本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





丸谷端堂

没年月日:1984/12/08

日展参与の鋳金家丸谷端堂は、12月8日午後7時50分、心不全のため東京武蔵野市の武蔵野赤十字病院で死去した。享年84。明治33(1900)年5月26日、東京市浅草区に生まれる。本名修造。明治45年府立第三中学校へ入学するが中退。大正2(1913)年、絵画塾へ入るが父の勧めにより中退。翌年山本純民に師事し金工を学ぶ。同8年より山本安曇に師事。同13年より安曇の紹介により香取秀真に師事し公募展出品に志す。同15年東京府工芸展に「莨セット」を出品して三等賞、同年の鋳工展では「杵型花生」で褒賞を受賞。以後、昭和2(1927)年には東京府工芸展「喫煙具」一等賞、鋳金展「インクスタンド」銅賞、同3年には商工省工芸展「莨セット」銅賞、鋳金展「虞美人草花生」「一輪挿し」褒賞、同4年には日本美術協会展「電気スタンド」銅賞、鋳金展「魚鳥文花生」銀賞、同5年には日本美術協会展「香炉」銅賞、鋳金展「輪違い文花生」銅賞、商工省工芸展「電気スタンド」褒賞、同6年には日本美術協会展「寸筒文花生」銀賞、東京府工芸展「インクスタンド」三等賞、同7年には商工省工芸展二等賞、日本美術工芸展「水盤」銅賞、鋳金展「バンド金具」銅賞、同8年には日本美術協会展銅賞、商工省工芸展「魚文耳付花生」三等賞、同9年には日本美術協会展「瓶かけ」銀賞、商工省工芸展二等賞、同11年には東京府工芸展「胡銅花生」一等賞、鋳金展「青銅花生」銀賞、同12年には商工省工芸展「青銅花生」三等賞、同13年には東京府工芸展「七幅香炉」三等賞、日本美術協会展「花蝶文花生」銅賞、同14年には商工省工芸展「手取群蝶文花器」三等賞、日本美術協会展「虫文水盤」銀賞、東京府工芸展「竜耳付花生」一等賞と受賞を重ねる。同15年より帝展に出品し、同17年より同展無鑑査、以後も官展に出品を続け、戦後の日展では同24、30、34、39、48年の5回、審査員をつとめ、同50年日展参与となる。また、同年より東京デザイン専門学校顧問となる。同54年より腎不全を患う。花生や置物を得意とし、伝統を踏まえながらそれに縛られることなく、用の美を追求した。明快で整った形態と安定感を持つ、斬新なデザインの作品をつくりあげた。

赤地友哉

没年月日:1984/06/30

漆塗りの髹漆の第一人者で人間国宝の赤地友哉は、6月30日午後6時30分心筋こうそくのため、横浜市の自宅で死去した。享年78。明治39(1906)年1月24日石川県金沢市に桧物師赤地多三郎の三男として生まれ、本名外次。大正11(1922)年金沢市の塗師新保幸次郎に師事、5年余りの修業の後、髹漆を始める。髹漆は、漆芸において蒔絵、螺鈿による加飾法を除く各種の下地、上塗りに関する漆塗りの基本的な技法の総称である。この頃遠州流の吉田一理に茶道を学ぶ。昭和3(1928)年上京し日本橋の塗師渡辺喜三郎に入門、また遠州流家元小堀宗明に茶道も学び、同流に因み友哉と称す。5年独立し、京橋や日本橋で茶器などの制作につとめるかたわら、6ケ月間蒔絵師植松包美のもとで徳川本源氏物語絵巻を収める箪司の髹漆に従事し、蒔絵についても多くを得た。またこの頃東京漆芸会に入会、以後同展に出品していたが、18年徴用され三井化学目黒研究所に勤務、戦後21年より大平通商株式会社に勤務し三井漆を研究する。28年再び制作に専念し、31年日本伝統工芸展に「胡桃足膳」を初出品、34年同第6回展「朱輪花盆」、35回第7回展「曲輪造彩漆盛器」が共に奨励賞、36年第8回展「曲輪造彩漆鉢」が日本工芸会総裁賞を受賞した。41年第13回展出品作「曲輪造平棗」は翌年芸術選奨文部大臣賞を受賞、同42年社団法人日本工芸会の常任理事に就任した。曲輪はヒノキ、アテ、スギなどの柾目の薄板を曲げて円形や楕円形の容器を作る木工技術で、36年の「曲輪造彩漆鉢」は幅の狭い板を曲げて作った輪を数多く積み重ね鉢形に組み上げたものである。この曲輪により多彩なフォルムを作り出すと共に、曲輪をまとめて塗り固める捲胎という新手法も編み出し、38年第10回日本伝統工芸展に「捲胎黄漆盆」を出品している。49年重要無形文化財(人間国宝)「髹漆」の保持者に認定され、50年より石川県立輪島漆芸技術研修所に髹漆科開設に伴い同講師、また日本文化財漆活会副会長をつとめた。52年NHK番組「精魂」で制作過程を収録する。47年紫綬褒章、53年勲四等旭日章を受章する。

