本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





利根山光人

没年月日:1994/04/14

読み:とねやまこうじん  造形芸術に幅広く活躍し、メキシコ美術研究でも知られた美術家利根山光人は、4月14日心不全のため東京都目黒区の国立東京第二病院で死去した。享年72。大正10(1921)年9月19日東京都世田谷区深沢町3-525に生まれた。本名光男。昭和18年9月早稲田大学文学部(国漢科)を卒業、学徒出陣した。在学中から美術研究会に所属し、川端画学校に学んだ。戦後の同24年読売アンデパンダン展に出品し、同26年の第3回同展出品作「雨」「風」で本格的に画壇にデビューした。また、同25には自由美術展へも出品、同27年にはタケミヤ画廊で初の個展を開催した。同29から翌年にかけ佐久間ダムの工事現場へ入り、その体験から「佐久間ダムに寄す」(同30年)を制作発表し、一躍注目を浴びた。はやくから社会性を題材に行動的な制作を行った。同30年開催のメキシコ美術展に感動し、同34年以来しばしばメキシコを訪問、とくに古代マヤ文明に大きな啓示を受け、その後、マヤ文明の古代文様に現代のイメージを重ねる独特の作風を鮮烈な色彩のうちに展開した。この聞のメキシコに取材した作品に「太陽の神殿」(同41年)などがある。また、シケイロスらとの交友によって大壁画制作へも向い、JR横浜、東北新幹線北上駅などの壁画を手がけた。同37年には日墨文化交流に尽力した功績によって、メキシコ政府からアギラ・アステカ文化勲章を受章する。同46年、前年携わった聖徳学園川並記念講堂の緞帳「無限」で多田美波とともに建築美術への功績により吉田五十八賞を受賞、同50年には、活力ある文化批評を内蔵した幅広い造形芸術に対して日本芸術大賞を受けた。無所属の作家として画壇とは無縁な一方、同51年には音楽家の夫人とともに自宅に「アルテ・トネヤマ」音楽・絵画研究所を設け、美術教育に尽力し、またアトリエを開放して一年おきに個展を開催した。「ドン・キホーテ」シリーズや版画「ヒロシマ・ナガサキ・南京シリーズ」に見るように、精力的な制作活動の根底には、一貫して戦争体験に基づくヒューマニズムが底流しているところに利根山芸術の大きな特色があった。晩年の作品に「天馳ける」(平成2年)などがある他、千葉県松戸市の聖徳学園には、壁画「伝統」(昭和48年)をはじめ、20年以上にわたる作品群が残されている。作品集に『装飾古墳-利根山光人スケッチ集』(昭和51年)など。

榎戸庄衛

没年月日:1994/04/12

読み:えのきどしょうえ  洋画家の榎戸庄衛は、4月12日午後3時50分、急性肺炎による急性心不全のため茨城県東茨城郡大洗町大貫町の自宅で死去した。享年85。榎戸庄衛は、明治41(1908)年9月20日、茨城県西茨城郡岩瀬町に生まれ、大正14(1925)年、県立笠間農学校本科を卒業。その後上京して、昭和7年、太平洋美術学校洋画科本科を卒業する。翌年、第14回帝展に「母と子」が初入選。さらに同17年の第5回新文展に入選した「秋果豊収」が特選となり、翌年の第6回新文展に「九龍壁(北京)」(茨城県近代美術館蔵)を招待出品。以来、同24年の第5回日展「浴後」まで、官展に出品をつづけた。一方、同16年には、安宅安五郎、大久保作次郎、鈴木千久馬等が結成した創元会に参加、翌年には会員となって出品をつづけた。同24年、同会を退会、新たに牛島憲之、須田寿、有岡一郎とともに立軌会を結成、同34年の第11回展まで出品をつづけた。画風は、戦前の手堅く、平明な描写によるものから、戦後は様式化した具象表現へと変わり、さらに抽象表現主義的な形態の解体がすすみ、一切の団体に属することがなくなってからは、士俗的な記号を中心に独自の抽象表現を築いていった。そうした作品は、所属する会派をこえて選抜される選抜秀作美術展(朝日新聞主催)や、日本国際美術展(毎日新聞社主催)などに、たびたび出品された。また、同40年には、茨城県から、第2回茨城文化賞を受けた。

