田中佐一郎

没年月日:1967/02/09
分野:, (洋)

 洋画家、独立美術協会会員の田中佐一郎は、2月9日午前3時52分、肝硬変のため東京・築地の聖路加病院で死去した。享年66才。葬儀は独立美術協会葬として12日文京区白山の大谷派寂円寺で行なわれた。法名は荘厳院釈一道。明治33年10月24日、京都市上京区に染屋、田中常次郎の次男として生れた。はじめ14才の頃、円山派の国井応陽について運筆の手ほどきをうけ次いで阿部春峰の門に入り、更に大正11年22才の折、京都市立絵画専門学校予科2年に編入学し、そこで入江波光の教えをうけた。大正14年絵専を卒業、7月上京して川端画学校石膏部に籍を置き、京都からの紹介で安井曽太郎に師事した。かねがね日本画の線描法や見方に疑問をもっていたところ、洋画のデッサンの研究を深めることによって、そのまま洋画家への道に直結して行くことになる。大正15年には二科展に搬入したが落選し、第7回帝展に「立教遠望」が入選した。昭和3年代々木山谷に開設された1930年協会研究所に移り、ここで里見勝蔵川口軌外林武らの指導を受けた。昭和4年から1930年展に出品し始め、翌5年には同展で受賞した。第16回二科展(昭4)に「波太」を、第17回二科展に「二人の女」を出品。昭和5年11月、1930年協会解散、続いて独立美術協会が結成され、同会に参加。翌6年1月第1回独立展に「裸婦三像」「窓際」「黄衣少女」を出品して独立賞を受けた。第2回独立展には無鑑査推薦となり「静物」「裸婦」を出品。昭和9年第4回独立展(「風景」出品)で会員に推挙された。以来、独立展には死去前年の第34回展に至るまで、死病にとりつかれた昭和36年の第29回展にのみ不出品で、あとは1回も欠かさず毎年発表を続けた。その間、昭和7、8の両年にわたって渡仏。昭和13年従軍画家として翌年まで中支へ、15年には再び南支、竜州に行き「転進」(昭16、第11回独立展・第2回聖戦美術展出品)等を描いた。16年11月には、国民徴用令により比島派遣渡集団軍報導部員として比島に向い、バターン半島総攻撃に参加、「コレヒドールの夜」(第13回独立展出品)、「キク高地」等を描く。同行部員に向井潤吉栗原信、今日出海らが居た。昭和17年には泰、ビルマに従軍、更に18年7月から2ケ月にわたって南方作戦記録画資料蒐集のため、ビルマに行きマヤ山脈方面に取材した。翌19年召集解除されるまで、戦中の数年を記録画の製作に捧げた時期があり、しかも当時記録画の製作には消極的だった独立の会員の中では、率先してそれと取り組んだ一人で、そのこと自身、デッサン力に対する自信の程を物語るものであった。昭和36年紺綬褒章を受く。代表作に、「漁夫(デッサン)」(大正12年頃)、「黄土」(昭12、第7回独立展)」、「辺土」(第8回独立展)、「風雨の出陣」(第12回独立展)、「モヨロの夢」(昭23、第16回独立展)、「もののけ」(第25回独立展)、「親鸞(連作)」(昭35・6、独立展・第4回現代日本美術展)等がある。
 因みに、没後関係友人らによって編まれた「田中佐一郎作品集」(昭和42年9月1日発行・美術出版デザインセンター製作。-詳細な<年譜>が附載されている)に先輩林武が寄せた追惜の一文を抜粋しておくと-「独立美術協会が創立され、画壇の想望を担って発足した時、最初に受賞したのが田中佐一郎君であった。爾来、田中君はその作品と、男性的な、正義感の強い人柄とで、独立の若い層に重い鎮めとなっていた。その作品は、彼の人としての純粋さから、おのずとにじみ出るものとも思われる。日本文化の伝統深い京都出身である彼に、生得的に備ったとも思われる色とマチェルににじみ出る、微妙なニュアンスで、これは、彼の作品を他と分かつ美しい特質である。それが優雅な、大らかな構想の上で、渾然とした絵画が彼の芸術だ。我々は、彼の仕事を見守りつつ来たのであったが、惜しくも、数年来宿痾の人となり、ついに帰らぬ人となったのは、誠に残念に絶えない。……」とある。

出 典:『日本美術年鑑』昭和43年版(140-141頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
『日本美術年鑑』に収録されている以下の記事にも「田中佐一郎」が含まれます。
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