大場松魚

没年月日:2012/06/21
分野:, (工)
読み:おおばしょうぎょ

 蒔絵の重要無形文化財保持者(人間国宝)の大場松魚は6月21日午前11時5分、老衰のため石川県津幡町のみずほ病院で死去した。享年96。
 1916(大正5)年3月15日、石川県金沢市大衆免井波町(現、金沢市森山)に塗師の和吉郎(宗秀)の長男に生まれる。本名勝雄。1933(昭和8)年3月、石川県立工業学校図案絵画科を卒業、父のもとで家業の髹漆を学ぶ。43年3月、金沢市県外派遣実業練習生として上京し、金沢出身の漆芸家で同年5月に東京美術学校教授となる松田権六に師事。内弟子として東京都豊島区の松田宅に寄宿して2年間修業を積み、松田の大作「蓬莱之棚」などの制作を手伝った。45年3月、研修期間終了のため金沢に帰り、海軍省御用のロイロタイル工場に徴用されるが、徴用中に「春秋蒔絵色紙箱」を制作し、本格的な作家活動に入る。終戦後、同作品を第1回石川県現代美術展に出品して北国新聞社賞を受賞し、金沢市工芸展に「飛鶴蒔絵手箱」を出品して北陸工芸懇和会賞を受賞。46年2月の第1回日展に「蝶秋草蒔絵色紙箱」を出品して初入選。同年10月の第2回日展に出品した「槇紅葉蒔絵喰籠」は石川県からマッカーサー(連合国軍最高司令官)夫人に贈呈されたという。48年の第4回日展に「漆之宝石箱」を出品して特選を受賞。52年6月から翌年の9月にかけて第59回伊勢神宮式年遷宮の御神宝(御鏡箱・御太刀箱)を制作。53年の第9回日展に「平文花文小箪笥」(石川県立美術館)を出品して北斗賞を受賞。このころから後に大場の代名詞となる平文技法を意識的に用い始める。56年の第3回日本伝統工芸展に出品して初入選。57年の第4回日本伝統工芸展に「平文小箪笥」を出品して奨励賞を受賞。同年は第13回日展にも依嘱出品し、これが最後の日展出品となった。58年の第5回日本伝統工芸展に「平文宝石箱」(東京国立近代美術館)、翌年の第6回展に「平文鈴虫箱」を出品して、ともに朝日新聞社賞を受賞。66年11月、金沢市文化賞を受賞。73年の第20回日本伝統工芸展に「平文千羽鶴の箱」(東京国立近代美術館)を出品して20周年記念特別賞を受賞。59年に日本工芸会の正会員となり、64年に理事、86年に常任理事に就き、87年から2003(平成15)まで副理事長として尽力した。60年以降は同会の日本伝統工芸展における鑑審査委員等を依嘱され、また86年から03年まで同会の漆芸部会長もつとめた。64年8月より67年5月まで中尊寺金色堂(国宝)の保存修理に漆芸技術者主任として従事。72年5月から翌年の3月にかけて第60回伊勢神宮式年遷宮の御神宝(御鏡箱・御櫛箱・御衣箱)を制作。こうした機会を通じて古典技法に対する造詣を深めつつ、蒔絵の分野の一技法であった平文による意匠表現を探求して独自の道を開いた。平文は、金や銀の板を文様の形に切り、器面に埋め込むか貼り付けるかして漆で塗り込み、研ぎ出すか金属板上の漆をはぎ取って文様をあらわす技法である。大場の平文は、蒔絵粉に比して強い存在感を示す金属板の効果を意匠に生かす一方、筆勢を思わせるほど繊細な線による表現も自在に取り入れ、これに蒔絵、螺鈿、卵殻、変り塗などの各種技法を組み合わせて気品ある作風を築いたと評される。77年2月に石川県指定無形文化財「加賀蒔絵」保持者に認定され、78年に紫綬褒章を受章、そして82年4月に国の重要無形文化財「蒔絵」保持者に認定された。漆芸作家としての人生を通して金沢に居を構え、多くの弟子を自宅工房に受け入れ、地場の後継者育成に尽力した功績は大きく、研修・教育機関においても、67年4月から輪島市漆芸技術研修所(現、石川県輪島漆芸技術研修所)の講師、88年から同研修所の所長をつとめ、77年4月には金沢美術工芸大学の教授に着任、81年3月の退任後(名誉教授)も客員教授として学生を指導した。

出 典:『日本美術年鑑』平成25年版(416-417頁)
登録日:2015年12月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「大場松魚」『日本美術年鑑』平成25年版(416-417頁)
例)「大場松魚 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/204398.html(閲覧日 2024-04-17)

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