島田修二郎

没年月日:1994/04/11

東洋美術史家で、米国プリンストン大学名誉教授の島田修二郎は、4月11 日午後6時45分、呼吸不全のため、京都市西京区の関西医大洛西ニュータウン病院で死去した。享年87。明治40年3月29日、兵庫県神戸市に生まれた。父は治平衛、母は静尾。昭和2年3月、第三高等学校文科甲類を卒業後、京都帝国大学文学部哲学科に入学、美学美術史を専攻し、同6年3月に卒業後、12年3月まで、京都帝国大学大学院で東洋絵画史を専攻した。同13年3月から17年3月まで京都帝国大学文学部副手をつとめ、また16年5月から23年4月まで京都府社寺課の嘱託として寺院什宝の臨時調査に当たった。同23年7月から国立博物館研究員として美術研究所に勤務し、26年12月から思賜京都博物館監査員、27年4月、同博物館の国への移管にともなって文部技官となり、5月には学芸課美術室長となった。39年3月、職を辞し、7月からプリンストン大学客員教授として日本美術史を担当、40年7月には同大学教授となり、50年6月に定年退職、同大学名誉教授の称号を受けた。同7月、メトロポリタン美術館顧問となり、また51年9月から52年1月までハーヴァード大学客員教授として中国美術史を教えた。52年8月、メトロポリタン美術館顧問を辞し、9月に日本に帰国。55年から57年まで京都国立博物館評議員会評議員、平成4年まで名誉評議員をつとめた。この問、57年から61年まで文化財保護審議会第一専門調査会絵画彫刻部会専門委員。また、昭和50年から61年まで、メトロポリタン東洋美術研究センター会長、57年から平成3年まで国際交流美術史研究会会長、次いで名誉会長をつとめた。島田は、中国・日本の絵画史研究に大きな足跡をのこしたが、その基礎にあったのは作品と文献への肉迫であった。画を見尽くすとも言える観察眼は、密かに書かれた画家の隠し落款を発見し、画面に刻まれた制作者の営為の痕跡を見いだす(「高桐院所蔵の山水画について」「鳥毛立女屏風)。平成元年に第一回の国華特別賞(平成元年度)を受賞した『松斎梅譜』の研究は、第二次大戦中から実に四十五年の歳月をかけて丹念になされたものであった。ただ精緻な作品や文献の分析にはとどまらず、四十八巻に及ぶ「法然上人行状絵図」の極めて複雑な成立過程の解明に見られるように、断片的と見える諸要素は一つの流れに纏め上げられて行く。島田は、史料のすべてを記憶し、論のすべてを頭の中で構成してから執筆して訂正するところがなかったという。観たものと読んだものとを綴り合わせてゆく歴史的想像力、そこに島田の真骨頂がある。「逸品画配」や「罔両画」の研究には、それがいかんなく発揮されて、平板な実証主義を越えた絵画史の具体相が描き出されている。島田が提示したのは、漢たる絵画史の大枠ではなく、その根幹をなす事象群であった。詩画軸の研究に見られるように、それが中国・日本を含む広い視野をもってなされたことも特筆される。このような研究態度が、絵画史研究者に与えた影響は大きい。京都国立博物館在職中に担当した「雪舟展」(昭和32年)では、雪舟関係の作品と資料をほぼ網羅的に展示して後の研究の基礎を作った。プリンストン大学では、欧米の学生に対して『古今著聞集』『法華経』なと、の原典講読を含む本格的な指導を行い、十一年間に二十人近くの東洋美術史専門の研究者を輩出した。その指導に対する評価の高さは、退職後間もなくの1976年、島田を称えてプリンストン大学美術館で水墨画展が催されたことからも窺える。その折に、教え子たちの執筆した「JapaneseInk Paintings」は、現在でも英文で書かれた室町水墨画に関する基本文献である。このような、東洋美術史研究における世界的な貢献により、1990年度には第61回朝日賞を受賞した。著作のほとんどは、『島田修二郎著作集』上・下(中央公論美術出版社、1987・1993年)に収められている。なお同下巻の著作目録を参照されたい。主な編著「岡両画」(『美術研究』84 ・86、1938・39年)「花光仲仁の序」(『宝雲』25 ・30、1939・43年)「宋迫と漏湘八景」(『南画鑑賞』10- 4、1941年)「詩画軸の書斎図について」(「日本諸学研究報告(芸術学)」21、1943年)「逸品画風について」(『美術研究』161、1951年)「高桐院所蔵の山水画について」(『美術研究』67、1952年)「知恩院本法然上人行状絵図」(『日本絵巻物全集』13、角川書店、1961年)『在外秘宝』障屏画琳派文人画、仏教絵画大和絵水墨画(学習研究社、1969年)Traditions of Japanese Art(Fogg Art Museum,Harvard University、1970年)「鳴毛立女屏風」(『正倉院の絵画』日本経済新聞社、1977年)『在外日本の至宝』3水墨画、1979年「鳥毛立女屏風の鳥毛貼成について」(『正倉院年報』4、1982年)『禅林画賛』(毎日新聞社、1987年)『松斎梅譜』(広島市中央図書館、1988年)

望月定夫

没年月日:1994/04/08

日展評議員の日本画家望月定夫は、4月8日心不全のため新潟県長岡市学校町の自宅で死去した。享年80。明治45(1912)年5月7日山梨県西山梨郡住吉村増坪に生まれる。日本画家望月春江は実兄。山梨県立甲府中学校を経て、昭和12年東京美術学校日本画科を卒業、また、中村岳陵の蒼野社に学んだ。新文展に4回入選し、戦後は日展に出品、会員、評議員をつとめた。

