し院友となるが、同28年院友を辞し新興美術院会員となる。同34年日本著作権協議会理事となり、同36年にはユネスコ派遣で著作権の調査のため欧米13ケ国を訪問する。同35年新興美術院を退会し、翌年新世美術会を結成、同38年には現代美術家協会に会員として加わり、「赤壁の賦」(同41年)などを出品する。この間、同23年には童画研究会を主宰し展覧会を開催し、のち日本童画家協会理事をつとめる。「キンダーブック」「チャイルドブック」「コドモノクニ」「ひかりのくに」などの絵本や児童読物の童画を60年余にわたって描き、多くの子供たちに親しまれた。同54年児童画界への功績で日本児童文芸家協会から児童文学賞を受賞。藤沢市社会教育委員、同文化財保護委員もながくつとめた。作品に『よしすけ昔噺童画集』『小人といも虫』『日本のこども』などがある。
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没年月日:1984/08/01 文化財建造物修理技術者、元奈良県文化財保存事務所主任技師の松本才治は、8月1日午後6時30分、肺しゅようのため京都府相楽の精華病院で死去した。享年86。明治31(1898)年3月10日、京都府相楽郡に生まれる。京都工業高校を中退後、大正11(1922)年、奈良県教育課社寺係古社寺修理技師となり、昭和12(1937)年法隆寺五重塔解体修理、同28年長谷寺五重塔新築にたずさわったほか、金峯山寺蔵王堂、文殊院白山堂、談山神社権殿、石上神宮拝殿、法隆寺夢殿、当麻寺本堂、長弓寺本堂、興福寺北円堂、岡寺仁王門などの修理、室生寺仁王門の新築等、多くの古社寺の修理、保存に尽力した。同40年黄綬褒賞、同43年勲五等瑞宝章を受章。
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没年月日:1984/07/02 文学博士、元東京芸術大学教授、元女子美術大学教授、東京国立文化財研究所名誉研究員で、東洋美術史研究、特に敦煌絵画の研究者として世界的に著名な松本栄一は、7月2日午後9時、心不全のため東京都杉並区の自宅で死去した。享年84。明治33(1900)年3月10日、台北市に生まれ、大正3(1914)年3月、広島県立第一中等学校を卒業。同年9月、第一高等学校に入学。同9年7月、同校第一部仏法科を卒業後、東京帝国大学文学部美学美術史学科に進み、同12年3月に卒業。翌13年9月から昭和3(1928)年3月までは東京帝国大学文学部副手となり、副手を退職後、同5月から翌4年6月まで、研究のためヨーロッパに渡り、ロンドン、パリ、ベルリン、レニングラードなどの美術館、図書館において、スタイン、ペリオ、ル・コックほか西欧の研究者が将来した中央アジアや敦煌の資料を調査した。帰国後の同年7月に美術研究所研究事務嘱託に、更に同年10月には東京帝室博物館建築設計調査委員会事務嘱託に転じた。翌5年4月からは東方文化学院東京研究所(外務省)の研究員となり、古代中央アジア美術の研究を進めた。その研究成果の一部は、同12年3月、『敦煌画の研究』として東方文化学院東京研究所から刊行された。同3月から講師を勤めていた東京帝国大学から、この著書によって同14年4月に文学博士の学位を受けた。同16年4月からは同大学文学部助教授となり、翌5月には、同書に対して日本学士院恩賜賞が授与された。同20年6月、同大学を退職。戦後は、同24年8月から美術研究所所長に就任し、同27年4月に美術研究所が東京文化財研究所と組織替えをしてからは同年10月まで美術部長を勤めた。その後、同31年に東京大学で、同33年には女子美術大学において講義を行なったが、翌34年4月からは、東京芸術大学美術学部教授となった。同42年3月に同大学を停年退官して後、翌4月からは再び女子美術大学教授に迎えられ、同59年3月まで東洋美術史を講じた。 研究領域は、東洋美術史の中でも仏教を中心にした宗教美術に重点が置かれているが、専門領域との関連のある日本美術に対しても広げられている。数多くの研究論文が発表されたが、著書は『敦煌画の研究・図像篇』(昭和12年)のみであった。