本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,850 件)





滝川太郎

没年月日:1970/12/21

 一水会会員滝川太郎は10年余りの闘病生活ののち昭和45年12月21日に没した。享年67才。明治36年3月25日、長野県松本市に生れる。太平洋画会研究所に学び、石井柏亭に師事する。文化学院図書館に勤め、また「国民美術」の編集に携わった。はじめ二科会に属していたが、一水会設立とともに一水会に出品する。フランス、スイス等に10数年滞在した。日本版画協会主催の浮世絵および現代版画展をスイス、ポーランド、ドイツ、スペイン、フランス、等の諸国の都市で開催するためにそれに随行した。俳句もつくり「玄鹿軒発句集」を刊行。太朗、太郎左、玄鹿子などを名乗る。一水会展出品作品7回(昭18年)「そよかぜ」「こさめノ後」。9回(22年)「I女子」「驟雨」「室内」。12回(25年)「あづみの柳蔭」。13回(26年)「さすらひの唄」。14回(27年)「淑秀女史像」。15回(28年)「小雨ふる渡場」「梅雨晴れ」。16回(29年)「佃島」「風の日」。17回(30年)「造船所塗替」。18回(31年)「佃の渡し」「東京港の風」。19回(32年)「虫をみる猫」。20回(33年)「佃島大観」「築地明石町の眺」。21回(34年)「小閑1」「小閑2」。22回(35年)「銀座より15分晴海の夕」「同上」。23回(36年)「黄波の巻」「八月の花」。24回(37年)「大風の海」「緑海岸」。25回(38年)「高浪」「夏水仙」。26回(39年)「小雨の葉山」。27回(40年)「庭の遊猫」。28回(41年)「昼の月」。29回(42年)「豊邦の土産」。30回(43年)「写実三角の浜唄」。31回(44年)「星座」。32回(45年)「月夜の漁師」

榧本亀次郎

没年月日:1970/12/14

 榧本亀次郎は、明治34年2月27日奈良市に生れた。東洋大学国語漢文科中退ののち、大正8年奈良女子高等師範学校図書館に、次いで大正13年東京帝室博物館歴史課に勤務した。同14年東京美術学校文庫係となり、昭和5年には朝鮮総督府学務局宗務課長、兼同総督府博物館勤務となり終戦時迄楽浪古墳、古蹟などの発掘に従事していた。終戦により奈良に戻り、22年奈良国立博物館に勤務、26年同考古室長、27年東京国立博物館有史室長、35年奈良国立文化財研究所歴史研究室長を歴任し、39年同研究所平城宮跡発掘調査部長となり41年定年退職した。

上田哲農

没年月日:1970/11/30

 一水会委員、日展会員上田哲農は、12月30日急性肺炎のため逝去した。上田哲農は本名徹雄、明治44年8月21日、中国天津で生れる。昭和8年文化学院美術部卒業、その後、水彩連盟展、一水会展、日展に水彩画を出品、水彩画の代表画家として知られた。又学生の頃から登山を好み、1966年カフカズ登山隊長、1969年パミール登山隊長を務めるなど登山家としても著名であった。昭和8年 文化学院美術部卒業昭和21年 水彩連盟展受賞、会員に推挙される昭和26年 一水会々員となる、日展で特選をうける昭和39年 日展会員となる昭和43年 一水会委員となる以上の他、蒼鞜会、日本山岳会員でもあった。主要作品は他に「アメリカン・サーカス」「靴屋」或は「夜」などのように山を主題にした作品も少くない。

喜多武四郎

没年月日:1970/11/28

 彫刻家、日本画府彫塑部会員、元日本美術院同人の喜多武四郎は、11月28日午前6時5分、東京都文京区の東大病院分院でせき髄竹状硬化症のため死去した。享年73歳。号・寒泉、茸々子(じようじようし)。明治30年12月12日、武英三男として東京・本所に生まれた。東京府立第三中学を修業、もともと病弱のため美術家になることを母が止めたが、家出して川端画学校に寄宿した。大正7年偶然の機会に戸張孤雁を知って師事、以後彫刻を志して日本美術院研究所研究員となり、同9年には院展に初入選し、翌年には院友に推された。その頃先輩に中原悌二郎、石井鶴三があり、同輩に木村五郎、橋本平八らがあつて、得難い師友に恵まれながら切磋琢磨を続けた。昭和2年には日本美術院同人に推挙されたが、この年師の戸張孤雁を病気で失なった。震災と其後の不況のため生家衰え、父母相次いで逝去。住居を練馬に移した。昭和3年には会津八一を紹介され、その人格に親炙したが、31年病没後には「会津八一氏肖像」をつくるまでに恩顧を蒙った。昭和34年には院展で文部大臣賞を、同37年には紺綬褒章を受けた。 長年、院展でのよき後輩として終始喜多の仕事を高く評価しつづけた石井鶴三先輩は、昭和29年7月の丸ビル二階・中央公論社画廊での彫刻個展の案内状に、「喜多武四郎君は現代に於て稀に見る彫刻家で、喜多君の仕事を見て小生は純粋彫刻と云ったことがあります。何の景物も添えられていない純粋に近い彫刻活動によって作品が成されているからであります。それだけ一般には理解され難いところがありましょう。喜多君は長年にわたり彫刻を追究し其真摯な態度はもつと認められて然るべきところと思います。」と寄せている。昭和36年2月日本美術院彫塑部解散後は数年間無所属で過ごしたが、昭和43年からは日本画府彫塑部会員に迎えられ、同年第15回日府展から晩年の2、3年を孤高で地味に作人発表を続けた。

