本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





祐乗坊宣明

没年月日:2000/04/03

読み:ゆうじょうぼうのぶあき  グラフィックデザイナーで、元多摩美術大学教授の祐乗坊宣明は4月3日午後0時33分、肺炎のため東京都府中市の都立府中病院で死去した。享年87。1913(大正2)年3月25日、東京府本所区に生まれる。東京朝日新聞社出版局に入社、約30年間にわたる在社中、数多くのアーティストたちをコーディネイトする一方、1952(昭和27)9月、アートディレクターの専門的機能を社会的に確立し、推進することを目的とした東京アートディレクターズクラブ(ADC)創立に尽力した。その後、68年から現在の多摩美術大学美術学部グラフィックデザイン学科で教鞭をとるようになり、教授として1991(平成3)年3月に退職。在職中は、後進の指導に熱心に取り組み、多くのデザイナーを育成した。なお、長男英明氏は作家嵐山光三郎。

今竹七郎

没年月日:2000/02/26

読み:いまたけしちろう  グラフィックデザイナーで洋画家の今竹七郎は2月26日午前3時41分、呼吸不全のため兵庫県西宮市内の病院で死去した。享年94。1905(明治38)年神戸市下山手に生まれ、幼少より神戸の欧風化した雰囲気の中で育つ。1926(大正15)年関西で初めて創刊された少女雑誌『乙女の園』の挿画を描く。1927(昭和2)年神戸大丸百貨店意匠部に入社、飾窓、店内装飾、催場の構成などを担当、翌年には宣伝部付のデザイナーとなる。近代都市化の進む20年代の大阪・神戸を舞台にグラフィックデザインの仕事を始め、以後専ら阪神間を活動の拠点とする。29年新興写真運動を実践した中山岩太らとともに、神戸商業美術研究会を設立。30年大阪高島屋の宣伝部に入社。35年明治チョコレートの新聞広告で大毎東日産業美術展の第1位商工大臣賞を受賞。都会的感覚溢れるランランポマードの新聞広告(36~49年)等で独自のスタイルを確立していく。一方で、デザイン広告誌『広告界』に37年「シュールレアリスムと商業美術」の論説を寄せ、39年より同誌に「素描教室」と題してデザイン造形に関する解説を2年にわたり寄稿するなど、理論家としての側面を発揮する。戦後は終戦と同時に神戸元町に独自のスタジオ「日本デザイン」を開設、のち大阪へ移転し48年に「今竹造形美術研究室」と改称。51年には看護婦姿の少女をあしらった近江兄弟社のメンソレータムトレードマークや関西電力の社章を発表。54年国際印刷美術展で通産大臣賞受賞。1991(平成3)年兵庫県文化賞を受賞。画家の片手間仕事であったグラフィックデザインを自立した領域にまで高めたパイオニアとして知られる一方、31年に林重義が主宰する月曜会に入り、35年第5回独立展に「枯木のある風景」を出品、入選するなど絵画制作にも精力を傾け、39年には春陽会に初入選、同会を主な作品発表の場とする。53年の「摩天楼」以降は一貫して抽象表現をとり、具体美術協会の指導者吉原治良とも親密な交際があった。そのデザインと絵画における活動の全容については、89年に兵庫県立近代美術館と西武百貨東京池袋店で開かれた「今竹七郎の世界」展、同年刊行の画集『昭和のモダニズム 今竹七郎の世界』、98年西宮市大谷記念美術館で開催の「モダンデザイン・絵画の先駆者 今竹七郎展」等で紹介されている。

大高猛

没年月日:2000/01/22

読み:おおたかたけし  グラフィックデザイナーで、浪速短期大学名誉教授の大高猛は、1月22日午前6時5分、急性すい炎のため大阪市中央区の病院で死去した。享年73。1926(大正15)年4月20日、山口県豊浦郡豊浦町に生まれる。1948(昭和23)年、明治工業専門学校を卒業後、53年に大高デザインを設立。55年、日宣美展で特選受賞。66年、大阪万国博覧会のために、五大陸をイメージした桜の花びらのシンボルマークが選ばれる。67年から70年まで、同博覧会のアートディレクターをつとめた。69年、東京ADC賞受賞。81年、国際デザイン交流協会アートディレクターをつとめ、83年には、神戸ワイナリー環境デザイン総合ディレクターとなり、大阪府産業功労賞を受賞。1994(平成6)年、「クリエーター大高猛の仕事、私事展」(京阪百貨店)を開き、その多彩な業績が回顧された。95年、大阪市文化功労賞を受ける。そのほか、日清カップヌードルのパッケージデザイン、関西国際空港のキャラクターデザインなどを手がけ、2000年春の選抜高校野球大会の優勝メダルのデザインが、最後の仕事となった。 

