前田青邨

没年月日:1977/10/27
分野:, (日)

 日本画家前田青邨は10月27日老衰のため東京文京区本郷の順天堂医大附属病院で死去した。享年92。本名廉造。なお葬儀は29日鎌倉市の円覚寺で密葬が行われ、11月9日東京中央区築地本願寺で、日本美術院葬による本葬が執行された。青邨は、明治18年岐阜県恵那に生れ、小学校の頃から画才を示して、早くより画道への志をたてた。当初14才で上京するが、病のため一旦帰省し、満16才で再上京した。当時大和絵に造詣深い大家であり、また新聞小説に新味ある挿絵を描いて、時代の寵児でもあった梶田半古の画塾に入った。その頃、先輩に小林古径がいて、二人は小堀靹音門下の安田靱彦、松本楓湖門の今村紫紅らによる紅児会へ明治40年頃参加する。青邨は明治35年日本絵画協会日本美術院連合共進会へ「金子家忠」(三等褒状)が初入選するが、紅児会グループの人たちも同展への出品者であって、岡倉天心の指導を仰ぐこれら気鋭の青年作家たちはそのまま、再興院展への参加とつながっていく。青邨の日本美術院への参加は、師の梶田半古が院の幹部でもあったことからその宿縁ともいえるわけだが、再興院展以後における青邨の目覚ましい活躍は、瞠目すべきものがある。日本美術院は大正から昭和にかけて、さらに激動的な戦後にわたり、官展に対抗して日本画の理想を着実に発展させた。天心の意図した日本画の伝統に基盤を置いた新しい日本画の創造を、青邨らは深く追求しいわゆる新古典主義の作風を展開した。青邨の作品を概観すると、明治期は時代の一般的な傾向でもあった歴史画にはじまり、大正に入ってからは旅行による取材の、写生にもとづく風景画の作品が多く、「朝鮮之巻」「京名所八題」「燕山の巻」「イタリー所見」等が制作された。大正期にはこのほか、大正11年古径とともに日本美術院留学生として渡欧し、大英博物館で顧愷之筆と伝えられる「女史箴図巻」の模写など行い、大いに画嚢をこやすが、日本美術の優秀性を再確認するという日本画家としての根本的問題の解決を得、この研修旅行が画家としての転機をもたらしたと考えてよいであろう。昭和になってからは、5年に前年の院展出品作「洞窟の頼朝」で第1回朝日賞を受賞し、10年には帝国美術院会員となり、戦後昭和30年には文化勲章を受領し、世に大きく認められた。そして作品の上では、大正の写生による風景画に対し、昭和期には鋭い写生と、新しい大和絵風の技法による独特の肖像画の制作が声価を高めた。また晩年には東京芸術大学教授として後進の育成にあたり、文化財行政面でも、文化財保護委員会専門審議会委員、法隆寺金堂壁画再現模写事業総監督、高松塚古墳壁画模写総監督など委嘱され、これらに尽力するところ少なくなかった。青邨はまた若い頃から美術雑誌その他に直截な文章を載せているが、これらを集成した随筆集「作画三昧」(昭和53年新潮社)があり、日本経済新聞紙上連載の「私の履歴書」(昭和44年1月日本経済新聞社)も、同社から刊行されている。そのほかの著書に、スケッチによる「日本の兜」(昭和32年10月中央公論美術出版)がある。
年譜
明治18年(1885) 1月27日、岐阜県恵那郡に父前田常吉、母たかの二男として生まれる。本名廉造。生家はその頃、木曾への入口である街道筋に面し、乾物商をいとなむ。
明治24年 4月、中津川尋常高等小学校に入学。
明治30年 3月、中津川尋常高等小学校を卒業する。
明治31年 母死去。上京し、叔父の経営する本郷根津の下宿屋「東濃館」に寄宿。
明治32年 4月、本郷京華中学に入学。この頃、健康を害し、静岡県吉原の知人宅で2ケ月程療養生活を送り、一旦郷里に帰郷。
明治34年 秋、再上京、親戚のつてで尾崎紅葉を知り紅葉のすすめで梶田半古の塾に入る。当時塾頭に小林古径がいた。
明治35年 塾では古画の習得と同時に、写生に励み、また有職故実についての研究もつむ。この頃、師半古から「青邨」の雅号をもらう。「金子家忠」(3等褒状)第12回日本美術院・日本絵画協会共進会(初入選)
