松林桂月

没年月日:1963/05/22
分野:, (日)

 日本芸術院会員、帝室技芸員、日展顧問、文化勲章受章者松林桂月は、5月22日午後9時、東京信濃町の慶応病院で脳軟化症のため逝去した。享年87才。桂月は、明治9年8月18日、山口県に伊藤篤一の次男として生れた。本名篤。明治31年松林家を嗣いだ。これより前、明治26年上京して野口幽谷に師事した。はじめ日本美術協会、展に出品し、つづいて文展に出品して屡々受賞した。大正8年以来帝展審査員となり、昭和7年帝国美術院会員同12年帝国芸術院会員に推され、同19年帝室技芸員を、命ぜられた。同33年美術界につくした功績によって文化勲章を授与された。近代に於ける南宗画界の代表作家で、南宗画の振興につくした功績は大きかった。
略年譜
明治9年 山口県に生る。
明治26年 上京して野口幽谷に師事す。
明治29年 日本美術協会展に「菊花双鶏」を初出品、二等褒状を受く。
明治30年 日本美術協会展に「怒濤健鵰」を出品、銅牌を受く。
明治31年 松林家の養子縁組成り孝子(号雪貞)と結婚す。病気療養のため郷里荻に帰省。
明治34年 再度上京警視庁医務局に奉職。麹町三番町に新居を営む。
明治34年 東京南宗画会委員嘱託。警視庁を辞職し、土手三番町に転居。
明治37年 米国セントルイズ万国博覧会に「菊に鶏」出品。
明治39年 岩溪裳川に就き漢詩を学ぶ。
明治40年 正派同志会に参加、文展不出品。
明治41年 第2回文展に「遊鴨図」を出品。
明治42年 東京市麻布長谷寺前に転居。第3回文展に「葡萄図」出品。
明治43年 第4回文展「夏山浴雨」出品、褒状を受く。
明治44年 日本美術協会展委員、日本画会評議員。第5回文展に「秋山晩晴」出品、3等賞を受く。
大正元年 麻布笄町に転居。第6回文展に「寒汀」出品、3等賞を受く。
同年 第3回東京勧業博覧会審査員となり、「秋塘真趣」を出品。第7回文展に「松林仙閣」出品、3等賞を受く。
大正3年 日本美術協会展委員。第8回文展に「秋晴」出品、3等賞を受く。
大正4年 日本美術協会展に「春溪」出品、金牌を受く。
大正8年 帝国美術院創設され、第1回展より審査員となる。
大正9年 平和記念展審査員。
大正11年 第4回帝展審査主任。
大正14年 世田谷区に転居。
大正15年 聖徳太子奉讃展審査員となり、「潭上余春」を出品。中央公論社より「田能村竹田」を出版。
昭和4年 朝鮮総督府美術展審査員。台湾総督府美術展審査員。第10回帝展に「長門峡」出品。
昭和7年 帝国美術院会員となる。
昭和8年 明治神宮絵画館壁画「鳥羽伏見戦争図」完成。
昭和11年 「愛吾盧」成る。
昭和12年 満州国第1回美術展審査員。帝国美術院会員となる。三越にて個展。
昭和14年 紐育万国博覧会に「春宵花影」出品。
昭和15年 紀元二千六百年奉祝展審査員となり、「秋樹林」を出品。
昭和16年 第4回文展に「晩秋」出品。
昭和17年 大東亜戦争美術展審査員。満州国美術使節として出張。
昭和18年 大日本美術工芸資材統制会特別会員。第6回文展「秋郊」出品、政府買上となる。
昭和19年 帝室技芸員を命ぜらる。
昭和21年 文部省主催第1回日展審査主任。
昭和22年 東京都美術館20周年記念展審査員。日中文化協会理事に推さる。
昭和23年 日本美術協会理事長に推さる。東京都美術館顧問となる。横山大観川合玉堂上村松園野田九浦等と白寿会結成。
昭和24年 日展運営会常任理事。第5回日展審査主任となり、「秋陰図」を出品。
昭和25年 横山大観川合玉堂和田三造、佐藤朝山等と無名会を結成。日本芸術院会員選考委員となる。国立博物館主催「日本南画名作展」の選考委員となる。
昭和26年 芸術院賞選定委員。第7回日展に「長門峡」出品。
昭和27年 「桜雲洞詩鈔」出版。
昭和29年 日展理事満期のため辞任。
昭和32年 「桜雲堂画集」出版。
昭和33年 文化勲章を授けらる。
昭和34年 日本橋三越にて個展。
昭和35年 日本南画院結成、会員に推さる。
昭和36年 山口県荻市名誉市民に推さる。
昭和37年 日本橋三越にて個展開催、「夏橙」「白梅紅梅」「池畔」等出品。南画振興のため後素会結成。紺綬褒章を受く。
昭和38年 脳軟化症のため慶応病院にて逝去。

出 典:『日本美術年鑑』昭和39年版(131頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
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