本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





岡秀行

没年月日:1995/09/26

読み:おかひでゆき  アート・ディレクターで呉学園・日本デザイナー学院名誉院長の岡秀行は、9月26日午後1時23分心不全のため東京都中野区の中野総合病院で死去した。享年90。明治38(1905)年4月11日福岡県に生まれる。関東大震災の直後に上京し、図案家門屋秀雄に図案を学ぶ。昭和10年図案、写真撮影を併せて行う「オカ・スタジオ」を創設。戦後、商業デザイン産業が発展するなかで同業団体の設立に尽力し、同25年日本宣伝美術会創立に参加して同会の事務所をオカ・スタジオに置いた。同27年東京商業美術家協会を設立して同会委員長となる。同37年には地方17団体の結束を促して全国商業美術家連盟を結成し、その理事長に就任する。民家、民具など日本の風土や生活に根ざしたデザインに興味を抱き同35年に米国ニューヨーク近代美術館で開催される国際パッケージ展に出品を依頼されて以降、日本の伝統的な「包む」造形に注目して収集を始める。同39年には全国商業美術家連盟の第一回展として「日本伝統パッケージ展」を提案して日本橋白木屋で開催。わら、和紙、竹皮などによる様々な包装を展示し、モダニズム全盛時代にあって、異色の展観として識者の関心を引いた。同展の出品作品を写真撮影して同40年に刊行した『日本の伝統パッケージ』(美術出版社)は、国際的な注目を浴び、英語、ドイツ語、フランス語に訳されて各国で刊行された。同警がきっかけとなり、同50年ニューヨークのジャパン・ハウス・ギャラリーで「包む-日本の伝統パッケージ」展が開催され、同展は28か国、99回の展示を重ね、各地で高い関心を呼んだ。包む造形に表れた風土、環境、人々の心を紹介することに尽力し、他に『包 TSUTSUMU』(毎日新聞社 昭和47 年)、『こころの造形』 (美術出版社 同49年)を著すとともに、同63年目黒区美術館での「日本の伝統パッケージ展」開催に寄与した。

改田昌直

没年月日:1995/09/26

読み:かいだまさなお  漫画家の改田昌直は9月26日午後3時30分、心不全のため東京都新宿区の都立大久保病院で死去した。享年71。大正12(1923)年10月28日高知県室戸市に生まれる。帝国美術学校日本画科を中退して昭和24年漫画集団に入る。同25年から34年まで日本経済新聞に「パクさん」「ぼっちゃん」「あさぼら家」などの四コマ漫画を連載。同35年から38年まで高知新聞に4コマ漫画「茶の間さん」を連載。同年35 年から41 年まで『漫画読本』「週間漫画」などに作品を発表し、同41年作品集『ミステリー・カクテル』(コダマ・プレス)を出版する。同50年から63年まで共同通信社へ政治漫画を寄稿する一方、研究社の英和辞典の挿し絵等も描く。同60年、都市風俗と風景を風刺的に描いた作品集『アーバン世界』(思索社、同59年)により日本漫画家協会大賞を受賞した。

加倉井和夫

没年月日:1995/09/24

読み:かくらいかずお  日本芸術院会員で、日展常務理事の日本画家加倉井和夫は、9月24日午前8時33分、急性心不全のため横浜市旭区内の病院で死去した。享年76。大正8 (1919)年9月11日、横浜市青木町に生まれ、昭和13(1928)年旧制茨城県立太田中学校を卒業、東京美術判交日本画科に入学、山口蓬春に師事した。本格的な作品発表は戦後からで、同22年の第3回日展に「林」が初入選、同24年の第2回創造美術展にも出品した。同27年の第8回日展からは毎回出品し、澄んだ川の流れと水に浸る石を装飾的にとらえた「流れ」を同33年の第1回新日展に出品、特選白寿賞を受けた。以後、同展で無鑑査、委嘱出品をかさね、同42年に会員となった。同55年の第12回日展出品の孔雀を華麗に描いた「青苑」によって、翌年日本芸術院賞を受ける。平成元(1989)年日本芸術院会員に選出された。

