本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,850 件)





小松崎邦雄

没年月日:1992/12/28

 一水会会員の洋画家小松崎邦雄は12月28日午前10時1分、心不全のため浦和市立病院で死去した。享年61。昭和6(1931)年、東京、日暮里に生まれる。同25年東京芸術大学油画科に入学。安井曽太郎、林武らに師事。同29年同科を卒業して同大油絵専攻科に進学。卒業制作「群像」は芸大買上となり、安井賞を受けた。同年第16回一水会展に「群像」で初入選する。同31年芸大油絵専攻科を修了。同大大橋賞を受賞し、また、同年の第18回一水会展に「仁科の岬」「ピクニック」に出品して一水会賞を受け、翌32年一水会会員に推された。同33年第20回一水会展に「野の群像」「人と馬」を出品して1賞、同35年同会第22回展に「トーテム」「落ちる人」を出品して会員優賞を受賞。同37年より国際具象派美術展、同38年より安井賞展に出品した。同41年渡欧しヨーロッパ各国を巡遊して帰国。同42年一水会会員展10回展記念賞を受賞した。同43年12月より翌年12月までユネスコ・フェローシップ奨学金を得てイタリア、フランス、オランダ、イギリスに留学、その後、北欧、北米、メキシコ等を巡遊する。同44年第4回昭和会賞、同57年東郷青児美術館賞を受賞。平成3年暗色の背景に舞妓7人を描き出した「稲穂のつどい」で第9回宮本三郎記念賞を受賞した。初期には人物群像を、つづいて牛、人形、風景と数年間ひとつの主題を集中して研究し、次の段階へと展開する足跡を示し、晩年は舞妓を主に描いた。陰影表現や光の効果をいかし、実在の対象を再現的に巧みに描きながら、絵画世界に非現実的夢幻感を導く独自の画風を示した。東京芸術大学講師、NHKテレビ油絵入門講座等、教育・普及面にも尽くしたほか、新聞小説挿絵、芝居のどんちょう等多方面に活躍した。

成田陽

没年月日:1992/12/24

 日展会友の日本画家成田陽は、12月24日午後7時15分急性心不全のため愛知県豊橋市の病院で死去した。享年70。雅号は陽。大正11(1922)年1月23日南満州で生まれ、生後6ケ月で父母とともに東京に移住、以後東京で成長した。東京駒込中学校を3年で中退。昭和24年中美展および第34回院展に「静郷」が入選する。26年中村岳陵に師事し、同年の第7回日展に「瓦斯工場」が初入選、以後昭和63年まで連年日展に出品した。41年に始まった日春展にも第1回から出品し、48年第8回「芽吹く頃」、50年第10回「水辺」は外務省買い上げとなっている。このほか関西綜合展で昭和30年「八ケ岳」が受賞、41年の中日展にも入選した。また個展を9回開催し、ヨーロッパ、中国に外遊。フィレンツェに取材した昭和62年第19回日展「旅情」、同じくイタリアのシーラに取材した翌63年第20回日展「旅の朝」などの作品を残した。日展らしい水平・垂直構図を基調とした堅固な作風の風景画を得意とした。

赤堀信平

没年月日:1992/12/21

 彫刻家で日展参与の赤堀信平は、12月21日急性心不全のため福岡県春日市の福岡徳洲会病院で死去した。享年93。号に苔石。明治32(1899)年3月15日現在の福島県いわき市に生まれる。太平洋美術学校から東京美術学校彫塑別科へ進み、朝倉文夫に師事、大正14年まで同校に学ぶ。在学中の同10年、第3回帝展に「御灯」で初入選し、以後同展に出品を続け、同14年の第6回帝展の「地に立ちて」から、翌年の第7回展「大地を行く」、さらに昭和2年の第8回展「空」で三年連続特選を受けた。同14年には初めて新文展の審査員をつとめる。この間、聖徳太子奉讃美術展などへも出品した他、東京・上野公園内の五条天神社の狛犬などを制作する。また、同10年、東邦彫塑院会員となる。戦後は日展に所属し、会員、評議員をつとめたのち参与となり、しばしば審査員をつとめた。同27年、日展出品の彫刻家による日本彫塑会に会員として参加、同29年には日本美術家連盟会員となる。木彫、塑像とも制作し、肖像彫刻にすぐれ、衆議院内の「尾崎咢堂胸像」(昭和30年)をはじめ、「広池千九郎像」(同38年)などがある。制作は他に「聖観音菩薩像」(京都・高山寺)など。

