本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





中尾進

没年月日:1971/06/08

新制作協会洋画部会員で時代小説の挿絵でも活躍した中尾進は、6月8日、癌性腹膜炎のため東京・阿佐谷の河北病院で死去した。享年55才。中尾進は、本名鈴木益吉、大正5年(1916)5月27日、栃木県宇都宮市に生まれ、栃木県安蘇郡植野村尋常高等小学校を卒業、川端画学校、本郷研究所で学び、昭和15年(1940)荻須高徳に師事し、翌16年新制作派6回展に「古い家」が初入選した。翌17年5回文展に「日和」入選、同18年以後は新制作展に出品をつづけ、昭和21年(1946)10回展に「敗屋」「本郷湯島附近」「松坂屋のみえる風景」を出品して新作家賞をうけ、同31年(1956)「座す」「鳩」を出品。新制作協会会員に推薦され、昭和39年4月~7月欧米を旅行した。昭和30年(1955)前後から新聞雑誌の挿絵を描きはじめ、柴田錬三郎作「乱世流転記」(京都新聞)、司馬遼太郎作「城塞」(週刊新潮)など多くの時代小説の挿絵を担当した。その他、油彩作品には、「信濃の道」(昭和18)、「工場」「四谷駅」(同24)、「話」「鏡」(同26)、「生」(同28)、「滑走路」「赤い椅子の夢」「NOA NOA」(同30)、「弱法師」(同34)、「白」「黄」「赤」(同37)、「アクロポリス」(同39)、「風の影」「イスパニア」「黒い陽」(同40)などがある。

飯島敏三

没年月日:1971/06/04

一水会々員、日本水彩画会々員の飯島敏三は、6月4日あたかも銀座・銀彩堂にて前年に引続いての第2回目の個展開催中、心筋梗塞のため急逝した。享年59歳。明治45年1月4日埼玉県に生れ、昭和18年東京高等師範学校研究科を卒業した。まず水彩画からはじめ、昭和21年第10回大潮展特選、同25年第38回日本水彩画会展で受賞し、翌年第39回同展で水彩画会賞を受けると共に会員に推挙された。同34年一水会展で佳作賞を受け同36年一水会々員に推挙された。田崎広助に師事、日展には昭和26年初入選以来同45年まで10回の入選を重ねた。油絵、水彩共に穏健な写実的風景画に特色を示した。

剣持勇

没年月日:1971/06/03

インテリアデザイナーの剣持勇は、昨秋来抑うつ症にかかっていたが、6月3日東京都新宿区の剣持デザイン研究所二階所長室でガス自殺を遂げた。明治45年1月2日東京に生れ、昭和7年東京高等工芸学校木材工芸科(現千葉大学工学部)を卒業、直ちに商工省工芸指導所に入所した。同19年同所技師となり、同21年東京支所木工課となった。同27年産業工芸試験所意匠部長、同29年には日本ユネスコ国内委員会調査員に併任された。翌30年には工芸試験所を退職し、剣持デザイン研究所を設立した。同研究所は32年株式会社剣持勇デザイン研究所として発足、現代インテリアデザイン界の指導的地位にあって活躍した。また受賞も多く昭和33年ブラッセル万国博覧会日本館に対し、前川国男等と金賞を受け、同38年には第9回毎日産業デザイン賞、翌年ニューヨーク近代美術館20世紀デザインコレクションに「籐丸椅子」が選定された。そのほか、イタリアイエロドームス賞(昭44)、第15回毎日産業デザイン賞(45年)、日本インテリアデザイナー協会協会賞(昭46)などがある。主要作品昭和33年 香川県庁舎各室 家具昭和35年 ホテル・ニュー・ジャパン 内装、家具昭和36年 戸塚カントリークラブ 内装、家具昭和38年 北海道拓殖銀行丸の内支店 家具、展示昭和39年 京王百貨店全店 内装、家具昭和41年 国立京都国際会館 家具昭和43年 霞ケ関東京会館 内装、家具昭和43年 B-747(日航) 内装昭和46年 ライオン油脂K.K.内装、家具昭和46年 京王プラザホテル 内装、家具

