本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,850 件)





円山応祥

没年月日:1981/07/21

 日本画家円山応祥は、7月21日午後7時15分、老衰のため京都市右京区の双ヶ丘病院で死去した。享年77。1904(明治37)年11月2日、円山応挙の五代末裔応陽の子として京都に生まれる。本名は国井謙太郎。円山派は、応挙以後多くの画家を輩出したが、宗家は、応瑞、応震、応立と続いたところで絶家、このため応震の妹が国井家に嫁して生んだ国井応文が円山五世となり、応陽、応祥と続いていた。応祥は円山派七世を号している。応祥は父応陽に画を学び、京都市立絵画専門学校を中退、父の没後、一時山元春挙に師事した。田鶴会に所属していたものの個展のほかにあまり発表の機会は多くなかったが、円山派絵画の鑑定者としても知られた。

田中道久

没年月日:1981/07/19

 国画会会員の洋画家田中道久は、7月19日肝硬変のため東京都清瀬市の結核研究所病院で死去した。享年66。本名武久。1915(大正14)年1月3日新潟県南蒲原郡に生まれ、県立村松中学を経て東京美術学校油画科に入学、小林万吾に師事し39(昭和14)年卒業した。在学中の38年第13回国画会展に「温室」が初入選、以後40年から3年間の兵役期間を除き同展に出品する。43年には松竹映画会社に入り海軍省企画南方宣伝教育映画製作にも従事した。戦後10年間新潟県加茂市に居住、この間、47年第22回国展に「日論」「加茂川」「けし」を出品し国画会賞を受け翌年国画会会友となり、53年国画会会員に推挙される。58年から10年間国画会事務局を担当する。65年にはオランダ、スペイン他にスケッチ旅行を行い、翌年銀座資生堂画廊で個展を開催した。国展出品作に「背面裸婦」(14回)「蓮」(15回)「ほうづき」(18回)「雪の暁」(19回)「つるうめもどき」(21回)「踊子」(38回)「カラコンス」(49回)「メクネスの城塞(モロッコ)」(50回)「ステンドグラス」(51回)「ナザレの漁夫」(53回)等がある

矢部友衛

没年月日:1981/07/18

 戦前の前衛絵画に大きな影響を与えた洋画家矢部友衛は、7月18日老衰のため東京都田無市の第一病院で死去した。享年89。1892(明治25)年3月9日、新潟県岩船郡に生まれ、1918(大正7)年東京美術学校日本画科を卒業する。卒業の年アメリカへ渡航、翌19年パリへ渡り、はじめアカデミー・ランソンでモーリス・ドニに学ぶが、その後キュビスムをはじめ当時の新傾向の絵画に影響を受けて22年に帰国。同年の第9回二科展に立体派の画風による裸婦「習作 其一」「習作 其二」を発表するとともに、神原泰、中川紀元、古賀春江ら二科の前衛作家13名によるグループ「アクション」結成に加わった。24年に「アクション」分裂後「三科造型美術協会」創立に参加、翌年同協会解散後は浅野孟府、岡本唐貴らと「造型」(28年、未来派ロマンチシズムを駆遂し、ネオ・リアリズムを旗印とする「造型美術家協会」に再編)を創立した。26年から翌年にかけてモスクワを訪れ、プロレタリア美術を研究するとともに、「新ロシア美術展」(朝日新聞社主催で27年5-6月に東京、大阪で開催)開催に尽力した。29年にはナップ成立に伴い、日本プロレタリア美術家同盟創立(PPのちJAP)に参加し委員長に就任する。40年に再渡米しニューヨークで個展を開催、この時東西文化の全面的交流による綜合リアリズム運動を提唱する。44年神奈川県湯河原に疎開、ここで「農民百態」シリーズ(生前50態余を制作)を計画する。戦後の46年、岡本唐貴との共著『民主主義と綜合リアリズム』を出しその運動を提唱、同年旧JAPのメンバーと「現実会」を結成した。48年には日本共産党に入党、68年には郷里村上に画室を設け「農民百態」の連作をつづけた。80年に米寿記念『画集 矢部友衛』を刊行する。作品は、滞欧中の「裸婦」(1920)をはじめ、三科出品の「私の名はネオ・ロマンチストです」、プロレタリア美術大展覧会出品の「職場帰り」(1928)、「労働葬」(1929)、「音」(1930)、「凱歌」(1931)などがある。