伊東万燿

没年月日:1970/11/26

 日本画家で日展評議員の伊東万燿は、11月26日食道ガンのため、東京都文京区日本医科大学付属病院で死去した。享年49歳。本名満で、大正10年日本画家伊東深水の次男として東京に生れた。戦前は朗峯画塾展、青衿会展などに出品して受賞し、昭和16年第4回文展に「楽人」を初出品して入選した。戦後は、日展、日月社展等に出品し、日展では昭和25年依嘱となり、同42年には「踊る」で内閣総理大臣賞、翌43年には「女」で、日本芸術院賞となった。作品には上記のほか「落葉する頃」(3回日展)、「高原清秋」(5回日展)、「黎明」(6回日展)、「食卓」(7回日展)などがあげられる。

細川護立

没年月日:1970/11/18

 元文化財保護委員会委員、日本刀剣保存協会々長細川護立は、11月18日急性肺炎のため東京都文京区の自宅で死去した。享年87歳。明治16年10月21日熊本県に生れ、大正3年侯爵家の宗家を相続し、旧熊本細川藩主16代目に当る。洋の東西にわたる美術品のコレクションは有名で、国宝、重文級の所蔵品も多い。戦前貴族院議員を約20年つとめ、戦後は文化財保護委員、正倉院評議会々員、国立近代美術館評議員、国立西洋美術館評議員、東洋文庫理事長などの職にあった。またヌビア遺跡保護協力委員長として、同遺跡の保存にも力をつくした。

山岡良文

没年月日:1970/11/17

 日本画家山岡良文は、17日心筋こうそくのため東京の自宅で死去した。享年59歳。本名良文。明治44年東京に生れ、根岸小学校、巣鴨中学校を卒え、京都絵画専門学校を卒業した。石崎光瑤、川端竜子に師事し、青竜社展に出品した。前期自由美術家協会に所属し、同志と歴程美術協会を昭和13年に創立した。また新日本画研究会に参加するなど終始日本画の前衛画家として知られた。戦後は、永い療養生活を送り、歴程の再建に尽力し、昭和45年之を再建し、第1回歴程美術協会小品屋発表後死去したものである。主もな作品に「ガソリン風景」(4回青竜社)、「消費都市」(昭和10年新日本画研究会)、「山霊の合歓」(3回歴程)などがある。なお同氏は明治の山岡鉄舟の孫にあたる。

泉靖一

没年月日:1970/11/15

 東大教授、東大東洋文化研究所々長泉靖一は、11月15日午後2時40分外出先で脳出血のため倒れ、東京都港区東洋病院で死去した。享年55歳。東京出身で、京城大学社会科を卒業した。戦後、明大を経て東大に入った。昭和39年東大教授となり、同45年1月東洋文化研究所長となった。南米アンデスのインカ研究は有名で、昭和35年から3回東大南米アンデス調査団長をつとめ、第2回東大アンデス地帯学術調査団長のとき、コトシュ遺跡を発見、無土器時代の神殿群として世界に話題をまいた。それにより同38年、ペルー政府から最高勲章「オルデン・ドスール」を受章している。文化人類学界の第一人者でその功績は大きく、日本人類学会評議員、日本民族学会理事をつとめる。著書に「インカ帝国」「フィールド・ノート」があり、後者は昭和43年第16回エッセイスト・クラブ賞を受けた。

仲田定之助

没年月日:1970/11/11

 美術評論家仲田定之助は、11月11日急性肺炎のため東京都大田区の自宅で死去した。享年82歳。明治21年日本橋に生れ、日本橋城東小学を卒え、錦城中学中退後、実業界に入り高田商会に入社した。大正11年ドイツに留学し新興美術に興味をもった。バウハウスには日本人として最初の訪問者となり、美術雑誌にその紹介記事を載せた。昭和3年画廊九段に、創立者中原実と協力で、クレー、カンデンスキーの絵画を展示した。晩年は活動を一時中止していたが、昭和45年明治下町風俗を記録した著書「明治商賣往來」でエッセイスト・クラブ賞を受けた。なお、往年は批評のほか、彫刻作家としての活動もあり、三科の一員として「ブーベンコップのヴィナス」「男の首」「女の首」などがある。

