本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





小山やす子

没年月日:2019/02/27

読み:こやまやすこ  書家で文化功労者であった小山やす子は、2月27日、誤嚥性肺炎のため死去した。享年94。 1924(大正13)年8月25日、東京・墨田区に生まれる。1950(昭和25)年より川口芝香に師事。61年日展初入選、79年日展特選となり、87年には日展審査員、1999(平成11)年日展評議員、2000年から16年まで現代書道二十人展に出品。 古筆に魅せられ、古筆の本が少なかった時期は写真を拡大して学書し、とくに「本願寺本三十六人家集」(国宝、西本願寺蔵)が京都で展示された際には毎週東京から通ったという。古筆を臨書し、目や頭に焼き付けた特徴を反射的に運筆できるようにすることが創作にあたって大切だと述べる。『貫之集』『山家集』をはじめとする古典を中心に書写する作品を数多く制作し、昭和から平成にわたって現代の仮名書をけん引してきた。毎日新聞社主催のサンパウロ展(1975年)など海外展にも出品、自身の個展を多胡碑美術館(2001年)ほかで開催。また、51年より書道研究「玉青会」を組織し、後進の育成にも尽力した。 毎日書道会理事、日展参事、日本書道美術院常任顧問、かな書道作家協会名誉顧問等歴任。77年オリベッティ国際賞、96年日展会員賞、02年毎日書道展文部科学大臣賞、03年毎日芸術賞、09年恩賜賞・日本芸術院賞受賞。03年旭日小綬章、13年紺綬褒章受章。16年、書の分野で女性初の文化功労者となった。19年旭日中綬章受章。

江口草玄

没年月日:2018/11/16

読み:えぐちそうげん  井上有一等と墨人会を結成し、書の革新に努めた書家の江口草玄は11月16日、老衰で死去した。享年98。 1919(大正8)年12月21日、新潟県刈羽郡西中通村(現、柏崎市)に生まれる。戦前より書作を始め、雑誌『南海書聖』『健筆』『書道藝術』等の競書に作品を提出。1940(昭和15)年に応召して中国へ赴くも銃創を負い内地送還され、陸軍病院で転地療養する中で再び書作に戻る。戦後、48年に創刊した研精会(上田桑鳩会長、森田子龍主幹)の『書の美』の競書に出品、桑鳩の美術的造形性にまで広がる視野に覚醒し、期待の新人の一人として見られるようになる。その一方で鈴木鳴鐸の『碧樹』(1946年創刊、翌年『蒼穹』に改題)も購読し、鳴鐸の批判精神に共鳴する。50年第6回日展に「幽居」が入選、特選候補となるも翌年の第7回日展に出品した釋處默詩「聖果寺」は落選し、師風伝承が色濃く残る書壇への不信感を募らせる。そうした中、51年洋画家長谷川三郎による「現代美術について」講習会に参加し、同じく参加者の中村木子、森田子龍、関谷大年と意気投合、新進気鋭の書家だった井上有一も交えて、52年墨人会を結成する。翌年京都へ転居。墨人会では長谷川三郎やイサム・ノグチ、京都大学の美学者井島勉、哲学・仏教学者久松真一、また津高和一や吉原治良等関西の美術家達との交流の中で、旧態的書から離れて先鋭化し、毛筆の代わりに鏝を使い、直接練り墨を手で掴み書く等の実験的制作により、毛筆と文字の拘束からの離脱を試みるも、55年にベルギーの画家ピエール・アレシンスキーによる映画「日本の書」撮影の際、書の骨格は文字を書くことでしか表せないのを自覚し、文字による作品制作に回帰していく。65年、初個展を京都市美術館で開催。76年、会創立の趣旨が失われたとして墨人会を脱退。以降、個展やグループ展等で作品を発表し続ける。78年作品集『草玄ことば書き』を刊行。83~84年頃に江戸時代の俳人慶紀逸の『俳諧武玉川』に魅せられ、その句を使って作品を作り出すようになる。一方でその活動は自身の書作だけに止まらず、子供たちに対し筆法伝授の習字ではなく、のびのびとした書教育を『ひびき』誌の発行を通じて実践。また80年より私家版の冊子『山階通信』を発行し、近況報告の他、良寛、池大雅、鈴木鳴鐸、白隠、中野越南等の書人の研究を同誌上で行なった。1996(平成8)年には新潟県立近代美術館で「戦後の書・その一変相 江口草玄」展、また亡くなる直前の2018年5月26日~7月1日にも同館で「白寿 江口草玄のすべて」展が開催されている。

古谷蒼韻

没年月日:2018/08/25

読み:ふるたにそういん  書家で文化功労者であった古谷蒼韻は、8月25日、肺炎のため死去した。享年94。 1924(大正13)年3月3日、京都府巨椋池西の北川顔に生まれる。本名繁(しげる)。1939(昭和14)年尋常高等小学校を卒業し、京都府立師範学校に入学。42年、師範学校に書道専攻科が設立され、中野越南に師事した。小学校教員となり、46年、新制東宇治中学へ書道教員として赴任。隣接する黄檗山萬福寺で費隠の額に感銘を受ける。 51年、水明書道展に出品、53年、第5回毎日書道展に出品し秀作となる。この年、辻本史邑にも師事。翌54年、第10回日展に初入選し、以後、新日展にも出品しつづけ、62年には無鑑査出品、68年、日展会員となる(2013年まで)。58年、辻本史邑急逝により村上三島に師事。71年、第15回現代書道二十人展に推薦作家として出品、73年、日本書芸院展覧会部副部長、日本書芸院特別展観の企画構成を担当。78年、第30回記念毎日書道展の実行委員、同記念中国書蹟名品展特設部展実行委員。以後、読売書法会展、日本書芸院、日展で理事などを歴任した。 自身の展覧会としては、2000(平成12)年に書業五十年記念展を東京と大阪で開催。12年、米寿記念展は京都・東京・名古屋・福岡を巡回。最初の師・中野越南の教えである「真の書」を目指して、和漢の原跡を学びながら、独自の書風を打ち立てた。原跡の鑑賞も重要視し、日本書芸院や読売書法会展では「昭和癸丑・蘭亭展」「禅林墨蹟展」等数多くの展覧会に携わり、普及にもつとめた。 81年、第13回日展出品「流灑」が内閣総理大臣賞。84年、第16回日展出品「萬葉歌」が日本芸術院賞。93年、京都市文化功労者顕彰。06年、日本芸術院会員。10年、文化功労者。