岡田正二

没年月日:1981/07/08

 新制作協会会員、日本水彩画会会員の洋画家、水彩画家岡田正二は、7月8日骨肉しゅのため千葉県我孫子市の自宅で死去した。享年68。1913(大正2)年2月8日東京都京橋区に生まれ、保善商業学校を卒業後、34(昭和9)年蒼原会研究所を経て中西利雄に師事し水彩画を学ぶ。38年新制作協会第2回展に水彩画「滞船」が初入選、日本水彩画会展にも初入選し以後両展に出品を続ける。61年新制作第25回展に「海辺の石」「海辺の岩」各百号の大作を出品、新制作協会絵画部会員となり、その後も大作を出品し注目される。また、63年日本水彩画会賞を受賞し日本水彩画会会員となる。54年国立近代美術館で開催された「日米水彩画展」には自選作品5点を出品、63年には第1回の個展(中央公論画廊)を開催した。64、66年の現代日本美術展に入選し、67年には水彩画「七月の間(海辺)」が国立近代美術館に収蔵された。作品は他に「小屋の見える窓」「夜の都会」「ロードスの月」「遺跡」など。

中儀延

没年月日:1981/07/07

 染色作家の日本工芸会正会員中儀延は、7月7日脳出血のため金沢市南新保町の石川県立中央病院で死去した。享年86。1895(明治28)年2月6日金沢市に生まれ、石川県立工業学校卒業後は加賀小紋染の修行を積む。1963(昭和38)年の第10回日本伝統工芸展に入選後、1968(昭和43)年には正会員となり、1972(昭和47)年の第19回日本伝統工芸展では会長賞を受賞、金沢文化賞・北国文化賞も受け、1978(昭和53)年には石川県指定無形文化財と加賀小紋保持者認定を受け、加賀小紋染の第一人者として活躍した。

山田光春

没年月日:1981/06/29

 主体美術協会創立会員の洋画家山田光春は、6月29日午後9時25分、肺ガンのため名古屋市中央区の国立名古屋病院で死去した。享年69。1912(明治45)年3月21日愛知県西加茂郡に生まれ、34(昭和9)年東京美術学校を卒業、宮崎県に中学校教師として赴任し、宮崎美術協会創立に参加したのを契機に、瑛九を識る。その後愛知県に戻り、37年の第1回自由美術家協会展に「門」(ガラス絵)等6点を出品して協会賞を受賞、会友に推挙された。以後同展に毎回出品し、40年第4回美術創作家協会展(自由美術改称)出品作「一人」「二人」により、会員に推挙される。またガラス絵に対する関心も深く、48年日本硝子協会の創立に参加、以後毎年出品している。52年には創造美育協会を創立、また64年に自由美術協会を退会して主体美術協会の創立に参加した。美術教育に於ける尽力が大きく、東海地方の多くの美術文化活動に携わったほか、愛知県立女子大学、大垣女子短期大学などで教鞭をとった。著作に「瑛九の会」の機関誌での連載をまとめた『瑛九』(青龍洞76年)、『藤井達吉の生涯』(風媒社)、『よい絵よくない絵』(黎明書房)などがある。没後勲三等瑞宝章を受章

山鹿清華

没年月日:1981/06/26

 染織美術の草分け的存在であった文化功労者で芸術院会員の山鹿清華(本名健吉)は、6月26日急性肺炎のため京都市中京区の高折病院で死去した。享年96。1885(明治18)年3月22日京都市に生れた。軍学者山鹿素行の子孫。西陣織に従事していた四番目の兄の影響で、小学校卒業後、織図案家の西田竹雪の内弟子になり、並行して日本画の勉強もする。10年間の年期奉公があけると、図案家として当時の第一人者であった神坂雪佳に師事し、明治末期から大正にかけて、関西図案会・新工芸院・京都図案家協会などの創立に尽くした。現代のファイバーアートのはしりを行く染織美術作品を、撚糸や染など広く内外の染織技法の研究を続けて独自の手織錦を考案、1925(大正14)年のパリ万国装飾美術工芸博で手織錦「孔雀」がグランプりを受け、以後数多くの優作を発表した。1927(昭和2)年の帝展工芸部で手織錦「オランダ舟」で特選、第7回日展出品の「無心壁掛」及び撚糸染法の新生面開拓によって1951(昭和26)年芸術院賞を受賞した。以後日展などの審査員をつとめ、工芸作家の第一人者といわれるに至った。1957(昭和32)年に芸術院会員に、1969(昭和44)年文化功労者に選ばれた。1974(昭和49)年に勲二等瑞宝章受章。