西山夘三

没年月日:1994/04/02

読み:にしやまうぞう  住宅建築界重鎮で歴史的景観保存に住民の立場から発言を続けた京都大学名誉教授の西山夘三は、4月2日午前2時7分、くも膜下出血、脳動脈りゅう破裂のため京都市左京区の京都大学病院で死去した。享年83。明治44(1911)年3月1日、大阪市比華区西九条に生まれる。昭和5(1930)年第三高等学校理科乙類を卒業。同8年京都帝国大学工学部建築学科を卒業し、同16年住宅営団(現在の住宅・都市整備公団)技師となって大衆住宅の研究を進める。同19年京都帝国大学工学部講師、同年9月同校助教授となる。同22年「庶民住宅の研究」で工学博士となる。同36年京都大学工学部教授となった。同41年『住み方の記』(文芸春秋社刊)で日本エッセイストクラブ賞受賞。「庶民住宅の研究」で同44年度日本建築学会賞受賞。同45年大阪万国博覧会では西山教室として会場整備の基本構想、に参加し、「お祭広場」を設計し、同博覧会跡地利用等、地域・都市計画にも参画した。同48年『これからのすまい-住様式の話』で毎日出版文化賞受賞。同49年京都大学を定年退官し、同名誉教授となる。早くから環境破壊を批判し、人間らしい居住空間としての地域・都市づくりを提唱。「住居学・建築計画学・地域計画学の発展に対する貢献」で同61年度日本建築学会大賞を受賞した。平成に入り、JR京都駅付近の再開発、高層計画をめぐって起きた景観論争で、同計画に反対する住民団体の代表として古都景観の保存を訴えていた。著書には他に『西山夘三著作集』全4巻(昭和44年)、『国民住宅論巧』(伊原書店)などがある。

上島一司

没年月日:1994/03/30

読み:かみじまいつし  奈良教育大学名誉教授で日展評議員の洋画家上島一司は、3月30日午前11時38分、敗血症のため奈良市六条町の西の京病院で死去した。享年74。大正9(1920)年1月25日高知県香美郡上人佐山田町山田1452に生まれる。昭和19年9月東京美術学校師範科を卒業。寺内萬治郎に師事する。同19年より中学校教師を務めながら制作を続け、戦後の同22年第3回日展に「未亡人」で初入選し、以後日展に出品を続ける。同24年光風会会員となる。同26年東京学芸大学助教授となる。同31年大丸百貨庄で個展を開催。同35年渡欧し、同年帰国して大丸百貨店で滞欧作を発表。同42年奈良教育大学教授となり、また同年奈良市佐紀町にアトリエを設ける。同43年光風会を退く。同年資生堂で個展を開催。同56年現洋会を結成。同60年奈良教育大学を退く。同大学名誉教授となる。同63年日展評議員となった。また同53年より大学美術教育会副理事長をつとめるなど、美術教育にも尽力した。人物画を好んで描いた。

角浩

没年月日:1994/03/30

読み:かどひろし  新制作協会会員の洋画家角浩は3月30日午前11時3分、心不全のため東京都港区の北青山病院で死去した。享年84。明治42(1909)年10月17日茨城県目立市に生まれる。昭和3(1928)年東京美術学校西洋画科に入学し、岡田三郎助、藤島武二に師事。同校在学中の同6年第18回光風会展に「静物」で初入選。同7年第2回独立美術協会展に「女の子」で初入選する。同8年同校を卒業、同12年渡仏しアカデミー・グラン・ショーミエール、アカデミー・コラロッシに学び、サロン・ドートンヌに入選。オトン・フリエツの推薦によりサロン・チュイレリー無鑑査となる。同14年第二次大戦勃発により米国を経由して帰国、戦後の同25年新制作派協会に移り、同年第14回同展で新作家賞を受賞。同28年同会会員となる。同37・38年アメリカを訪れ個展を開催。同46年アフリカ、ヨーロッパ、インドへ旅行。同54年日伯国際展のためフ守ラジルを訪れ、フランシスコ・コマンドール勲章を受章する。同55年東京渋谷の東急本庄にて画業50年展を開催。同58年郷里の広島県立美術館で個展を開催した。昭和10年代の滞仏中は軽快な筆致で色彩豊かな作品を制作したが、同30年代の渡米の後、光沢のある絵具をベインティングナイフで施し、ギリシャ神話、ドンキホーテ、サーカスなどを主題に幻想的な画風を示した。またトキワ松学園女子短大造形美術学科教授として教鞭をとり、同48年より同科長をつとめたのち同大学名誉教授となる。自らの制作を「ネオ・クラシカル・ロマンティシズム」と称し、透明感のある暗色の背景から、白を基調とするそティーフが浮かび上がる独自の画風を示した。

馬淵聖

没年月日:1994/03/25

日本版画会会長の木版画家馬淵聖は、3月25日心不全のため神奈川県茅ヶ崎市の長岡病院で死去した。享年74。大正9(1920)年1月12日東京市京橋区南鍛冶町12番地(現中央区京橋2丁目6番地)に生まれ、第二東京市立中学校を経て、昭和16年12月東京美術学校工芸科図案部を卒業した。在学中の昭和15年光風会第27回展、造型版画協会展に初入選し、同17年造型版画協会会員となったが戦後の同25年退会する。戦後は同26年の第7回日展に「立秋」で初入選し、以後日展に出品を続けたのをはじめ、翌27年には日本版画協会会員となる。同31年光風会会員(42年評議員)となり、同35年には日版会の創立に参画し、同56年日版会会長となった。埴輪や果実を得意モチーフとして制作した。

