本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,850 件)





林唯一

没年月日:1972/12/27

 挿絵画家、林唯一は12月27日心不全のため都内新宿区の自宅で死去した。享年77才。1895年(明治28)1月27日、香川県香川郡に生れた。関西商工学校を卒業し、松原三五郎の天彩画塾で洋画を学んだのち、大正末年から少年少女雑誌の挿絵画家として名声を駈せた。1940年および42年に中国中部および南部に従軍。戦事中の日本少国民文化協会絵画部幹事および日本挿絵家協会委員長。著書「爆下に描く」1948年12月、「郷土の風俗」1960年6月。

沼田一郎

没年月日:1972/12/20

 太平洋美術家協会評議員の洋画家沼田一郎は12月20日横浜市立病院で療養中心不全を併発して死去した。享年70才。沼田一郎は明治35年(1902)5月14日、東京築地に生まれ、川端画学校に学び、大正13年(1924)から辻永に師事した。大正13年6回中央美術展に「慈姑點々」が初入選となり、以後、大正15年4回春陽会「展鉄砲洲神社」、昭和3年9回帝展「新秋晴日」、昭和4年から光風会展に出品、同年16回展「渓流」「伊豆風景」、同5年17回展「麓日新秋」、同6年「屋上展」(レートン賞受賞)、同7年「姥子温泉」他2点、同8年「老母像」、同9年「静物」、同10年「逗子の夏」「都会の橋」、同11年「静物」を出品した。昭和15年には27回二科展に「開花」、同17年からは旺玄社に出品して月光賞をうけ社友となり、18年に同人に推挙された。戦後は旺玄会の創立に参加したがのちに退会し、昭和34年(1959)には太平洋展に出品して会員にあげられ、以後同展に出品した。昭和10年ころからガラス絵をはじめ、昭和23年以降、三越百貨店、壷中居、高島屋百貨店などでガラス絵による個展をしばしば開催した。昭和39年居住地で鎌倉美術家協会の創立に参加、その代表をつとめていた。

内田祥三

没年月日:1972/12/14

 文化勲章受章者、日本学士院会員、元東大総長、工学博士内田祥三は12月14日急性肺炎にため赤坂山王病院で死去した。享年87才。東京都江東区出身。1907年(明治40)に東京帝大工科大学建築学科卒業後、1911年より同大学講師。1921年には教授になり1943年3月から45年12月まで総長に就任。戦後は文化財保護委員を勤め、1972年11月に文化勲章を受賞した。1910年前後から学究生活に入るが、その当時までの石造や練瓦造りの建築に対して鉄骨構造や鉄筋コンクリート構造が日本に移入される時期であったので、防水・防震、構造としての鉄筋コンクリートを基本とする近代都市建築の基礎づくりに貢献した。都市計画法、市街地建築物法の制定にも功績があり、戦時中から戦後にかけての防火建築の研究も都市防火の進歩につくすものが大きかった。関東大震災後の東大安田講堂附属病院、図書館、といちょう並木の建築群および東京海上ビルの設計者でもあった。

福井利吉郎

没年月日:1972/12/01

 東北大学名誉教授福井利吉郎は、12月1日、脳出血のため東京都三鷹市の自宅で逝去。享年86歳。明治19年3月10日、岡久一郎の次男として岡山県児島郡に生れ、明治37年大阪府福井彦次郎の養子となり、天王寺中学・第一高等学校を経て、明治43年7月京都帝国大学文科哲学科を卒業した。爾来60余年美術史家として活動したが、その活動は、研究成果の発表による純学究的寄与、大学教授としての教育上の貢献、文化財保護事業に対する献身の三方面に亙り、それらは緊密に連関している。 明治44年、平子鐸嶺の後任として内務省古社寺保存計画調査を嘱託され、昭和43年に文化財保護審議会専門委員の再任を辞退するまで、文化財の調査・指定・保存に尽瘁すること半世紀余に及んだ。内務省就職以来、上司であった中川忠順の薫陶を受けたが、このことと、古社寺保存会委員であり養父の同窓であった岡倉覚三に親灸したこととは、美術史家としての研究態度と学風形成に多大の影響を与えたものと思われる。王朝美術史論を卒業論文として学窓を出てから、研究の主題は、仏教美術、光琳・宗達・乾山、絵巻物、水墨画と多方面に及んだが、それらの研究は、犀利な構想力と透徹した全体観に支えられ、日本美術史の体系構成をめざしたものであった。また欧米人の日本に関する研究業績を重視し、日本美術の国際的理解を計り、現代美術にも深い関心を示して、展覧会批評を新聞に寄稿した。講壇において後進を教導することきわめて厳格であったが、イギリス在留中、小林古徑・前田青邨に嘱し、東北大学のために伝顧愷之筆女史箴図巻の模本を作成したことは、他に類例の少い教育研究上の貢献といえよう。略歴明治43年9月12日 京都帝国大学文科大学副手明治44年9月26日 内務省古社寺保存計画調査嘱託

横山白汀

没年月日:1972/11/23

 木芸家、日展評議員の横山白汀は、11月23日午前8時30分、心不全のため富山県東砺波郡の井波厚生病院で死去した。享年71歳。告別式が26日午前10時から東別院瑞泉寺で行なわれた。明治34年(1901)5月15日、宝歴13年(1764)井波瑞泉寺再建に端を発し200有余年の歴史と伝統をもつ井波彫刻の名家、横山作太郎の長子として生れた。県立高岡工芸学校に学び、若くして美術工芸の道を志した。昭和16年第4回文展に「木目込屏風」が初入選して以来、当時堂塔彫刻を軸に産業工芸一筋に発展していた井波に美術工芸の新風を吹き込み、今日の芸術的な地位にまで高め、日展に多くの出品作家を擁する芸術の町としての名声を身をもって築き上げた先駆者的存在であった。そのように、戦後は終始日展に出品発表を続け、その間、昭和26年7回日展で「北風(三曲スクリーン)」が特選、新日展第2回(昭34)、第7回(昭39)では審査員をつとめ、昭和45年改組第2回日展「鎮魂歌〈漆〉三曲屏風」が会員中の授賞として桂花賞に輝いた。同47年3月日展評議員に推された。一方、昭和36年発足の社団法人現代工芸美術家協会にも参加し、毎年同展に作品を発表すると共に、その海外巡回展ドイツ開催の折には、代表団の一員として渡欧し1カ月半ばかりの期間にヨーロッパ11ヶ国を訪問した。晩年には同協会理事をつとめた。いうまでもなく郷土工芸美術界の振興と発展に尽くした役割と貢献は大きく、常に後進の指導育成と工芸作家の団結に心を注ぎ、井波美術作家協会、現代工芸美術協会、富山会富山県工芸作家連盟の各委員長を歴任した。

