本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





四方れい

没年月日:1980/08/20

春陽会々員の四方れいは8月20日肺炎のため名古屋市千種区の東市民病院で死去した。享年78。1902(明治35)年3月5日神戸市に生まれ、兵庫県立神戸第一高等女学校を卒業した(旧姓佐々木)。24年四方博と結婚、27年朝鮮京城に住んだ。終戦まで鮮展に出品し、戦後50年「後庭」が第27回春陽会展に初入選し、63年春陽会準会員に、同66年会員になった。作品に「遠い道」「花が咲いた」「道」「子供のいる風景」「とりのくる丘」などがある。

生田勉

没年月日:1980/08/04

東京大学名誉教授、建築家の生田勉は、8月4日肺ガンのため東京府中市の都立府中病院で死去した。享年68。1912(大正元)年2月20日北海道小樽に生まれ、第一高等学校理科甲類を経て、36年東京大学工学部建築科に入学、39年に卒業する。一高在学中三木清に師事し、一高文芸部委員をつとめ、また立原道造と親交しその没後、41年に堀辰雄編纂の立原道造全集に参加する。卒業の年逓信省営繕課航空局に就職するが、44年第一高等学校教授に就任。46年、雑誌「国際建築」の再刊に参画する。50年、東京大学教養学部助教授となり、同年からアメリカの文明批評家ルイス・マンフォードの翻訳をはじめ交際する。51年、ノースカロライナ大学建築学科客員教授として渡米、オレゴン大学夏季講師をつとめ、同年日本建築学会委員となる。55年日本建築学会意匠研究部幹事、また、この頃より生田建築研究室を設置し建築設計にとりくむ。61年、東京大学教授に就任、大学院建築課程を兼任、同年、日本建築学会からイタリー、フランス、スエーデン、デンマークの建築視察に派遣される。65年、東京大学工学部都市工学科大学院講義を担当。67年には渋谷区神宮前に槐建築研究所を開設する。72年東京大学を停年退官し、同年東京大学名誉教授の称号を受け、また、槐建築研究所を生田勉都市建築研究所と改称する。76年には、アメリカ合衆国建国二百年記念学術会議に招かれ出席する。多くの建築作品とともに、建築評論家としても活躍し、ことにルイス・マンフォードの紹介者として著名で、訳書に『技術と文明』『歴史の都市・明日の都市』などがある。主要作品1956 栗の木のある家1960 芝立電気汁器本館1962 千葉県立館山ユースホステル1964 新渡戸記念館、上高地五千尺ロッジ1966 横浜市農業指導所1969 日本万国博覧会生活産業館1970 天竜市民体育館、同農林センター1977 桐生市文化センター1979 横浜市日吉地区センター、天竜市立中央公民館1981 盛岡市立武道館

高宮一栄

没年月日:1980/07/31

日展会員の高宮一栄は、7月31日脳いっ血のため東京都港区の自宅で死去した。享年78。1902(明治35)年3月11日福岡県門司市に生まれ、福岡県立門司高等女学校を経て同高女研究科を20年卒業した。岡田三郎助に師事し、36年以来毎年帝展、文展、日展等に出品、37年第1回新文展出品の「水郷の午後」では特選となった。そのほか戦前の作品には2回文展「蓮の実」、3回文展「炉辺」、奉祝展「山のいでゆ」、同4回「西瓜畑の朝」などがある。文展は42年より無鑑査出品となり、日展では49年招待となった。官展のほか光風会にも出品し、44年岡田賞を受賞した。光風会評議員、女流画家協会々員。作品は薄ぬりの絵具で、南画風の自由な描法に特色があった。独身で独り暮しをしていた。

根岸敬

没年月日:1980/07/29

一水会委員の根岸敬は、7月29日急性肺炎のため埼玉県毛呂山町の埼玉医大附属病院で死去した。享年65。1925年6月25日埼玉県秩父郡に生まれ、安井曽太郎に師事した。一水会及び日展に出品し、1959年一水会々員、同77年委員に推挙された。なお日展では第2回展出品の「二人」、第4回展「早矢」が特選となり、以後日展招待となり、ついで委嘱となった。また1980年記念切手童話シリーズの「赤トンボ」原画が絶筆となった。