後藤よ志子

没年月日:1992/12/21

 二紀会委員、女流画家協会委員の洋画家後藤よ志子は12月21日午前2時20分、すい臓がんのため東京都品川区の関東逓信病院で死去した。享年65。昭和2(1927)年4月3日、外交官であった父の赴任地中国の青島市に生まれる。同18年、青島日本高等女学校を卒業。同年帰国して共立薬科大学に入学する。在学中に絵を独学するが、結婚により一時制作から遠ざかる。同30年代に再び制作を始め、同33年第12回二紀展に「島の岩肌」で初入選。同34年「花のある岩」で第13回女流画家協会展に初入選する。土のように素朴な盛り上がった絵肌を工夫して注目され、同38年女流画家協会会員、同40年二紀会同人となった。同40年と41年に渡欧し、同41年第20回女流画家協会展に「街・ロンドン1」を出品して船岡賞、同44年第23回同展に「遺跡のある街」を出品して甲斐仁代賞受賞。また、同年第23回二紀展に「ピアッツァのある街」「アティックス・オディオン」を出品して同人賞、同46年第25回二紀展に「寺院のある街2」を出品して再び同人賞を受けた。同47年安井賞展に「寺院のある街1」を出品して、女性では初めて佳作賞を受賞。同年第26回二紀展に「古城のある街」「イワンの街」を出品して鍋井賞を受けた。同50年第1回日仏現代美術パリ展でフランス・ソワール賞受賞。同年第29回二紀展に「都市」を出品して菊華賞を受賞した。同51年第2回日仏現代美術パリ展でビブリオテーク・デザール賞受賞。同56年第35回二紀展に「回想の街1」「回想の街2」を出品して文部大臣賞、平成2(1990)年安田火災東郷青児美術館大賞を受賞した。堅牢な石造の西洋建築が立ちならぶ都市景観を★観する視点からとらえるのを好み、建築物の稜線が織りなす幾何学的で規律あるリズム、青灰色、緑灰色、褐色等のおさえた色調、独自の質感を特色とする静謚な画風を示した。

田中良尊

没年月日:1992/12/21

 示現会監事、筑波大学芸術学系教授の洋画家田中良尊は、12月21日肺炎のため千葉県習志野市の病院で死去した。享年60。田中は昭和7(1932)年10月18日、長野県北佐久郡に生まれ、同32年東京教育大学教育学部絵画学専攻科を卒業した。示現会展へ出品し、卒業の年の第10回示現会で十周年記念奨励賞を受賞、同34年示現会会員に推挙された。同41年メキシコへ留学、シケイロスのもとで学び、メキシコ国立博物館壁画制作にも参加した。日展へも出品し、同43年の第11回日展に「メキシコの市場」で特選を受賞する。同44年、東京・銀座の望月画廊で個展を開催。同54年には筑波大学芸術学系教授に就任し、後進の指導にあたった。同59年、示現会監事となる。メキシコを題材にした作品が多く、「メキシコのメルカド」「オワハカの市場」「街のセントロ」「マーケット裏」「ひとだまり」などの作品がある。

北村大通

没年月日:1992/12/16

 漆工芸家で国選定文化財保存技術保持者の北村大通は、12月16日心不全のため奈良県天理市の奈良東病院で死去した。享年82。漆工芸制作とともに、正倉院宝物の漆工品をはじめとする数々の文化財の修理で知られる北村大通は、明治43(1910)年3月19日奈良市に生まれた。本名久造。漆塗りで著名な吉岡家の家系にあり、幼児から父に技法の手ほどきを受け、奈良県立郡山中学校を経て東京美術学校漆工科に進み、昭和8年卒業した。その後、一時漆工から離れたが、兵役を機に漆工家に専念するに至った。同18年第6回新文展に「火焔獅子蒔絵箱」が初入選し、戦後も初期日展および日本伝統工芸展に制作発表を行った。同23年京都市立美術専門学校助教授に就任、翌年教授となったが同年中に依願退職した。同28年、奈良国立文化財研究所研究員を依嘱され、同年から同31年に至る第一次正倉院漆工品調査(第二次調査、同45-49年)に参加した。同32年、奈良県教育委員会の依嘱により、当麻曼荼羅厨子の修理施工に携わり、同38年には10年計画による正倉院漆工品の修理を開始し、同48年までの間、総点数233点の修理を行った。その後、数多くの文化財の修理並びに復元模型の制作に従事した。その主な修理品に、昭和38年四天王寺蔵重文「漆皮箱」、同41年手向山神社蔵重文「黒漆四枚居木鞍」、同44年春日大社蔵重文「亀甲蒔絵手箱」、同45-46年春日大社蔵国宝「黒漆平文根古志形鏡台」、同54年醍醐寺蔵重文「沃懸地螺鈿説相箱」、同57-58年東大寺蔵重文「朱塗布薩盥」、同60年東大寺蔵国宝「花鳥彩絵油色箱」などがあり、復元模型制作に正倉院宝物の「漆挟軾」「玉帯箱」、当麻寺の「曼荼羅厨子軒先板」、春日大社の「蒔絵筝」などがある。同50年、永年の功績に対して紫綬褒章が授与され、翌52年には国選定文化財保存技術者に認定された。また、同54年日本漆工協会により漆工功労者表彰を受けた。

