本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,850 件)





田之口青晃

没年月日:1965/12/22

 日展委嘱日本画家田之口青晃は12月22日心筋こうそくのため、京都市北区の自宅で逝去した。享年68才。明治30年12月兵庫県に生れた。本名甚作。大正13年4月京都市立絵画専門学校に入学、昭和4年に修了、さらに昭和9年まで研究科に学んだ。西村五雲、山口華楊に師事した。京都にあって官民系作家として活動し「鯉」を主題とした作品を得意とした。作品略年譜昭和5年(1930) 第11回帝展「微風」初入選。昭和6年 第12回帝展「雪晨」。昭和7年 第13回帝展「雪解水」(寒鯉)。昭和8年 第14回帝展「水温む」(春鯉)。昭和11年 文展「小春神泉」推奨となり、李王家買上。昭和12年 第1回文展「朝」(兎)。昭和13年 第2回文展「魚暇」(鯉)。昭和15年 紀元2600年奉祝展「月明」。昭和17年 第5回文展「憩」(小牛)無鑑査となる。昭和21年 第2回日展「和憩」。昭和22年 朝日新聞社主催現代展「若鷹」昭和23年 第4回日展「楽苑」(大鶴)。昭和24~25年 病気不出品。昭和27年 第8回日展「ひざかり」。昭和28年 第9回日展「春光」(鯉)。昭和30年 東京日本橋三越で個展開催。昭和33年 第1回「日展」「夕映」招待出品。昭和34年 第2回「日展」「鯉」招待出品。昭和35年 第3回「日展」「禅苑石舟」。昭和36年 第4回「日展」「凍」。昭和38年 第6回「日展」「石仏」。昭和39年 第7回「日展」「夕やけ」。昭和40年 第8回「日展」「精」。

河野薫

没年月日:1965/12/07

 国画会会員、日本版画協会会員河野薫は12月7日肺ガンのため逝去した。享年49才。大正5年8月12日小樽市に生まれる。油彩、版画ともに殆ど独修で、日本版画協会、国展に版画を出品し、29年に日本版画協会会員に、また国画会では33年会友に、36年会員に推挙された。略年譜大正5年(1916) 8月12日小樽市に生まれる。昭和19年 日本版画協会展初入選(木版画)。昭和27年 国画会展に初入選。昭和29年 日本版画協会会員に推挙される。昭和30年 国画会第29回展で木版画「郷愁」「海の幻想」が国画会賞受賞。昭和31年 現代日本版画展出品(木版画・セリグラフ)。昭和32~33年 オレゴン東西展、ニューヨーク、シカゴ、コロンボ、ユーゴスラビア各地の展覧会、スイス、グレンヘン・トリエンナーレ展等に出品。33年国画会会友となる。昭和34年 東京養清堂画廊の他シァトル、シカゴで個展をひらく。日本版画協会展「白と黒」「突進」。昭和36年 国画会会員に推される。昭和37年 国画会36回展「椿(F)」、オーストラリヤ、ニューサウズウェールズ美術館主催の同国内巡回日本現代版画展に出品。昭和38年 国画会37回展「おとずれ」。昭和39~40年 外務省によるデンマーク、スエーデン、イタリーにおける現代日本版画展出品、又40年にはクアラルムプールの現代日本版画展出品。12月7日逝去。

武市政輝

没年月日:1965/11/29

 青竜社社人武市政輝は、11月29日胃ガンのため相模原市の自宅で逝去した。明治40年高知県土佐清水市に生れ、東京高等工芸を卒業した。株式会社小西六に勤務し、傍ら絵を学んで、戦後青竜社に出品をつづけた。昭和23年「木蓮」が初入選し、同25年には「竹煮草」を出品して社子となり、38年第35回展では「買はれゆく仔犬」を出品して社人となった。

