本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)





西澤笛畝

没年月日:1965/10/24

日本画家で人形研究と蒐集で知られる西澤笛畝は、10月24日胆のう炎のため板橋区の自宅で逝去した。享年76才。葬儀は27日谷中観智院で、「人形葬」が行われた。旧姓石川昂一、後西澤家を継ぐ。号比奈舎。明治22年1月東京浅草に生れ、荒木寛畝、同十畝に師事した。傍ら人形玩具の研究に志し、多くの蒐集、著書と共に終生つづけられた。昭和6年童宝美術院を創設し、また団欒社を起し、昭和11年には童宝文化研究所を設立し、所長として内外人形文化のため活躍した。作品は主として官展に出品し、大正4年9回文展で「八哥鳥の群れ」(対幅)が初入選以来殆ど毎年入選し、昭和9年第15回帝展では審査員となった。戦後日展への出品もみられるが、人形玩具文化での活躍が目立つ。昭和26年文化財保護委員会専門審議員となり、昭和34年には人形保存に寄与した功により紫授褒章となった。 主な著書に「雛百種」、「人形集成」、「日本画の描方」、「虫類百姿」、(いづれも芸草堂発行)、「日本郷土玩具事典」(岩崎美術社)等がある。

西本順

没年月日:1965/09/12

東京芸術大学教授西本順は、9月12日午前10時42分、新宿区の国立第1病院で胃かいようのため死去した。享年53才。明治45年(1912)2月5日、広島県に生れ、昭和5年広島県立広島第1中学校を卒業し、6年京城帝国大学に入学、11年京城大学法文学部哲学科美学専攻を卒業した。卒業論文「来迎芸術の研究」。11年4月京城大学助手を命ぜられ、法文学部美学研究室に勤務したが、12年兵役に入り、13年陸軍少尉に任官して中国の戦地で軍務に服した。15年戦地より帰還、召集解除、16年1月文部省教学局に勤務した。17年多賀工業専門学講師となったが、再び召集、19年解除となり多賀工専教授となる。戦後、21年東京美術学校教授、24年東京芸術大学助教授となり、美学、芸術学を講義した。38年教授となる。昭和31年「世界美術辞典」(河出書房)の美学関係項目を執筆、36年には玉川百科辞典「西洋美術」篇、美学事典(弘文堂)に執筆、主要論文に「現代造型の美学」(雑誌・理想・昭和39年3月現代芸術の美学特集号)がある。

伊賀勇高

没年月日:1965/09/08

二科会会員伊賀勇高は胃ガンのため9月8日逝去した享年49才。大正4年北海道の生れで、昭和14年日本美術学校洋画科の出身である。二科展に出品するとともに米国での作品展に力を入れ、37年には二科会会員に推挙された。略年譜昭和14年(1939) 新構造社第2回展出品。日本美術学校卒業。昭和25年 二科会新人十人展に選ばれる。二科会創立35周年記念受賞。米国サロン・ド・プランタン展出品。昭和27年 二科会商業美術賞。昭和28年 二科会会友推挙される。昭和32年 二科会42回展「死に切れぬジアー」昭和34~35年 ロスアンジェルスを振出しに米、カナダ、メキシコの主要都市で作品展を開く。昭和36年 二科会46回展で金賞をうける。昭和39年 二科会49回展「聖旨」「送還の曲」「天国の裁き」。昭和40年 9月8日没。昭和41年 10月28日東京新宿駅ビル6階ギャルリ・アルカンシエルで遺作展を開催。

土味川独甫

没年月日:1965/08/20

日本画家土味川独甫は、8月20日心臓病のため死去し、翌日杉並区の自宅で葬儀が行われた。享年48才。本名松井基夫。大正7年6月10日静岡県浜松市に生れ、県立浜松工業高校図案科を卒業、川端画学校、本郷絵画研究所等で油絵を学び、昭和20年日本作家協会会員となった。同年全日本画人連盟を創設し、委員長となり、また東京美術研究所を起し、その所長となった。昭和32年新象作家協会の創立委員となったが、その後無所属となり専ら個展によって作品を発表した。昭和39年には銀座画廊で画業30周年記念展を開き、写実からシュールレアリズムに至る新思潮と、日本画を結合した意欲的な実験は、注目され一般にも好評だった。代表作として「女人幻覚」(1947)、「赤松林」(1948)、「女」(1952)、「冬の庭」(1959)、「白夜」(1960)、「伊豆連作」(1962)、「古枯」(1964)等がある。