我妻碧宇

没年月日:1970/10/28

 日本画家我妻碧宇は、10月28日名古屋市千種の愛知県ガンセンターで死去した。享年66歳。本名栄之助。明治37年3月24日山形県米沢市に生れ、大正11年上京した。日本美術学校日本画科に学び、昭和4年同校を卒業し、中村岳陵に師事した。この年、第16回院展に出品した「午后の陽射」が初入選し、翌第17回院展には「夏朝」を出品し、昭和7年第19回院展で「山野根風景」を出品し、院友となった。昭和15年中村岳陵法隆寺壁画模写事業主任となるに及び、その下で模写に従事した。戦後は日展に出品し、昭和27年審査員、同33年評議員となった。この間、作人には、第4回「渓澗」(政府買上)、第7回「秋」特選、白寿賞)、第8回「雲の影」、第11回「暮色」、改組第3回「少女」などがある。昭和36年中村岳陵の門を離れ、7月同門の中村正義、森緑翠らと白土会を結成し、その創立会員となった。なお、昭和11年より名古屋に在住し、昭和29年には第7回中日文化賞を受けている。

柚木久太

没年月日:1970/10/28

 日展評議員柚木久太は10月27日老衰のため岡山県倉敷市の自宅で逝去した。享年85歳。柚木久太は明治18年10月22日岡山県倉敷市で生れた。父は玉邨と号し南画家であった。明治39年満谷国四郎の門に入り翌年から太平洋画会研究所に属し、又東京美術学校に聴講。明治44年第5回文展に「鞆津の朝」が入選、同年フランスに留学、アカデミイ・ジュリアンでジャン・ポール・ローランスに学び大正4年帰国した。以後文展・帝展に出品をつづけ特選を重ね昭和3年帝展審査員となった。戦後は日展で活動、晩年は日展評議員、参与をつとめた。明治44年 第5回文展 「鞆津の朝」大正4年 第9回文展 「入江」三等賞大正5年 第10回文展 「護書之図」特選大正8年 第1回帝展 「水郷の夕」特選大正11年 第4回帝展 「麦秋」特選平和記念東京博覧会展「暮るる赤城根」銅賞大正14年 帝国美術院展委員昭和3年 第9回帝展審査員となり帝展出品をつづける昭和30年 新世紀美術協会創立に参加し会員となる昭和32年 第1回新日展会員となる昭和39年 日展評議員昭和45年 日展参与となる。10月28日没。主な作品、以上の他湖雲(第6回日展)、椿咲く小路(第8回日展)など