式場隆三郎

没年月日:1965/11/21

 ゴッホの研究家で異色芸術家の紹介者としても知られた医学博士式場隆三郎は、11月21日東京お茶の水順天堂病院で胃癌のため死去した。享年67才であった。精神病理学を研究し、大著「ファン・ホッホの生涯と精神病」2巻の他、数多い著作や講演、複製展など多面的な活動によって、ゴッホを日本に紹介した。それ以外にも武者小路実篤の「新しき村」運動を支持したり柳宗悦の影響下に「月刊民芸」を刊行したが、「二笑亭綺譚」に見られるように多少なりとも精神病理学的な芸術を研究対象とするところに独自性がある。世紀末芸術の鬼才ビアズレーやロートレック、あるいは18・9世紀スペインのゴヤの紹介活動もその一連のものと見ることができる。精神薄弱児童の教育活動からは山下清をクローズ・アップしたことも、特異児童に対する社会の偏見の一部を啓蒙するものとして貢献があった。略年譜明治31年(1898) 7月2日新潟県生大正10年 新潟医大卒。昭和4年 医学研究、ゴッホ研究のため欧州視察、西欧の民芸の基礎的調査中、医学博士の学位をうける。昭和7年 静岡脳病院長として勤務中「ファン・ホッホの生涯と精神病」2巻を聚楽社より刊行。昭和9年 「バーナード・リーチ」(建設社)、「テオ・ファン・ホッホの手紙」(向日庵)。昭和10年 ポール・ガッシェ編『印象派画家の手紙』翻訳昭和11年 市川市国府台に式場病院を創立。昭和14年 「月刊民芸」を刊行、「二笑亭綺譚」(昭森社)。昭和15年 文化映画「琉球民芸」「琉球の風物」。昭和16年 「焔と色」(S,ポラチェック著ゴッホ伝記小説翻訳、牧野書房)。昭和17年 「ロートレック、生涯と芸術」(二見書房)。昭和18年 「宿命の芸術」(昭和刊行会)昭和21年 日刊新聞「東京タイムズ」創刊。日本ハンドボール協会会長に就任。昭和23年 「長崎の鐘」(永井隆著、日比谷出版)を世に出す。昭和24年 厚生省中央優生保護委員、日本精神病院協会理事に就任。昭和25年 東京社会保険協会、労働省婦人少年局委員となる。「ゴヤ(H.ストークス著の抄訳)」(山雅房)。昭和26年 ゴッホ伝記小説「人生の情熱」(三笠書房)。劇団民芸公演ゴッホ劇「炎の人」製制委員長、ゴッホ展、ロートレック50年祭展を開催。総理府青少年問題協議会委員となる。昭和27年 P.ラミュール著ロートレックの伝記小説翻訳「ムーラン、ルージュ」(新潮社)。前年より創芸社近代文庫に「ゴッホの手紙」全4巻を翻訳刊行。昭和28年 ゴッホ誕生100年記念祭を開催。ゴッホ記念展。「ゴッホ巡礼」「ゴッホ画集」(3巻)昭和29年 「ヴァン・ゴッホ」(新潮社)、国立松方コレクション美術館建設連盟副会長に就任。募金のためゴッホ展。ロートレック展。講演会を開催。昭和31年 「山下清画集」(新潮社)。昭和30年 山下清作品展全国各地で開催はじめる。昭和33年 「はだかの大将」(東宝映画)監修。「山下清ぶらりぶらり」(文芸春秋社)。昭和34年 「ロートレック」(現代伝記全集30、日本書房)。昭和36年 山下清をつれて渡欧。滞欧作品展。「ヨーロッパぶらりぶらり」(文芸春秋社)。昭和39年 財団法人日本近代文学館に白華文献千余冊寄贈。昭和40年 「炎の画家ゴッホ」(角川写真文庫)。決定版「二笑亭綺譚」(今野書房)。藍綬褒章授与さる。他に著書として「ビアズレー・生涯と芸術」、「マルキ・ド・サド、(評伝)」(昭森社)、「サド侯爵夫人」「ゴッホの素描(評伝と画集)」(アトリエ社)、「夜の向日葵(テオの手紙・向日庵版の増訂版)」(畝傍書房)、「ヴァン・ゴッホ(研究・戯曲・画集)」(美術発刊所)「光の信者・上(デ・フリース著レンブラントの伝記翻訳)」(冬至書店)、「琉球の文化」(日新書院)、「天才の発見」(山雅房)。

山川勇一郎

没年月日:1965/11/12

 一水会会員・日本山岳画協会会員の洋画家、山川勇一郎は11月12日、チリ国のロ・バルデス・アンデス連峰で遭難、全身凍傷のため死亡した。享年66才。山川勇一郎は明治42年(1909)4月26日、神戸市に生れ、神戸第一中学校を経て昭和9年に東京美術学校西洋画科を卒業、一水会に出品、昭和16年応召、同18年現地除隊となりそのまま中国にとどまって北京を中心にして華北で制作、このころ北京で安井曽太郎に接してこれに師事。昭和21年帰国、同22年一水会会員に推挙され、また安井曽太郎門下生による連袖会に参加した。美校時代から登山をよくし、昭和33年には深田久弥らと「ジュガール・ヒマール探査隊」を組織してヒマラヤ地方に旅行し、昭和34年第21回一水会展に「ランタン・ヒマール」「ドルジェ・ラクパ」を出品して会員優秀賞を受賞した。昭和39年3月単身チリに赴き、4月チリ着。その後、サンチャゴに滞在し、ボリビヤ、ペルー、アルゼンチンなどを旅行、昭和40年11月大阪府岳友クラブ中央アンデス登山隊に同行してサンチャゴを発し、11月9日セントラル・アンデス、ロンバルデス地区のC1キャンプからC2キャンプに向う隊員と同行、中途より作画のため同行隊員と別れ単身キャンプに向ったあと消息をたち3日後の12日、雪原のなかの経40cm深さ23cmのクレバスのなかに遭難しているのをチリ山岳連盟、チリ国空軍ヘリコプターなどの協力によって発見され、救出されたが全身凍傷甚しく、同日17時30分絶命した。昭和41年3月2日~9日、東京新宿・伊勢丹において遺作展が開催された。主要作品 裸婦立像、和服の女(昭和13年2回一水会展)、座像(3回一水会展)、画室の朝食、小憩(9回一水会展)、連雲港(14回一水会展)、造船所(17回一水会展)、ランタン・ヒマール、ドルジェ・ラクパ(21回一水会展)、サンチャゴの裏街、朝のアンデス連峰(昭和40年・遺作展)。

