三岸節子

没年月日:1999/04/18
分野:, (洋)

 洋画家三岸節子は4月18日3時43分、急性心不全のため、神奈川県大磯町の東海大大磯病院で死去した。享年94。1905 (明治38)年l月3日、愛知県中島郡起町字中島(現、尾西市)に生まれる。生家は富裕な地主で、毛織物製造業を営んでいた。先天性股関節脱臼のため、幼児期に名古屋の病院で手術。小信中島尋常小学校を経て、15(大正4)年起尋常高等小学校に入学し、17年に同校を卒業。名古屋の淑徳高等女学校に入学する。在学中、読書に熱中し、寄宿舎で同室であった先輩戸田すヾが日本画を描いているのに刺激を受けて、上村松園島成園らの美人画の模写を試みる。21年、同校を卒業して上京し、女子医学専門学校を受験するが失敗。岡田三郎助に絵を学び始め、岡田の指導する本郷洋画研究所に入所する。22年、女子美術学校の第2学年に編入学。23年、二科展に出品するが落選する。同年9月1日は二科展の初日に当たっていたが、関東大震災により被災。この時、三岸好太郎から食糧の援助を受けたことなどが契機となり、24年9月好太郎と結婚。同年、女子美術学校を首席で卒業。25年3月、長女が生まれる。同月の第3回春陽会展に「自画像」「風景」「山茶花」「机上二果」が初入選。以後、同展に出品を続ける。また、同年4月、甲斐仁代深沢紅子らと婦人洋画協会を結成する。32(昭和7)年、春陽会から独立美術協会へ転じ、その第2回展に「花・果実」「ラガー」を出品。34年、好太郎が31歳で死去した後、3児をかかえつつ制作を続ける。35年第5回独立展に「桃色の布」「窓」「紅の布」を出品しD氏賞受賞。翌年同会会友となるが、39年に同会が会則により女性画家を会員として認めないことに抵抗して、同会を退会。新制作派協会に転じ、同年会員となる。また、同年、婦人の美術的教育のために設立された「美術工芸学院」の教師となる。40年、朝鮮、満州を訪れる。同年の紀元2600年奉祝展に「室内」を出品。43年、美術団体の会友以上の女流画家により女流美術奉公隊が結成され、その役員となる。戦後の45年9月、銀座日動画廊の戦後初の個展として三岸節子展が開催される。46年、藤川栄子、桂ユキ子らと女流画家協会を結成。以後、新制作展、女流画家展に作品を発表。48年、独立美術協会会員の画家菅野圭介と再婚。50年、第14回新制作展に出品した「金魚」が文部省買い上げとなり、「梔子」が芸術選奨文部大臣賞を受賞する。50年随筆集「美神の翼」(朝日新聞社)刊行。51年、第1回サンパウロ・ビエンナーレに「花」を出品。翌年、パリのサロン・ド・メ、同じくパリで開催された20世紀傑作展、米国ピッツバーグで開催された第18回カーネギ一国際美術展に出品するなど、活動が国際的に展開す る。53年菅野圭介との結婚を解消。翌年長男黄太郎の滞在するフランスを訪れ、スペイン、イタリアなどを廻って55年夏に帰国する。この初めての渡欧により、西洋絵画を生み出した土壌を知り、乾燥した風土と色彩の関係に刺激を受ける。50年代、60年代は新制作展、女流展のほか現代日本美術展、日本国際美術展にも出品。64年、神奈川県大磯町の丘陵地にアトリエを構え、それまで静物中心であったモティーフに風景が加わることとなった。65年、北海道を旅行し、その風景を描くが、この旅行体験により、先夫好太郎の作品を北海道に寄贈する決心をし、その実現に奔走。67年、好太郎の遺作216点を北海道に寄贈し、これが基となって北海道立美術館(現、北海道立三岸好太郎美術館)が設立されることとなる。翌68年、黄太郎一家と離日し、フランス・カーニユに居を定めて制作に没頭。69年、片岡球子大久保婦久子ら9名による女流総合展「潮」を結成し、同展に出品。74年ブルゴーニュのヴェロンに転居し、以後、同地で制作するが、89(平成元)年に帰国。92年米国のワシントン女性芸術美術館で大規模な回顧展が開催された。94年女性洋画家として初めて文化功労者に選ばれる。文章もよくし、著書に『花とヴェネチア―三岸節子』(三彩社 1975年)、随筆集『花より花らしく』(求龍堂、1977年)などがあり、画集には『三岸節子画集・第1集』(求龍堂、1980年)『三岸節子画集・第2集』(求龍堂、1981年)、『三岸節子―花のデッサン帖』(求龍堂、1984年)などがある。女性洋画家の草分けであり、出産、育児、家長の死といった困難に屈することなく制作を続け、美術界における女性の地位の確立に寄与するところが大きかった。

出 典:『日本美術年鑑』平成12年版(256頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
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