岡田譲

没年月日:1981/06/26

 前東京国立近代美術館長岡田譲は、6月26日肝臓腫瘍に肺炎を併発し、東京都中央区の国立がんセンターで死去した。享年70。1911(明治44)年1月2日東京の生まれ。34(昭和9)年東京帝国大学文学部美学美術史学科卒業、同年11月東京帝室博物館(現東京国立博物館)の研究員となり、38年帝室博物館鑑査官補、47年国立博物館事業課文部技官、55年資料課長、58年普及課長、59年美術課長を経て、65年学芸部長となる。69年文化庁文化財保護部文化財鑑査官、72年東京国立近代美術館長となり、76年1月までつとめた。退官後は、文化財保護審議会専門委員をはじめ諸団体の委員や各博物館・美術館の顧問等のほか、77年から共立女子大学教授を亡くなる迄つとめた。81年勲二等瑞宝章を受ける。専門は工芸史で、特に漆工を中心とした研究論文が多い。また伝統工芸や現代工芸についての美術評論でも活躍している。主著 日本工芸図録(朝日新聞社1952)、日本美術全集工芸編上・下(東京文化出版1954)、調度(至文堂1966)、ガラス(至文堂1969)、南蛮工芸(至文堂1973)、日本の漆工(小学館)、正倉院の漆器(至文堂1978)、東洋漆芸史の研究(中央公論美術出版1978)、美と風土-名品・名匠との出会い(講談社1979、昭和54年度芸術選奨文部大臣賞受賞)等。

新道繁

没年月日:1981/06/10

 日本芸術院会員、光風会理事長、日展常務理事の洋画家新道繁は、6月10日心筋コウソクのため東京都板橋区の都養育院付属病院で死去した。享年74。昭和30年代以来、「松」一筋に描き続ける画家として知られた新道は、1907(明治40)年3月25日福井県板井郡に生まれ、1924(大正13)年東京府工芸学校を卒業した。在学中から水彩画に親しみ、25年の第6回帝展に水彩画「早春」が初入選しデビューした。翌年の第7回帝展に油彩画「麗園」が連続入選し洋画家の道へ進み、帝・文展へ出品を続け、41年文展無鑑査となった。この間の新文展出品作に「白衣」(2回)「少女」(3回)「西湖雪」(5回)があり、40年の紀元二千六百年奉祝記念展には「白服の女」を出品した。また光風会展へも出品し34年に光風会員に推される。41年から翌年にかけて中支・北支を旅行する。戦後も日展、光風会展を中心に制作発表を行い、58年、社団法人日展発足とともに評議員となり、同年の第1回展出品作「スペインの水売り」で文部大臣賞を受賞、ついで60年には第3回日展出品作「松」で日本芸術院賞を受けた。この頃から松をテーマにとりくみ、「松の作者」として注目され始めた。この間48年には光風会の同志鬼頭鍋三郎、田村一男、森田元子らと青季会を結成し、展覧会を開催した。日展常務理事、光風会理事長も歴任した。日展出品作1946年 第1回 「花の村」1947   3 「紅葉」(招待)1949   5 「室内」(依嘱)1951   7 「唐の微笑」1952   8 「古風な椅子」1953   9 「ふくろ」1954  10 「冬の日」1957  13 「南仏の家」1958 社団法人日展第1回「スペインのみづうり」(評議員)1959        2 「スペインの旅」1960        3 「松」1961        4 「松」1962        5 「修学院林泉」1963        6 「伊豆の松山」1966        9 「松島」1967       10 「松」1968       11 「松」1969 改組第1回日展 「松」(理事)1970    2 「松」1971    3 「松」1972    4 「松」1973    5 「松」 (評議員)1974    6 「松」1975    7 「松」 (理事)1976    8 「松」1977    9 「松」1979   11 「松」1981   13 「松」

斎田梅亭

没年月日:1981/06/01

 人間国宝の截金師斎田梅亭は、6月1日午後5時45分心筋梗ソクのため、京都市西京区の西京都病院で死去した。享年81。1900(明治33)年4月6日、京都市下京区に、斎田万次郎の五男として生まれる。本名は右五郎。斎田家は、西本願寺専属の截金仏画師で、父万次郎は四代目、長兄晨三郎が五代目である。梅亭は、1920(大正9)年京都市立美術工芸学校図案科を卒業し、晨三郎について截金技術を学んだ。金・銀箔を細かく切り、本来仏像や仏画を装飾する技法である截金を、工芸品に応用することを研究した梅亭は、36(昭和11)年の改組第1回帝展に「歳寒三友ノ図截金屏風」で初入選し、54年まで、新文展、日展に入選を重ねている。45年3月に兄晨三郎が没したため六代目を継承、家業を継ぐ一方で、截光会を結成し、新しい装飾工芸の開拓に努めた。54年に日本工芸会が創設されてからは同展に出品し、59年の第6回展で「截金飾筥」が奨励賞を受賞、61年には会長賞受賞とともに正会員に選ばれた。また64年第11回展で審査委員をつとめて後、たびたび同委員をつとめている。74年には、東京都港区の赤坂離宮迎賓館の調度品として、代表作のひとつである截金の四曲屏風一双「霞文様」を制作、仏教美術の分野の一技法にとどまっていた截金を、工芸美術の域まで高めた功績が認められ、75年勲四等瑞宝章を受章した。また77年の京都府美術工芸展では大賞を受賞、同年京都府美術工芸功労者に選ばれ、この4月には人間国宝(重要無形文化財保持者)に認定されたばかりだった。屏風や飾筥、茶器などに施された截金の装飾は、繊細で現代的な感覚のもとに見事に甦っている。主要作品は、上記のほか、「截金菜華文飾筥」(61年)、「波頭文飾筥」(67年)「華(小屏風)」(69年)「六万飾筥」(74年)など、

