本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





海野建夫

没年月日:1982/11/17

日展参事、東京学芸大学名誉教授の彫金家海野建夫は、11月17日午前零時、心筋コウソクのため東京・杉並区の自宅で死去した。享年77。1905(明治38)年6月15日、東京・上野に生まれる。21年吉川霊華に師事するが、東京美術学校で彫金を学び28年金工科彫金部を卒業、研究科に進み31年修了する。在学中の29年第10回帝展に「彫金花盛器」が初入選、32年第13回帝展で「鉄製ファイヤースクリン」が特選となり、37年パリ万国博覧会「秋手鏡」が銀賞を受賞する。戦後日展で49年以後たびたび審査員をつとめ、50年より依嘱出品、58年会員、61年評議員、67年第10回日展「春想」が内閣総理大臣賞を受賞する。また51年東京学芸大学講師、翌年教授となり、69年まで後進を指導、定年退官後名誉教授となった。一方、光風会では55年会員となり、以後審査員、評議員をつとめ69年理事、また66年現代工芸美術家協会参与、78年日本新工芸家連盟代表委員となる。70年には前年の第1回改組日展出品作「雨もよい」により第26回日本芸術院賞を受賞した。伝統的な彫金法にメタリックな現代的感覚を加えた独自の作風で知られた。73年日展理事、78年参事となり、また60年日本体育協会のオリンピック・ローマ大会芸術視察員、64年東京オリンピック大会芸術特別委員会幹事、このほか日本オリンピック委員・日本スポーツ芸術協会副会長などもつとめた。73年茨城文化賞、75年勲三等瑞宝章受章、没後正五位に叙せられた。1929 第10回帝展 「彫金花盛器」1930 第11回帝展 「彫金飾銅扉」1931 第12回帝展 「櫃」1932 第13回帝展 「鉄製ファイヤースクリン」特選1933 第14回帝展 「彫金壁掛」1934 第15回帝展 「鉄布目象嵌相駿ノ図小筥」1936 第1回改組帝展 「鷺九筥」1936 文展鑑査展 「蛾花瓶」1936 文展招待展 「蛾花瓶」1939 第3回新文展 「四分一香炉」無鑑査1940 紀元2600年奉祝展 「銀蓬莱花瓶」1943 第6回文展 「独立・四分一硯屏」無鑑査1946 第1回日展 「煙火箱」1946 第2回日展 「文箱・海」1947 第3回日展 「蟹文角皿」1949 第5回日展 「金工双酸花盛器」審査員1950 第6回日展 「金工洋酒瓶」依嘱1951 第7回日展 「大皿」依嘱1952 第8回日展 「黒味銅壷」依嘱1954 第10回日展 「赤銅花器」審査員1955 第11回日展 「魚文花器」依嘱1956 第12回日展 「鳥文花器」依嘱1957 第13回日展 「楽園・花器」依嘱1958 第1回社団法人日展 「ある壁画へ・メデューサ」会員1959 第2回社団法人日展 「八乳花器」会員・審査員1961 第4回社団法人日展 「裏街」評議員1962 第5回社団法人日展 「谷底の天国」評議員1963 第6回社団法人日展 「丘の洞」評議員・審査員1964 第7回社団法人日展 「見附」評議員1965 第8回社団法人日展 「翼のある花器」評議員1966 第9回社団法人日展 「白馬家族」評議員1967 第10回社団法人日展 「春想」評議員・内閣総理大臣賞1968 第11回社団法人日展 「合戦」評議員1969 第1回改組日展 「雨もよい」評議員1973 第5回改組日展 「求道」理事・審査員1974 第6回改組日展 「白い梟」理事1975 第7回改組日展 「洋犬」理事1976 第8回改組日展 「曲馬」理事・審査員1977 第9回改組日展 「孤高」評議員1978 第10回改組日展 「虞美人草」参事1979 第11回改組日展 「白雉不動」理事1981 第13回改組日展 「初霜」参事1982 第14回改組日展 「白鳥座・盤」参事

番浦省吾

没年月日:1982/10/15

日展参事の漆芸家番浦省吾は、10月15日、心不全のため死去した。享年81。1901(明治34)年2月24日石川県七尾市に生まれる。15年七尾尋常高等小学校を卒業し、初め画家を志すが、21年より蒔絵の技術を習得、漆芸の道に入る。24年頃京都に出て、30年第11回帝展に「秋之夜蒔絵棚」が初入選、36年文展鑑査展で「草花図彩漆衝立」が選奨となり、37年のパリ万国博覧会では名誉賞を受賞する。戦後、45年漆芸「創人社」を結成し主宰、53年には解散となるが、新たに朱玄会を結成した。しかし主たる活躍の場は日展であり、47年第3回日展以後たびたび審査員をつとめ、49年より依嘱出品、56年第12回日展に「双蛸図漆貴重品筥」を出品している。58年評議員、62年会員となり、同年の第5回日展出品作「象潮」により翌年日本芸術院賞を受賞した。その後71年理事、76年参与、80年参事となる。また66年大阪・四天王寺極楽門に「釈迦十大弟子」等四面の漆絵大壁画を制作した。代表的作品には上記のほか「春の海」(74年)「日のある風景」(76年)「陽と菜」(78年)「浜千鳥手文庫」(80年)などがある。海や雲などに多く主題をとり、漆に金属も用いた斬新な作風を見せた。また、71年京都漆芸家協会を設立し会長に就任。72年京都府美術工芸功労者、74年京都市文化功労者として表彰され、京展、大阪市総合美術展、兵庫県美術展等の審査員もつとめるなど、関西漆芸界の中心として活躍した。79年日本新工芸家連盟創立委員、81年勲四等旭日小綬章受章。 主要出品歴1930 第11回帝展 「秋之夜蒔絵棚」1931 第12回帝展 「運動による構成、海と山と空・蒔絵衝立」1934 第15回帝展 「水辺譜彩漆衝立」1936 文展鑑査展 「草花図彩漆衝立」選奨1936 文展招待展 「草花図彩漆衝立」1938 第2回新文展 「彩漆豌豆之衝立」1940 紀元2600年奉祝展 「漆器双華二曲屏風」1942 第5回新文展 「漆南瓜之図二曲屏風」1944 戦時特別展 「献菜図小屏風」1947 第3回日展 「根菜図四曲小屏風」審査員1949 第5回日展 「漆器双實図小屏風」依嘱1951 第7回日展 「乾漆扁壷」依嘱1952 第8回日展 「菜景・漆衝立」依嘱1953 第9回日展 「野鶴漆衝立」依嘱1954 第10回日展 「双華図漆小屏風」依嘱1955 第11回日展 「想漁図漆衝立」審査員1956 第12回日展 「双蛸図漆貴重品筥」依嘱1957 第13回日展 「漆衝立 濤」依嘱1958 第1回社団法人日展 「うしを二曲屏風」評議員1959 第2回社団法人日展 「潮・二曲屏風」評議会・審査員1960 第3回社団法人日展 「夜潮」評議会1961 第4回社団法人日展 「壁面装飾(川)」評議会1962 第5回社団法人日展 「象潮」会員・審査員1963 第6回社団法人日展 「みち潮」評議員1966 第9回社団法人日展 「潮文額」評議員1967 第10回社団法人日展 「山月」評議員1968 第11回社団法人日展 「海と太陽」評議員・審査員1969 第1回改組日展 「双象」評議員1970 第2回改組日展 「青い夜」評議員1971 第3回改組日展 「夜潮」理事・審査員1972 第4回改組日展 「双象」理事1973 第5回改組日展 「海どり」理事1974 第6回改組日展 「春の海」理事1975 第7回改組日展 「山月雲象」評議員1976 第8回改組日展 「潮文」参与1977 第9回改組日展 「潮文」参与1978 第10回改組日展 「陽と菜」参与1979 第11回改組日展 「潮文」参与1980 第12回改組日展 「波の象」参事1982 第14回改組日展 遺作「潮文の貌」参事