明治36年 国学院大学聴講生になり、古典文学を学ぶ。半古の代筆で小栗風葉の新聞小説「青春」の挿絵を描き、また徳田秋声の連載小説の挿絵も描いた。「防箭」(褒状)第5回内国勧業博覧会。「夕顔」(1等褒状)第14回日本美術院・日本絵画協会共進会。「小碓」第15回日本美術院・日本絵画協会共進会
明治37年 住居を半古塾から本郷菊坂の下宿の移す。
明治39年 巽画会研究会に参加。
「天照皇大神」(銅牌)第3回真美会展。「春遊」日本絵画展(日本美術院主催)。「粧ひ」(1等)廿日会
明治40年 紅児会に入り、今村紫紅、小林古径安田靫彦らの俊英と研究をともにすすめる。「御輿振」(3等賞牌)東京勧業博覧会
明治41年 「囚はれたる重衡」国画玉成会展(3等賞第1席)
明治43年 国画玉成会幹事となる。
「市」第11回紅児会展。「竹取物語」(絵巻)「鶏合せ」第12回紅児会展
明治44年 横浜の豪商原富太郎(号三渓)より研究費の援助を受ける。11月、荻江節の家元初代荻江露章の妹、佐橋すゑと結婚。
「菅公」「鉢の木」第15回紅児会展。「法華経」「竹取」(褒状)第5回文展。「辻説法」日本美術社展
明治45年 紅児会々場で岡倉天心から「にごりを取りなさい」との批判をうけ発奮する。この年、健康を害し、神奈川県平塚に転地療養する。「椿」「須磨」第17回紅児会展。「二曲屏風」第18回紅児会展。「御輿振」(画巻)(3等賞)第6回文展
大正2年(1913) 7月、長女千代子誕生。8月、紅児会解散。「橋合戦」「蝦蟇仙人と鉄拐」第19回紅児会。「月下洗馬」大阪高島屋月百幅会
大正3年 10月、日本美術院同人に推挙される。神奈川県藤沢石上に移転する。この頃、小山栄達、磯田長秋、吉田白嶺らと絵巻物研究会を創める。
「つれづれ草鼎の巻」(銅牌)東京大正博覧会「竹取」(其1=1段-12段、其2=13段-18段)(絵巻)「湯治場」(其1、其2、其3)再興記念日本美術院第1回展
大正4年 朝鮮に旅行する。6月、次女正子誕生。
「朝鮮の巻」(画巻)第2回院展。「渡船場」松屋東都大家新作展
大正5年 神奈川県鶴見に転居。小林古径と関西に旅行する。
「京名所八題」(八幅対、本願寺、三十三間堂、清水、祇園会、先斗町、四条大橋、上賀茂、愛宕山)第3回院展。「曳船」大阪高島屋双幅画会。「戦の巷」「丹霞焼仏」高島屋三都大家新作展
大正6年 4月23日、梶田半古死去。神奈川県渡辺山に転居。
「切支丹と仏徒」(双幅)第4回院展。「地獄変相」「江の島詣」日本美術学院記念展。「元寇殲滅」立太子礼奉祝文官献納画帖。「厳島舞楽」琅★洞展。「厳島詣」三越新作絵画展。「船」「武将」「立葵」日本美術院同人作品展
大正7年 3月、大阪高島屋で、初の個展開催。3月、長男裕造誕生。日本美術院評議員に推される。
「社頭」日本美術院同人展。「六歌仙」三越東西大家新作画展。「維盛最期之巻」(画巻)第5回院展
大正8年 中国に旅行する(往路上海、南京、蕪湖、漢口、宜昌、新潭等で、復路は漢口、北京、奉天、朝鮮を経由する)。
「早春」「晩秋」(双幅)日本美術院同人展。「燕山之巻」(画巻)第6回院展。「★魚」琅★洞展。「遊魚」三越絵画展。
大正9年 延暦寺より伝教大師絵伝「根本中堂落慶供養の図」を委嘱され、小林古径と共に比叡山に赴く。日本美術院同人らと瀬戸内海写生行。「根本中堂落慶供養の図」比叡山延暦寺に納入「秋風五丈原」第7回院展。「入唐」琅★洞、院同人高野紀行展。
大正10年 「鯰」「地獄変相」日本美術院同人米国巡回展。「遊魚」(六曲一双)第8回院展。
大正11年 10月26日日本美術院留学生として、小林古径と共に約1年間泰西美術研究のため渡欧する。マルセーユ到着後、ローマに赴き、フィレンツェほかイタリア各地美術館を見学し、ついでパリに滞在している。「赤坂離宮御苑」東京府より英国皇太子へ献上
