本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





後藤捷一

没年月日:1980/09/17

染織書誌学研究家後藤捷一は、肝腫瘍のため9月17日大阪市淀川区の東淀川病院で死去した。享年88。1892(明治25)年1月2日徳島市に生まれた。1909年、徳島県立工業学校を卒業、直ちに大阪に出て染料の研究を始める。染織関係の業界誌を編集する一方、染織を主体にした文献を収集し、『日本染織譜』など数多くの文献を残し、晩年には約70年にわたって集めた資料や文献を整理、室町時代から明治中期までの計671点からなる『日本染織文献總覧』をまとめた。また、藍の研究でも著名で、特に阿波藍の研究では第一人者であった。主要著書染料植物譜 高尾書店 昭和12年同上 複刻 はくおう社 昭和47年日本染織譜 東峰出版 昭和39年日本染織文献總覧 染織と生活社 昭和55年

松下隆章

没年月日:1980/09/15

文化財保護審議会委員松下隆章は、9月15日脳出血のため、鎌倉市の自宅で死去、享年71。1909(明治42)年3月31日、長野県飯田市に生まれ、長野県飯田中学校を経て、27年慶応義塾大学文学部に入学、33年同大学美学美術史学科を卒業。34年帝室博物館研究員となり、38年同館鑑査官補に任ぜられたが、44年退職、直ちに新設の根津美術館に入り、同館学芸員として館の発展につとめた。47年国立博物館付属美術研究所に入り、52年文化財保護委員会事務局美術工芸課へ転じ、はじめ絵画部門の担当技官として、59年には美術工芸課長、65年には文化財鑑査官となって、国宝・重要文化財指定や保護等、わが国文化財行政の中心にあって活躍した。その間主な出来事として、永仁の壷事件の処理、韓国文化財返還等を手がけた。69年奈良国立文化財研究所長に就任したが、72年京都国立博物館長に転じ、78年退官するまで、6年間多くの展覧会を手がけ、また同館に文化財保存修理所を設けるなど館の充実と発展に貢献した。70年より、文化庁の文化財専門調査会絵画彫刻部会専門委員となり、さらに76年文化財保護審議会委員に任命され、国の文化財行政の助言・指導に当った。 その専門は日本絵画史で、仏画や水墨画に多くの論文著書がある。その他美術に関する随筆等も少くない。また55年より69年まで母校の慶応大学で美術史を講じた。主要著述目録単行図書1956 宋元名画(共者) 聚楽社1960 室町水墨画1 室町水墨画刊行会1967 水墨画(日本の美術13) 至文堂1967 禅寺と石庭(共著、原色日本の美術10) 小学館1974 如拙・周文・三阿弥(水墨美術大系6) 講談社1974 雪舟(日本の美術100) 至文堂1977 李朝の水墨画(共著、水墨美術大系別巻2) 講談社1979 九十鉄斎 求竜堂1979 如拙・周文(日本美術絵画全集2) 集英社1981 美術随想「野椿」 三月書房定期刊行物1941 前山宏平氏蔵 高士深梅図に就いて 三田文学 16の101943 摩尼宝珠曼荼羅に就いて 美術研究 1311949 法光院不動明王二童子像に就いて 同 153中世に於ける中国絵画摂取の一様相 仏教美術 5普賢十羅刹女像に就いて 仏教美術 61950 嗚呼しづかなる絵-等伯画説の一句- 美術史 1雪舟と四季山水 国華 7001955 金沢称名寺金堂壁画について 仏教芸術 25厳島神社五重塔壁画 仏教芸術 251956 乾山筆十二ケ月倭歌花鳥図について 美術研究 1841963 画人芸愛について 田山方南華甲記念論文集1968 秀盛の数点の作品 仏教芸術 69

丸尾彰三郎

没年月日:1980/07/24

日本彫刻史家、元文化庁文化財保護審議会専門委員丸尾彰三郎は、7月24日午後3時静脈血せん症のため、東京都文京区の自宅で死去した。享年87。1892(明治25)年9月4日岡山県に生まれ、1919(大正8)年東京帝国大学文科大学美学美術史科卒業、21(大正10)年文部省図書館員教習所講師、翌年文部省古社寺保存計画調査嘱託、30(昭和5)年帝国美術院附属美術研究所事務嘱託、その間に東京女子高等師範、東京女子大学、慶応義塾大学の講師をつとめ、32(昭和7)年生涯の事業であった文部省国宝鑑査官となり、46(昭和21)年9月まで任ぜられた。また33(昭和8)年重要美術品等調査委員会委員、36年同幹事、38年より39年にかけてドイツ国へ出張、ドイツ政府より「フェルディンスト・クロイツェル・シュソーファードレル」勲章を受けた。44(昭和19)年には勲六等瑞宝章に叙せられた。 戦後45(昭和20)年、文部省社会教育局に勤務、翌年文部技官、並びに国宝調査嘱託、48年国立博物館調査員、50年文化財保護委員会事務局美術工芸課に属し、56年退官、翌年文化財専門審議会専門委員、66(昭和41)年勲四等、68年文化財保護審議会専門委員となり74年まで任じた。74(昭和49)年11月勲三等瑞宝章を受章。 22(大正11)年、文部省古社寺保存計画調査嘱託として就任以来、なお草創期にあった日本全国の社寺の古彫刻を主とする文化財の調査と基礎的研究を行ない、南都七大寺大鏡その他の編著を遂げた業績は大きい。第二次大戦後は文化財専門審議会専門委員として長く国宝指定及び文化財保護に貢献した。日本彫刻史研究の基礎的な調査の成果は「日本彫刻史基礎資料集成」として66(昭和41)年より刊行され、没後も刊行が続いている。下記の主な編著書のほか、国華、美術研究、画説、国立博物館刊行誌、調査報告書等の論文・随筆等は100余を数えることが出来る。編著書南都七大寺大鏡 77輯 東京美術学校編(法隆寺は中川忠順著) 大正3年7月~昭和4年2月観世音寺大鏡 7冊 同上編 昭和4年7月~昭和5年8月当麻寺大鏡 1冊 同上編 昭和4年5月~昭和5年9月南都十大寺大鏡 27冊 同上編 昭和7年6月~昭和10年1月藤原時代の彫刻(特に定朝様式の成立とその製作について) 岩波書店・講座 昭和9年10月大佛師運慶(日本精神叢書36) 数学局 昭和13年3月日本国宝精華 日本精華社 昭和26年6月蓮華王院本堂千躰千手観音像修理報告書 妙法院 昭和32年3月「鎌倉」の彫刻(鎌倉国宝館論集第1冊) 鎌倉市教育委員会・鎌倉国宝館 昭和32年8月日本彫刻史基礎資料集成 平安時代・造像銘記篇(共著) 中央公論美術出版社 昭和41年6月~昭和46年2月

