脇田和

没年月日:2005/11/27
分野:, (洋)
読み:わきたかず

 新制作派協会創立会員の洋画家脇田和は11月27日午前8時35分、心筋梗塞のため東京都中央区の病院で死去した。享年97。1908(明治41)年6月7日、東京氏赤坂区青山高樹町17番地に生まれる。父勇は貿易商社脇田商行を経営し欧州、東南アジアからの輸出入を行っていた。1921(大正10)年青南尋常小学校を卒業して青山学院中等部に入学。同院では当時、白馬会の画家小代為重が図画教師をしており、小代から油彩、木炭デッサンの指導を受ける。23年7月、姉夫妻が三菱商事ベルリン駐在となるのに伴い、青山学院を中退して同行して渡欧。24年ドイツ帝室技芸員のマックス・ラーベスに師事し、その紹介でミューラー・シェーンフェルト画塾に通う。25年ベルリン国立美術学校に入学しエーリッヒ・ウォルスフェルト(1884-1956)の教室に入る。1926(昭和元)年夏、南ドイツを旅行し、ホドラー、デューラー、ゴッホなどの作品に感動する。27年6月夏休みに一時帰国し翌年2月まで滞在。この間、写真に興味を持つ。28年春に帰国し、4月からカール・ミヒェルの教室でリトグラフ、エッチング、アクアチントを、オスカール・バンゲマンの教室で木口木版を学ぶ。同校で銅メダルを受賞し、学校内に単独のアトリエを与えられる。30年、ベルリンの自由美術展(フラウエ・クンストシャウ)にデッサンを出品。同年9月、美術学校より金メダルを授与され同校を卒業。同月18日に父が死去したことにより、急遽帰国の途に着き、10月東京に帰着し、その後10年間、父の会社を継いで会社を経営する一方、画業を続ける。31年、母の紹介により水彩画家春日部たすくを知る。32年第28回太平洋画会展に「風景」で初入選。また第19回光風会展に「風景」「静物」で初入選し、船岡賞を受賞。第13回帝展に「白い机の静物」で初入選する。この頃、大野隆徳研究所に夜間通い、人体デッサンを行う。33年、第20回光風会展に「静物A」「静物B」「閑窓」「アコーディオン」を出品し、光風会賞を受賞して会員に推挙され、また、日本水彩画会20周年展にパステルの風景画を出品して同会会員に推挙される。同年、第14回帝展に「大漁着」で入選。34年第21回光風会展に「椰子の実と子供」「ニッカーの子供」「ユニフォームの子供」を出品。日本水彩画展にも出品を続ける。35年第22回光風会展に「三人」「母子」「ドアマンと子供」を出品し、光風特賞を受賞。同年10月松田文相による帝展改組に反対して、在野展として開設された第二部会に参加し「ピクニック」「父子」を出品。「ピクニック」は特選となり昭和洋画奨励賞を受賞する。36年第23回光風会展に「画室の一隅」を出品し、二度目の光風特賞受賞。5月、春日部たすくと共に満州を旅行。旅行中の7月、新制作派協会設立への参加を電報で打診される。7月25日、猪熊弦一郎伊勢正義小磯良平内田巌佐藤敬らと新制作派協会を創立。官展の次代を担うと期待されていた若手作家が反官展を標榜し、清新な制作を唱う団体として注目される。これに伴い、光風会を退会。同年11月に行われた第1回新制作派協会展に「ジャズバンド」「ダンス」「二人」を出品。また、「前進」「向上」を表現した協会のロゴマークをデザインする。以後、生涯にわたって同会を中心に作品を発表する。38年5月、上海軍報道部の委嘱による記録画作成のため上海へ赴く。39年第1回聖戦美術展に「呉淞鎮敵前上陸」を出品。40年紀元2600年奉祝展に「夫婦と犬」を出品。41年「大東亜建設に捧ぐ」をテーマに展示された第7回新制作派協会展に「画室の子供」「二人」「椅子に倚る」「幼児」「子供と兵隊」「寝る子」を出品。43年9月、フィリピン、マニラ陸軍報道部勤務となり、44年8月に帰国。45年新制作派協会員らとともに神奈川県相模湖付近の藤野村に集団疎開。同地で芸術家村を構想し、藤田嗣治、文士石坂洋次郎らも加わって制作のかたわら、楽団を結成し演奏活動などを行うなどして49年まで滞在する。46年、民主主義美術を目標に設立された日本美術会の創立に参加。47年第一回美術団体連合展に新制作派協会も参加し脇田は「猫と子供」を出品。また、同年第11回新制作派協会展に「少女と妖精」「草笛」等を出品。50年、今泉篤男企画による檀会に参加し、資生堂ギャラリーでの檀会美術展に出品する。51年6月、開廊したばかりのタケミヤ画廊で滝口修造の企画により小品展を開催し、10月には戦後の日本人美術家の国際展参加としては初めての出品となる第1回サンパウロ・ビエンナーレに「子供のカーニバル」を出品、以後、52年のサロン・ド・メ、ピッツバーグ国際現代絵画彫刻展、53年の第2回国際現代美術展(ニューデリー)など、国際展にも積極的に参加する。54年、最初の画集となる『日本現代画家選Ⅲ 16 脇田和』(美術出版社)を刊行。55年第3回日本国際美術展に「あらそい」「鳥追い」を出品し、「あらそい」で最優秀賞を受賞。翌年、この作品によって第7回毎日美術賞を受賞する。56年3月よりアメリカ国務省人物交流部の招聘により3ヶ月間アメリカ各地を視察。6月より半年間、パリ郊外に滞在。この間、第28回ヴェネツィア・ビエンナーレに11点出品し、美術評論家のアラン・ジュフロアの高い評価を受け、9月には第1回グッゲンハイム国際美術賞の日本国内賞を「あらそい」で受賞。