斎藤義重

没年月日:2001/06/13
分野:, (美)
読み:さいとうよししげ

 現代美術家の斎藤義重は、6月13日、心不全のため横浜市内の病院で死去した。享年97。1904(明治37)年5月4日に生まれる。本籍は、東京市四谷区左門町。1920(大正9)年、京橋の星製薬会社で開かれたロシア未来派の亡命画家ダヴィード・ブルリューク、ヴィクトル・パリモフの展覧会を見て、衝撃を受ける。以後、築地小劇場における村山知義の舞台美術に感動するなど、大正期の新興芸術に関心をよせるようになる。1933(昭和8)年、東郷青児阿部金剛、古賀春江が主宰する「アヴァンガルド洋画研究所」に入り、桂ユキ子を知る。36年、第23回二科展に初入選する、同年、第14回黒色洋画展にも出品。38年、解散した黒色洋画展の山本敬輔、高橋迪章らと絶対象派協会を結成、また同年には、二科会内の前衛的な傾向の作家によって結成された九室会に会員として参加。翌年、美術文化協会が結成され、参加することになり、九室会を退く。53年、美術文化協会を退き、以後、団体に属することはなかった。57年、第4回日本国際美術展で「鬼」がK氏賞を受賞、翌年、瀧口修造の紹介により東京画廊での最初の個展を開催。59年、第5回日本国際美術展に出品した「青の跡」によって、国立近代美術館賞を受賞。同年、第5回サンパウロ・ビエンナーレに出品。60年、第4回現代日本美術展に出品した「作品R」によって最優秀賞を受賞。同年の第30回ヴェネツィア・ビエンナーレに出品。61年には第5回サンパウロ・ビエンナーレに出品、国際絵画賞を受賞。60年代からは、ドリルをつかって、画面を掘り込む平面作品を制作するようになり、さらに「クレーン」、「ペンチ」シリーズなど、合板にラッカーを塗った明快な作品へと展開していった。64年、多摩美術大学の教授になる。在職中は、その後現代美術の分野で活躍することになる多くの学生を指導したことで知られる(73年に退職)。78年には、東京国立近代美術館において「斎藤義重展」(出品作品・資料点数108点)が開催された。80年代にはいると、立体と平面にわたる「反対称」、「反比例」のシリーズがはじまり、84年、東京都美術館、栃木県立美術館、兵庫県立近代美術館、大原美術館、福井県立美術館を巡回した「斎藤義重展」(出品点数98点)が開催された。85年1月、実験的制作活動による現代美術への貢献を評価され、昭和59年度朝日賞を受賞。80年代末からは、黒い木を連結したインスタレーションである「複合体」シリーズがはじまり、平面、立体の区別なく、空間を構成した作品を発表した。1993(平成5)年、77点の作品によって構成された「斎藤義重による斎藤義重展 時空の木―Time・Space・Wood」が、横浜美術館と徳島県立近代美術館において開催された。99年には、神奈川県立近代美術館において「斎藤義重展」(出品点数53点ほか)が開催された。没後の2003年1月から翌年3月まで、岩手県立美術館、千葉市美術館、島根県立美術館、富山県立近代美術館、熊本市現代美術館の全国5館を巡回する回顧展が開催され、戦前の作品から遺作まで158点によって構成された内容によって、その弛むことのなかった「前衛」の軌跡が回顧された。日本の戦後から現代美術を顧みるとき、欠くことのできない多くの作品の残し、また「もの派」をはじめ、多くの作家に影響を与えたことも忘れられない。

出 典:『日本美術年鑑』平成14年版(239-240頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「斎藤義重」『日本美術年鑑』平成14年版(239-240頁)
例)「斎藤義重 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28221.html(閲覧日 2024-03-29)

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