牧野正吉

没年月日:1994/03/23

日本水彩画会顧問の洋画家牧野正吉は、3月23日午後9時7分、老衰のため東京の済生会中央病院で死去した。享年88。牧野は、明治38(1905)年8月2日、栃木県今市市に生まれ、大正14年、東京府青山師範学校本科を卒業、教職に就くかたわら、石井柏亭、赤津隆助、加藤静児に師事しながら日本水彩画会展に出品をつづけ、昭和3年には、同会の会員となる。同14年には、石井相亭が主宰する双台社の創立会員となり、同16年には、前年の中国大陸での写生をもとに、「大陸風景水彩画展」と題して最初の個展を開催(上野松坂屋)。戦後も、同29年に創元会会員になるなど、教職のかたわら創作活動をつづけ、とくに尾瀬沼の自然を題材にした水彩画を多く発表し、それらをもとに同48年には、画集『牧野正吉水彩作品集 尾瀬の四季」を発行した。

米倉寿仁

没年月日:1994/03/18

美術文化協会の創立会員で、サロン・ド・ジュワンを主宰した洋画家米倉寿仁は、3月18日午前11時2分、呼吸不全のため埼玉県所沢市の所沢緑ケ丘病院で死去した。享年89。明治38(1905)年2月19日、山梨県甲府市錦町に生まれる。大正15年、名古屋高等商業学校を卒業後、郷里に帰り教職につくかたわら、絵を独学した。昭和6年、第18回二科展に「ジャン・コクトオの『夜曲』による」が初入選。また、福沢一郎と知己になり、同10年、第5回独立展に「窓」が初入選。翌年、画業に専念するために教職を辞して、上京。この頃より、いち早くシュルレアリスム的な表現をとりいれ、社会意識の強い作品を描くようになる。「ヨーロッパの危機」(原題「世界の危機」、同11年、山梨県立美術館蔵)「モニュメント」(同12年、第7回独立展出品、同美術館蔵)、「破局(寂滅の日)」(同14年、第9回独立展出品、東京国立近代美術館蔵)など、暗転する時代を表現した代表作が描かれている。同13年、創紀美術協会の創立に参加、さらに翌年、美術文化協会の創立会員となる。戦後は、同26年に、美術文化協会を退会して、翌年美術団体サロン・ド・ジュワンを結成、以後同会によりながら、作品を発表した。

神保朋世

没年月日:1994/03/10

読み:じんぼともよ  日本画家で俳人でもあった新保朋世は3月10日午前8時20分老衰のため東京都新宿区中落合の自宅で死去した。享年91。明治35年4月25日東京に生まれる。本名貞三郎(ていざぶろう)。日本画家鰭崎英朋に師事し、後、伊東深水にも教えを受ける。社会主義への共感から大衆芸術に関心を抱き、挿絵の制作を中心とするようになり、講談倶楽部、週刊朝日、週刊新潮、オール読物などの雑誌のほか、各種新聞の挿絵を描いた。戦前から「オール読物」に連載の始まった野村胡堂の「銭形平次」には、著者野村が死去するまで30年に渡り挿絵を描きつづけた。

石川滋彦

没年月日:1994/03/07

新制作協会会員の洋画家石川滋彦は3月7日午前9時8分、腎不全のため東京都新宿区の国立国際医療センターで死去した。享年84。明治42(1909)年10月14日、東京都麹町区麹町4丁目5番地に洋画家石川欽一郎の長男として生まれ、少年期を湘南ですごす。昭和2(1927)年東京美術学校西洋画科に入学し岡田三郎助に師事。同校在学中の同4年第10回帝展に「湖畔の丘」で初入選。同7年同校を卒業して研究科に進学し、同11年に同科を終了する。同13年第2回新文展に「信濃の鍛冶屋」を出品して特選となり同14年第3回新文展には「迷彩する商船」を出品して2年連続特選となった。同14年光風会会員となる。戦中は海軍報道班員として南方に赴く。同22年光風会から新制作派協会に移り同年会員となり以後同展に出品。同27年日本の貨物船に乗り世界一周旅行をし、以後たびたび海外へ赴く。海や船を愛し、アムステルダム、ヴェネチア等水辺の風景を好んで描き、同61年「7月のアムステルダム」で第10回長谷川仁記念賞を受賞。明るく爽やかな緑色を基調とする穏健な画面を示す。同60年東京セントラル絵画館で、平成4(1992)年日動画廊で個展を開催。作品集に『石川滋彦・人と作品』(昭和50年刊)があり、著書に『日曜画家の油絵入門』(昭和37年実業之日本社刊)がある。また昭和17年東京帝国大学工学部講師、同22年学習院大学講師をつとめたほか東海大学教養学部などでも教鞭をとった。

平野利太郎

没年月日:1994/03/04

日展会員の染織工芸家平野利太郎は3月4日午後11時43分急性呼吸不全のため東京都町田市の町田病院で死去した。享年89。明治37(1904)年4月18日東京都四谷区永住町に生まれる。曾祖父以来代々刺繍を家業とする家に生まれ、父松太郎に師事して伝統的な日本刺繍を学ぶ。また、岡倉秋水に日本画を学ぶ。昭和4(1929)年第10回帝展に「宝相華(三折衝立)」で初入選。同8年第14回帝展に「七面鳥刺繍手箱」で入選して以後、新文展、日展に出品を続ける。同11年秋の文展に「みのり刺繍壁掛」を出品して選奨受賞。同16年新文展無鑑査。戦後も日展に出品し同21年第1回日展に「海山の幸刺繍二曲屏風」を出品して特選となる。同26年日展依嘱。同33年日展会員となる。同28年よりたびたび日展審査員をつとめた。江戸時代から続く伝統的な日本刺繍を現代に生かし、屏風、衝立等を多く出品。日本工芸会、工彩会等にも出品し、昭和30年から実践女子大学講師もつとめた。