坂井範一

没年月日:1981/05/27

 新制作協会会員の洋画家坂井範一は、5月27日気管支炎のため岐阜県の自宅で死去した。享年82。1899(明治32)年2月14日岐阜県加茂郡に生まれ、1922(大正11)年岐阜県師範学校卒業後、翌年東京美術学校図画師範科へ進み26年卒業する。卒業と同時に岐阜県女子師範学校に奉職、同年の第7回帝展に「憩へる女」が初入選。1931(昭和6)年再上京し東京美術学校研究科に入り藤島武二に師事、35年の第二部会に「青い静物」が入選、翌36年新制作派協会第1回展に「浴後」「裸婦」を出品し新作家賞、37年の第2回展には「海辺」等で新制作派協会賞、39年第4回展でも新作家賞をそれぞれ受賞し、40年新制作派協会会員に推挙された。また、同40年の紀元二千六百年奉祝展には「船の制作場」を出品する。45年に岐阜市に疎開し、戦後は同地に定住、49年岐阜大学学芸学部芸術科の教授に就任す。新制作協会展に作品を発表する側ら地域の美術教育に積極的に関与し、52年には岐阜県造形教育連盟を組織し初代委員長に就任した。この間、51年にイサム・ノグチが岐阜を訪れ、坂井家を拠点に堤燈のデザインを行ったのに影響され、現代デザインにも関心を示すようになる。62年、岐阜大学を定年退官後も、愛知女子短期大学、東海女子短期大学に教えた。また、71年に岐阜日日賞を受け、81年には紺綬褒章を受章する。新制作への出品は他に、「洲の暁」(6回)、「渓流」(24回)、「船A」(29回)、「古い物語A」(34回)などがある。

井上三綱

没年月日:1981/05/19

 元国画会会員の洋画家井上三綱は、5月19日老衰のため神奈川県小田原市の自宅で死去した。享年82。1899(明治32)年1月15日、福岡県八女郡に生まれ、1916(大正5)年福岡県小倉師範学校に入学、在学中に画家を志し卒業後上京、本郷絵画研究所に学んだのち、23年から同郷の先輩坂本繁二郎に師事する。1926(大正15)年第7回帝展に「牛」が初入選、以後7回帝展・新文展に出品、30年には牧雅雄について彫刻も学び、日本美術院展に彫刻作品を2度(第15、16回)出品した。43年、造形芸術社から『万葉画集』を刊行、45年には「古事記屏風」を制作、翌年から箱根早雲寺に参禅した。50年にイサム・ノグチの訪問を受け、またエリーゼ・グリリー女史を知り制作上の自信を得、同年の第24回展から国画会展に出品、翌年の25回展に「たいくつした牛」「水辺の馬」を出品し国画会会員に推挙された。55年、ニューヨーク、ブルックリン展に前年作の「裸婦群像」「浴後」を出品、57年にはサンパウロ・ビエンナーレ展に「しゃがみかけた牛」(50年作)「驚」(51年作)を出品、またニューヨーク近代美術館における国際水彩展にも出品した。この間、53年の第2回日本国際美術展に「農」他1点、翌54年の第1回日本現代美術展に「第一の日」「牛小屋」を出品、国際展は59年の第5回、現代展は60年の第4回展までそれぞれ出品した。59年、美術出版社から『画集 井上三綱』を刊行する。61年、国画会を退会し、以後無所属となる。74年には、セントラル美術館で屏風絵による個展を開催した。国展への出品作に「海辺の牛」(26回)、「まるまげの女」(30回)、「はたおり」(31回)、「働く女」(34回)などがある。