亀倉雄策

没年月日:1997/05/11

グラフィックデザイナーで、文化功労者の亀倉雄策は、5月11日、心不全のため東京都中央区の聖路加国際病院で死去した。享年82。大正4(1915)年4月6日、新潟県西蒲原郡吉田町に生まれた。旧制日大第二中学校卒業後の昭和10(1935)年に、川喜田煉七郎が主宰する新建築工芸学院で、バウハウス流の基礎的な構成理論と方法論を学んだ。同13年、日本工房に入社、写真家名取洋之助のもと、デザイナー河野鷹思、そして友人であった写真家土門拳とともに、海外向けのグラフ雑誌の編集にたずさわった。戦後の同26年には、公告美術を、単なる商品宣伝から、社会的、文化的な意味をも担わせる目的から、全国のデザイナーを糾合する団体日本宣伝美術会(日宣美)の創立に、呼びかけの人のひとりとして参画した。同会は、公募展を主催するなど、戦後日本のグラフィックデザインの水準を上げ、裾野をひろげたことで大きな功績があった。また、デザイナーとしての亀倉の才能が発揮されるのも、50年代から60年代にかけてであり、代表的な作品には、直線と曲線を駆使し斬新な構成をしめした日本光学(NIKON)のカメラの一連のポスター、そして写真を使用して力動感と競技の一瞬の緊迫感をストレートに表現した東京オリンピックのポスターがあり、ことに後者は、同41年の第一回ワルシャワ国際ポスタービエンナーレにおいて芸術特別賞を受賞し、国際的にも高い評価を得た。以後、同45年の万国博覧会、同47年の札幌オリンピック冬季大会の公式ポスターを手がけ、内外にその名がひろく知られるようになった。同53年に日本グラフィックデザイナー協会の創立に参加し、会長に就任するなど、70年代から80年代にかけては、デザイナーとして活躍する一方で、デザイン会のリーダーとして中心的な役割をはたした。同59年には、毎日芸術賞の美術部門賞を受賞し、平成3(1991)年には、文化功労者に選出された。同8年には、東京国立近代美術館フィルムセンターで、戦後からの代表作93点からなる「亀倉雄策のポスター」展が開催され、それぞれの時代にあって人々の感覚と嗜好を先取りし、社会的にも文化的にも、メルクマールとなるようなポスターの数々が回顧された。

里見宗次

没年月日:1996/01/30

読み:さとみむねつぐ  グラフィックデザイナーの里見宗次は、1月30日午前2時40分、心不全のため奈良県大和郡山市の病院で死去した。享年91。明治37(1904)年11月2日大阪府住吉区に実業家の三男として生まれる。幼少期には長兄の同級生だった小出楢重が里見家に出入りし、その感化を受ける。東京の美術学校受験のため、日本画家の井口華秋に師事するが、フランスより帰国した小出の留学生活を目のあたりにし、パリ行きを決意。大正11(1922)年フランスに渡り、同23年に日本人で初めてエコール・デ・ボザール(パリ国立美術学校)の本科に入学。最初は油絵を学んだが、自活のためショパン広告社、のちフレガット広告社に勤務、商業美術に転じ戦前のパリで「ムネ・サトミ」の名前で活躍する。昭和3(1928)年に制作したゴロワーズのたばこポスターで国際的に注目され、同9年KLMオランダ航空のポスター等、アール・デコ様式の作風を展開、グラフィックデザイナーとしての地位を確立した。12年のパリ万国博覧会で日本国有鉄道のポスターが名誉賞と金杯を受賞。第二次世界大戦で一時帰国、外務省よりタイ・仏印国境画定委員としてサイゴンへ派遣、のちバンコクへ移りそこで終戦を迎える。以後もバンコクに残り、同27年に再び渡仏、制作を行った。同49年勲三等瑞宝章を受章。平成元(1989)年に帰国。作品集に『巴里花画集』(京都書院 平成3年)、著書に『のすどディアマン―ある広告美術家の歩いた道』(昭和56年)がある。