高木聖鶴

没年月日:2017/02/24

読み:たかきせいかく  仮名の書家で文化功労者、文化勲章受章者であった高木聖鶴は2月24日、肺炎のため死去した。享年93。 1923(大正12)年7月12日、岡山県総社市に生まれる。本名郁太(いくた)。旧制高梁中学を卒業ののち会社に勤めながら、1947(昭和22)年、書家内田鶴雲に師事した。50年に第6回日展で初入選し、73年改組第5回日展では特選を受賞。日展においては、日展審査員、会員、評議員、理事などを歴任した。 67年には聖雲書道会を主宰し、78年には内田鶴雲のあとを継ぎ朝陽書道会会長になり、後進の育成にも努める。自身の発表の場としては、70年に岡山市天満屋にて「高木聖鶴書道展」を開催したのをはじめ、83年岡山市森川美術、93年・98年岡山高島屋、2001(平成13)年総社市図書館など、地元岡山を中心に展覧会を開催。出身地である岡山県総社市で活動を続け、85年山陽新聞賞(文化功労)、93年岡山県文化賞ほか受け、04年には総社市名誉市民となった。 91年から11年まで朝日現代書道二十人展のメンバーになり、読売書法会最高顧問、日本書芸院最高顧問、全国書美術振興会名誉顧問、全日本書道連盟名誉顧問、岡山県書道連盟名誉顧問、朝陽書道会会長をつとめる。日本書道をユネスコ無形文化遺産への登録を目指す運動にも尽力した。 学書のために平安時代の書を中心に収集もしており、その秀逸なコレクションを東京国立博物館、九州国立博物館他に寄贈している。日々の鍛錬の大切さを訴えつづけ、「古今和歌集」をはじめとする古典研究につとめ、仮名のみならず、日本・中国の漢字書も学んだ。上代の仮名に倣った小さな仮名の作品も数多く揮毫したが、近代的な展覧会での展示に適した大字の仮名の作品も残している。 平安朝の仮名を習得した上で現代の感覚を加味して表現した仮名に漢字を融合させ、独自の書風を打ち出した。その書は気品があると高い評価を受け続け、仮名書の第一人者として業界を牽引した。 そのほか受賞歴は次のとおりである。91年、第23回日展で「古今和歌集抄」が内閣総理大臣賞を受賞94年、紺綬褒章95年、第26回日展(94年)に出品した「春」により、第51回日本芸術院賞を受賞98年、勲四等旭日小綬章06年、文化功労者13年、文化勲章受章17年、従三位追贈

杉岡華邨

没年月日:2012/03/03

読み:すぎおかかそん  かな書の第一人者で文化勲章受章者の杉岡華邨は3月3日午前1時16分、心不全のため奈良市の県立奈良病院で死去した。享年98。 1913(大正2)年3月6日、奈良県吉野郡下北山村に生まれる。本名正美。1933(昭和8)年奈良師範学校(現、奈良教育大学)本科、34年専攻科を卒業後、郷里の尋常高等小学校に赴任。そこで習字の研究授業を命じられたのを機に書道に取り組み、40年に師範学校中学校高等女学校習字科教員免許状を取得(文検合格)。同年より書家辻本史邑のもとで本格的な書の勉強を始める。41年より奈良県立葛城高等女学校、43年より郡山高等女学校で勤務。この頃、国語学・国文学者の吉澤義則の著作『日本書道隨攷』や『日本書道新講』『日本国民書道史論』等から強い影響を受けてかなの道へ進むことを決意し、46年より尾上柴舟に師事、東京へ稽古に通い、柴舟が心酔する粘葉本和漢朗詠集を学ぶ。日展へは三度の落選を経て51年第7回日展に「はるの田」が初入選、その後も二度の落選を経験し、恒常的に入選するようになったのは54年第10回展の「平城京」以降と、40歳を過ぎての遅いデビューであった。57年に尾上柴舟が没すると日比野五鳳に師事し、五鳳のもとで寸松庵色紙、継色紙、西行系の古筆を学ぶ。翌年第1回新日展で西行の筆勢を彷彿とさせる「香具山」、61年第4回新日展で大字かな制作に取り組んだ「鹿」がともに特選・苞竹賞を受賞。65年より哲学者久松真一のもとに通い、思想的指導を受ける。76年日展評議員となり、78年改組第10回日展で「酒徳」が文部大臣賞、83年には「玉藻」により日本芸術院賞を受ける。広く和漢の書法を研究、とくに平安朝のかな書法を極め、宗教的精神や美学、文学的背景も含めた豊かな素養に基づき、流麗典雅で格調高い書風を確立した。84年読売書法会発足に伴い創立総務、85~88年日本書芸院理事長を務める。1989(平成元)年芸術院会員となる。95年文化功労者となり、2000年文化勲章を受章。この間の98年に回顧展「かな書の美 杉岡華邨展」を松屋銀座・心斎橋大丸で開催。この頃日本画家の中路融人との合作を手がけるようになり、同回顧展にも「最上川」を出品。同年奈良市制百周年に際し作品を寄贈したのを機に、2000年奈良市杉岡華邨書道美術館が開館、館長に就任する。01年奈良市名誉市民に推される。06年に脳梗塞で倒れるも翌年には回復、その後も制作を続け、日展には11年第43回展への「妹思ふ」まで出品、翌12年1月の「近江京感傷」が絶筆となる。13年に松屋銀座・高島屋大阪店で開催の生誕100年記念展を心待ちにしながらの死であった。 旺盛な創作活動とともに一貫して教育、研究にも携わり、48年より大阪第一師範学校教官、50年大阪学芸大学(現、大阪教育大学)専任講師、59年助教授、70年教授となって長らく後進の指導に努め、81年名誉教授となる。この間51年より文部省内地研究員として京都大学文学部に留学し、美学美術史、中国文学史、さらに平安朝文学にあらわれた書のあり方を研究。その後も研究心は尽きず、源氏物語にみられる書の研究をライフワークとし、07年に『源氏物語と書生活』(日本放送出版協会)を上梓した。その他の主要著書は以下の通り。『かな書き入門』カラーブックス(保育社、1980年)『古筆に親しむ かなの成立と鑑賞』(淡交社、1996年)『書教育の理想』(二玄社、1996年)『かな書の美を拓く 杉岡華邨・書と人』(ビジョン企画出版社、1998年)