安藤更生

没年月日:1970/10/26

 早稲田大学文学部教授、本名正輝、10月26日、肺癌と尿毒症のため国立癌センターにて死去。享年70歳。明治33年、東京牛込に生まれ、大正2年、早稲田中学に入学、会津八一に師事し美術史を学び始む。大正11年、東京外国語学校仏語部を卒業、早稲田大学文学部仏文科に入学、生家を離れて一時、会津八一宅に居す。大正12年、会津八一と共に奈良美術研究会を創め日本美術史の本格的研究に専心、奈良飛鳥園に出居す。大正13年、学費に窮し早稲田大学を中退、出版業に従事しつつ論文を発表、昭和2年には飛鳥園より著書『三月堂』を刊行、継いで奈良に東洋美術研究会を創設し、同4年には雑誌『東洋美術』を発刊す。この年、飛鳥園より著書『美術史上の奈良博物館』を刊行、『東洋美術』4号に「興福寺の天龍八部衆と釈迦十大弟子像の伝来に就て」、『仏教美術』12号に「東大寺要録の醍醐寺本とその筆者に就いて」、昭和5年『歴史と国文学』に「国宝本東大寺要録の書入れに就いて」を発表。また、昭和6年には、春陽堂より著書『銀座細見』を刊行。この年、平凡社に入社、『大百科事典』の審査部員となる。昭和10年『漆と工芸』408号に「唐招提寺鑒眞和上像は夾紵像なり」を発表、同12年『東洋建築』1の3号に「唐招提寺御影堂の研究」、『くらしっく』6号に「唐招提寺御影堂創建に就ての試論」など唐招提寺関係の論文を発表している。昭和12年暮、新民印書館設立準備の業務を帯びて中国に渡り、時に、北支派遣軍に従軍、中国各地を歩き、古蹟保存に尽力、軍部を説き戦火を免しむることあり。昭和13年、新民印書館編集課長に就任、北京に居を定め、以後終戦にて帰国までの間、出版事業を通じて日中文化交流に務めると同時に、「北京人文学会」、「興亜宗教協会」、「北京文化協会」、「在華日本文化協会」、「中国文化振興会」などに参与または設立し、両国文化の相互理解に尽した。一方、昭和15年には、揚州に赴き、鑒眞の遺蹟を探り、以後毎年揚州を訪れ、鑒眞伝の研究に没頭し、昭和20年にはほぼ草稿成るも、敗戦による帰国に際し、一切の資料とともに没収される。 帰国後の昭和21年、早稲田大学講師となり、文学部にて美術史を講じ、学生の指導に当る一方、昭和25年日向考古調査、同28年熊野地方綜合調査、同31年より伊豆地方学術調査、高千穂・阿蘇地方調査と、戦後に行なわれた一連の地方史研究に積極的に参加す。この間、昭和21年には『学会』3の7号に「嶺南の鑒眞」、同22年に明和書院より著書『正倉院小史』、同24年『史観』32号に「日本上代に於ける年齢の数え方」、同26年『綜合世界文芸』3号に「唐の人物画家李湊と鑒眞和上との関係」、同27年『史観』37号に「日唐交通と江浙の港浦・海島」、『古代』7・8合併号に「洛陽大福先寺考」など鑒眞関係の論文を発表、昭和29年には「鑒眞大和上傳之研究」により文学博士となり、同30年、早稲田大学教授となる。その後、昭和33年には美術出版社より著書『鑒眞』を出版、続いて同35年に平凡社より博士論文「鑒眞大和上傳之研究」を印行した。また、近鉄叢書『唐招提寺』に「唐招提寺の建築」を執筆、同寺創建に一説を掲げた。続いて同36年には『大和文華』34号に「唐招提寺御影堂再考」を発表。さらに、昭和37年には数々の論文のなかから奈良関係のものを編んで『奈良美術研究』と題し出版した。この間、昭和33年に『芸術新潮』に発表した「白鳳時代は存在しない」は、後の白鳳論争となって世の注目を惹いた。一方、かねてより日本にある入定ミイラの研究に志し、昭和34年ようやく機を得て、新潟県西生寺の弘智法印のミイラを調査したのを契に翌35年には「出羽三山ミイラ学術調査団」を組織し団長となり、鶴岡市一帯にある鉄竜海、鉄門海、眞如海、忠海、円明海、などのミイラを調査、日本ミイラの科学的研究に着手した。続いて、茨城県妙法寺の舜義上人の調査、同26年には新潟県村上市観音寺の仏海上人の入定塚を発掘し、これらの成果を著書『日本のミイラ』にて広く世に紹介した。 昭和37年9月、早稲田大学海外研究員として西欧を旅行、パリのギメエ博物館、ローマの日本文化会館などで講演、同38年帰国、次いで同年9月には鑒眞和上円寂一千二百年記念訪中日本文化界代表団々長として中華人民共和国を訪問、北京、西安、南京、揚州、抗州、広州などを歴訪、鑒眞記念集会に出席。昭和40年には二玄社より著書『書豪会津八一』を出版、これは先師に関する多くの執筆のなかで唯一の単行本であり、『会津八一全集』の編輯とともに会津八一の紹介の一端である。この他、書道関係の著作も多く、昭和29年『今日の書道』(二玄社)、同31年『定本書道全集』(河出書房)などにも多くの執筆を見る。なかでも昭和37年『美術史研究』1号に掲載した「毛筆の発達と書画様式変化との関係について」は広く文房具と芸術様式との関係を究めるためのものであった。 晩年は多摩美術大学理事を兼任していたが、新聞、雑誌などに美術、書道、中国関係の論説、随筆を多く執筆している。なかでも昭和44年、二玄社より出版した『中国美術雑稿』と没後、中央公論美術出版社から刊行した『南都逍遙』は豊富な体験と愛情によって語られた美術談義である。

丸山不忘

没年月日:1970/10/22

 東京芸術大学名誉教授、日展会員の鋳金家丸山不忘は、10月22日狭心症のため東京・新宿区の聖母病院で死去した。享年80歳。本名義男。明治23年米沢市に生れ、大正6年東京美術学校鋳造科を卒業した。同年香川県立高校工芸学校に勤務鋳金科主任となる。大正10年同校を辞め、東京豊島区に鋳金工場を経営した。昭和7年東京美術学校講師となり、昭和21年東京美術学校教授となった。戦前は、高村光雲・高村光太郎の原型による鋳造品全部を鋳造した。また高村豊岡作品の原型と鋳造品の製作にもたずさわった。戦前農商務省工芸美術展、帝展、実在工芸美術展、工芸美術作家協会展等に出品し、戦後は鋳金家協会、日展に出品した。展覧会出品のほか、薬師寺東塔相輪修理、薬師寺日光菩薩修理、法隆寺金堂本尊前大卓製作などがある。

遠藤教三

没年月日:1970/10/18

 日本画家遠藤教三は、10月18日病気療養中のところ死去した。明治30年東京麹町に生れ、大正10年東京美術学校を卒業、同年女子美術専門学校講師となった。昭和19年之を辞めた。作品は、大正10年より昭和5年まで毎年新興大和絵会に発表し、6年以降12年まで帝展に出品した。同13年より16年まで狩野光雅、長谷川路可と三人展を開き、17、18年は文展に出品した。戦後は専ら個展により発表した。(昭29年資生堂、同31年日本橋三越、同38年同所)なお、「墨絵入門」「デザインの美」「色の理解」「色彩教養」などの著書がある。