岡田紅陽

没年月日:1972/11/22

 写真家岡田紅陽(本名賢治郎)は11月22日胆嚢癌のため東京虎ノ門病院で亡くなった。享年77才。1895(明治28年)8月31日新潟県十日町市に生れ、1918年7月早稲田大学法律科卒業。1921年より各府県庁や観光機関の依頼で名勝の地を撮影し、以後とりわけ富士山の写真家として国際的にも知られる。社団法人日本観光写真連盟理事長、郵政省審議会専門委員、社団法人日本写真協会常務理事を勤めていた。著書も富士山に関して、ペリカン文庫、朋文堂、社会思想社、雪華社、求竜堂より出版。

道明新兵衛〔7代目〕

没年月日:1972/11/16

 東京・上野池之端の組みひもの老舗「道明」の七代目、無形文化財保存記録提出者の道明新兵衛は、11月16日午後2時、心臓衰弱のため東京都台東区の自宅で死去した。享年68歳。告別式は19日午後2時から台東区の東京本願寺で行なわれた。明治37年10月24日東京・上野で17世紀中葉創設の組紐司の家に生れ、少年期より組紐製作に携った。郁文館中学卒業。去る昭和35年、父の六世新兵衛が在世中、国の重要無形文化財に指定された組みひもの技術を記録にまとめた。37年、父六世の死により、七世新兵衛を襲名。またこの年、皇居で皇后に組みひも技術をご進講、以来毎月皇后にお教えした。主要な研究製作に、正倉院遺物組紐復元模造があり、五世が手がけた平家納経の紐の復元を完成した。著書にひもに関する総合的な研究書「ひも」がある。

佐伯米子

没年月日:1972/11/13

 二紀会理事、故佐伯祐三夫人の佐伯米子は、11月13日午後1時50分、ガン性腹膜炎のため東京・渋谷区山王病院で死去した。享年69才。佐伯米子は、明治36年(1903)7月7日、東京・銀座の象牙貿易商、池田嘉吉の二女として生まれ、虎の門東京女学館を卒業、はじめ川合玉堂について日本画を学んだ。大正10年(1921)5月21日、当時まだ東京美術学校の学生であった佐伯祐三と結婚、翌11年長女彌智子出生、大正12年祐三は美術学校を卒業、この年11月、祐三、彌智子とともに渡欧の船旅につき、大正13年(1924)1月パリ着、大正14年(1925)年12月まで滞在した。その間、夫祐三とともヴラマンクに師事し、大正14年(1925)年のサロン・ドートンヌに「アルルの跳ね橋」が入選した。大正15年(1926)2月、イタリアから帰国の途につき3月帰国した。同年13回二科会展に5点が入選、以後、滞欧期間にも続けて出品入選している。昭和2年(1927)9月、朝鮮をへてシベリア鉄道経由で再渡欧し、フランスに滞在したが、翌昭和3年(1928)8月16日、夫祐三はヌイイ・シュル・マルヌのエヴラール病院で死去し、同月30月には彌智子もグランゾム病院で病没、同年傷心のうちに帰国した。戦前は昭和15年(1940)27回展まで二科会展に出品し、戦後は、二紀会の同人となり、昭和24年(1949)二紀会理事、昭和42年21回二紀展で文部大臣奨励賞を受賞した。作品略年譜二科会展:大正15年(1926)13回展「花」「土鏑のある静物」「辞書のある静物」「シャルボン」「パンのある静物」、昭和2年14回展「室内」「静物」、同3年15回展「洗濯物」「家」、同4年16回展「パンテオンの横」「巴里の台所」「暖爐の傍」「静物」、同5年17回展「ノアール」「キューブ」、同6年18回展「時計の下」「スチーム・ハンマー」、同7年19回展「ヴァヴドマシン」「鍛冶」「スヰフト」、同8年20回展「フレクション・プレス」、同9年21回展「路」、同10年22回展「はりがね」、同11年23回展「村落」、同12年24回展「高原の家」、同13年25展「緑蔭」、同14年26回展「夕映え」、同15年27回展「湖を見るホテル」二紀展:昭和23年2回展「アルルの街」「白壁の家」「静物」、同24年3回展「秋菜」「歌い手の住む」「ヴァンディの家々」、同25年4回展「雁来紅」「カンナ」「村への道」「鐘樓」「ヴェニス」、同26年5回展「爐辺」「秋冷」「回想」「愉楽」、同27年6回展「アンチーブ・テラス」「パリ20区」「ケルメス祭の前夜」「山のホテルA」「ガチェル村(ニース)」「スイスの村B」「山のホテル」、同28年7回展 「ニースの村」「静物」「バラ」「ダリヤ」「静物」、同29年8回展「高原の花1」「高原の花2」「静物1」「アンチーブの城壁」「静物2」、同30年9回展「夜の花束」「秋草」「アンゼリューム」、同31年10回展「秋果」「秋香」、同32年11回展「ラントレ」「マンヂュシャゲ」「白い花」、同33年12回展「美人礁」「静物1」「静物2」、同34年13回展「花」「花」、同35年14回展「五月の静物」「森の秋」「花」、同36年15回展「山楽」「花」「高原の庭」、同38年16回展「或る日の記憶」「秋草」「静物」、同38年17回展「野の花」「静物(バナナのある)」「静物」、同39年18回展「菊」「内玄関」、同40年19回展「くちなし」「山の花」、同41年20回展「山百合」「花叢」、同42年21回展「かのこゆり」「海浜の室内プール」、同43年22回展「花の店」「ひまわり」、同44年23回展「日向」「海浜プール」、同45年24回展「花」「海浜室内プール」、同46年25回展「雑草の花」「時計台の見える石段」