丸尾彰三郎

没年月日:1980/07/24

日本彫刻史家、元文化庁文化財保護審議会専門委員丸尾彰三郎は、7月24日午後3時静脈血せん症のため、東京都文京区の自宅で死去した。享年87。1892(明治25)年9月4日岡山県に生まれ、1919(大正8)年東京帝国大学文科大学美学美術史科卒業、21(大正10)年文部省図書館員教習所講師、翌年文部省古社寺保存計画調査嘱託、30(昭和5)年帝国美術院附属美術研究所事務嘱託、その間に東京女子高等師範、東京女子大学、慶応義塾大学の講師をつとめ、32(昭和7)年生涯の事業であった文部省国宝鑑査官となり、46(昭和21)年9月まで任ぜられた。また33(昭和8)年重要美術品等調査委員会委員、36年同幹事、38年より39年にかけてドイツ国へ出張、ドイツ政府より「フェルディンスト・クロイツェル・シュソーファードレル」勲章を受けた。44(昭和19)年には勲六等瑞宝章に叙せられた。 戦後45(昭和20)年、文部省社会教育局に勤務、翌年文部技官、並びに国宝調査嘱託、48年国立博物館調査員、50年文化財保護委員会事務局美術工芸課に属し、56年退官、翌年文化財専門審議会専門委員、66(昭和41)年勲四等、68年文化財保護審議会専門委員となり74年まで任じた。74(昭和49)年11月勲三等瑞宝章を受章。 22(大正11)年、文部省古社寺保存計画調査嘱託として就任以来、なお草創期にあった日本全国の社寺の古彫刻を主とする文化財の調査と基礎的研究を行ない、南都七大寺大鏡その他の編著を遂げた業績は大きい。第二次大戦後は文化財専門審議会専門委員として長く国宝指定及び文化財保護に貢献した。日本彫刻史研究の基礎的な調査の成果は「日本彫刻史基礎資料集成」として66(昭和41)年より刊行され、没後も刊行が続いている。下記の主な編著書のほか、国華、美術研究、画説、国立博物館刊行誌、調査報告書等の論文・随筆等は100余を数えることが出来る。編著書南都七大寺大鏡 77輯 東京美術学校編(法隆寺は中川忠順著) 大正3年7月~昭和4年2月観世音寺大鏡 7冊 同上編 昭和4年7月~昭和5年8月当麻寺大鏡 1冊 同上編 昭和4年5月~昭和5年9月南都十大寺大鏡 27冊 同上編 昭和7年6月~昭和10年1月藤原時代の彫刻(特に定朝様式の成立とその製作について) 岩波書店・講座 昭和9年10月大佛師運慶(日本精神叢書36) 数学局 昭和13年3月日本国宝精華 日本精華社 昭和26年6月蓮華王院本堂千躰千手観音像修理報告書 妙法院 昭和32年3月「鎌倉」の彫刻(鎌倉国宝館論集第1冊) 鎌倉市教育委員会・鎌倉国宝館 昭和32年8月日本彫刻史基礎資料集成 平安時代・造像銘記篇(共著) 中央公論美術出版社 昭和41年6月~昭和46年2月

水船六洲

没年月日:1980/06/30

日展理事の彫刻家水船六洲は、6月30日午前2時20分脳出血のため東京都杉並区の阿佐ヶ谷病院で死去した。享年68。本名田中六洲。1912(明治45)年3月26日広島県呉市に生まれる。東京美術学校彫刻科卒業。36年文展鑑査展に「ウクレレを持つ女」を出品し初入選。41年の第4回文展「江川太郎左衛門」で特選となり、46年、47年、50年の日展でも特選となった。51年審査員をつとめ、60年、66年、70年、73年にも審査員、また62年からは評議員をつとめ、74年に日展理事となっている。木彫に絵画的な彩色を施す手法を用い、67年第10回日展の「燭明り」で内閣総理大臣賞を受賞、71年には前年の第2回改組日展に出品した「紡ぎ唄」により芸術院賞を受けた。古くは造型彫塑人会、造型版画協会などにも所属し、近年は日本彫塑会、日本版画協会の会員でもあった。また、36年に関東学院の教師となり、60年から77年まで同学院小学校校長をつとめ、教育面での尽力も大きい。出品歴1936年 文展鑑査展 「ウクレレを持つ女」1937年 第1回新文展 「鏡を持つ女」1938年 第2回新文展 「父」1939年 第3回新文展 「従軍看護婦像」1941年 第4回新文展 「江川太郎左衛門像」 特選1942年 第5回新文展 「神農像」1943年 文部省戦時特別美術展 「学徒挺身」1946年 第2回日展 「手套」 特選1947年 第3回日展 「草の葉」 招待 特選1948年 第4回日展 「少年の唄」1949年 第5回日展 「斧」 依嘱1950年 第6回日展 「光あれ」 特選1951年 第7回日展 「マリア・マグダレナ」 審査員1952年 第8回日展 「ヨブ記42章1-6」 依嘱1953年 第9回日展 「関東学院院長坂田祐先生像」 依嘱1954年 第10回日展 「立っている人」 依嘱1955年 第11回日展 「傘をさしている人」 依嘱1956年 第12回日展 「輪廻しをする子」 依嘱1957年 第13回日展 「烏」 依嘱1958年 第1回新日展 「月の暈」 会員1959年 第2回新日展 「白夜」1960年 第3回新日展 「蟲の王様」 審査員1962年 第5回新日展 「天使の椅子」 評議員となる。1963年 第6回新日展 「椅子の唄」1964年 第7回新日展 「馬頭」1966年 第9回新日展 「僧衣」 審査員1967年 第10回新日展 「燭明り」 内閣総理大臣賞1968年 第11回新日展 「指人形」1969年 第1回改組日展 「鳥の季節」1970年 第2回改組日展 「紡ぎ唄」 審査員、この作品により翌年芸術院賞受賞。1971年 第3回改組日展 「挽歌」1972年 第4回改組日展 「はつ雁抄」1973年 第5回改組日展 「魚座」 審査員1974年 第6回改組日展 「冬の旅」 理事

藤井令太郎

没年月日:1980/06/25

春陽会会員、武蔵野美術大学教授の洋画家横井令太郎は、6月25日午後4時5分直腸ガンのため東京都三鷹市の杏林大付属病院で死去した。享年66。1913(大正2)年9月18日長野市に生まれ、37年帝国美術学校(現武蔵野美術大学)油絵本科を卒業。戦後53年の第30回春陽会に「壊れた椅子」ほか2点を初出品し春陽会賞を受賞、翌年同会会員に推挙された。また54年第1回現代日本美術展に「椅子と影」「壁と椅子」、55年第3回日本国際美術展「不安定な椅子」「古風な椅子」、57年第4回日本国際美術展に「アッカドの椅子」(鎌倉近代美術館賞新人賞受賞)と、椅子をテーマにした作品を多く描いている。57年には日比谷図書館ロビーの壁画制作に加わる。一方55年より武蔵野美術大学教授をつとめるとともに60年渡欧、77年安井賞選考委員となった。主な作品は「アッカドの椅子」「ドンキホーテ」「壊れた椅子」「ピエロ達」など。