金林真多呂

没年月日:1984/05/25

「真多呂人形」の名で親しまれた木目込人形作家金林真多呂は、急性肺炎のため5月25日午前6時52分、東京都文京区の順天堂医院で死去した。享年87。本名金林真多郎。明治30(1897)年5月4日東京下谷に生まれる。明治から昭和初期にかけて木目込人形の第一人者と言われた初代名川春山や義父吉野喜代治らに師事し、その技法を学ぶ。木目込人形は、柳の木彫地をそのまま生かした小さな人形で、縮緬や金襴などの着衣の裂を木の表へ直接貼りつけ、裂端を素地にあらかじめつけておいた筋に押し込む(きめ込む)ことからこの名がある。創制者が元文年間京都加茂神社の雑掌をしていた高橋忠重という人物と伝えられることや、その孫で文化年間頃人形界を風靡した大八郎という名手がいたことなどから、加茂人形、大八人形などともよばれる。戦前・戦後と研究を続け、歴史に題材を求めた多くの人形を制作、殊に平安時代の華麗な貴族の風俗を現代的感覚で捉えた作品を特色とし、「真多呂人形」の名を生んだ。また自ら真多呂人形学院をつくり後進の指導にあたったほか、東京都雛人形工業協同組合理事長をつとめた。主要作品に「競馬」(京都上賀茂神社)「明治雛」(京都国立博物館)「川中島の合戦」(上杉神社)「江戸の祭(神田祭)」(台東区立下町風俗資料館)などがある。

芹沢銈介

没年月日:1984/04/05

国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)で、文化功労者の型絵染作家芹沢銈介は、4月5日午前1時4分、心不全のため、東京都港区の虎の門病院で死去した。享年88。略年譜明治28(1895)年5月13日、静岡県静岡市の呉服太物卸小売商大石角次郎の次男として生まれた。明治41(1908)年 静岡県立静岡中学校に入学。中学時代、すでに美術好きの少年で、水彩画家山本正雄のよき指導を得ていた。大正3(1914)年 東京高等工業学校図案科入学。印刷図案を専攻。翌年、図案科は東京美術学校に学務委託され、ここで石版印刷技法を修得した。この頃、雑誌「白樺」「フューザン」の挿画を通して西欧美術に感動、国内では梅原龍三郎、安井曽太郎、特に岸田劉生と中川一政に傾倒、また富本憲吉、バーナード・リーチの作品に惹かれた。大正5(1916)年 東京高等工業学校図案科卒業、静岡市の生家に帰る。大正6(1917)年 2月、静岡市の芹沢たよと結婚、友人太田三男と文金図案社を始め、店舗の装飾、広告、祭の花車等の依頼を受け、大工玩具の考案製造もした。11月からは、静岡県立静岡工業試験場で、蒔絵、漆器、染色紙、木工等の図案指導を行う。この年長女規恵出生。大正8(1919)年 小絵馬の収集始める。10月長男長介出生。大正10(1921)年 大阪府立商工奨励館募集のポスター図案に入賞、福助足袋屋のポスターで朝日新聞ポスター図案に入賞、等各府県、新聞広告の懸賞に入賞多数。このころ、子供の乗物、絵本を作り、劉生風の油絵を描き、自分の子供たちの衣服もデザイン、布染めして工夫して着せるなどした。大正11(1922)年 この年から近隣の子女を集めて「このはな会」と名付け、手芸の図案を与えて、絞り染めや刺繍、編物等の製作をさせた。この年の主婦之友全国家庭手芸展に出品させ、最高賞を受けた。このころ、雑誌「白樺」に柳宗悦の東洋美術紹介があったのに感銘を受け、特に「李朝の陶磁器号」に感動する。11月に次女和喜出生。大正13(1924)年 芹沢家は、親戚のための請判が原因で土地、家屋、山林、田畑のすべてを失い、借家住いとなる。この頃から蝋染を始める。昭和2(1927)年 柳宗悦、河井寛次郎、濱田庄司らが静岡市鷹匠町の宅へ来訪、収蔵の李朝陶器等に賛成する。4月、東京鳩居堂の第1回日本民芸展で古民芸の系列に接す。6月、柳宗悦編「雑器の美」(民芸叢書第一編、工政会出版部)の装幀をする(以後柳宗悦著述本の装幀多数)。この年、朝鮮京城の民族美術館、慶州佛国寺を訪れる。往路、船中で雑誌「大調和」(昭和2年4月創刊)に連載中の柳宗悦の論文「工芸の道」に感銘をうけ、生涯の転機となる。昭和3(1928)年 上野公園の大禮記念国産振興博覧会で、静岡県茶業組合連合会の展示を行う。この博覧会特設館の日本民芸館で初めて見る沖縄の紅型に瞠目する。