緻密な研究によって培かわれた豊かな学殖は、作品解説、書評、随筆などの記述に横溢しているが、ここでは、これらの中から定期刊行物所載の研究論文のみを発表順に列記する。引路菩薩について(国華387、大正11年)敦煌千仏洞に於ける北魏式壁画 上・下(国華400、402、大正13年)于闐国王李聖天と莫高窟(国華410、大正14年)東京帝室博物館の扇面法華経(国華419、大正14年)敦煌出騎馬人物図に就いて(国華425、大正15年)法華経美術1~3(国華427、428、433、大正15年)水月観音図考(国華429、大正15年)東洋古美術に現はれたる日月星辰1~4(国華436、437、440、450、昭和2年、同3年)十二因縁絵巻に就いて(国華438、昭和2年)法隆寺金堂四天王と七星剱(国華441、昭和2年)乾隆帝とその画(国華445、昭和2年)宇佐八幡と豊州の石仏(国華446、昭和3年)荏柄天神縁起絵巻に就いて(国華448、昭和3年)西域仏画様式の完成と極東1~3(国華465、466、469、昭和4年)村山家聖徳太子図に就いて(国華467、昭和4年)東洋古美術に現はれた風神雷神(国華468、昭和4年)兜跋毘沙門天像の起源(国華471、昭和5年)三條家の駒競行幸絵巻に就いて(国華476、昭和5年)小泉家の阿弥陀如来及二天王像(国華478、昭和5年)特殊なる敦煌-童子護符-(国華482、昭和6年)特殊なる敦煌画-絵入り護符-(国華488、昭和6年)金剛峯寺枕本尊説(国華489、昭和6年)特殊なる敦煌画-景教人物図 上・下-(国華493、496、昭和6年)和闐地方の仏画に見る特殊性とその流伝(東方学報・東京2、昭和6年)唐代童画の一例(考古学雑誌22-5、昭和7年)法隆寺金堂壁画と西域の壁画(夢殿論誌6、昭和7年)観経変相外縁の研究 上・下(国華502、503、昭和7年)被帽地蔵菩薩の分布(東方学報・東京3、昭和7年)和闐壁画の一断片に就いて(国華507、昭和8年)敦煌出開元年代画に就いて(国華511、昭和8年)地蔵十王図と引路菩薩(国華515、昭和8年)敦煌地方に流行せし牢度叉闘聖変相(仏教美術19、昭和8年)未生怨因縁図相と観経変(東方学報・東京4、昭和8年)薬師浄土変相の研究 上・中・下(国華523、524、526、昭和9年)雀離浮図雙身仏に因む摹倣像の伝播 上・下(国華531、532、昭和10年)誌公変相考(国華537、昭和10年)隨求尊位曼荼羅考(国華539、昭和10年)敦煌本唐訳白傘蓋陀羅尼経(東方学報・東京6、昭和10年)陽炎、摩利支天の実例(国華547、昭和11年)西域華厳経美術の東漸 上・中・下(国華548、549、551、昭和11年)唐代浄土変相の西漸(国華555、昭和12年)庫車壁画に於ける阿闍世王故事(国華566、昭和13年)景教「尊経」の形式に就いて(東方学報・東京8、昭和13年)敦煌出唐代花鳥幡(考古学雑誌28-1、昭和13年)呉道子と著色(国華582、昭和14年)支那浄土変相の発生(支那仏教史学3-3・4合併号、昭和14年)玄奘三蔵行脚図考 上・下(国華590、591、昭和15年)正倉院山水図の研究1~8(国華596、597、598、602、604、605、606、608、昭和15年、同16年)達長老私考(東方学報・東京11-1、昭和15年)壁画に於ける盛上げ描法(東方学報・東京11-3、昭和15年)牢度叉闘聖変相の一断片(建築史2-5、昭和15年)称名寺宝篋印陀羅尼輪壇(考古学雑誌31-4、昭和16年)Wall-Paintings of Horyuji Temple(Bulletin of Eastern Art 13・14合併号、1941年)印度山嶽表現法の東漸(国華618、昭和17年)仏影窟考(国華620、昭和17年)敦煌本十王経図巻雑考(国華621、昭和17年)西大寺四王堂の諸尊(国華632、昭和18年)西域式仏像仏画と東方の工人(国華638、昭和19年)法隆寺壁画の山中羅漢図(国華640、昭和19年)絵因果経私考 