鹿児島寿蔵

没年月日:1982/08/22

紙塑人形の創始者でアララギ派の歌人でもあった人間国宝鹿児島寿蔵は、8月22日午後9時1分、脳血栓のため東京・文京区の日本医科大学付属病院で死去した。享年83。1898(明治31)年12月10日福岡市に生まれる。1913年小学校卒業後、教育材料を作る製作所に就職し、博多人形に彩色する仕事に従事、工場長格だった有岡米次郎が独立すると彼に師事し、人形制作に打ち込む。17年には福岡市内に窯を築いてテラコッタ風の手稔り人形等を作り、20年個展も開催、この間18年一時上京し岡田三郎助の本郷洋画研究所でデッサンを学んでいる。20年人形改革の志を抱いて上京し、30年には野口光彦・堀柳女らと人形美術団体「甲戌会」を結成した。また同年夏頃より和紙を材料とした紙塑の研究に没頭し、コウゾ、ミツマタなどの繊維に胡粉、陶土、パルプや木材の粉末を加えて練り固め、乾燥した原型に自ら染めた和紙や金銀砂子などで装飾していく「紙塑人形」の技法を、32年に完成する。33年日本紙塑芸術研究所を開設し、人形の出品が初めて認められた36年第1回改組帝展に「黄葉」を出品、高い評価を受ける。また38年には、それまで「ヌキ(型抜)」と称していた人形材料の鋸屑練物を「桐塑」と命名する。一方、歌人としての活動も上京後まもなくより始まり、「アララギ」で島木赤彦、土屋文明に師事、28年より10余年にわたって「歌壇風聞記」を『アララギ』に連載、45年には潮汐会を結成し機関誌『潮汐』を発行、また46年『アララギ』の再興第1号を編集発行するなど活発な活動を展開し、その豊かな文学的素養は、ロマンティックな彼の人形の造型にも大きく影響する。この時期の人形作品には「稚児大師」「大寿親王比奈」「まんだらの糸」「軍鼓打つ少年」等があり、新文展等にも入選している。戦後46年、日本著作家組合中央委員美術部代表、日本著作権協議会理事・専門委員となり、日本工芸会、日本伝統工芸展でも要職を歴任した。「竹の響」「卑弥呼」「志賀島幻想箕立之事」「奈良朝風智恵の女神ミネルヴァ紙塑像」「若き工人たち」「大森みやげ」「地久」「秘芸曲独楽」「鵜川」「シルクロードの星」「にぎたづ」など、和紙の持つ柔らかさや温かさを生かした叙情性豊かな人形の数々は、伝統的である一方、異国情緒溢れる現代性も併せ持つ。61年重要無形文化財(人間国宝)の指定を受け、67年文化財保護審議会専門委員(77年同会工芸技術部会長)、同年紫綬褒章、73年勲三等瑞宝章受章。また63年以来宮中歌会始選者をたびたびつとめ、68年歌集『故郷の灯』(短歌研究社)を出版、第2回迢空賞も受賞。人形と短歌、2つの道に足跡を刻んだ。

原田嘉平

没年月日:1982/08/11

福岡県指定無形文化財(博多人形)技術保持者の博多人形師原田嘉平は、8月11日午前2時46分、肺炎のため福岡市博多区の三信会原病院で死去した。享年88。1894(明治27)年3月15日、福岡市に生まれる。1909年住吉尋常小学校を卒業し、博多人形師白水六三郎に師事する。17年工房を持って独立。22年巴里万国装飾博覧会で銅賞を受賞、また、同年第10回農商務省工芸展覧会に「春の色」「小鳥」を出品して褒状を受ける。27年第14回商工省工芸展覧会に「涼み」を出品し三等賞を受賞するなど、同展に入選11回、うち6回は褒状を受けている。43年商工省美術工芸技術保存者に指定され、66年福岡県指定無形文化財保持者となる。騎馬武者を得意とし、皇族への献上もしている。

染川鉄之助

没年月日:1982/07/19

日展評議員、鋳金家協会会長の染川鉄之助は、7月19日午前4時4分、急性出血性心不全のため、東京都新宿区西新宿の東京医大付属病院で死去した。享年70。1912(明治45)年5月25日鹿児島県に生まれ、39年東京美術学校金工科鋳金部を卒業する。在学中の37年同期生と経緯工芸会を組織し春秋に同人展を開催、卒業後実在工芸展に出品する。戦後48年鋳金家協会会員(56年委員)、52年創作工芸協会会員となり、一方、48年より東京町田市の私立日本聾話学校で図画工作を教え、聾唖者の美術教育に尽力した。また52年第8回日展に「噴水人魚」が初入選し、54年第10回日展で「飛天」が特選、翌55年第11回日展「水呑み場の構成-憩いの場におく」が北斗賞を受賞する。57年審査員をつとめ58年会員、69年の第1回改組日展で「朧銀・月の壷」が桂花賞受賞、翌年評議員となる。80年には、前年6月の個展で独自の詩情と人間性を表出したとして第30回芸術選奨文部大臣賞を受賞した。65年より現代工芸美術協会評議員、82年2月より鋳金家協会会長をつとめる。日展出品歴1952 第8回日展 「噴水人魚」1954 第10回日展 「飛天」特選1955 第11回日展 「水呑み場の構成-憩いの場におく」無鑑査、北斗賞1956 第12回日展 「スクリーン幻想」1957 第13回日展 「白銅花器・楕円」審査員1958 第1回社団法人日展 「青き鳥」会員1959 第2回社団法人日展 「青銅鳥の花器」会員1960 第3回社団法人日展 「ホールのための花器・青い花」会員1961 第4回社団法人日展 「青銅睡蓮の鉢・ながれ」会員1962 第5回社団法人日展 「花器・波」会員1963 第6回社団法人日展 「噴水・鳥」会員1964 第7回社団法人日展 「青銅・舞い」会員1965 第8回社団法人日展 「月齢」会員1966 第9回社団法人日展 「残照」会員1967 第10回社団法人日展 「聖日」会員1968 第11回社団法人日展 「扁容」会員1969 第1回改組日展 「朧銀月の壷」会員・審査員・桂花賞1970 第2回改組日展 「エパタ」評議員1971 第3回改組日展 「白銅花器・波」評議員1972 第4回改組日展 「朧銀滄浪の壷」評議員1973 第5回改組日展 「落葉抄」評議員1974 第6回改組日展 「白銅のレダ」評議員1975 第7回改組日展 「緑の曲面」評議員1976 第8回改組日展 「白銅澪」評議員1977 第9回改組日展 「白銅レクイエム」評議員1978 第10回改組日展 「白銅月蝕幻映」評議員1979 第11回改組日展 「朧銀献唱壷」評議員1980 第12回改組日展 「白銅・道程」評議員1981 第13回改組日展 「白銅・郷愁」評議員1982 第14回改組日展 「朱銅置物・森の唄」遺作