松本姿水

没年月日:1972/10/23

 日本画家松本姿水は、10月23日心臓衰弱のため死去した。享年85才。本名秀次郎。明治20年5月26日栃木県宇都宮市に生れ、同35年上京して日本画を学ぶ旁ら白馬会洋画研究所で洋画を学んだ。大正2年第7回文展に日本画「初秋の朝」が初入選し、同6年川合玉堂に師事した。大正8年第1回帝展に「薫風」が入選し、以後毎年入選し、第6回帝展「暮るゝ春」(二幅対)で特選となった。昭和2年帝展委員となり、同9年第15回帝展では審査員となった。昭和13年野田九浦、岩田正己、望月春江等とともに日本画院を結成、創立同人となり以後同展に出品をつゞける。戦後は、昭和22年第3回日展に招待となり「ひいるむぎ」を出品し、その後も引続き発表している。主要作品「初秋の朝」「ほとゝぎす」「梨の花散る夕」「明暗」等。

高谷重夫

没年月日:1972/10/21

 洋画家高谷重夫は、10月21日死去した。明治34年(1901)1月26日岡山県倉敷市に生れ、金光中学に学んだ。昭和13年より東光会に入り、同16年会員となった。戦後昭和27年光風会に移り、日展にも出品した。そのほか大潮展審査員をつとめ、また個展開催も多い。主要作に「玉島風景」「ビニロン工場」「寒林」「樹林」「大山」「鉄秋」等がある。

熊谷宣夫

没年月日:1972/10/15

 九州芸術工科大学教授熊谷宣夫は膵臓癌のため、10月15日福岡市の自宅で死去した。享年72才。明治33年9月2日山形県に生れ、東京府立四中、一高を経て昭和2年3月東京帝大文学部美学美術史学科を卒業、卒業論文「大和絵肖像画の研究」は直ちに同年の国華に連続掲載され、早くもその天稟を世にあらわした。同年東大文学部副手、5年美術研究所嘱託となり、東洋美術総目録編纂事業に加わって足利漢画を担当し、初期の研究所時代は専らこの方面での基礎的研究に携った。15年1月朝鮮総督府博物館嘱託として渡鮮し、同館に於て大谷探検隊将来西域美術品に触れて以来、当時全く未開拓の分野であった西域美術研究に先鞭をつけた。調査記録の乏しい大谷探検隊収集品の原所在地比定に始まる幾多の労作は、これらを西欧の収集品と対応させつつ実証的に独自の見解を示したもので、研究成果は法蔵館刊行の「西域文化研究」第5冊に集大成され、またこの「西域の美術」の論文で東北大学より文学博士の学位を授与された。これより先19年10月美術研究所嘱託となり、22年8月文部技官、26年2月以来37年3月退職時まで、美術部第一研究室長として後進を誘掖するとともに「美術研究」誌上に健筆を揮い、また永く同誌の編集を主宰して美術部機関誌の充実に努めた。雪舟研究は早く昭和7年の「伝雪舟花鳥図屏風に就いて」にはじまり、死去の年の山陰地方調査旅行、その5月の美術史学会全国大会の研究発表に及び、西域美術研究とならんで主要研究テーマとなったが、その成果の大部分は東大出版会の「雪舟等楊」に結集されている。また朝鮮美術史に関しては、「朝鮮仏画徴」をはじめ教編の論考がある。かくのごとき学究としての長年にわたる真摯な研究活動のほか、東京芸術大学併任教授、東北大学・東京大学・早稲田大学講師として、最晩年は九州芸術工科大学教授として、学生の指導と研究者の養成に力を竭し、また美術史学会の創立とその運営に献身した。略歴昭和2年3月 東京帝大文学部美学美術史学科卒業。東京帝大文学部副手(昭和5年4月まで)昭和5年6月 帝国美術院附属美術研究所嘱託(6年9月まで)昭和8年3月 帝国美術院附属美術研究所嘱託(9年9月まで)昭和15年1月 朝鮮総督府博物館嘱託(19年3月まで)昭和19年10月 美術研究所嘱託昭和22年8月 文部技官昭和26年2月 美術研究所第一研究部長昭和27年4月 東京文化財研究所第一研究室長昭和37年3月 同上退職(38年3月まで非常勤嘱託)昭和38年4月 育英工業専門学校教授(43年3月まで)昭和43年4月 九州芸術工科大学教授昭和45年7月 文化財保護審議会専門委員昭和47年4月29日 勲4等旭日章昭和47年10月15日 死亡、同日叙従4位主要著作目録*単行図書雪舟(東洋美術文庫)アトリエ社 昭和13年12月雪舟(日本の名画)平凡社 昭和31年10月雪舟等楊(日本美術叢書)東大出版 昭和33年7月西域(中国の名画)平凡社 昭和32年2月西域の美術(西域文化研究5)法蔵館 昭和37年3月*論文大和絵肖像画に就いて 国華439~446 2.6~3.1伝雪舟花鳥図屏風に就いて 美術研究3 7.3応永年間の詩画軸 美術研究4 7.4芭蕉夜雨図考 美術研究8 7.8蘭渓道隆像に就いて 美術研究10 7.10玉畹梵芳伝 美術研究15 8.3仁王経曼茶羅考 美術研究20 8.8静山印記ある水墨画軸について 画説2 12.2大原家蔵雪舟筆山水図について 美術研究62 12.2雪舟号に関して 美術研究63 12.3雪舟山水画の一特徴 画説9 12.9雪舟年譜 画説27 14.3雪舟の石見在住と終焉に対する私見 美術研究28、29 14.4、5南満州営城子古墳の漢代壁画 画説51 16.3ベゼクリク第19号窟寺将来の壁画 美術研究122 17.2ベゼクリク第20号窟寺将来の壁画 美術研究126 17.9ベゼクリリ第4号窟寺将来の壁画 美術研究138 19.10キジル洗足洞窟寺将来の壁画 美術研究149 22.3井上コレクションのキジル壁画断片について 仏教芸術2 23.2雪舟画年代考 美術研究155 24.7ミイランの壁画と法隆寺 仏教芸術4 24.7クムトラキンナラ洞将来の壁画について 仏教芸術5 24.11我が古墳に於ける仏教芸術の影響に関する一問題 仏教研究6 25.2李衡文賛の雪舟画山水について 国華700 25.6ベゼクリク第11号窟寺将来の壁画 美術研究156 25.9石芝蔡竜臣 美術研究162 26.9ベゼクリク諸窟寺将来の壁画補遺 美術研究170 28.9東トルキスタンと大谷探検隊 仏教芸術19 28.12クムトラ出土の塑造菩薩頭 大和文華12 28.12大谷ミッション将来の壁画に断片について 美術史11 29.1ギジル第三区摩耶洞将来の壁画 美術研究172 29.3クチャ将来の彩画舎利容器 美術研究177 29.9ベゼクリク第8号窟寺将来の壁画 美術研究178 29.11ミイラン第3及び第5址将来の壁画 美術研究179 30.1大谷ミッション将来の玄奘三蔵画像2図 美術史14 30.2大谷ミッション将来の版画須大拏本生図について 文化20-1 31.1大谷ミッションの西域出土磚像2種 美術史19 31.1雪舟彩色画論 美術研究185 31.3雪舟研究の展望 ミュージアム62 31.5西域出土の双面壷と人面のアプリケ 美術研究186 31.5錦城山石仏試論 美術史22 31.12戊子入明と雪舟上下 美術史23、25 32.1、7西域出土のテラコッタ共命鳥像 美術研究194 32.9東洋美術史・西域の美術 美術手帖132 32.10丁谷山千仏洞旁出土の板絵魯義姑図 大和文華27 33.9コオタン将来の金銅仏頭 美術研究200 33.9中国初期金銅仏の2、3の資料 美術研究203 34.3甲寅銘王延造光背考 美術研究209 35.3大谷コレクション誓願画資料 美術研究218 36.9朝鮮仏画徴 朝鮮学報44 42.7秀文筆墨竹画冊 国華910 43.1九州所在大陸伝来の仏画 仏教芸術76 45.6雪舟資料「雪舟二大字」に関して 仏教芸術79 46.4朝鮮仏画資料拾遺 仏教芸術83 47.1

