本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





川島浩

没年月日:1994/01/09

日展会員で、日本画家の川島浩は、1月9日午後2時15分、胆管ガンのため京都市東山区の京都第一赤十字病院で死去した。享年83。川島は、明治43(1910)年2月20日、京都市伏見区深草願成町40に生まれる。昭和2年、京都府立桃山中学校卒業後、京都絵画専門学校予科に入学、本科を経て、同12年研究科を卒業。在学中は、西村五雲、山口華楊に師事した。また、同7年の第13回帝展に「大和の麦秋」が初入選、同10年には、第1回京都市美術展覧会に「獲物」が入選した。以後、帝展、新文展に入選をかさね、戦後も日展に出品をつづけた。同41年の第9回日展に出品した「湖」により、特選・白寿賞を受けた。さらに同48年の第5回改組日展に出品の「山頂湖」が、再び特選となり、同58年の第8回展では、審査員をつとめ、翌年同展会員となった。同63年、京都府文化功労賞を受けた。山中の湖や湿原の景観を題材に、簡潔な構図と整理された色彩表現による、静謐な情感を漂わせる風景画を多く残した。

岩田久利

没年月日:1994/01/08

日展理事のガラス工芸家岩田久利は1月8日午前9時44分呼吸不全のため東京都新宿区の東京女子医大病院で死去した。享年68。昭和元(1925)年12月18日、ガラス工芸家岩田藤七の長男として東京に生まれる。東京美術学校工芸部図案科に学び、在学中の同24年第5回日展に「硝子ぶどうの鉢」で初入選し以後も日展に出品を続ける。同26年東京美術学校を卒業。制作のかたわら、東京工業大学でガラスの組成を研究する。同30年第11回日展に「藻」を出品して特選、同31年第12回同展には「萌生」を出品して二年連続特選となった。同30年より光風会にも出品。同33年日展会員となり、同年からたびたび日展審査員をもつとめる。同47年日本ガラス工芸会を設立し、同年より同52年までその初代会長をつとめる。同51年第8回改組日展に「孔雀文大皿」を出品して文部大臣賞を受賞。同57年毎日芸術賞を受賞し、同58年「聖華」で日本芸術院賞を受賞した。父の創立になる岩田工芸硝子を継ぎ、社長をつとめつつ制作を続け、斬新で優美な作風を示した。宙吹きガラスを得意とし、国際的にも高い評価を得た。

高須賀桂

没年月日:1994/01/02

二科会評議員の彫刻家高須賀桂は、1月2日急性肺炎のため東京都品川区の北品川総合病院で死去した。享年80。白色セメント造形美術会にも所属した高須賀は、大正2(1913)年11月27日愛媛県温泉郡拝志村字上村に生まれ、愛媛県立松山中学校を経て、昭和13年東京美術学校工芸科図案部を卒業した。同年森永練乳株式会社宣伝部に入社、制作活動も併行し、同16年の第28回二科展に「女の首」で初入選、以後同展への出品を続けた。同18年応召し同21年に復員、翌年鉱工品貿易公団美術工芸室に勤務、その後、貿易庁、特許庁に勤めた。二科展へは同25年から復帰し、同27年の第37回展に「バラ色の髪」で特待賞を受け、同29年の第39回展に「試作」を発表し二科会会友、同34年の第44回展では「コンポジション」を出品し、二科会会員に推挙された。同58年の第68回展に「コンポジション(競)」で会員努力賞を受賞、翌年二科会評議員となった。この間、同30-45年の問、白色セメント造形美術会野外彫刻展に毎年出品を続けた他、同34年仏国サロン・ド・コンパレーゾンに出品、同47、48年建築と共にある彫刻展に参加、同51年グループ13(東美校昭和13年卒)結成に加わるなど、積極的に制作活動を展開した。同50年特許庁審判長を退官する。野外彫刻作品としては、品川区立図書館など数多く設置されている。

斎藤長三

没年月日:1994/01/01

武蔵野美術大学名誉教授で独立美術協会会員の洋画家斉藤長三は1月1日午後10時55分、心不全のため東京都杉並区の病院で死去した。享年83。明治43(1910)年9月6日山形県酒田市漆曽根に父興一郎、母たけの三男として生まれる。北平田小学校を経て大正12(1923)年県立酒田中学校([日制])に入学。同校美術教師で水彩画家であった井口亘のすすめにより山本鼎著『由画の描き方』等を手引きに油絵を描き始める。昭和3(1928)年同校を卒業。同4年東京高等工芸学校に入学し、永地秀太に師事。同校在学中の同5年第5回1930年協会展に「母子」で初入選。同6年第1回独立美術協会展に「風景」「自画像」で入選し、以後同展に出品を続ける。同7年東京高等工芸学校を卒業。同年糸園和三郎らと同人展プルミエ洋画展を開催。同9年グループ「飾画」を結成する。同10年第5回独立展に「馬車の到着」「五反田駅「わが旅への誘い」を出品しD賞受賞。同年の同展に出品された海老原喜之助の「曲馬」にひかれて海老原を訪ね兄事する。同11年独立美術協会に会友制度が導入されるに伴い同会会友となる。同15年第10回独立展に「市井風物A・雪」「市井風物B・月」「市井風物C・川」を出品して岡田賞受賞。また、同年の紀元2600年奉祝展に「働く少年たち」を出品する。同16年独立美術協会会員となり、同年9月より自由学園講師となる。戦後も独立展に出品する一方、秀作美術展、日本国際美術展、現代日本美術展等に出品。同31年武蔵野美術大学教授となり、また日本大学芸術学部講師となる。同35年10月東京八重洲の大丸デパートで「斉藤長三作品展」を開催。同39年第32回独立展に「山麓の村」「高原の村」を出品してG賞受賞。同48年郷里の山形美術博物館で「斉藤長三画業展」を開く。同54年より独立美術協会会員10人をメンバーとする十果会にも出品。同56年イタリアを訪れ、主にフィレンツェに滞在する。同年9月武蔵野美術大学美術資料図書館で「斉藤長三教授作品展」が開かれる。同57年同校を退職し同名誉教授となる。平成5(1993)年2月「ねりまの美術93」として深沢紅子と二人展を開催した。画歴、参考文献は同展図録に詳しい。昭和初期にはシュール・レアリスム風の作品を描いたが、同10年代には労働者のいる風景を多く描くようになり、同20年代後半から30年代にかけて抽象美術が隆盛した時期には対象の形態、色彩に画家独自の改変を加え、白を基調とする抽象化された風景を描いた。同40年代からは華麗な色調の風景画を描き続けた。

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