上・下(国華648、649、昭和19年)「かた」による造像(美術研究156、昭和25年)高麗時代の五百羅漢図(美術研究175、昭和29年)敦煌壁画釈迦説法図断片(美術研究181、昭和30年)敦煌本白沢精怪図巻(国華770、昭和31年)五代同光二年石仏(国華773、昭和31年)敦煌本瑞応図巻(美術研究184、昭和31年)敦煌画拾遺1・2(仏教芸術28、29、昭和31年)東京国立博物館蔵菩薩立像(国華800、昭和33年)Caractere concordant de l’Evolution de la Peinture de Fleures et d’Oiseaux et du Development de la Peinture Monochrome sur les T’ang et les Sung(Art Asiatique 5,1958年)初期小金銅仏の新資料(大和文華37、昭和37年)なお、以上の論文一覧には、国華419~476号の中の数号について、「松本二千里」あるいは「二千里」の執筆者を用いている論文も加えてある。
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没年月日:1984/06/30 漆塗りの髹漆の第一人者で人間国宝の赤地友哉は、6月30日午後6時30分心筋こうそくのため、横浜市の自宅で死去した。享年78。明治39(1906)年1月24日石川県金沢市に桧物師赤地多三郎の三男として生まれ、本名外次。大正11(1922)年金沢市の塗師新保幸次郎に師事、5年余りの修業の後、髹漆を始める。髹漆は、漆芸において蒔絵、螺鈿による加飾法を除く各種の下地、上塗りに関する漆塗りの基本的な技法の総称である。この頃遠州流の吉田一理に茶道を学ぶ。昭和3(1928)年上京し日本橋の塗師渡辺喜三郎に入門、また遠州流家元小堀宗明に茶道も学び、同流に因み友哉と称す。5年独立し、京橋や日本橋で茶器などの制作につとめるかたわら、6ケ月間蒔絵師植松包美のもとで徳川本源氏物語絵巻を収める箪司の髹漆に従事し、蒔絵についても多くを得た。またこの頃東京漆芸会に入会、以後同展に出品していたが、18年徴用され三井化学目黒研究所に勤務、戦後21年より大平通商株式会社に勤務し三井漆を研究する。28年再び制作に専念し、31年日本伝統工芸展に「胡桃足膳」を初出品、34年同第6回展「朱輪花盆」、35回第7回展「曲輪造彩漆盛器」が共に奨励賞、36年第8回展「曲輪造彩漆鉢」が日本工芸会総裁賞を受賞した。41年第13回展出品作「曲輪造平棗」は翌年芸術選奨文部大臣賞を受賞、同42年社団法人日本工芸会の常任理事に就任した。曲輪はヒノキ、アテ、スギなどの柾目の薄板を曲げて円形や楕円形の容器を作る木工技術で、36年の「曲輪造彩漆鉢」は幅の狭い板を曲げて作った輪を数多く積み重ね鉢形に組み上げたものである。この曲輪により多彩なフォルムを作り出すと共に、曲輪をまとめて塗り固める捲胎という新手法も編み出し、38年第10回日本伝統工芸展に「捲胎黄漆盆」を出品している。49年重要無形文化財(人間国宝)「髹漆」の保持者に認定され、50年より石川県立輪島漆芸技術研修所に髹漆科開設に伴い同講師、また日本文化財漆活会副会長をつとめた。52年NHK番組「精魂」で制作過程を収録する。47年紫綬褒章、53年勲四等旭日章を受章する。
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没年月日:1984/06/09 東洋古美術品のコレクションで知られる大阪府の和泉市久保惣記念美術館の名誉館長久保惣太郎は、6月9日午前6時10分頃、大阪府和泉市の自宅で縊死しているのを家人に発見された。享年57。7年前より脳血栓により入退院を繰り返していた。大正15(1926)年8月26日和泉市に生まれ本名英夫。昭和19年、織物の特産地大阪・泉州で織物業を営んできた老舗久保惣株式会社の三代目として取締役社長に就任する。久保惣は明治17年初代久保惣太郎(文久3~昭和3)が創業した地場繊維業のトップクラスで、初代の蒐集になる富岡鉄斎の泉州滞在期の三幅が久保惣コレクションの嚆矢であった。その後、茶を好んだ二代目(明治23~昭和19)と三代目を中心に昭和初期から戦後にかけて意欲的な蒐集を行ない、国宝2点、重要文化財28点を含む絵画、書跡、陶磁、金工、漆工など約500点の東洋古美術品を蒐集した。会社は昭和53年政府の構造不況業種に対する転廃業指導に則り転廃業の止むなきに至ったが、52年8月郷土への感謝と文化振興のためコレクションを和泉市に寄贈、美術館用地と建物の寄贈も行ない、57年10月和泉市久保惣記念美術館が発足した。発足と同時に同美術館名誉館長に就任、没後60年11月和泉市名誉市民に推称された。