深水正策

没年月日:1972/10/14

 享年72才。版画家深水正策は1900年9月28日長野県木曽福島の母の郷里で生れた。上智大学中退後アメリカに渡ってコロンビア大学とハーバード大学に学び、またヨーロッパにも渡って6年を過した。太平洋美術会に属する。1957年ごろから10年間余にわたって銀座・渡辺木版画店のサロンで毎月一回版画懇話会を上野誠と主催して版画研究に尽力した。太平洋画会でも版画を指導。主要作品「ピノキオ」(ドライポイント)、「真夏の夜の夢」(エッチング)、「死の灰」「黒い雨」(木版)。他に翻訳および青少年向伝記小説集の著作がある。1967年現在で北多摩郡狛江町狛幼稚園、代々木東京高等服装女学院に勤務。親友には故人となった荻島安二、中村義男がいた。なお、雑誌「全線」第5巻7月号(1964年)に自筆略歴の記載がある。

森嶋忠夫

没年月日:1972/10/11

 新世紀美術会会員、大阪芸術大学教授の森嶋忠夫は10月11日死去した。享年63才。森嶋忠夫は号を南風子、明治41年(1908)11月7日、和歌山西牟婁郡に生れ、昭和4年(1929)京都高等工芸学校を卒業し、同時に大阪高島屋に技術員として入社した。昭和9年15回帝展に「小憩」が入選、翌10年高島屋を退社、昭和11年1回新文展鑑査展に「室内」が入選となった。以降、日展、東光展、槐樹社展などに出品、また白鳩高等文化学院、関西美術学院などの創立に参画し、さらに大阪芸術大学にあって後身の指導にあたった。昭和35年新世紀展に「EPULAS」を出品、エトアール賞を受賞し会員に推され、以後、「白夜」「星座」(昭和36)、「神話」(同37)、「南紀白浜」(同41)、「舞妓VEN-N-」(同42)、「湖岬夕映」(同43)、「無明」(同46)などの作品がある。