酒井田柿右衛門〔13代目〕

没年月日:1982/07/03

赤絵磁器を代表する「柿右衛門」の窯元13代酒井田柿右衛門は、7月3日午後6時50分、胃ガンのため、自宅より佐賀県藤津郡嬉野町の国立嬉野病院に向かう車中で死去した。享年75。1906(明治39)年9月20日、佐賀県西松浦郡に12代酒井田柿右衛門(正次)の長男として生まれ、本名渋雄。24年有田工業学校製陶科を卒業する。「柿右衛門」は古伊万里・色鍋島と共に有田焼を代表し、初代柿右衛門が創始した日本初の色絵技術の伝統を継ぎ、輸出によりデルフト窯、マイセン窯等ヨーロッパ窯業界にも大きな影響を与えた。失透釉の乳白色の素地は、米のとぎ汁に似るところから「濁手」と呼ばれ、江戸中期の4代目以降衰退していたが、53年父と共にその復元に成功、文化財保護委員会より無形文化財の記録選択を受ける。63年父の死去に伴い13代酒井田柿右衛門を襲名、同年以後日本伝統工芸展に出品し、一水会にも出品、審査員をつとめる。64年日本工芸会正会員となり、67年佐賀県重要無形文化財認定、同年佐賀県文化功労者として表彰される。70年には佐賀県陶芸協会会長、71年柿右衛門製陶技術保存会を設立し会長就任、また同年「柿右衛門」(濁手)は重要無形文化財に総合指定され、その保持者として認定されたが、76年文化財保護法の改正により、保持者は柿右衛門製陶技術保存会に認定換となった。主に伝統的な模様を用いた保守的傾向の強い12代に対し、写生に基づく模様の創作を試み、現代性を加味した新しい柿右衛門様式を確立した。72年紫綬褒章、75年西日本文化賞、78年勲四等旭日小綬章、79年佐賀新聞社文化賞を受賞、没後正五位に叙せられ、有田町名誉町民の称号を受けた。

黒田辰秋

没年月日:1982/06/04

木質の美を追求し続けた木漆工芸の人間国宝黒田辰秋は、6月4日午後3時30分、急性肺炎のため京都市伏見区の自宅で死去した。享年77。1904(明治37)年9月21日、京都市に塗師屋を営む黒田亀吉の六男として生まれる。病弱の幼時期を送り、19年父兄の勧めで一時蒔絵師に就くが、健康を害してこれを止め、以後独学する。この頃、漆芸界での分業制に疑問を持ち、制作から塗りまでの木工芸の一貫作業を目指して木工も独学した。23年第一回京都市美術工芸品展に「螺鈿竜文卓」が入選、デビュー作となる。21年楠部弥弌、24年には河井寛次郎、柳宗悦、青田五良(染織)らを知り、彼らの民芸運動に共感、26年柳らが発行した『日本民芸館設立趣意書』の表紙の表題を彫る。27年には柳宗悦、青田五良、鈴木実(染織助手)と共に上賀茂民芸協団を創立し、共同生活をしながら制作に没頭した。この頃朝鮮の木工品に学ぶところが大きく、また技術的にも、透明漆を塗り木目を生かして重厚な仕上がりを見せる拭漆や、朱漆、黒漆、白蝶貝等による螺鈿などの技法を既に用い、大量の木工家具や装飾品等を制作した。28年御大礼記念博覧会に特設された民芸館に「拭漆欅テーブルセット」を出品、29年には民芸協団作品展が開催され、また民芸論を通じ、小林秀雄、志賀直哉、芹澤銈介らを知る。上賀茂民芸協団は29年秋解散となるが、ここでの活動が以後の制作態度を決定した。また本の表題や扉絵、挿絵などもこの頃手がけている。30年柳の推薦により国画会に無鑑査出品、以後同展に出品する。35年頃よりメキシコ産アワビ貝(耀貝)を使った螺鈿も本格的に手がけ、終戦前後までは主に個展を中心に活動、また40年には武者小路實篤を知る機会を得た。戦後に至りその社会的活動も活発となり、先ず45年漆芸研究団体を結成、48年京都工芸作家審議委員会(常任委員)、54年日本工芸会近畿支部創設、56年日本工芸会正会員、58年には日本伝統工芸展鑑査委員・木工部長となる。作品では59年東宮御所「耀貝螺鈿盒子」、67年皇居新宮殿扉飾り、及び梅の間用の大飾棚、そのほか螺鈿の台座などを制作している。木質の持つ美を極力生かし、伝統に学び民芸運動にも参加する一方、卓越した技量により現代的な造型性をも盛り込んだその作品は、志賀直哉をして「名工中の名品」と言わしめた。70年重要無形文化財(人間国宝)の指定を受け、71年紫綬褒章、76年京都市文化功労者、78年勲四等旭日小綬章を受章、また64年国画会会員となっている。