竹山博

没年月日:1994/02/26

創画会会員で、日本画家の竹山博は、2月26日午後8時37分、胃ガンのため、横浜市の病院で死去した。享年70。竹山は、大正12(1923)年6月30日、東京府文京区曙町に生まれる。本名博二。昭和15年、京北中学校4年修了後、東京美術学校日本画科予科に入学。同18年、学徒出陣により応召、翌年9月、出征中ながら同校を卒業。同20年復員後、翌年の第30回院展に初入選、さらに同22年の第31回展に「晩秋」、また第3回日展に「秋暮」が入選した。一方、戦後間もなく、山本丘人宅で開かれていた若い日本画家たちによる研究会「凡宇会」に出入りするようになり、その世話係をする。そして、同23年に山本丘人、上村松篁、吉岡堅二等が中心になって結成された美術団体「創造美術」の第1回展に「藁家」を出品、つづいて同26年、同会が新制作派協会と合同し、日本画部となると、これに出品するようになった。同38年、第27回同協会展に出品の「巌と滝」によって、さらに同40年の第29回展出品の「源流」、「凍雪」によって新作家賞を受け、同41年には会員となった。同49年、同協会の日本画部会員が創画会を結成、以後、同会展に毎回出品する。同会展への出品は、平成5年の第20回展の「海棠(未完)」が最後となった。色彩表現を抑制した、精緻な線描による花鳥画を多く描いた。