吉田暎二

没年月日:1972/09/30

 浮世絵研究家吉田暎二は、9月30日高血圧のため自宅で死去した。享年71歳。明治34年2月5日、東京都目黒区で生まれ、同40年相生尋常小学校に入学、大正3年府立第三中学校(現在の両国高校)に入学、同8年早稲田大学露文科に入学した。大正13年に歌舞伎座に入社、昭和2年退社、同13年に高見沢木版社入社、同17年退社、北光書房に入社し、同21年高見沢木版社に再勤、北光書房とを兼務した。同22年に高見沢木版社、同25年に北光書房を退社、25年に歌舞伎座出版部主任として再入社し、43年2月に退社した。主要な著作は次の通りであるが、とりわけ「歌舞伎年表」の校訂、「浮世絵事典」の出版、役者絵研究等は浮世絵研究にとって貴重な基礎資料となっている。 大正12年9月、戯曲集「悪魔の群」。同13年11月、戯曲集「疲れた家」(段丘社・青々堂書店)。同14年5月、雑誌「歌舞伎」編集(歌舞伎出版部)。同15年6月、自費「歌舞伎研究」「劇と評論」、「曲馬団の姉弟」、「同年8月」、「歌舞伎年代記」校訂、「天下太郎」。昭和2年10月、「新聚歌舞伎役者絵画集」。同5年11月より「浮世絵大成」(大鳳閣・東方書院)を毎月出版し12巻で完了。同6年2月、「浮世絵大家集成 」、6月、雑誌「浮世絵断語」(自費)、11月、「浮世絵裏と表」(東方書院)。同8年10月、「伊勢歌舞伎年代記」(放下房書屋)。同14年4月、雑誌「丹緑」編集、「6月浮世絵読本」。同15年6~9月、「光琳」「宗達」「乾山・抱一」(高見沢木版社)。同16年8月、「歌麿全集」(高見沢木版社)。同17年8月、「浮世絵くさぐさ」(高見沢木版社)、9月、「春信全集」(高見沢木版社)。同18年8月、「東州斎写楽」(北光書房)。11月、「浮世絵美讃」(北光書房)。同20年1月、「浮世絵辞典・上巻」(北光書房)。同21年6月、雑誌「浮世絵草紙」編集。同22年6月、「浮世絵の姿態」(北光書房)。同23年5月、「小説世界」編集。同28年8月、「清長」(美和書院)、9月、「浮世絵の美」(創元社)10月、「春信」(アソカ書房)。同29年、6月、「国貞国」(芳美和書院)。同31年2月、「浮世絵というものは」(教育書林)、4月、「浮世絵手帖」、8月、「歌舞伎年表 第一巻」(岩波書店・毎年3月刊、八巻了)校訂。同32年3月、「浮世絵全集・第五巻」(河出・座右宝)8~11月、「写楽」(みすず書房・美術出版社)。同34年11月、「浮世絵談義」(東西五月社)。同36年6月、「日本版画美術全集 第三巻」(講談社)、12月、「浮世絵秘画」(緑園書房)。同37年5月、「季刊浮世絵」(緑園書房)創刊編集、9月、「浮世絵入門」(緑園書房)。10月、「浮世絵あぶな絵」(全三巻・緑園書房)。同38年2月、「肉筆浮世絵 下巻」(講談社)、3月、「浮世絵艶画」(緑園書房)、4月、「浮世絵の手帖」、7月、「吉田暎二著作集 全七巻」、11月、「浮世絵秘画名品帖」。同39年8月、「浮世絵秘画名品選」(緑園書房)。同40年6月、「浮世絵事典 上・中」(緑園書房)。同43年5月、「写楽」(山田書院)、9月、「浮世絵入門」(画文堂)。同44年3月、「浮世絵」(日本経済新聞社)。同45年11月、「肉筆浮世絵」(講談社)。同46年3月、「浮世絵事典 下」(画文堂)。(本稿資料として「吉田暎二さんを偲ぶ」〈昭和48年・画文堂〉を参照)

普門暁

没年月日:1972/09/28

 わが国前衛美術運動の先駆者として知られた普門暁は、2月にクモ膜下出血で倒れ、大阪の暁明館病院に入院、9月28日同病院にて死去した。享年76歳。明治29年8月15日奈良市に生れた普門が生後間もなく東京に移り、青年期を迎えて画家を志望し、偶々1910年代イタリアのミラノに起った未来派の美術運動に刺激影響を受け、大正9年秋、みずから首唱者となって未来派美術協会を創立し、以来数年にわたってわが国における前衛美術運動の口火を切って活躍したことは、わが近代美術史上の特異な存在として銘記されているが、戦後の晩年は帰郷して殆んど中央での活動がなかったので、奈良で生れ、またその奈良で生涯の仕事をひっそりと終えた普門については、一般に知られるところが少なかった。昭和48年12月、地元の奈良県立美術館の努力によって開催された『未来派の先駆・普門暁回顧展』に当って作成された目録中の貴重な「略年譜」によって、その生涯の大方を再認識することが出来る。なお、その回顧展の骨子となった作品群は、このとき、普門家の遺族関係者から同家に伝存する限りの遺作品が奈良県立美術館へ寄贈されたのによったという。略年譜明治29年 8月15日、普門常次郎・よねの長男として生れる。本名常一。その後間もなく東京に移る。貴金属商を営んでいた叔父の仕事を手伝いながらデザインを勉強する。大正4年 東京蔵前高工で建築意匠を学ぶ、また安田緑郎に師事しイタリア新興美術(未来派)等の表現技術を学ぶ。大正5年 どうしても絵をやりたくて、蔵前高工を中退し、川端画学校に入る。日本画をも学ぶ。ここでも新傾向グループのリーダーになり、紅児会と名づける。この頃看板等にコルクの焼絵を試みる。第1回個展(上野山下・三橋亭)、石井柏亭に二科会への出品をすすめられる。大正7年 春、太平洋画会展に未来派作品を数点出品。秋、二科会展に石井漠の踊りを描いた「フューモレスク」を出品。大正8年 春、個展(日本橋・白木屋)。その後奈良に帰り制作、県立図書館で足立源一郎・浜田葆光・山下繁雄とあしび会というグループ展を開く。大正9年 二科展に絵をやめて彫刻を出品するが落選。首唱者となり未来派美術協会を創立。第1回未来派展(9.16~25、銀座・玉木屋)、会員約10人のほか、木下秀一郎等の応募者がいた。絵画のほかに未来派彫刻2点も出品、日本で初めての未来派彫刻の発表として問題作となる。10月、パリモフ、ブルリュックらが来日し、ロシアの「未来派美術展」を開催するのを援助(東京と大阪で同展は開かれる)。第1回未来派大阪展開催後、反響もあり、大阪で新しい仕事を勧める人もあり、大阪に止まる。大正10年 大阪市南区笠屋町に自由美術研究所が設立され、赤松麟作・斎藤与里と共に指導にあたる。第2回未来派展(10.15~28、上野・青陽楼)には、座骨神経痛で芦屋から動けず、代って中心になって木下秀一郎が動いた。その後、同大阪展を本町の商工会議所会館で開く。二科展に出品。大正11年 大阪市美術展覧会創立委員となり、第1回展に出品。未来派美術協会の主催で、第3回未来派展を拡張して三科インデペント展が開かれるが、同協会の解散説を唱えて参加しなかった。二科展に出品。大正12年 春個展(京都及び東京)。大阪に演劇映画研究所が開催され、演劇舞台美術を指導。昭和2年 東京に産業美術研究所を設置、未来派技術と感覚をデザインに移入、生活美術としての新分野を開拓。身体障害者の社会復帰に寄与しようとするものでもあった。これらの製品(団扇・ネクタイ・切り絵等)は東宝劇場内の販布コーナーで市販した。昭和5年 発病し静養。昭和12年 日大美術科の講師となり、翌年、主任となる。昭和18年 日大美術科主任を辞し、講師として出講。昭和21年 G・H・Qの日本美術顧問となり、米軍だけでなく米国への日本美術紹介に骨を折る。アーニーパイル劇場に新設美術会場を開設。昭和26年 肝臓を悪くして東京日赤に入院。昭和27年 春、一時小康を得て東京綜合美術研究所を開き、洋画やデザインの指導にあたるが、健康はすぐれなかった。昭和35年 かねてから塗料の開発に取り組んでいたが、ベンゾール中毒にかかり発病、奈良・大林家に寄寓し療養に専念する。昭和39年 健康を取り戻し、手はじめに王寺工業高校の記念碑「希望の像」を翌年にかけて制作する。昭和49年 秋、当麻寺奥院の大作「倶利迦羅龍幻想」の制作にかかる。翌年春完成。昭和41年 同寺奥院のお茶所を改造してアトリエとして住む。この頃から、水墨の抽象画に打ちこむ。ニューヨークで個展を開くつもりで後期未来派作品の制作を始める。昭和47年 2月、蜘蛛膜下出血で倒れ、大阪の暁明館病院に入院。9月28日、同院にて没す。法名龍光院常誉照鑑暁雲居士。