大正12年 ロンドン滞在中、東北大学の依嘱によって、中国古代名画として有名な「女史箴図巻」(顧愷之筆)を、所蔵する大英博物館で古径と分担して模写を行う。模写実施に当っては、当時ロンドン滞在中の東北大学教授福井利吉郎の斡旋による。ロンドンから再びイタリアに赴き、さらにエジプト、その他各地を巡って8月22日帰国した。顧愷之筆「女史箴図巻」(模写)
大正13年 「花賣」「彦火火出見尊」(絵巻)第11回院展。「沙魚」「摂政官御慶事記念東京府献納瑞彩帖。「芥子」尚美堂展
大正14年 3月、長男裕造(8歳)をジフテリアで失う7月、三女日出子誕生。11月、「女史箴図巻」(模写)の展観を行う。
「やなぎはや」第10回日本美術院試作展。「伊太利所見」(三幅対)(ペルジャの山上市)(フローレンスの朝)(ポンテベッキヨの雨)第12回院展。「礼讃」尚美堂展
大正15年 第1回聖徳太子奉讃美術展の鑑査委員となる。
「漢江の朝霧」「漢水の夕」(双幅)第1回聖徳太子奉讃美術展。「冬瓜」尚美堂展。「瀬満王」東京会展。「五月雛」白日荘現代50大家新作展。「東海道」郷土美展。「芥子」松屋東西会
昭和2年 3月、四女照子誕生。
「羅馬使節」「西遊記」(画巻)第14回院展。「芥川」中央美術社主催東西大家展。「山幸海幸」(双幅)三越京都大家新作展。「祭日」尚美堂展
昭和3年 この年再び健康を害し、夏の間那須鮎ケ瀬別荘に療養生活を送る。「祝い日」御即位記念御下賜品として依頼を受ける。
「朝鮮の風俗」大婚25年奉祝文武官献上画帖「踊」尚美堂展。「あまご」白日荘展
昭和4年 「洞窟の頼朝」第16回院展。「住吉詣」銀座美術園新作展。「粟」尚美堂展。「雪」東京会展。「那須スケッチ」第14回日本美術院試作展
昭和5年 第2回聖徳太子奉讃美術鑑査委員。前年作「洞窟の頼朝」で第1回朝日賞受賞する。ローマ日本美術展に前年の「洞窟の頼朝」出品。日本美術院経営者に推挙される。「罌粟」(六曲一双)第17回院展。「大嘗祭」明治天皇聖徳絵画館。「鵜飼」「愛茶」第1回七絃会展
昭和6年 「縫取」第2回七絃会展
昭和7年 「石棺」第19回院展。「扇面散し」第3回七絃会展
昭和8年 「鵜飼」「初茸」日本美術院同人展。「鵜飼」(三幅対)第20回院展
昭和9年 「鷹狩」(六曲一双)第21回院展(李王家買上)「武将弾琵琶」(満州国皇帝献上画)「絃上」日本美術院同人展。「大柿手に入る」第5回七絃会。「粧ひ」日本美術院試作展。「白鷺」東京会「乗合船」角谷二葉新作画展
昭和10年 6月、帝国美術院改組され、その会員となる。満州国建国三周年記念美術展の審査員として渡満する。帰途熱河を回る。
「毛抜形」第19回日本美術院試作展。「唐獅子」(六曲一双)岩崎家よりの御即位記念献上画。「秋深し」「鷺」第6回七絃会展。「真鶴沖」第1回踏青会展
昭和11年 2月、改組第1回帝回美術院展審査員。「観画」第1回新帝展。「白河楽翁」第23回院展。「唐獅子」(衝立)「蘭陵王」「白鷺」第2回踏青会展。「楯無」日本創作画協会展。「応永の武士」日本美術学院記念展。「原の白隠」「魚」第7回七絃会展
昭和12年 6月、帝国芸術院会員に推挙される。
「清正」第8回七絃会展。「名犬獅子」(畠時能)松島画舫新作展。「楽翁」(双幅)「凱旋武将」高島屋新作展
昭和13年 5月、日満美術展審査のため二度目の渡満をする。帰途は新京から大同に赴く。10月、第2回新文展審査員。
「大同石佛」第25回院展。「大楠公」第9回七絃会展。「鴨」「兎」高島屋新作画展
昭和14年 歌舞伎座上演「太閤記」(吉川英治原作)の舞台装置担当。この年、北鎌倉に画室竣工。第3回新文展審査員。
「朝鮮五題」(五面)第26回院展。「熊野御難航」(画巻一合作肇国創業絵巻ノ内)紀元2600年奉讃展。「猫」「豊公」第10回七絃会「洞窟の頼朝」三越日本画展。「豊公」高島屋新作画展
昭和15年 歌舞伎座にて「続太閤記」の舞台装置担当。紀元2600年奉祝美術展審査員。
