黒田辰秋
木質の美を追求し続けた木漆工芸の人間国宝黒田辰秋は、6月4日午後3時30分、急性肺炎のため京都市伏見区の自宅で死去した。享年77。1904(明治37)年9月21日、京都市に塗師屋を営む黒田亀吉の六男として生まれる。病弱の幼時期を送り、19年父兄の勧めで一時蒔絵師に就くが、健康を害してこれを止め、以後独学する。この頃、漆芸界での分業制に疑問を持ち、制作から塗りまでの木工芸の一貫作業を目指して木工も独学した。23年第一回京都市美術工芸品展に「螺鈿竜文卓」が入選、デビュー作となる。21年楠部弥弌、24年には河井寛次郎、柳宗悦、青田五良(染織)らを知り、彼らの民芸運動に共感、26年柳らが発行した『日本民芸館設立趣意書』の表紙の表題を彫る。27年には柳宗悦、青田五良、鈴木実(染織助手)と共に上賀茂民芸協団を創立し、共同生活をしながら制作に没頭した。この頃朝鮮の木工品に学ぶところが大きく、また技術的にも、透明漆を塗り木目を生かして重厚な仕上がりを見せる拭漆や、朱漆、黒漆、白蝶貝等による螺鈿などの技法を既に用い、大量の木工家具や装飾品等を制作した。28年御大礼記念博覧会に特設された民芸館に「拭漆欅テーブルセット」を出品、29年には民芸協団作品展が開催され、また民芸論を通じ、小林秀雄、志賀直哉、芹澤銈介らを知る。上賀茂民芸協団は29年秋解散となるが、ここでの活動が以後の制作態度を決定した。また本の表題や扉絵、挿絵などもこの頃手がけている。30年柳の推薦により国画会に無鑑査出品、以後同展に出品する。35年頃よりメキシコ産アワビ貝(耀貝)を使った螺鈿も本格的に手がけ、終戦前後までは主に個展を中心に活動、また40年には武者小路實篤を知る機会を得た。戦後に至りその社会的活動も活発となり、先ず45年漆芸研究団体を結成、48年京都工芸作家審議委員会(常任委員)、54年日本工芸会近畿支部創設、56年日本工芸会正会員、58年には日本伝統工芸展鑑査委員・木工部長となる。作品では59年東宮御所「耀貝螺鈿盒子」、67年皇居新宮殿扉飾り、及び梅の間用の大飾棚、そのほか螺鈿の台座などを制作している。木質の持つ美を極力生かし、伝統に学び民芸運動にも参加する一方、卓越した技量により現代的な造型性をも盛り込んだその作品は、志賀直哉をして「名工中の名品」と言わしめた。70年重要無形文化財(人間国宝)の指定を受け、71年紫綬褒章、76年京都市文化功労者、78年勲四等旭日小綬章を受章、また64年国画会会員となっている。
出 典:『日本美術年鑑』昭和58年版(273-274頁)登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)
例)「黒田辰秋」『日本美術年鑑』昭和58年版(273-274頁)
例)「黒田辰秋 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9881.html(閲覧日 2024-10-10)
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- ■美術界年史(彙報)
- 1957年11月 仮宮殿の装飾品を依嘱
- 1970年03月 “人間国宝”指定
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