前後して開かれた啓明会その他の沖縄工芸の展示を見て紅型への思慕を深めた。昭和4(1929)年 3月、京都大毎会館の日本民芸品展に、所蔵の小絵馬、陶器、染物等出品、また國画会展にはを初出品、N氏賞受賞。昭和6(1931)年 雑誌「工芸」創刊され、表紙を1ケ年受け持つ。その型染布表紙は装幀の仕事への端緒となる。この年、三女とし出産。昭和8(1933)年 大連で個展を開催、帰途、満州・朝鮮の各地を回遊。倉敷文化協会主催で同地で個展を開催、大原孫三郎の知遇を受ける。昭和9(1934)年 東京市蒲田区蒲田町に移る。柳宗悦と共に民芸品収集のため四国を一巡する。昭和14(1939)年 柳宗悦他民芸同人と沖縄に渡り、那覇に滞在、各々専門分野で同地工芸の研究を行う。同地壷屋の生地を取り寄せて赤絵を試み、また沖縄の景物を素材とした染絵を多く作り、これらを高島屋の沖縄展に出品。昭和20(1945)年 戦災で工房と全家具・家財を失う。山本正三の発案で型染カレンダーを創始する。昭和30(1955)年 工房を新設し、有限会社芹沢染紙研究所を開設する。昭和31(1956)年 型絵染で重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される。昭和33(1958)年 倉敷の大原美術館工芸館のために、倉庫群の配置換え及びその内外装、展示用家具の設計をする。昭和36(1961)年 大原美術館工芸館第1期工事により陶磁館落成。この年、柳宗悦死去。昭和38(1963)年 大原美術館工芸館第2期工事により棟方志功、芹沢銈介の両館完成。昭和41(1966)年 スペインのバルセロナのカタルーニア美術館を訪れ、近東、欧州各地を巡遊。この年、紫綬褒章を受章。昭和43(1968)年 大阪フェスティバルホールの緞帳の図案「御船渡」を制作、新皇居連翠の間の横額二面の謹作、米国サンディエゴ州立大学の夏期セミナーに招請され、同地及びロスアンゼルス、カナダのバンクーバーで個展開催。昭和45(1970)年 大原美術館工芸館の第三期工事で東洋館完成。大阪大丸百貨店の濱田庄司、棟方志功との「巨匠三人展」に出品。この年、勲四等瑞宝章を受章。昭和46(1971)年 東京の民芸館で「芹沢銈介収集品展」を開催。「このはな会」寄贈によるケネディ記念館のための屏風「四季曼荼羅」を完成。パリ国立近代美術館長ジャン・レマリー氏来日、同館における芹沢銈介展の開催を要請する。昭和48(1973)年 大阪・阪急百貨店で「芹沢銈介 人と仕事展」を開催。昭和49(1974)年 浄土宗開宗八百年慶讃大法要のため、京都・知恩院大殿内陣の荘厳飾布を制作。岡山天満屋百貨店での展覧会「型絵染の巨匠芹沢銈介の五十年-作品と身辺の品々-」を開催。昭和51(1976)年 文化功労者となる。パリ国立グラン・パレにおいて「芹沢銈介展」を開催。昭和52(1977)年 東京・サントリー美術館で、パリ帰国展として「芹沢銈介展」を開催する。昭和53(1978)年 浜松市美術館で「芹沢銈介の身辺-世界の染めと織り展」を開催。国会図書館での「本の装幀展」に特別出品。静岡・西武百貨店で「芹沢銈介小品展-のれん・装幀とその下絵・挿絵-」を開催。静岡市民ホールの緞帳図案「静岡市歌」制作。横浜市港北公会堂緞帳図案「陽に萠ゆる丘」制作。大原美術館で「芹沢銈介の蒐集-もうひとつの創造-展」を開催する。昭和54(1979)年 千葉県立美術館で「芹沢銈介展-その創造のすべて-」を開催。米国サンディゴ市ミュージアム・オブ・ワールドフォークアートで「芹沢銈介展」開催。昭和55(1980)年 東京国立近代美術館の「日本の型染-伝統と現代-展」に出品。中央公論社より『芹沢銈介全集』の刊行を開始する。昭和56(1981)年 静岡市立芹沢美術館が開館。昭和57(1982)年 栃木県立足利図書館で「芹沢銈介の文字展」開催。天心社の依頼により「釈迦十大弟子尊像」を制作。大原美術館で「芹沢銈介作釈迦十大弟子尊像展」開催。紫紅社より『歩 芹沢銈介の創作と蒐集』刊行。昭和58(1983)年 フランス芸術文化功労勲章を授与される。新宿京王百貨店で「88歳記念芹沢銈介展」開催。4月19日に妻たよ死去。8月病に倒れる。昭和59(1984)年 4月5日午前1時4分心不全のため死去。4月26日、日本民芸館にて日本民芸館葬。正四位に叙せられ、勲二等瑞宝章を受ける。