富永惣一

没年月日:1980/06/14

学習院大学名誉教授、元国立西洋美術館長の美術評論家、美術史家の富永惣一は、6月4日心筋硬ソクのため東京都新宿区の自宅で死去した。享年77。1902(明治35)年9月18日東京市本所区に生まれ、学習院初等科、中等科、高等科を経て、23年東京帝国大学文学部フランス文学科に入学したが、翌年美学美術史学科に転じ、26年に卒業後同大学大学院へ進む。27年学習院講師、29年学習院教授となり、翌30年新設の帝国美術院付属美術研究所嘱託を兼ねる。31年から33年まで、宮内省在外研究員として留学しフランスをはじめ欧米各地で研鑚を重ねる。帰国後、翻訳、西洋美術紹介の著述、並びに美術評論活動を展開、啓蒙的役割をはたす。この間、東京美術学校、大正大学の教壇にも立つ。戦後は、49年、学習院大学設立とともに文学部教授に就任、57年からは同大文学部長をつとめ、この間、多摩美術大学、日本大学文学部、早稲田大学文学部、女子美術大学でも教え、54年には創立された日本美術評論家連盟の初代会長に就任する。以後美術の国際交流につとめ、ヴェネツィア・ビエンナーレ展国際審査員に二回選ばれる。59年、新設の国立西洋美術館の初代館長に就任、旧松方コレクションの管理、西洋美術作品の収集につとめるとともに、ミロのビーナス展、ロダン展など積極的な展覧会活動を行った。68年、同館購入作品の真贋問題が国会で追及された責任をとって辞任したが、同年開催の大阪万国博覧会の美術展示プロデューサー、並びに万博美術館長をつとめる。また、同年から共立女子大学教授となった。69年、仏政府からシュヴァリエ・ド・ラ・レジォン・ドヌール勲章を受章、74年には勲二等瑞宝章を受ける。この他、国立西洋美術館評議員、国立近代美術館評議員、ブリヂストン美術館運営委員、出光美術館評議員、日仏協会理事、日伊協会評議員をはじめ、数多くの要職を兼ねた。主要著述目録著作セザンヌ(西洋美術文庫) 1940 アトリエ社セザンヌ(アルス美術文庫) 1945 アルスセザンヌ(アテネびじゅつ文庫) 1952 弘文堂セザンヌ(アート・ブックス) 1955 講談社セザンヌ・モディリアーニ(現代世界美術全集4) 1965 河出書房セザンヌ(ファブリ世界名画集31) 1969 平凡社セザンヌ・ゴッホ・ゴーガン(世界の名画1) 1970 ほるぷ出版社ギリシア彫刻 1941 アトリエ社ギリシアの彫刻(みづえ文庫) 1951 美術出版社ギリシア彫刻 1954 人文書院ロダン 1945 雄山閣ピカソ-現代絵画論(岩波新書) 1954 岩波書店ドラクロワの素描 1944 創芸社美術随想 1945 創芸社ブラック(アート・ブックス) 1955 講談社ピカソ(アート・ブックス) 1955 講談社マティス(アート・ブックス) 1955 講談社美と感覚 1956 朝日新聞社西洋美術館 1956 修道社19世紀の絵画(美術ライブラリー) 1956 みすず書房ファン・ゴッホ 1959 読売新聞社印象派1・2 1961 みすず書房世界の美術 1963 階成社ルノワール(世界の美術) 1963 河出書房ルノワール(現代世界美術全集19) 1969 集英社ルノワール(現代世界美術全集普及版) 1970 集英社ルノワール(アート・ライブラリー) 1972 鶴書房近代絵画(カラー・ブックス) 1963 保育社近代1(世界美術全集35西洋11) 1963 角川書店現代美術(世界美術大系24) 1960 講談社マネ・モネ(現代世界美術全集1) 1966 河出書房オーギュスト・ロダン 1969 読売新聞社ロダン・ブールデル(現代世界美術全集5) 1971 集英社ルオー(世界美術全集19) 1969 河出書房マネ(ファブリ世界名画集26) 1970 平凡社ボナール(ファブリ世界名画集41) 1970 平凡社ジュリコー(ファブリ世界名画集86) 1971 平凡社ヴラマンク(ファブリ世界名画集96) 1972 平凡社棟方志功(アート・ブックス) 1956 講談社梅原龍三郎(日本近代絵画全集12) 講談社翻訳コリニヨン・パルテノオン 1930 岩波書店ヴァザーリ美術家伝 1943 共訳 隈元謙次郎 新規矩男 山田智三郎 青木書店 改版万里閣スタンダール・イタリア絵画史 1943 共訳 吉川逸治 河出書房ルオーの手紙 1972 共訳 安藤玲子 河出書房新社編者ヨーロッパ・近世(図説世界文化史大系) 1959 共編 柴田三千雄 角川書店ヨーロッパ・近代(図説世界文化史大系) 1959 共編 村瀬興雄 角川書店現代美術(日本美術大系) 1960 講談社近代2(世界美術全集36 西洋12) 1961 角川書店現代の絵画1 1938 小学館ルーブル美術館 1964 講談社イスタンブール美術館 1971 講談社原色世界の美術1(フランス) 1968 小学館エルミタージュ美術館 1970 恒文社

栗本和夫

没年月日:1980/04/14

中央公論美術出版社長の栗本和夫は、4月14日国立がんセンターで肺炎のため死去した。享年69。1911(明治44)年2月5日奈良県生駒郡に生まれ、東洋大学に学んだ。1935年中央公論社に入社し、1946年同社専務取締役となった。同56年4月同社ビルを丸ビルより京橋に移転し、中央公論建物株式会社々長となり、同社取締役をも兼ねた。同年10月中央公論美術出版を創立、同出版の社長になった。またこの年中央公論事業出版を創立し、同出版の社長に就任した。1958年日ソ文化交流で岩波雄二郎、下中弥三郎とともにソ連に招かれ、ソ連各地を歴訪、翌年「ソ連瞥見」を出版した。1978年には長野県諏訪郡富士見町に、私財を投じて財団法人栗本図書館を建設し、収蔵図書の全てを同館に納めた。1980年著書「一図書館の由来記」を刊行し、その直後の4月13日逝去した。翌81年には上記図書により明治村土川元夫賞を受けた。