宮地寅彦

没年月日:1995/09/23

読み:みやぢとらひこ  日展参与の彫刻家宮地寅彦は、9月23日午前30分、脳こうそくのため東京都小平市の自宅で死去した。享年92。明治35(1902)年9月24日に石川県金沢市に生まれ、昭和2(1927)年東京美術学校彫刻科を卒業、翌年の第9回帝展に「白哲」が初入選。また構造社展にも出品、「猫」によって構造賞を受賞、会員となった。戦後は、日展を中心に出品をつづけ、審査員をつとめ、また出品委嘱をかさねた。また、日木彫塑会の選考委員、理事などもつとめた。同39年には日展評議員となり、同45年には参与となった。近年は、次第に人体表現のなかにフォルムの単純化による抽象的な要素をもりこむようになっていたが、平成7(1995)年の第27回展には、ブロンズによる座像「口笛」が遺作として出品された。

尾山幟

没年月日:1995/09/17

読み:おやまのぼり  日展評議員の日本画家尾山幟は、9月17日午後4時34分、間質性肺炎のため東京都多摩市の多摩南部地域病院で死去した。享年74。大正10(1921)年5月5目、北海道釧路市に生まれ、昭和20(1945)年多摩美術学校日本画科を卒業。同26年の第7回日展に「緑苑」が初入選、以後同展に出品をつづけ、同27年の第8回展出品の「蒼苑」で特選・朝倉賞、同30年の第11回展出品の「叢」で特選・白寿賞を受けた。その後、同展の審査員、会員をつとめ、評議員となり、平成7年の第27回展に「寂」が遺作として出品された。自然のなかで遊ぶ鳥をモチーフに、明るい色彩と装飾的な画面構成でまとめあげた作品を出品していた。

和田徹

没年月日:1995/09/06

読み:わだとおる  立軌会同人の洋画家和田徹は9月6日午後7時44分胃静脈りゅう破裂のため死去した。享年72。大正12(1923)年1月24日東京都港区麻布市兵衛町2-36に生まれる。本名嘉之(よしゆき)。東京市中野高等無線電信学校を卒業して昭和16(1941)年、旭石油株式会社船舶部に入社。同19年に入営し、21年復員。同22年より24年まで角浩の主催する近代絵画研究所に学び、同25年より猪熊弦一郎の主催する純粋美術研究室に学ぶ。同年読売アンデパンダン展に出品。同26年第15回新制作展に「築港」で初入選。同28年第17回展から19回展まで、また同33年第22回展より24回展まで出品するが、同36年に同会を退会する。このころから版画家菅野陽に銅版画を学ぶ。同37年および39年養清堂画廊で銅版画展を開催。同40年イスラエルハイファ美術館版画展に銅版画を出品する。同41年第10目安井賞展に出品。同44年立軌会展に招待出品して以後同会に出品し、同45年会員となる。主な個展に同52年大阪大丸本店、同58年東京新宿の小田急百貨店、同60年および62年に日本橋三越、同63年および平成3年東京渋谷東急本店、同4年横浜高島屋、同7年上野松坂屋での油彩展がある。海にちなむモティーフを好んで描き、静謐な画風を示した。

今泉俊光

没年月日:1995/08/28

読み:いまいずみとしみつ  刀工の最長老で岡山県指定重要無形文化財保持者の備前刀刀工今泉俊光は8月28日午後4時24分、老衰のため岡山県邑久郡長船町長船172の自宅で死去した。享年97。明治31(1898)年4月21日、佐賀県に生まれ、大正13(1924)年に岡山県倉敷市で独学で作刀の研究を始める。昭和20(1945)年2月岡山県邑久郡長船町に移り住み、鍛刀場を開設。伝統的備前刀を中心に本格的な作刀研究に取り組み、衰退の危機にあった備前長船刀を復興させた。同34年岡山県重要無形文化財保持者の認定を受ける。同43年吉川英治賞を受賞。同52年全日本刀匠会の名誉会員となる。平成3(1991)年新作刀展覧会で特別賞を受賞。同5年には岡山市の林原美術館で「今泉俊光-作刀六十年の歩み」展が開催された。素材づくりから工夫を重ね、刃文に鎌倉時代の味わいのある独自の風格ある作風を示した。

玉井忠一

没年月日:1995/08/28

読み:たまいちゅういち  日本版画協会会員の版画家玉井忠ーは、8月28日午前10時40分、心不全のため富山県高岡市の光ヶ丘病院で死去した。享年85。明治45(1912)年1月15日、富山県高岡市に生まれ、昭和3(1928)年県立高岡工芸高校を卒業。棟方志功に師事するとともに、創作活動をはじめる。同24(1949)年の第23回国展に「鯉」が初入選、以後同33年の第32回展の「石像」まで、入選をかさねた。一方、日本版画協会展にも出品し、会員となり、同60年の第53回展には、円形を中心に幾何学的なフォルムによって構成した木版画「石障 II」を出品した。また、創作活動のかたわら農業を営み、高岡市にとどまり、市内の小中朝交で木版画教室を開催して、その講師をつとめ、同48年には高岡市民功労賞を贈られた。