横井礼以

没年月日:1980/06/22

二紀会名誉会員の洋画家横井礼以は、6月22日肺炎のため名古屋市千種区の自宅で死去した。享年93。本名礼一、初号礼市。1886(明治19)年10月1日愛知県海部郡に生まれ、三重県立第二中学卒業後上京、白馬会洋画研究所に学び、1908年東京美術学校西洋画科に入学、12年に卒業する。14年第8回文展に「遊歩場」が初入選、翌年の第9回展に「水浴の後」が入選するが、17年から二科展に出品し、19年第6回二科展に「王麥の畑」「向日葵」など5点を出品して二科賞を受賞、23年に二科会会員に推挙される。28年眼疾のため名古屋に移住、30年に緑ケ丘洋画研究所を起す。戦前の二科展出品作には、「高田馬場郊外風景」(第8回)「室内静物」(第12回)「河鹿」(第29回)などがある。戦後の47年、熊谷守一、宮本三郎ら旧二科会員九名と第二紀会(のち二紀会)を創立、以後同会委員として運営並びに制作発表を行う。50年、中日文化賞を受賞、54年には眼疾快癒を機に号を礼市から礼以と改める。60年に「横井礼以自選画集」(三新社)を刊行、67年には勲四等瑞宝章を受章する。77年、れい夫人の死去と同時に「孤独と不安の明るい自画像」を完成、これが二紀会最後の出品となる。二紀会初期の出品作に、「正月」(第2回)「姉妹」(第5回)「姥子」(第10回)「水の侵触」(第12回)などがある。眼疾に病されながらも、ぼうようとした俳画的な作風に独自な展開を示した。

富永惣一

没年月日:1980/06/14

学習院大学名誉教授、元国立西洋美術館長の美術評論家、美術史家の富永惣一は、6月4日心筋硬ソクのため東京都新宿区の自宅で死去した。享年77。1902(明治35)年9月18日東京市本所区に生まれ、学習院初等科、中等科、高等科を経て、23年東京帝国大学文学部フランス文学科に入学したが、翌年美学美術史学科に転じ、26年に卒業後同大学大学院へ進む。27年学習院講師、29年学習院教授となり、翌30年新設の帝国美術院付属美術研究所嘱託を兼ねる。31年から33年まで、宮内省在外研究員として留学しフランスをはじめ欧米各地で研鑚を重ねる。帰国後、翻訳、西洋美術紹介の著述、並びに美術評論活動を展開、啓蒙的役割をはたす。この間、東京美術学校、大正大学の教壇にも立つ。戦後は、49年、学習院大学設立とともに文学部教授に就任、57年からは同大文学部長をつとめ、この間、多摩美術大学、日本大学文学部、早稲田大学文学部、女子美術大学でも教え、54年には創立された日本美術評論家連盟の初代会長に就任する。以後美術の国際交流につとめ、ヴェネツィア・ビエンナーレ展国際審査員に二回選ばれる。59年、新設の国立西洋美術館の初代館長に就任、旧松方コレクションの管理、西洋美術作品の収集につとめるとともに、ミロのビーナス展、ロダン展など積極的な展覧会活動を行った。68年、同館購入作品の真贋問題が国会で追及された責任をとって辞任したが、同年開催の大阪万国博覧会の美術展示プロデューサー、並びに万博美術館長をつとめる。また、同年から共立女子大学教授となった。69年、仏政府からシュヴァリエ・ド・ラ・レジォン・ドヌール勲章を受章、74年には勲二等瑞宝章を受ける。この他、国立西洋美術館評議員、国立近代美術館評議員、ブリヂストン美術館運営委員、出光美術館評議員、日仏協会理事、日伊協会評議員をはじめ、数多くの要職を兼ねた。主要著述目録著作セザンヌ(西洋美術文庫) 1940 アトリエ社セザンヌ(アルス美術文庫) 1945 アルスセザンヌ(アテネびじゅつ文庫) 1952 弘文堂セザンヌ(アート・ブックス) 1955 講談社セザンヌ・モディリアーニ(現代世界美術全集4) 1965 河出書房セザンヌ(ファブリ世界名画集31) 1969 平凡社セザンヌ・ゴッホ・ゴーガン(世界の名画1) 1970 ほるぷ出版社ギリシア彫刻 1941 アトリエ社ギリシアの彫刻(みづえ文庫) 1951 美術出版社ギリシア彫刻 1954 人文書院ロダン 1945 雄山閣ピカソ-現代絵画論(岩波新書) 1954 岩波書店ドラクロワの素描 1944 創芸社美術随想 1945 創芸社ブラック(アート・ブックス) 1955 講談社ピカソ(アート・ブックス) 1955 講談社マティス(アート・ブックス) 1955 講談社美と感覚 1956 朝日新聞社西洋美術館 1956 修道社19世紀の絵画(美術ライブラリー) 1956 みすず書房ファン・ゴッホ 1959 読売新聞社印象派1・2 1961 みすず書房世界の美術 1963 階成社ルノワール(世界の美術) 1963 河出書房ルノワール(現代世界美術全集19) 1969 集英社ルノワール(現代世界美術全集普及版) 1970 集英社ルノワール(アート・ライブラリー) 1972 鶴書房近代絵画(カラー・ブックス) 1963 保育社近代1(世界美術全集35西洋11) 1963 角川書店現代美術(世界美術大系24) 1960 講談社マネ・モネ(現代世界美術全集1) 1966 河出書房オーギュスト・ロダン 1969 読売新聞社ロダン・ブールデル(現代世界美術全集5) 1971 集英社ルオー(世界美術全集19) 1969 河出書房マネ(ファブリ世界名画集26) 1970 平凡社ボナール(ファブリ世界名画集41) 1970 平凡社ジュリコー(ファブリ世界名画集86) 1971 平凡社ヴラマンク(ファブリ世界名画集96) 1972 平凡社棟方志功(アート・ブックス) 1956 講談社梅原龍三郎(日本近代絵画全集12) 講談社翻訳コリニヨン・パルテノオン 1930 岩波書店ヴァザーリ美術家伝 1943 共訳 隈元謙次郎 新規矩男 山田智三郎 青木書店 改版万里閣スタンダール・イタリア絵画史 1943 共訳 吉川逸治 河出書房ルオーの手紙 1972 共訳 安藤玲子 河出書房新社編者ヨーロッパ・近世(図説世界文化史大系) 1959 共編 柴田三千雄 角川書店ヨーロッパ・近代(図説世界文化史大系) 1959 共編 村瀬興雄 角川書店現代美術(日本美術大系) 1960 講談社近代2(世界美術全集36 西洋12) 1961 角川書店現代の絵画1 1938 小学館ルーブル美術館 1964 講談社イスタンブール美術館 1971 講談社原色世界の美術1(フランス) 1968 小学館エルミタージュ美術館 1970 恒文社