外山卯三郎

没年月日:1980/03/21

美術評論家外山卯三郎は、3月21日心不全のため静岡県御殿場市の駿東第一病院で死去した。享年77。1903(明治36)年1月25日和歌山県に生れた。1928年京都大学文学部美術史学科を卒業した。戦前から美術評論活動をつづけ、1946年社団法人造形美術協会を創立して理事長となり、美術家の育成に当った。また1953・54年に女子美術大学講師となり、66~69年及び71~74年武蔵野音楽大学講師を、1969~71年には同校教授として教鞭をとった。著書多く「南蠻学考」「新構図法の研究」「日本洋画論」「きりしたん文化史」「原始キリスト教の美術」「ヤミ族の原始芸術」「原始芸術論」等があり、執筆中の「日本洋画史」(全5巻)が三巻まで完成していた。

吉田幸三郎

没年月日:1980/03/07

古典芸能界に権威ある存在として、また速水御舟の著作権管理者であり、御舟作品の鑑定を専らにすることにより知られた吉田幸三郎は、3月7日腎不全のため北品川総合病院で死去した。享年93。1887(明治20)年2月27日東京市芝区に、天保年間創業の呉服商豊田屋の三男として出生した。父弥一郎。母★う。父弥一郎はのち現在の品川区、目黒区において、貸地業をも兼ね営んだ。1892年同所に移居し、翌年3月芝区白金小学校に入学、1905年私立麻布中学校を卒業した。1907年1月早稲田大学史学科本科に入学、同年4月英文学科に転科した。同年10月坪内逍遥の推挙により文芸協会研究所に入り、1910年5月同所を卒業した。研究所入所後は坪内逍遥、島村抱月、松井松葉の舞台監督助手を勤めたが、協会の業務繁忙のため、大学は1909年11月本科3年の折中退した。12年春研究生出身代表として、文芸協会幹事に推挙された。13年同協会解散後は第1期研究生等の結成した舞台協会の主事となり、約3ヶ年同劇団の演出監督を勤めた。14年12月には今村紫紅を中心に速水御舟、小茂田青樹ら新鋭日本画家と赤曜会を起し、新日本画運動に意欲的に参画、15年秋には舞台協会のことは小宮豊隆、山本有三に托して新劇運動を離れた。この間日本美術院再興に関与し、また原三渓、中村房次郎後援のもとに青年画家育成のため尽力した。1919年より約15年間、七條憲三と協同して芝区西久保広町に印刷所を経営し、主として美術出版に従事した。同年2月、中川忠順、上野直昭、福井利吉郎、田中親美、小堀鞆音、安田靫彦、七條憲三等と大和絵同好会を企画し、絵巻物複製の刊行に当り、また古典保存会の出版にも関与、三十六人家集その他数多くの水準高い複製類の出版を行い、また別に22年、高見沢遠治、上村益郎とともに浮世絵保存刊行会を結成、会員組織による浮世絵複製の版行に当った。24年1月26日、父弥一郎死亡し兄2人早逝のため家督を相続。第2次世界大戦勃発後は、片山博道、武智鉄二、鴻池幸武等との交誼を得て、関西における芸能運動である断弦会に参画し、東京においては同会の姉妹団体として花友会を起し、戦時中も活発なる芸能発表を催行した。一方田中啓文の主宰した長唄国光会に関与、同人没後はその会の継存に努力した。また古曲鑑賞会を再興し、73年まで、その理事長の任に在った。そのほか関与した芸能団体には、山城会、温心会、声韻会、河東節十寸見会、荻江節荻江会等がある。文部省の外局として文化財保護委員会が設置されてから、51・2年度、専門審議会専門委員(無形文化財)を勤め、50年度より60年度まで芸術祭執行委員に在任、そのほか文部省芸術選賞選考委員、国立劇場建設準備委員、日本文楽協会専門審議会委員、能楽協会三役養成委員を勤めた。55年、古典芸能の保存と育成に対し、文部大臣芸術選賞を、60年、文化財保護委員会より文化財功績者表彰を、昭和61年、日本文学振興会より菊池寛賞を、62年、紫綬褒賞を、65年、日本舞踊協会より功績表彰状を受けた。なお速水御舟に関する執筆つぎの通り。速水御舟論 中央美術 5-8 大正8年8月速水御舟逝く 美術評論 4-3 昭和10年4月御舟のことども 阿々土別巻2 昭和10年4月速水御舟特輯号 美之國 11-5 昭和10年5月追悼速水御舟氏 アトリエ 12-5 昭和10年5月速水御舟のえらさ 美術評論 4-8 昭和10年11月人間御舟を語る 産業経済新聞 昭和29年3月1日速水御舟の偽作談義 画集紫朱-便利堂 昭和51年10月刊。非売品速水御舟の鑑定 芸術新潮336 昭和52年2月美しい心の人 速水御舟作品と素描 光村図書刊。昭和56年3月

清水澄

没年月日:1980/02/03

美術鑑定家として知られる清水澄は、2月3日脳軟化症のため東京都台東区の自宅で死去した。享年86。号不濁。1894(明治27)年1月5日長野県上田市に生まれ、早稲田大学政経学部を中退した。大正時代、報知新聞記者をつとめ、1931年同社を退社し、美術倶楽部出版部、鑑定部社長に就任した。書画、刀剣等の鑑定を専らにし、また名鑑、書画家番附、辞典、印譜等の多くを出版した。