平松宏春

没年月日:1971/06/02

彫金工芸家、日展評議員の平松宏春は、6月2日午前9時40分、前立せんガンのため関西電力病院にて死去した。享年75歳。明治29年1月7日兵庫県に生れ、本名礼蔵。彫金家桂光春に師事。昭和9年帝展初入選、以来戦後の日展工芸部有数の作家として毎年作品発表を重ねた。26年特選、29年日展審査員をはじめ、関西総合美術展、大阪府・市展など審査員をつとめること数回に及んだ。格調の高い作柄は宮内庁の買上にもなり、天皇皇后両陛下、東宮御所、常陸宮家への献上品となった。現代工芸美術家協会参与、大阪芸術大学教授をつとめた。大阪府芸術賞を受け、池田市名誉市民にあげられていた。

山口蓬春

没年月日:1971/05/31

日本画家山口蓬春は、5月31日肝臓障害のため、神奈川県葉山の自宅で死去した。享年77才。本名三郎、明治26年10月15日北海道松前市に生れ、大正3年東京美術学校西洋画科に入学し、同7年同校日本画科に転向、同12年卒業した。翌年松岡映丘の主宰する新興大和絵運動に参加し、この年第5回帝展に「秋二題」が初入選となった。翌年の「神苑春雨」についで出品した第7回帝展の「三熊野の那智の御山」が特選となり、帝国美術院賞となって一躍その名を知られるに至った。昭和2年第8回帝展出品の「緑庭」もつづいて特選となり、昭和3年第9回で推薦、翌4年審査員となった。また昭和6年7月には、中村岳陵、福田平八郎、横川毅一郎らと友交を主とする研究団体六潮会を結成した。昭和25年日本芸術院会員となり、同40年には文化勲章を受領した。作品は、復古大和絵調から次第に洋風表現に傾き、昭和7年第13回帝展「市場」にみられるような機知に富んだ近代感覚溢れる作品を生むに至っている。戦後は、斯様な傾向が更に助長され、明快な描写と色彩で、大和絵を見事現代に生かした蓬春芸術の本領を発揮した。代表作に「三熊野の那智の御山」「市場」「榻上の花」などがあり、著書に「日本画新技法」がある。略年譜明治26年 10月15日北海道松前市に生る大正3年 東京美術学校西洋画科入学昭和4年 第2回二科展入選昭和5年 第3回二科展入選昭和7年 東京美術学校日本画科に転向昭和12年 同校日本画科卒業昭和13年 「秋二題」第5回帝展昭和14年 「神苑春雨」第6回帝展昭和15年 「三熊野の那智の御山」(特選・帝国美術院賞、政府買上、御物)第7回帝展昭和2年 「緑庭」(特選)第8回帝展昭和3年 「潮音」(推薦)第9回帝展昭和4年 帝展審査員昭和6年 「波野」第12回帝展昭和7年 「市場」第13回帝展(政府買上、東京芸大蔵)昭和9年 「岩倉大使欧米派遣之図」明治神宮絵画館壁画揮毫昭和10年 帝国美術院改組に際し参与となる昭和14年 「秋影」第3回文展出品。審査員となる昭和22年 「山湖」第3回日展昭和23年 「濤」第4回日展(政府買上、東京国立近美蔵)昭和24年 「榻上の花」第5回日展(政府買上、東京国立近美蔵)昭和25年 日本芸術院会員となる。「夏の印象」6回日展昭和29年 日展常任理事となる昭和31年 8月、北京に於て開催された「雪舟等楊」逝世四百五十年記念式典に日本代表として参列昭和38年 5月、自選展開催 朝日新聞社主催(銀座、松屋)昭和39年 「春夏秋冬」四部作(昭和36年第4回新日展出品「秋」より四年間をもって完成。東京国立近代美術館蔵)昭和40年 文化勲章受領昭和43年 新宮殿壁画完成昭和45年 神奈川県文化財委員会と朝日新聞社主催にて横浜高島屋にて喜寿記念展開催昭和46年 5月31日 病没