山崎覚太郎

没年月日:1984/03/01

文化功労者で元日展理事の漆芸家山崎覚太郎は、3月1日午後0時45分心不全のため東京都杉並区のロイヤル病院で死去した。享年84。明治32(1899)年6月29日富山市に生まれる。「北堂」の雅号をもつ。大正4(1915)年高岡工芸学校(現富山県立高岡工芸高等学校)漆工科★漆部に入学し、8年同校卒業と共に東京美術学校漆工科に入学する。在学中いずれも特待生となり、13年卒業。大正14年日本美術協会展に「衣裳盆」を出品し推奨、同年のパリ装飾美術博覧会で「柘榴の硯箱」が金賞を受賞する。また美術団体「无型」の結成に参加し、昭和2年美術工芸部門が加えられた第8回帝展に「化粧台」が初入選した。3年第9回帝展「衝立」、4年第10回帝展「蒔絵ストーブ前立」、6年第12回帝展「サイドボード」といずれも特選を受賞し、7年推薦、以後無鑑査となる。11年より翌年にかけて1年間、商工省、文部省の研究員として渡欧、帰国後『巴里漆芸家訪問録』を出版した。13年第2回新文展に「漆器奔放屏風」、14年第3回新文展に「(蒔絵屏風)猿」と現代的なデザインの作品を発表し、14年よりたびたび審査員もつとめる。この間大正14年東京美術学校助手、15年講師、昭和3年助教授、18年教授(21年依願退職)となった。戦後も日展に出品を続け、27年参事就任、28年第9回日展出品作「三曲衝立猿」により翌年日本芸術院賞を受賞し32年日本芸術院会員となる。一方、26年日本漆工協会初代理事長となり、36年には日展工芸部門の新傾向の作家を糾合して現代工芸美術家協会を結成し委員長に就任、翌年より日本現代工芸美術展を開催すると共に、40年同協会が社団法人となるに際し初代会長となる。また同協会は39年より48年まで北米、中南米、東南アジア、ヨーロッパなど各地で毎年海外展を開催し、日本工芸の海外への紹介につとめた。33年社団法人日展の発足と共に常務理事、44年理事長となるに及んで若返りをはかり日展の改革を敢行、49年会長、53年顧問となる。色漆の技法を開拓し漆芸に絵画的表現を導入、用の枠内にとどまっていた漆芸の近代化を進めて芸術表現の領域まで高めると共に、工芸界の現代派の総帥として大きな指導力を発揮した。代表作に上記作品のほか「群鹿」(昭和28年)、「(漆額面)疾風」(40年第8回日展)、「駛」(52年第9回改組日展)など、躍動する動物を描いた豪快な作風を得意とした。41年文化功労者、45年勲二等瑞宝章、52年勲二等旭日重光章受章。なお、詳しい年譜に関しては、「漆芸65年山崎覚太郎回顧展」(57年、銀座松屋)図録等を参照されたい。

田畑喜八〔4代目〕

没年月日:1983/12/27

友禅染の四代田畑喜八(本名田畑起壱郎)は12月27日午後3時33分、じん不全のため、京都市中京区の丸太町病院で死去した。享年75。明治41(1908)年9月1日京都市中京区で、三代田畑喜八の長男として生まれた。京都市立絵画専門学校、同研究科を卒業。日本画を西山翠嶂に、染織全般を父三代田畑喜八に就いて修得した。第二次大戦中、京染技術保存有資格者として商工省より認証を受け、その会長の父を補佐した。昭和21年1月に、父より家督を譲り受けた。昭和29年文部省の委嘱で父と共に友禅染の技術・作品保存のため、その記録作品を作成した。 日本工芸会の設立発起人、日本染織作家協会設立発起人代表等、第二次大戦後の染織工芸会に盡力、貢献した。主要作品は、訪問着「白夜」(昭和54年秋期日本染織作家展文部大臣賞)、訪問着「春光」(同年春期同展)、訪問着「暁」(同年秋期同展)、訪問着「薫風」(昭和56年同展)など。著作に「小袖」(三一書房)、「色と文様」(光村推古書院)がある。

藤原啓

没年月日:1983/11/12

伝統工芸、備前焼の人間国宝である陶芸作家藤原啓は、11月12日肝臓ガンのため岡山市の岡山大学医学部付属病院で死去した。享年84。本名敬二。古金重陶陽による古備前焼復興を受けて、備前焼に新風をもたらした藤原啓は、明治32(1899)年2月28日岡山県和気郡に農家の三男として生まれた。はじめ文学を志し、私立閑谷黌中退後、大正8年上京し博文館編集部に勤める。同15年までの博文館時代は、「文章世界」の編集に従事する側ら西條八十ら詩人との交友を深め、自らも二冊の詩集『夕の哀しみ』(大正11年)『壊滅の都市』(同13年)を刊行した。また、早稲田大学英文科の聴講生に入り坪内逍遥に教えを受け、藤島武二が指導する川端洋画研究所でデッサンを学んだりしたが、同12年に片山哲、河上丈太郎らとの交際が始まり、荒畑寒村にマルクス思想を学ぶに及んで社会主義運動に身を投じた。その後、日活映画脚本部、新潮社「婦人之国」編集、博文館「新青年」編集などに携わったが、昭和12年、文学・思想両面における自己の才能に悲嘆して強度の神経衰弱に陥り、静養のため帰郷した。翌13年、穂浪在住で正宗白鳥の弟正宗敦夫に勧められて作陶に手を染め、はじめ正宗の紹介による陶工三村梅景に基礎的な指導を受けた。同16年には金重陶陽を知り、その指導下に技術上の進展を見せ、金重にはその後ながく兄事する。戦後の同23年、国の指定による丸技作家の資格を得て自信を深め、以後本格的に作陶生活に入る。同28年、東京での初の個展を開催し、翌年には北大路魯山人の斡旋により東京・日本橋の高島屋で個展を開催した。同31年第3回日本伝統工芸に「備前平水指」を出品、以後同展への出品を続け、また同年日本工芸会正会員に推挙される。同32年、岡山県指定無形文化財「備前焼」保持者に認定され、翌33年日本工芸会理事となる。同33年プラハ国際陶芸展に「備前壷」で受賞。伝統工芸展をはじめ、現代国際陶芸展(国立近代美術館、朝日新聞社 同39年)、日本陶芸展(毎日新聞社、同46年第1回)などに出品した他、しばしば個展を開催した。また、同38年山陽新聞賞、岡山県文化賞、中国文化賞(中国新聞)、同48年三木記念賞(岡山県)をそれぞれ受賞、同45年には国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。同51年備前市初の名誉市民となり、同年郷里に財団法人藤原啓記念館が設立され、同56年には岡山県初の名誉県民の称号を受けた。同56年には朝日新聞社主催で「藤原啓のすべて展」が東京、大阪他で開催され、同年『藤原啓自選作品集』(朝日新聞社)を刊行する。陶陽が旧窯元の家に生まれ桃山時代の作風を目指したのに対し、より素朴な鎌倉時代の作風を追求し、文人的気質に根ざした豪放で重量感あふれる「無作為」の作陶に自己の領域を拓いた。長男雄も陶芸作家。