榊莫山

没年月日:2010/10/03

読み:さかきばくざん  書家の榊莫山は、10月3日、急性心不全のため奈良県天理市内の病院で死去した。享年84。1926(大正15)年2月1日、母方の実家である京都府相楽郡大河原村(現、南山城村)で生まれる。戸籍は三重県名賀郡古山村(現、伊賀市)。本名齊。1937(昭和12)年、伊賀の花垣尋常高等小学校6年次に伊賀学童競書会で「聖恩與天高」が特選受賞。38年、旧制上野中学校に入学し、松本楳園に書を、佐々木三郎に油彩画を習う。43年、三重師範学校に入学。45年、終戦後に復員し、小学校教員となる。46年、奈良で日本書芸院設立者でもある書家の辻本史邑に師事。また、この時期には、京都大学文学部に内地留学し、井島勉のもとで美学を学ぶ。50年から、日本書芸院公募展に出品。51年、第5回日本書芸院公募展に出品した「放蕩」、翌年第6回展の「何将軍山林詩」で、最高賞にあたる推薦一席を二年連続受賞。このころ、伊賀の文化人菊山当年男の勧めによって、大阪に転居している。また、奎星会展では、52年の第1回から3回連続で最高賞にあたる奎星会賞を連続受賞。20代の若さにして、日本書芸院と奎星会の審査員となる。しかし、書を他の造形芸術を含む広大な領域の中で捉えていた莫山は、書を他の諸芸術から区別し、その独自性を確保しようとする保守的な書壇に対する疑問を抱き、57年11月に師の辻本史邑が死去したことをきっかけに、日本書芸院を離れる。61年には、奎星会同人も辞退し、無所属となる。その後は、「土」「女」「花」などの一文字にイメージを重ねる作品などで独自の道を模索。画廊や百貨店で個展を開くのみならず、同郷の元永定正をはじめとする他分野の美術家との合作や二人展などを行うほか、テレビやラジオへの出演、多数の著作を執筆するなど広範な分野で活躍する。68年、書の研究グループである山径社を主宰(77年解散)。76年、大阪成蹊女子短期大学教授を務める。81年、両親が相次いで死去し、郷里の伊賀へと戻る。故郷の山野を歩き、自然に着想を求めたことで、「大和八景」(84年)や「伊賀八景」(94年)といった連作を生み出し、詩書画一体の作風を確立。1989(平成元)年、近畿大学文学部教授。92年、東大寺南大門仁王像阿形像像内に納入する宝篋印陀羅尼経などを制作。93年から96年にかけては、焼酎のテレビCMに登場し、広く一般にもその人柄が親しまれるようになる。死去の翌年2011年、遺言により作品108点が三重県立美術館に寄贈され、12年4月に同館で榊莫山展が開催された。