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没年月日:1984/06/05 春陽会会員の洋画家伊藤慶之助は、6月5日午前6時35分、心不全のため兵庫県川辺郡の生駒病院で死去した。享年86。明治30(1897)年6月14日大阪市東区に生まれる。大正3年赤松麟作に絵の手ほどきを受けた後、同6年上京、本郷洋画研究所で岡田三郎助に師事する。7年第5回二科展に「静物習作」が初入選し、春陽会にも13年第2回展に「机上諸果」が入選する。昭和4年フランスに留学、アカデミー・コラロッシ、アカデミー・グラン・ショミエールに学び、サロン・ドートンヌ、サロン・デ・ザンデパンダなどに出品する。この間ルーブル美術館でゴヤ「扇子を持つ女」、アングル「オダリスク」、ワトー「ジール」などを模写する。7年帰国し、同年の第10回春陽展に「室内読書」「巴里郊外の家」など滞欧作8点を出品、翌8年会友、14年会員に推挙された。同14年より19年まで毎年春から秋までの半年間を北支で過ごし研究を進める。戦後も春陽会に連年出品を続けると共に大手前女子大学で教授をつとめる(46年まで)。42年ギリシヤ、44年クレタ、エジプトを旅行、また東京、大阪のフジカワ画廊で個展を数回開催している。36年第1回西宮市民文化賞、43年兵庫県文化賞を受賞、100余点の作品を西宮市大谷記念美術館に寄贈した。
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没年月日:1984/06/03 木による抽象彫刻の草分け的存在であり、その代表的作家として活躍した植木茂は、6月3日午前11時57分、前立せんガンのため大阪府吹田市の新千里病院で死去した。享年71。大正2年(1913)2月15日北海道札幌市に生まれる。札幌市立第一中学校を卒業。同郷出身の三岸好太郎に師事し、昭和7(1932)年第2回独立展に油絵「風景2」で初入選。以後、同10年自由美術家協会展の創立に参加するまで同展に出品を続ける。自由美術展には同24年第13回展まで出品。この間に彫刻に本格的に取り組むようになる。同25年モダンアート協会の創立に参加し会員となるが、同29年退会。以後無所属。戦中に合成樹脂を素材とした彫刻を試みるなど先駆的な活動を行ない、戦後は木による抽象彫刻、「作品」「トルソ」のシリーズを制作し、晩年は板、竹ひご、和紙などによるモービルや平面的アッサンブラージュを手がけた。木地と木目を生かし、穏やかなのみ跡を残し、有機的で柔らかいフォルムを持つ独自の作風を築いた。サンパウロ・ビエンナーレ(昭和30年)、ベネツィア・ビエンナーレ(同31年)など国際展にも出品、同45年日本での大阪万博の際はサントリー館のデザインを担当。「現代彫刻の5人展」(同51年、兵庫県立近代美術館)、「近代日本美術の歩み展」(同54年、東京都美術館)、「現代の彫刻展」(同59年、山口県立美術館)など多くの彫刻展に出品している。また、九州産業大学教授として教鞭をとった。
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没年月日:1984/06/01 日本画家橘天敬は、6月1日午前零時30分胃ガンのため神奈川県小田原市の山近病院で死去した。享年76。本名中山義文。明治40(1907)年福岡県飯塚市に生まれる。大正11年上京し、昭和8年より翌年にかけてインド、ヨーロッパ等を巡遊する。その後11年に結成された新構造社の会員となり、「降魔」(12年)「歓喜」(13年)などの作品を発表、この頃は園部香峰と称している。15年川口春波と共に大政翼賛と日本美術の海外進出を掲げ日東美術院を結成、これを主宰し、16年の第1回展に「立正安国」を出品する。