後藤学

没年月日:1983/10/17

日本工芸会理事の彫金作家後藤学は、10月17日午後6時28分、心筋こうそくのため高松市の香川県立中央病院で死去した。享年76。明治40(1907)年2月18日香川県高松市に生まれる。本名学一。大正14年より北原千鹿に師事し、東京美術学校金工科で清水南山、海野清に学ぶ。昭和6年第12回帝展に「銀花瓶」で初入選。同年東美校を卒業。翌7年より香川県立工芸学校金工部で教鞭をとる。同33年香川県立高松工芸高等学校長および同県漆芸研究所長となり、同42年同校長を退いてのちは上戸女子短期大学で講師をつとめた。この間、帝、文、日展に出品、入選をかさね、同32年からは日本伝統工芸展にも参加し同39年第11回展では彫金印箱「虫の音」で奨励賞を受けた。鉄や銅合金板を薄く打出した地に蹴彫り風の線彫り、透彫、布目象嵌などを用いて文様を施し、古典的で繊細な作風を示した。

高取静山

没年月日:1983/10/05

高取焼宗家11代の女流陶芸家高取静山は、10月5日午後3時55分、脳出血のため大分県日田市の日田中央病院で死去した。享年75。明治40(1907)年11月28日、福岡県朝倉郡に生まれる。本名静。日本大学国文科を卒業。小野賢一郎に師事し、秀吉の朝鮮出兵の際黒田長政が連れ帰った陶工・八山を始祖とし明治維新によってとだえていた幸田藩御用窯高取焼を再興すべく、父富基と共に昭和13年個展を開くが、その会期中に父の急逝にあい一時休窯する。同32年再び窯を開き河村蜻山に師事。翌年遠州流宗家12代小堀宗慶に師事し、高取焼11代を襲う。始祖の故国である韓国との交流にも力を注ぎ、同48年ソウルで個展を開催、同53年には韓国の少年を陶工修業のために招いた。薄作りで、沈んだ渋みのある地に釉薬をかけ、釉なだれの面白さと色合いの妙を出す高取焼の伝統をいかし、茶入、水指、茶盌など多くの茶器を制作した。日本陶磁協会員。著書に『炎は海を越えて』(平凡社)がある。

川瀬竹春

没年月日:1983/08/09

赤絵染付をよくした陶芸家川瀬竹春は8月9日午前8時10分、肺炎のため神奈川県平塚市高根台病院で死去した。享年89。明治27(1894)年4月27日岐阜県福束村に生まれる。本名五作。同40年愛知県瀬戸で陶芸の修業を始め同43年京都に移り初代三浦竹泉に師事。大正8年独立。中国陶磁赤絵染付祥端を主に研究し、昭和15年中国に赴く。同24年から神奈川県大磯の城山窯で制作。岐阜県大垣でも研究を進める。同30年国の無形文化財として記録作家に推される。同41年紫綬褒章、同45年勲四等瑞宝章を受章。また同44年には大垣市重要無形文化財に認定され、同50年同市より功労章を受けた。祥瑞特有の織物風の地に華やかな色彩を施した赤絵、金欄手を得意とし、中国の技法を用いながら淡然とした日本的趣をたたえた作風を示す。宮内庁への上納もたびたび行なっている。