宮次男

没年月日:1994/02/20

読み:みやつぐお  日本美術史家で実践女子大学文学部教授の宮次男は2月20日午前9時30分、肺がんのため東京都田無市の病院で死去した。享年65。宮は昭和3年6月2日、三重県鈴鹿市南若松町で出生した。同28年3月、東北大学文学部東洋芸術史学科を卒業し、同29年5月同大学文学部助手となる。同30年9月に東京国立文化財研究所美術部技術員、同33年7月に文部技官に任官した。昭和35年5月には東京国立文化財研究所における共同研究「醍醐寺五重塔の壁画」で日本学士院恩賜賞を授賞した。同47年主任研究官となり、同52年には情報資料部に配置換となる。この年6月、「金字宝塔憂陀羅の研究」により東北大学より文学博士号を授与される。同53年4月には美術部第一研究室長に、さらに同57年4月には情報資料部長となる。同62年3月に東京国立文化財研究所を退官し、4月に実践女子大学文学部教授に就任する。宮の研究対象は日本中世絵画を中心とするが、その関心は多岐にわたっている。特に絵巻物研究では『日本絵巻物全集』への関与によってもたらされた幅の広さを基礎に、合戦絵・高僧伝絵・寺社縁起絵から御伽草子、奈良絵本や絵解き研究までも視野に入れ、数々の論考を残している。また日本中世期の代表的なジャンルと目される肖像画においても、前後をみわたした肖像画史をこころみるなど、先駆的な足跡を残している。しかし博士論文のテーマに代表される法華経をテーマとした仏教説話画研究への関心は、東北大学での思師故亀田孜教授への傾倒を示すかのように終始かわることはなく、宮の研究のパックボーンを形成している。晩年は十王経や「往生要集』に関わる絵画に関心を収斂させていたかに見うけられるが、その成果を世に問いはじめていた途上での逝去であった。美術史学会常任委員、民族芸術学会評議員をつとめた。東京国立文化財研究所名誉研究員。定期刊行物所載論文など1965年の歴史学界―回顧と展望―(史学雑誌75-5、昭和41年5月)日本の合戦絵1 奥州十三年合戦絵巻(日本美術工芸333、昭和41年6月)日本の地獄絵(日本美術土芸335、昭和41年8月)日本の合戦絵2 源平合戦絵(日本美術工芸337 昭和41年10月)長谷寺縁起(古美術15 昭和41年11月)一遍聖絵の錯簡と御影堂本について(美術研究244、昭和41年12月)伊保庄本北野天神縁起(古美術18、昭和42年7月)後三年合戦絵巻(日本美術工芸348、昭和42年9月)調馬図巻(古美術20、昭和42年12月)図版解説 弥勅来迎図(美術研究250、昭和42年12月)後三年合戦絵巻をめぐる三、三の問題 上、下(美術研究251、254、昭和43年2月、昭和44年2月)「井田の法談」―一遍上人絵伝断簡―(古美術21、昭和43年3月)聖徳太子伝絵巻(古美術21、昭和43年3月)古画に見る笑い(日本美術工芸354、昭和43年3月)雷神の美術(日本美術工芸359、昭和43年8月)日本の地獄絵(古美術23、昭和43年9月)十王地獄変相(古美術23、昭和43年9月)時宗の絵巻(日本美術工芸362、昭和43年11月)善光寺如来絵伝(古美術24、昭和43年12月)目連救母説話とその絵画―日連救母経絵の出現に因んで―(美術研究255、昭和44年3月)亀田孜博士の学風とその研究業績(文化33-1、昭和44年7月)地蔵菩薩と目連尊者(日本美術工芸371、昭和44年8月)足利義尚所持狐草紙絵巻をめぐって(美術研究260、昭和44年9月)金光明最勝王経金字宝塔曼荼羅図私見(仏教芸術72、昭和44年10月)大和文華館蔵「一遍上人絵伝」断簡をめぐって(大和文華51、 昭和44年11月)拾遺古徳伝絵残欠(古美術28、昭和44年12月)1969年の歴史学界―回顧と展望―(史学雑誌79-6、昭和45年6月)絵巻入門1~34(本美術工芸390~425、昭和46年3月~49年2月)善光寺如来絵伝(国華931、昭和46年3月)研究資料 長谷寺縁起上、下(美術研究275、276、昭和46年11月、12月)雪渓筆獅子・虎豹図屏風一双(古美術35、昭和46年12月)谷文晃筆一偏上人絵伝(古美術36、昭和47年3月)研究資料 公刊 長谷寺縁起 詞書(美術研究278、昭和47年3月)拾遺古徳伝絵巻残欠―浄土開宗の段―(古美術38、昭和47年9月)研究資料 西行物語絵巻 詞書公刊(美術研究281、昭和47年10月)永徳元年の一遍上人絵伝残欠(古美術39、昭和47年12月)一遍上人絵伝残欠(金光寺本)(古美術39、昭和47年12月)立本寺蔵 妙法蓮華経金字宝塔曼陀羅図について(美術研究282、 昭和47年12月)海北友雪筆徒然草絵巻(古美術40、昭和48年3月)『平治物語』諸本中における平治物語絵巻の位置(美術研究289、 昭和49年2月)地蔵霊験記絵巻について(仏教芸術97、昭和49年7月)中世絵巻の展望(MUSEUM284、昭和49年11月)弘法大師絵伝残欠(古美術47、昭和50年1月)矢取地蔵縁起について(美術研究298、昭和50年3月)東寺本弘法大師行状絵巻―特に第十一巻第一段の成立をめぐって―(美術研究299、昭和50年11月)お伽草子絵巻―その画風と享受者の性格(国文学解釈と教材の研究 22―16 昭和50年12月)説話と絵巻(文学45-1、昭和52年1月)歓喜天霊験記私考(美術研究305、昭和52年3月)古代・中世秘画絵巻考(アート・トップ39、昭和52年4月)1976年の歴史学界―回顧と展望―(史学雑誌86-5、昭和52年5月)金字宝塔曼茶羅 上、中、下 ―ユニークな仏教説話図―(日本美術工芸467~469、昭和52年8月~10月)金字法華経絵について(金沢文庫研究257、昭和54年5月)お伽草子絵巻と奈良絵本(萌春291、昭和54年9月)御伽草子と土佐光信―鼠草紙絵巻考―美術研究313、昭和55年3月)絵巻物に見る日本仏教―餓鬼草紙を中心として―(東洋学術研究19-1 、昭和55年4月)鎌倉時代の美術 高僧伝絵と縁起絵(世界の美術(週刊朝日百科) )113 、昭和55年5月)文学と絵巻のあいだ(国語と国文学675、昭和55年5月)法華経の絵と今様の歌(仏教芸術132、昭和55年9月)国宝・伴大納言絵巻(解説)(芸術新潮374、昭和56年2月)芭蕉の風貌(太陽(別冊37)、昭和56年12月)日本の説話画(古美術61、昭和57年1月)日本の変相(国文学解釈と鑑賞47-11、昭和57年10月)中世人生絵巻(芸術新潮395、昭和57年11月)研究資料 白描西行物語絵巻(美術研究322、昭和57年12月)絵解き≪昭和五十七年度大会シンポジウム記録≫(説話文学研究18、昭和58年6月)宋・元版本にみる法華経絵(上) (下)(美術研究325、326、昭和58年9月、12月)八幡大菩薩御縁起と八端宮縁起 上、中、下(美術研究333、335、336、昭和60年9月、昭和61年3月、8月)研究資料 永福寺本遊行上人縁起絵(美術研究339、340、昭和60年9月)永福寺蔵遊行上人縁起絵巻(古美術77、昭和61年1月)妙法寺蔵妙法蓮華経金字宝塔曼荼羅について(美術研究337、昭和62年2月)八幡大菩薩御縁起と八幡宮縁起 附載一、二(美術研究339、340、昭和62年3月、11月)出相観音経の諸問題(実践女子大学美学美術史学4、平成1年3月)源平合戦図屏風 海北友雪筆(古美術92、平成1年10月)十王経絵について(実践女子大学美学美術史学5、平成2年3月)両界曼荼羅(古美術95、平成2年7月)和字絵入往生要集について(国文学研究資料館文献資料部・調査研究報告12、平成3年3月)十王経絵拾遺(実践女子大学美学美術史学7、平成4年3月)十王地獄絵(実践女子大学美学美術史学8、平成5年3月)博物館学と文化財(MUSEOLOGY12、平成5年4月)単行図書掲載文献類型より写実へ 鎌倉時代の肖像画(日本絵画館4、昭和45年3月、講談社)肖像画(原色日本の美術23、昭和46年6月、小学館)平治物語絵巻の絵画史的考察(新修日本絵巻物全集10、昭和50年11月、角川書店)蒙古襲来繪詞について(新修日本絵巻物全集10)「後三年合戦絵詞」について(日本絵巻大成15、昭和52年11月、中央公論社)鎌倉時代肖像畫と似繪(新修日本絵巻物全集26、昭和53年9月、中央公論社)中殿御會圖について(新修日本絵巻物全集26)法華經繪巻について(新修日本絵巻物全集25、昭和54年6月、中央公論社)在米の弘法大師伝絵巻について(原色日本の美術27在外美術 、昭和54年7月、中央公論社)遊行上人縁起繪の成立と諸本をめぐって(新修日本絵巻物全集23、昭和54年9月、中央公論社)中世絵画の誕生(日本美術全集10、昭和54年9月、学習研究社)絵巻物(日本美術全集10)大画面による説話画(日本美術全集10)肖像画(日本美術全集10)駒競行幸繪巻(新修日本絵巻物全集17、昭和55年1月、学習研究社)小野雪見御行繪巻(新修日本絵巻物全集17)なよ竹物語繪巻(新修日本絵巻物全集17)宗俊本遊行上人縁起繪諸本略解(新修日本絵巻物全集23)極楽再現(日本古寺美術全集15、昭和55年3月、集英社)槻峯寺建立修行縁起について(新修日本絵巻物全集別巻1 、昭和55年11月、集英社)八幡縁起繪巻(新修日本絵巻物全集別巻2、昭和56年2月、集英社)天稚彦草子繪巻(新修日本絵巻物全集別巻2)鼠草紙繪巻(新修日本絵巻物全集別巻2)祖師像と祖師伝絵巻(日本古寺美術全集21、昭和57年5月、集英社)妙心寺の肖像と頂相(日本古寺美術全集24、昭和57年9月、集英社)浄土教の絵画(全集日本の古寺8、昭和59年8月、集英社)高僧・祖師伝絵(全集日本の古寺4、昭和60年6月、集英社)縁起絵について―中世の社寺縁起を中心に―(全集日本の古寺5 、昭和60年7月、集英社)わが国の仏教説話絵(全集日本の古寺15、昭和60年5月、集英社)単行図書日本の美術56(昭和46年1月、至文堂)日本の地獄絵(昭和48年10月、芳賀書店)日本の美術33(昭和50年5月、小学館)金字宝塔曼荼羅(昭和51年3月、吉川弘文館)合戦絵巻(昭和52年11月、角川書店)日本絵巻大成15(昭和52年11月、中央公論社)日本の美術146(昭和53年7月、至文堂)絵巻と物語(昭和57年11月、講談社)日本の美術203(昭和58年4月、至文堂)日本の美術271(昭和63年12月、至文堂)