西澤笛畝

没年月日:1965/10/24

 日本画家で人形研究と蒐集で知られる西澤笛畝は、10月24日胆のう炎のため板橋区の自宅で逝去した。享年76才。葬儀は27日谷中観智院で、「人形葬」が行われた。旧姓石川昂一、後西澤家を継ぐ。号比奈舎。明治22年1月東京浅草に生れ、荒木寛畝、同十畝に師事した。傍ら人形玩具の研究に志し、多くの蒐集、著書と共に終生つづけられた。昭和6年童宝美術院を創設し、また団欒社を起し、昭和11年には童宝文化研究所を設立し、所長として内外人形文化のため活躍した。作品は主として官展に出品し、大正4年9回文展で「八哥鳥の群れ」(対幅)が初入選以来殆ど毎年入選し、昭和9年第15回帝展では審査員となった。戦後日展への出品もみられるが、人形玩具文化での活躍が目立つ。昭和26年文化財保護委員会専門審議員となり、昭和34年には人形保存に寄与した功により紫授褒章となった。 主な著書に「雛百種」、「人形集成」、「日本画の描方」、「虫類百姿」、(いづれも芸草堂発行)、「日本郷土玩具事典」(岩崎美術社)等がある。

西本順

没年月日:1965/09/12

 東京芸術大学教授西本順は、9月12日午前10時42分、新宿区の国立第1病院で胃かいようのため死去した。享年53才。明治45年(1912)2月5日、広島県に生れ、昭和5年広島県立広島第1中学校を卒業し、6年京城帝国大学に入学、11年京城大学法文学部哲学科美学専攻を卒業した。卒業論文「来迎芸術の研究」。11年4月京城大学助手を命ぜられ、法文学部美学研究室に勤務したが、12年兵役に入り、13年陸軍少尉に任官して中国の戦地で軍務に服した。15年戦地より帰還、召集解除、16年1月文部省教学局に勤務した。17年多賀工業専門学講師となったが、再び召集、19年解除となり多賀工専教授となる。戦後、21年東京美術学校教授、24年東京芸術大学助教授となり、美学、芸術学を講義した。38年教授となる。昭和31年「世界美術辞典」(河出書房)の美学関係項目を執筆、36年には玉川百科辞典「西洋美術」篇、美学事典(弘文堂)に執筆、主要論文に「現代造型の美学」(雑誌・理想・昭和39年3月現代芸術の美学特集号)がある。

伊賀勇高

没年月日:1965/09/08

 二科会会員伊賀勇高は胃ガンのため9月8日逝去した享年49才。大正4年北海道の生れで、昭和14年日本美術学校洋画科の出身である。二科展に出品するとともに米国での作品展に力を入れ、37年には二科会会員に推挙された。略年譜昭和14年(1939) 新構造社第2回展出品。日本美術学校卒業。昭和25年 二科会新人十人展に選ばれる。二科会創立35周年記念受賞。米国サロン・ド・プランタン展出品。昭和27年 二科会商業美術賞。昭和28年 二科会会友推挙される。昭和32年 二科会42回展「死に切れぬジアー」昭和34~35年 ロスアンジェルスを振出しに米、カナダ、メキシコの主要都市で作品展を開く。昭和36年 二科会46回展で金賞をうける。昭和39年 二科会49回展「聖旨」「送還の曲」「天国の裁き」。昭和40年 9月8日没。昭和41年 10月28日東京新宿駅ビル6階ギャルリ・アルカンシエルで遺作展を開催。

土味川独甫

没年月日:1965/08/20

 日本画家土味川独甫は、8月20日心臓病のため死去し、翌日杉並区の自宅で葬儀が行われた。享年48才。本名松井基夫。大正7年6月10日静岡県浜松市に生れ、県立浜松工業高校図案科を卒業、川端画学校、本郷絵画研究所等で油絵を学び、昭和20年日本作家協会会員となった。同年全日本画人連盟を創設し、委員長となり、また東京美術研究所を起し、その所長となった。昭和32年新象作家協会の創立委員となったが、その後無所属となり専ら個展によって作品を発表した。昭和39年には銀座画廊で画業30周年記念展を開き、写実からシュールレアリズムに至る新思潮と、日本画を結合した意欲的な実験は、注目され一般にも好評だった。代表作として「女人幻覚」(1947)、「赤松林」(1948)、「女」(1952)、「冬の庭」(1959)、「白夜」(1960)、「伊豆連作」(1962)、「古枯」(1964)等がある。