三坂耿一郎

没年月日:1995/08/03

読み:みさかこういちろう  日本芸術院会員で日展顧問の彫刻家三坂耿一郎は8月3日午後4時55分腎うしゅようのため東京都田無市の佐々総合病院で死去した。享年87。明治41(1908)年5月26日福島県郡山市湖南町に生まれる。本名政治(まさじ)。昭和4(1929)年私立郁文館中学校を卒業。東京美術学校彫刻科に入り、朝倉文夫、北村西望、建畠大夢らに師事する。同12年同校を卒業して、同校彫刻研究科に進学、同年第1回新文展に「若い女」で初入選し、以後官展に出品を続ける。同14年研究科を修了。同15年より清水多嘉示に師事する。戦後も日展に出品し、同32年第13回日展に「渺〔はるか)」を出品して特選、翌33年第1回社団法人日展に「気流」を出品して二年連続特選となり同35年日展会員に推挙される。同41年イタリアへ渡って彫刻を研究。同43年銀座資生堂で初個展を開く。同45年改組第2回日展に「布」を出品して桂花賞受賞。同46年日展評議員となる。同47年改組第4回日展に「フォルム1」を出品して文部大臣賞受賞。同48年再度渡欧。同50年銀座資生堂で個展を開催した。同53年第2回新日展に「壺中天」を出品して日本芸術院賞を受賞し同61年日本芸術院会員となった。日常的で身近なポーズの女性像を得意とし、表面に孔をうがっていく隙孔表現によって作者の制作の跡の看取される素朴さのただよう作品を制作した。

小林数

没年月日:1995/07/29

読み:こばやしかず  独立美術協会会員の洋画家小林数は、7月29日午後3時、呼吸不全のため千葉県船橋市の自宅で死去した。享年79。本名数雄(かずお)。大正5(1916)年、北海道稚内市に生まれ、林武に師事、昭和17(1942)年の第12回独立展に「花」が初入選、戦後も再び同展に出品をつづけ、同33年の第26回展に出品の「静物」によって独立賞を受賞、翌年の第27回展でも、「金魚と鳥の静物」、「黄壷と裸婦」によって再度独立賞を受け、同会会員にとなった。同36年、フランスに留学、翌年帰国して、同42年の第35回展では、「ヨットのある風景」、「真鶴半島」によってG賞を受賞した。平成6(1994)年には、同会の会員功労賞をうけた。同7年の第63回展には、遺作として「太束崎」を出品されたが、その画風は、フォーヴ的な解釈による明快な色彩と意志的な輪郭線によるもので、近年はスケールの大きい半島風景や山岳風景を描きつづけていた。

清野恒

没年月日:1995/07/20

読み:せいのつね  トキワ松学園横浜美術短期大学名誉教授でモダンアート協会名誉会員の洋画家清野恒は7月20日午後8時58分、脳こうそくのため川崎市多摩区の自宅で死去した。享年84。明治43(1910)年12月8日山形県上山市鶴脛赤山700に生まれる。本名恒太郎(つねたろう)。昭和10(1935)年早稲田大学文学部西洋史科を卒業。在学中に二科展に出品し、大学卒業の年、米国を経由して渡欧。パリでフェルナン・レジェに師事する。同12年サロン・ド一トンヌに出品。滞欧中、イタリア、ドイツ、オーストリア、ハンガリー、チェコ、オランダ、ベルギーなどを訪れる。同14年に帰国し、自由美術家協会に参加する。戦後は同28年第3回モダンアート協会展に「森1」「森2」「いえ」「家」等を出品して同年同会会員となる。同32年より山形大学講師となる。同38年毎日国際美術展に出品し、翌年より国際形象展に毎年出品する。同42年ヒマラヤに写生旅行し、山中のラマ廟で生活する。以後しばしばヒマラヤを訪れ、インドなど周辺各地にも赴く。「エトルスク」「シェルパの舞」「祭」、また同62年第37回モダンアート展出品作「ベナレスのガード」等、ヒマラヤを中心に来訪地の風景風俗に取材した作品を多数制作。同41年よりトキワ松学園横浜美術短期大学で教鞭を執り、絵画、色彩学を教授した。同40年日動画廊で、同43、46年日本橋三越で個展を開いており、また山形美術館、東京都渋谷のギャラリー・ジェイコ等で回顧展が聞かれた。