杉浦非水

没年月日:1965/08/18

光風会会員、多摩美術大学名誉教授の日本画家・図案家杉浦朝武(号・非水)は、8月19日午後7時30分、老衰のため藤沢市の自宅で死去した。享年89才。明治9年(1876)愛媛県松山市に生れ、松山中学在学中に絵画の手ほどきをうけ、明治30年上京して川端玉章に師事した。34年東京美術学校日本画科卒業。黒田清輝に私淑し、34年欧州旅行から帰国した黒田のもたらしたアール・ヌーヴォー様式に感動して図案研究を志す。大阪三和印刷所、東京三越、都新聞社などの意匠図案を担当し、劇場の緞帳図案、雑誌表紙、ポスターなどを作成する。45年には光風会の創立に参加、また図案研究団体を創立し、デザイン運動をおこすなど多彩な活躍をなした。美術教育にもたずさわる。工芸図案界の先覚者として長年の功績に対して昭和29年度日本芸術院恩賜賞をうけた。主要作品三越-みつこしタイムズ表紙、長岡座緞帳図案、緞帳図案孔雀の図(旧帝劇)、三越新築のためのゼセッション風の美人ポスター、蝶のダンスポスター(三越)、新宿三越落成ポスター、京城三越落成ポスター、銀座三越落成ポスター七人社出品作品-窓、デプレダシォン、人魚のポスター、裸婦の図、七面鳥、浅間四題光風会出品作品-図案風猫の絵(宮内庁)、群鶏屏風、ペリカン屏風、浅間高原、夕の清洲橋、七面鳥、あすは雨か(浅間山残雪風景)、鵜其の他-長良川鵜飼と納涼ポスター、地下鉄ポスター(五種)、勧業債券ポスター(五種)、明治・大正名作展覧会ポスター、産業組合ポスター(五種)、陸軍展ポスター専売局-響、パロマ、桃山、光、扶桑、日光のタバコ図案著書(大正3年以降)非水図案集 非水の図案 しぼりの図案 非水花鳥図案集 非水一般応用図案集 非水創作図案集 非水百花譜(全20輯) 実用図案資料大成(全8巻・渡辺素舟共著)略年譜明治9年(1876) 5月15日愛媛県松山市に生れる。明治29年 松山中学校卒業、在学中に四条派の画家松浦巌暉に師事。明治30年 5月上京、川端玉章に師事、天真画塾に入り黒田清輝に洋画を学ぶ。9月東京美術学校日本画撰科に入学。明治33年 東京外国語学校仏語別科に入学。明治34年 東京美術学校卒業。明治34年 東京外国語学校修了。5月帰国した黒田清輝のもたらしたアール・ヌーヴォー様式に感激し図案研究を志す。明治35年 黒田清輝の推薦により大阪三和印刷所図案部主任に就職。11月大阪商船株式会社嘱託。明治36年 三和印刷所解散のため退職。大阪開催の第5回内国勧業博に出品。明治37年 4月島根県第二中学校教諭として浜田に赴任。明治38年 11月島根県第二中学校教諭辞職、上京。明治39年 11月都新聞社に入社。意匠図案を担当。明治41年 東京三越の招聘により図案部嘱託として入社、中央新聞を兼任(43年まで)明治43年 三越図案部主任となる。明治45年 3月日比谷図書館主催にて自作の書籍装幀・雑誌表紙図案展覧会を開催。6月中沢弘光、山本森之助ら6名と光風会を創立する。大正2年 国民美術協会創立、絵画部・装幀美術部・学芸部会員となる。大正10年 日本美術学校図案科講師となる。カルピス株式会社美術顧問となる。大正11年 11月図案及び絵画研究のため欧州に遊学、パリを根拠地としてドイツ、イタリア、オランダ各国を巡遊する。大正13年 帰国・図案研究の団体七人社を創立・主宰する。大正15年 七人社創作図案第1回展を三越において開催、その後毎年開催、10回に及ぶ。雑誌「アフィッシュ」を発行しデザイン運動をおこす。昭和4年 帝国美術学校創立され工芸図案科長に就任する。昭和9年 三越嘱託を辞職する。昭和10年 帝国美術学校を退職。多摩帝国美術学校を創立、校長兼図案科主任教授となる。昭和13年 専売局図案嘱託となる。昭和19年 太平洋戦争のため軽井沢に疎開する。昭和24年 疎開地帰京。昭和25年 多摩美術短期大学理事長図案科主任教授となる。東京都広告物審議会委員に任命される。昭和26年 文部省社会教育局通信教育審議会委員を嘱託される。昭和28年 多摩美術大学理事長兼図案科主任教授となる。昭和30年 芸術院恩賜賞(29年度)を授賞。昭和33年 紫緩褒章をうける。昭和35年 夫人翠子死去。昭和40年 勲四等旭日小緩賞を叙勲。昭和40年 5月米寿記念杉浦非水日本画展を日本橋三越で開催する。8月18日死去。

栗山文次郎

没年月日:1965/06/26

紫根・茜染め伝承者、無形文化財(人間国宝)指定の栗山文次郎は、6月27日午後11時40分、秋田県鹿角郡の自宅において脳軟化症のため死去した。享年77才。明治20年10月17日秋田県花輪に生れる。栗山家は、曽祖父は盛岡藩士であったが、その一族の中から秋田屋という店舗を開き、永く紫根染を家業のひとつとしてきたのであるが明治維新期に一時休止のやむなきにいたっていた。明治36年11月1日、父の先代文次郎の死により家業の呉服商を継いだが、古来の名産の杜絶えるのを憂い、古代紫根染(かづのむらさき)の復興に着手して工場を再建、染色事業を開始した。大正年間には東京三越に多量出陳して好評を博したが、化学染料の進歩によって大正13年倒産、以後事業を縮少し、また郷土の後援で小規模に製作を維持してきた。昭和4年、伊勢神宮遷宮式にあたり御用染物の命をうけた。昭和19年、商工大臣より「技術保存資格者」の指定をうける。昭和28年文化財保護委員会より、「助成の措置を講ずべき無形文化財」の指定をうけた。昭和35年文化財保護委員会より表彰を受け、39年10月黄綬褒章をうけた。

杉栄三郎

没年月日:1965/06/08

東京国立博物館評議員、元帝室博物館総長法学博士杉栄三郎は6月8日文京区の山川病院で死去した。享年92才であった。略年譜明治6年(1873) 1月4日岡山県に生れる。明治33年 7月東京帝国大学法科大学政治科卒業。12月会計検査院検査官補となる。明治35年 清国政府の招聘により同国京師大学堂に赴任。45年満期歸国。大正2年 会計検査院検査官。大正7年 宮内省書記官、帝室制度審議会幹事。大正8年 10月宮内省参事官を兼任。12月法規整理委員。大正9年 帝室林野管理局主事。大正11年 図書頭。大正13年 諸陵頭事務取扱。臨事御歴代史実考査委員会委員。諸陵頭兼任。昭和7年 9月帝室博物館総長。昭和9年 8月同館研究室銓衡委員。昭和14年 5月依願免官。宮中顧問官。昭和26年 9月国立博物館評議員会評議員。昭和34年 9月同会会長。昭和40年 6月7日没。この間法学博士号をうけ、勲一等瑞宝章を授けられ、また昭和18年には正三位となった