鎌倉芳太郎

没年月日:1983/08/03

国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)で、沖縄の紅型・藍型等型絵染の研究・伝承者である鎌倉芳太郎は、8月3日午後5時50分、急性心不全のため、東京都中野区の自宅で死去した。享年84。略年譜明治31(1898)年10月19日、香川県木田郡に父鎌倉宇一、母ワイの長男として生まれた。大正7(1918)年3月、香川県師範学校本科第一部を卒業。在学中、竹内栖鳳門下の日本画家穴吹香村に写生の法を学んだ。大正10(1921)年3月、東京美術学校図画師範科を卒業。4月、文部省より沖縄県に出向を命ぜられ、沖縄県女子師範学教諭兼沖縄県立第一高等女学校教諭となる。琉球芸術の研究に没頭し、資料の収集・撮影を積む。大正12(1923)年4月、東京美術学校研究科(美術史研究室)に入学。琉球研究資料を正木直彦校長に提出、同校長の紹介で東京帝国大学の伊東忠太教授の指導を受け、研究を続ける。大正13(1924)年4月、伊東忠太博士と共同研究の名義で、財団法人啓明会より琉球芸術調査事業のため補助を受ける。同月東京美術学校助手(美術史研究室勤務)として、沖縄県に出張。首里市の援助により尚候爵家、その他首里、那覇の名家の所蔵品を調査、撮影する。大正14(1925)年3月、東京美術学校美術史研究室に帰校。9月同校で、財団法人啓明会主催の琉球芸術展覧会並びに講演会が開催され、「琉球美術工芸に就きて」と題し講演を行った。大正15(1926)年4月、沖縄本島を中心として、奄美大島、宮古島、八重山諸島を調査する。昭和2(1927)年9月、八重山より台湾に渡って調査旅行をし、上海を経て帰国、東京美術学校に帰校する。同月正木直彦校長担当の「東洋絵画史」のため、有給助手となる。昭和3(1928)年9月、財団法人啓明会創立10周年記念事業として、東京美術学校に於て展覧会及び講演会を開催、染織工芸資料3000点余を陳列し、「琉球染織に就きて」と題して講演する。昭和5(1930)年1月、山内静江と結婚、4月、東京美術学校講師となり「風俗史」の講義を担当。昭和12(1937)年1月、沖縄県に赴き、首里城、浦添城、昭屋城趾等の発掘調査を行う。10月、伊東忠太博士と共著で「南海古陶瓷」を宝雲社より刊行。昭和19(1944)年6月、東京美術学校退職(当時の官職は助教授)。昭和20(1945)年3月、自宅が戦災に遇い、蔵書・資料焼失。但し琉球関係資料は東京美術学校文庫に保管のため焼失を免れ、これが琉球染織の本格的研究の契機となった。昭和33(1958)年9月、第5回日本伝統工芸展に「琉球紅型中山風景文長着」出品入選。以後毎回出品入選する。昭和34(1959)年5月、「古琉球型紙」5冊を京都書院より刊行。昭和36(1961)年、社団法人日本工芸会の正会員となる。昭和37(1962)年5月、日本工芸会理事(2ケ年)に就任、昭和39年に再選。昭和39(1964)年9月、第11回日本伝統工芸展出品作「藍朧型印金芦文『瑲』紬地長着」が日本工芸会々長賞(奨励賞)を受ける。11月「越後糸型染」3冊、京都書院より刊行。昭和42(1967)年12月、「古琉球紅型」(色彩論)を京都書院より刊行。昭和44(1969)年6月、京都書院より「古琉球紅型」(技法論)を刊行。昭和47(1972)年2月、首里の琉球政府博物館に於て「五十年前の沖縄」の写真展を開く。4月、勲四等瑞宝章を受ける。9月、第19回日本伝統工芸展に「型絵染竹林文上布地長着」を出品、日本工芸会総裁賞を受ける。昭和48(1973)年4月、重要無形文化財技術保持者(型絵染)の個人認定を受ける。同月第9回人間国宝展に「型絵染霞文上代紬長着」を出品、以後、毎回出品する。7月「琉球王家伝来衣裳」(講談社刊行)を編集し、これに「琉球の染織工」を執筆する。昭和50(1975)年3月、京都国立近代美術館編「沖縄の工芸」(講談社刊行)に「沖縄の工芸の歴史と特質」、「沖縄の染織について」を執筆。昭和51(1976)年2月、「セレベス沖縄発掘古陶瓷」(『南海古陶瓷』の再版)を国書刊行会より刊行。4月「鎌倉芳太郎作品並びに琉球紅型資料展」を渋谷・西武百貨店にて開催。昭和57(1982)年10月、太平洋戦争で失われた沖縄の文化財のかつての姿を再現、集大成した著書「沖縄文化の遺宝」(岩波書店刊)を刊行した。昭和58(1983)年8月3日急性心不全のため死去。

板坂辰治

没年月日:1983/07/02

金沢美術工芸大学名誉教授、石川県美術文化協会理事の彫金家板坂辰治は、7月2日午前11時49分、脳挫傷のため、金沢市の金沢大学付属病院で死去した。享年67。大正5(1916)年1月18日石川県金沢市に生まれる。昭和13年東京美術学校工芸科彫金部を卒業。同年大阪造幣局に入り、同21年10月同局を退く。同年第2回日展に青銅製「馬」置物で初入選。同22年2月より金沢美術工芸専門学校講師をつとめ、同24年同助教授、同40年金沢美術工芸大学教授となる。日展のほか現代工芸美術展にも出品。同31年第12回日展では丈の高い円筒を大胆に削ぎ、鋭角的な大きい把手をつけた斬新な「花器」で特選に選ばれた。主に青銅を素材とし、幾何学的な形をいくつか組み合わせ、骨太な造型感賞をうかがわせる壷などを多く制作している。

桜井勇次郎

没年月日:1983/06/01

国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)で、久留米絣技術保持者会会長桜井勇二郎は、6月1日午前3時、心筋こうそくのため、福岡県筑後市の自宅で死去した。享年88。明治27(1894)年11月15日、福岡県筑後市で生まれた。明治42(1909)年、14歳で家業の久留米絣に携り、以後終生それに従事した。得意とした技術は、絣模様をあらわすための“手くびり”で、久留米絣が昭和32年4月25日に国の重要無形文化財に指定された折、その技術保持者の1人に選ばれた。昭和51年以降、久留米絣技術保持者会会長。

新村長閑子

没年月日:1983/05/14

日本工芸会正会員で東京芸術大学教授をつとめた漆芸家新村長閑子は、5月14日午後9時20分、急性心不全のため東京都杉並区の河北総合病院で死去した。享年75。明治40(1907)年8月15日石川県金沢市に生まれる。本名撰吉。東京美術学校漆工科本科在学中の昭和8年、第14回帝展に「彩漆啼鳴★箱」で初入選。同年同科を卒業して福島県立会津工業学校教諭となる。同13年石川県工芸指導所漆工科長、同25年静岡県工芸指導所長となり、同28年東京芸術大学美術学部助教授に就任する。この間、帝、文、日展、日本伝統工芸展などに出品。同35年第7回日本伝統工芸展では「漆皮台盤」で受賞している。同47年東京芸大教授となり同50年退官、その後も旧教官として指導にあたった。同39年より日本工芸会理事をつとめる。漆皮を制作し、古典的で典雅な作品を多く生んだ。代表作には、受賞作のほか、同39年大阪四天王寺の依頼により制作した「漆皮宝相華文経箱」等がある。

