高松次郎

没年月日:1998/06/25
分野:, (美)
読み:たかまつじろう

 60年代から今日まで、芸術表現に一貫して根源的な問いとかけと視点をもちつづけながら、作品と言説においてつねに現代美術をリードしていた美術家高松次郎(本名、高松新八郎)は、直腸ガンのため東京都三鷹市の病院で死去した。享年62。昭和11(1936)年、2月20日東京に生まれ、同34年東京芸術大学美術学部絵画科油絵専攻を卒業、同年3月に第10回読売アンデパンダン展に出品。同38年、赤瀬川原平中西夏之とグループ「ハイレッド・センター」を結成。同年、「ミキサー計画」(新宿第一画廊、宮田内科診療所)で、「紐」シリーズの作品を発表、さらに街頭ハプニングなど反芸術的な運動をはじまた。また、同年の第15回読売アンデパンダン展に「カーテンに関する反実在性について」と題する作品を発表、これは上野駅から会場の東京都美術館までを紐でつづけるというもので、はやくも観念性のつよい傾向をしめしていた。このように点、線(紐)といった、最小限の表現の単位を最小限の素材(針金)から自身の表現を開始した。ついで、同39年頃から、画面に人間の影だけを描き、実在物と虚像の在り方を問いかける「影」のシリーズをはじめ、この年の第8回シェル美術賞展に「影A」を出品、佳作となり、さらに翌年の第9回シェル美術賞展に「影の圧搾」、「影の祭壇」を出品、1等賞となった。同40年の第2回長岡現代美術館賞展に「カーテンをあけた女の影」を出品、優秀賞をうけた。同42年からは、「遠近法」のシリーズをはじめ、立体作品によって視覚として感じられる遠近感と遠近法との差異を提示しようとした。また、70年代には、木、鉄、布、紐など、さまざまな物質を組み合わせ、構成する「複合体」のシリーズは、立体作品というよりも、空間をつかいながら、物質とそこにはたらく重力の関係を注視することが意図され、今日でいうインスタレーションに近い作品となっている。同47年、第8回東京国際版画ビエンナーレに、「The Story」を出品、国際大賞を受賞した。これは、文字や記号をつかった作品で、あらたなシリーズとなった。その後も、同48年に第12回サンパウロ・ビエンナーレ、同52年にはドクメンタ6(ドイツ、カッセル市)に出品するなど、国内外において作品を発表しつづけた。80年代は、身体的なストロークを残す、平面作品を制作した。日本の現代美術界にあって、終始一貫して、観念性の深い、知的な視覚表現をもとめつづけた作家であったといえる。没後の平成11(1999)年10月に、国立国際美術館において「高松次郎―『影』の絵画とドローイング」展、平成12年5月には、千葉市美術館において「高松次郎 1970年代の立体を中心に」があいついで開催された。

出 典:『日本美術年鑑』平成11年版(422-423頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月25日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「高松次郎」『日本美術年鑑』平成11年版(422-423頁)
例)「高松次郎 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10678.html(閲覧日 2024-04-27)

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