佐原修一郎

没年月日:1965/05/27

国画創作協会で活躍した日本画家佐原修一郎は、5月27日死去した。明治28年2月14日長野県東筑摩郡に生れ、大正13年京都市立絵画専門学校を卒業した。同年の第4回国画創作協会展へ「老婆の像」を出品し、樗牛賞を受け、翌14年第5回展「静物」で再び樗牛賞となった。大正15年同展に「風景」を出品して会友となり、翌昭和2年の同展では「秋庭」で国画賞となった。国展解散後は新樹社に参加し、また帝展へ出品した。「幽庭錦繍」(11回帝展)「信濃路の雪」(12回帝展)「桑つむ里」(13回帝展)「木葉刈」(14回帝展)などがある。戦中からは郷里長野に帰り後進の指導にあたっていた。

山喜多二郎太

没年月日:1965/05/24

日展評議員、光風会理事山喜多二郎太は、5月24日心筋こうそくの為逝去した。享年68才。明治30年1月5日福岡県直方市で生れた。大正4年東京美術学校に入り藤島教室に学んだ。7年には寺崎広業に師事。大正9年東京美術学校を卒業した。同年第2回帝展に「子供」が初入選となり、以後6.8.9.11.12.13回と出品入選をつづけている。光風会展にも大正時代から出品し、昭和4年第16回展で会友、昭和9年会員に推され昭和33年理事となった。官展系作家で、戦後は光風会の他日展に作品をおくり、晩年は日展評議員であった。昭和2年、中国に遊学しているが、洋画に水墨画の手法をとり入れた独特の画風で知られた。略年譜大正9年(1920) 第2回帝展「子供」。大正14年 第6回帝展「静物」。第12回光風会展「静物。昭和2年 第8回帝展「室の一隅」。昭和4年 第16回光風会展「観音」「室内の静物」。昭和7年 第13回帝展「画室にて」。昭和9年 第15回帝展「二人の女」(特選)。第21回光風会展「静物」。昭和10年 第二部会第1回展「写生」特選。昭和12年 第1回文展「庭にて」。昭和13年 第2回文展「むすめ」。昭和14年 第3回文展「キモノ少女」。戦後の21年、第1回日展以後の同展出品作を略記すると、25年(7回展)「林檎畑の丘」。26年(8回展)「アトリエ」依嘱出品。29年(11回展)「雨後」審査員をつとめる。30年(12回展)「漁港」依嘱作品。31年「13回展」「田を耕す」。尚、33年社団法人として発足後の「日展」には評議員となって1回展「描く人」、5回展「春が潜む」、6回展「伊勢の漁港」第7回展「燈台のある丘」などを発表している。

養父清直

没年月日:1965/05/20

新興美術院理事養父清直は茨城県に生れた。大正12年に吉村忠夫に師事大和絵を学び、その後日本画院、茨城県展、新興画院展などに出品、31年新興美術院理事となった。5月20日没。略年譜昭和4年(1929) 聖徳太子奉賛展「迎秋の図」。昭和5年 日本画会展「初秋」(以後連続八回入選、「夕」受賞)。昭和14年 日本画院第1回展「浅春」。昭和16年 日本画院第3回展「雪」奨励賞紀元2600年奉祝展「春日」。昭和26年 新興美術院再興第1回展「山」奨励賞、会友推挙。昭和27年 新興美術院再興第2回展「鶏頭之図」受賞。昭和28年 新興美術院再興第3回展「蓮」受賞、会員推挙。昭和29年 茨城県展「黄昏」受賞。昭和32年 茨城県展「船」県買上。昭和40年 5月28日から6月2日まで水戸市南町伊勢甚百貨店で遺作展を開いた。

島野三秋

没年月日:1965/05/17

漆工芸家島野三秋、本名新太郎は5月17日直腸ガンのため、大阪市の自宅で没した。享年88才。明治10年7月金沢市に生れ★漆を県立工業学校漆工科の鶴田和三郎に、蒔絵を松岡吉平に、また日本画を岸浪柳渓に学んだ。明治37年27才のとき大阪市へ移住、一時京都鳴滝に静養したこともある。なお21才の折シカゴ万国博覧会に出品受賞して以来、大正14年(1925)パリ万国博、ベルギー万国博、昭和14年(1939)ニューヨーク万国博などに出品各各受賞している。また大正4年以来、12年、昭和3年、4年、7年と大阪府及び大阪市よりの献上品を謹作、昭和9年には帝国美術院の推薦をうけ、16年文展審査員となり以来毎年無監査待遇となった。戦後は日展に出品し35年に日展出品依嘱者となった。作風は枯淡、清雅の中に斬新な力強さがあり、独得の青海波描の特技をもっていた。昭和37年四天王寺の香合が終生の力作となった。大阪漆芸界の長老として大阪工芸協会理事。関西展審査員などを歴任、斯道の発展に尽し、39年全国漆工団体より功労賞をうけている。

松島一郎

没年月日:1965/05/17

独立美術協会会員、横浜国立大学、建築科講師の洋画家松島一郎は、5月17日午前5時30分心臓マヒのために横浜市の自宅において死去した。享年62才。明治35年(1902)横浜市に生れる。大正6年慶應義塾商工学校に入学、9年に中退・里見勝蔵に師事し昭和2年1930協会第2回展に「角のパン屋」を出品、昭和3年には第15回二科展に「ガードと橋」を出品、翌4年第16回展に「水族館」「弘明寺裏」を出品した。独立美術協会が創設され、昭和6年第1回展から出品、翌年第2回展に「風景」他2点を出品してO氏奨励賞をうけ、8年第3回展では「人夫」「家族」他2点を出品、独立賞を受賞した。昭和10年に推薦となり、翌11年に会員に推挙され、以後、独立美術協会の中堅作家として活躍した。かたわら、昭和5年ころから横浜市桜木町駅前の石炭ビルの一室に研究所を設けて後進を指導、昭和20年には横浜美術協会(ハマ展)の創立に参加、横浜独立美術協会を設立、37年には神奈川県美術家協会の創立に参加、県展をはじめとして神奈川県下の美術界でも活躍した。なお、昭和29年以降は横浜国立大学建築科講師の職にあった。作品略年譜角のパン屋(昭和2年1930年協会第2回展)・ガードと橋(15回二科)、水族館・弘明寺裏(16回二科)、トスネル附近・白い工場の見える風景(1回独立)、風景・煉瓦を砕く男(2回独立)、人夫・家族(3回独立)、母子・風景(4回独立)、靴屋・豚屋(5回独立)、港・木々の眺め(6回独立)、椰子と貝(7回独立)、耕す牛(12回独立)、静物・富士(13回独立)、高千穂(14回独立)、臼ときね・鍛冶屋(21回独立)、コンポジション・海と崖(24回独立)、海(26回独立、神奈川県立近代美術館蔵)、室戸A・室戸B(27回独立)、扉・作品(32回独立)