小林斗盦

没年月日:2007/08/13

読み:こばやしとあん  篆刻家で日本芸術院会員、日展顧問の小林斗盦は8月13日午後9時頃、心不全のため東京都千代田区の自宅で死去した。享年91。1916(大正5)年2月23日埼玉県川越市に生まれる。本名庸浩(ようこう)。小学校5年の時、手工の授業で蝋石に印を刻らされたことから印に興味を持つ。くわえて書が好きだったことから、1931(昭和6)年書法を比田井天来、篆刻を石井雙石に師事。37年東方書道会展に初出品、38~42年特選受賞。41年河井荃廬に篆刻を学び、45年より西川寧に師事。48年第4回日展に「摩苔除菊蠧移蘭飴」が初入選、50年第6回日展、59年第2回新日展では特選を受賞。この間、49年加藤常賢に文字学、漢籍、53年太田夢庵に中国古印学の指導を受ける。古典に対する知識研究がなければ篆刻とはいえないと主張し、早くから古印の研究に着手。日本現存の中国古印を探訪するとともに、古銅印譜の蒐集に傾注。67年には東洋文庫での講演「漢代官印私見」で、「漢委奴国王」金印の真偽論争に終止符を打つ。また近代中国の印学を究め、明代から近代までの名印を集大成した『中国篆刻叢刊』40巻の編集を担当、中国でも高く評価され、研究者に大きな影響を与えた。制作においても“実事求是”に基づく、高い知性と新しい風格を備えた篆刻の美は中国近代篆刻の正統に連なるものであり、76年改組第8回日展で「大象無形」が文部大臣賞、84年には「桑遠能邇」(1983年、改組第15回日展出品)により日本芸術院賞・恩賜賞を受賞。同年日展理事に就任。85年中国杭州の印学団体である西冷印社名誉理事に推薦。1990(平成2)年日本篆刻会(93年全日本篆刻連盟と改称)結成、初代会長に就任。93年篆刻家で初の日本芸術院会員となる。94年北京で初個展(中国美術館)。98年文化功労者となり、2004年に篆刻家として初めて文化勲章を受章。晩年、長年収集した中国稀覯印譜及び篆刻資料423件を東京国立博物館に寄贈した。編著書に『篆書千字文』(二玄社、2000年)、『篆刻全集』(二玄社、2001~02年)等がある。

村上三島

没年月日:2005/11/20

読み:むらかみさんとう  書家で文化勲章受章者の村上三島は11月20日、心不全のため大阪府吹田市の病院で死去した。享年93。1912(大正元)年8月25日、瀬戸内海の愛媛県大三島に生まれる。本名正一(まさかず)。15年大阪府三島郡吹田町(現、吹田市)に移る。中学時代に股関節カリエスを病んだことがきっかけとなって書の道に入り、1927(昭和2)年大阪八幡筋の書家片山萬年に師事。31年大阪市立泉尾工業学校を卒業。同年京都の平安書道会に隷書作品を初出品、翌年優秀賞を受け、以後3年連続して受賞する俊英ぶりを発揮。そのかたわら儒学の私塾洗心洞で漢詩・漢文の素読を習う。37年頃より明末清初の文人王鐸の書風に惹かれるようになり、43年大日本書道報国会近畿支部展覧会に王鐸調の作品で応募、漢字部門第一席となる。これを機に辻本史邑と出会い、45年より師事。48年書部門が新設された第4回日展に「杜甫九日詩」で入選し、翌年特選を受ける。55年書道研究集団である長興会を結成。64年柴静儀詩「秋分日憶子用済」で日展文部大臣賞、68年杜甫詩「贈高式顔」で日本芸術院賞を受賞。三島の書はいずれの字体も自然な筆脈、おだやかな筆致で、情趣豊かな作風を見せる。王羲之の書法を習いつくした練度の高い筆技で、王鐸の草書連綿体に独自の解釈を加え、また後年には良寛に憧れ、奔放で躍動感溢れる作風を築く。篆、隷、楷、行、草の各書体で創作する希少な作家でもあった。61年に日本書芸院理事長に就任。82年郷里大三島に村上三島記念館を建設。85年芸術院会員となる。中国を再三訪れて日中書道交流にも努め、1993(平成5)年上海博物館の特別顧問・特別研究員に就任。同年文化功労者となる。94年話し言葉を作品化する“読める書”を提唱し、「川端文学を書く村上三島展」を開く。また翌95年から読売書法展に平易で読みやすく、かつ美しい調和体部門を設けるなど書道の裾野を広げることにも尽力した。98年には文化勲章を受章。編書に『王鐸の書法』(二玄社 1979~82年)。没後の2007年に大阪と東京の高島屋で回顧展が開催されている。 

金子鴎亭

没年月日:2001/11/05

読み:かねこおうてい  書家で文化勲章受章者の金子鴎亭は11月5日午前11時18分、肺炎のため東京都新宿区の病院で死去した。享年95。1906(明治39)年5月9日、北海道松前郡雨垂石村(現松前町静浦)に生まれる。本名賢蔵。1921(大正10)年札幌鉄道教習所に入学、そこで大塚鶴洞の指導により書を古典から直接学習することを覚え、とくに北魏の高貞碑を学ぶ。24年鉄道に勤務しながら川谷尚亭の主宰する『書之研究』を購読、尚亭に入門し通信教育を受ける。その後鉄道を退職し函館師範学校二部に入学、1929(昭和4)年同校を卒業し、小学訓導になる。32年上京、本所高等学校で教鞭をとるかたわら戦前書道における革新運動のリーダーであった比田井天来に師事、天来の書学院で中国の正統な漢字書を学ぶ。33年『書之研究』誌上に漢字とかなを交えた革新的な「新調和体論」等、論説を毎月発表、35年には『書之理論及指導法』(北海出版社)を刊行し、時代を反映した芸術としての現代書の創造を提唱する。37年天来企画の第1回大日本書道院展で特別賞受賞。47年かな書家の飯島春敬とともに毎日新聞社に日本書道の大合同展開催を建議、交渉を重ねた末、翌年東京都美術館にて毎日書道展が創設される。52年、および63年以降、全国戦没者追悼式の標柱に「全国戦没者追悼之標」(75年より「全国戦没者之霊」)を揮毫、1993(平成5)年まで続けることになる。66年第9回日展出品作「丘壑寄懐抱」により文部大臣賞、67年日本芸術院賞を受賞。64年に創玄書道会を結成して以来、石川啄木や宮沢賢治などの近代文学を素材とした「近代詩文書」を提唱し、古い詩文から離れ現代人の心に語りかけ、親しめる清新な書により現代書道に新領域を開いた。73年には近代詩文書作家協会を設立。84年北海道立函館美術館に自作107点、および収集した東洋の書画・陶磁器や美術館系図書を寄贈、86年に開館なった同美術館内に鴎亭記念室が開室される。87年、井上靖の西域詩篇を題材にした「交脚弥勒」で毎日芸術賞受賞。同年文化功労者となり、90年文化勲章受章。87年には北海道立函館美術館で「現代書の父―金子鴎亭六十年のあゆみ」、93年には板橋区立美術館で「金子鴎亭―四季を謳う」展が開催される。著書に『入門毎日書道講座・近代詩文書1・2』(毎日新聞社 1976・77年)、『書とその周辺 金子鴎亭対談集』(日貿出版社 1984年)がある。