面屋庄三

没年月日:1994/02/14

読み:めんやしょうぞう  京人形師で本名岡本庄三の名で新制作協会会員の彫刻家としても活躍した面屋庄三は2月14日午後10時30分、急性心不全のため京都市中京区押小路通富小路角橘町の自宅で死去した。享年83。明治43(1910)年4月20日京都市下京区に生まれる。昭和4(1929)年、京都市立美術工芸学校彫刻科を卒業。人形を先代の12世面屋庄次郎に、彫刻を藤川勇造に学ぶ。伝統的京人形を制作し、昭和28年に三ツ折人形で国の無形文化財保持者に認定された。同33年よりあまがつ会人形展を毎年開催。同38年からは荘人会人形展も開催し、京人形の普及に努めた。同45年に13世面屋を襲名。また、彫刻家として新制作協会展に出品し、昭和26年第15回展に「女像」を出品して新作家賞、翌27年には「習作婦」「首」を出品して同賞を受賞し翌28年同会会員となった。彫刻は婦人像を中心に人体を主要なモティーフとし、表面のマティエール等に人形との共通点が見いだせる。京都市文化功労者、国際芸術文化賞などを受賞。『京人形あれこれ』などの著書もある。三ツ折人形のほか、御所雛、相込人形等も得意とした。京都五條大橋西詰の「牛若弁慶像」を制作したことでも知られる。

西村房蔵

没年月日:1994/02/07

日展会員で、日本彫刻会運営委員の彫刻家西村房蔵は、2月7日午後2時32分、急性肺炎のため東京都墨田区の健生堂病院で死去した。享年74。西村は、大正8 (1919)年7月20日、千葉県に生まれ、仏像彫刻を本業としながら、昭和36年の第4回日展に「立」が初入選。同43年の第11回展に出品の「霞光」が特選を受けた。同45年の第2回改組日展でも、「葦角」が再び特選を受ける。同49年の第6回展では、審査員をつとめ、同59年に同展会員となる。堅実な手法による自然なポーズをとる女性像を毎回日展に発表した。

大内田茂士

没年月日:1994/02/01

日本芸術院会員で、示現会理事長、日展常務理事の洋画家大内田茂士は、2月1日午前5時54分、多臓器不全のため東京都文京区の病院で死去した。享年80。大内田は、大正2(1913)年9月24日、現在の福岡県朝倉郡朝倉町に生まれ、福岡県立朝倉中学校を卒業後、上京して、昭和12年新宿洋画研究所に入り、鈴木千久馬に師事する。同18年に第6回新文展に初入選、また翌年、第四回国展に出品した「壺など」により国画奨学賞を受ける。戦後は、同23年創立の示現会に会員として参加、また同26年の第7回日展に出品した「室内」により、特選・朝倉賞を受ける。同38年の第6回日展では、審査員をつとめ、翌年会員となる。同59年、第16回日展に出品した「秋の卓上」により、内閣総理大臣賞を受け、さらに同63年の第19回日展に出品した「卓上」により、日本芸術院賞恩腸賞を受ける。平成2年、日本芸術院会員となり、また同4年には、示現会理事長に就任した。洗練された色彩表現と、適度にモチーフのフォルムを平面化したアンティームな作品を多く残した。