12月にはパリからニューヨークに移り、57年4月、ニューオーリンズ、ニューメキシコ、ロスアンゼルス、ハワイを巡って帰国。59年より東京藝術大学版画教室非常勤講師、64年同助教授、68年同教授となって、70年、同学を退官。72年井上靖の詩による詩画集『北国』『珠江』(求龍堂)を刊行。74年、東京セントラル美術館で「脇田和作品展1960-1974」を開催。同年、『画集脇田和1960-1974』(求龍堂)を刊行。この頃から今泉篤男岡鹿之助の意見などにより個人美術館の構想を持つ。76年から心筋梗塞をわずらい、79年に手術。82年『脇田和作品集』(美術出版社)刊行。86年神奈川県立近代美術館、群馬県立近代美術館で「脇田和展」を開催。87年、ハワイ経由で渡米し、パリ、バルセロナを周り、ベルリン等ドイツの諸都市を訪れる。1989(平成元)年より軽井沢のアトリエ敷地内に個人美術館設立を計画し、91年6月「脇田美術館」を開館して館長に就任するとともに、美術館から『脇田和作品集』『随筆集え・ひと・こと』を刊行。92年、パリ日動画廊、バーゼル・インタナショナル・アートフェアにて脇田和展開催。96年10月パリの吉井画廊で個展を開催し、同月パリ、ニューヨークに赴く。98年平成10年度文化功労者に選ばれ、99年東京藝術大学名誉教授となった。晩年に至っても新制作協会展には出品を続けたほか、99年脇田和回顧展(神戸市立小磯記念美術館)、2002年脇田和展(世田谷美術館)など大規模な個展を開催した。初期から子供を重要なモチーフとして再現描写にとどまらない詩的な画面を構成し、戦後は、鳥をも好んで画中に取り入れて、平和や人と自然の関わりなどといった抽象的な概念を象徴的に描いた。作品の芸術性を指標としない画壇の政治性に批判的な姿勢を保ち続け、誠実で真摯な制作態度を貫いた。 新制作協会出品歴 1回(36年)「ジャズバンド」「ダンス」「二人」、2回「瀞」「渓」「森」、3回「水辺」「立つ座る」「チャアチャン」「静物」「樹陰」、4回「窓辺」、5回「海浜」、6回「母への絵」「子供」「幼児と子供」、7回「画室の子供」「二人」「椅子に倚る」「幼児」「子供と兵隊」「寝る子」、8回「画室の子供」「花持つ子供」「子供」、9回出品するも題不明、10回「沐浴する児」「なつめ・女・猫」「子供と兎と花」「南の子供」「豆柿の静物」「猫・児・花」、11回「少女と妖精」「草笛」「ファウンの子供」「石の庭」、12回「女と猫」「子供と猫」「女と花」「子供と花」「三人」「静物」、13回「浴室」「二人」「小さいヴァイオリン」、14回「花に来る天使」「子供の手品師」「子供はトランプが好き」、15回(以後新制作協会展)、16回「桃太郎」「魚網」「捕虫網」「金太郎」、17回「慈鳥」「放鳥」、18回「貝殻と鳥」「西瓜と貝殻」、19回「水槽の鳥「鳥と住む」「鳥と横臥する女」、20回「花を持つ」、21回「緑園」、22回「庭」「花・鳥・人」「女と鳥」、23回「飛翔」「翼」「相思樹の実」、24回「解体する五つの顔と鳥」「断層の人と鳥」、25回「蚤の市のグリーダア・プッペ」「スタニーポイントの女陶芸師」、26回「不出品、27回「きんぎょ」「つた」「はげいとう」、28回「化粧台と猫」「窓(ベニス)」「赤い窓」「三つの顔と鳥」、29回「巣・石・葉」「雨(三題ノ一・二・三)、30回「空に叫ぶ」「キャンドルと天使」「土偶と鳥」「三粒の豆」、31回「デリカテッセン」「カシミールの織子」、32回「鳥寄せ」「羽音」、33回「窯場の朝」「窯場の夜」、34回不出品、35回「鳩舎」「鳥花苑」、36回「薔薇園」「輪花」、37回「雷鳥」「鶉」、38回「茨の冠と薔薇の花」、39回「雲崗石仏」、40回不出品、41回「かたつむり」、42回「幼き日の虫干し」、43回不出品、44回「かくれんぼ」(文化庁買上)、45回「ポンコツ車を誘導する鳥」、46回「車はまだ走っている」、47回「画家は毎日シャツを取り替える」「今日の選択」、48回「亜熱帯の漂流物」「ALOHA」、49回「暖帯」「緑雨」、50回「鳥の来る道」、51回「燃える楽譜」、52回「帰ってきた楽譜」「荷ほどき」、53回「E子のコレクション」「隠袋」、54回「花開く」「芽吹き」、55回「秋色」「黄色い鳥」、56回「鳥飼いの収集物」「鳥の閑日」、57回「移り香」、58回「比翼」「連理」、59回「二つの安居」「さつきまつ」、60回「一つ咲く花」「遺された壺」、61回「双鳥」「四色の季節」、62回「来い来い鳥よ」「おいでおいで」、63回「土の香」「夜わの鳥」、64回「画房夢想曲」「漂鳥」、65回「志野」「織部」、66回「窯出しを祝う」「黄瀬戸の感触」 

出 典:『日本美術年鑑』平成18年版(393-395頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「脇田和」『日本美術年鑑』平成18年版(393-395頁)
例)「脇田和 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28346.html(閲覧日 2024-03-19)

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