執行正夫

没年月日:1992/12/05

 モダンアート協会会員の洋画家執行正夫は、12月5日午前10時36分、肺がんのため東京都小平市の昭和病院で死去した。享年66。大正15(1926)年3月7日、静岡県浜松市に生まれる。文化学院美術科を卒業して昭和27(1952)年第2回モダンアート展に「母と子(1)」「母と子(2)」で初入選。以後同展に出品をつづけ、同30年第5回同展に「路上」「魚の歌」「枯葉」を出品して協会賞を受賞。同32年同会会友、同34年同会会員となった。この間、同27年から30年まで読売アンデパンダン展に出品。また、同31年第1回シェル美術賞展で佳作賞受賞。同34年、35年の安井賞展に入選する。同39年から40年までフランスに留学し、パリ国立美術学校に入学してシャプラン・ミディ教室に学ぶ。帰国後もモダンアート展や個展を中心に制作を発表する一方、名春中央病院(名古屋)、恩田第二病院(松戸)、愛川町文化センター(神奈川)、シアトー本部(バンコク)等にモザイクで壁画、床絵等を制作している。多摩美術大学講師としてモザイク壁画を指導したほか、九州産業大学、武蔵野美術短期大学でも教鞭をとった。初期には具象画を描いたが、昭和30年代には抽象画へと転じ、幾何学的形態の色面、色点によって画面を構成する装飾的な画風へと展開した。

藤井二郎

没年月日:1992/12/03

 洋画家で二科会理事の藤井二郎は、12月3日心筋こうそくのため兵庫県西宮市の自宅で死去した。享年86。明治39(1906)年7月11日大阪市に生まれ、大正13年大阪商業学校を卒業、翌年から川端画学校、ついで信濃橋洋画研究所に学んだ。昭和2年、第14回二科展に初入選、翌3年渡仏しパリでグランド・ショミエールに通うなど研究を重ねた。同7年帰国し、同年の第19回二科展に滞欧作が特別陳列された。同16年二科会会員となる。戦後も再建された二科会に所属し、二科展を中心に制作発表を行い、同25年の第35回展に「花と壁掛」他で会員努力賞を、同46年の第56回展に「坐る道化師」で青児賞を、同54年の第64回展に「マリオネット」で文部大臣奨励賞をそれぞれ受賞した。二科展への出品作には、他に「芸人酒場」(第52回展)などがある。また、この間、神戸山手女子短期大学芸術科教授をつとめた。

倉田三郎

没年月日:1992/11/30

 東京学芸大学名誉教授の美術教育者、洋画家の倉田三郎は、11月30日心不全のため東京都武蔵野市の武蔵野赤十字病院で死去した。享年90。INSEA(国際美術教育学会)第4代会長をつとめるなど美術教育に功績のあった倉田は、明治35(1902)年8月21日東京市牛込区に生まれた。東京府師範学校(青山師範学校)本科を経て、東京美術学校師範科へ進み、大正15年卒業した。在学中から中央美術展、二科展等に出品、同13年からは春陽会展に出品を続け、また、同年麓人社同人画会を結成した(昭和9年解散)。卒業の年、愛媛県師範学校教諭となり赴任、二年後に東京府立第二中学校へ転じた。昭和11年、第11回オリンピック・ベルリン展へ出品、同年春陽会会長に挙げられる。戦後は同24年東京学芸大学教授に就任、以後、美術教育における中心的存在として活躍し、同33年のバーゼル第10回国際美術教育会議日本代表をつとめたのをはじめ、美術教育に関わる国際会議及び研究のため約40カ国を歴訪した。一方、文部省の教材等調査研究中高委員、教育教員養成審議会委員、大学設置審議会専門委員などの政府委員も歴任した。同41年、東京学芸大学を定年退官し同大学名誉教授の称号を綬与され、また、同年のプラハ国際美術教育会議において、INSEA会長に選出された。この間、制作発表は春陽会展の他、九夏会(昭和9年結成)、個展等において行なった。同57年、多摩信画廊で「倉田三郎画業60年傘寿記念展」が、同62年には青梅市立美術館で「倉田三郎代表作展」が、平成3年にはたましん歴史・美術館開館記念「倉田三郎展」がそれぞれ開催された。著書に『バルカン素描』(昭和31年)、『造形教育大辞典』(編著、同32年)、『木村荘八・人と芸術』(同54年)などがあり、美術教育に関する論文も多数ある。