福田豊四郎

没年月日:1970/09/28

 新制作協会の日本画家福田豊四郎は、9月27日肝硬変のため世田谷の自宅で死去した。享年65歳。本名豊城。明治37年11月27日秋田県鹿角郡で、薬局を営む豊治、母しのの四男として生れた。大正8年小坂町立小坂高等科をおえ、画家を志して京都に出、鹿子木孟郎の塾に入った。間もなく親の反対で一旦帰京するが、同11年再び上京し、川端竜子に師事した。更らに翌12年京都に戻り、土田麦僊に師事した。この頃から豊四郎の号を用いた。同14年京都絵画専門学校に入学、昭和3年同校選科を卒え、秋、上京して旧師川端竜子に師事した。この間、昭和2年国画創作協会々友になり、同展には「東福寺風景」(4回国展)、「静峡」(5回国展)などの作品がみられる。同4年には、石橋文子と結婚し、青竜社々友となった。同7年同社々人になったが、青竜社が反官展を表明したのを機会に、昭和8年9月同社を脱退した。翌9年日本画革新をはかり吉岡堅二らと6月山樹会を結成、さらに翌7月新日本画研究会を結成した。昭和13年2月同会を拡大し、新美術人協会として発足した。この年から翌年にかけ、陸軍従軍画家として中支・北支を巡歴し、翌14年1月帰国した。さらに、同17年4月4日から9月3日まで、陸軍従軍画家として東南アジアを巡ぐった。昭和20年2月には、秋田県由利郡に疎開し、翌21年2月東京に戻った。戦後昭和23年1月、山本丘人、吉岡堅二らと世界性に立脚する日本絵画の創造をスローガンに、創造美術協会を結成した。同会は昭和26年新制作派協会と「相互連関性」をとなえ、合併して新制作協会となった。昭和31年3月武蔵野美術大学日本画講師となり、4月から約3カ月間アジア連帯文化使節の一員として東西諸国を巡遊した。同38年10月黄疸発病、翌年3月肝硬変のため東京目黒国立第二病院に入院した。8月退院し、翌41年2月再発のため同病院に再入院、翌42年10月退院した。44年10月三度目の入院をし、翌年6月退院したが、9月病気再発し、没した。年齢 作品略年譜大正11 18 「花びわのかげ」院展試作展 「鶏小屋」中央美術展大正12 19 「春の多摩川」大阪毎日展大正13 20 「水泳ぐ児等」第5回帝展 「東福寺風景」第4回国画創作展 「発車後」国画創作春季展大正14 21 「雪の北国」第6回帝展 「静峡」第5回国画創作展大正15昭和元 22 「故山新秋」第7回帝展昭和3 24 「ふるさとの夏」第9回帝展 「雪の一日絵巻」第6回国画創作展昭和4 25 「山みのる秋」第10回帝展 「山湖遊行巻」第1回青龍社展昭和5 26 「早苗曇り」第11回帝展、特選 「山春・待春」双幅 第2回青龍社展昭和6 27 「水辺の夏」第12回帝展 「山の秋」第3回青龍社展昭和7 28 「樹々の山は芽を吹く」第13回帝展 「山菜を売る人達」第4回青龍社展 「闘犬の日」第4回青龍社展昭和8 29 「たこあげる児等」第14回帝展 「熔鉱炉」第5回青龍社展 「草野」第5回青龍社展昭和9 30 「夏郷」第15回帝展 「福田薬局図」山樹社展 「陸中の人」山樹社展 「おそ秋」山樹社展 「きつつきの山」山樹社展 「靴屋」山樹社展 「田園七旺集」7点 山樹社展 「鉱山風景」新日本画研究会展昭和10 31 「樹の根と牛」山樹社展 「樹の根と蝶」山樹社展 「南瓜と少年」山樹社展 「春寒」山樹社展 「爽朝」山樹社展 「開墾地」山樹社展昭和11 32 「海辺」第1回新帝展 「六月の森」新文展鑑査展昭和12 33 「樹氷」第1回新文展昭和13 34 「濤A」新美術人展昭和14 35 「蒙彊」第3回新文展 「松」新美術人展昭和15 36 「鴉」新美術人展昭和16 37 「山脈-からす-」第5回新文展 「八郎湖凍漁」新美術人展昭和17 38 「英領ボルネオを衝く」昭和18 39 「叢林」新美術人協会展 毎日新聞連載小説、石川達三「日常の戦ひ」8月31日~19年1月12日の挿絵をかく。昭和21 42 絵本「笠地蔵様」美術出版社出版、絵・福田豊四郎、文・関敬吾。昭和22 43 「暮沼」第2回日展昭和23 44 「秋田のマリア」第1回創造美術展昭和24 45 「踊る娘たち」第2回創造美術展昭和25 46 「海女」第3回創造美術展 「沼」創造美術春季展 「野の花輪」創造美術春季展昭和26 47 「山河」第15回新制作展 文部省買上。