森田子龍

没年月日:1998/12/01

読み:もりたしりゅう  書家の森田子龍は12月1日午後7時、心筋梗塞のため滋賀県大津市の自宅で死去した。享年86。明治45(1912)年、兵庫県豊岡市に生まれる。昭和22(1947)年上田桑鳩らと書道芸術院を創設。翌年には『書の美』を発刊、同誌は書道芸術院の機関誌的役割を果たす。また抽象画家長谷川三郎と交友を深め、同25年秋から『書の美』に絵画を含めた実験作品を公募するα部を設けて、長谷川にその選評をゆだねた。同26年には京都において書芸術総合誌『墨美』を創刊、同誌は海外の前衛美術を積極的に紹介し、津高和一や吉原治良ら関西の抽象画家達に大きな影響を与えるとともに、海外の画家にも日本の前衛書を知らしめる媒体となった。同27年にはより前衛的な運動をめざして井上有一らと墨人会を結成。さらに異ジャンルの前衛的な作家達を糾合した現代美術懇談会(ゲンビ)が同年発足すると、これに参加した。また森田は、ニューヨーク近代美術館の「日本の建築と書」展(同28年)、カーネギー国際美術展(同33年)、フライブルグ書展(同35年)、モントリオール万国博美術展(同42年)等に出品し、書と西洋美術の交流に貢献した。同55年京都市より京都市文化功労者として表彰、同60年、京都新聞文化章を受賞、同61年京都市美術館で「今日の作家3 森田子龍」展が、また平成4(1992)年に兵庫県立近代美術館で「森田子龍と『墨美』」展が開催された。

西川寧

没年月日:1989/05/16

書家、中国書道史家で、日本芸術院会員、文化勲章受章者の西川寧は、5月16日急性心不全のため東京都目黒区の東京共済病院で死去した。享年87。現代書道界の重鎮として活躍した西川寧は、明治35(1902)年1月25日西川元譲の三男として東京市向島区に生まれた。はじめ吉羊と号し、のち安叔と字し、靖庵と号す。父元譲は字を子謙、号を春洞と称した書家で、幼時から神童をうたわれ、漢魏六朝普唐の碑拓法帖が明治10年代にわが国にもたらされるや、その研究に志し、また説文金石の学にも通じ書家として一派をなした。13歳で父春洞を亡くし、大正9(1920)年東京府立第三中学校を経て慶應義塾大学文学部予科に入学、この頃中川一政と親炙した。同15年同大学文学部支那文学科を卒業。在学中、田中豊蔵、沢木梢、折口信夫の学に啓発された。卒業の年から母校で教鞭をとり、のち同大教授として昭和20年に及んだ。昭和4年、中村蘭台主催の萬華鏡社に加わり、翌5年には金子慶雲らと春興会をおこし雑誌「春興集」を創刊、また、泰東書道院創立に際し理事として参加、この時、河井荃廬と相識る。同6年、最初の訪中を行い、同年『六朝の書道』を著す。同8年、金子、江川碧潭、林祖洞、鳥海鵠洞と謙慎書道会を創立。同13年、外務省在外特別研究員として北京に留学、同15年までの間、山西(大同雲崗他)、河南(殷墟)、山東(徳州、済南他)など各地の史蹟、古碑を訪ね、中国古代の書を独力で精力的に研究し、帰国後の創作ならびに研究活動へと展開させた。とくに、創作においては、従来とりあげられることの少なかった篆書・隷書に、近代的解釈を加え独自の書風を確立していったのをはじめ、楷書においては、六朝の書風を基礎とした豪快な書風を確立して書道界に新風を吹き込んだ。同16年『支那の書道(猗園雑纂)』を印行、同18年には田屋画廊で最初の個展(燕都景物詩画展)を開催した。戦後は、同23年に日展に第五科(書)が新設されて以来、審査員、常務理事などをつとめ運営にあたった。同30年、前年の日展出品作「隷書七言聯」で日本芸術院賞を受賞、同44年日本芸術院会員となる。この間、同24年、松井如流と月刊雑誌『書品』を創刊、同56年まで編輯主幹をつとめ、また、同22年から37年まで東京国立博物館調査員として中国書蹟の鑑査と研究にあたったほか、自ら深く親しんだ中国・清朝の書家趙之謙の逝去七十年記念展をはじめ、同館の中国書の展観を主辨した。また、同35年には、「西域出土 晉代墨跡の書道史的研究」で文学博士の学位(慶應義塾大学)を受けた。一方、同34年から同40年まで東京教育大学教授をつとめたほか、東京大学文学部、国学院大学でも講じた。戦後も二度中国を訪問、また、ベルリン、パリ、ロンドン等を二回にわたって訪ね、ペリオ、スタイン、ヘディン等によって発掘された西域出土古文書の書道史的調査を行った。同52年、文化功労者に挙げられ、同60年には書家として初めて文化勲章を受章した。作品集に『西川寧自選作品』(同43年)、『同・2』(同53年)等、著書に『猗園雑纂』(同60年再刊)等がある他、すぐれた編著書を多く遺す。没後、従三位勲一等瑞宝章を追贈される。また、自宅保存の代表作の殆んどを含む遺作百数十点余は、遺志により東京国立博物館へ寄贈された。平成3年春から著作集の刊行が予定されている。