里見勝蔵

没年月日:1981/05/13

 国画会会員の洋画家里見勝蔵は、5月13日心筋こうそくのため鎌倉市の自宅で死去した。享年85。大正から昭和にかけてフォーヴィスムを紹介し、当時の画壇に大きな影響を及ぼした里見は、1895(明治28)年6月9日、京都市四条に生まれた。生地は現在の大丸百貨店敷地内にあたり、かつて近隣に松村呉春、円山応挙も住み、当時は安井曽太郎、梅原龍三郎の家とも四、五丁程度離れた場所であった。京都府立第二中時代は音楽家を志したこともあるが、後に音楽評論家となった野村光一等と東京美術学校日本画科出身の鈴川信一(のち東京美術学校教授)に図画を学び、1913(大正2)年卒業後関西美術院に入り鹿子木孟郎の指導を受けた。翌14年東京美術学校西洋画科に入学、長原孝太郎に素描を、小林万吾、藤島武二、黒田清輝に油絵を学び、19年に同校を卒業する。渡欧前の池袋時時代では、美校三年生の頃知った安井曽太郎を最も尊敬し、セザンヌにも傾倒、また在学中の17年には鍋井克之の勧めで第4回二科展に「職工」を出品し初入選、同年の第4回院展にも「下濱風景」が入選する。21年にフランスへ留学、マチス、ドラン、ブラック、ブラマンクらフォーヴィズム隆盛期のパリ画壇にあって、ブラマンクに師事しその薫陶を受けた。渡仏中、前田寛治、小島善太郎らと交友、佐伯祐三をプラマンクに紹介したことでも知られ、また、24年には「巴里の展覧会-ルオーの展覧会を観る-」を「中央美術」(105号)に投稿、これがわが国における最も早いルオー紹介となった。25年に帰国後京都に居住、同年の第12回二科展に滞欧作「マリーヌの記念」など7点を出品し樗牛賞を、27年の第14回展には「裸女の化粧」など6点を出品し二科賞をそれぞれ受賞、28年二科会会友、30年同会員に推挙される。一方、26年に渡仏中交友のあった前田、小島、木下孝則、佐伯祐三と5名で里見の命名による一九三〇年協会を設立、同年5月に日本橋区北槙町の日米信託ビル階上に第1回展を開催し、滞欧作40点を出品した。同展は所期の目的である1930年の第5回展まで続けられて解散し、里見は二科会会員も辞し同年11月児島善三郎、林武、三岸好太郎らと独立美術協会を創立、翌31年の第1回展に「女(独立記念)」など8点を出品、以後第7回展まで出品を続けた。この間、29年に上京し井荻にアトリエを新築し移住する。54年、独立美術協会を退会し、以後美術団体に所属せず井荻で制作を続けたが、戦後の54年国画会に会員として加わり、同年4月に再渡仏、ブラマンクをはじめガシェ、ザッキンらに再会し、58年に帰国した。翌59年第33回国画会展に滞欧作「ルイユの家」など8点を出品、以後81年の第55回展まで毎年出品する。62年には井荻から鎌倉山に移転、67年に「里見勝蔵近作展」を東京日本橋三越で開催、68年には「里見勝蔵第一回自選展」(10月22日-27日)を同三越で開催した。晩年まで一貫してフォーヴの画風を展開、強烈な色彩と奔放な筆触による独自な画境を拓いた。著書に『ブラマンク』『異端者の奇蹟』『赤と緑』『画魂』など。主要出品目録1917年 4回二科展 「職工」(初入選)1918年 5回二科展 「静物」1919年 6回二科展 「静物」1921年 8回二科展 「肖像」1925年 12回二科展 「マリーヌの記念」「渓谷の春」「静物B」「雪景」「静物C」「プロヴァンス風景」「肖像」(樗牛賞)1926年 13回二科展 「友人の肖像」「静物」「静物」1927年 14回二科展 「軍人の肖像」「横はる女」「静物」「裸女の化粧」「南方の男」「裸女」(二科賞)1928年 15回二科展 「娘の化粧」「「シャボテンと石膏像」「女(一)」「静物」「女(二)」1929年 16回二科展 「女」「静物」「女」「肖像」「肖像」1930年 17回二科展 「女」「女」「女二人」「静物」「女と花」1931年 1回独立展 「マネキンの静物」「静物」「肖像」「男の首」「女(独立記念)」「家族」「静物」「女の顔」1932年 2回独立展 「静物」「画室にて」「女児」「女」1933年 3回独立展 「女」「女」「姉妹」「あじさゐ」「黄衣女」1934年 4回独立展 「少女像」「静物」「女」「水蓮と緋鯉」「少女像」1935年 5回独立展 「題未定」(三点、博覧会目録による)1936年 6回独立展 「肖像」「富士・桜」「荒磯」「女」1937年 7回独立展 「女」「チューリップ」「仏像」「少女」「富士」1959年 33回国展 「ルイユの家」「パンの静物」「赤毛の女」「イビザの岩石」「花束」「老友像」「曠野」「雪山」1960年 34回国展 「グラナダの郊外」「少女像」「マリーヌの早春」1961年 35回国展 「峡谷」「高原」1962年 36回国展 「イビザの田野」「橄欖」1963年 37回国展 「IBIZAの海岸」「イル・ド・フランス」1964年 38回国展 「ヴァルモンドア」1965年 39回国展 「道」「花」1966年 40回国展 「ラ・トゥルイエール」1967年 41回国展 「ペール・ギランの家」1968年 42回国展 「オーベルの農家」1969年 43回国展 「ノルマンディ風景」1970年 44回国展 「農家」1971年 45回国展 「ベアトリス」1972年 46回国展 「女の顔」1973年 47回国展 「アコ」1974年 48回国展 「イビザの山野」1975年 49回国展 「千」1976年 50回国展 「婦人像」1979年 53回国展 「顔」1980年 54回国展 「顔」1981年 55回国展 「風景」