松村政雄

没年月日:1965/05/17

奈良国立博物館美術室長松村政雄は5月17日、奈良市西浦病院で脳出血のため死去した。享年61才であった。京都絵画専門学校専攻科を卒業後、宮内省諸陵寮で模写事業にたずさわり、傍ら新文展に出品した。のち東京帝室博物館などで鑑査官補を勤め、昭和29年には奈良国立博物館鑑査委員、ついで資料室長、美術室長を歴任した。美術史学における研究の中心は垂迹美術であり、昭和37年4月、同博物館で開催された「神仏融合美術展」およびそれをまとめた大著「垂迹美術」はまさにライフワークの結晶であった。略年譜明治37年(1904) 1月3日福井市に生れる。大正12年 京都市立美術工芸学校卒。昭和2年 京都市立絵画専門学校専攻科卒。菊池契月に師事した。昭和3年 宮内省諸陵寮で古美術品の模写に従事。昭和11年 2月の第1回改組新帝展に「長雨のあと」が松村正雄として入選。昭和13年 東京帝室博物館に転任。昭和14年 第3回新文展に「牛」入選。昭和18年 4月帝室博物館鑑査官補に任ぜられる。昭和19年 10月奈良帝室博物館に転任。昭和20年 3月正倉院監理官補を兼任。昭和21年 4月帝室博物館出仕、正倉院監理署出仕を兼任。昭和22年 5月国立博物館奈良分館文部技官となる。昭和26年 2月同館学芸課長事務代理。昭和29年 同館は27年奈良国立博物館となり、この年8月同館陳列品鑑査委員に任ぜられる。昭和32年 5月同館資料室長。昭和36年 11月同館美術室長。昭和40年 5月没す。没後正六位勲五等瑞宝章を受けた。他に京都奈良文化財買取協議会協議員、奈良県文化財専門審議会専門委員、奈良市史編纂委員などを勤めた。主 著 論文春日宮曼荼羅(大和文華20号 昭和31年)新出の春日水谷社の衝立絵(同上26号 昭和33年)柿本宮曼荼羅図(同上32号 昭和35年)らくがき絵(同上35号 昭和36年)南倉和琴の所謂★★画について(書陵部記要7号 昭和31年)厨子扉絵天部2人物図(国華858号 昭和38年)春日大社、興福寺の絵画(春日大社興福寺 昭和36年近畿日本鉄道株式会社)垂迹美術(奈良国立博物館 昭和39年 角川書店)

布施信太郎

没年月日:1965/04/22

太平洋画会前代表、布施信太郎は4月22日肺ガンのため逝去した。享年65。布施信太郎は、明治32年4月30日仙台市に生れた。家は代々伊達藩に仕えた武士であったが、先祖に絵をよくする者があり、父、淡も洋画家であった。信太郎もまた、大正3年仙台東北学院を中退し洋画家を志して上京、斎藤与里に師事し翌年太平洋画会研究所に入って中村不折、満谷国四郎らに学んだ。大正13年第5回帝展に「恵まれし日」が初入選となり、更に昭和2年第7回帝展に「母子礼讃」、昭和3年第8回帝展に「残されし心」が入選している。また、太平洋画会展にも出品し、昭和3年同会会員となった。また戦時中まで太平洋美術学校の教授をつとめていた。日本壁画会、南洋美術協会を創立し、大東南宋院には第1回展から招待出品者として出品していたが、太平洋画会を主とし、いつも同展では最大の300号の作品を出品していた。戦後は同会の代表となり、会及び附属学校の再建に尽力していた。略年譜大正13年(1924) 第5回帝展「恵まれし日」(初入選)。大正15年 第7回帝展「母子礼讃」。昭和2年 第8回帝展「残されし心」。第23回太平洋画会展。昭和3年 第9回帝展「湖畔」。昭和4年 第10回帝展「逗子の海」。第25回太平洋画会展「秋」。昭和5年 第26回太平洋画会展「実る頃」。昭和7年 第28回太平洋画会展「泉」。昭和8年 第29回太平洋画会展「建国創業」。昭和9年 第15回帝展「日向」。昭和10年 南洋諸島へ1年余旅行。第30回太平洋画会展「心」。昭和12年 第33回太平洋画会展「コンポジション」。昭和13年 満州へ9ヶ月写生旅行。昭和14年 第35回太平洋画会展「試作」。昭和15年 紀元2600年奉祝展「南洋サイパン島」。第3回壁画会展「婚姻を祝す」「パンの実を焼く」。昭和16年 第37回太平洋画会展「平和」。昭和17年 第5回文展「南洋チャモロの家」。第6回日本壁画会展「山麓新春」。昭和27年 第48回太平洋画会展「新しい光を索めて」。昭和28年 太平洋画会代表となり会の再建に尽力する。昭和29年 第50回太平洋画会展「太平洋」。昭和30年 第51回太平洋画会展「南洋の思い出」。昭和32年 (太平洋画会を太平洋美術会と改称する)昭和33年 第54回太平洋美術会展「新緑の頃」。昭和34年 第55回太平洋美術会展「霧ヶ峰画詩」。昭和35年 第56回太平洋美術会展「信濃の山」。昭和36年 甲府写生旅行中、脳出血で倒れ1ヶ月入院、37年太平洋美術会代表を退く。昭和38年 第59回太平洋美術会展「春は小さな滝から」昭和39年 第60回太平洋美術会展「太平洋60年史」昭和40年 順天堂病院で逝去。