西出大三

没年月日:1995/07/08

読み:にしでだいぞう  重要無形文化財保持者(人間国宝)で日本工芸会参与の西出大三は7月8日午前4時30分、脳こうそくのため東京都中野区の慈生会病院で死去した。享年82。大正2(1913)年6月7日石川県江沼郡橋立村字橋立に生まれ、昭和7(1932)年石川県立第一中判交を卒業して東京美術学校彫刻科に入学。木彫および古美術品の修理を学ぶ。特に仏像にほどこされた截金に興味を抱いて研究を進める。また、同7年より25年まで袈裟の研究も行った。同12年同校卒業。同13年第21回二科展に「裸婦」で入選。同21年春第1回日展に木彫「あま」を出品。同30年に国の「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」として選択された截金の技術保持者として同年より翌31年にかけて記録作成にたずさわる。同33年第5回日本伝統工芸展に「截金彩色飾合子富士」を出品して技術賞を受賞。同34年東京芸術大学で截金についての特別実習および特別講義を行って以降、国内外で截金技術の紹介を行う。同60年国の重要無形文化財保持者に選ばれた。日本工芸会理事、財団法人民族衣装文化普及協会評議員、日本七宝作家協会顧問をつとめ、截金のみならず七宝、ガラスなど従来注目されていなかった諸分野の発展、向上に尽くした。香合、合子、置物、盤などの古典的器物のほか木彫の置物、絵画にも繊細な截金装飾をほどこし、伝統技法を今日の造形に活かした。

吉田遠志

没年月日:1995/07/01

読み:よしだとおし  日本版画協会会員の版画家吉田遠志は、7月1日午前7時20分、前立腺がんのため東京都世田谷区の福原病院で死去した。享年83。明治44(1911)年7月25日、洋画家吉田博、吉田ふじをを両親として東京市本郷動坂町100番地に生まれる。暁星中学校を卒業し、同舟舎デッサン研究所、太平洋美術学校に学ぶ。また、13歳のころから父に木版画を学び、15歳ころから本格的な制作に入る。昭和5(1930)年、父とともにインド、ピルマ、マレーシアなど東南アジアを写生旅行。同11年には中国東北部、朝鮮半島を父とともに訪れる。同13年太平洋画会に初入選し以後同展に出品を続ける。戦後は同22年日展に「浅海の陽光」を出品。またアンデパンダン展にも出品する。同25年太平洋画会を退会してプラス美術家群を創立。翌年日本版画協会会員となる。同27年ニューヨークのジャパン・ソサエティーの協力を得て、アメリカ各地で講演、伝統的木版画の技法紹介、展覧会などを行ったのち、欧州へ渡る。同29年弟で洋画家の穂高を伴い米国各地で講演会、展覧会を開催。のちキューバ、メキシコへ渡る。同41年以後、しばしば渡米して木版画の講演会、展覧会を開催。同48年東アフリカを訪れ、以後動物をモティーフとする版画を主に制作。後にインド、オーストラリア、南極などへも旅行して各地の野生動物を描く。同55年長野県北安曇郡美麻村の小中学校の旧校舎を利用して「美麻文化センター」を創設し、木版画、ガラス細工、陶器などの技術指導の場とする。同57年より絵本「野生動物シリーズ(アフリカ)」の出版を始め、『はじめてのかり』で、同57年イタリア・ボローニア国際児童書フェスティヴァルでエルバ賞、『あしおと』で同63年フランスのアミアン市文化交流賞を受賞。同シリーズにより絵本にっぽん賞を受賞している。

立花重雄

没年月日:1995/06/04

読み:たちばなしげお  日展会員の洋画家立花重雄は、6月4日午前6時、肝不全のため福岡県田川市の病院で死去した。享年75。大正9(1920)年1月18日、福岡県飯塚市に生まれ、中央美術学園で学んだ。昭和39(1964)年の第7回日展に家々の屋根が折り重なるようにつづく光景を荒い筆致と豊かなマチエールで描いた「家並」を出品、特選となり、翌年の第8回展では、無鑑査で「家並」を出品した。同58年の第15回展に「古都」を、同60年の第17回展に「裏町」をそれぞれ委嘱出品した。同62年の第19回展では会員として、「裏町」を出品、独特の厚塗りのマチエールがさらに深まっていった。平成7年の第27回日展に重厚なマチエールによる暗い海面に浮かぶ一隻の白い舟が印象的な「高島」が遺作として出品された。