清水多嘉示

没年月日:1981/05/05

 日本芸術院会員、文化功労者の彫刻家清水多嘉示は、文化功労者に選ばれた記念展(5月5-10日、三越)開催初日の5月5日心不全のため東京大田区の東邦医大付属大森病院で死去した。享年83。戦後の具象彫刻をリードした一人である清水は、1897(明治30)年7月27日長野県諏訪郡に生まれ、最初洋画から出発し、1920(大正9)年第6回二科展に「風景」「カルタ」が初入選し、同展に第9回展まで出品した。23年に美術研究のため渡仏しブルデルに師事、その建築的構造性を重んじる彫刻を学んだ。28年までの渡仏中、サロン・ドートンヌに絵画及び彫刻を毎年出品、また、サロン・デ・チューレリー、サロン・デ・ザンデパンダンの各会員に推された。28年に帰国後、院展、国展、春陽会展等に出品したのち、文展へ出品し、43年第6回文展ではじめて審査員をつとめ「植樹」を出品する。戦後は日展を中心に活躍し、53年第8回日展出品作「すこやか」で芸術選奨文部大臣賞、54年第9回日展「青年像」で日本芸術院賞をそれぞれ受賞した。また、51年には上野公園内設置の彫刻コンクールに応募した「みどりのリズム」が一位入選、翌52年にはサンパウロ・ビエンナーレに出品。54年ヴェニスで開催された国際造形芸術会議に日本首席代表として出席し、国際造形芸術連盟設立とともに、その執行委員に選任された。64年、ジュネーヴの国際電気通信連合(ITU)創立百年記念事業としてのモニュマンのための「国際彫刻コンクール」の審査員にザッキン、マリニらとともに挙げられ、翌年審査に携わる。65年に日本芸術院会員、80年文化功労者に選任されたほか、日展顧問、日彫会名誉副会長などを歴任、また武蔵野美術大学名誉教授でもあった。著作に『ドナテルロ』(1940年)『ブルデル』(1956年)などがある。日展出品歴1946年 第1回 「母子像」1946年 第2回 「婦人の頭」1947年 第3回 「海」1948年 第4回 「裸婦」1949年 第5回 「村上翁像」(依嘱)1950年 第6回 「La Meditation」(参事)1951年 第7回 「フラートン少佐」1952年 第8回 「裸婦」1953年 第9回 「青年像」1954年 第10回 「F子の頭」1955年 第11回 「マドモアゼル・カリーン」1956年 第12回 「裸婦」1957年 第13回 「裸婦」1958年 社団法人日展第1回 「青年」(評議員)1959年 第2回 「裸婦」1960年 第3回 「裸婦」1961年 第4回 「裸婦」1962年 第5回 「響」1963年 第6回 「浩」1964年 第7回 「爽」1966年 第9回 「裸婦}(理事)1967年 第10回 「裸婦」1968年 第11回 「裸婦」1969年 改組第1回 「裸婦」1970年 第2回 「裸婦」1971年 第3回 「純」1972年 第4回 「裸婦」1973年 第5回 「裸婦」1974年 第6回 「母子」(顧問)1975年 第7回 「裸婦」1976年 第8回 「躍動」1977年 第9回 「陽光」1978年 第10回 「躍動」1979年 第11回 「飛躍」1980年 第12回 「飛躍」1981年 第12回 「瞑想」

奥田正治郎

没年月日:1981/05/05

 日展会友の日本画家奥田正治郎(雅号・正治良)は、5月5日午前4時15分、心筋コウソクのため、京都府宇治市の曽根病院で死去した。享年79。1901(明治34)年8月15日三重県宇治山田市に生まれ、京都市立絵画専門学校(現京都市立芸術大学)に入学、1930(昭和5)年に同校研究科を修了した。また、都路華香、西村五雲らに師事し、38年に五雲が没した後は、山口華揚が引継いだ晨鳥社に所属した。26年の第7回帝展に「花園養蜂」が初入選し、以後帝展・日展に24回入選している。このほか京都市展にも出品した。代表作は、日展出品作の「蒼」「青柿」など