岡秀行

没年月日:1995/09/26

読み:おかひでゆき  アート・ディレクターで呉学園・日本デザイナー学院名誉院長の岡秀行は、9月26日午後1時23分心不全のため東京都中野区の中野総合病院で死去した。享年90。明治38(1905)年4月11日福岡県に生まれる。関東大震災の直後に上京し、図案家門屋秀雄に図案を学ぶ。昭和10年図案、写真撮影を併せて行う「オカ・スタジオ」を創設。戦後、商業デザイン産業が発展するなかで同業団体の設立に尽力し、同25年日本宣伝美術会創立に参加して同会の事務所をオカ・スタジオに置いた。同27年東京商業美術家協会を設立して同会委員長となる。同37年には地方17団体の結束を促して全国商業美術家連盟を結成し、その理事長に就任する。民家、民具など日本の風土や生活に根ざしたデザインに興味を抱き同35年に米国ニューヨーク近代美術館で開催される国際パッケージ展に出品を依頼されて以降、日本の伝統的な「包む」造形に注目して収集を始める。同39年には全国商業美術家連盟の第一回展として「日本伝統パッケージ展」を提案して日本橋白木屋で開催。わら、和紙、竹皮などによる様々な包装を展示し、モダニズム全盛時代にあって、異色の展観として識者の関心を引いた。同展の出品作品を写真撮影して同40年に刊行した『日本の伝統パッケージ』(美術出版社)は、国際的な注目を浴び、英語、ドイツ語、フランス語に訳されて各国で刊行された。同警がきっかけとなり、同50年ニューヨークのジャパン・ハウス・ギャラリーで「包む-日本の伝統パッケージ」展が開催され、同展は28か国、99回の展示を重ね、各地で高い関心を呼んだ。包む造形に表れた風土、環境、人々の心を紹介することに尽力し、他に『包 TSUTSUMU』(毎日新聞社 昭和47 年)、『こころの造形』 (美術出版社 同49年)を著すとともに、同63年目黒区美術館での「日本の伝統パッケージ展」開催に寄与した。

粟辻博

没年月日:1995/05/05

読み:あわつじひろし  多摩美術大学教授で染織デザイナーの粟辻博は5月5日午前1時22分肝不全のため東京都新宿区の病院で死去した。享年65。昭和4(1929)年7月20日、京都市上京区猪熊通元誓願寺下ルに生まれる。同25年京都市立美術専門学校(現京都市立芸術大学)を卒業し、鐘淵紡績意匠室に入社する。同33年同社を退き、独立。同38年フジエテキスタイルのデザインを初め、同46年毎日新聞社毎日産業デザイン賞準賞を受賞。翌年日本インテリア協会賞を受賞する。同49年米国でのナショナル・コントラクト・プロダクツ展で一席となり、同53年にはポーランドで開催されたテキスタイル・トリエンナーレで銀賞を受賞する。公共建築内のタベストリーなどを手がけ、国際的に活躍。同53年多摩美術大学教授となり、また同年ギャラリー問で、「粟辻博の自立した表層」展を開催した。平成2(1990)年作品集『粟辻博のテキスタイル・デザイン』を刊行。同4年米国で開催されたIDアニュアル・デサイン・レビューで金賞を受賞し、また同年国際テキスタイル・コンペティションで佳作賞を受賞。没年にあたる同7年には第22回国井喜太郎産業工芸賞を受賞した。代表作に京王プラザホテルのエントランスホールやグリルなどのタペストリー、大正本社ビルレセプションホールのタペストリー等がある。

小池岩太郎

没年月日:1992/07/21

東京芸術大学名誉教授で、日本のインダストリアル・デザインの草分けとして知られた小池岩太郎は、7月21日午前1時25分、心不全のため、東京都新宿区の自宅で死去した。享年79。大正2(1913)年2月22日、東京芝に生まれる。同14年香川県立高松工芸学校を卒業。昭和5(1930)年、東京美術学校工芸科図案部に入学。同10年5月、同校を卒業して福岡県商工課技手となり、同14年12月、商工省工芸指導所(福岡)技手となる。同15年10月、沖縄漆工芸組合紅房工場長となるが、同17年母校東京美術学校図案部嘱託となり、同24年同校美術学部助教授となった。同28年GKデザイングループ発足にかかわる。同32年日本インダストリアルデザイナー協会理事長となり、同36年カウフマン国際デザイン賞審査員および日本万国博覧会デザイン顧問をつとめた。同40年東京芸術大学教授、同54年同美術学部長となり、同55年退官して同大名誉教授となった。この間、同41年デザイン奨励審議会委員、教育課程審議会専門調査委員、同48年デザインイヤー常任委員をつとめ、同56年「公共の色彩を考える会」を結成。同60年第12回国井喜太郎産業工芸賞を受け、平成3(1991)年には通産大臣よりデザイン功労者として表彰された。ヤマハのプレーヤー、日本酒「大関」の揺れるボトル等、家庭用品を中心にデザインする一方、多くのコンクールの審査、デザイン関係団体の運営にたずさわり、日本のインダストリアル・デザインの振興に寄与した。著書に『基礎デザイン』(昭和31年、美術出版社)、『デザインの話』(同49年、同社)等がある。