河野日出雄

没年月日:1995/05/23

読み:こうのひでお  現代童画会名誉会長の洋画家河野日出雄は、5月23日午後7時、糖尿病のため神奈川県茅ヶ崎市の病院で死去した。享年73。大正11(1922)年6月1目、父の赴任地であったソウル市に生まれ、日本大学芸術科予科を修了した後、日本美術学校油画科を卒業。角浩に師事。戦後、二科展をはじめ各団体展に出品をはじめるが、昭和26(1951)年に病気のため、療養生活をつづけることになった。その聞に、出版物に童画を描きはじめた。同43年に一陽会展に出品、同45年には同展にて特待賞を受け、同49年に会員となった。同51年には、イラスト、デザインを描く商業美術の作家たちにも、絵画を描く機会をあたえることを目的に、現代童画会を創立、その発起人となり、第1回展から出品をつづけ、同54年に同会会長となり、あわせて一陽会を退会。同59年には、神奈川県藤沢市の画廊で、妻こうのこのみ、長男りうのすけ、長男の妻りえの四人による最初のファミリー展を開催、平成4(1992)年からは、これを「ファンタスティックの世界展」として、各地で毎年開催していた。

福山敏男

没年月日:1995/05/20

読み:ふくやまとしお  日本学士院会員、京都大学名誉教授の建築史家福山敏男は5月20日午後6時13分、肺炎のため京都府長岡京市の済生会京都府病院で死去した。享年90。明治38(1905)年4月1日福岡県柳川市大字本城町27に生まれる。昭和2(1927)年京都帝国大学工学部建築学科を卒業。同年より造神宮使庁に勤務。同14年5月京都帝国大学より工学博士の学位を受ける。同15年『神宮の建築に関する史的調査』(造神宮使庁刊)を刊行。同17年文部技師として宗教局に勤務。同18年『日本建築史の研究』(桑名文星堂)を刊行。同22年東京国立博物館附属美術研究所(現・東京国立文化財研究所)に勤務となり、同26年同所資料部長、同29年より同所美術部長をつとめ、同34年京都大学教授となった。同43年に同大を退官した後は京都府埋蔵文化財調査研究センター理事長をつとめた。古代仏教寺院や神社建築の調査・研究にあたり、出雲大社、大阪四天王寺、九州観世音寺などの調査発掘を指導して創建当時の事情や建築構造を明らかにして、日本建築史学の基礎を築いた。奈良県天理市の石上神宮の七支刀の銘文解釈等、金石文の研究でも知られる。同62年日本学士院恩腸賞を受賞し、平成2年日本学士院会員となった。同57年『寺院建築の研究』(上・中・下 福山敏男著作集1-3) 、『神社建築の研究』(福山敏男著作集4) 、『住宅建築の研究』(福山敏男著作集5) 、『中国建築と金石文の研究』(福山敏男著作集6)を中央公論美術出版から刊行。著作については『文建協通信』22所載の「福山敏男先生著作目録」に詳しい。

棟方末華

没年月日:1995/05/12

読み:むなかたまつか  日本板画院名誉会長の版画家棟方末華は、5月12日午前9時5分、肺炎のため東京都府中市の都立府中病院で死去した。享年82。大正2(1913)年4月14日、青森県青森市に生まれた。本名末吉。昭和6(1931)年、青森市夜間中学校を卒業、上京後の同14年から戦後の49年まで府中刑務所に事務官として勤務した。その間に創作活動をはじめ、同16年の第4回新文展に、「秋深き山門と石像」(版画)が初入選した。そのほか、国画会、白日会、日本版画協会展にも出品したが、同27年には日本板画院の創立会員として参加した。同40年には、日本浮世絵協会理事に就任、また同49年には、日本板画院会長となった。府中市の文化財専門委員をつとめたほか、同51年には芸術文化に功労があったことから青森県より褒賞を受け、また同61年には美術文化功労者として東京都より表彰された。