久保守

没年月日:1992/11/29

 独自の詩情の漂う画風で知られた東京芸術大学名誉教授の洋画家久保守は、11月29日午後3時10分、呼吸不全のため静岡県沼津市の聖隷沼津病院で死去した。享年87。明治38(1905)年2月27日、札幌区に生まれる。同45年札幌区立北九条尋常小学校に入学し、大正3(1914)年同区立西創成尋常小学校に転校。同7年同校を卒業して北海道庁立札幌第一中学校に入学。課外クラブで林竹次郎に師事し、また三岸好太郎、俣野第四郎らを知った。この頃の作品には草土社の影響が見られる。同12年札幌第一中学校を卒業し、画家を志して上京。本郷絵画研究所、ついで川端画学校に学び、同13年東京美術学校西洋画科に入学。岡田三郎助教室に学び、また石井鶴三の指導を受けた。昭和2(1927)年第5回春陽会展に「森の家」で初入選する。同4年生涯師とあおぐこととなった梅原龍三郎の知遇を得る。同年3月東京美術学校を卒業。翌4年3月渡仏し、アカデミー・グラン・ショーミエールに学ぶ一方、ルーヴル美術館でヴェラスケス等古典絵画の模写を行なう。また、ドイツ、オランダ、ベルギー、イギリス、スペイン等を訪ね、同年冬、カーニュで片山敏彦、中村博と共同生活を送った。同6年春イタリア各地を巡り、フレスコ画の質感に共感を覚え、後の制作への一指針を得た。同年10月帰国。まもなく北海道美術協会会員となる。渡仏中も春陽会展への出品を続けていたが、帰国の翌年、梅原龍三郎の勧めにより同会を退いて国画会に参加。同年の第7回国画会展に「巴里サン・ミシェル橋」「ノートルダム・ド・パリ」等滞欧作10点を出品して同会会友に推される。同12年、同会の会友制が廃止されたのに伴い国画会同人となる。同13年第2回新文展に「かんな」を初出品し入選。後、同14年第3回新文展に「群鶏」、同15年紀元2600年奉祝展に「甕」、同16年第4回新文展に「石庭」、同18年第6回新文展に「三つの林檎」を出品するなど、国画会の他に官展にも出品した。この間、同17年第6回佐分賞受賞。同18年国画会会員となり、同19年6月東京美術学校油画科講師、同年8月同科助教授となった。戦後は国画会の他に日本国際美術展、現代日本美術展、国際具象美術展に出品。同48年以降は国際形象展に招待出品した。同41年東京芸術大学教授となり、同47年停年退官、同年5月国画会をも退き、以後は団体に属さず、個展、国際形象展、在住地の世田谷美術展等に出品。同57年から毎年、東京日本橋三越で「久保守展」を開催した。同59年東京芸術大学名誉教授となる。同60年11月、静岡県伊東市八幡野立土にアトリエを建てて転居。同61年6月、郷里の北海道立近代美術館で「形象のソリスト-久保守展」が開かれ、初期から昭和50年代までの作品が展示された。初期には自然を再現的に描写する写実的作風を示し、滞欧期には人物画も多数描いたが、昭和30年代に入ると、静物画、風景画が多くなり、人物は幾何学的形体にデフォルメされて画面の一構成物として登場するようになった。色彩も梅原が初期から認めた独自の調和を持つパステル調の明るく淡雅なものへと変化した。代表作に、画家が少年期から好んだ音楽に関連する題材を描いた「残響」等がある。

丹阿彌岩吉

没年月日:1992/11/24

 日本画家丹阿彌岩吉は、11月24日午後11時4分、肺炎のため東京都板橋区の病院で死去した。享年91。号丹阿彌。明治34(1901)年6月9日東京の両国に生まれ、小学校4年の頃から日本画を独学し始める。大正6年横山大観に入門し、同8年第6回再興院展に「牡丹」が初入選、10年第8回にも「百日紅」が入選した。同8年第5回院展試作展で「みだれ咲き」が甲賞を受賞、その後も10年同第7回「丘」、14年第11回「村」などを出品する。同15年第1回聖徳太子奉讃展に「麓」を出品。昭和期に入り落合朗風らの明朗美術連盟展に参加。10年第2回展「花バラの牆」、翌11年第3回「七面鳥」(2曲1双)、12年第4回「芙蓉」「蓮」などを出品し、11年には同人に推挙された。この間、昭和11年東京日本橋の白木屋で初の個展を開催し、以後連年個展を開催、13年以降は個展を活動の中心とした。年1回行なった個展の開催場所は、昭和11~17年東京日本橋白木屋、19~21年東京銀座鳩居堂画廊、22~26年(25年を除く)東京日本橋三越、28~41年(30年を除く)日本橋白木屋、42~61年(43、47、60年を除く)東京日本橋店で開催。「浅春」(39年)「雨(立葵)」(44年)「牡丹」「山狹横雲」(48年)「蓼科欲雨」「暮山餘照」(56年)「高山残雪」「雪嶺寒林」(59年)など、花鳥花卉から特に近年は山水風景画に充実した画境を展開していた。昭和61年11月東京都板橋区の東京都老人医療センターに入院、翌年8月退院、自宅で療養していた。