塚本善隆

没年月日:1980/01/30

元京都国立博物館長、日本学士院会員、中国仏教史研究の世界的権威、塚本善隆は、1月30日心不全のため、加療中の京都府立医科大学付属病院で死去した。享年81。1898(明治31)年2月8日愛知県海部郡に生まれ、幼少より学を好み、15歳で仏門に入ったのも好学の志を遂げんがためであったという。1918(大正7)年京都の仏教専門学校を卒業、引続き20年東京の宗教大学研究科を卒業。23年京都帝国大学文学部哲学科インド哲学選科を修了し、さらに26年同史学科東洋史選科を修了。同年4月仏教専門学校講師になる。28(昭和3)年7月には中国北京大学に留学。翌年5月東方文化学院京都研究所(後の京都大学人文科学研究所)の研究員となり、48年2月文学博士、49年4月京都大学教授、55年10月京都大学人文科学研究所所長(59年9月まで)。61年3月京都大学教授を停年退官(13年後の74年6月京都大学名誉教授の称号を受ける)後、その5月京都国立博物館館長に就任、72年4月までの11年間その要職をつとめた。同年11月勲二等瑞宝章を受ける。一方61年5月からは京都仏教大学講師を、博物館退館後の翌年4月からは華頂短期大学学長となる。76年11月、多年にわたる中国仏教史研究の功績により、日本学士院会員に推挙される。京都国立博物館在任中、63年には新事務所とこれに附設する講堂が建設され、引続き66年に新陳列館や造園が完成、翌年にも他の施設が建設されるなど、旧来の館の面目を一新させた。さらに旧陳列館の施設を整備して、その保存と活用に努力し、展示のスケールが拡大され、展覧会が活発に行われるにいたったほか、館の編集にかかわる寄贈品の図録『守屋孝蔵氏蒐集古経図録』(1964年)、『上野有竹齋蒐集中国書畫図録』(1966年)も出版されるなど、国立博物館としての使命達成に尽力した。また63年3月から文化財保護審議会の専門委員をつとめ、文化財の保護と顕彰に貢献した。一方博士は42(昭和17)年10月から74年10月まで、洛西の名刹、五台山清涼寺(嵯峨釈迦堂)の住職をつとめ、その間、54年入宋僧奝然將来にかかる本尊釈迦如来像の修理に当り、胎内から発見された多数の納入物の調査を、各分野の専門家に委嘱し、自らも学術調査に当るなど、学界に寄与するところ大であった。博士には多数の著者論文があり、たいていは中国仏教史に関するものであるが、美術史関係では編著の単行本に『法然上人絵伝』(日本絵巻物全集、角川書店、1961年)、『西の京・唐招提寺』(亀井勝一郎共著・淡交社、1963年)、『京都の仏像』(中野玄三共著、淡交社、1968年)などがあり、また「竜門石窟に現れたる北魏仏教」「竜門石刻録(共編)」(『竜門石窟の研究』所収、座右宝刊行会、1941年)は中国彫刻史資料の研究として注目される。なお博士の主要な著作、論文を集めた『塚本善隆著作集』7巻(1974年1月~75年11月、大東出版社)があり、その第7巻の大部分は美術篇である。

木村毅

没年月日:1979/09/18

文芸評論と明治文化研究家として知られる木村毅は、9月18日心筋こうそくのため、目黒区の東邦大学大橋病院で死去した。享年85。1894(明27)年岡山県に生れ、1917年早稲田大学英文科を卒業、ロンドン・レーバーカレッジで学んだ。帰国後雑誌「反響」を主宰し、小説家として「ラグーザお玉」「旅順攻囲軍」「クーデンホーフ光子」など史伝的大衆小説があるほか、評論では「小説研究十六講」「明治文学展望」「日米文学交流史の研究」「文芸東西南北」など著書が多い。大正末期吉野作造の尽力により結成された明治文化研究会の主要同人で中里介山の「大菩薩峠」の発掘、刊行者としても知られ、昭和初期円本の創始者でもある。戦後派立教大学教授、東京都知事室参与等もつとめた。1975年博物館明治村開村10年を記念して、明治を主題とした学術、芸術功労者に贈られる第1回「明治村賞」を受賞し、78年には「明治文化研究の先導的役割を果たした」として菊池寛賞を受けた。文学博士。樟蔭女子大学教授。明治文化研究会々長。早大100年史編纂委員。

尾崎元春

没年月日:1979/09/02

文化財保護審議会専門委員、工芸史家尾崎元春は、9月2日心不全のため東京杉並区の荻窪病院で死去、享年74。1905(明治38)年4月28日、香川県坂出市に生まれ、30年日本大学法文学部文学科(国文学専攻)卒業、東京帝室博物館に勤務、35年帝室博物館鑑査官補、45年鑑査官に昇任、50年文化財保護委員会事務局保存部美術工芸課に転じ、64年主任文化財調査官となり、67年退職した。その間、48年財団法人日本美術刀剣保存協会評議員に就任、57年以降、日本大学文理学部、跡見学園短期大学、四天王寺学園女子短期大学、東京教育大学教育学部に出講、また長野県文化財専門委員を委嘱され、終生甲冑、刀剣、金工仏具等の調査研究とその保護に尽瘁しした。