泉茂

没年月日:1995/05/11

読み:いずみしげる  大阪芸術大学名誉教授の画家・版画家の泉茂は5月11日午後6時24分、食道がんのため大阪市阿倍野区の病院で死去した。享年73。大正11(1922)年1月13日大阪市東区玉堀町570番地に生まれる。昭和14(1939)年大阪市立工芸学校図案科を卒業し、大丸百貨屈に勤務する。同20年より銅版画制作を始める。同23年ころ同百貨店を退職し、画業に専心する。同26年大阪デモクラート美術協会を結成し、同年より、27、28年に大阪デモクラート展に出品するが、同31年同会は解散。こうしたグループ活動をする一方、同24年梅田画廊での初めての個展以来、画廊での個展で制作を発表する。32年第1回東京版画ビエンナーレ展に出品し新人賞受賞。この頃より抽象作品を制作。以後36、45年に同展に出品する。同32年より現代日本美術展に出品。同34年ニューヨークにわたり、後パリへ移住する。同33年より同42年まで日本版画協会会員となる。同35年頃より版画だけではなく、油彩画も制作し始める。同39、40年パリ近代美術館で、開催されたサロン・ダール・サクル展に出品。同40東京国立近代美術館での「海外在住作家展」、ニューヨーク近代美術館での「日本の新しい絵画彫刻展」に出品する。欧米滞在中は同34年ニューヨークのプラット・アートセンターでの個展、同37年ニューヨークのミチュー画廊での個展、同40年ストックホルムのボーマン画廊での個展、同41年パリのコナンク画廊での個展など各地で個展を開催。同43年に帰国する。帰国後は吹き付け技法による油彩画のほか、銅版画、シルクスクリーン、リトグラフなど多様な技法を用いて抽象的な作品を制作し、同45年には大阪フォルム画廊、同46年には藤美画廊で個展を開催し、以後毎年画廊で個展を聞く。日本国際美術展、朝日秀作展などにも出品した。また、同45年より大阪芸術大学教授となり、後進の指導にあたった。作品集に『画業・泉茂』(平成元年)がある。

粟辻博

没年月日:1995/05/05

読み:あわつじひろし  多摩美術大学教授で染織デザイナーの粟辻博は5月5日午前1時22分肝不全のため東京都新宿区の病院で死去した。享年65。昭和4(1929)年7月20日、京都市上京区猪熊通元誓願寺下ルに生まれる。同25年京都市立美術専門学校(現京都市立芸術大学)を卒業し、鐘淵紡績意匠室に入社する。同33年同社を退き、独立。同38年フジエテキスタイルのデザインを初め、同46年毎日新聞社毎日産業デザイン賞準賞を受賞。翌年日本インテリア協会賞を受賞する。同49年米国でのナショナル・コントラクト・プロダクツ展で一席となり、同53年にはポーランドで開催されたテキスタイル・トリエンナーレで銀賞を受賞する。公共建築内のタベストリーなどを手がけ、国際的に活躍。同53年多摩美術大学教授となり、また同年ギャラリー問で、「粟辻博の自立した表層」展を開催した。平成2(1990)年作品集『粟辻博のテキスタイル・デザイン』を刊行。同4年米国で開催されたIDアニュアル・デサイン・レビューで金賞を受賞し、また同年国際テキスタイル・コンペティションで佳作賞を受賞。没年にあたる同7年には第22回国井喜太郎産業工芸賞を受賞した。代表作に京王プラザホテルのエントランスホールやグリルなどのタペストリー、大正本社ビルレセプションホールのタペストリー等がある。