青木滋芳

没年月日:1983/04/17

染色工芸家、日展評議員、現代工芸作家協会顧問の青木滋芳は、4月17日午後2時35分、肝臓がんのため、千葉市亥鼻の千葉大付属病院で死去した。享年68。大正3(1914)年5月25日東京市四谷に生まれ、昭和13(1938)年3月東京美術学校工芸科図案部卒業。昭和27(1952)年の第8回日展出品作「染色二曲屏風キャベツと蓮根」が特選となり、翌昭和28(1953)年の第9回日展から無鑑査出品となる。昭和34(1959)年第2回新日展で審査員、昭和35(1960)年第3回新日展で日展会員となった。昭和37(1962)年の日本現代工芸美術家協会創立に参画、以後同会においても活躍、日展系の工芸作家として知られる。作品中東京芸大所蔵となっているものは第1回日本現代工芸美術展(昭和37年)出品作の染色二曲衝立「縞のある多角形」、第6回新日展(昭和38年)出品作の染色二曲屏風「翔」、改組第11回日展(昭和54年)出品作の「PARED DE LADRILLO(アルゼンチン風景)」。第8回現代工芸展(昭和44年)出品作「古刹」は千葉県立美術館蔵品となった。昭和52(1976)年に千葉県教育功労者(芸術文化)、昭和57(1982)年に紺綬褒章を受章する。

近藤豊

没年月日:1983/03/17

京都市立芸術大学教授の陶芸家近藤豊は、3月17日京都市山科の自宅で縊死した。死亡推定時刻は同日午前10時ころ。制作上の悩みが原因かとみられている。昭和7(1932)年12月9日、京都市東山区に陶芸家近藤悠三の長男として生まれる。同30年京都市立芸術大学陶磁器科を卒業、同32年同専攻科を修了する。富本憲吉、藤本能道、および父に師事。同36年同大助手となる。同37年米国インディアナ大学講師として渡米し、翌年欧米各地を視察して帰国。同46年京都市立芸大助教授、のち同教授となる。新匠会展富本賞、京都秀作展新人賞のほか現代朝日陶芸展、米国デポー陶芸展でも受賞。同42年日本陶磁協会賞、同53年「粉華三島鉢」で日本伝統工芸展奨励賞を受賞している。アメリカ、ニュージーランド、オーストラリアなどでも作品を発表し、国際的にも活躍していた。新匠会会員、日本工芸会会員。墨流し、飛鉋、印花、灰釉などを得意としたが、近年は信楽土と赤土を合わせた土の素地に刻印し、黒化粧土をかけた華三島の作品を多く制作し、古典的技術と作風の中に幾何学的文様による現代感覚をもりこんだ作風を示した。

加守田章二

没年月日:1983/02/26

益子焼に近代的に造形をとり入れ注目された陶芸家加守田章二は、2月26日肺炎のため栃木県河内郡の自治医大付属病院で死去した。享年49。昭和8(1933)年4月16日大阪府岸和田市に生まれ、府立岸和田高校在学中から油絵に興味を抱き、卒業後上京して本格的に油絵を学ぶ志をもったがこれを断念し、同27年京都市立美術大学工芸科陶磁器専攻に入学、教授富本憲吉、助教授近藤悠三の指導を受ける。在学中の同30年の夏、茨城県日立市の大甕窯へ実習へ赴き、この時はじめて益子を訪れ作陶者が個々に窯を持っていることに強く心を惹かれた。同年、新匠会に「鳥文灰釉皿」が入選し佳作賞を受ける。翌31年京都市美大を卒業、学長長崎太郎と富本の勧めで日立市の日立製作所大甕陶苑の技術員となったが、同33年にはこれを辞し、日立製作所の派遣研究生となって益子に移り、塚本製陶所で作陶の研究を始める。翌年、日立製作所を退社し自立、当初は石灰釉、飴釉、灰釉を手がけ、益子の民芸調とは異質の文様、意匠、器形が不評を買ったりしたが、浜田庄司には注目された。同36年日本伝統工芸展に初入選、以後同展には連続入選し、同39年日本工芸会正会員に推挙される。同40年日本伝統工芸展出品の灰釉平鉢が注目され、翌年日本陶磁協会賞を受賞。同42年、東京日本橋高島屋で個展を開催、この時から同38年以来の須恵器風灰釉が本焼土器風のものに変り作風は第二期と呼ぶべき本格的な創作の段階に入った。また、同年第10回高村光太郎賞を受賞し、暮れには東北地方を旅行して岩手県遠野の地形、風土に魅せられ、翌43年の個展(ギャラリー・手、日本橋高島屋)からは遠野の土による面取りの形体の作品を発表する。同43年日本工芸会正会員を辞退して無所属となり、翌44年6月からは遠野市青笹町糠前字踊鹿に窯場と住居を設け弟子と二人での制作に没頭する。その後、制作発表は主に年2・3回開催した個展でなされ、激しい制作意欲にかられながらその作風はほとんど半年毎に変貌を見せた。即ち、同45年の日本橋高島屋での個展における波状曲線文様の器形から、翌年の彩陶波文、さらに同47年の現代陶芸選抜展(日本橋三越)で示した灰緑色の地に施された白の不定形文様を経て、翌48年の個展(日本橋高島屋)では中国・殷の銅器を思わせる重厚な器形に白い色面による不定形な波頭状文様を示すといった展開である。この間、同49年に昭和48年度芸術選奨文部大臣賞を受ける。同54年には東京・久留米に画家の家を購入し陶房とし、同年遠野からは引き揚げた。同55年からは白血病により体力の消耗甚しく、翌年からは専ら入院生活による療養を余儀なくされたが、体調のよい時にはなお、釉付け、窯焼きも行っていた。没後、『加守田章二作品集』(昭和59年)が弥生画廊から刊行された。