鈴木翠軒

没年月日:1976/09/26

日本芸術院会員鈴木翠軒は、9月26日、心不全のため東京都港区の済生会中央病院で死去した。享年87。本名春視。号は翠軒のほか、送夢、流萍、剪燭庵など。明治22(1889)年1月5日愛知県渥美郡に長尾久治郎の五男として生まれ、大正2年鈴木た志と結婚、改姓した。明治44年愛知県第一師範学校第二部を卒業、大正5年文部省習字科検定試験に合格、同8年上京し、丹羽海鶴に師事する傍ら府立五中教諭、開成中学教員を経て、昭和5年二松学舎修業、同年泰東書道院理事となる。同7年から13年まで文部省嘱託として「国定甲種手本」を揮毫、また同8年から24年まで文部省中等教員検定試験委員をつとめ、小中学校の書道教育に大きな影響を与えた。戦後も昭和27年、高等学校検定教科書「現代書範」、28年、小学校検定教科書「新書き方」を揮毫した。23年日展審査員、25年日本書作院会長、33年日展評議員、35年日展常務理事をつとめたが、44年日展改組に伴い、日展役員を辞した。31年から青雲会を主宰し、雑誌「青雲」を刊行した。32年第12回日展出品作品「禅牀夢美人」によって芸術院賞受賞、34年芸術員会員、43年文化功労者、49年勲二等瑞宝賞を受賞した。漢字は初唐の楷書をもとに空海、橘逸勢、嵯峨天皇の三筆を研究し、かなは寸松庵色紙をもとに枯淡な中に力強い書風を生みだした。著書に「翠軒書談」、「新講書道史」、「新説和漢書道史」、「翠軒いろは」などがある。参考「書人翠軒」(伊東参州編・昭和36年 二玄社)。

田中塊堂

没年月日:1976/02/01

日展評議員、帝塚山学院大学教授文学博士田中塊堂は、2月1日、胃ガンのため大阪市の関西電力病院で死去した。享年79。本名英市。明治29(1896)年2月10日、岡山県小田郡に生まれた。大正11年大阪貿易語学校英専科卒。同13年川谷尚亨に師事し書を学んだが、かなは独学で古筆を研究した。相沢春洋と親しく、田中親美とも交遊があった。昭和6(1931)年泰東書道院第2回展から連続3回特選となり、同13年泰東書道院審査員、日本書道院審査員、14年平安書道会審査員、23年毎日書道展審査員、26年日展審査員を経て32年日展評議員、34年日本書芸院理事長となった。自らは千草会を主宰し、季刊誌「かな研究」を刊行した。その間、大阪女子商業学校、帝塚山学院高等女学校教諭をつとめ、41年帝塚山学院大学教授となった。古写経の研究でも知られ、昭和36年「写経史の研究」によって文学博士(竜谷大学)となった。35年大阪芸術賞、40年芸術院賞、50年勲三等瑞宝章を受賞した。代表作は「浜木棉」(38年毎日展出品)、著書に「日本写経綜鑒」(昭和28年 三明社刊)、「日本書道史」(昭和42年 仏教大学刊)「現代書道教室・田中塊堂」(昭和46年 筑摩書房刊)「日本古写経現存目録」(昭和48年 思文閣)などがある。

松丸東魚

没年月日:1975/06/09

日展評議員、篆刻家松丸東魚は、50年6月9日、くも膜下出血のため、東京都中央区の京橋病院で死去した。享年73歳、本名長三郎。明治34年9月8日、東京市に須山助次郎・とくの三男として生まれ、その母方松丸氏を継いだ。大正8年、中央商業学校(現中央学院大学)を卒業。少年時代から篆刻に親しみ、10代の終り頃、大正印会に入り、新間静邨、常盤瓮丁などの影響をうけ、東方展に第1回から参加、第12回解散まで毎回出品し、第10回展(昭和16年)では特別賞を受賞した。東方展を通じて河井筌盧に親炙し、多くの教えをうけたが、もっとも影響をうけたのは呉昌碩からである。昭和24年毎日書道展審査員、同運営委員となり没年までその任にあった。また、同年第4回日展五科委嘱となり、以後没年まで毎回出品した。同28年には皇后陛下の御印を刻した。同33年日展評議員となり、没年までその任にあった。その間、昭和14,15,16年、毎年華北、満州を歴遊した。昭和33年には第1回訪中書道代表団として中国各地を歴訪し、同40年には西独政府招待により西独各地を訪問、次いで英、仏を歴遊した。また、昭和11年には知丈印社を創立し、戦後は主幹として後輩の育成に当った。また同30年には篆刻普及のため白紅社を興し、篆刻書道関係図書を刊行した。作品集に東魚印存初集14集、東魚刻印初集がある。早くから呉昌碩作品の紹介と収集につとめ、昭和39年には日本橋白木屋で呉昌碩生誕百年記念展を主宰し、呉昌碩書画集、呉昌碩印譜初集14集を編集、刊行した。