小池新二

没年月日:1981/05/04

 元九州芸術工科大学長、元千葉大学教授の小池新二は、5月4日急性呼吸不全のため東京都三鷹市の杏林大付属病院で死去した。享年79。造形理論及び造形史を専門にし、とくに工業意匠の分野で幅広い活動をした小池は、1901(明治34)年11月23日東京に生まれ、東京府立一中、松本高等学校を経て、27(昭和2)年東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業、同年の帝国美術学校創設に関わりのち教授をつとめる。戦前は建築運動に積極的に関与し、建築博物館設立を提唱した他、36年には戦後の建築運動の思想的架橋ともなった日本工作文化連盟結成に加わり理事をつとめ、42年にはアルス社から『汎美計画』を刊行した。また、この間「建築世界」「建築時潮」の編集執筆に携わり、商工省工芸指導所専任技師をつとめる。戦後の48年から翌年にかけて「工芸ニュース」海外新刊紹介欄を担当、マンフォード『人間の条件』、ギーディオン『機械化の支配』などを紹介、また日本貿易博覧会渉外部嘱託、同協会企画専門委員として、横浜博、神戸博等の企画に参与する。50年千葉大学教授に就任し、翌年同大工学部工業意匠学科創設に携わった。54年には『世界の現代建築』『世界の現代住宅』(彰国社)の企画並びに出版に対して日本建築学会賞を受賞する。その後、56年に日本生産性本部第1回米国工業デザイン視察団団長として渡米したのをはじめ、ジャパン・デザイン・ハウス運営委員会委員(59年)、第12回ミラノ・トリエンナーレ展示会現地日本事務局長及び欧州デザイン事情視察日本代表(60年)、通産省工業技術院産業工芸試験所技術顧問などを歴任し、64年文部省産業芸術大学(仮称)設置に関する調査委員となる。67年、千葉大学を退官し、九州芸術工科大学創設準備室長に就任、翌年九州芸術工科大学初代学長となり74年まで在職した。75年からは、79年に開館した福岡市立美術館の設立専門委員となり、同館開館展となったアジア展実行委員会第一部会長もつとめた。この間、65年に『デザイン』を出版、72年に勲二等瑞宝章を受け、また、78年から会津若松市国立大学設置準備委員会専門委員となった。

松田軍平

没年月日:1981/04/23

 元日本建築家協会会長の建築家松田軍平は、4月23日心不全のため神奈川県藤沢市の岩淵内科医院で死去した。享年86。1894(明治27)年10月8日福岡県に生まれ、名古屋高等工業学校建築科卒業後に渡米、コーネル大学建築学科を卒業する。ニューヨーク市、トローブリッヂ・エンド・リビングストン設計事務所に勤務し、バンク・オブ・アメリカ等の設計に従事したが、三井本館工事監理副主任として帰国する。1931(昭和6)年平田重雄と松田建築事務所(42年松田・平田設計事務所、66年株式会社松田平田坂本設計事務所と改称)を創設した。48年から1年間日本建築士会会長に就任、50年から57年まで日本建築学会理事をつとめ、56年及び68年から各3年間、社団法人日本建築家協会会長の要職にあった。71年には財団法人文化財建造物保存技術協会監事となり、75年から80年まで日本建築設計監理協会連合会会長をつとめたほか、建設省建築審議会委員なども歴任した。この間、使いやすい実質的な設計を基本理念として、代表作に日本長期信用銀行本店(61年)、三井生命本社ビル(同)、羽田・東京国際空港ターミナルビル(64年)、日本銀行本店(73年)などがある。58年、フィリピン建築家協会名誉会員、米国建築家協会名誉会員に推された。