矢野橋村

没年月日:1965/04/17

日展評議員、日本南画院会長の日本画家矢野橋村(本名一智、別号知道人)は、4月17日午前8時30分、大阪府豊中市の自宅において脳出血のために死去した。享年74才。明治23年(1890)9月8日に生れ、小学校を卒業して南画家永松春洋塾に入る。大正年間に美術文芸研究を目的として直木三十五らと主潮社を起し、個展を主張して審査をうける展覧会への出品を中止したこともある。斎藤与里らと私立大阪美術学校を設立し、日本南画院の設立にも関与した。昭和34年、大阪市民文化賞をうけ、36年には第17回日本芸術院賞を受賞。39年日本南画院会長に就任した。著書に「浦上玉堂」「南画初歩」がある。略年譜明治23年(1890) 9月8日愛媛県越智郡に生れる。明治39年 南画家永松春洋の門に入る。大正3年 第8回文展に「湖山清暁」を出品褒章をうける。大正4年 第9回文展「雨後」出品。大正5年 第10回文展「雲辺浄刹」出品。大正6年 第11回文展「麓」出品。大正8年 直木三十五、福岡青嵐らと主潮社を起し、毎年東京、大阪で個展を開催する。大正10年 日本南画院の設立に関与し同人となる。第1回展「羅浮蓬仙」出品。大正11年 11月、大阪美術協会創立委員となる。第2回南画院展「秋峡・春晝」。大正12年 関東震災のため主潮社展中絶。大正13年 私立大阪美術学校を設立、校長となる(昭和21年閉鎖)、南画院展「十無」。大正14年 南画院展「天竜峡」(6曲1双)。大正15年 南画院展「間人樹芸」「郷国五題」。昭和2年 南画院展「童戯」「待賓留」「浜」。第8回帝展に「雪朝」出品、特選。昭和3年 南画院展「郊外即日」「一飲一啄」。第9回帝展「暮色蒼々」特選。昭和4年 南画院展「夕立」「秋庭」。第10回帝展「盪壑」。昭和5年 南画院展「三保展眸」、第11回帝展「追啄」審査員にあげられる。昭和6年 南画院展「頼山陽絵伝」「峡間猿声」。第12回帝展「大雅堂」。昭和7年 南画院展「筧水」第13回帝展「雪晴」。昭和8年 南画院展「春喧」、第14回帝展「借景画処」、審査員。昭和9年 南画院展「瑞竜」、第15回帝展「砂丘」。大阪府史跡名勝天然記念物調査委員を依嘱される。昭和10年 帝展改組に際し、「指定」に推される。南画院展「華晨」。昭和11年 南画院展「聊爾集」、新帝展「高野草創」、文展「秋与」(2曲1双)、日本南画院解散となる。昭和12年 第1回文展「暮色」審査員。墨人会を起し第1回展「乍雨乍晴」を出品。昭和13年 墨人会展「四季行楽」。昭和14年 乾坤社を創立、主宰し、第1回展「山紫水明」「乳」。第3回文展「山路」。昭和15年 乾坤社展「山岳道者」「初夏」、紀元二千六百年記念展「瑞雪」。昭和16年 乾坤社展「凉宵」、第4回文展「高遊外」。昭和17年 乾坤社展「鯉跳る」「瀞四景」、大阪日本画家報国会結成され、理事長に推される。昭和18年 乾坤社展「或る日の太乙」。昭和21年 第1回日展「朝顔の家」。大阪美術学校閉鎖。昭和23年 第4回日展「幽寂」。昭和24年 第5回日展「寒燈」・審査員。昭和25年 第6回日展「黎明」、関西綜合展審査員。塾展を再会するに当り主潮社の名称を復活する。大阪府芸術賞を受く。昭和26年 第7回日展「不動窟」、審査員。日月社顧問に推される。日月社展「返照」。昭和27年 第8回日展「面河峡」、日展参事、日月社展「北摂風景」関西綜合展「秋晴」。昭和28年 第9回日展「六甲山北面」、日月社展「浦風」。昭和29年 第10回日展「渓潤」、審査員、玉堂賞をうけ文部省買上げとなる。日月社展「雨霽」。昭和30年 第11回日展「旭映雪」・日月社展「雨後」、関西綜合展「豊秋」、主潮社展「瀑布」。昭和31年 第12回日展「箕面」、日月社展「朝色」、関西綜合展「渓潤」、主潮社「箕面」。昭和32年 第13回日展「潮騒」、関西綜合展「魚留」昭和33年 第13改日展改組に当り日展評議員となる。第1回展「旅僧」、日月社展「杉間」昭和34年 第2回日展「峠道」、日月社展「夏山」、関西綜合展「蛸」、主潮社展「夏山」「峠道」。大阪市民文化賞を受ける。昭和35年 第3回日展「錦楓」。主潮社10周年記念展「高山遠水」。日本南画院創立され副会長に就任する。昭和36年 「錦楓」に対し昭和35年度日本芸術院賞受賞。第4回日展「山脈」。昭和37年 第5回日展「山麓」、日本南画院展「晴雪」。昭和38年 第6回日展「牛市行」、日本南画院展「窓雪暁色」。昭和39年 第7回日展「夕照帰急」、日本南画院展「野馬」。日本南画院会長に就任する。昭和40年 日本南画院展「百丈野狐」「青山臨水」、4月17日死去。同日附、従五位勲四等瑞宝賞を授与される。第8回日展に遺作「百丈野狐」出品される。