米原二郎

没年月日:1980/06/09

独立美術協会会員の洋画家米原二郎は、6月9日心不全のため東京都目黒区で死去した。享年68。1912(明治45)年2月26日大阪市に生まれる。独立美術協会美術研究所創設時に学び、須田国太郎に師事する。38年第8回独立展から出品し、以後同展に出品を続ける。61年に中南米を経てヨーロッパに遊学、パリのサロン・ドートンヌにも出品する。63年と翌年の第31、32回の独立展に「屋根と煙突」と「屋根と壁」他で連続独立賞を受賞、65年に独立美術協会会員に推挙される。68年から翌年にかけて中南米、北米に、73年にはコルシカ島に取材旅行を行う。独立展の他、東京、大阪、静岡、秋田で73年以降毎年個展を開催する。

渡辺浩三

没年月日:1980/06/08

日展参与、東光会委員の洋画家渡辺浩三は、6月8日午後8時34分。脳出血のため熊本市の熊本大学付属病院で死去した。享年82。1897(明治30)年8月9日秋田県仙北郡に生まれ、1917年京城中学校を卒業、24年東京美術学校西洋画科を卒業した後、6年間パリに留学しロジェ・ビシェールに師事した。帰国後の30年「静物」が帝展に初入選、翌年の第8回槐樹社展で槐樹賞を受賞した。33年の第1回東光展で東光賞を受賞し翌年会員、34年第15回帝展で「室内」が特選となる。以後、文展・日展・東光会を中心に出品を続け、また43年には大潮展審査委員、46年日本アンデパンダン展創立準備委員もつとめている。戦後、日展では47年から73年までの間に5度審査員をつとめ、49年から依嘱出品、58年に会員、64年評議員、74年参与となった。この間、52年秋田市立工芸美術学校校長に就任、56年から岡山大学教育学部教授をつとめ、63年から翌年にかけ主にフランス・スペインを旅行している。静物画を得意とし、主要作品は上記のほか「扇を持てる女」(27年)「リュー・エルヌの横町」(29年)「楽器のある静物」(79年)「椅上静物」(80年)など。日展出品目録1930 第11回帝展 「静物」1931 第12回帝展 「静物」1932 第13回帝展 「微睡」1933 第14回帝展 「横臥せる裸婦」1934 第15回帝展 「室内」1937 第1回新文展 「草上」1938 第2回新文展 「静物」1939 第3回新文展 「静物」1940 紀元2600年奉祝美術展 「静物」1941 第4回日展 「盛夏静物」1943 第6回日展 「晩夏静物」1947 第3回日展 「静物」 審査員1949 第5回日展 「静物」 依嘱出品1950 第6回日展 「初秋静物」 依嘱出品1951 第7回日展 「静物」 依嘱出品1952 第8回日展 「裸婦」 依嘱出品1853 第9回日展 「静物」 依嘱出品1954 第10回日展 「静物」 依嘱出品1955 第11回日展 「日向葵」 審査員1956 第12回日展 「朝顔」 依嘱出品1957 第13回日展 「静物」 依嘱出品1958 第1回新日展 「静物」 会員1959 第2回新日展 「卓上静物」 会員1960 第3回新日展 「紫陽花」 会員1961 第4回新日展 「静物」 会員1962 第5回新日展 「静物」 審査員1963 第6回新日展 「静物」 会員1964 第7回新日展 「静物」 評議員1965 第8回新日展 「静物」 評議員1966 第9回新日展 「静物」 評議員審査員1967 第10回新日展 「鏡のある静物」 評議員1968 第11回新日展 「卓上提琴」 評議員1969 第1回改組日展 「卓上提琴」 評議員1970 第2回改組日展 「静物」 評議員1971 第3回改組日展 「静物」 評議員1972 第4回改組日展 「六月の花」 評議員審査員1973 第5回改組日展 「静物」 評議員1974 第6回改組日展 「静物」 参与1975 第7回改組日展 「静物」 参与1976 第8回改組日展 「卓上提琴」 参与1977 第9回改組日展 「卓上提琴」 参与1978 第10回改組日展 「椅上提琴」 参与1979 第11回改組日展 「楽器のある静物」 参与1980 第12回改組日展 「青・黄・ブラウン(遺)」