杉浦非水

没年月日:1965/08/18

 光風会会員、多摩美術大学名誉教授の日本画家・図案家杉浦朝武(号・非水)は、8月19日午後7時30分、老衰のため藤沢市の自宅で死去した。享年89才。明治9年(1876)愛媛県松山市に生れ、松山中学在学中に絵画の手ほどきをうけ、明治30年上京して川端玉章に師事した。34年東京美術学校日本画科卒業。黒田清輝に私淑し、34年欧州旅行から帰国した黒田のもたらしたアール・ヌーヴォー様式に感動して図案研究を志す。大阪三和印刷所、東京三越、都新聞社などの意匠図案を担当し、劇場の緞帳図案、雑誌表紙、ポスターなどを作成する。45年には光風会の創立に参加、また図案研究団体を創立し、デザイン運動をおこすなど多彩な活躍をなした。美術教育にもたずさわる。工芸図案界の先覚者として長年の功績に対して昭和29年度日本芸術院恩賜賞をうけた。主要作品三越-みつこしタイムズ表紙、長岡座緞帳図案、緞帳図案孔雀の図(旧帝劇)、三越新築のためのゼセッション風の美人ポスター、蝶のダンスポスター(三越)、新宿三越落成ポスター、京城三越落成ポスター、銀座三越落成ポスター七人社出品作品-窓、デプレダシォン、人魚のポスター、裸婦の図、七面鳥、浅間四題光風会出品作品-図案風猫の絵(宮内庁)、群鶏屏風、ペリカン屏風、浅間高原、夕の清洲橋、七面鳥、あすは雨か(浅間山残雪風景)、鵜其の他-長良川鵜飼と納涼ポスター、地下鉄ポスター(五種)、勧業債券ポスター(五種)、明治・大正名作展覧会ポスター、産業組合ポスター(五種)、陸軍展ポスター専売局-響、パロマ、桃山、光、扶桑、日光のタバコ図案著書(大正3年以降)非水図案集 非水の図案 しぼりの図案 非水花鳥図案集 非水一般応用図案集 非水創作図案集 非水百花譜(全20輯) 実用図案資料大成(全8巻・渡辺素舟共著)略年譜明治9年(1876) 5月15日愛媛県松山市に生れる。明治29年 松山中学校卒業、在学中に四条派の画家松浦巌暉に師事。明治30年 5月上京、川端玉章に師事、天真画塾に入り黒田清輝に洋画を学ぶ。9月東京美術学校日本画撰科に入学。明治33年 東京外国語学校仏語別科に入学。明治34年 東京美術学校卒業。明治34年 東京外国語学校修了。5月帰国した黒田清輝のもたらしたアール・ヌーヴォー様式に感激し図案研究を志す。明治35年 黒田清輝の推薦により大阪三和印刷所図案部主任に就職。11月大阪商船株式会社嘱託。明治36年 三和印刷所解散のため退職。大阪開催の第5回内国勧業博に出品。明治37年 4月島根県第二中学校教諭として浜田に赴任。明治38年 11月島根県第二中学校教諭辞職、上京。明治39年 11月都新聞社に入社。意匠図案を担当。明治41年 東京三越の招聘により図案部嘱託として入社、中央新聞を兼任(43年まで)明治43年 三越図案部主任となる。明治45年 3月日比谷図書館主催にて自作の書籍装幀・雑誌表紙図案展覧会を開催。6月中沢弘光、山本森之助ら6名と光風会を創立する。大正2年 国民美術協会創立、絵画部・装幀美術部・学芸部会員となる。大正10年 日本美術学校図案科講師となる。カルピス株式会社美術顧問となる。大正11年 11月図案及び絵画研究のため欧州に遊学、パリを根拠地としてドイツ、イタリア、オランダ各国を巡遊する。大正13年 帰国・図案研究の団体七人社を創立・主宰する。大正15年 七人社創作図案第1回展を三越において開催、その後毎年開催、10回に及ぶ。雑誌「アフィッシュ」を発行しデザイン運動をおこす。昭和4年 帝国美術学校創立され工芸図案科長に就任する。昭和9年 三越嘱託を辞職する。昭和10年 帝国美術学校を退職。多摩帝国美術学校を創立、校長兼図案科主任教授となる。昭和13年 専売局図案嘱託となる。昭和19年 太平洋戦争のため軽井沢に疎開する。昭和24年 疎開地帰京。昭和25年 多摩美術短期大学理事長図案科主任教授となる。東京都広告物審議会委員に任命される。昭和26年 文部省社会教育局通信教育審議会委員を嘱託される。昭和28年 多摩美術大学理事長兼図案科主任教授となる。昭和30年 芸術院恩賜賞(29年度)を授賞。昭和33年 紫緩褒章をうける。昭和35年 夫人翠子死去。昭和40年 勲四等旭日小緩賞を叙勲。昭和40年 5月米寿記念杉浦非水日本画展を日本橋三越で開催する。8月18日死去。