瀧口修造

没年月日:1979/07/01

詩人、美術評論家の瀧口修造は、7月1日肺水しゅのため東京新宿区の河井病院で死去した。享年75。1903(明治36)年12月7日富山県婦負郡に生まれ、富山中学卒業後上京、23年慶応大学予科に入学したが関東大震災のため小樽へ行き、翌年上京再入学し、31年同大学英文科を卒業する。在学中の26年山繭同人となり、この頃文学部教授であった西脇順三郎を知る。また、30年には親交のあった仏詩人アンドレ・ブルトンの『超現実主義と絵画』を翻訳、これが日本のシュール・レアリスム美術書の草分けとなる。32年から5年間PCL映画製作所(東宝の前身)に勤務、39年から日本大学芸術科講師として近代美術論、現代写真芸術論を講じる。この間、現代西洋、ことにフランスの現代詩と美術を研究紹介し、とくにシュール・レアリスム芸術をはじめ前衛芸術運動の推進に尽力、40年に世界初のミロ論を書いたが、1938年戸坂潤の要請で「近代芸術」を出し、41年政府の前衛美術弾圧により検挙され、8ヶ月間拘留され起訴猶予となった。その後国際文化振興会嘱託となり、戦後は50年まで日米通信社参与をつとめる。1951年読売アンデパンダン展開催、若い前衛的な詩人、美術家、音楽家と「実験工房」を結成、タケミヤ画廊企画展に参画し、前衛的な現代美術の展開に大きな刺戟をあたえた。1952年国立近代美術館開設に際し運営委員となり、53年には国際アートクラブ結成に参加する。58年ヴェネツィア・ビエンナーレ展日本代表として渡欧し、ブルトンやダリらと会見する。59年美術評論家連盟会長に就任し、62年までつとめる。60年最初の個展「私の画帖から」を南天子画廊で開催、翌年第2回目の個展を大阪北画廊で、62年第3回個展「私の心臓は時を刻む」を南画廊で催す。63年以降新聞、雑誌への執筆や美術展の審査などに矛盾を感じたとしていっさいやめる。64年マルセル・デュシャン語録私家版刊行の契機となるローズ・セラヴィの名前を架空のオブジェの店のためにあたえられる。65年千円札事件懇談会に加わり、翌年特別弁護人となり、また同年来日中のミロに初めて会う。67年『詩的実験』(思潮社)を刊行、翌年マルセル・デュシャン急死の一ヶ月後にあたる11月語録が完成する。70年ミロとの詩画集『手づくり諺』完成する。この間、69年2月に脳血栓で倒れ入院、翌年は胃の手術を行う。73年マルセル・デュシャン大回顧展に招待され渡米する。75年アントニオ・タピエスとの詩画集『物質のまなざし』、78年ミロとの詩画集『ミロの星と共に』を完成する。 主要著述目録単行図書1937 詩画集『妖精の距離』(阿部芳夫画) 春鳥会1938 『近代芸術』 三笠書房1940 『ダリ』(西洋美術文庫) アトリエ社『ミロ』(西洋美術文庫) アトリエ社1951 『近代芸術』 三笠書房1952 『日本の彫刻』(共著)1955 『今日の美術と明日の美術』 読売新聞社『一六の横顔-ボナールからアルプへ』 白楊社『ピカソ人間喜劇』(アートブック) 講談社1956 『近代芸術の状況』ジャン・カスー(共訳) 人文書院『現代人の眼』(共著) 現代社『シュールレアリスム』(原色版美術ライブラリー) みすず書房『ゴッホ』 みすず書房『ピカソ、戦争と平和』 みすず書房『クレー』リード(訳)(フェーバー世界名画集) 平凡社『シャガール』エアトン(訳) 平凡社1959 『芸術の意味』H・リード(訳) みすず書房『幻想絵画論』 新潮社1960 『エルンスト』(現代美術5) みすず書房1962 『近代芸術』(美術選書) 美術出版社1963 『点』 みすず書房『パウル・クレー』(解説) 草月会出版部1964 『フォンタナ』(解説) みすず書房『ヴォルス』(共著) みすず書房1965 『余白に書く』 みすず書房1962 『滝口修造の詩的実験1927-1937』 思潮社1968 『シュールレアリスムのために』 せりか書房1970 『ダリ』 S・ダリ(訳) 河出書房新社『ジョアン・ミロ-視覚言語としての芸術』 スゥイーニー(共訳) 平凡社『ジョアン・ミローとカタルーニャ』 ペルーチョ(共訳) 平凡社『新しい世界』 ローゼンバーグ 滝口文 みすず書房1975 『シュルレアリスムの世界』 E・クリスポルテイ(共訳) 平凡社定期刊行物1936 サルヴァドル・ダリと非合理性の絵画 みづゑ 374英国に於けるシュルレアリズム みづゑ 381超現実造型論 みづゑ 3791937 超現実主義の現代的意義 アトリエ 14-6前衛絵画批判 アトリエ絵画は何処へ行く?(訳) アトリエ 14-9詩を書くピカソ みづゑ 385海外前衛美術消息 みづゑ 393近代造型芸術論 上下 ジュディオンウェルカア(訳) みづゑ 390~3911938 造型芸術に於ける主題の拠棄について(訳) みづゑ 405芸術と社会(訳) ハーバード・リード アトリエ 15~3、5~7前衛芸術の諸問題 みづゑ 398写真と絵画の出会ふところ アトリエ 15-171939 影響について 美術 14-11新しい時代について みづゑ 410安全週間 アトリエ 16-10ダリの近況 みづゑ 415ルネ・マルグリット みづゑ 414フロイド主義と現代芸術 みづゑ 419ジェロム・ボォッシュ小論 アトリエ 16-41940 パウル・クレー アトリエ 17-4ルネッサンス芸術の心理 みづゑ 4231941 主題と画因 造型芸術 3-2課題の意味 造型芸術 3-4近代美術の場合 みづゑ 435額椽について 造型芸術 3-3レオナルド展と写真建築 アトリエ 18-2アメリカ現代美術の遠望 アトリエ 18-41947~50 前衛芸術の実態 アトリエ 277新人について アトリエ 282象形と非象形の相剋-阿部展也芸術- アトリエ 286二科会で出会ったもの みづゑ 494クニヨシとノグチ 読売新聞 ’50年8.21イサム・ノグチの世界 みづゑ 537人間像について(福沢一郎個展の感想) アトリエ 24614回新制作派展評 みづゑ 541独立展評 美術手帖 37三角窓-最近のフランス画壇の展望とイタリーの古典美術- アサヒニュース 244最近のピカソとキリコ アトリエ 250シュールレアリスムその後 アトリエ 253ブラックの芸術 アトリエ 260戦後のピカソと制作 アトリエ 264マチスの礼拝堂 アトリエ 275ブラックの立体主義 アトリエ 276前衛絵画の実態 アトリエ 277ヘンリー・ムアとベン・ニコルスン アトリエ 279ミロ現象 アトリエ 285新しきエコール・ド・パリ 美術手帖 26ブラックと東洋思想 美術手帖 33モンドリアンの横顔 美術手帖 