津田耕造

没年月日:1971/05/25

もと日展出品の洋画家津田耕造は、5月25日動脈破裂のため死去した。享年79才。津田耕造は明治25年(1892)3月15日福岡県に生まれ、和田英作に師事、大正10年(1921)東京美術学校西洋画科を卒業。その後、病のため右足を切断し長く画業を休んでいたが、昭和5年前後から再び描きはじめ、主として肖像画を制作した。主要な作品に、「楢橋渡氏令嬢像」「島津忠承氏肖像」などがある。

水野清一

没年月日:1971/05/25

文学博士、京都大学名誉教授水野清一は5月25日、肝硬変のため京大病院で死去した。享年66才。明治38年3月24日神戸市に生れた。昭和3年京都大学文学部史学科卒業。4年4月より6年まで北京留学。6年1月京都市東方文化研究所研究員。同所員として昭和11年ごろから20年まで中国の竜門石窟、大同、雲崗の発掘調査に従事した。23年京都大学人文科学研究所教授。26年雲崗石窟の研究で朝日賞、27年同研究で学士院恩賜賞を受賞。「仏教芸術」編集委員。43年京都大学停年退職。「響堂山石窟-河北河南省境における北斉時代の石窟寺院」(長広敏雄共著、京都、東方文化学院京都研究所 12年)、「竜門石窟の研究」(長広敏雄共著 京都、東方文化学院京都研究所 16年)、「雲崗石窟-西暦五世紀における中国北部仏教窟院の考古学的調査報告、東方文化研究所調査、昭和15年-20年、」(長広敏雄共著、京都、京都大学人文科学研究所 26-30年)など編著書論文の数は多い。詳しくは退官記念論文集「中国の仏教美術」(平凡社、43年)参照。

阿部展也

没年月日:1971/05/07

イタリア、ローマ在住の洋画家、阿部展也は5月7日午前7時30分(ローマ時間、6日午後11時30分)、ローマのサルバドール・ムンディ病院で脳出血のため急逝した。享年58才であった。阿部展也は本名を芳文、大正2年(1913)2月4日、新潟県に生まれ、東京・小石川の京北中学校を4年で中退し、以後、独学で絵画を学び、はじめ独立展に出品、昭和12年詩画集『妖精の距離』(春鳥会刊)を出版、昭和14年(1939)には福沢一郎を中心とする超現実主義の団体、美術文化協会の結成に参加し同人となった。昭和15年ころ満州・蒙古に旅行、昭和16年(1941)からフィリッピンに滞在して、日本軍報道部の仕事に従事しポスター、写真、その他の諸企画にあたった。昭和21年(1946)帰国、美術文化協会に復帰したが、昭和27年(1952)同会を脱退、無所属となった。昭和26年(1951)サンパウロ・ビエンナーレ展、翌27年カーネギー国際美術展、28年インド国際美術展、30年ニューヨーク、ブルックリン美術館主催国際水彩画展、その他国内の国際展にも出品して活躍し、28年(1953)のインド国際展には日本美術家連盟代表として渡印し、約7ケ月インドに滞在した。昭和32年(1957)9月、渡欧してユーゴのドゥブロニックで開かれた国際造型芸術連盟第2回総会に日本代表として出席し、執行委員に選出され、昭和34年(1959)以降はローマに定住した。2期6年間、国際造型芸術連盟執行委員をつとめ、その間、重要事項採決にあたっては東洋諸国代表の中心的存在となって意向をまとめ、西欧諸国の独走をふせぐ役割をはたし、昭和35年(1960)には、グッゲンハイム賞、リュブリアナ国際版画ビエンナーレ展国際審査員にあげられた。昭和38年(1963)サン・マリノ・ビエンナーレ展、40年(1965)アメリカでの「日本の新しい絵画彫刻」展に出品、そのほか、ローマ、ミラノ、ヴェニスなどイタリア各地でグループ展、個展で作品を発表し、知的な探求心、旺盛な活動力と批評活動によって作品はつねに前衛的な作風を保持し、初期の超現実主義から晩年は抽象主義的作風へ移行した。かたわら、ブルガリアからアイルランドの各地を旅行してロマネスクの教会美術を調査し、数多くの写真資料を残している。遺体はローマのサン・ロレンツォ・バジリカ教会近くのカンポ・ベラノ墓地に埋葬された。作品略年譜昭和7年 「風景・道」(独立展)昭和9年 「静物」(独立展)昭和10年 「作品」(独立展)昭和11年 「作品A」『作品B』(独立展)昭和12年 「ムーヴマン」(独立展)昭和13年 「トルソ」「顕花植物」(独立展)昭和14年 「芽」「茎」(独立展)昭和15年 「地球創造説」「ひとで」「デッサン」(美術文化展)昭和16年 「支那芝居の顔」「内蒙古バタカルスム壁画模写」(美術文化展)昭和22年 「月環」(美術文化展)昭和24年 「アダム・イヴ」「生誕」(美術文化展)昭和26年 「デッサンA、B、C」「オタスケ」「アクロバット」「バレー」「ナメクジ」「航空機」(美術文化展)昭和27年 「神話(判字絵)」「一人相撲」「裸像」「夜明け」(美術文化展)、「埋葬」シリーズ3点(1回東京国際展)昭和28年 「座像」「顔」(2回東京国際展)昭和29年 「雨が降る」「予言者」(1回現代展)昭和30年 「体操」「人間」(3回東京国際展)昭和31年 「人間」「人間」(2回現代展)昭和32年 「Blind」(4回東京国際展)昭和34年 「作品」(5回東京国際展)昭和35年 「作品1」「作品2」(4回現代展)昭和36年 「作品1・マスプロダクション」「作品2・落ちる」(石版)昭和47年 京都、東京国立近代美術館『ヨーロッパの日本作家』展に「作品」「こだま」「R-15」「R-14」「R-23」「R-49」「R-4」の7点が陳列される。