栗山文次郎

没年月日:1965/06/26

 紫根・茜染め伝承者、無形文化財(人間国宝)指定の栗山文次郎は、6月27日午後11時40分、秋田県鹿角郡の自宅において脳軟化症のため死去した。享年77才。明治20年10月17日秋田県花輪に生れる。栗山家は、曽祖父は盛岡藩士であったが、その一族の中から秋田屋という店舗を開き、永く紫根染を家業のひとつとしてきたのであるが明治維新期に一時休止のやむなきにいたっていた。明治36年11月1日、父の先代文次郎の死により家業の呉服商を継いだが、古来の名産の杜絶えるのを憂い、古代紫根染(かづのむらさき)の復興に着手して工場を再建、染色事業を開始した。大正年間には東京三越に多量出陳して好評を博したが、化学染料の進歩によって大正13年倒産、以後事業を縮少し、また郷土の後援で小規模に製作を維持してきた。昭和4年、伊勢神宮遷宮式にあたり御用染物の命をうけた。昭和19年、商工大臣より「技術保存資格者」の指定をうける。昭和28年文化財保護委員会より、「助成の措置を講ずべき無形文化財」の指定をうけた。昭和35年文化財保護委員会より表彰を受け、39年10月黄綬褒章をうけた。

杉栄三郎

没年月日:1965/06/08

 東京国立博物館評議員、元帝室博物館総長法学博士杉栄三郎は6月8日文京区の山川病院で死去した。享年92才であった。略年譜明治6年(1873) 1月4日岡山県に生れる。明治33年 7月東京帝国大学法科大学政治科卒業。12月会計検査院検査官補となる。明治35年 清国政府の招聘により同国京師大学堂に赴任。45年満期歸国。大正2年 会計検査院検査官。大正7年 宮内省書記官、帝室制度審議会幹事。大正8年 10月宮内省参事官を兼任。12月法規整理委員。大正9年 帝室林野管理局主事。大正11年 図書頭。大正13年 諸陵頭事務取扱。臨事御歴代史実考査委員会委員。諸陵頭兼任。昭和7年 9月帝室博物館総長。昭和9年 8月同館研究室銓衡委員。昭和14年 5月依願免官。宮中顧問官。昭和26年 9月国立博物館評議員会評議員。昭和34年 9月同会会長。昭和40年 6月7日没。この間法学博士号をうけ、勲一等瑞宝章を授けられ、また昭和18年には正三位となった

佐原修一郎

没年月日:1965/05/27

 国画創作協会で活躍した日本画家佐原修一郎は、5月27日死去した。明治28年2月14日長野県東筑摩郡に生れ、大正13年京都市立絵画専門学校を卒業した。同年の第4回国画創作協会展へ「老婆の像」を出品し、樗牛賞を受け、翌14年第5回展「静物」で再び樗牛賞となった。大正15年同展に「風景」を出品して会友となり、翌昭和2年の同展では「秋庭」で国画賞となった。国展解散後は新樹社に参加し、また帝展へ出品した。「幽庭錦繍」(11回帝展)「信濃路の雪」(12回帝展)「桑つむ里」(13回帝展)「木葉刈」(14回帝展)などがある。戦中からは郷里長野に帰り後進の指導にあたっていた。

山喜多二郎太

没年月日:1965/05/24

 日展評議員、光風会理事山喜多二郎太は、5月24日心筋こうそくの為逝去した。享年68才。明治30年1月5日福岡県直方市で生れた。大正4年東京美術学校に入り藤島教室に学んだ。7年には寺崎広業に師事。大正9年東京美術学校を卒業した。同年第2回帝展に「子供」が初入選となり、以後6.8.9.11.12.13回と出品入選をつづけている。光風会展にも大正時代から出品し、昭和4年第16回展で会友、昭和9年会員に推され昭和33年理事となった。官展系作家で、戦後は光風会の他日展に作品をおくり、晩年は日展評議員であった。昭和2年、中国に遊学しているが、洋画に水墨画の手法をとり入れた独特の画風で知られた。略年譜大正9年(1920) 第2回帝展「子供」。大正14年 第6回帝展「静物」。第12回光風会展「静物。昭和2年 第8回帝展「室の一隅」。昭和4年 第16回光風会展「観音」「室内の静物」。昭和7年 第13回帝展「画室にて」。昭和9年 第15回帝展「二人の女」(特選)。第21回光風会展「静物」。昭和10年 第二部会第1回展「写生」特選。昭和12年 第1回文展「庭にて」。昭和13年 第2回文展「むすめ」。昭和14年 第3回文展「キモノ少女」。戦後の21年、第1回日展以後の同展出品作を略記すると、25年(7回展)「林檎畑の丘」。26年(8回展)「アトリエ」依嘱出品。29年(11回展)「雨後」審査員をつとめる。30年(12回展)「漁港」依嘱作品。31年「13回展」「田を耕す」。尚、33年社団法人として発足後の「日展」には評議員となって1回展「描く人」、5回展「春が潜む」、6回展「伊勢の漁港」第7回展「燈台のある丘」などを発表している。