江口良

没年月日:1980/06/01

独立美術協会会員の洋画家江口良は、6月1日脳出血のため東京都中野区の小原医院で死去した。享年53。本名良晴。1926(大正15)年10月1日、佐賀県佐賀郡に生まれ、48年佐賀師範学校を卒業。唐津市で教職につくが、間もなくレッドパージで辞職、50年に上京し、その後鈴木保徳に師事する。53年、第21回独立展に「自画像」が初入選。以後同展に出品を続ける。58年第26回独立展に出品した「作品E」「作品C」で独立賞を受賞、60年第28回展に「Module(28)」等を出品、61年独立美術協会会員となる。同年、同志とアールヌーボォを結成し第1回展に「沈黙の彼方」を出品するが、63年退会する。その後の独立展出品作に、「警的鳴らせ」(33回)、「変な男」(36回)、「灯台のある風景」(39回)、「白い旋律のある岩場」(41回)、「入江」(46回)、「双子山」(48回)などがある。また、65年「卍」展(クリスタル画廊)、73年「海と花と山高帽」展などの個展を開催する。79年には一艸会を結成する。

森白甫

没年月日:1980/05/27

日本芸術院会員、日展参与の日本画家森白甫は、5月27日午後1時15分気管支炎のため東京都新宿区の聖母病院で死去した。享年81。1898(明治31)年7月6日、日本画家森白畝の長男として東京浅草に生まれた。本名喜久男。父に早く死別し、1916年荒木十畝の画塾読画会に入門、粉本模写の修行から厳格な伝統技法を学び、花鳥画家としての基礎を作った。23年の平和博に「暖日」が入選、25年第6回帝展に「巣篭る鷺」が入選し東伏見宮家買上げとなった。その後入選を続け、31年第12回帝展「海辺所見」、33年第14回帝展「池心洋々」が特選、39年、41年、43年には審査員をつとめた。42年に多摩造型芸術専門学校(現多摩美術大学)の教授となり、68年退職まで教鞭をとった。44年の大患、45年の戦災を経て戦後活動を再開、46年、48年、49年と審査員を重ね、50年から参事をつとめる。この間47年に著作『日本画の新技法』(小笠書房)を刊行、54年第10回日展の「魚と貝」は芸術院賞候補となりながら選に洩れたが、翌55年第11回日展「虹立つ」が玉堂賞買上げ、そして57年第13回日展出品作「花」が芸術院賞を受賞した。58年から評議員となり、審査員を幾度かつとめながら、69年改組日展より監事、71年より理事を歴任、75年に参与となった。伝統技法を基礎に清新な色調を見せる花鳥画を得意とし、主要作品に日展特選、芸術院賞受賞作のほか「憩」(78年)などがある。76年に勲四等旭日小綬章、80年に勲三等瑞宝章受章、78年より日本芸術院会員。 略歴1898年 7月 6日東京浅草に生まれる。1916年 荒木十畝に入門。1922年 平和記念東京博覧会「暖日」入選1925年 第6回帝展 「巣篭る鷺」初入選、東伏見宮家買上。1926年 第7回帝展 「丹頂」1928年 第9回帝展 「塘池新秋」1929年 第10回帝展 「鵜」1930年 第11回帝展 「海老」1931年 第12回帝展 「海辺所見」 特選1932年 第13回帝展 「禽舎の秋」 無鑑査1933年 第14回帝展 「池心洋々」 特選1934年 第15回帝展 「海浜小景」1936年 文展招待展 「飛鴨」1938年 第2回新文展 審査員1939年 第3回新文展 「錦鱗」 審査員1940年 台湾総督府展に審査員として渡台1941年 第4回文展 審査員1942年 第5回文展 「磯」 無鑑査、多摩造型芸術専門学校(現多摩美大)教授となる(68年退職)。1943年 第6回文展 「爽朝」 委員、審査員1944年 大患1946年 日展審査員1947年 第3回日展 「麥雨」 審査員小笠書房より『日本画の新技法』発行。1948年 第4回日展 「潜鱗」 招待1949年 第5回日展 審査員1950年 第6回日展 「水辺」 審査員、参事となる(57年まで)。1951年 第7回日展 「夏日影」1952年 第8回日展 「魚槽」 審査員1953年 第9回日展 「夕紅」外務省よりの依頼制作 「果樹」。1954年 第10回日展 「魚と貝」1955年 第11回日展 「虹立つ」 審査員、玉堂賞買上。1956年 第12回日展 「白鳥」1957年 第13回日展 「花」 芸術院賞受賞(58年)1958年 第1回新日展 「松」 審査員、評議員となる(68年まで)。1960年 第3回新日展 「磯」1961年 第4回新日展 「泳」 審査員1962年 第5回新日展 「流氷」1963年 第6回新日展 「うつる」1964年 第7回新日展 「沼」1965年 第8回新日展 「椿樹」 審査員1966年 第9回新日展 「花と鳥」1967年 第10回新日展 「苑」1968年 第11回新日展 「映」1969年 第1回改組日展 「魚礁」 監事となる(70年まで)。1970年 第2回改組日展 「★」1971年 第3回改組日展 「海の華」 審査員、理事となる(74年まで)。1972年 大患1973年 第5回改組日展 「浜に咲く」1974年 第6回改組日展 「海けむる」1975年 第7回改組日展 「漾」 参与となる。1976年 第8回改組日展 「群」勲四等旭日小綬章受章。1977年 第9回改組日展 「樹」1978年 第10回改組日展 「憩」1980年 勲三等瑞宝章受章。