「鵜」第27回院展。「阿修羅」紀元2600年奉祝美術展。「菊」第11回七絃会展。「月輪」
昭和16年 「静物」第12回七絃会「椿」第1回尚絅会展
昭和17年 「奎堂先生」第29回院展。「祝日」満州国建国十周年慶祝記念献納展。「凱旋の旗手」「静物」日本美術院同人軍用機献納作品展。「清正」日本画家報国会軍用機献納展。「関ヶ原の家康」第13回七絃会展。「陣中愛茶」高島屋現代名家新作展
昭和18年 第6回新文展の審査員となる。
昭和19年 7月、帝室技芸員に推挙される。
「牡丹」「激流」「おぼこ」戦艦献納帝国芸術院会員美術展。「景清」「鉢」陸軍献納帝国芸術院会員美術展
昭和20年(1945) 郷里中津川に疎開。8月、疎開先で終戦を迎え、11月、北鎌倉の自宅に戻る。
昭和21年 第1回日本美術展覧会(日展)審査員。前年海軍兵学校よりの依頼画「大楠公」を湊川神社に納入する。「二日月」第1回日展。「魚絞」第31回院展。「大楠公」湊川神社奉納
昭和22年 3月、柴田ギャラリーでスケッチ展開催。「郷里の先覚-夜明前の香蔵と景蔵-」(双幅)第32回院展。「豊公」「応永の武者」「かちかち山」(画巻)
昭和23年 「洞窟の頼朝」第1回清流会展。「水鉢」五月会展
昭和24年 1月、法隆寺金堂壁画焼損。
「猫」「風神雷神」第34回院展。「真鶴沖」第2回清流会展
昭和25年 12月、文化財保護委員会専門審議会委員。「鯉」(三面)第35回院展。「山鳥」第3回清流会展
昭和26年 12月、東京芸術大学日本画科主任教授。「Y氏像」(安井曾太郎)第36回院展。「赤絵」日本美術協会展。「山吹」第4回清流会展
昭和27年 4月、「古径・靱彦・青邨代表作展」(於銀座松屋)開催。
「湯治場」第37回院展。「絵島詣」第5回清流会展
昭和28年 「耳庵老像」(松永安左衛門)第38回院展「伊勢遷宮図」伊勢神社へ奉納
昭和29年 10月、古稀記念「前田青邨展」(於東京銀座松屋、朝日新聞社主催)開催。「紅梅」(二曲半双)第39回院展
昭和30年 6月、「前田青邨作品集」(大塚巧芸社)が前年の古稀展を記念して刊行される。11月、文化勲章受賞。郷里中津川市名誉市民となる。
「出を待つ(石橋)」(二曲半双)第40回院展。「石橋」皇居仮宮殿饗応の間、壁面用に制作。「愛茶」「川の幸」第8回清流会展
昭和31年 4月、東京芸術大学陳列館で「文化勲章受章記念前田青邨教授作品展」開催。7月、日本美術家連盟会長に推挙される。ブリジストン美術館の美術映画「前田青邨」が制作開始される。
「浴女群像」第41回院展。「宇治川」第9回清流会展。
昭和32年 川合玉堂に代り、皇后陛下の絵の指導役となる。文化財専門審議会委員を辞す。五月、「前田青邨写生展」(於銀座松屋)開催。「日本の胄」(中央公論美術出版)出版。ブリヂストン映画「前田青邨」完成。「プランセス」第42回院展。「洞窟の頼朝」日本美術院十大家名作展。「梅日和」第1回高樹会展
昭和33年 「動物の舞踏会」「鵜」第29回ベニスビエンナーレ国際美術展。「みやまの四季」(六曲半双)第43回院展。「秋の花」第6回薫風会展
昭和34年 1月、東京芸術大学日本画科主任教授を定年退職し、同大学名誉教授となる。「御水取」(御水取を迎える奈良の旧家、總別火(行事の支度)が堂の役人衆、わらび餅の茶屋・籠り堂・湯屋・食堂・行法を待つ参籠衆、鈴を振る咒師、御水取(若狭井)、松明をみる群衆、松明のぼる、内陣の幕をしぼる堂童子、達陀の行法、社頭の終了報告、二月堂は明けゆき)第44回院展。「遊魚」第11回清流会展。「景清」巨匠日本画展。
昭和35年 5月、訪中日本画家代表団の団長として約1ケ月間、中国を旅行する。9月、「中国を描く前田青邨展」(於東京日本橋高島屋・日中文化交流協会・朝日新聞社主催。「赤い壁」(天壇)「黄色い屋根」(紫禁城)。「南の街」(広州)中国を描く前田青邨展。「貝」第12回清流会展。「魚」第4回恵下会展。「駒勇む」