福島金一郎

没年月日:1994/01/31

二科会理事の洋画家福島金一郎は1月31日午前8時30分、心不全のため東京都大田区の木村病院で死去した。享年96。明治30(1897)年12月16日岡山県勝田郡勝間町字勝間田704に生まれる。大正4(1915)年岡山県立勝間田農学校を卒業し、同15年神戸仏語学校を卒業、同年第13回二科展に「風景」「堂徳山風景」「海の見える庭園」で初入選。大阪信濃橋研究所で小出楢重、鍋井克之に師事し、上京後はアテネ・フランセでフランス語を学ぶ一方、太平洋画会研究所に通う。昭和3(1928)年フランスに渡り、アカデミー・ランソンでピシエールに師事、後ボナールの教えも受ける。同4年サロン・ドートンヌに「街」で初入選、サロン・デ・ザンデパンダンにも出品する。同3年帰国。同10年第22回二科展に「樹下」「五月の森」「田園」を出品し特待となり、同12年第24回同展に「畠」「緑の風景」「山の家」を出品して同会会友に推される。同14年、第26回同展に「山村」「鹽屋風景」「海辺の庭」を出品して推奨となる。同16年第28回展に「海の見える叢」「山の家」を出品して同会会員に推される。その後も二科展に出品する。共にフランスの画壇でも活躍。同35年サロン・コンパレゾン出品のため渡仏し約1年間滞仏。同40年第50回二科展に「すてきな橋」などを出品して、会員努力賞受賞、同41年渡仏、同48年第58回同展に「公園の人々(B)」「公園の人々(A)」「リュクサンブール公園」を出品して、青児賞を受ける。同51年サロン・ドートンヌ会員となる。同56年第66回二科展に「公園の人々」「パリの街角」を出品して、内閣総理大臣賞を受賞した。公園など人の集う場所の情景を好み、明るい色調を示した。

杉全直

没年月日:1994/01/23

読み:すぎまたただし  元東京芸術大学教授の洋画家杉全直は1月23日午前4時55分、脳こうそくのため東京都文京区の日本医科大学病院で死去した。享年79。大正3(1914)年3月26日、東京都品川区東大井4丁目に父寅二、母ちくの次男として生まれる。父方の家系は代々九州秋月藩の御藩医であった。同10年大井尋常小学校に入学するが、同13年父の死去により姫路にある母方の実家に移住する。昭和元(1925)年姫路市城東小学校を卒業、同2年同校高等科を修了して旧制姫路中学校に入学。在学中、同校の美術教師で帝展出品者であった飯田勇に絵を学ぶ。同7年同校を卒業して上京し、小林万吾の主宰する同舟舎に通う。同8年家族とともに浦和に移住。同年東京美術学校油画科に入学する。同校では小林万吾に師事。同11年第23回二科展に「蓮池」で初入選。同13年東京美術学校を卒業。同年の第8回独立美術協会展に「蝕まれた街」「時の悪戯」で初入選。同14年兵役につくが、同年の第9回独立展に「鏡(映像)」「頒歌」を出品し、独立美術協会賞を受賞する。同年より同22年まで美術文化協会展に出品。同23年モダン・アート協会が設立されると同展にも第1回展より出品する。同28年美術文化協会を退会。現代日本美術展、日本国際美術展にも出品し、同33年第3回現代日本美術展に「窪んだ空間A・B」を出品して優秀賞受賞。同34年第5回日本国際美術展に「湧く」を出品して神奈川県立近代美術館賞を受賞。初期にはシュール・レアリスムに学び、人体を中心として画面を構築していたが、戦後、抽象絵画の試みを経て、同35年ころ、自らの歩みを六角形「きっこう」をめぐる試みであったとする認識から「きっこう」のシリーズを制作し始める。同36年第6回日本国際美術展に「きっこう」を出品しブリヂストン美術館賞を受賞。同年第6回サンパウロ・ビエンナーレにも「眼」「作品」など12点を出品する。同37年第31回ヴェネチア・ビエンナーレ(コミッショナー・今泉篤男)に「きっこう」「きっこう2」など10点を出品。同38年第7回日本国際美術展に「無音」を出品して優秀賞を受賞する。同40年9月渡欧し翌年7月帰国。同43年多摩美術大学油画科教授となるが、同48年教授を辞任。同52年母校の東京芸術大学油画科教授となる。同55年同校退官にあたり東京芸術大学陳列館・大学会館展示室において6月30日より7月12日まで「東京芸術大学退官記念展-1938~75杉全直展」を開催する。同展などにより一貫した抽象表現の追求を示したことにより、同56年にはいって、同55年度芸術選奨文部大臣賞を受賞。同56年東京芸術大学を定年退官する。同62年回顧的な内容を持った「杉全直展」を姫路市立美術館、東京のO美術館で開催した。年譜、参考文献等は同展図録に詳しい。

to page top