中村直人

没年月日:1981/04/22

 二科会会員の洋画家中村直人は、4月22日敗血症のため東京港区の東京船員保険病院で死去した。享年75。本名直人。1905(明治38)年5月19日、長野県小県郡に生まれ、神川尋常小学校時代に山本鼎の農民美術研究所(同小学校内)で美術に触れ、山本の紹介で1920(大正9)年日本美術院同人吉田白嶺の内弟子となり木彫を学ぶ。24年第13回日本美術院展に木彫「清韻」が初入選、以後同展へ彫刻作品を出品し、29(昭和4)年第16回院展に「少女立像」を出品、日本美術院院友となり、翌年の第17回展では「道化役者」で日本美術院賞を受賞、36年第23回院展に「鈿女命」を出品し美術院同人に推挙された。37年北支戦線に従軍、翌年春銀座松屋で「北支従軍スケッチ展」を開催、39年聖戦美術展に「工兵」を出品し受賞、42年海軍報道班として従軍、同年岩田豊雄の朝日新聞連載小説『海軍』の挿絵を担当した。戦後の1952年12月にパリへ留学、13年間の滞在中に油絵を学び個展も開催して注目を集め、64年に帰国、同年銀座松屋で絵画作品による「中村直人滞仏絵画展」(10月30日-11月4日)を開催27点を出品した。70年、二科会絵画部会員として迎へられ、「裸婦」「おびえた子供」「巴里の女」を初出品、72年第52回展には「憩」「荒天」を出品し会員努力賞を受け、80年第65回展出品作「会合」で総理大臣賞を受賞した。彫刻から絵画へ転向した異色作家で、多彩でエキゾチックな女性像を得意とした。二科展への出品は他に「呼びこみ」(51回)、「裸婦横臥」(53回)、「裸婦」(56回、青児賞)、「朝」(59回)、「ピエロの一家」(61回)などがある。

御正伸

没年月日:1981/04/13

 三軌会代表、洋画家で挿絵でも活躍した御正伸は、4月13日心筋コウソクのため東京都西日暮里の関川総合病院で死去した。享年66。1914(大正3)年12月10日、東京・日本橋に商家の長男として生まれ、31(昭和6)年東京市立京橋商業学校を卒業した。37年から川端画学校、鈴木千久馬絵画研究所に学び、39年劇団「青陽会」を結成、美術監修、舞台装置にもあたり、翌年は築地小劇場での『じゃがたらお春』の舞台装置を担当する。戦後、47年の第33回光風会展に「厨房にて」が初入選、53年光風展会友、57年同会員となる。また、50年第6回日展に「裸婦」が初入選、70年まで同展にも出品する。一方、52年日本経済新聞連載の中山義秀作『朝雲暮雲』の挿絵を担当、以後、富田常作『真昼の人』(54年、東京新聞)、柴田錬三郎『剣は知っていた』(55年、東京新聞)、石坂洋次郎『陽のあたる坂道』(57年、読売新聞)、円地文子『愛情の系譜』(60年、朝日新聞)、舟橋聖一『寝顔』(62年、読売新聞)等、毎年新聞連載小説の挿絵を描き、66年講談社挿画賞を受賞、挿絵画の第一人者となった。その後の挿絵には、舟橋聖一『太閤秀吉』(70年、読売新聞)、有吉佐和子『複合汚染』(74年、朝日新聞)等がある。71年に光風会を退会し、翌年三軌会の会員となり第24回展に「庭」を出品、74年第26回三軌会展出品作「太宰府抄」で文部大臣奨励賞を受け、77年からは三軌会代表となった。子供の頃から芝居に親しんだこともあり、早くから古典舞踊、歌舞伎に深い関心を寄せ、それらを題材にした作品が多く、53年頃からは本格的に歌舞伎の連作に入った。80年に日動サロンで「御正伸展」(6月5日-12日)を開催。三軌会展への出品作に、「連獅子抄」(25回)、「安宅」(28回)、「散華」(29回)、「白鷺抄(A)」「同(B)」(30回)、「道成寺抄」(32回)などがある

菱田安彦

没年月日:1981/04/04

 宝石や装飾品などのジュエリーデザイナーとして国際的に知られた武蔵野美術大学教授の菱田安彦は、4月4日午後7時10分、肝不全のため東京都品川区の昭和医大付属病院で死去した。享年53。1927(昭和2)年8月23日岐阜県に生まれ、その後金沢、東京などに移る。44年陸軍予科士官学校に入学し翌年陸軍航空士官学校に進んだところで終戦を迎え、東京美術学校工芸科彫金部に編入、53年に卒業した。この間49年の第5回日展「金工オルゴールの小筥」以来52年の第8回展まで日展に出品し入選している。54年イタリア国立ローマ工芸学校に留学し、ヨーロッパ各地をまわって翌年帰国する。56年に国際工芸美術協会、USアクセサリー協会、クラフト・センター・ジャパンの設立に参加、翌57年には日本ジュウリーデザイナー協会設立に参加し初代理事長に就任している。その後ミュンヘン国際工芸展をはじめ、国際ジュウリー・アート展ほか数多くの国際展に出品し、71、72年にはデビアス・ダイヤモンド・インターナショナル・コンテストの審査員をつとめるなど、国際的に知られていた。また、武蔵野美術大学教授、日本ジュウリー・デザイナー協会常任理事、社団法人日本クラフトデザイン協会会員、財団法人日伊協会理事などもつとめた。著書・訳書には、「美について」「アクセサリー」「宝石の魅力」「世界の宝石美術館」「アートジュウリー」「彫金」他がある。

to page top