池島勘治郎

没年月日:1980/05/24

独立美術協会会員の洋画家池島勘治郎は、5月24日脳出血のため大阪市天王寺区の大阪警察病院で死去した。享年82。号超軒。1897(明治30)年11月12日大阪市東区に生まれ、1912年大阪府立市岡中学を卒業。独学で洋画を始め、33年第3回独立展に「手袋と鉢」で初入選、以後同展へ出品を続ける。34年に関西水彩画会を結成する。44年第14回独立展に「救護訓練」「土と闘ふ」を出品して独立賞を受賞、47年第15回独立展に「西横堀」「復興の街」を出品し準会員、翌年の第16回展に「曇日」を出品し会員にそれぞれ挙げられる。また、67年、第35回展に「ががく・けんじゃらく」「ががく・えんぎらく」を出品し、G賞を受賞する。この頃から舞楽などをモチーフに、東洋的な幽玄な世界を抽象的水彩画で表現する特異な画風を展開した。

渡瀬凌雲

没年月日:1980/05/17

日本画家で日本南画院副理事長の渡瀬凌雲は、5月17日午後7時20分脳イッ血のため、京都市東山区の京都第一日赤病院で死去した。享年75。1904年7月9日長野県下伊那郡に生まれ、本名幸成。6歳の時に大平小洲に南画の手ほどきを受け、10歳で山本梅荘に師事、根羽尋常小学校高等科を卒業後上京し、福田浩湖塾に入門した。錦城中学・正則英語学校に通いながら那智左典に漢学を学び、25年には京都の福田静処翁に和漢文学・詩書を学ぶ。30年菁莪会研究所に入り、33年第14回帝展に「河口」が初入選したが、以後は日本南画院を中心に出品する。37年京都市美術展「南紀佐野村」で京都市長賞を受賞、39年中国へ写生旅行している。46年同志と南画院(日本南画院は40年大東南宗院となる)を結成し、同展や日本南画壇展に出品を続けた。58年から59年にかけてアメリカを写生旅行しながら各地で個展を開催、帰国後の60年、社団法人日本南画院を結成し理事に就任した。62年「残照グランド・キャニオン」が桂月賞を受賞し、常務理事、審査員となり、73年から副理事長をつとめていた。主な作品は、上記のほか「新秋」(36年)「雲龍図」(天龍寺山内慈済院開山堂天井画、59年)「吉野熊野山海図巻」(79年)など。 略年譜1904 7月 9日、長野県下伊那郡に生まれる。1910 大平小洲(渡辺小華門)に南畫の指教を受け、雅号を凌雲とする。1914 山本梅莊の門に入る。1919 根羽尋常高等小学校卒業、東京に出て福田浩湖塾に入る。漢学を那智左典氏に学び、錦城中学校及び正則英語学校に通う。1920 日本南宗畫會に「松籟泉韻」を出品。1925 京都の古道人福田静処翁に和漢文学、詩書を学ぶ。1930 菁我会研究所に入る。1932 日本南畫院に「暮」出品。1933 帝国美術院「河口」初入選、日本南畫院「漁磯」出品。1934 日本南畫院「古座峡」出品。大禮記念、京都市美術館記念展に「宿雨收」招待出品。1935 帝国美術院「那智瀑」、日本南畫院「鬼橋」、京都市美術展「秋渉」出品。1936 文展「新秋」。1937 京都市美術展「南紀佐野村」京都市長賞。東北地方、北海道写生旅行。1938 日本新興南畫院同人として「南紀鹿島」出品(此年より文展不出品)。1939 中国を写生旅行。1940 日本南畫院解編大東南宗院となる。1945年迄戦時美術展等出品。1943 朱陽會を組織。1946 京都市展「新宮河口」出品。同志と南畫院結成、東京都美術館に第1回展開催「磨崖」出品。1947 第2回南畫院展を東京、京都に開催「那智春望」出品。1948 第3回南畫院展「三尾秋色」出品。1949 現代美術展「滴翠」、第4回南畫院展「日吉三橋」出品。1950 シカゴ美術館東洋部に水墨作品3点納入。1951 第6回南畫院展「鷹ケ峯夜雪」出品。1953 第9回日展に「秋立つ春日野」出品。1954 第8回南畫院展「春日神苑」出品。1955 第9回南畫院展「越中五箇山風景」出品。1956 南畫院創立10周年記念展「寒巌夕照」出品。1957 第3回日本南畫壇展「湖國」出品。1958 第4回日本南畫壇展「曹源池」「龍頭溪」出品。11月渡米、ロスアンゼルス市にて個人展を開催。1959 米国各地で個展開催、9月帰国。天龍寺山内慈済院開山堂天井に「雲龍図」を画く。1960 第6回日本南畫壇展「ナイアガラ瀑布」出品。社団法人日本南畫院結成、理事に就任。1961 第1回日本南畫院展「瀞峡」奨励賞。1962 第2回日本南畫院展「残照グランド・キャニオン」桂月賞。常務理事、審査員に就任。第1回国際墨画展「晃山雨霽」出品。1963 第3回日本南畫院展「那智瀑底」。戸隠、妙義山、黒姫山等写生旅行。1964 第4回日本南畫院展「妙義晩照」。1965 第5回日本南畫院展「春林」。東北、關東、伊勢等写生旅行。1966 第6回日本南畫院展「飛瀑朝宗」(文部大臣賞)「雲煙戸隠」。雲林社を主宰。1967 南林社を結成。第7回日本南畫院展「潮岬」。1968 第8回日本南畫院展「宿雨收」、併催の日本水墨画展を第二部と改称し、本展を第一部とする。九州写生旅行。1969 第9回日本南畫院展「普陀洛迦」。金沢、白山方面写生旅行。1970 第10回日本南畫院展「古都春雪」。岡山等写生旅行。1971 第11回日本南畫院展「豪溪春深」。四国写生旅行。1972 第12回日本南畫院展「吉野」。1973 第13回日本南畫院展「大台ケ原」 副理事長、審査員に就任。和歌山県文化功労賞を受賞。北陸を写生旅行。1974 第14回日本南畫院展「フォロ・ロマーノ(羅馬遺跡)」。山陰を写生旅行。1975 第15回日本南畫院展「仙境熊野」。1976 第16回日本南畫院展「雪原(ミシシッピー源流)」。木曾川方面写生旅行。1977 第17回日本南畫院展「楓林朝陽」。欧州写生旅行。1978 第18回日本南畫院展「晨映」。1979 第19回日本南畫院展「吉野熊野山海図巻 其一」。養命寺に障壁画「牡丹と唐獅子」を寄進。中國写生旅行。1980 第20回日本南畫院展「黄山玉屏峰」。5月17日永眠。第14回南林社展に「唐陶一彩」を出品。(渡瀬道子編略年譜参照)