「愛」新制作春季展 絵本「夕鶴」新潮社出版、絵・福田豊四郎、文・木下順二。朝日新聞連載小説、林芙美子「めし」4月1日~7月6日の挿絵をかく。昭和27 48 「八幡平」第16回新制作展 毎日新聞連載小説、今日出海「怒れ三平」10月10日~28年2月2日の挿絵をかく。昭和28 49 サンデー毎日連載小説、吉屋信子「秘色」1月4日号~5月24日号の挿絵をかく。婦人公論連載「物語人物女性史」1月号~12月号挿絵をかく。6月4日、胆石手術。昭和29年 50 「月夜」第18回新制作展 「軍鶏」新制作春季展 朝日新聞連載小説、井上靖「あした来る人」3月27日~11月3日の挿絵をかく。昭和30 51 「滝A」第19回新制作展、毎日美術賞受賞 「流れ」第31回日本国際美術展 佳作賞受賞。 「歯朶」新制作春季展  婦人公論連載小説、石川達三「親しらず」5月号~11月号の挿絵をかく。毎日新聞連載小説、今日出海「チョップ先生」8月16日~31年3月23日の挿絵をかく。昭和31 52 「濤B」第20回新制作展 2月、「美しさはどこにでも」牧書店出版、産経出版文化賞受賞。東京新聞連載小説、火野葦平「コマよまわれ」10月21日~32年10月8日の挿絵をかく。昭和32 53 「滝B」第21回新制作展 「北京の屋根」新制作春季展 中央公論連載小説、井上靖「天平の甍」3月号~10月号の挿絵をかく。昭和33 54 「海ねこ礁」第22回新制作展 「氷原」第3回毎日現代美術展 朝日新聞連載小説、沢野久雄「火口湖」11月19日~34年3月25日の挿絵をかく。昭和34 55 「金華山」第23回新制作展昭和35 56 「流れと鹿」第23回新制作展 「小鳥のくる流れ」毎日美術賞記念展 「福田豊四郎個展」東京・壺中居6月20日~25日昭和36 57 「山海」第25回新制作展 「風樹」第6回毎日国際美術展 東京新聞連載小説、井上靖「崖」1月30日~37年7月8日の挿絵をかく。「福田豊四郎個展-旅の回想」東京壺中居、「福田豊四郎近作展」、名古屋・丸栄デパート、10月7日~12日。昭和37 58 「山脈」第26回新制作展 「梅」第5回現代美術展 「福田豊四郎画伯スケッチ展」秋田市・木内デパート、5月18日~20日「福田豊四郎個展-雪国を描く」東京・壺中居、6月18日~23日「福田豊四郎近作展」秋田市・木内デパート、9月25日~10月3日「福田豊四郎自選回顧展」秋田市立美術館9月25日~10月14日、10月26日昭和38 59 「炎」第27回新制作展 「鯉」新制作春季展 「福田豊四郎個展」大阪・大丸デパート1月22日~27日。「福田豊四郎・上村松篁展」神奈川県立近代美術館9月14日~10月27日。婦人公論連載小説、井上靖「楊貴妃伝」2月号~40年5月号の挿絵をかく。昭和39 60 「ふるさとへ帰る」第28回新制作展 「野火けもの」第6回現代美術展 「福田豊四郎・京洛風趣展」東京プリンスホテル内、フジインターナショナル・アート、11月2日~11月14日。 「福田豊四郎個展-十和田湖十二景-」、東京・上野松坂屋11月17日~22日。朝日新聞連載小説三浦綾子「氷点」12月9日~40年11月14日の挿絵をかく。昭和40 61 主婦の友連載小説、獅子文六「父の乳」1月号~42年12月号の挿絵をかく。「北国へ春が来た」新制作春季展 約2年にわたる月刊誌「潮」の表紙絵終る。昭和41 62 「層雲峡」新制作春季展昭和42 63 3月、『福田豊四郎画集-田園抄12ヶ月-』三彩社。「福田豊四郎展-小さい世界-」東京・南天子画廊3月27日~4月8日昭和43 64 「雪国」第32回新制作展昭和45 朝日新聞連載小説、三浦綾子「続氷点」5月12日~46年5月10日の挿絵を病没までかき続ける。そのあとを新制作協会会員向井久万が引継いでかく。「福田豊四郎展」、東京・南天子画廊9月7日~19日。昭和46 「福田豊四郎画伯遺作展」秋田県角館町公民館4月27日~29日。「福田豊四郎遺作展」秋田市立美術館9月17日~10月13日。武塙林太郎・井上隆明氏制作福田豊四郎年譜参考