中村勝馬

没年月日:1982/04/21

国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)で、友禅染の第一人者として知られる染色家中村勝馬は、4月21日肺炎のため東京都渋谷区の日赤病院で死去した。享年87。明治27(1894)年9月18日北海道函館市に生まれ、岩手県立一関中学校を卒業後上京、川端画学校で日本画を学ぶ。大正2年、三越専属作家増山隆方に師事し図案と友禅技術を学び、同年三越裾模様図案公募に応じ「ポプラと渡り鳥」で3等賞を受け、以後5年連続して入選し2度受賞する。関東大震災の翌年名古屋へ転じ、松坂屋本店の専属として5年間友禅衣裳の制作に従事する。昭和4年東京へ戻り、三越考案部の専属となり同20年までつとめる。この間、伝統工芸友禅を現代に調和させることに努め、同18年には国指定、工芸技術保存資格者の認定を受けた。戦後は、同22年二科展工芸部審査員として出品、同27年東京都工芸協会創立に際し理事として参加する。同30年国指定重要無形文化財保持者の認定を受け、また、同年発起人として日本工芸会の設立に加わり、同会理事、同37年同会染織部長、翌年常任理事を歴任し、同47年日本工芸会参与となる。同41年紫綬褒章、同45年勲四等瑞宝章を受章。主要作品に、「葵文訪問着」(昭和12)のほか、東京国立近代美術館所蔵「波文黒留袖」(同30)「雲文黒留袖」(同33)、「かがり文訪問着」(同37)などがある。

加藤幸兵衛

没年月日:1982/04/11

青磁と金襴手で知られる陶芸家加藤幸兵衛は、4月11日午後2時12分、脳コウソクのため岐阜県多治見市の県立多治見病院で死去した。享年88。1893(明治26)年12月27日、岐阜県多治見市に4代目幸兵衛の長男として生まれ、号は福寿園。1921(大正10)年5代目を襲名し、30年第11回帝展に「瓜形陶製壷」が初入選する。32年第13回帝展に「磁器草花文手付壷」を出品、また同年加藤唐九郎らと陶芸研究団体「掬香会」を設立し、中国陶磁の研究も進める。50年には安藤知山らと陶芸研究のため「美陶会」を結成、月1回の研究会を行なった。この間、40年岐阜県より技術保存の指定を受け、50年経営の行き詰まった岐阜県陶磁器試験場場長となり、73年までその経営と技術指導に当たった。一方、48年パリ万国博覧会での日本陶磁展に出品し、52年全国陶芸展審査員、56年日本工芸会正会員となる。また55年以降日本伝統工芸展に出品し受賞を重ねている。中国古陶磁をはじめ桃山期の志野・織部・黄瀬戸も研究、深い色調をたたえる青磁を得意とした。67年勲四等瑞宝章受賞、73年岐阜県重要無形文化財の指定、及び多治見市名誉市民の称号を受け、74年日本工芸会理事となる。82年没後正七位となり、また幸兵衛賞が設けられた。

鈴木貫爾

没年月日:1982/02/24

南部釜師、東京芸術大学教授の鈴木貫爾は、2月24日午後7時4分、肺炎のため盛岡市の岩手医大付属病院で死去した。享年62。1919(大正8)年10月14日、岩手県盛岡市に、南部藩お抱え釜師である「南部釜師」第13代盛久の長男として生まれる。本名鈴木信一。42年東京美術学校工芸科鋳金部を卒業する。師は香取秀真であった。46年東京美術学校工芸科鋳金部講師となり、同年第2回日展に「壷」を出品して初入選する。翌47年香取秀真より貫爾の号を受ける。57年第13回日展に「テラスの為の装飾火蛾の踊り」を出品し、特選、北斗賞を受賞以来同展無鑑査、出品委嘱、67年には日展会員となり、審査員も2度つとめている。50年及び70-73年2度にわたり正倉院金工品の調査にあたり、著書『正倉院の金工』を76年に発刊する。73年より東京芸術大学教授をつとめ、77年には第13代盛久の死去により第14代盛久を襲名する。南部釜師の伝統を守り古典研究をする一方、現代に鋳金を生かす道を求め続ける。代表作に「塁壁華盤」(62年第5回日展)、「天山路の几」(69年第1回改組日展)、「喚鐘・雲共我無心」(75年第7回改組日展)等がある。

河合秀甫

没年月日:1981/12/18

日展会員の漆芸家河合秀甫(本名豊三)は、12月18日午後7時、心不全のため東京都港区南青山の自宅で死去した。享年91。1890(明治23)年7月4日東京・京橋に生まれ、幼少より父亀太郎に蒔絵技術を学ぶ一方、池上秀畝に師事し日本画を学んだ。1930年の第12回帝展に「高嶺の花文庫」が初入選し、41年の第4回新文展で「薬草文飾筥」が特選となる。戦後は、52年第8回日展より委嘱出品、54年第10回日展では審査員をつとめ、53年に会員になっている。高山植物を好んで蒔絵の題材とし、帝展初入選作をはじめ、「衣笠草蒔絵小屏風」(52年第8回日展)「水芭蕉飾筥」(53年第9回日展)など作例は多い。このほか、日本漆工芸会、日本漆芸会、日本漆工協会、全日本工芸美術家協会などの委員や監事をつとめ、73年には長年の業績を認められ、漆工功労者として表彰されている。

張間喜一

没年月日:1981/12/14

重要無形文化財輪島塗の技術保存会会長の張間喜一(号禧一)は、12月14日午後3時15分、老衰のため石川県輪島市の自宅で死去した。享年79。1902(明治35)年4月19日石川県輪島市に生まれる。21年3月石川県立工業学校描金科を卒業後、東京美術学校に入学し、26年3月に同校漆工科を卒業した。同年4月から六角紫水研究所助手を半年間勤め、その後石川県商工技手工業試験場に勤務、28(昭和3)年からは石川県立工業学校で教鞭をとった。37年の第1回新文展では「漆器花薊化粧筥」が初入選し、42年第5回新文展では「鷺漆器衝立」が特選となっている。戦後46年から静岡県立工業試験場々長を勤めたが、55年輪島漆器研究所顧問となり、69年同研究所々長となった。翌70年には長年にわたる漆工芸啓蒙指導と後継者の育成を認められ、日本漆工協会から表彰を受けている。76年勲五等双光旭日章を受章。翌77年から重要無形文化財輪島塗技術保存会の会長をつとめたいた。代表作は上記新文展特選受賞作。