平野遼

没年月日:1992/11/24

 九州小倉を拠点に活動し、現代の苦悩を卓抜な筆力であらわした洋画家平野遼は、11月24日午後11時48分、心不全のため北九州市小倉北区の新小倉病院で死去した。享年65。昭和2(1927)年2月8日、大分県北海郡に生まれる。本名明。同8年、戸畑市沢見尋常小学校に入学。3年生の頃から技法書等により絵を独学する一方、通信教育で挿絵を学ぶ。同14年戸畑男子高等小学校を卒業。3歳で母を、同15年13歳で父をなくして同年より徴用工として働く。同20年除隊後戸畑に帰るが、同24年に上京。ポスター、似顔絵の制作、ウインドウ装飾等で生計を立てつつ、同24年第13回新制作派展に蝋画「やまびこ」で初入選。同26年第15回自由美術家協会展に「詩人」で初入選し、以後同展に出品を続ける。同28年第17回同展に「白い家」「兄弟」を出品して優秀作家賞を受賞。この頃より糸園和三郎、小山田二郎、瀧口修造らの知遇を得る。同31年第20回自由美術家協会展に蝋画「夜」を出品して佳作賞、同32年第21回同展に水彩画「飛べない蝶」を出品して2年連続して佳作賞を受け、同33年同会会員に推される。同34年第13回日本アンデパンダン展に「爆発」を出品。同37年、第5回現代日本美術展に「修羅A」「修羅B」を出品するとともに、前年の第25回自由美術家協会展出品作「像」を第5回安井賞展に出品する。同39年9月、麻生三郎、糸園和三郎、森芳雄らと共に自由美術家協会を退会して同年10月主体美術協会を設立。以後、同展のほかに、現代日本美術展、安井賞展等に出品したが、同50年主体美術協会を退会して無所属となった。同53年6月ヨーロッパへ旅し、スイス、イタリア、オランダ、東欧等を訪れる。同54年7月には中央アジア、同年9月には、東独、チェコ、オーストリアへ旅行。その後も、トルコ、ギリシア、スペイン等を訪ね、晩年は海外への旅が多くなった。画業の始めから一貫して興味の中心は人間、特に自己の内面にあり、最初期には写実的具象画も描いたが、昭和30年代に抽象的作風へと移行、晩年にはデフォルメされた人体像による象徴的作風へと展開した。昭和61年12月、池田20世紀美術館で「平野遼の世界展」が翌年6月北九州市立美術館で「平野遼の世界展」が開かれており、画歴は同展図録に詳しい。作品集には『平野遼素描集』(大阪フォルム画廊 昭和47年)、『平野遼自選画集』(小学館 昭和52年)等がある。文章もよくし画文集『地底の宮殿』等の著書がある。

寺本美茂

没年月日:1992/11/13

 日展評議員の彫金家寺本美茂は、11月13日午後9時38分、食道がんのため東京都千代田区の三井記念病院で死去した。享年76。大正5(1916)年4月17日、京都市下京区に生まれる。本名勘次。昭和8(1933)年京都市立第二工業学校金工科を卒業し、磯崎美亜に入門。同15年紀元2600年奉祝展に「鉄布目象嵌飾筥」で初入選。同17年第5回新文展に「黄銅渡鳥文鉢」、翌年第6回新文展に「黄銅象嵌文壷」を出品する。戦後は同23年第4回日展に「銀線華文酒壷」を出品して以降日展を中心に活躍。同31年第12回日展に「切象嵌葉文花瓶」を出品して北斗賞、同34年第15回日展に「シャボテン文花器」を出品して特選北斗賞、同38年第19回日展に「シグナル青」を出品して菊華賞を受賞。光風会にも出品し、同31年同会会友、同37年同会会員となった。同41年日展会員となる。同43年、日本現代工芸チェコスロバキア展に際し派遣員として渡欧する。同53年日展評議員に就任。同54年日本新工芸家連盟の創立に加わり、同57年同会理事となる。この間の同54年第65回光風会展には「空の詩」を出品して辻永記念賞を受けた。同63年日本新工芸展に「白穂」を出品して内閣総理大臣賞を受賞。独特の張りと丸みのある器に花鳥を象嵌であらわした洗練された作風を示した。

志村計介

没年月日:1992/11/13

 洋画家で独立美術協会会員の志村計介は、11月13日肺炎のため横浜市中区の病院で死去した。享年89。明治36(1903)年10月11日横浜市に生まれる。大正14年旧制第二高等学校理科を卒業、昭和2年から同6年までの間、川端画学校、太平洋画会研究所に学んだ。その後、高畠達四郎に師事し独立展へ出品、同13年の独立第8回展に「夏の静物」で独立賞を受賞した。戦後も独立展に出品し、同23年独立美術協会会員となる。同35年から翌年にかけて渡仏する。また、同51年日伯美術連盟理事となり、翌年同連盟を代表し渡伯しリオデジャネイロでの日伯合同展開催に従事した。国際形象展招待の他、横浜美術協会顧問もつとめた。作品に「水辺裸婦」(昭和13年)、「樹立ち」(同38年)、「箱根風景」(同49年)などがある。

