村越道守
没年月日:1943/04/08彫金家、文展審査員、工芸作家協会常務委員村越道守は4月8日肺炎のため下谷区の自宅で逝去した。享年43。明治34年東京に生れ、東京高等工芸学校を卒業、帝展時代より出品を続け、特選2回、その様式化した作品は新機軸を出すものとされた。
本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)
彫金家、文展審査員、工芸作家協会常務委員村越道守は4月8日肺炎のため下谷区の自宅で逝去した。享年43。明治34年東京に生れ、東京高等工芸学校を卒業、帝展時代より出品を続け、特選2回、その様式化した作品は新機軸を出すものとされた。
京都の工芸図案家として知られた神坂雪佳は1月4日嵯峨野の自宅で逝去した。享年77。本名は吉隆、慶応2年1月12日京都粟田の士族として生れた。明治14年鈴木瑞彦について四条派の絵を学んだが、23年岸光景に師事、各種工芸意匠図案及工芸製作の組織を研究し、傍ら光琳派の画風を修学した。32年京都市選任技師、34年にはグラスゴー博覧会に際して渡欧、38年京都市美術工芸学校教諭、40年には佳都美会を創立して工芸図案界に大きい功績を残した。爾後各種の工芸展覧会に審査員として活躍、大正11年には敘従6位、昭和12年には仏国よりオフイシエーカンボジユ勲3等章を贈られ、昭和13年から京都美術館の評議員であつた。この間諸種の工芸図案を製作、著書に「蝶千種」「海路」等がある。
文展無鑑査宮永東山は12月15日動脈硬化のため京都東山の自宅において逝去した。享年74。本名は剛太郎、明治元年石川県に生れ、東京独逸語学校ならびに仏語学校にまなび、又独逸人ベンケー、岡倉覚三、林忠正等について得るところがあつた。明治28年には東京美術学校に奉職、30年農商務省に入り、32年千九百年巴里万国博覧会に際し出張を命ぜられて滞欧2年、各国の美術工芸を視察、仏国政府より「オフイシエー・ダカデミー」章を贈られた。34年帰朝後、京都錦光山製陶所の聘に応じ、陶界に投ずるに至つた。36年には浅井忠指導のもとに遊陶園を組織、42年伏見稲荷山麓深草に陶窯を築き研鑽をすすめて次第に名声をあげた。その作品はあらゆるものに及んでゐるが、就中青瓷を得意とし、近くは仁清系の粟田陶器を復興して優麗の作をなし、好評であつた。又京都陶磁器工業組合副理事長として斯業につくすところが大きかつた。
彫金家四谷正美は糖尿病のため5月20日逝去した。享年66。明治9年1月5日岡山県に生れ、明治32年東京美術学校彫金科卒業、大正14年には商工省東京府の依嘱をうけて外遊し、巴里万国工芸博覧会の審査員を命ぜられた。昭和9年帝展審査員となり、その他日本彫金会顧問、日本美術協会委員等にあげられてゐた。作品には帝展文展等の出品のほか、昭和4年作伊勢大神宮御神宝消金火桶や昭和10年作満洲国宮内府御用品銀製花瓶等がある。
鋳金家船越春珉は肺炎の為め下谷病院に入院中12月26日逝去した。享年73歳。日本美術協会顧問、日本彫金会々員であり、工芸界の長老であつた。
陶工二世宮川香山は4月20日老衰の為横浜中区の自邸に於て逝去した。享年82歳。本名半之助、安政6年初代香山の長子として京都に生れ、明治6年父と共に横浜に移り、長年の間陶磁器製作に専心し、真葛焼を完成した。帝国美術院展覧会に第四部が置かるるやその審査員に推され、又日本美術協会委員として斯界に重きをなした。
京都の漆芸家江馬長閑は3月12日逝去した。享年60歳。小西春斎、山本利兵衛に師事し、旧帝展に出品、京都工芸美術協会評議員、京都工芸院の同人であつた。
鋳金界の老大家大島如雲は1月4日東京市瀧野川の自宅に於て逝去した。享年83歳。本名勝次郎、安政5年2月2日江戸小石川に生れた。父高次郎に就て蝋型及鋳浚彫刻術を学ぶ。明治14年第2回内国勧業博覧会に「龍神」を出品せるをはじめ、爾後東京彫工会、日本美術協会、東京鋳金会等に出品し、又同33年巴里万国博覧会に出陳せる「稲穂群雀」に依り金賞牌を受けた。之より先同23年東京美術学校に用ひられ、大正7年には同校教授に任じ昭和7年に至る迄後進の指導に当つた。又民間に在つては前記諸会の審査員或は委員として斯界に貢献する所大であつた。
陶磁作家加賀月華は11月24日逝去した。本名常次郎。明治21年桑名町に生れ、大正11年より桑名の物産として名ありし万古窯の再興を図り、地元の赤須賀に築窯して古万古の作風を学び今日に至つた。帝展文展には昭和4年以来連年入選、其他日本美術協会、商工省工芸展等に出品し、屡々受賞してゐた。
漆工家、新文展無鑑査奥村霞城は10月16日逝去した。本名享。明治26年京都に生る。同44年京都市立美術工芸学校漆工科卒業後、船橋舟珉に師事、大正2年京都美工院の同人となり、昭和5年京都市立美術工芸学校教員を命ぜられ、同7年京都市主催工芸品展委員、10年京都漆芸会幹事及京都市主催大衆向工芸展審査委員に就任した。昭和11年春の帝展に「紫陽花手箱」を出品して推奨に挙げられ、次で同年文展より無鑑査となり同12年第1回文展出品の「鹿の図パネル」が絶作となつた。