三輪休和

没年月日:1981/10/24

“休雪白”で知られる萩焼の第一人者、人間国宝の三輪休和は、10月24日午後1時5分、老衰のため山口県萩市の河村病院で死去した。享年86。萩市名誉市民でもあった氏の葬儀は、萩市葬として萩市民会館で行われた。1895(明治28)年山口県阿武郡に旧萩藩御用窯三輪家九代雪堂の二男として生まれ、本名は邦広。1908年明倫館の流れを汲む萩中学校に入学し、優秀な成績で2年に進むが、祖父雪山の「職人に学問は要らぬ」という説得により、同校を2年で退学、以後、技術を父の九代雪堂に学び、家業に従事することになる。祖父の雪山は、維新により御用窯としての保護を離れた窯経営の苦難を乗り越えた傑物であったが、この祖父の強い勧めにより、青年期に、江戸千家流の阿部直彦について茶道を学び、また宝生流の渡辺蒿蔵に謡曲を習うなど、諸芸の修業を積んでいる。27年32歳の時、父の九代雪堂が隠居したため、三輪窯十代を継承し休雪と号した。この頃より古萩名品の鑑賞を志し、28年には益田鈍翁、三井守之助、藤原銀次郎、高橋箒庵らを訪ね、34年の大阪藤田男爵家の売立に赴くなど、名品に触れる貴重な体験をしている。42年三重県津市千歳山の川喜田半泥子宅に金重陶陽、荒川豊蔵、三輪休雪の三人が集まった際「からひね会」を結成したが、これは、戦禍の激しくなる折柄、具体的な芸術活動には到らなかった。44年大阪美術倶楽部で初の個展を開催、また戦後は56年以来日本伝統工芸展に殆んど欠かさず出品し、57年には日本工芸会の正会員となっている。作陶では十代休和襲名の頃から白釉の発色について研究を重ねていたが、やがて萩焼特有の藁灰釉を工夫することで春雪のような温味のある白を完成し、55年前後より「休雪白」の名で呼ばれるようになった。ここに高麗茶碗に和風を調和させ温和な独自の作風を樹立した休和の評価が定着し、57年には「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」として選択を受ける。67年隠居して休和と号し、以後個展をやめ納得のいく作陶に励む。この間、28年7月から72年8月まで克明に記された『窯日誌』は、作陶の苦心と研究をよく伝えている。67年紫綬褒章を受章、70年には重要無形文化財萩焼保持者(人間国宝)として認定され、また73年には勲四等旭日小授章を受けている。職人芸一筋に徹した生涯は、その作品と共に、多くの人々の共感と尊敬を集めていた。年譜西暦 事項1895 4月 20日、山口県阿武郡に旧萩藩御用窯三輪家9代雪堂の二男として生まれる。本名は邦廣。1908 3月 椿東小学校卒業          4月 山口県萩中学校入学1910 3月 祖父八代雪山のすすめにより萩中学校二年修了で退学し、家業に従事する。1911 2月 阿部直彦に師事して江戸千家流の茶道稽古を始め、また渡辺蒿蔵に師事して宝生流謡曲の稽古を始める。1921 2月 上海、蘇州、杭州、広州を旅行して中国陶磁を見学する。          8月 祖父八代雪山没1922 5月 小島芳子と結婚。1923 「郭子儀置物」1926 5月 「布袋置物」1927 2月 父九代雪堂隠居、三輪窯十代を継承して休雪と号す。1928 7月 「寿老人置物」          9月 古萩名品の鑑賞を志し、益田孝男爵、三井守之助男爵、藤原銀次郎翁、高橋箒庵翁を訪ねて古萩名器を鑑賞する。この頃より萩釉の藁灰による白釉の発色について研究を積む。1929 4月 「桃坊朔(東方朔)置物」        10月 「布袋置物」「玉取獅子置物」        11月 「郭子儀置物」1932 9月 休雪の作品頒布会「雅陶会」が結成される。1933 8月 「玉取獅子置物」1934 1月 朝鮮陶磁研究のため京城の李王家博物館を見学し、さらに南鮮方面を旅行する。この時加藤唐九郎と逢う。          4月 大阪藤田男爵家の売立に際し、名器研究のためその入札下見を参観する。「桃坊朔(東方朔)置物」          5月 須子伴二郎所蔵の「仁清水指」を写し焼く。        10月 商工省主催「輸出工芸品展」に「萩焼菓子器」を出品し、入選。1935 5月 「萩博覧会」に出品。        10月 名古屋・松坂屋「全国12名工作品展」に作品30点を出品。               「玉取獅子置物」「夏・冬茶碗」二個、「高彫唐草文大花瓶」                この年、東京在住の塗師能登又平より漆塗りの指導を受ける。1937 6月 大阪・阪急百貨店「萩焼名匠展」出品1938 1月 『茶の湯会記』を書き始める。        12月 古萩を中心とする年譜を作成する。1941 5月 旧藩御用達熊谷家の高麗茶碗、古萩を鑑賞する。1942 2月 津市千歳山の川喜田半泥子宅に金重陶陽、荒川豊蔵、三輪休雪の三人が集い「からひね会」を結成する。1943 1月 技術保存法指定作品山口県認定委員を命ぜられ、同月技術保存法による指定を受ける。1944    大阪美術倶楽部で初めての個展を開く。1948 3月 萩焼美術陶芸協会副会長に推戴される。        この年、芸術陶磁認定委員に任命される。1951 6月 朝日新聞社主催「現代日本陶芸展」招待出品(以後連続)。195311月 父九代雪堂(録郎)、86歳にて没1955 9月 「全日本産業工芸展」に「抹茶碗」が入選し、会長賞を受ける。        この頃よりシリコンを水止めに使い始める。1956 8月 山口県指定無形文化財萩焼保持者に認定される。    10月 「第三回日本伝統工芸展」に「平茶碗」を初出品入選する。1957 2月 山口県陶芸協会が創設され会長に推戴される。     3月 文化財保護委員会より「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」として選択を受ける。     4月 東京・三越にて「三輪休雪茶陶展」開催。これを機に岸信介ら在京山口県出身名士の発起により「三輪休雪後援会」(会長岸信介)が設立される。     5月 日本工芸会正会員に推挙される。    10月 「第四回日本伝統工芸展」に「茶碗」入選。        この年、アメリカ国際見本市に出品。1958 9月 東京・三越にて「三輪休雪作陶展」開催。    