高橋道八

没年月日:1983/01/26

京焼の名門道八焼の陶工第7世高橋道八は、1月26日午後8時33分、老衰のため京都市東山区の自宅で死去した。享年72。明治44(1911)年、6世高橋道八の息子として京都に生まれ、昭和11年第7世を継いだ。宝暦末に伊勢亀山藩主高橋八郎太夫の次男道八により始められた道八焼の伝統を守り、茶器を中心に制作し黒釉を得意とした。

小川善三郎

没年月日:1983/01/14

国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)で、献上博多織の第一人者として知られる小川善三郎は、1月14日午後11時23分、心筋こうそくのため、福岡市城南区の福岡大学医学部附属病院で死去した。享年82。明治33(1900)年7月15日、福岡市に、博多織職二代目小川熊吉の長男として生まれた。本来の博多織とか仙台平には、女性の体力では不可能な限界があり、職人は男子と決まっていたから、長男善三郎の出生は、小川家の博多織職三代目がその時点で決定していた。従って幼少時より父親の側で年令相応の手伝いをして博多織に馴染んで成長した。 大正2(1913)年、小学校を卒業と同時に、福岡市内の原竹織工場に住み込み弟子として入門、6ケ年間の修業を勤めあげ、年季あけとなる。同時(大正8年)に、市内の阿部織工場に、職人として入社する。この工場主の阿部萬次郎は、当時の博多織業界随一の技術と評価され、その作品は高貴筋への献上品となっていた。この工場主に見込まれて、特訓が行われ、その指導のもとに小川善三郎の本格的な献上博多織の研究と技法の習練が行われ、卓越した手腕の基礎が築かれた。大正14(1925)年阿部萬次郎工場を退職。昭和2(1927)年、松居博多織工場に入社、昭和26(1951)年退社し、昭和27(1952)年より独立して自営業となる。昭和35(1960)年 東京高島屋での百選会で優選賞。昭和37(1962)年 福岡市主催の求評会で、この年から三年連続特別賞。昭和43(1968)年 10月、福岡県無形文化財博多織保存者に認定。昭和45(1970)年 福岡県教育功労者として表彰。昭和46(1971)年4月23日 重要無形文化財博多織保持者に認定。昭和48(1973)11月 勲四等旭日小綬章を受章。

山脇洋二

没年月日:1982/12/11

東京芸術大学名誉教授、日展理事の彫金家山脇洋二は、12月11日食道ガンのため東京都大田区の自宅で死去した。享年75。明治40(1907)年12月2日、大阪市北区に生まれ、昭和5年東京美術学校金工科彫金部を卒業する。同6年第12回帝展に「照明器」が初入選し、同11年新文展招待展に「鍛金野牛置物」で、同13年第2回新文展に「銀竜文亀置物」でそれぞれ特選をうける。この間、同8年から14年まで帝室博物館に在籍し、古美術品模造に従事し金工作品の研究複製を行う。同14年東京美術学校嘱託、同18年助教授(同31年東京芸術大学教授)となる。戦後は日展に出品、同21年第2回日展に「舞御堂小箱」で特選を受け、翌年最初の日展審査員をつとめる。同33年日展評議員となり、同36年第4回新日展に「金彩游砂額」を出品、同作品で翌年第18回日本芸術院賞を受賞する。同46年日展理事に就任。日展の他、日本現代工芸美術展(同37年第11回より)、URジュウリー展(同38年第5回より)などに出品し、また、同39年日本ジューリーデザイナー協会発足に参画、同46年日本創作七宝協会会長に推され、同50年には社団法人日本新工芸家連盟代表委員となる。この間、同24年法隆寺五重塔秘宝の調査並びに複製、同25-27年正倉院御物金工品の調査研究、同30年薬師寺本尊台座修理委員など、戦後も古美術品の補修、復刻などにあたり、日本美術刀剣保存協会参与(同33年-)、文化財保護審議委員会専門委員(同40年-)もつとめた。同50年東京芸術大学を定年退官し、同大学名誉教授の称号を受ける。同54年勲三等旭日中綬章を受章。同56年からは山梨県立宝石美術専門学校初代校長をつとめた。戦後の作品に「蜥蠋文硯箱」(3回日展)、「啼く」(5回新日展)、「金彩聖額」(10回日本現代工芸展)、「金彩奏でる額」(12回改組日展)などがある。没後、同59年に「山脇洋二 金工の世界」展が渋谷区立松涛美術館で開催された。

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