日本工芸美術会委員磯矢完山は10月4日膵臓病のため逝去した。享年63。本名邦之助。明治8年、茶人磯矢宗庸次男として大阪に生る。同23年小川松民に就て蒔絵を学び、師の没するに及び帝室技芸員川之辺一朝の門に入つた。同30年東京美術学校漆工科本科を卒業、34年小石川に日進塗料工場を設立、40年迄六角紫水と共同経営をなした。45年明治天皇御大葬に際し、御葬具を謹製す。大正8年故川之辺一朝及完山の門下生、木白社を組織し同13年迄日本橋高島屋に展覧会を開催、完山も多数出品した。同15年日本工芸美術会創立され会員となる。昭和4年同会主催工芸リーグ展に「孔雀文手筥」「草花文蒔絵香炉と卓」を出品、同7年同会の委員となり、同年の展覧会に「夏の菓子器」「苺文手筥」を出品、翌年帝展第14回に「蒔絵菜文茶箱」を、次いで9年日本工芸美術会展に「独楽文菓子器」「千本しめじ香合」を出品した。同10年東京高島屋に於て親戚一同にて一門会美術工芸展を開催、自らも多数出品した。同年日本工芸美術会展に「花器」「小膳」を出品、11年「短冊筥青柳と橋の図」「硯箱猿三番叟之図」を完成し、又同年7月自邸内に作品陳列所を建て「朱文筵」と称した。12年工芸美術会大阪展に「瓢文茶箱」「二菜葵棗」「蝉香合」「茸香合」「花文棗」等を出品した。
陶工家伊東陶山は9月7日腎臓炎の為京都の自宅で逝去した。明治4年滋賀県に生れ、同20年故内海吉堂に就き日本画を学ぶ。同24年、故帝室技芸員先代陶山に就き製陶法を学び、その非凡なる才能を見出されて養子となり、大正9年二代を襲名した。昭和3年御大典に際し、宮内省御用品を献納す。同年帝展に於て推薦となり、同6年及び8年に帝展第四部審査員に任命された。晩年は日本美術協会々員、京都工芸美術協会評議員及審査委員、其他京都に於ける各種の団体の要職に就いてゐた。
竹工家、竹雲齋田辺常雄は4月26日堺市の自邸で逝去した。享年61。尼ケ崎市に生れ19歳の時初代和田和一齋に就て竹工の技術を修業、屡々畏き辺へ作品を献上し、大正14年大正天皇銀婚式に際し堺市よりの献上品「天盃形盛花籃」「貢船盛花籃」を製作し、又同年巴里万国博覧会に農商務省の指定に依り「瓢形花籃」を出品して銅牌を受領した。
漆芸家菅原精造は4月12日パリ郊外ロスチヤイルド男のシヤンチイユ別荘で持病の肝臓癌の為逝去した。享年54。山形県の出身で、東京美術学校卒業後明治38年渡仏、爾来日本漆芸の伝統的技法を欧洲に伝へパリ工芸界の異色ある存在として認められて来た。有名な仏人漆芸家ジヤン・ジユナンの如きも其の技法は故人の指導に負ふ所多く、両人の協力に成る作品が多数にある。古くから乾漆技法に依る前衛彫刻の製作を試みて居り、其の作品は年々サロン・ドオトンヌに出陳され、特異な作風を記憶されて居たものである。(アトリエ14ノ7に依る)
古陶磁研究家として又製作家としてしられてゐる真清水蔵六は昨秋琉球古窯址の調査に赴いて帰洛後健康すぐれず京都市右京区の自宅で療養中であつたが6月13日午前3時逝去した。享年76。翁は幼名寿太郎、18歳の時初代蔵六の裔を継ぎ、京都五条に在つて夙に茶器の名手として知られてゐた。又古陶磁の鑑識にすぐれ、普く日本、支那、朝鮮の諸窯址を踏査して研究し、遺著「泥中庵今昔陶話」の外「寄陶」「古陶録」「泥中閑話」等の著がある。(陶磁8ノ4より)
石川県美術工芸界の元老として知られた金沢市の石野龍山は3月6日午前零時半脳溢血の為急逝した。享年77。文久元年金沢に生れ、陶磁器絵工として其の功績多く、昭和6年帝国美術院で推薦され、加賀九谷陶磁器組合顧問、石川県工芸奨励会名誉会員、石川県下出品人奨励会副会長などの職に在り、其の逝去は九谷焼界を初め県下美術工芸界の大きな損失として惜まれる。
帝国美術院会員赤塚自得は胃潰瘍を病み、芝区の自宅で加療中のところ2月1日逝去した。享年66。葬儀は同月3日芝教会で行はれた。赤塚家は代々漆芸を以て家業とし、平左衛門を名乗り、彼は七代目に当る。蒔絵を専門とし現代漆芸界の巨匠であつた。明治4年東京市芝区浜松町に生る。同18年狩野久信に就て日本画を、翌年蒔絵を先考に学ぶ。20年勧学義塾の中等科に学んだ。尚明治43年には寺崎広業に就て日本画を、又同45年に白馬会洋画研究会に於て洋画を修めた。明治40年、東京勧業博覧会審査官、東京府美術工芸展の審査員に就任し、大正元年、日本美術協会の審査員に、同12年日本工芸協会の理事となつた。同13年工芸済々会の創立委員となり、昭和2年、日本美術協会展の審査主任、日本工芸美術会の創立委員となり、又帝展及商工省工芸展の審査員を仰付られた。同4年商工省工芸調査会の委員に任命され、翌年帝国美術院会員に任命された。
名正造、明治28年香川県に生る。大正2年香川県立工芸学校卒、後岩村哲斎に就きて漆芸を学んだ。京都工美展に於ては数回入賞し帝展には昭和9年入選した。京漆園なる漆器工場を経営して居た。享年41。