高田力蔵

没年月日:1992/10/31

 春陽会会員で西洋の名画の模写でも知られた洋画家高田力蔵は、10月31日午後10時25分、腹膜炎による心不全のため東京都板橋区の帝京大病院で死去した。享年92。明治33(1900)年10月18日、福岡県久留米市に生まれる。川端画学校に学び石井柏亭に師事。この頃フランスの画家アルベール・マルケに私淑する。昭和2(1927)年第14回二科展に「岬端風景」で初入選。以後同11年まで連年入選。同11年ベルリン・オリンピック芸術競技に出品し銅賞を受けた。同12年渡仏し、パリのアカデミー・グランショーミエールに学ぶ。また、ルーヴル美術館で古画を模写し、同13年パリ日本美術家展にアングルの「泉」、ブリューゲルの「乞食の群れ」の模写を出品して日本大使館より奨励賞を受ける。同14年第二次世界大戦勃発のため米国を経由して帰国。同15年春陽会会員となる。同17年、日本の祭礼を主題とするシリーズ制作にとりくみ、同17年「相馬の野馬追い」、同18年「鹿島神宮御船祭」、同19年「福岡県大善寺鬼夜祭」を描いて春陽会に出品する。同20年4月、戦火で東京のアトリエを焼失して郷里久留米に疎開。大分県の九重山飯田高原、久住高原の自然に魅せられて連作を制作。同33年東京三越本店で個展を開き九重山群の諸作を展観する。同37、39年にも同店で個展を開き、皇居周辺の風景画を展示。同40年2度目の渡仏をし、ルーヴルで古画を模写するとともに同42年ジャック・マレシャルに油絵修復技術を学んだ。同年モスクワ、レニングラード、キエフ等を経て帰国。同46年仙台市の依嘱でイタリアへ渡り、ローマ・ボルゲーゼ宮殿にある「支倉常長」像を模写した。その後も、同47、52、54、56、57年に渡仏して古画の模写を行なった。平成2(1990)年、昭和13年から描き続けてきた模写作品の所蔵品のうち20点を東京都北区に寄贈。これを機に、「北区北とぴあオープニング記念 第1回西洋名画模写作品展」が開催され、翌3年に北区北とぴあで「第2回西洋名画模写作品展」、同4年に北区滝野川会館オープニング記念として「第3回西洋名画模写作品展」が開かれた。手がけた模写作品には、石橋正二郎の依頼によるジャン・フランソワ・ミレーの「落穂拾い」、ターナーの「雨・蒸気・速力」、アングルの「トルコ風呂」、北区に寄贈したレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」、ジャン・フランソワ・ミレーの「晩鐘」等がある。昭和51年より日本美術家連盟委員、同61年より平成元年まで同連盟監事をつとめた。

高田誠

没年月日:1992/10/24

 文化功労者で日展理事長、一水会運営委員等をつとめた洋画家高田誠は、10月24日午後2時37分、肝不全のため浦和市の市立病院で死去した。享年79。大正2(1913)年9月24日、埼玉県北足立郡に生まれる。同15年埼玉県立男子師範付属尋常高等小学校を卒業して、埼玉県立浦和中学校に入学。在学中、跡見泰、相馬其一の指導を受け、昭和4(1929)年、第16回二科展に「浦和風景」で初入選し早熟な画才を示した。翌5年安井曽太郎を訪ね、以後安井に師事。同6年浦和中学校を卒業。同年、安井の紹介で二科技塾に入り、熊谷守一、安井曽太郎、石井柏亭、山下新太郎、有島生馬らの指導のもとに学んだ。二科展には同11年第23回展まで出品したが、同年12月に安井らによって一水会が創立されると同会に参加。翌12年第一回展から一水会を中心に活躍した。同13年第2回一水会展に「山村秋日」「中綱湖」「湖畔秋色」「磐悌山」を出品して一水会賞受賞。同16年一水会が新文展にも参加することとなり、同年の第4回新文展に「秋の静物」で初入選。同17年第5回新文展には「松原湖辺」を出品して特選となった。戦後は日展、一水会展を中心に制作を発表。同21年第8回一水会展に「信濃路」「静物」を出品して同会会員となり、また、同年の第2回日展に「山の貯水池」を出品して特選を受賞した。日本国際美術展、現代日本美術展にも第1回展から出品。同33年社団法人日展の発足に伴い日展会員となり、同37年日展評議員となる。また同35年一水会運営委員、同36年埼玉県美術家協会会長となった。同43年第11回社団法人日展に「雑木林のある雪景」を出品して文部大臣賞受賞。同44年春、一ケ月あまり欧州を巡遊。同47年、前年の第3回改組日展出品作「残雪暮色」によって日本芸術院賞を受賞。同53年文化庁創設10周年記念功労者として表彰され、また日本芸術院会員に任命される。同58年より3年間日展理事長をつとめ、同62年文化功労者に選ばれた。風景画、静物画を多く描き、昭和10年代に中間色による点描でリズミカルな画面を構成する作風に移行した。戦後は写生にもとづきながらも、対象の形、色彩に意図的な改変を加えて明朗なリズムと調和を画面にもたらす傾向が強まった。昭和30年より42年まで埼玉大学教育学部美術科講師、同55年から同62年までは玉川大学客員教授をつとめ、美術教育にも尽くしたほか、同51年より安井曽太郎記念会の理事・評議員となって安井賞の運営に尽力した。同54年『高田誠画集』(大日本絵画巧芸美術刊)が刊行され、同60年「高田誠展」(朝日新聞社主催)が開かれており、画歴はそれらに詳しい。