手塚又四郎

没年月日:1971/05/05

美術教育学の長老手塚又四郎は5月5日腎不全のため埼玉県浦和市の埼玉中央病院で死去した。享年69才であり、国際美術教育学会(INSEA)副会長、造形基礎研究所長、日本美術教育連合理事、大学美術教育会議議長、技術教育研究会長、京都教育大学および立正女子大学教授、日彫クラブ理事を兼務していた。明治36年4月24日栃木県今市市に生れる。大正12年東京青山師範学校卒。昭和3年東京高等師範学校卒、同年熊本第一師範学校教諭として美術科を担当。同8年埼玉師範学校教諭。この時期に、昭和5年より朝倉塾で研修しつつある彫塑芸術を美術教育にとり入れることを提唱したと自筆の調書にある。山形寛著「日本美術教育史」によると、それより以前に霜田静志の総合的な美術教育論が発表されており、手塚の提唱がどのような意義をもちえたかここでは確かめる余裕がないが、図画を中心とした従来の美術教育においては何らかの積極的な意味をもっていたであろうことは想像に難くない。また、文部省中等学校図画工作教科書執筆委員となる。16年東京市視学官となり図画、工作、工業を担当。21年2月東京高等師範学校教授となり、彫塑学科を創設。24年8月東京教育大学教授。27年4月山形大学教授。34年より42年京都学芸大特修美術科主任教授。昭和6年ごろより彫塑と同時に絵画の制作にも携わり、春陽会、独立展、聖徳太子奉讃展に出品。日展には彫塑を出品。この間、昭和11年には朝鮮、満州の美術視察旅行、30年、35年、39年には国際美術教育会議に日本代表として出席。38年には文部省教育職員養成審議会美術特別委員会主査なども勤めた。41年以後国際美術教育者連盟副会長。著書に「美術教育概論」(教育大学講座)金子書房、昭和25年。「新しい図画、工作」(小・中学校教科書)東京書籍、26年。「造形教育」岩崎書店、26年。「日本工作教育史」(日本教育文化史大学)金子書房、29年。「ヨーロッパの造形教育」えくらん社。「世界の美術教育」美術出版社、38年。「色彩の芸術」美術出版社33年。「バウハウスの造形基礎」「造形美術の基礎」。他に28年より日本彫塑家クラブ刊行の「彫塑」を編集した。