10月 「第五回日本伝統工芸展」に「茶碗」「水指」入選。1959 3月 文化財保護委員会「水指」買上。     5月 国立近代美術館「現代日本の陶芸」に「水指」招待出品。        「九州山口陶磁名品展」に「茶碗」「菓子鉢」招待出品。     6月 名古屋・松坂屋「伝統工芸20展」に「茶碗」招待出品。    10月 「第6回日本伝統工芸展」に「四方鉢」入選。        山口県陶磁協会が萩焼陶芸協会に改組され会長に推戴される。1960 5月 「第9回現代日本陶芸展」に「水指」招待出品。        10月 「第七回日本伝統工芸展」に「茶碗」入選。        11月 東京・三越にて「三輪休雪作陶展」開催。               この年、スペイン国立民族博物館より「茶碗」買上。1961 2月 萩焼陶芸協会が萩焼陶芸作家協会に改組され、会長に推戴される。          4月 名古屋・松坂屋にて「休雪・節夫父子陶芸展」開催。          9月 大阪・三越にて「休雪・節夫萩焼逸品展」開催。               「第8回日本伝統工芸展」に「茶碗」2展入選。        11月 中国新聞社より中国文化賞を受ける。1962 5月 大和大神神社中山宮司により三輪神社を勧請する。        11月 東京・三越にて「三輪休雪作陶展」開催。1963 9月 「第10回日本伝統工芸展」に「茶碗」入選。                福岡・岩田屋にて「休雪・節夫作陶展」開催。                萩市文化財審議委員を委嘱される。1964 6月 国立近代美術館「現代国際陶芸展」招待出品。          9月 「第11回日本伝統工芸展」に「茶碗」2点入選。        11月 文化功労者として山口県選奨規則により表彰される。1965 9月 「第12回日本伝統工芸展」に「茶碗」入選。               「休雪古稀の会」が開催される。1966 1月 朝永振一郎博士ノーベル賞受賞祝賀贈呈の「花瓶」制作。        10月 「第13回日本伝統工芸展」に「茶碗」2点入選。                文化財保護委員会「茶碗」買上。1967 3月 文化財保護委員会により三輪休雪の技術記録が作成され、「茶碗」2点、「水指」1点買上。          5月 隠居して休和と号し、11代休雪を弟節夫が襲名する。                三輪神社、伊勢神宮に参拝し、「茶碗」を奉納。          7月 萩市制35周年記念「産業功労者」として表彰される。        11月 紫綬褒章を授けられる。1968 5月 「日本伝統工芸秀作展」に「茶碗」招待出品。          8月 川端康成ノーベル賞受賞祝賀贈呈の「獅子置物」制作。          9月 「第15回日本伝統工芸展」に「茶碗」2点入選。1969 1月 東京三越・陶裳会同となり「第3回陶裳会展」に「茶碗」招待出品(以後連続)。          3月 大丸・彩虹会同人となり同展に「茶碗」出品(以後連続)。          6月 大阪・高島屋「滉瀁会工芸名作展」に「茶碗」招待出品(以後連続)。          9月 「第16回日本伝統工芸展」に「茶碗」入選。1970 4月 重要無形文化財萩焼保持者として認定される。毎日新聞社主催「人間国宝新作展」に「井戸茶碗」出品(以後連続)。          7月 「三輪休和先生作品懐古展」を萩市民館にて開催。          9月 京都国立近代美術館「現代陶芸展-ヨーロッパと日本-」に「茶碗」招待出品。             「第17回日本伝統工芸展」に「茶碗」入選。             前立腺炎にて山口大学附属病院に入院し、11月治癒退院。1971 6月 毎日新聞社主催「第1回日本陶芸展」招待出品(以後連続)。          9月 「第18回日本伝統工芸展」に「茶碗」入選。        10月 京都国立近代美術館「現代陶芸展-アメリカ・カナダ・メキシコと日本-」に「茶碗」招待出品。1972 4月 大阪・高島屋にて「喜寿記念・三輪休和作陶展」開催。「休和喜寿記念作品集」を花喜多より刊行。          5月 福山・天満屋「藤原啓・三輪休和陶芸二人展」開催。          7月 萩市名誉市民に推挙される。          8月 山口県立山口博物館「三輪休和・藤原啓陶芸二人展」開催。          9月 「第19回日本伝統工芸展」に「水指」入選、文化庁買上。        10月 不眠症となり市内河村病院に入院静養し年を越す。1973 2月 退院して自宅静養する。          4月 勲四等に叙せられ旭日小綬章を授けられる。          9月 「第20回日本伝統工芸展」に「茶碗」入選。1974 1月 迎賓館別館茶室「茶碗」買上。        10月 「第21回日本伝統工芸展」に「茶碗」入選。1975 3月 京都・高島屋「一楽二萩三唐津展」(楽吉左衛門・三輪休和・中里無庵)開催。          4月 「伝統の萩焼と高麗茶碗・古萩名品展」実行委員を委嘱される。          6月 東京・三越「現代名作工芸展」に「茶碗」招待出品。          7月 山口県立美術館(設立準備中)に「茶碗」二点寄贈。          9月 「第22回日本伝統工芸展」に「茶碗」「編笠水指」入選。             文化庁「編笠水指」買上。1976 5月 日本経済新聞社・ドレスデン国立美術館・シュベリーン国立美術館主催「日本陶磁名品展」に「白萩釉水指」出品。          9月 「第23回日本伝統工芸展」に「花入」入選。1977 4月 東京・松坂屋「人間国宝展」に「茶碗」出品。          7月 名古屋・丸栄「十和会展」出品。        10月 岡山・天満屋にて「からひね会展」が初めて開催される。1978 4月 東京・松坂屋「人間国宝展」出品。1979 5月 山口市仁保病院に入院。1981 5月 同病院を退院、帰宅。          6月 萩市河村病院に再入院。        10月 24日、老衰のため死去。          (山口県立美術館「三輪休和展」1982図録参照)