34ピエール・ロアとだまし絵 美術手帖 35フォーヴィスムを顧みて マルセル・アストリュック(訳) みづゑ 502フランス絵画の新世代について みづゑ 531ヘンリィ・ムーアの彫刻 みづゑ 535アレクサンダー・コルダー みづゑ 5401951 抽象芸術の論争 アトリエ 295光琳の幻想 みづゑ 550新人の位置 アトリエ 300モダンアートをめぐって 芸術新潮 2-8素朴な画家たち 美術手帖 45サロン・ド・メエを迎えて みづゑ 545日本美術への反省 読売 12.17結晶の造形詩 美術手帖 39造形する植物 美術手帖 44「北斎」シナリオ 美術手帖 50FERNAND LEGER アトリエ 288ピカソの石版画について アトリエ 292アンドレ・マッソンの変貌 アトリエ 301抽象芸術とピューリスム 美術手帖 38ブラックと神話的形態 みづゑ 553映画ブラック 美術手帖 45ピカソの詩 美術手帖 48ダリと「白い恐怖」 美術手帖 511952 芸術と実験 美術批評 5日本におけるフランス美術 ジャン・カスー(訳) 読売夕刊 7.7~8世界から見た日本の画ビエンナーレ国際展出品をめぐって 読売夕刊 9.16ふしぎな芸術の旅行-イサム・ノグチ小論 みづゑ 568或る風景の場合 風間完の絵について アトリエ 306福沢一郎論 みづゑ 560演奏会と造形 美術手帖 61アブストラクト・エージ 芸術新潮 3-5ヴィクトル・ブローネル アトリエ 313ダリ、ミロ、エルンスト 美術手帖 52パウル・クレエ 美術手帖 55ハンス・エルニ 美術手帖 59ブラック小論 美術手帖 62ブラックと本 美術手帖 62ルドンの花など みづゑ 561レオノール・フィニ みづゑ 5621953 国際彫刻コンクール顛末記 芸術新潮4-7瑛九のエッチング 美術手帖 74福田豊四郎(作家訪問) 美術手帖 66わが友アンリ・ルッソォ R・ドロネエ(訳) 芸術新潮 4-3、4クトー偶感 美術手帖 65ピカソ断想 美術手帖 73ホアン・ミロ 曇りのない絵 画ジョルジュ・デュテュイ(訳) みづゑ 570マーク・トビーとモリス・グレーヴス みづゑ 575マリー・レーモンとフレッド・クレーン みづゑ 5781954 現代の宗教美術 芸術新潮 5-12詩と絵画の握手のために 時事 6.19抽象と幻想 美術手帖 78現代絵画 芸術新潮 5-1エキゾティズム 芸術新潮 5-8絵画と写真 美術手帖 84画家と街の画廊 読売 6.23絵を描く子どもたち 読売 8.18ジャン・デュビュッフェ 美術手帖 86ピカソとふくろうの物語 みづゑ 588ピカソの戦争と平和 みづゑ 589ウィフレッド・ラムについて みづゑ 591ルソオは生きている みづゑ 5811955 断層の歴史 美術手帖 90銅版画の復活 みづゑ 596書か絵か-東西書の交流 読売 7.22古典芸術の再評価 読売 11.30今井俊満に みづゑ 604小山田二郎の芸術 みづゑ 598鶴岡政男(現代作家小論) 美術手帖 98アンリ・ミショオの「ムーヴマン」 美術手帖 102レジェとル・コルビュジェの近作 美術手帖 92オエィロン・ルドン 美術手帖 92異色作家列伝 芸術新潮 6-1~121956 シュルレアリズムその後 みづゑ 606閉ざされた古典と開かれた古典 美術批評 (一)現代絵画の風刺性 読売 2.20現代絵画と風刺性 国立近代美術館ニュース 24フランスの現代版画 国立近代美術館ニュース 18日本的非具象絵画の一断面 みづゑ 612福沢一郎の近作 みづゑ 616デュシャンのロート・レリーフ 美術手帖 106ミロ 芸術新潮 7-7セザンヌとピカソ 朝日 10.231957 日本に向けられる眼 読売夕刊 9.19記号について (1)(2) みづゑ 620 622朱の世界 芸術新潮 8-11今日のデザイン 読売夕刊 1.29博物誌の余白に-ピカソ素描集をめぐって 芸術新潮 8-12ジャックスン・ポロック 読売 10.22ジョルジュ・マチュー 三彩 92クレエの版画 芸術新潮 8-2ルドンの復活 芸術新潮 8-31958 現代詩と絵画 美術手帖 141実説近代芸術論 芸術新潮 9-5前衛美術の動向 国立近代美術館ニュース 40ヴェニス国際美術展 芸術新潮 9-8福沢一郎 読売夕刊 3.171959 「本」の中の流れている絵画のもう一つの世界 朝日 2.20詩画集・ミロ「ひとり語る」 芸術新潮 10-4フォンターナ訪問記 三彩 213アンドレ・ブルトンの書斎 みづゑ 646ムナーリ 美術手帖 158クレーの生と死 みづゑ 648クレー巡礼 芸術新潮 10-1来日したイタリアの二作家(ガレーリとアセットオ) 美術手帖 164一品制作とマスコミ 読売夕刊 1.13国際交流に根本的施策を 読売夕刊 7.13プレミオ・リソーネと日本の参加 美術手帖 162パリ・コラージュ3人展 みづゑ 652ヴェニス・ビエンナーレ展雑感 国立近代美術館ニュース 59前田常作 芸術新潮 10-9「新人」と共に30年 芸術新潮 10-71960 サド候爵の遺言執行式 みづゑ 664シュルレアリスム国際展をめぐって みづゑ 663日本の超現実絵画の展開 みづゑ 662加納光於(新人) 芸術新潮 11-5斎藤義重の近作 みづゑ 667フォートリエの沈黙の部分 みづゑ 658ムリーナのダイレクト・プロジェクション 現代の眼 62瑛九をいたむ ひとつの軌跡 美術手帖 1731961 公募団体は無用か 読売夕刊 9.20画家岡本太郎の誕生 芸術新潮 12-12クルト・シュヴィッタース 美術ジャーナル 17クルト・シュヴィッタース みづゑ 670アントニオ・タピエス みづゑ 6771962 MIRIORAMA動く芸術 美術手帖 200美術時評上・下 読売夕刊 3.16、171963 白紙の周辺 みづゑ 697クオ・ヴァディス 美術ジャーナル 45百の眼の物語 美術手帖 2161964 カポグロッシの作品について 世界 1ゾンネンシュターン展 芸術新潮 172ナルシスの変貌-ダリ 世界 2真珠論-ダリ(訳) 女の手帖 4-91965 アルプ・詩と彫刻 美術手帖 258ブルーノ・ムナーリ「フォークの言葉」 朝日ジャーナル 4.111966 変貌する家具-ステルピーニとデ・サンクティスの共同作品- 美術手帖 273ダリ現象 芸術新潮 197追悼・アンドレ・ブルトンの窓 みづゑ 743環境について-ある状況からの発言 美術手帖 2751967 編集部への手紙-ふたたび千円札事件をめぐって SD 361970 超現実主義と私の詩的体験 美術手帖 336ルネ・マグリット 芸術生活 248