深見公道

没年月日:1992/10/18

 洋画家で主体美術協会の創立会員深見公道は、10月18日気管支閉そくのため神奈川県足柄下郡湯河原の湯ケ原厚生年金病院で死去した。享年70。深見は大正11(1922)年1月18日、福岡県久留米市に生まれた。福岡県立中学明善校を経て、東京美術学校油画科へ進み、学徒出陣のため昭和19年9月卒業した。戦後間もなく、朝日新聞社、ついで西南女学院に勤務ののち上京する。はじめ自由美術家協会に出品し、同31年同協会会員に推挙されたが、同39年森芳雄らとの主体美術協会結成に参加し創立会員となる。以後、同展を中心に制作発表を行うとともに、三月会展(日動画廊、同46-50年)、九州人脈展(同51年)、国際形象展(同58、59、61年)などに出品、また美術ジャーナル画廊(同55年)、下村画廊(同56年)、東急本店美術画廊(同54-平成4年)などで個展を開催した。この間、同32年に門司バプテスト教会で洗礼を受けた。また、同40-55年の間、和泉短期大学で、同55-65年の間は玉川学園女子短期大学でそれぞれ教授をつとめた。作品に、「冬山」(同50年)、「山湖」(同63年)、「真鶴の丘」(平成2年)などがある。没後、平成5年1月に東急本店美術画廊で遺作展が開催された。

山崎構成

没年月日:1992/10/17

 都立科学技術大学名誉教授でからくり人形研究で知られた山崎構成は、10月17日午後1時25分、脳しゅようのため、東京都港区の慈恵医大病院で死去した。享年79。大正元(1912)年11月13日、京都市下京区に生まれる。本名久松。昭和13(1938)年上智大学文学部を卒業し、同26年から人形劇の調査研究を行なった。日本だけでなく、オランダ、スイス、西ドイツ、フランス、イタリアの人形戯を調査し、各国のからくり人形、人形戯を比較研究し、ミュンヘン市立人形劇博物館、ボフム人形劇協議会、西ベルリン人形劇団等に招聘されて講演を行なった。また、同52年日本演劇学会河竹賞を受賞。著書に『曵山人形戯 現状と研究』(東洋出版)、『曵山の人形戯』(東洋出版)等があり、自ら「茶運人形」「綾渡り人形」「闘鶏」「魚釣人形」等のからくり人形を制作した。