山口将吉郎

没年月日:1972/09/12

 挿絵画家山口将吉郎は9月12日に都内新宿区の自宅で肺炎のため死去した。享年76才。山形県鶴岡市出身。大正9年3月東京美術学校日本画科卒業。野生と号した。卒業後間もなく挿絵画家として吉川英治の「神州天馬侠」や「ひよどり草紙」の挿絵をはじめとして雑誌「少年倶楽部」「キング」「講談倶楽部」などを主な舞台として、武者絵に評判をとった。1944年には第4回野間挿絵奨励賞を受賞した。

三浦小平

没年月日:1972/09/08

 新潟県佐渡の小平窯で有名な陶芸家三浦小平は、9月8日午前3時28分、腸閉ソクのため佐渡郡相川町の相川病院で死去した。享年73歳。告別式は10日午前10時から同町玉泉寺で行なわれた。明治31年(1898)10月1日新潟県佐渡郡に三世常山(吉原清吉)の二男として生まれた。幼名、博。因みに生家は、祖父三浦常山(初代)が佐渡に開いた無名異焼(むみょういやき)の窯元であって、常山窯としては江戸末期から明治中期にかけての東京における陶芸の名家、三浦乾地に初代から三世まで指導・愛顧を蒙ったという。伯父良平(二世常山)の後を、父清吉が三世を継いでいた。博(のちの小平)は明治37年相川町立相川小学校に入学し、以来佐渡中学校に進学したが中退して、相川町の史家であり漢学者であった岩木拡(号枰陵)の私塾に通って漢学を学んだ。のちに上京して日本美術学校に入り、洋画を勉強した。更に葵橋洋画研究所に転じて3年間画技の修得に励んだ。当時の多感なこの画学生は、草土社の岸田劉生や中川一政、それに関根正二らのヒューマンな作品に傾倒し、また自分でも人物画をリアルに描こうと試みるなど、その影響を多分に受けた。しかし彼は、自分の画技に対する限界と、画家として立つ経済的困難性を考え、しかも父常山三世の懇請もあって、遂に画家志望を断念し、大正11年帰郷して父のもとで薫陶をうけながら家業に従事することになった。昭和4年12月22日、父が脳溢血で急逝して、その跡目は常山二世(良平)の長男舜太郎が帰郷して常山四世となったので、彼は常山窯をはなれて独立し、翌5年1月、小平窯を創始した。以後、陶芸家としての活躍は、次の略年譜に詳しいが、青年時代に修めた洋画の素養は、後年の作陶に活き、殊にその絵付けにすぐれた特技を現わし、むしろ陶芸家というより陶画家としての本領を発揮し得たといえよう。略年譜明治31年 10月1日新潟県佐渡郡において、三世常山(吉原清吉)の二男として生る。明治27年 相川町立相川小学校に入学し、以来佐渡中学校、日本美術学校と進学したが、生来の勝気と世相の変転とに影響され破乱の多い青年期を送った。大正13年 父常山の陶業に従事し、立志家業を継いだ。昭和3年 1月、三上イシと結婚する。昭和4年 12月22日、父三世常山死亡する。昭和5年 1月、家督相続について親戚協議を経て小平窯を創設する。昭和23年 日展入選「いか文花瓶」。昭和24年 8月20日、高松宮殿下御来訪。昭和24年 10月黒田陶苑にて第1回個展を開催する。以後、昭和28年第5回個展まで同時期、同場所にて毎年個展を開催。昭和29年 日本橋三越にて第6回個展を開催する。6月、朝日新聞社主催・現代日本陶芸展に招待出品、以来毎回出品する。昭和33年 東京国立近代美術館主催・国際陶芸展に招待出品「渚のリズム大皿」。10月、新潟市小林百貨店において親子三人展を開催。昭和36年 8月、三笠宮殿下御来訪。12月、相川病院に入院、胃かいようを手術す。昭和43年 7月、現代茶陶百家集、現代陶芸図鑑に作品収穫される。昭和44年 12月、現代の茶盌に収録される。昭和45年 第四銀行賞受賞。昭和47年 9月8日午前3時28分死去。勲六等単光旭日章を受ける。昭和48年 10月19・20・21日 新潟県佐渡会館にて遺作展が開催される。