宇根元警

没年月日:1970/09/25

 独立美術協会々員宇根元警は、9月25日脳出血のため広島県呉市の自宅で逝去した。享年66歳。明治37年8月2日広島県呉市で生まれ、大正13年師範学校卒業、昭和5年独立美術協会第一回展より同展に出品。昭和15年第10回展「葡萄」で独立美術協会賞を受賞、17年に同会々友、23年同会々員となった。

海老原喜之助

没年月日:1970/09/19

 独立美術協会々品の洋画家海老原喜之助は、9月19日午前8時30分(日本時間午後4時30分)パリ16区のアパートで消化器系のガンのため死去した。明治37年鹿児島市に生れ、大正11年鹿児島県立志布志中学を卒業して上京、有島生馬に師事し、また川端画学校に学んだ。同12年渡仏し、滞仏12年ののち昭和帰国して独立美術協会々員となった。その後も度々フランスを訪れ、最後は昭和42年10月、師であり親友であった故藤田嗣治看病のため夫人と渡仏し、半年ほど前から健康がすぐれず帰国予定だった。作品は、フォーヴィズムの系統を引くが、独自の画風をもっていて、内外の画壇から注目されその若々しい製作ぶりに期待をもたれていた。略年譜1904(明治37)年 鹿児島市に生まれる。1917(大正6)年 4月鹿児島県立志布志中学校に入学。1921(大正10)年 夏、上京し、有島生馬に師事し、川端画学校に席をおく。1922(大正11)年 3月志布志中学校卒業。再度上京し川端画学校、アテネ・フランセに学ぶ。1923(大正12)年 7月渡仏、藤田嗣治の許に出入りする。9月二科美術展に入選、以後数回出品する。1924(大正13)年 サロン・ドオトンヌに入選。滞仏中は主としてサロン・ドオトンヌ、アンデパンダンに作品を発表する。1927(昭和2)年 7月サロン・ド・レスカリエ第10回展に、カンピリ、ジャコメッティと3人展をもち、「姉妹ねむる」などを出品。この展覧会が機縁となって、アンリ・ピエール・ロッシュと交わり、やがて契約を結ぶ。この頃からパリ画壇で存在を注目されはじめ、エコール・ド・パリの次期の担い手として嘱目される。1928(昭和3)年 ニューヨークでロッシェの企画による個展。翌年にも個展を開く。1934(昭和9)年 1月帰国。6月日動画廊で第1回個展開催。以後、継続的に個展を開く。1935(昭和10)年 2月独立美術協会会員となる。3月第5回独立美術展に「曲馬」を出品。これ以後、毎回独立展に出品する。1942(昭和17)年 11月より、44年1月まで大連に旅行、この間旅宿にて発病する。1945(昭和20)年 熊本県湯之児温泉で終戦を迎え、8月人吉市に移る。1946(昭和21)年 3月第1回新興日本美術展覧会審査員となる。1947(昭和22)年 11月第2回熊日綜合美術展審査員となり「蹄鉄」を特別出品。以後毎回審査を担当するかたわら特別出品する。1950(昭和25)年 11月第1回南日本文化賞を受ける。11月熊本市に転居。1951(昭和26)年 2月第3回日本アンデパンダン展に「スタートへ」「殉教者(サン・セバスチァン)」(文部省買上げ)を出品。4月海老原美術研究所を創立。53年に一度閉鎖するが、57年再び開設する。1952(昭和27)年 3月神奈川県立近代美術館において福沢一郎・海老原喜之助展覧会を開催する。5月サロン・ド・メに招待出品。1953(昭和28)年 1月第4回秀作美術展に「ボンサマルタン」を出品。以後54年「大華山」55年「船を造る人」56年「靴屋」57年「燃える」59年「大道の物売り」60年「蝶」62年「群馬出動」を出品する。5月第3回熊日社会賞を受ける。1954(昭和29)年 9月海老原喜之助自選回顧展を熊本で開催。11月第3回西日本文化賞受賞。1955(昭和30)年 3月熊本市郊外小峰墓地の忠霊塔を飾る「殉教者」のブロンズ・レリーフを完成。5月第3回日本国際美術展に「靴屋」を出品、佳作賞を受賞。1956(昭和31)年 11月第1回グッゲンハイム国際美術賞展に「船を造る人」を出品。1957(昭和32)年 5月第4回日本国際美術展に「燃える」を出品し、国立近代美術館賞を受賞。6月第4回サンパウロ・ビエンナーレ展にデッサン7点を出品。8月第2回現代ふらんすクリチック賞絵画展に賛助出品する。1959(昭和34)年 5月第5回日本国際美術展に「蝶」を出品し、最優秀賞を受賞する。10月西部秀作展に「大道の物売り」を出品し、最優秀賞を受賞する。11月1951~1959・代表作品展を開催し、戦後の代表作10点を出品する。1960(昭和35)年 1月第5回日本国際美術展出品作「蝶」により第1回毎日芸術賞を受ける。4月第6回ルガーノ国際版画ビエンナーレ展にリトグラフ5点を出品。11月戦後から15年におよぶ熊本の生活をきりあげ、神奈川県逗子に転居。1962(昭和37)年 10月国際形象展に同人として参加「夜の彫刻」「走馬燈」「海浜の蝶」を出品。1963(昭和38)年 5月第7回日本国際美術展「走馬燈」。7月海老原喜之助選自展東京・日本橋・三越で開催。出品は第一次滞欧時代の作品から近業まで108点。この回顧展のため「出城」出品。2回国際形象展「ある日」出品。31回独立展「雨の日」出品。1964(昭和39年) 15回記念選抜秀作美術展「雨の日」招待出品。国立近代美術館において「滞欧作とその後」展「姉妹ねむる」「ゲレンデ」「曲馬」「群がる雀」「殉教者(サン・セバスチャン)」出品。3月、前年の自選展ならびに第31回独立展に出品の「雨の日」の業績によって芸術選奨文部大臣賞を受ける。6回現代日本美術展「夏の夕べ」出品。「スケッチ展シリーズ完結記念」展(銀座・松屋)「厩」「春の日」「夏の夕べ」(素描淡彩)出品。3回国際形象展「扉」「楽園」出品。オリンピック東京大会芸術展示「近代日本の名作」展「雨の日」出品。32回独立展に「夏の夕べ」を出品。1965(昭和40年) 8回日本国際美術展「花ぬす人」出品。5月14日、横浜モスクワ経由渡仏。8月27日帰国。33回独立展「男の顔」出品。東京日蓮宗寺院・乗泉寺本堂ガラス・モザイク壁画「合掌」完成。画集「海老原喜之助」出版。1966(昭和41年) 4月13日羽田発渡仏。藤田嗣治のモンバルナスのアトリエに住む。絵を描くことよりヨーロッパ各国の寺院、美術館をめぐる。10月8日、帰国。(11月、海老原美術研究所閉鎖)1967(昭和42年) 7月、日動画廊で陶彫、油絵、素描を展示する海老原喜之助新作展開催。8月、熊本で海老原喜之助展開催。35国独立展「南の国」(神奈川県立近代美術館蔵)出品。10月25日、渡欧。1968(昭和43年) 1月、スイス・チューリッヒの病院に入院中の恩師藤田嗣治に付添う。1月29日、藤田嗣治死去。このあとの10カ月間は藤田家の後始末に忙殺される。7回国際形象展「聖像」出品。11月、サンリスへ旅行、このころ「聖堂」など風景を描く。1969(昭和44年) 1月、ニース旅行。5月ブルターニュ、ロワール地方旅行。車で南下途中、遺跡の町シノンで発熱、疲労がひどく、食べたものを吐く。ブールジュに至る。6回太陽展「調教師の家族」出品。7月、東京・銀座弥生画廊、フジキ画廊で海老原喜之助滞欧小品展開催。ドイツ、ベルギー、ルクセンブルグへ旅行。1970(昭和45年) 3-4月、「サーカス」「サーカス=白馬」「白い木馬」などを描く。このころ、疲れがひどくなる。5月、夫妻でスイス、イタリアを旅行。7回太陽展に「サーカス」出品。ブルターニュ地方を旅行中、エトルタで吐血する。衰弱がひどくなる。9月19日、午前8時30分(日本時間午後4時30分)死去。肺ガンと診定。9月25日、仮葬儀がペール・ラ・セーズの聖堂で行われる。日本政府から勲三等旭日中綬章が贈られる。10月15日、青山葬儀所で独立美術協会葬が行われる。1971(昭和46年) 4月、東京・日本橋・高島屋で海老原喜之助展開催。8月、神奈川県立近代美術館で海老原喜之助デッサン・水彩・版画展開催。