養父清直

没年月日:1965/05/20

 新興美術院理事養父清直は茨城県に生れた。大正12年に吉村忠夫に師事大和絵を学び、その後日本画院、茨城県展、新興画院展などに出品、31年新興美術院理事となった。5月20日没。略年譜昭和4年(1929) 聖徳太子奉賛展「迎秋の図」。昭和5年 日本画会展「初秋」(以後連続八回入選、「夕」受賞)。昭和14年 日本画院第1回展「浅春」。昭和16年 日本画院第3回展「雪」奨励賞紀元2600年奉祝展「春日」。昭和26年 新興美術院再興第1回展「山」奨励賞、会友推挙。昭和27年 新興美術院再興第2回展「鶏頭之図」受賞。昭和28年 新興美術院再興第3回展「蓮」受賞、会員推挙。昭和29年 茨城県展「黄昏」受賞。昭和32年 茨城県展「船」県買上。昭和40年 5月28日から6月2日まで水戸市南町伊勢甚百貨店で遺作展を開いた。

島野三秋

没年月日:1965/05/17

 漆工芸家島野三秋、本名新太郎は5月17日直腸ガンのため、大阪市の自宅で没した。享年88才。明治10年7月金沢市に生れ★漆を県立工業学校漆工科の鶴田和三郎に、蒔絵を松岡吉平に、また日本画を岸浪柳渓に学んだ。明治37年27才のとき大阪市へ移住、一時京都鳴滝に静養したこともある。なお21才の折シカゴ万国博覧会に出品受賞して以来、大正14年(1925)パリ万国博、ベルギー万国博、昭和14年(1939)ニューヨーク万国博などに出品各各受賞している。また大正4年以来、12年、昭和3年、4年、7年と大阪府及び大阪市よりの献上品を謹作、昭和9年には帝国美術院の推薦をうけ、16年文展審査員となり以来毎年無監査待遇となった。戦後は日展に出品し35年に日展出品依嘱者となった。作風は枯淡、清雅の中に斬新な力強さがあり、独得の青海波描の特技をもっていた。昭和37年四天王寺の香合が終生の力作となった。大阪漆芸界の長老として大阪工芸協会理事。関西展審査員などを歴任、斯道の発展に尽し、39年全国漆工団体より功労賞をうけている。

松島一郎

没年月日:1965/05/17

 独立美術協会会員、横浜国立大学、建築科講師の洋画家松島一郎は、5月17日午前5時30分心臓マヒのために横浜市の自宅において死去した。享年62才。明治35年(1902)横浜市に生れる。大正6年慶應義塾商工学校に入学、9年に中退・里見勝蔵に師事し昭和2年1930協会第2回展に「角のパン屋」を出品、昭和3年には第15回二科展に「ガードと橋」を出品、翌4年第16回展に「水族館」「弘明寺裏」を出品した。独立美術協会が創設され、昭和6年第1回展から出品、翌年第2回展に「風景」他2点を出品してO氏奨励賞をうけ、8年第3回展では「人夫」「家族」他2点を出品、独立賞を受賞した。昭和10年に推薦となり、翌11年に会員に推挙され、以後、独立美術協会の中堅作家として活躍した。かたわら、昭和5年ころから横浜市桜木町駅前の石炭ビルの一室に研究所を設けて後進を指導、昭和20年には横浜美術協会(ハマ展)の創立に参加、横浜独立美術協会を設立、37年には神奈川県美術家協会の創立に参加、県展をはじめとして神奈川県下の美術界でも活躍した。なお、昭和29年以降は横浜国立大学建築科講師の職にあった。作品略年譜角のパン屋(昭和2年1930年協会第2回展)・ガードと橋(15回二科)、水族館・弘明寺裏(16回二科)、トスネル附近・白い工場の見える風景(1回独立)、風景・煉瓦を砕く男(2回独立)、人夫・家族(3回独立)、母子・風景(4回独立)、靴屋・豚屋(5回独立)、港・木々の眺め(6回独立)、椰子と貝(7回独立)、耕す牛(12回独立)、静物・富士(13回独立)、高千穂(14回独立)、臼ときね・鍛冶屋(21回独立)、コンポジション・海と崖(24回独立)、海(26回独立、神奈川県立近代美術館蔵)、室戸A・室戸B(27回独立)、扉・作品(32回独立)