田中忠雄

没年月日:1995/04/26

読み:たなかただお  武蔵野美術大学教授で洋画家の田中忠雄は4月26日午後10時40分老衰のため東京都東久留米市学園町の自宅で死去した。享年91。明治36(1903)年11月27日札幌市に生まれる。父は札幌組合基督教会(現北光教会)の初代牧師であった。西創成村地在学中に俣野第三郎、第四郎兄弟と交遊して絵画に興味を持ち、また、北海道大学に赴任してきた有島武郎を知る。大正3(1914)年、父の転任により神戸へ移り、湊山小学校に転校する。同5年兵庫県立第二神戸中学へ入学。学友に小磯良平、東山新吉(魁夷)などがいる。同9年兵庫教会で洗礼を受ける。同10年第二中学を卒業して、京都高等工芸学校図案科に入学するが、油彩画への興味を捨てがたく独学。同13年同校を卒業して上京し、東京市技手として都市計画にたずさわる。一方、夜は本郷絵画研究所に通う。同14年絵画に専念すべく東京市技手をやめ、6月に第2回白日展に「静物」「ゑびすの風景」で初入選。そののち本郷絵画研究所から新設された湯島自由画室に移り、前田寛治に師事する。同15年第7回中央美術展に「郊外の理髪屋の坂路」「冬の駒込風景」で入選、第13回二科展に「夏樹の陰」で入選する。昭和2(1927)年第8回中央美術展に「黒服を着けたるN子」を出品して中央美術賞を受賞。同年より1930年協会展にも出品する。同5年渡仏し、アカデミー・ドラ・グラン・ショーミエールに通う一方、ルーブル美術館での模写を行う。滞欧中、スペイン、オランダ、ベルギーなどに旅行し、同7年10月帰国。同8年第20回二科展に「昼食」「メロン売」「パンを切る老人」など労働者を描いた作品を中心に滞欧作を特別出品する。同年より建築設計で生計を立てつつ油彩画制作をする。同10年宮本三郎等の奨めにより新美術家協会に入る。同12年第24回二科展に「コワイヤー」「小憩」を出品して特待となり、同14年同会会友となる。同15年建築設計を打ち切り満州へ赴く。同年第28回二科展に「北満林業地」「首都近き耕地」を出品して会友賞受賞。同17年上海毎日新聞の招きにより満支へ赴き、農民と語る兵士を描いた「麦の話」を第29回二科展に出品して同会会員となる。同18年国民総力決戦美術展に「元帥に誓う」を出品して朝日新聞賞を受賞。同年第6回新文展にも「採鉱」で入選する。同19年軍需省の企画による美術推進隊に加わり炭坑、製鉄所、飛行機工場などを訪れて絵画による慰問を行った。同20年、空襲により住宅、所蔵作品等をすべて失い札幌に疎開する。敗戦後まもなく、向井潤吉らに行動美術協会結成への参加を誘われ、田辺三重松とともに参加し、行動美術北海道支部を設立する。また、全道美術協会の結成にも参加する。こののち行動美術展、全道展を中心に制作を発表。同23年上京ののちも、全道展への出品は続いた。戦後間もないころからキリスト教関係の物語主題を主に描くようになり、同35年ウィーンで行われた第3回国際造形美術家会議に出席するため渡欧。帰路、中部フランスやスペインでロマネスク美術を見、イスラエルにも赴いた。同36年武蔵野美術学校が大学に昇格するにともない同大教授となった。同42年キリスト教視聴覚会議に出席するため韓国に渡る。同40年寝屋川市役所の壁面装飾、同41年東京本郷のルーテル学生センターの壁面装飾、同43年青山学院初等部礼拝堂のステンド・グラスのデザインを担当するなど、建築装飾も多数行った。同46年夏に渡欧しブルターニュ地方のキリスト教遺跡に感銘を受ける。同49年武蔵野美術大学を停年退職し、名誉教授となる。これに先立って、同48年、武蔵野美術大学美術資料図書館で「田中忠雄教授作品展」が開催されている。同年カトリック、プロテスタント、聖公会所属の美術家によるキリスト教美術協会を結成する。同50年北海道秀作美術展に「荒野に伏す」を出品して道立美術館賞受賞。同52年中国旅行。同46年広島流川教会礼拝堂のステンド・グラス、同50年神戸女学院デブォレスト記念館のステンド・グラス、同51年鹿児島城南教会の各礼拝堂のステンド・グラスなど教会のためのステンド・グラス制作、同52年横浜北YMCAのスイミング・プール壁面の線彫画等、公共建築の壁面装飾の仕事も続けた。著書、画集に『名画に見るキリスト』(保育社 1969年)、『田中忠雄聖書画集』(教文館 1978年)などがあるほか、主要展覧会に同59年北海道立近代美術館、東京セントラル美術館での「求美の使徒-田中忠雄展」がある。初期には自然主義的写実を基本とし、労働者や風景を好んで描いたが、戦後はキリスト教関係の物語を主な主題とし、初期キリスト教美術、モザイク画の研究などをもとに、簡略化した形体、原色を多用した鮮やかな色調、時に一点消失遠近法を無視した空間構成を持つ物語性豊かな作品を描いた。略歴、参考文献などは「求美の使徒-田中忠雄展」図録に詳しい。

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