児玉希望

没年月日:1971/05/02

日本画家の児玉希望は、脳血せんのため東京港区の慈恵医大病院で死去した。享年72才。本名省三。明治31年7月5日広島県高田郡に生れ、若くして上京し、川合玉堂の門下となった。大正10年第3回帝展「夏の山」が初入選で、以後連続入選している。昭和3年第9回展「盛秋」で特選となり、第11回展「暮春」もまた特選となった。昭和6年第12回帝展では推薦・無鑑査になり、翌年審査員となった。以来、帝文展の審査員をつづけ、官展の中心作家となり、戦後に及んだ。昭和27年第8回日展「室内」で日本芸術院賞となり、同33年には日本芸術院会員となった。そのほか、戦時中は美術及工芸統制協会の理事長をつとめ、戦後は社団法人日展の常務理事として運営につくし、その手腕を示した。戦前は戊申会、児玉画塾展等を、戦後は伊東深水、矢野橋村等と日月社を結成し、私塾系作家の制作促進を計った。また昭和32年には約1ケ年滞欧し、各地で水墨画展を開き、その後の代表作に「仏蘭西山水絵巻」(三巻)(東京国立近代美術館蔵)がある。なお、代表作の多くは、広島県立美術館に寄贈されている。

太田忠

没年月日:1971/04/29

新制作協会会員の洋画家、太田忠は急性心不全のため、4月29日に広島県三次市の三次中央病院で死去した。享年63才。太田忠は、明治41年(1908)3月2日、広島市に生まれ、大正12年(1923)4月、広島において国鉄に就職、昭和13年三次市に転任、昭和38年(1963)定年退職した。少年時代から絵を好み、勤務のかたわら描き続けていたが、昭和12年ころ、機関車好きの故中西利雄に認められて小磯良平を紹介され、以後、小磯良平の指導をうけ、すすめられて新制作展に出品、昭和13年、新制作派協会3回展に「丘を走る汽車」が初入選、昭和16年6回展「雪景」「牛市場」「発電所の見える雪景」で岡田賞をうけ、同23年12回展に「巨木のある風景」「池畔の森」「道」を出品して新作家賞を受賞、同26年15回展「ガードのある風景」「K村の朝雪」「備後の風景」によって新制作協会15周年賞をうけ、昭和27年、会員に推薦された。そのほか、美術団体連合展1~5回(昭和22~26年)、日本国際美術展(昭和28、30年)、日本現代美術展(昭和29、31年)、秀作展(昭和27年)などに出品、外遊二回、機関士出身の特異な画家として知られた。作品略年譜(新制作展出品作)昭和14年 「汽車の見える風景」「鉄橋を走る汽車」昭和15年 「巨木のある風景」「汽車の走る風景」昭和17年 「炭屋」「水車小屋」昭和18年 「雪景」「山村」昭和21年 「備後の牧場A、B」「雪景」昭和22年 「小奴可村」「池畔雪景」昭和24年 「道後山雪景」「小奴可村」「巨木」昭和27年 「トンネル風景」「橋のある風景」昭和28年 「工場のある風景」「汽車の見える風景」昭和34年 「村のサーカス」「農家」「山村」昭和36年 「山村の秋」「飛騨の山A、B」昭和37年 「備後の山A、B、C」昭和39年 「村の遊園地」「雪景」「夕照」昭和40年 「村の市場」「山村の秋」「雪景」昭和42年 「雪景暮色」「山村秋景」昭和44年 「農村の秋A、B」昭和45年 「農村の秋オーベルニュ地方A」「農村の秋」