鈴田照次

没年月日:1981/09/08

染色作家の日本工芸会正会員・理事の鈴田照次は、9月8日肝臓ガンのため佐賀県藤津郡国立嬉野病院で死去した。享年64。1916(大正5)年10月27日佐賀県杵島郡で生まれた。1934(昭和9)年佐賀県立鹿島中学校卒業、1935(昭和10)年東京高等工芸学校工芸図案科(現千葉大学工学部)入学、1938(昭和13)年卒業。富本憲吉、稲垣稔次郎の影響が初期の作品には比較的多く見られる。特に型絵染は稲垣稔次郎に師事して学んだのでその傾向は初期の作品にあるが、鍋島更紗の技法の研究を進めて木版摺更紗の独自のものが出来てからは得異の秀作が年々発表された。制作略年譜西暦   昭和1936 11年 東京高等工芸学校講師鹿島英二氏に蝋染を学ぶ1950 25 新匠展蝋染を出品、冨本憲吉氏と稲垣稔次郎氏を知る、その後稲垣氏に型絵染を学ぶ1953 28 佐賀大学教育学部講師 県美術展審査員1955 30 新匠会会員に推薦さる1958 33 東京高島屋美術部にて個展1959 34 型絵染着物「くれおめ」第6回日本伝統工芸展入選以来没年まで毎年入選1960 55 鍋島更紗秘伝書及見本帖を見、この更紗の解明と復元を期す                型絵染着物「歯朶文」日本伝統工芸展入選1961 36 型絵染着物「竹文」第八回伝統工芸展出品、文化庁蔵1962 37 日本工芸会正会員認定、型絵染着物「松文」第九回日本工芸会長賞受賞、文化庁蔵1963 38 日本伝統工芸展染色部門鑑査員、以降十回餘型絵染壁面装飾「老松」1964 39 社団法人日本工芸会理事に委嘱され没年までつとめる。染織工芸の源流を求めて、インドネシア・セイロン・インドに渡り調査研究。                型絵染着物「草文」「芋葉文」第11回日本伝統工芸展出品、「草文」文化庁蔵1965 40 第12回日本伝統工芸展染色及び人形両部門第1次鑑査員委嘱さる                型絵染着物「草の実」「栗文」同展出品、型絵染着物「葦文」(第2回日本染織展出品)1966 41 日本工芸会西部支部幹事長に就任以来81年没年までつとめる                型絵染着物「麦穂波」「松の花文」(第13回日本伝統工芸展出品)「麦穂波」京都国立近代美術館蔵1967 42 第2回国際芸術見本市アメリカ展招待、型絵染着物「麦穂波」出品                型絵染着物「夜香文」(日本染織展出品)文化庁蔵                型絵染着物「山芹文」「草文」(第14回日本伝統工芸展特待出品)1968 43 型絵染着物「渦文」「草文」(第15回日本伝統工芸展出品)同出品作「渦文」横浜シルクセンター蔵1969 44 著書「染織の旅」芸艸堂より出版、鍋島更紗秘伝書を基に鍋島更紗復元に着手、型絵染着物「もくまお」「華文」(第16回展出品)「雨文」「球文」(第6回日本染織展出品)1970 45 型絵染着物「歯朶文」(第17回展出品)型絵染壁画装飾「春暁譜」「秋惜譜」制作1971 46 型絵染着物「麦穂文」(第18回展出品)1972 47 鍋島更紗の技法に基く木版摺更紗を発表                木版摺更紗着物「松文」(第19回展出品)東京国立近代美術館蔵 型絵染着物「笹文」(第9回日本染織展出品)1973 48 木版摺更紗着物「松文」「草穂文」(第20回日本伝統工芸展特待出品)木版摺更紗着物「郭公花文」(西部工芸展出品)1974 49 木版摺更紗着物「おだまき文」(第21回展特待出品)、木版摺更紗着物「歯朶文」(第9回西部工芸展出品)以上二点東京国立近代美術館蔵1975 50 還暦を記念して歌と随想「梅下集」を発刊                木版摺着物「松竹梅文」(第22回展特待出品)木版摺更紗着物「竹文」(第12回日本染織展出品)東京国立近代美術館蔵1976 51 木版摺更紗着物「とり文」(第23回展出品)1977 52 芸術選奨文部大臣賞受賞(第23回展出品作「とり文」が対称となる)                木版摺更紗着物「麦穂文」(第24回展特待出品)木版摺更紗着物「芹花文」(第14回日本染織展出品)京都国立近代美術館蔵1978 53 紫綬褒章受章                木版摺更紗着物「松の花文」(第25回展出品)木版摺更紗着物「竹文」(第15回日本染織展出品)以上二点佐賀県立博物館蔵1979 54 木版摺更紗着物「花文」(第26回展出品)文化庁蔵 木版摺更紗着物「松葉文」(第16回日本染織展出品)木版摺更紗による襖制作1980 55 ロンドン、ビクトリア・アンド・アルバート美術館「ジャパン・スタイル展」に招待出品1981 56 日本経済新聞社主催作品展(鐘紡東京銀座シグナスホール)          56 9月8日没               (鈴田照次作品集型と版染」-1980年 芸艸堂刊-の年譜参照)

中儀延

没年月日:1981/07/07

染色作家の日本工芸会正会員中儀延は、7月7日脳出血のため金沢市南新保町の石川県立中央病院で死去した。享年86。1895(明治28)年2月6日金沢市に生まれ、石川県立工業学校卒業後は加賀小紋染の修行を積む。1963(昭和38)年の第10回日本伝統工芸展に入選後、1968(昭和43)年には正会員となり、1972(昭和47)年の第19回日本伝統工芸展では会長賞を受賞、金沢文化賞・北国文化賞も受け、1978(昭和53)年には石川県指定無形文化財と加賀小紋保持者認定を受け、加賀小紋染の第一人者として活躍した。

山鹿清華

没年月日:1981/06/26

染織美術の草分け的存在であった文化功労者で芸術院会員の山鹿清華(本名健吉)は、6月26日急性肺炎のため京都市中京区の高折病院で死去した。享年96。1885(明治18)年3月22日京都市に生れた。軍学者山鹿素行の子孫。西陣織に従事していた四番目の兄の影響で、小学校卒業後、織図案家の西田竹雪の内弟子になり、並行して日本画の勉強もする。10年間の年期奉公があけると、図案家として当時の第一人者であった神坂雪佳に師事し、明治末期から大正にかけて、関西図案会・新工芸院・京都図案家協会などの創立に尽くした。現代のファイバーアートのはしりを行く染織美術作品を、撚糸や染など広く内外の染織技法の研究を続けて独自の手織錦を考案、1925(大正14)年のパリ万国装飾美術工芸博で手織錦「孔雀」がグランプりを受け、以後数多くの優作を発表した。1927(昭和2)年の帝展工芸部で手織錦「オランダ舟」で特選、第7回日展出品の「無心壁掛」及び撚糸染法の新生面開拓によって1951(昭和26)年芸術院賞を受賞した。以後日展などの審査員をつとめ、工芸作家の第一人者といわれるに至った。1957(昭和32)年に芸術院会員に、1969(昭和44)年文化功労者に選ばれた。1974(昭和49)年に勲二等瑞宝章受章。

斎田梅亭

没年月日:1981/06/01

人間国宝の截金師斎田梅亭は、6月1日午後5時45分心筋梗ソクのため、京都市西京区の西京都病院で死去した。享年81。1900(明治33)年4月6日、京都市下京区に、斎田万次郎の五男として生まれる。本名は右五郎。斎田家は、西本願寺専属の截金仏画師で、父万次郎は四代目、長兄晨三郎が五代目である。梅亭は、1920(大正9)年京都市立美術工芸学校図案科を卒業し、晨三郎について截金技術を学んだ。金・銀箔を細かく切り、本来仏像や仏画を装飾する技法である截金を、工芸品に応用することを研究した梅亭は、36(昭和11)年の改組第1回帝展に「歳寒三友ノ図截金屏風」で初入選し、54年まで、新文展、日展に入選を重ねている。45年3月に兄晨三郎が没したため六代目を継承、家業を継ぐ一方で、截光会を結成し、新しい装飾工芸の開拓に努めた。54年に日本工芸会が創設されてからは同展に出品し、59年の第6回展で「截金飾筥」が奨励賞を受賞、61年には会長賞受賞とともに正会員に選ばれた。また64年第11回展で審査委員をつとめて後、たびたび同委員をつとめている。74年には、東京都港区の赤坂離宮迎賓館の調度品として、代表作のひとつである截金の四曲屏風一双「霞文様」を制作、仏教美術の分野の一技法にとどまっていた截金を、工芸美術の域まで高めた功績が認められ、75年勲四等瑞宝章を受章した。また77年の京都府美術工芸展では大賞を受賞、同年京都府美術工芸功労者に選ばれ、この4月には人間国宝(重要無形文化財保持者)に認定されたばかりだった。屏風や飾筥、茶器などに施された截金の装飾は、繊細で現代的な感覚のもとに見事に甦っている。主要作品は、上記のほか、「截金菜華文飾筥」(61年)、「波頭文飾筥」(67年)「華(小屏風)」(69年)「六万飾筥」(74年)など、