稲垣知雄

没年月日:1980/05/14

国画会会員、日本版画協会名誉会員の稲垣知雄は、5月14日午後4時50分、脳シュヨウのため東京女子医大病院で死去した。享年77。1902(明治35)年9月4日東京に生まれる。1924年に大倉高等商業学校を卒業した後、恩地孝四郎、平塚運一に版画を学び、日本創作版画協会展に出品、この間「乙女橋」「黄色い花」などを発表し、32年同協会会員となった。30年12月、商業美術家協会研究所に入り、修了後図案社を開業、その後京北商業高校、広告美術学校などで教鞭をとった。戦後47年の第21回展から国画会展にも出品し、東京国際版画展やスイス・ルガーノ国際版画展など国際展への出品も多い。国際版画協会の設立メンバーで、主な作品は「歩く猫」(53年)「猫の化粧」(55年)「尾長猫」(58年)など。猫を好んで描いた

鈴木新夫

没年月日:1980/05/10

新制作協会会員の洋画家鈴木新夫は、5月10日喉頭ガンのため東京都板橋区の日大板橋病院で死去した。享年65。1915(大正4)年3月17日、福島県平市に生まれ、福島県立磐城中学を経て、東京美術学校に入学し南薫造に師事、36年同校図画師範科を卒業する。翌年第2回新制作協会展に「標本のある静物」を出品、以後同展に出品を続け、44年新制作協会協友となる。47年、第11回新制作展に「機関車」「筏のある風景」「河岸」を出品し、新制作協会賞を受賞、同年、第1回美術団体連合展に出品する。48年、新制作協会新人選抜七人展に出品、同年鳥井敏文らと研究団体ユマニテを結成する。55年、新制作協会会員に推挙される。58年、現代写実百人展に出品、67年、具象画家40名による新具象研究会の結成に参加、71年まで研究会誌「画家」(季刊)を16号まで発行する。71年からは三月会展に第5回展まで出品する。この間、49年以来しばしば個展を開催、75年の第1回以来、新制作精鋭選抜展にも出品を続ける。また、74年には、第33回新制作展出品作「働く人」が福島県美術博物館に収められる。新制作展への出品作に、「赤い鉄骨」(19回)、「狭い家」(29回)、「誕生」(39回)、「うずくまる人」(41回)などがある。

楽吉左衛門〔14代目〕

没年月日:1980/05/06

無形文化財技術保持者の楽焼十四代家元、楽吉左衛門は、5月6日午後7時49分肺ガンのため京都市西京区の京都桂病院で死去した。享年61。1918(大正7)年10月31日京都市上京区に生まれ、幼名は喜慶。京都三中を卒業後東京美術学校に入学、ここでは彫刻を学び40年同校彫刻科を卒業している。41年応召し出征、44年に十三代の父惺入が没したため、終戦後帰還するとともに十四代吉左衛門を襲名した。 楽焼は、天正年間(1573-92)に千利休の指導を受けて瓦師長次郎が始めた製陶法で、萩焼・唐津焼とともに代表的な和物とされる。主として茶器(特に茶碗)が多く、ロクロを使わず手捏や型造で形を作り素焼きする軟陶質の焼物である。黒楽・赤楽は素焼きにそれぞれ黒釉・赤釉を塗り重ねて焼いたもので、他に白楽や交趾釉と同様の緑釉・鉄釉を施したもの、素焼きのものなどがある。製作工程はただ一人で行なわれ、楽焼が初代から十四代まで楽家一軒によって伝承されてきたことも特徴的である。楽家以外の窯は脇窯(玉水焼・大樋焼・長楽など)と呼ばれ本阿弥光悦の楽焼茶碗などもこれに含まれる。 十四代吉左衛門は襲名後、60年京都伝統陶芸作家協会創立に参加し副会長に就任、その後、楽代々展(67年、三越)人間国宝と巨匠展(72年)一楽二萩三唐津展(75年)西ドイツ巡回日本陶磁名品展(78年)などに出品し、71年にはイタリア・フランス・スペインを旅行している。楽焼の技法保持者として文化庁から無形文化財に指定されたのは、78年3月。主な作品は「黒楽茶碗」「赤楽茶碗」「赤千羽鶴食篭」「赤砂四方水差」「緑釉三角花挿」などで、黒茶碗・赤茶碗に使う砂釉に独自の技法を編み出した。