福沢一郎

没年月日:1992/10/16

 洋画家で文化勲章受章者の福沢一郎は、10月16日肺炎のため東京都中央区の聖路加国際病院で死去した。享年94。昭和初年にわが国へシュール・レアリスム絵画を導入したことで知られる福沢は、明治31(1898)年1月18日、群馬県北甘楽郡に、福沢仁太郎の長男として生まれた。福沢家は富岡の旧家で、祖父は富岡製糸場に関係し製糸業を営み、また富岡銀行を興した事業家であった。父仁太郎は明治学院で島崎藤村と同窓で、家業を継いだが西洋の事物に明るくハイカラな人物であったという。県立富岡中学校から第二高等学校英法科へ進み、在学中ドイツ語教授登張竹風に芸術に対する感化を受け、また、彫刻に興味を抱き彫刻や油絵を独習した。大正7(1918)年、二高を卒業し東京帝国大学文学部へ入学したが、次第に大学から遠ざかり、朝倉文夫に入門し彫刻を学んだ。同10年、朝倉らの蛮呶羅社彫刻展に出品、翌11年には本にアトリエを設け、同年の第4回帝展彫刻部に「酔漢」が入選した。同13年彫刻研究を目的に渡仏、木内克、森口多里らと親交する一方、エコール・ド・パリの空気に触れるなかで、次第に絵画への関心を強めていき、同年のサロン・ドートンヌに「ブルターニュ風景」が入選した。同14年夏から高畠達四郎、中山巍と同じアトリエ部落(ロンヌ街32番地)に住み、以後6年間を過す。この間、はじめシャガールの作風にひかれたが、昭和4(1929)年頃から、デ・キリコ、マックス・エルンストの作品に強い刺激を受け、シュール・レアリスムのコラージュの手法を用いた作品を制作し始めた。同4年、第16回二科展に中山巍の推薦で、「シーン」「横たわる女」など10点が特陳され、また、1930年協会会員となる。同5年、独立美術協会結成に高畠、中山らの勧めで参加し、翌年の第1回展に、「科学美を盲目にする」「よき料理人」など、エルンストのコラージュ技法に影響を受けた作品37点が特別陳列され、大きな反響を得た。同年帰国し、第2回展以後、独立展でシュール的手法による社会批判、社会諷刺を強めた作品を発表する。同9年、満州(中国東北部)に清水登之、鈴木保徳と遊び、このとき得たモチーフによる作品、第5回独立展出品作「水泳群像」、第6回同展「牛」あたりから、諷刺的内容を離れて、劇的な主題、自己の思想性を大画面に象徴化する方向へと転じた。同14年、第9回独立展に「洪水」1、2を出品したが、4月に独立美術協会を退会、5月に麻生三郎、古沢岩美、寺田政明ら、独立や二科のシュールレアリスム、抽象主義の前衛的傾向を持つ同志と美術文化協会を結成、翌15年の第1回展に「鳥」「苦力群像」を発表した。しかし、美術文化協会結成後、その月次例会に特高刑事がしばしば出入するなど活動が監視され、翌16年4月5日、超現実主義者は共産主義者なりとの嫌疑で世田谷署に連行され、10月10日まで同署に拘置された。戦後は美術文化協会展に引き続き制作発表を行ったのをはじめ、同21年には美術界の民主化を目ざして結成された日本美術会の発起人として名を列ね、また、翌年には日本アヴァンギャルド美術家クラブの結成にも参加した。しかし、同24年の第9回展に「新緑」を出品したのを最後に美術文化協会を脱退し無所属となり、日本アンデパンダン展(読売新聞社主催)、秀作美術展などに作品を発表した。同27年、文化自由委員会の日本代表として国際フェスティバル参加のためパリへ赴き、その後スペインを旅行、翌年にはサンパウロへ渡り8ケ月間滞在し、翌29年早々からメキシコに5月まで滞在したのち6月に帰国した。帰国の年の第1回現代日本美術展に「アマゾンの人間たち」を出品する。同31年、芸術選奨文部大臣賞を受賞。同32年、第4回日本国際美術展に「埋葬」を出品し日本部の最優秀賞を受け、同37年の第5回現代日本美術展では「黒人霊歌」で国立近代美術館賞を受賞した。この間、同29年に美術文化協会建て直しのため再入会したが、同32年には再び脱会する。同40年にはニューヨークに滞在しハーレムの黒人たちをモチーフに精力的に制作、この前後、画面は朱、緑、黄、黒などの線条による強烈なものとなった。同46年からは、ダンテの『神曲』からのモチーフによる作品、さらに、日本の地獄説話からのモチーフによる地獄絵の制作へと向い、アクリル絵具を用いた色彩は朱を中心に更に強烈となった。同47年には東京駅中央口にステンドグラス「天地創造」を制作する。同49年、東京セントラル美術館で個展「厭離穢土欣求浄土」を開催、また、同年開館の群馬県立近代美術館に初期から近作に至る46点を寄贈した。同53年、国立国際美術館で「地獄絵・福沢一郎の世界」展が開催される。この間、昭和35年に多摩美術大学教授に就任、同37には女子美術大学教授を兼ね後進の指導にあたり、同43年には多摩美術大学学長事務取扱もつとめた。同47年、富岡市名誉市民の称号を受け、同53年には文化功労者に選任される。平成2年、多摩市にワンマン美術館である東京国際美術館が開設され、翌3年には文化勲章を受章した。80歳を越えても各地に大壁画を制作し、活発な新作発表を行った。画集に『福沢一郎画集〈蟹のよこばい〉』(求龍堂、昭和44年)、『福沢一郎作品集』(小学館、同62年)などがある他、新聞、美術雑誌等への執筆は昭和6年以来すこぶる多い。なお、年譜、文献に関しては、「福沢一郎展」図録(群馬県立近代美術館、世田谷美術館、昭和63年)に詳しい。

重森弘淹

没年月日:1992/10/13

 武蔵野美術大学教授、東京総合写真専門学校長の写真評論家重森弘淹は10月13日午前7時15分、心不全のため東京都大田区の東邦大学大森病院で死去した。享年66。大正15(1916)年7月27日、岡山県上房郡に生まれる。昭和19(1944)年京都府立桃山中学校を卒業し、同21年同志社大学文学部に入学するが同23年4月に中退。同25年8月から月刊誌「いけばな芸術」の編集に従事。同30年6月上京し、この頃から安倍公房らが結成した「夜の会」に参加。同年より写真評論を始める。同32年多摩美術大学講師となり写真理論を講じ、翌年より武蔵野美術大学講師を併任。同33年9月東京フォトスクールを創立する。同41年、同校を学校法人写真学園東京総合写真専門学校と改め、同校理事長、校長を兼任した。同48年写真評論誌「写真批評」を創刊。同49年日本映像学会の設立に参加。同55年多摩美術大学ならびに武蔵野美術大学客員教授となったが、平成2(1990)年に武蔵野美術大学に映像画科を新設するのに伴って同科教授となり多摩美術大学を退いた。東松照明、奈良原一高らを早くから紹介するなど写真界の若手育成に尽くしたほか、北海道東川町国際写真フェスティヴァル等の審査員をつとめるなど、写真芸術の振興に寄与した。著書に『現代の写真』(社会思想社)、『広告写真を考える』(誠文堂新光社)、『写真芸術論』(美術出版社)、『現代のいけばな』(八阪書房)等がある。

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