平田郷陽

没年月日:1981/03/23

振りや衣裳に重点を置いた「衣裳人形」の現代化に取り組んだ人間国宝平田郷陽は、3月23日午後1時10分、脳血せんのため東京都文京区の都立駒込病院で死去した。享年77。1903(明治26)年11月25日、伝統的な「活き人形」(等身大の似顔人形)の名工として知られた初代平田郷陽(恒次郎)の長男として、東京浅草に生まれる。本名は恒雄。田原町小学校を卒業後、父に人形制作を学び、父が没した24(大正13)年に二代目郷陽を襲名した。その後、等身大のマネキン人形を作るかたわら、雛人形などの制作に従事したが、28年、久保佐四郎、岡本玉水ら創作人形制作への意欲を持った同志と白沢会を結成、同会の展覧会に「島原の太夫」「髪」(共に33年)など徹底的な写実に基づく作品を発表した。35(昭和10)年には白沢会を解散して新たに日本人形社を創立、商品としての人形から、人形の芸術的発展を目指した活動を展開する。こうした世上の動きを反映して、人形の出品が認められた36年の改組第1回帝展に、「桜梅の少将」が初入選し、以後、文展、日本人形社展に出品する。この間、38年童人舎人形塾を開設して門下生の指導・育成をはじめ、また、37年には岡本玉水と京城へ旅行して朝鮮の風俗などを調査し、40年に京城で作品展を開いている。41年日本人形社を解散して新たに人形美術院を創立、また、戦後48年に創立された日本人形作家協会では代表委員に就任した。この頃より、「沢辺の雪」(48年、第4回日展)や、第6回日展で特選となった「茶」(50年)、第9回日展(53年)で北斗賞を受賞した「秋韻」など、作風は戦前の徹底した写実から、単純化されたフォルムと浮世絵の人物を思わせるほのぼのとした情感をたたえるものに変っていく。そして53年に無形文化財に選定され、54年第10回日展審査員を勤め、55年には重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。57年に日展を退会して以後は、日本伝統工芸展と、彼の門下生らによる陽門会に出品を続け、作風に円熟味と完成度が加わる。「遊楽」「冬麗」(58年)「萠芽」(60年)「清泉」(61年)「遊戯」(63年)「櫛名田姫衣装像」(73年)「天のうずめの命」(74年)など、母や子供を題材に、振りや衣裳に意を凝らした愛くるしい作品を次々に発表した。65年に創作四十年記念展(三越)、75年人形芸五十年平田郷陽展(三越)をそれぞれ開催し、68年紫綬褒章、74年勲四等瑞宝章を受賞、また、日本工芸会理事、日本伝統工芸会鑑査委員などもつとめ、人形芸術の発展に尽力した。

坂高麗左衛門〔11代目〕

没年月日:1981/01/13

萩焼の陶芸家坂高麗左衛門は、1月13日午後11時40分脳出血のため、山口県萩市の玉木病院で死去した。享年68。1912(大正元)年4月26日下関市に生まれ、本名は信夫。帝国美術学校(現武蔵野美術大学)を卒業したのち、48(昭和23)年に旧萩藩御用窯の宗家坂高麗左衛門家の婿養子となる。萩焼は、17世紀初頭に朝鮮の陶工李勺光、李敬兄弟によって創始されたもので、茶の湯では「一楽、二萩、三唐津」として代表的な和物茶碗のひとつに数えられる。李兄弟は松本中之倉に松本窯を開窯し、その後弟李敬が寛永2(1625)年坂高麗左衛門の和名を藩主から受けて坂家の初代高麗左衛門となったが、兄李勺光の一族が後に深川三之瀬に移り深川窯を開いたため、以後、坂家が松本窯の総都合役を踏襲するようになる。その坂家の11代高麗左衛門を58年に襲名し、また66年の第13回日本伝統工芸展に「萩焼茶碗」が初入選、その後入選を重ね71年に日本工芸会正会員となった。朝鮮の井戸茶碗ふうのものや、胎土に荒砂や礫を混入した鬼萩手など豪快でたくましい作風を得意とし、73年山口県芸術文化振興奨励賞を受賞、75年に山口県無形文化財の指定を受けた。80年には日本工芸会の理事となり、山口県支部の幹事長などもつとめた。この間、78年には、他の萩焼作家と共に中国を旅行している。主な作品は、「井戸茶碗」(75年)「魚紋花瓶」(77年)他がある。

玉置びん

没年月日:1980/12/04

記録作成等の措置を講ずべきものとして選択された無形文化財の「かっぺた織技術者」玉置びんは、心不全のため、東京都八丈島の自宅で死去した。享年83。1897(明治30)年9月13日、東京府八丈島に生まれた。八丈島の末吉地方には、かっぺた織という極めて原始的な形の織機で織る方法が伝えられており(越後や結城のいざり機の更に原始的な形のもので、登呂遺跡から発見された弥生時代の織機の断片が恐らくこれであり、アイヌや台湾の布を織る機、インドネシアや中南米のグァテマラやペルーの現地人の使っている機と同種)、しかもかっぺた織は、こうした原始的なものでありながら、綜絖が十枚もついている。経糸をかけたちまきとぬのまきが両方に張られて、その一端は部屋の鴨居か柱に結びつけられ、一方は織り手の腰にいざり機の要領で固定される。上下に五つずつ十枚の綜絖を交互に上下に引くことによって経糸を分け、そこへ刀筬の竹篦を通して、これを立てて杼道を分け、糸巻を通して緯糸を入れ篦でたたいて打ち込んで行くと、経糸に組み込まれた色糸によって、石畳、鱗、そろばん繋ぎ、十字などの幾何模様が織り出される。この至って原始的かつ珍重な技法の文様織を玉置びんは就学前の幼時より好んで見習い、習得したという。文様織の複雑な手間などから伝承者が少く、現今では唯一の伝承者であった。昔は帯のような幅の広いものも織られていたことが島に残っている古い機の部品から知ることが出来るが、明治末年にはすでに幅のせまい帯状のもの、紐状のものしか織られておらず、玉置びんも細帯、紐を、自家用と少量の注文品だけ織るにとどまっていた。 国の「記録作成等の措置を講ずべきものとして選択された文化財」に「かっぺた織技術者 玉置びん」として選択されたのは1962年3月30日。

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