鈴木庄吾

没年月日:1991/10/05

北海道東海大学教授のデザイナー鈴木庄吾は10月5日午前4時15分、肺水腫のため、東京都中野区の病院で死去した。享年59。昭和7(1932)年7月27日、福島県いわき市に生まれる。同26年福島県立磐城高等学校を卒業し、東京芸術大学デザイン科に学んで同33年同校を卒業した。その後、静岡県工業試験場に入り、在職中にフィンランド中央工芸大学に赴き、北欧デザインを研究。伊勢丹研究所を経てフリーデザイナーとして活躍した。同59年北海道東海大学芸術工学部デザイン学科で教鞭をとり始め、翌60年同科専任教授となる一方、北方生活研究所所長をつとめた。インダストリアル・デザインを専門とし、日本流行色協会参与、日本インテリア学会理事、北欧建築デザイン協会理事をつとめ、Gマーク審査員、北方産業デザイン振興事業専門委員でもあった。寒冷地の生活を深く理解し、その特色に適し、生活をいろどる工業デザインを生んだ。

豊口克平

没年月日:1991/07/18

日本の工業デザイン界の重鎮、豊口克平は、7月18日午後3時48分、肺性心のため神奈川県鎌倉市の清川病院で死去した。享年85。明治38(1905)年11月16日、秋田県に生まれ、同県立秋田工業学校を卒業して大正14(1925)年に東京高等工芸学校工芸図案科に入学。昭和3(1928)年に同校を卒業。同4年、研究団体形而工房を結成。同8年、商工省(現通産省)産業工芸試験所に入り、輪出工芸品や家具のデザインに新機軸を打ち出し、同34年に退職するまで工業デザイン界の近代化に貢献した。その後、同34年より武蔵野美術大学教授として教鞭をとったほか、同35年、豊口デザイン研究所を設立。35年第1回モスクワ日本産業見本市会場デザイン、36年より41年まで日本巡航見本市船さくら丸展示設計、44年大阪万国博覧会協会ディスプレイデザイン顧問などを担当。また、同29年より48年まで日本インダストリアルデザイナー協会理事、同33年より日本インテリアデザイナー協会理事となり、それらの理事長を歴任。同49年、双方の名誉理事となった。同52年、武蔵野美術大学名誉教授となり、平成2(1990)年には通産省デザイン功労賞の第1回受賞者に選ばれた。著書に『標準家具』『デザイン戦術』などがある。

大熊喜光

没年月日:1990/04/09

東京造形大学教授の環境デザイン家、大熊喜光は4月9日午後4時26分、高血圧性脳内出血のため、東京都多摩市の日本医大多摩永山病院で死去した。享年49。昭和16(1941)年2月12日、東京都に生まれる。東京、九段高校を経て武蔵野美術大学造形部産業デザイン学科を卒業。都市、建築を含む環境デザイン、インテリア・デザイン、色彩・知覚心理学等環境心理学を専門とし、オフィス環境研究所(プラス株式会社)所長、建築事務所(都市計画同人)取締役をつとめたほか、デザイン事務所「アトリエ35、4」を主宰した。また、東京造形大学環境デザイン研究室で教鞭をとった。昭和47年東京大聖堂納骨堂、同55年プラス株式会社横浜支店ショールーム、同54年同社本館改築及び同社アネックス、同61年ハイパーチェア「MEGA」計画、同62年オフィス環境研究所オフィス環境設計、平成元年コミュニティオフィス武蔵野オフィス環境設計等のデザインを行ない、著書に『近未来のオフィス環境について』(ORBIT研究部会)等がある。