昭和36年 中津川市で恵下会記念展開催。10月、喜寿記念前田青邨展(於東京日本橋高島屋・朝日新聞社主催)。12月、「前田青邨作品集」(喜寿記念画集)が大塚巧芸社から刊行される。「白頭」、「洋犬」第46回院展、「牡丹」第13回清流会展
昭和37年 9月、「前田青邨先生喜寿記念陶展」(荒川豊蔵賛助出品。香合、小品置物、茶碗絵付等)(於日本橋三越)
「石棺」午前時」第47回院展。「紅白梅」ローマ日本文化会館壁面用
昭和38年 「出羽の海部屋」(画巻)「鯉」第48回院展。「静物」(赤絵皿にリンゴ)「ペルシャの鉢」
昭和39年 2年前依頼された日光二荒山神社宝物館壁画の完成を記念して、日光二荒山神社壁画完成記念「前田青邨壁画と発掘宝物展」(於東京日本橋三越)が開催された。
「K氏像」「椿」「山霊感応」日光二荒山神社宝物館壁画
昭和40年 「千羽鶴」「薔薇」「奥の細道」
昭和41年 郷里中津川市に前田青邨記念館が設立される。「前田青邨展」(於横浜高島屋、朝日新聞社主催)
「転生」(平櫛田中)第51回院展。「三浦大介」山種美術館開館記念展。「ペンギン」第1回神奈川県美術展
昭和42年 法隆寺寺壁画再現事業の総監修に安田靱彦とともに就任。前田班は「10号大壁(薬師浄土)」「3号小壁(観音菩薩)」「12号小壁(11面観音)」の三面を担当し制作する。「胡猫」第22回日本美術院春季展。「蓮台寺の松蔭」第52回院展
昭和43年 「大物浦」第53回院展
昭和44年 「徒然草」(二面)第24回日本美術院春季展。「異風行列の信長」第54回院展。「須磨」第21回清流会展。「熊野詣」第21回白寿会展「真鶴ケ浜」「蘭陵王」「燃える水献上」「川魚」
昭和45年 新宮殿「石橋の間」壁面として、昭和30年に仮宮殿のために謹作した「石橋」に加筆し新たにその左右に「紅牡丹」「白牡丹」の二面を制作する。
「腑分」第55回院展。「新石橋」(「紅牡丹」「白牡丹」)「連雀」「梅日和」「八橋」
昭和46年 「米寿記念前田青邨展」(於3.30-4.4東京日本橋高島屋、4.13-4.18大阪高島屋、4.20-4.25名古屋松坂屋。朝日新聞社主催)11月、すゑ夫人(荻江露友)が古典荻江節継承者として日本芸術院第三部会員となる。「知盛幻生」第56回院展。「応永の武者」「宋磁壺紅白梅」「晩秋(1)」
昭和47年 「前田青邨作品集」(朝日新聞社)刊行。高松塚古墳壁画模写の総監督を委嘱される。「鴨」日本美術院春季展
昭和48年 高松塚古墳石室に入室。
「奈良の鶴の子」日本美術院春季展。「水辺の春暖」「土牛君の像」第58回院展。「大楠公」五都展
昭和49年 春、高松塚古墳壁画模写が完成。東京国立博物館で内示が行われる。2月、ローマ法皇庁からの依頼によりバチカン美術館に納める「細川ガラシヤ夫人像」を完成、東京国立近代美術館でその贈呈式が行われる。
「富貴花」第59回院展。「古事記」(絵巻)日本美術院春季展。「細川ガラシヤ夫人像」バチカン美術館
昭和50年 5月14-7月6 東京国立近代美術館において「前田青邨展」が開催される(現存作家の個人形式展として「平櫛田中展」についで2回目の企画)。
「鶺鴒」日本美術院春季展
昭和51年 6月5-7月4 京都市美術館において「前田青邨展」(京都市(財)日本文化財団・京都新聞社・近畿放送主催)開催。
昭和52年 10月27日、老衰のため死去。戒名は画禅院青邨大居士。「桃花」日本美術院同人小品展。「晩秋」五都展
昭和54年 3月17日、前田青邨先生筆塚建立供養会施行(於鎌倉市東慶寺)。9月、前田青邨 三周忌記念展(於東京日本橋高島屋)

出 典:『日本美術年鑑』昭和53年版(281-285頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
『日本美術年鑑』に収録されている以下の記事にも「前田青邨」が含まれます。
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