水町和三郎

没年月日:1979/06/11

日本工芸会評議員、陶磁器研究家の水町和三郎は、6月11日すい臓ガンのため京都市左京区の自宅で死去した。享年89。1890(明治23)年4月23日佐賀市に生まれ、県立佐賀中学を経て1912年東京美術学校図案科に入学したが、14年東京高等工業学校工業図案科に転入学し17年同校を卒業した。20年国立陶磁器試験所に入所し、46年辞任するまで第三図案部長をつとめる。この間、40年に恩賜京都博物館(京都国立博物館)学芸委員を兼務する。46年吉野信次のすすめで陶磁器試験所を依願退職し、石黒宗磨、小山富士夫、荒川豊蔵、日根野作三と日本陶磁振興会を組織して全国陶磁の指導振興にあたる。52年、文部省文化財保護委員会専門委員に任命され、国宝、重要文化財並びに無形文化財の指定選定にあたる。55年文化財保護委員会の外郭団体として発足した社団法人日本工芸会の理事に就任し、毎年開催される日本伝統工芸展の普及振興に尽力する。66年勲四等旭日小綬賞を受賞。77年日本工芸会理事を辞し、評議員をつとめ、特に有田窯、多治見窯の指導に力を注ぐ。陶磁器の意匠の研究と古陶器の発掘につとめ、著書に『唐津』『伊万里染付大皿の研究』『古唐津』『創作陶芸資料』『肥前古窯めぐり』などがある

田中重久

没年月日:1979/05/24

仏教美術研究に生涯をかけた田中重久は、5月24日心筋こうそくのため京都市右京区の自宅で死去した。享年73。1905(明治38)年7月17日滋賀県に生れ、1925年県立膳所中学校卒業。同年4月東京美術学校に入学、26年3月中退。1931年早稲田大学国文科卒業。33年11月聖徳太子奉賛会研究員となる。36年6月、京都市文教局文化課勤務。これより京都の古美術案内の著書を逐次発表。 聖徳太子関係の研究の成果として、1942年「聖徳太子」を著わし、版を重ねた。その後、京都府立一中、洛北高校教諭の傍ら飛鳥時代より奈良、平安、鎌倉時代に及ぶ仏教美術関係の論文を多数発表した。川勝政太郎主宰「史迹と美術」誌に掲載論文は70篇に及ぶ。 「日本壁画の研究」は第二次大戦中に執筆、1944年に刊行されたものを79年に追補、復刻した。日本壁画の土、板、岩各壁画の総目録を意図、実査研究を行った。「日本に遣る印度系文物の研究」においては仏伝芸術、釈迦像、塔、堂、壁画の源流を追求した。 「別尊京都仏像図説」は、如来像彫刻をまとめ、その後の各地方の文化財調査の先鞭をつけた。1972年停年退職後も、死去の日まで、在野の硯学として健筆をふるった。主要著書京都の古建築 昭13年4月 京都市京都の彫刻 14年5月 同京都の庭園 15年5月 同西の京 薬師寺・他 16年5月 近畿観光会京都の仏画 16年5月 京都市京都史蹟古美術提要 16年9月 同京都仏画図説 16年10月 京都桑名文星堂奈良朝以前寺院史の考古学的研究 上・下 16年12月 東京考古学会京都古美術入門 17年5月 京都市聖徳太子 17年11月 大阪 東光堂別尊京都仏像図説 18年1月 京都臼井書房聖徳太子絵伝と尊像の研究 18年8月 京都山本工芸部日本に遣る印度系文物の研究 18年9月 大阪 東光堂広隆寺大鏡(英文) 25年9月 ユネスコ協会弥勒菩薩の指 35年1月 京都山本工芸部観音像 昭52年11月 京都綜芸舎奈良朝以前寺院址の研究 53年8月 白川書院日本壁画の研究 54年5月 京都綜芸舎

江本義数

没年月日:1979/05/18

微生物学者、学習院大学名誉教授、理学博士江本義数は、胃癌のため5月18日東京杉並区の浴風会病院で死去、享年86。1892年(明治25)年10月28日、東京市本所区に生まれ、学習院を経て、1917年東京帝国大学理科大学植物学科を卒業、34年「硫黄酸化細菌の生理」により理学博士の学位を授与され、同年学習院教授に任官、53年学習院女子短期大学教授(58年まで)、国士館短期大学教授に就任、61年国士館大学教授となり、学習院大学名誉教授の称号を授けられた。同49年天皇陛下に「温泉と硫黄バクテリア」について御進講、同年紺綬褒章を受章した。58年より74年まで東京国立文化財研究所保存科学部の調査研究員となり、法隆寺金堂焼損壁画、高松塚古墳壁画の微生物の調査と防除処理の研究を行った。主著は終生の研究を集大成した『日本変形菌原色図譜』(英文、1977年、産業図書)である。