板倉賛治

没年月日:1965/04/04

板倉賛治は明治10年1月愛知県碧南市に生れた。東京高等師範学校に入学、図画教育として水彩画を学び41年に卒業、直ちに同校助教授に任ぜられた。大正2年日本水彩画会創立会員に推され、更に大正12年には帝展委員に推されたが、生涯を教育者として美術教育のためにつくし水彩画の指導、普及、或は図画手工芸教育に尽力し、図画教科書等の刊行も少くない。展覧会出品画制作のため教育指導のおろそかになることを顧慮し、展覧会に出品することは殆どなかった。晩年は多年教育に尽した功績により幾度か表彰され、死去に際して宮内庁より銀杯をうけている。4月4日老衰のため東京都文京区の自宅で逝去した。享年89才。略年譜明治10年(1877) 愛知県碧海市に生れる。明治32年 愛知県第一師範学校卒業、同校教諭として勤務。明治37年 東京高等師範学校入学。明治41年 同校卒業、同校助教授となる(昭和3年教授)。大正2年 日本水彩画会創立会員に推挙。大正10年 第3回帝展に「静物」入選。大正12年 帝展委員に推挙。昭和6年 国定教科書小学図画編纂委員嘱託。昭和9年 中等教育検定委員会委員。昭和10年 東京高等師範学校評議員となる。図画教育指導の功績に対し全国図画教育大会長より表彰をうける。昭和11年 帝展無鑑査待遇をうける。昭和15年 教育に多年勤続し、功労顕著のため文部大臣より表彰をうける。昭和24年 日本水彩画会名誉会員推挙。」昭和25年 山田家政短期大学教授となる。昭和38年 米寿を記念して「米寿記念賛治画集」が同記念会から出版された(限定非売)昭和40年 4月4日 逝去 89才。5月永年美術教育に貢献したことに対し、宮内庁より銀杯を受ける。(著書) 中等図画教本(明治43年)、図画教育スケッチの実際(明治44年)板倉図案集(大正9年)など昭和にかけて、図案、図画教育に関する著書多く、また、昭和12年5月「板倉賛治画集」(学校美術協会)が出版されている。

中野和高

没年月日:1965/03/08

日展評議員、創元会会員の洋画家中野和高(号・和光)は、3月8日午後2時35分、尿毒症のために東京都渋谷区の都立広尾病院において死去した。享年68才。明治29年(1896)愛媛県大洲に生れ、大正3年宮城県立仙台第1中学校を卒業、同年上京して赤坂区溜池の葵橋洋画研究所に入所して黒田清輝の指導を受けた。大正5年東京美術学校西洋画科に入学、大正10年3月卒業し、研究科に入る。同年第3回帝展に「労働者像」を出品して入選した。大正12年、フランスに遊学してイタリア、スペインを歴遊し昭和2年秋帰国したが、その間に前田寛治、佐伯祐三との親交を深めた。帰国の年第8回帝展に「婦人座像」他1点を出品して特選となり、以降毎年官展に出品した。昭和3年第3回1930年協会展に滞欧作品拾数点を出品し会員に推挙された。昭和5年には帝展無鑑査、同7年以降は屡々審査員をつとめた。昭和15年12月、阿以田治修、大久保作次郎、安宅安五郎ら同志と創元会を創立、翌16年第1回展を開催、以後毎回出品した。昭和25年日展参事、同33年日展評議員となる。昭和32年には日展出品作「少女」により日本芸術院賞を受けた。また、日本美術家連盟委員、東京都美術館参与としても活躍した。なお、幼時に洗礼をうけ、昭和30年以降聖イエス教団に属したが、晩年は熱烈なキリスト教徒としての生活をおくった。略年譜明治29年(1896) 4月5日愛媛県大洲に生れる。大正3年 宮城県立仙台第1中学校卒業、上京して東京溜池の葵橋洋画研究所に入り黒田清輝の指導をうける。大正5年 東京美術学校西洋画科入学。大正10年 東京美術学校を卒業し、研究科に入る。第3回帝展に「労働者」を出品、入選。大正11年 第4回帝展に「友人の像」を出品。大正12年 渡欧する。昭和2年 帰国、第8回帝展に「婦人座像」「卓に寄れる婦人(青衣の女)」出品、特選となる。昭和3年 第3回1930年協会展に滞欧作品を出品し会員となる。第9回帝展に「風景を配せる我家族」を出品、特選となる。昭和4年 第10回帝展「聴音」特選。昭和5年 帝展無鑑査に推薦され第11回展に「無題」を出品。帝国美術学校教授となる。泉二新熊三女美智子と結婚する。昭和6年 第12回帝展「少憩」。昭和7年 帝展洋画部審査員に撰ばれる。第13回帝展「西洋風女立像」。昭和8年 第14回帝展「祖父と子供」。昭和9年 第15回帝展「於二階」。昭和10年 二部会審査員、「M氏像」。昭和11年 新帝展「水辺」、審査員。昭和12年 第1回文展「ひととき」審査員。昭和13年 第2回文展「運動場における像」。昭和14年 第3回文展「像」、審査員。昭和15年 紀元二千六百年記念展「帰還帰農」。12月同志と創元会を創立する。昭和16年 1回創元会展「海の幸」「水と人」。第4回文展「二人」。昭和17年 2回創元展「少女」、第5回文展「少女像」、審査員。昭和18年 台湾総督府美術展審査員、「海」総督府買上げ、3回創元展「少女像」、第6回文展「ざくろ」。昭和19年 4回創元展「北条時宗像」。昭和21年 第1回日展「幾哉さん夫妻」審査員。第2回日展「夕映」、審査員。昭和22年 6回創元展「雪景」。第3回日展「休息」審査員。昭和23年 7回創元展「男の顔」。昭和24年 8回創元展「山荘にて」、第5回日展「F婦人像」審査員。毎日連合展「雪舟の庭」。昭和25年 9回創元展「母と子」、連合展「窓辺」、第6回日展「婦人像」、日展参事となる。昭和26年 10回創元展「二重像」、第7回日展「某婦人像」審査員。昭和27年 11回創元展「闘牛士」、第8回日展「二人」。昭和28年 12回創元展「笛吹き」、第9回日展「植木屋T君像」政府買上げ、審査員。昭和29年 13回創元展「N氏像」「杏花の村」、第10回日展「休息」、国立公園協会へ「那須」。昭和30年 14回創元展「少女座像」「少女」、第11回日展「少女座像」審査員。昭和31年 15回創元展「緑衣像」、第12回日展「絵を描く女」。昭和32年 16回創元展「白衣婦人像」、第13回日展「少女」芸術院賞受賞、審査員。昭和33年 17回創元展「少女赤衣」「少女青衣」、第1回日展「姉妹」、日展評議員。昭和34年 18回創元展「二人」、第2回日展「少女像」。昭和35年 19回創元展「婦人像」、第3回日展「白い装」審査員。昭和36年 20回創元展「K君の像」、第4回日展「インドネシア婦人」。昭和37年 21回創元展「南方婦人」、第七回国際美術展(毎日新聞社)「熱国にて」、第5回現代美術展「ヨハンナ女」、第6回日展「少女」審査員。昭和39年 23回創元展「K少女」、第7回日展「バレーの幕間」。昭和40年 24回創元展「少女」。昭和41年 3月8日午后2時30分死去。11月東京都美術館内佐藤記念室において中野和高回顧展開催される。