高田正二郎

没年月日:1989/07/04

東京芸術大学名誉教授、日本デザイン学会会員の高田正二郎は、7月4日午後8時50分、心不全のため東京都渋谷区の日赤医療センターで死去した。享年76。大正2(1913)年1月13日、東京都日本橋区に老舗東寿司を営む高田満之助の次男として生まれる。昭和4(1929)年都立第三中学校を卒業。在学中に日本パステル画会に入会し矢崎千代治に学ぶ。同5年、従兄であった彫刻家吉田久継にデッサンの手ほどきを受け、また東京美術学校図案科教授島田佳矣、同助教授千頭庸哉に鉛筆画などを学ぶ。同6年東京美術学校図案科に入学。和田三造、広川松五郎に師事。同7年東京湾汽船ポスター懸賞募集、キッコーマン醤油新聞広告懸賞募集に応募してそれぞれ入選。在学中から各コンクール等で入選、受賞をかさね、同13年東美校を卒業する。翌年第26回光風会展に「水(三部作ノ内)」「華(三部作ノ内)」を出品して工芸賞受賞。同18年には洋画家中村研一に師事し同20年の戦争美術展に「ビルマ進攻作戦開始」を出品して奨励賞を受ける。戦後は同21年母校の工芸科図案部講師となり図案家として活躍するとともに日展洋画部にも出品し、同24年第5回日展出品作「ひととき」で特選受賞。その後も、新日展となる以前まで、日展への出品を続け、一方同24年光風会会員となった。はとバス社章、富士銀行マーク、防衛庁自衛官階級章などをデザインし、同30年日本デザイン学会会員となる。同32年文部省在外研究員としてニューヨーク・プラット美術学校(Pratt Institute)に留学。翌年欧州を歴遊する。社章、広告、本の装丁、各種イベントに関連するデザインのほか、昭和42年新日本産業株式会社制作「明治百年記念明治天皇肖像メダル」、同43年同社制作「吉田茂肖像メダル」、同47年同社制作「沖縄返還記念ニクソン・佐藤栄作肖像メダル」など多くの記念メダルのデザインも行なう。この間、昭和35年東京芸術大学デザイン科助教授、同51年同教授となったほか、福井大学、税務大学で講師をつとめ、朝日広告賞など多くの懸賞、公募の審査員となって、教育、普及にも寄与した。同55年東京芸大を定年退官して同大名誉教授となり、同60年より翌年まで山梨県立宝石美術専門学校長となった。同52、53、54年にそれぞれギャラリー・ジェイコで個展が開催されている。著作には、雑誌『アトリエ』別冊に発表した「レタリングの学び方」(90号、昭和42年)、「レタリングの書き方」(97号、同43年)、「鉛筆画の描き方」(92号、同42年)などがある。

原弘

没年月日:1986/03/26

わが国のグラフィック・デザインの草分けで武蔵野美術大学名誉教授の原弘は、3月26日午前7時、心不全のため東京都新宿の自宅で死去した。享年82。明治36(1903)年6月22日長野県飯田市に生まれ、大正10年東京府立工芸学校を卒業。同校で印刷を学び、タイポグラフィーの研究に従事する。同13年村山知義らの三科公募展に出品。同14年「Die Neue Typographie」を翻訳自費出版する。バウハウスやロシア構成主義に興味を抱き、グラフィック・デザインにおけるエレメントの構成を日本に紹介して日本のモダン・デザインを主導した。昭和5年花王石鹸新製品パッケージ図案指名コンペで採用される。同8年写真家名取洋之助が設立した日本工房に参加。同12年パリ万博、14年ニューヨーク万博の写真大壁画を担当する。16年東方社に参加し、宣伝雑誌「FRONT」の図案、構成に従事。戦後23年より武蔵野美術大学で教鞭をとるほか、日本宣伝美術会中央委員、日本デザインセンター取締役などを歴任した。東京オリンピックのグラフィック計画に参加したほか、書籍装幀にすぐれ、ライプチヒ書籍美術賞のほか、昭和28年には『世界の現代建築』の装幀で文部大臣装幀美術賞を受賞している。著書に『グラフィック・エレメント』などがある。