由来哲次

没年月日:1979/03/28

哲学者で、日本浮世絵協会理事、古美術蒐集家の由良哲次は、3月28日食道ガンのため東京都練馬区の小山病院で死去した。享年82。号は白幽。1897(明治30)年2月7日奈良県添上郡に生まれ、滋賀県立師範学校、東京高等師範学校専攻科を経て京都帝国大学文学部に入学し、西田幾多郎、田辺元の下で哲学を専攻した。同学部では内藤湖南の史学科のゼミナールを好んで傍聴し、この頃買い求めた曽我蕭白の山水画の小幅が後の古美術蒐集のきっかけになったという。1927年同学部哲学科を卒業し、同学院を経て翌年ハンブルグ大学哲学科へ入学した。同大学ではカッシィラーの下でディルタイの解釈学を中心に研究をおこない、1931年学位論文『精神科学方法論の研究』にてドクトル・デァ・フィロゾフィの学位を受けた。帰国して同年東京高等師範学校教授となり、34年に東京文理科大学講師を兼任した。38年に日本大学芸術科教授を兼任して芸術認識論及び鑑定法を講義し、43年には神宮皇学館大学講師を兼任して日本思想史及び古神道を講義したが、45年に敗戦責任をとり東京高等師範学校を辞職した。戦後派1954年頃より日本思想史、美術史、日本古代史の研究に専念し始め、在野学者として活躍した。美術史の分野では昭和73年長野県上高井郡小布施町岩松院の大天井絵に着目して北斎研究をおこない、翌年二月その成果の一部を朝日新聞紙上に発表した。その後ボストン美術館改修費に三千万円の寄附をおこなったのをはじめ、1975年に奈良県学術振興に一億円を、77年に同県橿原考古学研究所に三億円を寄附し、78年には曽我蕭白、葛飾北斎の作品を中心とした生涯の美術品蒐集「由良コレクション」を奈良県に寄贈して79年3月勲三等瑞宝章を受章した。80年3月には奈良県立美術館増築落成を記念して、同館にて「由良コレクション展」が開催された。川端康成、中山義秀らと親交があったが、中学同級の横光利一との親交は特に篤く、横光没後三十年の追悼記念集の出版に際し自ら編集の任にあたった。著書は『歴史哲学研究』(1937年、目黒書店)、『南北朝編年史』(1964年、吉川弘文館)、『総校日本浮世絵類孝』(1980年、画文堂)、『邪馬台国は大和である』(1981年、学生社)など50点を超える。

青山二郎

没年月日:1979/03/28

美術評論と装丁家として知られる青山二郎は、心臓病のため東京渋谷区の自宅で死去した。享年77。少年時代から李朝陶器に関心を寄せ、収集して陶器の図録「鴎香譜」を刊行するなど陶磁器研究でも知られる。また若い頃は文学にも親しみ、小林秀雄、中村光夫、河上徹太郎、中原中也ら文章化や詩人などの交遊があった。著書に「陶経」「眼の引越」があり、戦後小林秀雄とともに創刊した「創元」に梅原龍三郎論、富岡鉄齋論を発表した。また装丁では中原中也「在りし日の歌」をはじめ多くの作品がある。

志水楠男

没年月日:1979/03/20

南画廊主の志水楠男は、3月20日心不全のため東京都杉並区の自宅で死去した。享年52。1926(大正15)年4月29日東京都に生まれる。44年自由学園高等科を中退、翌年応召する。48年数寄屋橋画廊につとめ、50年山本孝と共同で東京画廊を設立、翌年日本橋に南画廊を創設する。その後海外の前衛美術を積極的に紹介し、サム・フランシス、ジャスパー・ジョーンズ、アンドレ・デュシャンなどの作品を輸入する一方、山口長男、オノサト・トシノブ、堂本尚郎、飯田善国らの業績を紹介した。また、日本洋画商協同組合理事をつとめ、のち同組合から分離し東京相互会理事となった。

赤松俊秀

没年月日:1979/01/24

文化財保護審議会専門委員、歴史的風土審議会専門委員、仏教美術研究上野記念財団評議員、四天王寺女子大学教授、京都大学名誉教授、文学博士赤松俊秀は、1月24日脳出血のため京都市北区の自宅で死去、享年71。1907(明治40年)4月28日、北海道石狩国上川郡に生まれ、北海道町立旭川中学校、第三高等学校を経て、28年京都帝国大学文学部に入学、国学史を専攻、31年卒業後文学部副手となった。32年京都府史跡勝地保存委員会臨時委員を嘱託されてより51年京都府教育委員会の初代文化財保護課長を退職するまでの19年間、戦中戦後の、京都府の史跡、寺宝等の文化財の調査と保存に専念した。その間、京都帝国大学文学部、大谷大学(教授嘱託)、同志社大学(61年まで)に出講、51年京都大学文学部助教授に就任、53年教授に昇任、62年文学博士の学位を授与され、65年文化財保護審議会専門委員に任命され、71年京都大学を定年退官し、京都大学名誉教授の称号を受けた。その間、愛媛大学、香川大学、岡山大学、関西学院大学、東北大学、名古屋大学、大谷大学へ出講、72年大谷大学文学部教授に、75年四天王寺女子大学教授に就任、74年には多年に亙る文化財保護の功績により紫綬褒章を授けられた。 その日本古代、中世史研究は、仏教、社会経済、政治、美術、文学、古文書と多方面に及び、主要著書としては、『鎌倉仏教の研究』(1957年、平楽寺書店)、『続鎌倉仏教の研究』(66年、平楽寺書店)、『古代中世社会経済史研究』(72年 平楽寺書店)、『京都寺史考』(同年、法蔵館)、『平家物語の研究』(80年、法蔵館)があり、史料公刊には『醍醐寺新要録』(51~53年、京都府教育委員会)、『隔冥記』(58~67年、鹿苑寺)、『教王護国寺文書』(60~72年、平楽寺書店)等がある。

蓮實重康

没年月日:1979/01/11

美術史家、東海大学教授、文学博士蓮實重康は、肝臓腫瘍のため1月11日東京大学附属病院で死去、享年73。1904(明治37)年5月30日、東京市麻布に生まれ、静岡県立静岡中学、静岡高等学校を経て、30年京都帝国大学文学部哲学科(美学美術史専攻)卒業、大学院に入学、32年東京帝室博物館美術課嘱託、36年帝室博物館鑑査官補に任官、41年帝室博物館鑑査官に昇任、50年国立博物館より文化財保護委員会事務局保存部美術工芸課に転任した。その間、前後4回軍務に服し、終戦をビルマのラングーンで迎え、46年帰還した。49年美術史学会創立により2年間学会代表となり、52年奈良国立博物館学芸課長に就任、54年度京都大学文学部に講師として出講、57年京都大学文学部助教授に転任、60年教授に昇任、61年文学博士の学位を授与され、68年定年退官、東海大学教授に就任した。その間、奈良学芸大学、広島大学に出講、海外ではコペンハーゲン、ボン、ミシガンの各大学で講義し、また京都大阪両府の文化財専門委員を委託された。 研究の領域は多方面に亙が、その中心は日本の中世近世絵画史であり、京都大学における講義もその分野に集中している。主著は「雪舟等楊新論-その人間像と作品-」(1977年、朝日出版社)。1960年文化財保護に尽力した功績により文化財保護委員会より表彰され、78年勲三等に叙し、瑞宝章を授けられた。

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