中里逢庵

没年月日:2009/03/12
分野:, (工)
読み:なかざとほうあん

 陶芸家で日本芸術院会員の中里逢庵は3月12日午後1時31分、慢性骨髄性白血病のため唐津市内の病院で死去した。享年85。1923(大正12)年5月31日、佐賀県唐津町で父重雄(重要無形文化財「唐津焼」保持者・12代中里太郎右衛門)、母ツヤの長男として生まれ、忠夫と命名される。小学校を出ると、「絵の描けない陶工は出世できん。美術学校に入って絵を習え。そのために有田工業よりも唐津中学の方がよかろう」という親の意見で、県立唐津中学を経て官立東京高等工芸学校工芸図案科(現、千葉大学工学部)に学んだ。1943(昭和18)年、宮崎の航空教育隊に入営。45年5月頃、所属した中隊は台湾の台北空港に展開、終戦後は台中に帰り、捕虜生活を送った。46年に台湾より復員。その年、陶芸家の加藤土師萌が北波多村の岸岳古窯跡の調査に来唐、加藤から作陶の基本を学ぶ機会を得た。また、度々父とともに桃山時代の古唐津の古窯跡の調査を行い、古唐津を再現した父の後を受け、古唐津の叩き・三島・鉄絵の技法などの陶技を習得、さらには古唐津風の作風から飛躍した独自のスタイルの模索へと向かった。父・無庵(12代太郎右衛門)は途絶えてしまっていた古唐津の技法を、古窯跡から出土する古陶片に学ぶことにより、現代によみがえらせている。そして、昭和初期の頃まで唐津焼の主流だった京風の献上唐津を一変させ、現代での唐津焼のスタンダードというべき桃山時代の古唐津風のスタイルを確立した。その功績が認められ、76年に無庵は重要無形文化財保持者(人間国宝)の認定を受けている。忠夫と弟の重利、隆の三兄弟は、いわば再興された古唐津を受け継ぐ第二世代であった。第一世代の父・無庵は古唐津再興によって高く評価された。第二世代は古唐津を再興した父からバトンを受け、次なる新たな唐津焼の創造という宿命を背負わされていたのである。51年、第7回日本美術展で忠夫の陶彫「牛」が初入選。以降、日本美術展を舞台に連続十回の入選を果たす。56年の第12回日本美術展で「陶・叩き三島壺」が北斗賞を受賞。57年、第8回日本美術展入選の陶彫「羊」がソ連文化庁買い上げ、58年、第1回日展にて叩き壺「牛」が特選を受賞した。61年、第3回日展入選の「壺」が社団法人日本陶磁協会賞を受賞。65年、現代工芸美術協会ベルリン芸術祭視察団の一員として外務省派遣となり、ヨーロッパ、中近東諸国を40日間歴訪、その見聞をもとに昭和40年代にはトルコブルーの青釉による「翡翠唐津」の作風を創作した。69年、父12代中里太郎右衛門の得度により、13代中里太郎右衛門を襲名。この頃より韓国、台湾、タイ、マレーシア、インドネシアなどの海外を視察し、各地から出土する唐津焼や叩きの技法を調査し始める。71年にはタイ北部、チェンマイ市郊外のカンケオ村で作陶し、1996(平成8)年までいわゆる「ハンネラ」スタイルの水指・花生等をつくった。81年の第13回日展に出品した「叩き唐津三島手付壺」が内閣総理大臣賞、84年の第15回日展に出品した「叩き唐津手付瓶」も第40回日本芸術院賞を受賞、85年には日展理事に就任する。92年に佐賀県重要無形文化財に認定される。また、作陶の傍ら唐津焼の起源を精力的に研究したことでも知られ、東南アジアなど各地を踏査して叩き技法のルーツを調査し、『陶磁大系13唐津』(平凡社、1972年)、『日本のやきもの14唐津』(講談社、1976年)、『日本陶磁大系13唐津』(平凡社、1989年)などに論文を積極的に発表、2004年には博士論文「唐津焼の研究」を京都造形芸術大に提出、博士号を取得した。07年に日本芸術院会員になったほか、日本工匠会会長なども務めた。02年には京都・大徳寺で得度、「太郎右衛門」の名跡を長男忠寛(14代)に譲り、以後は「逢庵」として制作を続けていた。中里逢庵の一生を振り返ると、古唐津再興をなした父・無庵の跡を継ぎ、伝統ある中里家を維持していくために古唐津スタイルを堅持しながらも、芸術性の高いモダンな唐津焼を求めていった。生業と芸術の間を揺れ動き、陶芸家および陶磁研究者としても粉骨砕身した一生と言えよう。

出 典:『日本美術年鑑』平成22年版(464頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「中里逢庵」『日本美術年鑑』平成22年版(464頁)
例)「中里逢庵 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28451.html(閲覧日 2024-04-24)

以下のデータベースにも「中里逢庵」が含まれます。

外部サイトを探す
to page top