飯田三美

没年月日:1984/04/19

武蔵野美術大学教授で、プロダクトデザイン工業株式会社社長の飯田三美は、4月19日午前4時30分、クモ膜下出血のため、東京都大田区の牧田総合病院で死去した。享年59。大正13(1924)年12月1日、茨城県新治郡に生まれる。昭和12(1937)年4月、茨城県立土浦高等中学校に入学。同16年4月、東京美術学校に入り、同23年同校工芸科鋳金部を卒業する。同校在学中の同22年、「鋳銅花瓶」で第3回日展に初入選、同23年4月より26年まで横須賀米海軍基地鋳造工場で、米国工業鋳造の研究にたずさわる。この間、同23年東京都輸出工芸展一席となったほか、同26年の日展にも「青耳紋青銅花生」で入選する。合成樹脂による工業製品の研究に従事し、同27年、日産自動車試作工場で自動車の軽量化を研究、同29年、フジキャビンの製作を手がける。同31年フローレンス国際工芸美術展に出品。同33年、武蔵野美術学校助教授となり、教鞭をとる一方、同36年、合成樹脂とデザイン・造形を結びつけた会社プロダクトデザイン工業を設立する。同42年、自動車ボディーの軽量化の研究の成果として本田技術研究所出品のメキシコレース車ボディーを製作し優賞を受けたほか、同43年日本産業見本市においては艦・樹脂加工部を担当、同45年大阪での万博では電気通信館内合成樹脂部を担当・製作する。また同45年より、武蔵野美術大学造形学部工芸工業デザイン学科教授およびプロダクト・デザイン工業社長をつとめる。著作には、同42年鳳山社刊『現代デザイン事典』のうち樹脂部の項他がある。

畑正夫

没年月日:1982/02/13

名古屋芸術大学教授のデザイン家畑正夫は、2月13日午前4時20分、急性胆道炎のため東京都新宿区の東京女子医大病院で死去した。享年68。1914(大正3)年1月30日、東京都文京区に生まれ、36年東京美術学校工芸科鋳金部を卒業する。37年8月より商工省工芸指導所(工業技術院製品科学研究所)に勤務。60年より多摩美術大学、武蔵野美術大学、東京造型大学の講師を歴任し、79年4月名古屋芸術大学美術学部デザイン科教授となる。また、60年10月より日本クラフトデザイン協会理事長をつとめる。電々公社によって制定された電話器のデザインなどを手がけ、65年より73年まで日本工業新聞の「今週のデザイン」「デザイン・コーナー」に執筆している。

菱田安彦

没年月日:1981/04/04

宝石や装飾品などのジュエリーデザイナーとして国際的に知られた武蔵野美術大学教授の菱田安彦は、4月4日午後7時10分、肝不全のため東京都品川区の昭和医大付属病院で死去した。享年53。1927(昭和2)年8月23日岐阜県に生まれ、その後金沢、東京などに移る。44年陸軍予科士官学校に入学し翌年陸軍航空士官学校に進んだところで終戦を迎え、東京美術学校工芸科彫金部に編入、53年に卒業した。この間49年の第5回日展「金工オルゴールの小筥」以来52年の第8回展まで日展に出品し入選している。54年イタリア国立ローマ工芸学校に留学し、ヨーロッパ各地をまわって翌年帰国する。56年に国際工芸美術協会、USアクセサリー協会、クラフト・センター・ジャパンの設立に参加、翌57年には日本ジュウリーデザイナー協会設立に参加し初代理事長に就任している。その後ミュンヘン国際工芸展をはじめ、国際ジュウリー・アート展ほか数多くの国際展に出品し、71、72年にはデビアス・ダイヤモンド・インターナショナル・コンテストの審査員をつとめるなど、国際的に知られていた。また、武蔵野美術大学教授、日本ジュウリー・デザイナー協会常任理事、社団法人日本クラフトデザイン協会会員、財団法人日伊協会理事などもつとめた。著書・訳書には、「美について」「アクセサリー」「宝石の魅力」「世界の宝石美術館」「アートジュウリー」「彫金」他がある。