宮田重雄

没年月日:1971/04/28

医学博士で国画会会員の洋画家、宮田重雄は、4月28日午後4時45分、ジン硬化症による尿毒症のため東京・田無市の田無病院で死去した。享年70才。宮田重雄は明治33年(1900)10月31日、名古屋市の13代続いた医師の家に生まれ、愛知第一中学をへて慶応大学医学部にすゝみ、大正14年(1925)卒業した。愛知一中時代から伊藤廉らと共に絵を描きはじめ、草土社の画風にひかれ、慶応大学在学中の大正12年(1923)、春陽会第1回展に「横浜風景」が入選した。その後、梅原龍三郎に師事、大正14年国画会洋画部発足と同時に国画会展に出品したが、昭和2年(1927)パリに留学しパスツール研究所で血清研究のかたわら絵を描き、ユトリロ、アンリ・ルッソーの影響をうけ、昭和5年(1930)帰国、国画会展に作品を発表、翌6年会友に推され、また昭和7年医学博士となる。昭和8年中島飛行機製作所田無病院に勤務、昭和13年(1938)、北支派遣軍見習士官の軍医として北中国にいき、大同に駐屯し石仏を描き、帰国後、個展を開催、このときの作品が生涯を通じての代表作となった。この年国画会会員となる。昭和16~17年(1941~42)には満州へ派遣された。戦中・戦後田無病院長をつとめ、戦後は、ラジオ放送「廿の扉」のレギュラーメンバーとなって広く知られ、また、獅子文六の新聞連載小説「自由学校」、「箱根山」、「てんやわんや」、「青春怪談」などの挿絵を担当、その他、日曜画家の集団チャーチル会の主要な指導者であり、俳句、小唄をもよくし多方面に活躍した。著書に「ユトリロ」「フランス近代名画撰」「大同小異」などがある。作品略年譜国画会展出品作品-「波止場」「赤坂風景」(昭5・5回)「ヴィリエ・シュル・モラン」(1~2)「ヴィルフランシュ」(1~3)、「ヴィリエのエグリーズ」「ギョームの門(シャルトル)」「長崎風景」他9点(昭6、6回)、「ヴィルフランシュ」「カーニユ、ホテル」「郊外」「掛角」「土場」(昭7、7回)、「少年」「静物」(昭8、8回)、「卓上」「花」(昭9、9回)、「牡丹」「城」(昭10、10回)、「少女」「日蓮崎」「堂ケ島の朝」(昭12、12回)、「松と入江」(昭13、13回)、「雲崗第十一窟」「雲崗石仏」「雲崗石仏頭」(昭15、15回)、「微笑仏(大同)」「遅日」(昭16、16回)、「金堂内陣」(昭18、18回)、「読書」(昭22、21回)、「ボレロの娘」(昭23、22回)、「ミモザ裸婦」「ミモザ卓上」(昭24、23回)、「旅日記」(昭29、28回)、「恩師細谷教授像」(昭30、29回)、「長崎の丘」(昭33、32回)、「ヴエンス海岸通」(昭35、34回)、「焼岳晩秋」「石庭新緑」(昭38、37回)、「山桜」(昭44、43回)

大津雲山

没年月日:1971/04/22

日本画家大津雲山は、4月22日老人症心不全のため、神奈川県秦野市の自宅で死去した。享年86才。本名一三。明治18年1月神奈川県中郡で生れ、松林桂月に就き南画を学んだ。大正10年第3回帝展「山水」が初入選し、その後第8回展、9回展等に出品がみられる。代表作「長江帰舟図」「武陵桃源図」等。

伊東静尾

没年月日:1971/04/20

二科会会員の洋画家伊東静尾は、4月20日午後、尿毒症のため福岡県久留米市の小野外科医院にて死去した。享年68才。伊東静尾は明治35年(1902)10月25日、福岡県浮羽郡に生まれ、大正4年福岡県立明善中学校に入学、大正8年(1919)同校を中退して上京、日本美術学校に入学、同12年(1923)卒業、郷里へ帰った。昭和4年(1929)、坂本繁二郎に師事し、昭和10年(1935)22回二科展に「高良台」が初入選、以降、二科展に出品をつづけ、昭和25年(1950)会友に推挙され、同29年(1954)同会会員となり、昭和41年フランス、サロン・ド・コンパレゾン展、42年サロン・ドートンヌ展、44年コペンハーゲン国際展などにも出品した。二科展出品作品略年譜昭和25年 「交響」「素朴なる状景」昭和26年 「村童と馬」「情熱の花房」昭和27年 「馬屋」「村内」昭和29年 「作品A・浮立」「作品B写型」昭和30年 「流転」「激動」昭和31年 「結合」「分裂」「交響」昭和35年 「道(溜)」1~3昭和36年 「土」「土」昭和41年 「土」昭和42年 「土と共に」「土と共に」昭和43年 「石紋1」「石紋2」