戦後静岡県白糸に松影塾を開き25年橘天敬と改号する。横山大観に私淑し、障屏画の大作を中心に制作、「富岳雲海之図」(27年)「唐獅子の図」「牡丹の図」(共に36年)「風神雷神図」(37年)「春琴の譜」「和楽之図」(共に45年)「不動明王図」など豪放な作風の作品、幻想的な「牡丹の図」(36年)「四方の海」(45年)、清雅な「清流・鱒之図」(35年)など、画壇を離れ極めて個性的な作品の制作を続けた。また「清生楽々天地之間」(45年、テキサス州、パンハンドル・プレンズ歴史博物館蔵)「風神雷神図」(ワシントン、フリア美術館蔵)など海外に所蔵される作品も少なくない。40年明治神宮参集殿、45年東京美術倶楽部で個展を開催、外国での個展も行なっている。
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没年月日:1984/05/25 「真多呂人形」の名で親しまれた木目込人形作家金林真多呂は、急性肺炎のため5月25日午前6時52分、東京都文京区の順天堂医院で死去した。享年87。本名金林真多郎。明治30(1897)年5月4日東京下谷に生まれる。明治から昭和初期にかけて木目込人形の第一人者と言われた初代名川春山や義父吉野喜代治らに師事し、その技法を学ぶ。木目込人形は、柳の木彫地をそのまま生かした小さな人形で、縮緬や金襴などの着衣の裂を木の表へ直接貼りつけ、裂端を素地にあらかじめつけておいた筋に押し込む(きめ込む)ことからこの名がある。創制者が元文年間京都加茂神社の雑掌をしていた高橋忠重という人物と伝えられることや、その孫で文化年間頃人形界を風靡した大八郎という名手がいたことなどから、加茂人形、大八人形などともよばれる。戦前・戦後と研究を続け、歴史に題材を求めた多くの人形を制作、殊に平安時代の華麗な貴族の風俗を現代的感覚で捉えた作品を特色とし、「真多呂人形」の名を生んだ。また自ら真多呂人形学院をつくり後進の指導にあたったほか、東京都雛人形工業協同組合理事長をつとめた。主要作品に「競馬」(京都上賀茂神社)「明治雛」(京都国立博物館)「川中島の合戦」(上杉神社)「江戸の祭(神田祭)」(台東区立下町風俗資料館)などがある。
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没年月日:1984/05/07 国画会会員の洋画家水野英夫は、5月7日午前1時2分、胃ガンのため神奈川県平塚市の永瀬病院で死亡した。享年64。大正8(1919)年7月26日、福岡県粕谷郡に生まれる。昭和12(1937)年名古屋高等商業学校を卒業。彫刻家小倉右一郎の研究所で彫塑を学び、同15年第27回二科展彫刻部に「習作首」で初入選、翌年も同部に「習作」を出品。戦後は、同22年より38年まで小学校教員をつとめるとともに、同22年第11回新制作協会彫刻部に「腕のあるトルソ」を出品。同25年以降国画会絵画部に出品する。同29年第28回国画展に「煙突」「風景」を出品して新人賞受賞、同32年同会会友、同36年同会会員となる。初期には風景を多く描いたが、次第に象徴的作品に転じ、モチーフを限り、簡明で力強い構図とマチエルの多様性をもつ画風を築いた。国展出品歴 第24回(昭和25年)「晩秋」、25回「風景」、26回「カンナと墓」、27回「風景」、28回「煙突」「風景」、29回「工場風景」、31回(同32年)「破壊」、32回「二つの心A」「扮装」、33回「パイロット」「騎手」、34回「やぶれかぶれ」「サーカスの朝」、35回(同36年)「地殻」「鹹湖」、36回「火山帯」「涸川」、37回「涸川」、38回「痕(燥)」、39回「跡(匍)1」「跡(匍)2」、40回(同41年)「跡(殖)」、41回「跡(匍)」、42回「盲(交流)」、43回「盲人日記」、44回「不動」、45回(同46年)「能『蝉丸』より」、46回「饒」、49回「祷」、50回(同51年)「虚空」、53回「風景A」、54回「アマリリス」、57回「アマリリス2」
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