中村蘭台

没年月日:1969/07/04

篆刻家、日展第5科評議員の中村蘭台は、7月4日午後零時10分、気管支肺炎のため、東京・本郷の東大病院で死去した。享年76歳。明治25年10月11日東京下谷に生まれた。本名秋作。大正元年、父・初世蘭台に篆刻を学ぶ。昭和2年横山大観より刻印を依嘱されたのを縁に晩年まで続く。昭和6年第1回個展を日本橋三越で開いた。同21年川合玉堂より刻印を依嘱された。このように絵画作品に押す雅印づくりに一生をささげたが、同31年、32年、35年、38年、40年にわたり皇后陛下の御下命により雅印16★を謹刻し、また同36年には天皇陛下の御下命で御印を謹刻する光栄に浴した。同36年、第3回新日展出品作「老子語和光塵」に対し日本芸術院賞を受けた。同25年(第2回)、同37年(第3回)と日本橋三越で個展を開いたことを記録しておこう。日展・毎日書道展の審査員歴任。日本書道連盟参与、日本書道美術院総務。7月4日死去に際し、同日付で勲四等旭日小綬章を与えられた。

川村驥山

没年月日:1969/04/06

書道家日本芸術院会員川村驥山、本名慎一郎は4月6日老衰のため長野市の自宅で死去した。享年87才。年譜明治15年 5月20日静岡県磐田郡に生る。川村家は代々学問を以って藩に仕え父肇(東江)も漢学と書をもって家業とし九十三才没。明治18年 父東江に書を習う。漢学を習う。明治19年 論語、孝経、大学、中庸、盂子等素読。大丈夫驥山館明治20年 可睡斎西有穆山禅師に般若心経を学ぶ。明治22年 刮目尋常小学校に入学、2年間で4年の課程を卒業太田竹城の書塾に入門(3年間学ぶ)。明治23年 岡田良一郎主宰の翼北学舎に漢学を学ぶ。岡田良平、一木喜徳郎の実父で代議士になった人。明治25年 二葉と号す。この年より五年間に亘り静岡県知事の推奨により県下各小学校を「豆書家」として父に伴われて巡回模範揮毫をなす。草書細字 孝経驥山館当時の作品各地に散見す時人「神童」と呼ぶ。明治30年 書家として独立、全国行脚をなす京都に谷如意、福原周峯、河馬天江、林双橋、小林卓斎、富岡鉄斎、神田香巌、遠山盧山等の益を受く、富永節堂と共に詩文の研究をなす。詠漁翁 驥山館明治31年 奈良で越智哲に漢学を学ぶ。明治32年 奈良一柳石松の離れ座敷を与えられて詩・書の勉強をなす。一柳氏は俠客。明治33年 神田に本田退庵を知り、又橋本関雪と交り共に将来を誓う。湊川に第一期六ヶ月の書道塾を開き「翰墨林社」と称う。「君は画で行け、僕は書で行く」橋本との約をなす。明治34年 大江卓に招かれて上京す。小美田家に寄寓し、小室届出門に学ぶ。師より号を驥山字を子叔と撰定さる。後に酔仏、長嘯庵人等を用う。中山博道等に書道を教ゆ。明治35年 郷里遠州で徴兵検査不合格。3月驥山改号の披露を曹洞の大寺可睡斎で催す。明治36年 5月奈良県五条桜井寺に寄寓、9月高野山に籠り百日間弘法大師の研究に没頭、この時般若心経を六曲一双に揮毫。草書心経六曲一双 驥山館明治37年 5月長崎皓台寺に寄寓。同寺の碩徳霖玉僊師に師事5年間修業。この間九州各地を歴訪、又中国に渡ること5回、中国の文化人と交流、書の研究をなす。鄭成功の碑を四体に写す。皓台寺明治41年 神戸に帰る、帰神書会を催す。森琴石、江藤翠石、橋本関雪等参会す。京阪神、大和を転々、古筆名鐘をさぐる。神戸に家を持ち再び塾を開き「措陰書塾」と称す。12月右手に書痙攣(県立病院診断)を起し左手で書く。6ヶ月間京都に静養回復す。きく子を娶る。明治42年 10月15日長女出生。名は和気、字は惋愉、号は佩玉。明治43年 清浦奎吾の斡旋により11月上京、内閣賞勲局に勤務。田中光顕、犬養木堂の知遇を受く。明治44年 勧業博覧会の書道展に出品す。明治45大正元年 12月2日長男出生。健爾と命名。大正2年 賞勲局を辞して書三昧の生活に入る。4月新潟に遊び良寛和尚の書に親しむ。大正3年 大正博覧会に出品。神戸長田村に住む懐素の秋興八首の研究をなす。大正4年 1月九州・長崎・熊本・鹿児島に行脚。3月次女出生。8月奈良県五条に書塾を開く。靄子と命名。大正5年 東京赤坂に移り年間定住、依嘱を受けて帝国地方行政学会文書課に勤務の傍ら書道研究と各書道会の育成に努む。大正9年 次男出生。隆信と命名。この時代の作品の多くは震災により焼失す。大正13年 9月6日東京杉並区に新築移転す。大正15年 昭和元年 清浦奎吾、小笠原長生、田中捨身、豊道春海、今泉雄作等と共に書道作振会に参画す。書道会の揺籃時代。戌申書道会、書道作振会、泰東書道院。昭和6年 4月11日。河井筌盧、仁香保香城、西川吉羊、松本芳翠、柳田泰雲・泰麓父子と共に外務省よりの派遣文化使節として中国に渡る帰朝後も中国文人高官と交友続く。