川上澄生

没年月日:1972/09/02

 国画会会員、日本版画協会会員の木版画家川上澄生は9月1日午後零時40分、心筋こうそくのため宇都宮市の自宅で死去した。享年77才。川上澄生は本名を澄雄、明治28年(1895)4月10日に横浜市に生まれ、青山学院高等科を卒業、同級生に木口木版画家合田清の長男弘一がいた関係で木版画に興味をいだき、中等科卒業のころ木下杢太郎(大田正雄)の戯曲集「和泉屋染物店」の木版12絵(絵・杢太郎、彫、伊上凡骨)に接して木版を試みようと意図し、また同時期には竹久夢二の作品に深く魅了された。大正6年から7年(1917-18)、父のすすめで渡米したカナダのビクトリアからシャトル、アラスカを放浪したが、大正10年、栃木県立宇都宮中学校の英語教師となり、大正13年(1924)第4回国画創作協会に素描を出品、昭和2年(1927)には日本創作版画協会会員となった。また昭和5年(1930)から国画会展に出品を続け、昭和17年(1942)同会同人に推挙されている。昭和2年に発表した作品「青髯」は棟方志功をして版画に志ざさせたとつたえられているが、初期には19世紀西洋風俗を題材としたものが多く、昭和10年代になると新村出著「南蛮広記」などの影響をうけて南蛮紅毛を主題とした作品が現われる。明治開化の情趣、南蛮紅毛の異図趣味をもつ詩的な作風はその自作の詩とともに多くの愛好家に親まれていた。年譜明治28年(1895) 4月10日、神奈川県横浜市に父川上英一郎、母小繁の長男として生まれる。明治34年 東京市牛込区富士見小学校尋常科に入学。明治35年 東京府立青山師範学校附属小学校に転入学。明治40年 青山学院中学科に入学。明治45年 中等科を修了、青山学院高等科に入学、このころ渋谷の合田清の木口木版アトリエをしり版画に興味をいだく。大正5年 青山学院高等科を卒業。友人4人とコーラスグループをつくり、芸術座の舞台裏の合唱、新国劇の手伝いなどをする。大正6年 父の所用もかねてカナダのビクトリアへいき滞在する。大正7年 3月、シアトルへ行き日本人経営のペンキ店に傭われる。アラスカの鮭罐詰工場の製造人夫に契約する。10月、スケッチブック数冊を持ち、帰国する。大正8年 日本看板塗装株式会社に入社、3月退職。日本橋の羅紗問屋暮日商店直輸部に入り、英文手紙などの仕事をする。大正10年 栃木県立宇都宮中学校英語教師に就職、教諭心得。野球部副部長(のち退職するまで野球部長をつとめのちに栃木県中学野球の功労者として表彰された)。大正12年 12月、宇都宮市郊外姿川村鶴田に家屋を新築し、「朴花居」と名付ける。大正13年 11月、第4回国画創作協会展に素描「春の伏兵」を出品。大正15年 3月、第5回国画創作協会展に木版「初夏の風」「月の出」出品。昭和2年(1927) 自画自刻自摺の木版詩画集『青髯』(限定33部、詩4篇を含む)を出版。第6回国画創作協会展に木版画「風船乗り」「秋の野の草」「煙管五本」「蛇苺」を出品。日本創作版画協会会員となる。昭和3年 3月、英語教員の免許を取得、栃木県立宇都宮中学校教諭となる。昭和4年 『春日小品』『夏日小品』(限定50部)、『ゑげれすいろは』(限定50部)。昭和5年 『ゑげれすいろは』(詩、版画二冊、やぽな書房)。昭和6年 『伊曽保絵物語』(未製本)。恩地考四郎、前川千帆らと卓上版画展を開催。この年、日本創作版画協会は日本版画協会と改称。昭和8年 第8回国画会展(以下、国展)に「静物」「陸海軍」出品。版画雑誌『版芸術』第17号川上澄生特集。昭和9年 国展:「本と時計と畑管」。『変なリードル』(版画荘)。昭和10年 国展:「静物A」「静物B」。アルファベット順英単語によせた詩と絵『のゑげれすいろは人物』(版画荘)昭和11年 国展:「人力車二台」「人力車三台」。『少々昔噺』『りいどる絵本』(版画荘)、『ゑげれすいろは静物』(不明)。昭和12年 国展:「裏表」「静物」「和洋風俗着せ替へ人形」。昭和13年 国展:「風景」「風景」。小坂千代と結婚。昭和14年 国展:「とらむぷ絵に寄せて」。『とらんぷ絵』(民芸協会)。2月長男不尽生まれる。昭和15年 国展:「黄道十二宮」「士官一人兵士十八人」。『伊曽保の譬ばなし』『らんぷ』(アオイ書房)。昭和16年 国展:「じゃがたらぶみ」。『じゃがたらぶみ』(民芸協会)、『文明国化従来』(アオイ書房)。昭和17年 国展:「御朱印船」、国画会同人に推挙される。『安土の信長』、『横浜懐古』(民芸協会)、『御朱印船』(日本愛書協会)、『南蛮船記』。2月長女ふみ生まれる。3月栃木県立宇都宮中学校を退職する。木活字の制作をはじめ800字余をつくる。昭和18年 国展:「南蛮船記」「安土の信長」。『しんでれら出世絵噺』(日本愛書会)、『黒船館蔵書票集』(黒船館)、『南蛮好み天正風俗』『いろは絵本』を制作。『幻灯』『南蛮竹枝』『いんへるの』(るしへる版)、『明治少年懐古』(明治美術研究所)、『時計』(日本愛書会)、栃木県警特高係より出頭を命ぜられる。昭和19年 国展:「南蛮国人物図絵」「たばこ渡来記」。『へっぴりよめご』『とらんぷ絵』『山姥と牛方』『黄道十二宮』『蛮船入津』昭和20年 3月、北海道胆振国勇振郡安宅村追分の妻の実家へ疎開、4月次女さやか誕生。6月白老郡に転居。8月、北海道庁立苫小牧中学校嘱託となる。『明治調』(はがき版5葉)。昭和21年 第20回図展:「いんへるの」「西洋骨牌」。『ゑげれすいろは』(富岳本社)、『兔と山猫の話』(柏書店)昭和22年 国展:「にかるの王伝」。『あいのもしり』(憲法記念展出品)、『えぞかしま』『にかるの王伝』、『瓜姫』、『長崎大寿楼』、『横浜どんたく』(日本愛書会)、『二人連』。昭和23年 国展:「ぱんとにんふ」。12月、教え子たちの招請により宇都宮へ帰る。栃木県立宇都宮女子高等学校講師となる。昭和24年 国展:「南蛮人図」。11月、第1回栃木県文化功労章を受賞。昭和25年 『平戸幻想』、『銀めんこ』、『川上澄生作蔵書票作品集』昭和26年 国展:「蛮船三艘」。『はらいそ』。3月アマチュア版画家による純刀会を結成、これを主宰する。昭和25年 国展:「静物」「鶏」。『少年少女』(手彩色木版画と文)。昭和28年 国展:「悪魔も居る」。詩画集『洋灯の歌』、『ゑげれすいろは人物』『新的列子』『ランプ』(竜星閣)。昭和29年 国展:「静物」。『少々昔噺』(竜星閣)。昭和30年 国展:「さまよえるゆだや人」「洋灯と女」。『あだんとえわ』、『あびら川』、『あいのもしり』(札幌青盤舎)。昭和31年 国展:「蛮船入津」。『遊園地廃墟』、『我が詩篇』(竜星閣)。昭和32年 国展:「静物」。昭和33年 国展:「着物だけ」。『えぞがしま』(青盤舎)、『大寿楼』『二人連』(吾八)。昭和34年 国展:「静物」。『伊曽保の譬絵噺』(改版)、『版画』(東峰書院)。2月、出版記念会を開き、白木屋にて川上澄生版画展を開催する。昭和35年 国展:「アマゾン女人図」。『スタンダード第一読本巻一抄訳』(亜艶館)。昭和36年 国展:「美人国」「蘭館散策図」。『雪のさんたまりあ』、『長崎』。昭和37年 国展:「風景的静物」。『ぱんとにんふ』(吾八)、『蛮船入津』。昭和38年 国展:「東印度会社之図」。『瑪利亜十五主義』昭和39年 国展:「南蛮諸国」。昭和40年 国展:「南蛮諸国」。『南蛮諸国、上・下』(吾八)、『青髯』(吾八)、『洋灯と女』(亜艶館)、『アラスカ物語』(日本愛書会)。昭和41年 国展:「偽版えぞ古地図」。『蛮船入津』(中央公論社)、『北風と太陽』(吾八)、『平戸竹枝』。昭和42年 国展:「蛮船」。『新版明治少年懐古』(栃木新聞出版局)、『いまはむかし』(青園荘)、『横浜』(吾八)。11月、勲四等瑞宝章を受ける。昭和43年 国展:「横浜海岸通り」。『明治調十題』(栃木新聞社)。昭和44年 国展:「箱庭道具」。『履歴書』(吾八)。昭和45年 国展:「偽版古地図」、『南蛮調十題』(栃木新聞社)。昭和46年 国展:「泰西人物」。『あだんとえわ』(栃拓)、『澄生全詩』(大雅洞)、『女と洋灯』(栃拓)、『澄生硝子絵集』(吾八)。昭和47年 国展:「絵の上静物」。『街頭人物図絵』(吾八)。4月、妻千代死去する。9月1日死去。美達院光誉彩澄居士。(出品作品:「」、出版:『』)