松村政雄

没年月日:1965/05/17

 奈良国立博物館美術室長松村政雄は5月17日、奈良市西浦病院で脳出血のため死去した。享年61才であった。京都絵画専門学校専攻科を卒業後、宮内省諸陵寮で模写事業にたずさわり、傍ら新文展に出品した。のち東京帝室博物館などで鑑査官補を勤め、昭和29年には奈良国立博物館鑑査委員、ついで資料室長、美術室長を歴任した。美術史学における研究の中心は垂迹美術であり、昭和37年4月、同博物館で開催された「神仏融合美術展」およびそれをまとめた大著「垂迹美術」はまさにライフワークの結晶であった。略年譜明治37年(1904) 1月3日福井市に生れる。大正12年 京都市立美術工芸学校卒。昭和2年 京都市立絵画専門学校専攻科卒。菊池契月に師事した。昭和3年 宮内省諸陵寮で古美術品の模写に従事。昭和11年 2月の第1回改組新帝展に「長雨のあと」が松村正雄として入選。昭和13年 東京帝室博物館に転任。昭和14年 第3回新文展に「牛」入選。昭和18年 4月帝室博物館鑑査官補に任ぜられる。昭和19年 10月奈良帝室博物館に転任。昭和20年 3月正倉院監理官補を兼任。昭和21年 4月帝室博物館出仕、正倉院監理署出仕を兼任。昭和22年 5月国立博物館奈良分館文部技官となる。昭和26年 2月同館学芸課長事務代理。昭和29年 同館は27年奈良国立博物館となり、この年8月同館陳列品鑑査委員に任ぜられる。昭和32年 5月同館資料室長。昭和36年 11月同館美術室長。昭和40年 5月没す。没後正六位勲五等瑞宝章を受けた。他に京都奈良文化財買取協議会協議員、奈良県文化財専門審議会専門委員、奈良市史編纂委員などを勤めた。主 著 論文春日宮曼荼羅(大和文華20号 昭和31年)新出の春日水谷社の衝立絵(同上26号 昭和33年)柿本宮曼荼羅図(同上32号 昭和35年)らくがき絵(同上35号 昭和36年)南倉和琴の所謂★★画について(書陵部記要7号 昭和31年)厨子扉絵天部2人物図(国華858号 昭和38年)春日大社、興福寺の絵画(春日大社興福寺 昭和36年近畿日本鉄道株式会社)垂迹美術(奈良国立博物館 昭和39年 角川書店)

布施信太郎

没年月日:1965/04/22

 太平洋画会前代表、布施信太郎は4月22日肺ガンのため逝去した。享年65。布施信太郎は、明治32年4月30日仙台市に生れた。家は代々伊達藩に仕えた武士であったが、先祖に絵をよくする者があり、父、淡も洋画家であった。信太郎もまた、大正3年仙台東北学院を中退し洋画家を志して上京、斎藤与里に師事し翌年太平洋画会研究所に入って中村不折、満谷国四郎らに学んだ。大正13年第5回帝展に「恵まれし日」が初入選となり、更に昭和2年第7回帝展に「母子礼讃」、昭和3年第8回帝展に「残されし心」が入選している。また、太平洋画会展にも出品し、昭和3年同会会員となった。また戦時中まで太平洋美術学校の教授をつとめていた。日本壁画会、南洋美術協会を創立し、大東南宋院には第1回展から招待出品者として出品していたが、太平洋画会を主とし、いつも同展では最大の300号の作品を出品していた。戦後は同会の代表となり、会及び附属学校の再建に尽力していた。略年譜大正13年(1924) 第5回帝展「恵まれし日」(初入選)。大正15年 第7回帝展「母子礼讃」。昭和2年 第8回帝展「残されし心」。第23回太平洋画会展。昭和3年 第9回帝展「湖畔」。昭和4年 第10回帝展「逗子の海」。第25回太平洋画会展「秋」。昭和5年 第26回太平洋画会展「実る頃」。昭和7年 第28回太平洋画会展「泉」。昭和8年 第29回太平洋画会展「建国創業」。昭和9年 第15回帝展「日向」。昭和10年 南洋諸島へ1年余旅行。第30回太平洋画会展「心」。昭和12年 第33回太平洋画会展「コンポジション」。昭和13年 満州へ9ヶ月写生旅行。昭和14年 第35回太平洋画会展「試作」。昭和15年 紀元2600年奉祝展「南洋サイパン島」。第3回壁画会展「婚姻を祝す」「パンの実を焼く」。昭和16年 第37回太平洋画会展「平和」。昭和17年 第5回文展「南洋チャモロの家」。第6回日本壁画会展「山麓新春」。昭和27年 第48回太平洋画会展「新しい光を索めて」。昭和28年 太平洋画会代表となり会の再建に尽力する。昭和29年 第50回太平洋画会展「太平洋」。昭和30年 第51回太平洋画会展「南洋の思い出」。昭和32年 (太平洋画会を太平洋美術会と改称する)昭和33年 第54回太平洋美術会展「新緑の頃」。昭和34年 第55回太平洋美術会展「霧ヶ峰画詩」。昭和35年 第56回太平洋美術会展「信濃の山」。昭和36年 甲府写生旅行中、脳出血で倒れ1ヶ月入院、37年太平洋美術会代表を退く。昭和38年 第59回太平洋美術会展「春は小さな滝から」昭和39年 第60回太平洋美術会展「太平洋60年史」昭和40年 順天堂病院で逝去。