川西英

没年月日:1965/02/20

国画会版画部会員川西英は、明治27年7月9日神戸市に生れた。商業学校を卒業、版画は独修ののち大正12年の創作版画協会第5回展出品から初入選となり、以後版画家としての道を歩むことになった。昭和3年には国画創作協会に版画を初出品し、7年には日本版画協会会員、10年に国画会会員となった。日本版画協会と国画会版画部の展覧会に毎年出品を続けていた。昭和24年兵庫県文化賞をうけ、晩年は「神戸百景」、「兵庫百景」の画集を刊行、関西版画界の主要作家として活動していたが、腹不通症に肺炎を併発2月20日神戸市の自宅で逝去した。享年70才。国画会版画部会友川西祐三郎は二男にあたる。なお没後版画界につくした功績に対し勲五等瑞宝章を授けられた。作品は、花が多く、室内、時に風景を描き独自な様式をみせていた、ことに、全画面を埋める、強く、明るい色彩の多用は華かな飾装的効果をつよめていた。略年譜明治27年(1894) 7月9日神戸市に生れる。大正12年 第5回日本創作版画協会展に初入選。昭和3年 第7回国画会展「曲馬」初入選。昭和7年 日本版画協会会員となる。ロスアンゼルス・オリンピック芸術展出品。昭和8年 「カルメン」(四枚組)。「サーカス」パリー・ルーヴル附属図書館買上。昭和8年~11年 版画「神戸百景」(小品100枚)。昭和10年 第10回国画会展「朝顔」「室内静物」「室内洋燈」等6点出品、国画会会員となる。昭和12年 第12回国画会展「室内の静物」「温室」「新緑」「浴衣」。昭和13年 第2回文部省美術展「軍艦進水」(無鑑査出品)昭和14年 第14回国画会展「秋雑木」「栂尾紅葉」他3点。昭和16年 第15回国画会展「古道具屋」「牡丹」。昭和17年 第17回国画会展「池畔雪景」「静物」。昭和24年 11月3日兵庫県文化賞を受く。昭和26年 第25回国画会展「オーケストラ」「ダリア」サロン・ド・プランタン展「カトレア」。昭和26~36年 シカゴ、サンパウロ、ルガルノ、パリ、セイロン、チリー、アルゼンチン、ポーランド、サルバドル、モスコー等の国際美術展に出品。昭和29年 「池」(アメリカ国際版画協会の手で頒布する)。昭和33年 第32回国画会展「小春日和」「アネモネ」昭和36年 国画会35周年記念展「ノクターン」マルセーユ及シアトルでの”神戸現代美術”展「みなと」。昭和37年 2月「神戸百景」画集発行(神戸百景刊行会)。5月神戸新聞社平和賞を受ける。昭和38年 第37回国画会展「幕間」。日本中国版画交歓展「ネオン」。昭和39年 第38回国画会展「春の楽譜」。2月「兵庫百景」(神戸新聞社)画集発行。昭和40年 2月20日逝去、同日従五位、勲五等瑞宝章をうける。4月、生前自選した56点の版画を収めた「川西自選版画集」(神戸新聞社)発行。

吉村吉松

没年月日:1965/02/15

日展会員、新世紀美術協会会員吉村吉松は、2月15日脳軟化症のため東京都北区の自宅で逝去した。享年78才。明治19年11月東京に生れ、郁文館中学を卒業、東京美術学校に学び大正2年卒業した。翌3年文展に3点入選し褒状をうけその後文、帝展に発表をつづけている。大正14年、昭和2年の帝展で特選をうけ無鑑査となり、戦後は日展に拠り、同展の出品依嘱者として、又会員として出品していた。また旺玄会にも参加していたが、大久保作次郎等とともに旺玄会を離れ、昭和30年4月に新世紀美術協会を創立、同展にも出品していた。代表作「曠原朗日」「斜陽平日」等作品略年譜大正3年(1914) 第8回文展「港」(褒状)、「海から帰へって」「白いシャツ」。大正4年 第9回文展「春の海辺」「雨の後」。大正8年 第1回帝展「深春の頃」「高原のある村」。大正14年 第6回帝展「羽扇」特選。大正15年 第7回帝展「麗人画像」「ダリア」。昭和2年 第8回帝展「瓜実をもつ少女」特選。昭和3年 第9回帝展「ふくちやん」無鑑査。昭和5年 第11回帝展「秀人困居」。昭和8年 第14回帝展「曠原朗日」。昭和11年 文展招待展「植物園散歩」。昭和12年 文展第一回展「斜陽平日」無鑑査。昭和15年 紀元2600年奉祝展「祝建国記念画像」。昭和28年 第9回日展「牧舎」今年より出品依嘱。昭和29年 第10回日展「庭」。昭和30年 第11回日展「扇」審査員をつとめる。昭和31年 第12回日展「手鏡」出品委嘱。昭和32年 第13回日展「晴」。昭和33年 社団法人「日展」第1回展「七五三の集り」日展会員。

