圓鍔勝三

没年月日:2003/10/31
分野:, (彫)
読み:えんつばかつぞう

 多摩美術大学名誉教授で文化勲章受章者の彫刻家圓鍔勝三は、10月31日午後7時45分、うっ血性心不全のため川崎市中原区の病院で死去した。享年97。1905(明治38)年11月30日、広島県御調郡河内町(現、御調町)に生まれる。本名勝二(かつじ)。1921(大正10)年彫刻家を志して京都へ赴き、石割秀光の内弟子となって木彫を学ぶ。26年、京都市立商工専修学校彫刻科・デッサン科に入学。また、同年関西美術院に入り、この時期を通じて徒弟的教育による職人技としての木彫から近代的造形へと歩み始める。1928(昭和3)年上京し、日本美術学校に入学。30年第11回帝展に木彫「星陽」で初入選。翌年も第12回帝展に木彫「みのり」で入選する。32年日本美術学校を卒業し、木彫家澤田政廣に師事し始める。帝展改組後も官展に出品を続け、39年第3回新文展に木彫「初夏」を出品して特選を受賞、40年紀元2600年奉祝展に木彫「庭」を出品する。41年澤田政廣三木宗策の主導する正統木彫家協会に会員として参加し、その第1回展に「道化師」を出品する。43年北海道の炭鉱推進隊員として中村直人古賀忠雄木下繁らと激励彫刻を制作。この後45年まで九州、常盤の各炭鉱をまわって制作する。戦後は46年春の第1回日展に木彫「芸」を出品して官展に参加し、同年秋の第2回日展では木彫「砂浜」で特選を受賞。47年多摩美術学校(現、多摩美術大学)助教授となる。また、同年第3回日展に木彫「しろうさぎ」を招待出品して特選受賞。50年多摩美術短期大学教授となる。同年第6回日展に木彫「土器を持つ女」を出品して特選受賞。51年に設立された日本陶彫会に参加し75年まで出品を続ける。52年日本彫塑会会員となる。53年多摩美術大学教授となる。この頃からブロンズ像も制作し始め、同年第9回日展に出品した木彫「仲間」のブロンズ像を同年東京駅八重洲口に設置、翌年も第10回日展に出品した木彫「むつみ」のブロンズ像を東京駅八重洲口に設置する。55年第11回日展に木彫「古の話」、56年第12回日展に木彫と金属を組み合わせた「かがみ」を出品。57年第13回日展に木彫「幻想」を出品して川合玉堂賞を受賞する。58年第1回社団法人日展に木彫「仏法僧」を出品。同年社団法人日展会員となる。60年本名勝二から勝三と改名。同年第3回日展に「星羅」を出品する。62年東南アジア、中近東、欧米を巡遊。65年第8回日展に「旅情」を出品して文部大臣賞受賞、翌年この作品により日本芸術院賞を受賞。69年日展理事となり、翌年日本芸術院会員となる。75年堅山南風とともにタヒチへスケッチ旅行。78年第10回日展に木彫「夢 夢 夢」を出品し、同年東京池上本門寺の「仁王像」(木彫一対)を完成させる。80年日本彫塑会が日本彫刻会と改名し、その理事長となる。同年神奈川県文化賞受賞。81年日展顧問、82年文化功労者となる。85年「彫刻60年―圓鍔勝三展」を東京の日本橋三越および郷里の広島県立美術館で開催。88年文化勲章を受章。1990(平成2)年「文化勲章受章記念―圓鍔勝三彫刻展」を川崎市市民ミュージアムで開催。93年には伊勢神宮式年遷宮にあたり神宝「神馬」(木彫)を制作。また、同年故郷の広島県御調町に「圓鍔記念公園・記念館」が開館した。初期には木彫を中心に制作したが、戦後はブロンズ、石、テラゾー、陶磁、樹脂等多様な素材を用い、それらを混合した表現も行った。戦後の美術界で抽象表現を取り入れる作家が多い中で、初期から穏健な写実を基礎に簡略化した人体像をモティーフとし、具象彫刻による新たな造形を模索。「幻想」「星羅」「夢 夢 夢」などロマンティックな主題を表象する作風を示した。 著書に『わが人生』(時の美術社 1989年)、『続・わが人生』(時の美術社 1997年)がある。

出 典:『日本美術年鑑』平成16年版(304-305頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「圓鍔勝三」『日本美術年鑑』平成16年版(304-305頁)
例)「圓鍔勝三 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28280.html(閲覧日 2024-10-04)

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