矢野橋村

没年月日:1965/04/17

 日展評議員、日本南画院会長の日本画家矢野橋村(本名一智、別号知道人)は、4月17日午前8時30分、大阪府豊中市の自宅において脳出血のために死去した。享年74才。明治23年(1890)9月8日に生れ、小学校を卒業して南画家永松春洋塾に入る。大正年間に美術文芸研究を目的として直木三十五らと主潮社を起し、個展を主張して審査をうける展覧会への出品を中止したこともある。斎藤与里らと私立大阪美術学校を設立し、日本南画院の設立にも関与した。昭和34年、大阪市民文化賞をうけ、36年には第17回日本芸術院賞を受賞。39年日本南画院会長に就任した。著書に「浦上玉堂」「南画初歩」がある。略年譜明治23年(1890) 9月8日愛媛県越智郡に生れる。明治39年 南画家永松春洋の門に入る。大正3年 第8回文展に「湖山清暁」を出品褒章をうける。大正4年 第9回文展「雨後」出品。大正5年 第10回文展「雲辺浄刹」出品。大正6年 第11回文展「麓」出品。大正8年 直木三十五、福岡青嵐らと主潮社を起し、毎年東京、大阪で個展を開催する。大正10年 日本南画院の設立に関与し同人となる。第1回展「羅浮蓬仙」出品。大正11年 11月、大阪美術協会創立委員となる。第2回南画院展「秋峡・春晝」。大正12年 関東震災のため主潮社展中絶。大正13年 私立大阪美術学校を設立、校長となる(昭和21年閉鎖)、南画院展「十無」。大正14年 南画院展「天竜峡」(6曲1双)。大正15年 南画院展「間人樹芸」「郷国五題」。昭和2年 南画院展「童戯」「待賓留」「浜」。第8回帝展に「雪朝」出品、特選。昭和3年 南画院展「郊外即日」「一飲一啄」。第9回帝展「暮色蒼々」特選。昭和4年 南画院展「夕立」「秋庭」。第10回帝展「盪壑」。昭和5年 南画院展「三保展眸」、第11回帝展「追啄」審査員にあげられる。昭和6年 南画院展「頼山陽絵伝」「峡間猿声」。第12回帝展「大雅堂」。昭和7年 南画院展「筧水」第13回帝展「雪晴」。昭和8年 南画院展「春喧」、第14回帝展「借景画処」、審査員。昭和9年 南画院展「瑞竜」、第15回帝展「砂丘」。大阪府史跡名勝天然記念物調査委員を依嘱される。昭和10年 帝展改組に際し、「指定」に推される。南画院展「華晨」。昭和11年 南画院展「聊爾集」、新帝展「高野草創」、文展「秋与」(2曲1双)、日本南画院解散となる。昭和12年 第1回文展「暮色」審査員。墨人会を起し第1回展「乍雨乍晴」を出品。昭和13年 墨人会展「四季行楽」。昭和14年 乾坤社を創立、主宰し、第1回展「山紫水明」「乳」。第3回文展「山路」。昭和15年 乾坤社展「山岳道者」「初夏」、紀元二千六百年記念展「瑞雪」。昭和16年 乾坤社展「凉宵」、第4回文展「高遊外」。昭和17年 乾坤社展「鯉跳る」「瀞四景」、大阪日本画家報国会結成され、理事長に推される。昭和18年 乾坤社展「或る日の太乙」。昭和21年 第1回日展「朝顔の家」。大阪美術学校閉鎖。昭和23年 第4回日展「幽寂」。昭和24年 第5回日展「寒燈」・審査員。昭和25年 第6回日展「黎明」、関西綜合展審査員。塾展を再会するに当り主潮社の名称を復活する。大阪府芸術賞を受く。昭和26年 第7回日展「不動窟」、審査員。日月社顧問に推される。日月社展「返照」。昭和27年 第8回日展「面河峡」、日展参事、日月社展「北摂風景」関西綜合展「秋晴」。昭和28年 第9回日展「六甲山北面」、日月社展「浦風」。昭和29年 第10回日展「渓潤」、審査員、玉堂賞をうけ文部省買上げとなる。日月社展「雨霽」。昭和30年 第11回日展「旭映雪」・日月社展「雨後」、関西綜合展「豊秋」、主潮社展「瀑布」。昭和31年 第12回日展「箕面」、日月社展「朝色」、関西綜合展「渓潤」、主潮社「箕面」。昭和32年 第13回日展「潮騒」、関西綜合展「魚留」昭和33年 第13改日展改組に当り日展評議員となる。第1回展「旅僧」、日月社展「杉間」昭和34年 第2回日展「峠道」、日月社展「夏山」、関西綜合展「蛸」、主潮社展「夏山」「峠道」。大阪市民文化賞を受ける。昭和35年 第3回日展「錦楓」。主潮社10周年記念展「高山遠水」。日本南画院創立され副会長に就任する。昭和36年 「錦楓」に対し昭和35年度日本芸術院賞受賞。第4回日展「山脈」。昭和37年 第5回日展「山麓」、日本南画院展「晴雪」。昭和38年 第6回日展「牛市行」、日本南画院展「窓雪暁色」。昭和39年 第7回日展「夕照帰急」、日本南画院展「野馬」。日本南画院会長に就任する。昭和40年 日本南画院展「百丈野狐」「青山臨水」、4月17日死去。同日附、従五位勲四等瑞宝賞を授与される。第8回日展に遺作「百丈野狐」出品される。

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