保田龍門

没年月日:1965/02/14

元日本美術院同人の彫刻家保田竜門は、2月14日動脈硬化症のため堺市の自宅で死去した。享年73才。本名重右衛門。明治24年5月13日和歌山県那賀郡に生れ、大正6年東京美術学校西洋画科を卒業した。在学中第2回二科展に入選し、同6年文展で「母と子」(油彩)が特選となった。また在学中から彫刻もはじめ、卒業後は日本美術院に絵と彫刻の両方を出品し、大正9年に日本美術院同人となった。同年7月渡米し、主として紐育でレムブラントの模写に従事した。翌10年3月渡仏し、パリのグランショミエールでブルデルの指導を受け、傍らジョルジオーネ、クールベ等を模写し、また翌11年にはローマでティツィアーノ等を模写している。大正12年帰国し郷里に住んで院展に出品したが10年後、大阪に出て制作をつづけた。戦後中央には出品せず、和歌山大学教授として、また大阪市立美術研究所で後進の指導にあたったが、現在ここ出身で活躍中の彫刻家も少くない。また制作の主なものとしては、名古屋市平和公園の記念塔のレリーフがある。略年譜明治24年(1891) 5月13日和歌山県那賀郡に生る。大正4年 「自画像」等三点、二科展入選。大正6年 3月、東京美術学校西洋画科本科卒業。日本美術院彫刻部に入る。「母と子」文展特選となる。大正7年 「母の像」(油彩)「石井氏像」(樗牛賞)(第5回院展)。大正8年 「男の習作」「K氏の像」「O氏の像」。熊野風景の内「蓬菜山」「成川遠望」「熊野地」(油彩)(第6回院展)。大正9年 日本美術院彫刻部同人となる。渡米。シャヴァンヌ作「漁夫の家族」(シカゴ美術館)模写。レムブラント作「石竹を持てる女」「サスキア入浴」等(メトロポリタン美術館)模写。ミレー作「馬鈴薯の種まき」(ボストン美術館)模写。大正10年 3月パリに入り、グランショミエールでブルデルの指導を受けた。各所美術館で模写に従事。ジョルジオーネ作「田園奏楽」。セザンヌ作「カルタを取る人」モーリス・ドゥニ作「聖母子」(以上ルーブル美術館)クールベ作「セーヌ河畔の娘達」(プチパレー美術館)。大正11年 ティツィアーノ作「聖愛と俗愛」「ヴィナスの教育」(ヴィラボルゲーゼ美術館)。大正12年 10月18日帰国(神戸入港)。郷里に居住。大正14年 「少女」「首」(ベートーヴェン)「臥女」(12回院展)。大正15年 「女の首」(13回院展)、「裸女群像」(聖徳太子奉讃展)。昭和2年 「岳父像」「裸男女群像」(14回院展)「クリスチーヌ嬢」(明治、大正名作展)。昭和3年 「岡崎邦輔翁像」創作鋳造。昭和4年 「河本博士古稀像」「河本夫人還暦像」「M伯像習作」「とわ子嬢」「辻本聾唖学校長像」(16回院展)。昭和5年 「三尾南汀翁像」(17回院展)。昭和6年 「垂井逸水翁像」(18回院展)。昭和7年 「呑天鈴木先生像」「M伯像試作」「赤尾善次郎翁像」(19回院展出品)昭和8年 「寺田元朝翁像」鋳造(岸和田市建立)、「辻利右エ門翁像」(宇治平等院裏に建立)。昭和9年 「岡本先生像」(21回院展)(和歌山高等商業学校建立)。昭和11年 「吉岡訓導殉職像」(23回院展)(山口県教育会蔵)。昭和12年 「牧野環先生像」(24回院展)。昭和13年 「角谷源之助校長像」(静岡師範内に建設)。昭和14年 「裸女立像」「湯川村長像」「坐せる女」(26回院展)「丹生都比壱命」「高倉下命」(和歌山県庁庁舎壁面)。昭和15年 「吉田松蔭」(静岡県教育会委嘱)昭和16年 「水町氏像」(28回院展)。昭和17年 「すさのをの命」(木彫一樟材、紀の川改修のとき川底より掘り出されたる巨材の一部)「阿修羅」(浮彫)。昭和18年 「日本神話」(絵巻)製作はじめる。昭和21年 3月、大阪市立美術研究所彫刻部教授。「クリスチーヌ」(国立近代美術館彫塑展)。昭和22年 「母子像」(6尺、白セメント)(大阪市立美術館野外彫刻展)「技芸天」(7尺立像、セメント着色)(天王寺美術館蔵)。昭和23年 「母子像」(油絵120号)「木村大譲翁銅像」(海南市内海小学校)。昭和24年 「杉本市長喜寿像」(和歌山県新宮市)。昭和26年 「裸行上人絵伝」(那智青岸渡寺)。昭和27年 「玉置吉之烝氏像」。昭和29年 紀陽銀行壁彫四部作完成(林業-春、漁業-夏、柑槍-秋、繊維-冬)森武楠翁胸像(日高郡丹生小学校建立)。昭和30年 「南弥衛門翁胸像」。昭和31年 名古屋平和塔「大壁面」。昭和32年 名古屋平和塔「立像」。昭和33年 名古屋平和塔「立像」。昭和34年 名古屋平和塔「小横面」。昭和35年 「交通安全記念像」(香里成田山)。昭和36年 「樽本夫人胸像」「堀善之助胸像」。昭和37年 「高垣善一胸像」(和歌山市長)。昭和38年 「松下幸之助夫妻胸像」(和歌山市婦人児童会館)、「岡崎清次郎翁像」。昭和39年 「松下幸之助夫妻浮彫」(和歌山市婦人児童会館)。

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