志村立美

没年月日:1980/05/04

挿絵画家として活躍した志村立美は、5月4日急性肝炎のため東京新宿区の目白病院で死去した。享年73。群馬県に生まれ、神奈川県立工業図案科修業後、美人画家山川秀峰に師事した。大正時代末期から講談社などの雑誌のさし絵で活躍、ながいまつ毛、うるんだ瞳の麗人像などに特色を示し戦前の一時期流行児として人気があった。鏑木清方門の伊東深水、山川秀峰などの塾展である青衿会や、戦後の美人画団体日月社展等に美人画を出品していた。出版美術家連盟会長、元日本作家クラブ副理事長。

北村正信

没年月日:1980/04/22

日展参与の彫刻家北村正信は、4月22日午前2時10分老衰のため東京都杉並区の自宅で死去した。享年91。1889(明治22)年1月3日新潟県西頚城郡に生まれ、太平洋画会で彫刻を学ぶ。制作期間が長く、1911年第5回文展に「炭臺の男」が初入選して以来、極めて旺盛な制作意欲により78年の第10回日展まで出品を続けている。18年第12回文展で「ひかり」が特選となり、翌年から無鑑査出品となった。また22年を最初として62年までたびたび審査員をつとめ、55年から57年まで参事、58年からは評議員となり、74年以後参与をつとめた。主な作品は、前述「ひかり」、文部省買上げとなった36年文展招待展出品「羞恥」、51年第7回日展「ポーズ」、日比谷公会堂内の「安田善次郎像」など。出品歴1911年 第5回文展 「炭臺の男」 初入選1912年 第6回文展 「鍛工」1913年 第7回文展 「女労働者」1914年 第8回文展 「絶望」1915年 第9回文展 「髪」三等賞受賞、「花の精」1916年 第10回文展 「希望」1917年 第11回文展 「若い女」「闇の力」1918年 第12回文展 「ひかり」 特選1919年 第1回帝展 「花のしづく」 無鑑査1920年 第2回帝展 「蝶の夢」1921年 第3回帝展 「某氏の母」「浴後」 無鑑査1922年 第4回帝展 「夢」 審査員1924年 第5回帝展 「女」「越壽三郎氏の像」 委員1925年 第6回帝展 「曙光」「岡崎氏の像」 委員1926年 第7回帝展 「春のささやき」「あこがれ」 委員1927年 第8回帝展 「水のほとり」 委員1928年 第9回帝展 「新緑」 無鑑査1929年 第10回帝展 「凝視」1930年 第11回帝展 「春の作1930年」 審査員1931年 第12回帝展 「髪」1932年 第13回帝展 「つぼみ」1933年 第14回帝展 「静寂」 審査員1934年 第15回帝展 「髪をまく女」1936年 文展招待展 「羞恥」1937年 第1回新文展 「みのり」 無鑑査1938年 第2回新文展 「髪を洗ふ女」 審査員1939年 第3回新文展 「光を浴びて」 無鑑査1942年 第5回新文展 「夢」 無鑑査1946年 第1回日展 「かげ」1946年 第2回日展 「手鏡」 審査員1947年 第3回日展 「よあけ」招待、審査員1948年 第4回日展 「湖畔」 依嘱1949年 第5回日展 「みのりの秋」 依嘱1950年 第6回日展 「女性」 依嘱1951年 第7回日展 「ポーズ」 依嘱1952年 第8回日展 「凝視」 審査員1953年 第9回日展 「山脇先生像」 依嘱1954年 第10回日展 「浴後」 依嘱1955年 第11回日展 「早春」 審査員、この年より参事。1956年 第12回日展 「こかげ」1957年 第13回日展 「陽光」1958年 第1回新日展 「薫風」審査員、この年より評議員。1959年 第2回新日展 「朝」1960年 第3回新日展 「あけぼの」1961年 第4回新日展 「想」1962年 第5回新日展 「姿」 審査員1963年 第6回新日展 「裸婦」1964年 第7回新日展 「砂丘」1966年 第9回新日展 「髪」1967年 第10回新日展 「みどり」1968年 第11回新日展 「蔭」1969年 第1回改組日展 「初夏」1970年 第2回改組日展 「渚」1971年 第3回改組日展 「さわやか」1972年 第4回改組日展 「夕ぐれ」1973年 第5回改組日展 「浴後」1974年 第6回改組日展 「夏の日」、この年より参与となる。1975年 第7回回組日展 「シャワーのあと」1976年 第8回改組日展 「初秋」1977年 第9回改組日展 「水かがみ」1978年 第10回改組日展 「時のながれ」

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