山名文夫

没年月日:1980/01/14

元多摩美術大学教授で日本のグラフィックデザインの草分けの一人である山名文夫は、1月14日午後10時50分、心不全のため東京都狛江市の慈恵医大第三病院で死去した。享年82。1897(明治30)年3月17日和歌山県に生まれ、1916年和歌山中学校を卒業した後、赤松麟作洋画研究所で油絵を学び、『苦楽』『女性』などの雑誌の表紙や挿絵を描いた。23年プラント社(出版)美術部に入社したが、28年同社が解散したため、29年資生堂広告意匠部に入社、ポスターや広告に、流れるような繊細な線で女性の顔や花の模様などを描いた現代的なグラフィックデザインを次々に生み出した。43年一たん退社し、戦後47年復社、56年から同社顧問をつとめていた。また46年多摩造形芸術専門学校(現多摩美術大学)図案科教授(67年退職)となる一方、商業デザイナーの地位向上を目指して51年に結成された日本宣伝美術会の初代委員長となり、65年には日本デザイナー学院を開校するなど、我国の広告文化に大きな影響を与えた。この間53年にデザイン生活30年を記念して銀座資生堂ギャラリーほか大坂・名古屋などで個展を開催し、また55年には第1回毎日産業デザイン特別賞(商業デザイン部門)を受賞、56年第9回広告電通賞ポスター作家賞、61年第6回日本宣伝クラブ吉田賞などを受賞し、67年には、デザイン教育における功労を認められ、勲四等瑞宝章を受章した。このほか、文部省教科書検定審議委員(56年より)、朝日新聞・日本経済新聞・広告電通賞審議会の各広告作品コンクールの審査員、東京広告協会顧問などをつとめた。著書に『女性のカット』(28年)『カフェ・バー・喫茶店広告図案集』(30年)『花の図案集』(48年)『山名文夫装画集』(53年)『山名文夫新聞広告作品集』(63年9『山名文夫イラストレーション作品集』(71年)『唐草幻像作品集』(73年)などがある。

須藤雅路

没年月日:1979/05/17

東京芸術大学名誉教授、東海大学教授の須藤雅路は、5月17日脳血センのため東京杉並区の西荻中央病院で死去した。享年78。1900(明治33)年10月2日福岡県宗像郡に生まれ、福岡県立中学修猷館を卒業後、20年東京美術学校図案科に入学、25年卒業する。同年香川県立工芸学校教諭となり27年まで在職、28年東京白木屋本店室内装飾部に転じたが翌年退き、福岡県商工技手となり福岡工業試験場(のち久留米工業試験場、内務省商工課に転ず)に勤務する。37年から大阪府商工技師となり大阪府工芸奨励館に勤務し、52年同館第三部工芸課長となる。53年東京芸術大学美術学部図案科教授に就任、68年に退官するまで東京芸術大学評議員を5度つとめる。またこの間、57年から60年まで意匠奨励審議会委員、59年デザイン奨励審議会委員、60年から62年まで東京都立工業奨励館評議員、64年教科用図書検定調査審議会調査員、65、67年に大学設置審議会専門委員等をつとめる。わが国デザイン教育の草分け的存在として後進を育成したほか、一時構造社絵画部に会員として所属した他、商工省図案展などに作品を発表する。68年に退官後、東京芸術大学名誉教授の称号を受け、引き続き東海大学教授として教鞭をとる。69年紺綬褒章、71年勲三等旭日中綬章を授けられる。

剣持昤

没年月日:1972/07/29

建築家・和光大学助教授剣持昤は7月29日オーストリアのグラーツで交通事故のため死去。享年34才。1938年4月9日、デザイナーの剣持勇を父として仙台市東北医学部附属病院で生れた。1961年東京大学工学部建築学科卒、同63年大学院修士課程修了。65年6月総建築研究所(株)設立所長。66年東京大学院博士課程修了(工学博士)。和光大学助教授アメリカン・フットボール部顧間、和光学園評議員を兼ねる。同年一級建築士資格取得。68年9月ISO・TC59の1968年度定例会議に日本建築学会より派遣され出席。72年6月ヨーロッパ諸国における工業化発展事情の視察および業務打ち合せのためヨーロッパ滞在日程の最終日に上記の事故に遭った。独自の建築生産工業化理論に基き、新しい規格構成材および建築構成システムの研究開発ならびに種々の情報活動を通じて、新しい建築家としての活躍を行っていた。

上野伊三郎

没年月日:1972/05/23

元京都市立美術大学教授で、インターナショナルデザイン学校長の上野伊三郎は、23日肺ガンのため死去した。早稲田大学工学部を卒え、ベルリン大、ウイーン等に留学し、大正15年帰国してのち建築事務所を開き、戦後は24年から38年まで京都市立美大デザイン科主任教授をつとめ故リッチ夫人とともに日本のデザイン界に活躍した。著書に「タウト現代の建築」「ヨセフ・ホフマン」等がある。

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