宮芳平

没年月日:1971/03/30

国画会会員の洋画家、宮芳平は、3月30日、京都市において死去した。宮芳平は、号を木念、歌人宮柊二の叔父にあたり、明治26年(1893)6月5日新潟県北魚沼郡に生まれ、新潟県立柏崎中学校を卒業、大正3年(1914)大正博覧会展に入選、東京美術学校西洋画科に入学したが、大正7年(1918)中途退学した。中村彝に師事し、また森鴎外の知遇をうけ、山本鼎の指導をうけた。大正4年(1915)、第9回文展に「海のメランコリー」が入選、大正12年(1922)清水多嘉示の後任として長野県立諏訪高等女学校に奉職、以後、諏訪市に居住し、戦前には、独立展、旺玄社展に出品したが、昭和15年(1940)より国画会展に出品、昭和32年国画会会友、同36年(1961)会員に推挙された。昭和31年(1956)銀座兜屋画廊にて第1回の個展、昭和40年(1965)銀座松屋、同45年(1970)東京と諏訪で個展を開催した。昭和41年(1966)、ギリシャ、イタリア、フランスを旅行、紀行文等に『聖地巡礼』がある。国展出品作品略年譜「冬山」(昭15)、「霧」(昭21)「荒土を耕す」(昭22)、「雪解くる頃」「秋日」(昭24)、「雪の朝」(昭27)、「まだら雪」(昭29)、「冬枯の梢」(昭30)、「風景」(昭31)、「風景その1、雪解くる頃」(昭32)、「月ある夜の湖」「月ある夜の山」(昭33)、「作品・門」「作品、おしどりの池」(昭34)、「枯れた蓮」(昭35)、「麓の村々」(昭36)、「山とみづうみ」(昭38)、「枯れた蓮」(昭40)、「きはざし」(昭41)、「富士」(昭44)、「さざなみ」(昭45)

谷角日沙春

没年月日:1971/03/21

日本画家谷角日沙春は、脳溢血のため3月21日京都市北区の自宅で死去した。本名久治。明治26年8月22日兵庫県美方郡に生れ、菊池契月の塾に学んだ。第12回文展に「智恵頂ける児」が初入選し、以後専ら官展に出品し、主なものに「髪すく女」(第2回帝展)、「淡日さす窓と女」(第3回帝展)、「遊女の絵」(第4回帝展)、「囲碁」(第5回帝展)、「寵人」(第10回帝展)、「洛北の佳人」(第14回帝展特選)等がある。新文展、日展等にも出品したが、のち日展を離れて独自の道を歩み、また仏画をかいた。作品は、大正期特有の異風な傾向から、師契月ゆずりの端正な表現へと移り、その方向は仏画の世界にも生かされていた。

大月源二

没年月日:1971/03/18

洋画家大月源二は、急性気管支炎、高血圧、糖尿病等を併発し、3月18日死去した。享年67才。明治37年2月19日北海道函館市に生れ、東京美術学校油絵科を昭和2年に卒業した。その後プロレタリヤ美術運動に参加し、都新聞に沖一馬のペンネームで昭和11年から17年位まで政治漫画を描いた。また文展、一水会等にも出品し、戦時中故郷に疎開し、北海道生活派会を設立し、北海道風景を多く描いた。主要作に「告別」(昭4プロレタリヤ美術展)、「ホロンバイル草原の仔牛たち」(昭18文展)、「花ひらくオホーツクの岸」(昭34草炎会展)等があり、著書に「レーピン」がある。