東方書道会を興し第1回展を開催す。楷書屏風朽木家殊に蘭亭を尋ね、彼の蘭亭竹を以て杖を作り筆管を作り愛用す。董事審査員たり。昭和7年 東方書道展 2回展。孝経屏風 大倉喜八郎。昭和8年 3回展。8曲屏風書道の歌。山本米三。昭和9年 4回展。教育勅語 植村澄三郎 今村力三郎、植村澄三郎、桜井兵五郎等に書道を教ゆ。昭和10年 5回展。泰山石経「富士登山の詩」成る。桜井兵五郎、驥山館。国分青崖翁に師事す。昭和11年 6回展。草書屏風 高島菊次郎。昭和12年 7回展。17条憲法 「狂草飲中八仙歌」成る。山本米三、川村家 飲中八仙歌は酔中の作此の時代酔仏の名あり。昭和13年 8回展。遺教経 驥山館。昭和14年 9回展。赤壁賦 諸戸家。昭和15年 10回展。中庸 徳川家達氏。昭和16年 11回展。9月夫人とともに中国北京に移り住む、中国書道研究に従事す。忠経、孝経。驥山館。古井喜実等に書道を教ゆ。昭和17年 東方書道展12回展3月中国より帰朝す。金剛経驥山館。昭和18年 東方書道展13回展。飲中八仙歌 高梨正躬。昭和19年 14回展。草章易経 驥山館 報国書道会と改称董事審査員。昭和20年 3月15日戦禍を避けて信州に疎開、柳沢区耕心庵に住居す。5月の空襲で杉並の本邸を焼失す。「楷書蘭亭序」「草書帰去来辞」。6曲1双成る折帖20数点。驥山館。昭和21年 揮毫会を催し、揮毫科を挙げて耕心庵に寄付してその修理を助く。昭和23年 耕心庵幽居時代の作品を携え東京三越本店に於て個展を開催す。第4回日展科に書道が参加し参事審査員となる。毎日書道展第回展開催、審査長となる。長野県書道展開設され以来審査長となる。日展出品荘子逍遙篇。太田喜八郎。個展作品40点賛助出品として家族のきく子、佩玉の作15点。毎日書道展は第1回展以来毎年出品す(作品録略)胃潰瘍を病む。昭和24年 日展出品。隷書聯 文部省 御買上となる。病床にあり。昭和25年 日展出品。酔古堂剣掃語 驥山館 この年も病床に在り。芸術院賞受賞作品。昭和26年 日展出品。篠ノ井町芝沢区に新居建築移転5月26・7・8日善光寺大本願明照殿に於て個展開催。5月16日芸術院賞受賞。9月28日宮中に於て天皇陛下の御陪食を賜う。御陪食の詩成る。曹盂徳の詩 川村家 日本書道聯盟にて受賞祝賀会。長野市、篠ノ井市に於ても受賞祝賀会。昭和27年 日展出品。名古屋市に於て個展開催。周易の一節 驥山館昭和28年 日展出品。六言二句対連 太田喜八郎 国際画報に掲載さる。昭和29年 日展出品。3月より6月迄四国88霊場及び紀州・京都を佩玉を伴うて行脚。李嶠松の詩、四国客中作24点「那智瀑下の詩」成る 驥山館 四国客中作品を織田子青出版す。昭和30年 日展出品。7月-8月北海道を佩玉を伴うて行脚。書斎建築落成。草書真山民詩 北海道客中作「毬藻の詩」成る。驥山館昭和31年 日展出品 良寛詩 驥山館 大額春風秋霜 警視庁。昭和32年 日展出品。四君子の詩。驥山館。昭和33年 日展出品。5月3日長野県文化功労賞受賞。9月22日篠ノ井町名誉町民となる。横預前赤壁一節 驥山館 新日展と改組。評議員審査員となる。終戦以来県書道文化興隆に寄与した功績認められる。昭和34年 日展出品。日本書道聯盟より喜寿記念品を贈呈さる。9月12日長野県書道展運営委員会より金盃受領 虚堂禅師墨竹の賛 驥山館 篠ノ井に於ける喜寿祝賀会に驥山館建設の議起る。昭和35年 日展出品。4月10日美術家祭に表彰さる6月1日篠ノ井名誉市民となる。11月16日驥山館建設敷地払下議決 赤壁前後一節 川村家昭和36年 4月12日財団法人驥山館認可。6月6日-11日長野市丸光百貨店に於て書業年75回顧展開催。10月驥山館完成。11月日本芸術院会員に就任。出品点数60点。昭和37年 5月2日驥山館会館。1月よりきく子夫人病床にあり。昭和39年 日展出品。この年もきく子夫人病床。青山不動白雲去来。昭和40年 3月12日きく子夫人逝去。4月信濃美術館の題字を書く。信濃美術館。昭和41年 勲3等瑞宝章を授与される。米寿を祝して全書道界の105名家より書作品の寄贈を受ける。昭和42年 日展を長野市に招致開催。昭和44年 4月6日 逝去 特旨を以て位記従位追賜。遺作日展出品。日々是好日 静岡県袋井市油山寺驥山生地に埋骨篠ノ井円福寺に分骨。昭和45年 3-4月信濃美術館にて遺作5月11日本葬 (「墨美」111号川村驥山特集号による)

比田井天来

没年月日:1939/01/04

帝国芸術院会員比田井天来は宿痾のため1月4日64歳を以て逝去した。本名鴻、長野県の出身、故日下部鳴鶴の高弟で、書道の大家であつた。

to page top