安永良徳

没年月日:1970/09/12

 日展評議員の彫刻家安永良徳は、9月12日肺炎のため福岡市の自宅で死去した。享年68歳。明治35年横浜市に生れ、大正8年福岡県立中学修猷館を卒え、昭和2年東京美術学校彫刻科を卒業した。昭和6年構造社会員となり、同11年文展無鑑査となる。昭和16年~22年迄応召を受け、戦後、日展に出品し屢々審査員となる。そのほか、福岡美術協会理事長、福岡ユネスコ協会常務理事などつとめる。主要作「青春乱舞」(九州大学教養部)、「裸婦」(福岡県立文化会館前)「愛と美」(小倉市歯科医大前)

田沢八甲

没年月日:1970/09/02

 田沢八甲は明治32年8月2日青森市に生れた。大正9年上京、郵政省簡易保険局外務課に勤務、赤坂溜池の葵橋洋画研究所に入り黒田清輝に油絵を学び、黒田の没後は牧野虎雄に師事した。昭和4年帝展に初入選となり、その後帝展に入選をつづけ二部会で朝日新聞社賞を受けた。戦後は日展に出品、昭和27年、29年に入選している。官展の他は旺玄会、新世紀(旧槐樹社)、新協美術会に出品していた。主な作品は「東北のこども」「庭の姉妹」など。

内藤多仲

没年月日:1970/08/25

 早大名誉教授、学士院会員の建築家内藤多仲は、8月25日老衰のため新宿の国立第一病院で死去した。享年84歳。山梨県出身で、明治43年東大工学部卒業後、明治45年から昭和31年まで早大教授をつとめた。この間、耐震建築構造の設計方式を確立し、地震工学の世界的権威といわれる。東京タワー、通天閣など各地のテレビ塔60基や、歌舞伎座、旧日本興業銀行ビルなどを設計した。関東大震災にも同氏の設計した歌舞伎座などのビルは、殆ど被害がなく、理論の正しさを実証した。日本建築学会長を二度にわたりつとめ、昭和37年文化功労者、同39年勲二等旭日重光章を受けた。

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