今村竜一

没年月日:1971/03/09

大阪市立美術館長今村竜一は3月9日、大阪市立大学付属病院で骨肉腫のため死去した。享年62才。明治41年5月13日兵庫県姫路市に生れた。姫路中学、姫路高校を卒業した。ついで昭和7年東京大学文学部美術史学科卒業後は副手として大学に残り、10年7月、東方文化学院に転職した。15年そこを退職して大倉集古館に勤務し、23年米軍第八軍横浜アーミー・エデュケイション・センターに転勤し、ついで24年10月大阪市工芸高等学校教諭と市立美術館嘱託とを兼ね、翌25年市立美術館学芸員となる。35年市立博物館創設事務室主幹となり、開館後はそこに勤務した。39年7月市立美術館長に就任し、現職中に死去した。専門は中国美術史であった。主な論文は次の通りである。「本邦古建築に於ける運材に就いて」(宝雲4)、「古建築の視覚形式に対する作家の営為に就いて」(同10)、「室町時代寺院建築年表1~3」(史跡と美術、28~30)、「鶴林寺本堂覚書1、2」(明照2-1、2合併号2-3)、「魏晉南北朝に於ける画家の師弟関係に就いて」(国華561)、「唐代に於ける絵画の鑒賞に就いて」(東方学報・東京2-1)、「支那上代散★画書攷」(国華554)、「尚書故実に就いて」(同579)、「張彦遠の絵画史観、上、下」(図、601、603)、「黄休復の画評」(画題、47)、「様式史書としての」(東方学報、東京9)。

西川辰美

没年月日:1971/03/07

漫画家西川辰美は3月7日食道静脈癌破裂のため新宿区東京医大病院で死去した。享年54才。東京の四谷に生れ、昭和9年京華商業卒業後、味の素株式会社に入社し20年までその広告部に在籍したが、12年から徴兵され、幹部候補生として陸軍中尉となる。昭和6年から漫画の投稿欄に採用されていたというが、京華商業在校中に近藤日出造の下に出入した。戦争末期から胸部の難病に苦しみながら漫画を描き、22年から漫画集団に参加した。25年から「主婦之友」誌上に「おトラさん」を連載し「文芸春秋漫画読本」にも同じシリーズを載せ続け読売少年版に「ゲンキ中学」、産経時事夕刊に「おかあちゃん」を連載する一流の流行作家となった。テレビ番組のレギュラー司会者としても活躍する多彩な才能をもっていた。

長谷川三千春

没年月日:1971/02/25

一陽会会員の洋画家長谷川三千春は、2月25日午後、食道ガンのため東京・文京区の自宅で死去した。享年60才。明治43年(1910)8月15日、広島県に生まれ、昭和9年(1934)京都高等工芸学校を卒業し、昭和11年都新聞社(現・東京新聞)に入社、昭和12年(1937)24回二科展に「菊と蝶」が初入選し、以後、二科展に「黄昏の街」(昭和13)、「津軽の漁村」(同14)、「風景」(同17)を出品、戦争中は技術関係の業務についた。戦後は二科展に復帰し、昭和29年特待となったが、昭和30年(1955)、一陽会創設に参加、同会会員となった。昭和39~40年、中近東からスペインへ旅行。作品略年譜「盛夏」「漁群」(昭和21)、「虫」(同22)、「浜辺」「午睡」(同24)、「ビールを呑む」(同25)、「涯地の漁港にて」(同26)、「飛ぶ雲」「孤独な雲」(同27)、「雲の散歩」(同28)、「秋田」「老朽船」(同29)、「浜辺の静物」(同30年、一陽展)、「浜辺」(同31)、「流木の歌」「海水浴場」「ながれ」(同32)、「白い道」「白い静物」(同33)、「原野より」(同34)、「開拓地にて」(同35)、「原野の街」(同36)、「原野の街・団地も流木」「終着駅」(同37)、「オホーツクの海」「オホーツクの村」(同38)、「糸車の譜」(同39)、「城塞・イスラエル」(同40)

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