石井彌一郎

没年月日:1972/09/01

 太平洋美術会評議委員の石井弥一郎は、9月1日胃ガンのため死去した。享年74歳。明治31年5月6日山形県庄内の郵便局の家に生れた。少年の頃、その村で早くに亡くなった松田修造という洋画家の作品をみて、つよく洋画にひかれ、酒田市の商業学校を卒業すると実業への道を歩まずに、大正5年夢を抱いて上京、まず川端画学校で手ほどきを受け、続いて太平洋画会研究所に移って勉励した。その後、前田寛治の“写実”に共鳴してその研究所に学んだ。10余年に及ぶ長い洋画の基礎勉強にも漸く得心したのだろう、昭和5年の初頭から公募展への実力試しが堰を切るかのように始められた。第5回1930年展(1.17-31)第7回槐樹社展(2.26-3.14)、第2回第一美術協会展(5.18-6.5)に搬入、それぞれ入選して自信を強めた。昭和8年春陽会第12回展から同会に所属、第25回展(昭和21年)まで連続作品を発表した。その間、中川一政に知遇を得、師事した。昭和8年頃から数年、京都・大谷大学美術部に迎えられ講師をつとめ、その京都時代には、関西での有力な公募展に出品した。新興美術協会第3回展出品受賞(昭9・1月)・同第4回展出品大阪毎日新聞社賞・同第5回展(昭11)出品、京都市美術展第1回展出品受賞(昭10・5月、受賞作「黄檗山禅悦堂」は京都市美術館所蔵となる)、春陽会系-樹社展会員出品(昭10・11月、京都朝日会館)などの活躍がみられる。昭和11年にはフランス、イタリアへ美術研究に遊学、その帰朝後の収穫は、京都市社会教育課の後援で「仏伊スケッチ展」を京都大丸にて開催、翌12年には、「滞欧洋画展」(2月11日-19日、大阪・阪急百貨店)、「滞欧洋画小品展」(4月3日-9日、東京銀座・森永)で披露した。戦後は専ら個展発表に意欲をもやし、昭和21年に日本橋白木屋での個展開催以来、46年10月の日本橋丸善での開催に至るまで、なお戦中5回の個展を加えると、実に連年30余回の開催を重ねており、一方昭和25年太平洋画会評議委員に推され、この展覧会での毎年の出品も終始おこたらず、その旺盛な作画努力と発表意欲には特筆に価するところがあった。晩年の作風は、自分が気にいる日本特有の風景や風物を対象に、止むに止まれぬ衝動をぶっつけて、きれい事を回避した生動感みなぎる制作に深まりをみせ、心ある識者に注目されたいた。『石井弥一郎画集』(昭和47年9月30日、三彩社発行)に詳しい。

剣持昤

没年月日:1972/07/29

 建築家・和光大学助教授剣持昤は7月29日オーストリアのグラーツで交通事故のため死去。享年34才。1938年4月9日、デザイナーの剣持勇を父として仙台市東北医学部附属病院で生れた。1961年東京大学工学部建築学科卒、同63年大学院修士課程修了。65年6月総建築研究所(株)設立所長。66年東京大学院博士課程修了(工学博士)。和光大学助教授アメリカン・フットボール部顧間、和光学園評議員を兼ねる。同年一級建築士資格取得。68年9月ISO・TC59の1968年度定例会議に日本建築学会より派遣され出席。72年6月ヨーロッパ諸国における工業化発展事情の視察および業務打ち合せのためヨーロッパ滞在日程の最終日に上記の事故に遭った。独自の建築生産工業化理論に基き、新しい規格構成材および建築構成システムの研究開発ならびに種々の情報活動を通じて、新しい建築家としての活躍を行っていた。

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