小田襄

没年月日:2004/01/24
分野:, (彫)
読み:おだじょう

 国際的な金属造形家で多摩美術大学教授の小田襄は1月24日午前9時22分、急性胆のう炎のため東京都世田谷区の病院で死去した。享年67。金属素材による斬新な造形で知られた小田は、1936(昭和11)年6月3日、日展会員の彫刻家小田寛一を父に、東京都世田谷に生まれた。54年世田谷区立桜丘中学校を卒業し都立千歳高校に入学。父親が塑像家であったため、このころからすでに粘土や石膏での造形に親しむ。55年同校を卒業して56年東京芸術大学美術部彫刻科に入学。菊池一雄教室に入る。59年第23回新制作協会に「裸」で初入選。60年若林奮高松次郎らと20代作家集団を結成して作品展を開催し、鉄鋳物とブロンズの作品を出品する。この年、以前から興味を抱いていた木版、銅版、リトグラフ等の版画の制作を始める。版画制作は立体造形と並行して生涯続けられたが、初期の版画はドローイングを主とし、次第に幾何学的形象を持つ明快な色面を構成する作品へと移行した。同年東京芸術大学彫刻科を卒業。卒業制作「儀式」は少しずつ差異を持つ似たような形をならべて全体を構成する「儀式」シリーズの一点で、この頃小田は「数において個と群、あるいは単位が組織化されることで単独で作品が存在する事実に強く捉われていた」(小田襄「私的領域について」『季刊現代彫刻』10)という。この作品によってサロン・ド・プランタン賞を受賞。同年4月同学彫刻専攻科に入学。鉄や真鍮を溶接した作品を制作し始める。同年第24回新制作協会展に鉄による作品「柩車」を出品して新作家賞受賞。61年第25回新制作協会展に「儀式」を出品して前年に引き続き新作家賞受賞。62年東京芸術大学専攻科を卒業。同年第5回現代日本美術展に真鍮を溶接した作品「儀式」を出品。63年神田スルガ台画廊で初個展「閉ざされた金属」を開催。同年第1回全国野外彫刻コンクール展(宇部市野外彫刻美術館)に「儀式-XIV」を出品し、宇部市野外彫刻美術館賞を受賞。64年第6回現代日本美術展に鉄による大作「箱の人」を出品。同年7月渡欧。ユーゴスラヴィア、フォルマ・ビバ主催の国際彫刻シンポジウム金属部門に招待され、大小や縦横比の様々な方形の金属板で構成した「ラヴネの箱」を制作。この頃から国際的に注目され、同年9月の『ライフ』誌日本特集号に若手彫刻家として紹介される。イタリア、フランス、ドイツ、オランダ、スイス、エジプト、ギリシャなどを巡り、同年10月に帰国。65年第1回現代日本彫刻展(宇部市)にステンレスによる巨大なモビール「一週間」を出品し、宇部市野外彫刻美術館賞を受賞。この頃、鉄やステンレスに着色した抽象的彫刻を制作。66年ポーランド美術連盟の招待によりプアヴィ市における「芸術と科学のシンポジウム」に参加し、金属による「風の鏡」を制作して、優秀賞を受賞。67年3月イタリア政府留学生となり、渡欧準備を始め、8月に北欧に向けて渡航。コペンハーゲンなど北欧諸国の後、チェコスロヴァキア、ドイツを経て、ヴェニス、フィレンツェを巡って10月からローマに居住する。都市の構造に興味を抱き、イタリア各地を巡って写真を撮る。68年7月チェコスロヴァキアのホジツェで開かれた国際彫刻シンポジウムに招待参加し石による作品を制作する。8月、プラハで個展を開催するが8月20日に五カ国の侵入によりウィーンへ脱出する。同年12月帰国の途につき、ヨーロッパを巡遊して帰国する。68年第3回現代日本彫刻展(宇部市)にステンレスによる「計画」を出品して毎日新聞社賞を受賞。73年7月、再度渡欧し、フランス、ドイツ、北欧、スペイン、東欧を巡り、11月末に帰国する。この間に行われた第5回現代日本彫刻展に出品し、神戸須磨離宮公園賞を受賞した「円と方形」にあらわれるように、初期から行われていた単純な幾何学的形態による構成は、方形と円形を基本的構成要素とする制作へと展開した。74年第4回神戸須磨離宮公園現代彫刻展にステンレスによる「風景の領域」を出品し、神戸公園協会賞を受賞。75年第11回現代日本美術展に「円と方形-大地と天空の…」を出品し、佳作賞受賞。同年長野市野外彫刻賞を受賞する。77年第41回新制作展に「円柱と方形の要素」を出品。同年、この作品によって中原悌二郎賞優秀賞を受賞。79年代第1回ヘンリー・ムーア大賞展に「銀界…風景の時間」を出品して優秀賞受賞。80年第7回神戸須磨離宮公園現代彫刻展に「銀界…風景の対話」を出品して国立国際美術館賞を受賞。82年第8回神戸須磨離宮公園現代彫刻展に「銀界…風景の中の風景」を出品して朝日新聞社賞受賞。83年神奈川県立近代美術館で「小田襄展」を開催。84年現代日本彫刻展(神戸須磨離宮公園)で大賞受賞、88年ラヴェンナ国際彫刻ビエンナーレで金メダル受賞、1994(平成6)年ニュージーランド国立サージェントギャラリーにて個展、96年倉吉市博物館で個展を開催した。初期から続けられた版画制作においては、70年の第7回東京国際版画ビエンナーレ、72年の第8回同展、73、74年の現代日本の版画展に出品したほか、個展での発表を行った。83年より90年まで東北工業大学教授、90年より多摩美術大学彫刻科教授をつとめ後進の指導にあたった。また、64年より日本美術家連盟に入り、84年より委員、理事、常任理事等を歴任し、2000年からは連盟理事長をつとめ、美術家の職能と社会的位置の擁護のために尽力した。1960年代初期には幾何学的な形態を組み合わせる構成を様々な素材によって試みたが、1960年代後半から素材は金属に絞られるようになり、鏡面のような表面を用い、周囲の風景や光の変化によって表情を変える作品を制作した。量塊性や、立体としての自立性を求めてきた近代彫刻の流れに対し、作品に色彩や鏡面を導入して立体造型に新たな一面を開いた。

出 典:『日本美術年鑑』平成17年版(343-344頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「小田襄」『日本美術年鑑』平成17年版(343-344頁)
例)「小田襄 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28287.html(閲覧日 2024-03-30)

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