本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1916(大正5) 年12月31日

 十二月三十一日 日 午前晴 午後曇 昨日ヨリ少シク咽喉ヲ傷メ居レドモ格別ノ事モナシ 午後豊明殿ニ於テ活動写真天覧ノ御催アリ 幸ニ陪覧ヲ許サレタレバ二時半参内ス 英国側ノ撮影ニ係ルモノナリ

1916(大正5) 年12月28日

 十二月二十八日 木 晴 午前九時ヨリ紅葉山ニ出仕シ御撮影ノ事ヲ行フ 十時半頃皇太子殿下御着 十一時半頃還啓 夫レヨリ工場ニ到リ現像ノ結果ヲ視一時頃退出ス 二時過ヨリ長原 丸木 梶山ノ諸氏来訪 (欄外 立太子式御服装拝写紅葉山写真)

1916(大正5) 年12月27日

 十二月二十七日 水 晴 午後岩村君来リテ嘗テ選ミ置タル拙画二点ヲ大阪湯川氏ヘ送ル可キ話アリ 直ニ磯谷ヘ発送ヲ命ズ (欄外 海浜夕映 山躑躅二図大阪湯川氏宛発送)

1916(大正5) 年12月26日

 十二月二十六日 火 晴 午前離ニテ片附モノヲナス 先日ヨリ探シ居タル先師ノ素画五枚共発見ス 喜悦ノ至ナリ Melle Collin ヨリノ十一月六日附書簡到来セリ

1916(大正5) 年12月24日

 十二月二十四日 日 晴 午後三時頃大給尹 近子殿同道入来 機嫌克遊ビテ晩餐後七時頃ニ去ル 又紀念ノ為柴田ノ技師ヲ呼ビ庭前ニテ写真ヲ撮リタリ 夜ニ入リテ櫻井ヲ以テ黄昏海辺図(「稲村崎図」)ヲ丸木氏ニ贈リ序ニ古蘭先生ノ写真ヲ極東時報社ニ届ケタリ 近子殿ハ今年七歳尹ハ九歳也 小室氏ヨリ草雲図録ヲ受ク (欄外 追記 藤雅三君米国ニテ死去)

1916(大正5) 年12月23日

 十二月二十三日 土 晴 極東時報社ニメイボン氏ヲ訪ネ亦天主教会ノレイ氏ニ面会シコラン先生ノ為ニ供養ノ事ヲ頼ミ来年一月末カ二月ニ再ビ来リテ諸事談合ス可キヲ約シ置タリ 夜本方秀麟君来リテ雑誌「審美」ノ為ニ談話ノ筆記ヲナセリ (欄外 Monsieur Maybon Monseigneur Rey)

1916(大正5) 年12月20日

 十二月二十日 水 晴 午前十時頃修正セル御写真ノ成績ヲ覧之レヲ調度ニ提出セリ 午後太田氏ヲ事務所ニ訪ネ夫レヨリ上野学校ヘ行キ試験調ヲナシ夕刻ニ到レリ 今夕ハ国民美術ノ忘年会ヲ小川町牛肉店今文ニ開催ノ予定ナリシカバ藤島 和田ノ二氏ト共ニ同所ヘ赴ケリ

1916(大正5) 年12月19日

 十二月十九日 火 曇 午前岡田 和田二氏ノ作品ヲ磯谷ニ托シ銀行集会所ヘ送ル 午後牛込木村氏ヘ赴キ肖像ヲ描ク 終リテ五時頃銀行集会所ヘ回ハリ岡 和二氏ノ額ヲ新聞閲覧室ニ掲ゲシメ七時頃帰宅セリ

1916(大正5) 年12月18日

 十二月十八日 月 薄日 靄カヽル 今朝調度ニ出頭スルコトヽナル 即チ殿下ノ御正服ニ拠リ修正ヲ加ヘ午後二時頃退出ス 午後五時頃文部大臣ノ要求ニ因リ同大臣ヲ官邸ニ訪問シ美術ニ関スル意見ヲ陳述セリ (欄外 隈川氏肖像及椅子送附)

1916(大正5) 年12月17日

 十二月十七日 日 朝晴 後曇ル 又少シク風アリテ寒シ 午後黒田乾帰郷ニ付暇乞トシテ来ル 年来ノ約束ニ依リ伊豆大島遠望図ヲ贈レリ (欄外 大山公国葬)

1916(大正5) 年12月16日

 十二月十六日 土 晴 午前十一時過御写真工場ニ到リ出来上リ居タル見本ニ又一寸加筆シ丸木氏同道之レヲ寮頭ニ提出シ同意ヲ得テ工場ニ持チ回リ製作ニ取リ掛ル事ト極メ六時ヨリ芝ノいけすニ催サレタル調度写真師ノ忘年会ニ出席 今夜資英子泊ル

1916(大正5) 年12月15日

 十二月十五日 金 晴 午前九時主任会議開催ノ電話ニ接シ十時前登校ス 古宇田氏ノ質問スツパ抜等アリ 結局年内ニ規則案ヲ配布スル事トナリ十二時頃散会セリ 後チ洋画教員室ニ寄リ来ル二十日ニ関スル掲示ヲナシ又校丁等々ヘノ歳暮ヲ屋代氏ヘ渡シ一時頃退出 帰途流逸荘ノ物品交換会ヲ覧タリ 晩餐未了七時頃岡田君入来 同三十分頃新来朝ノスチンソン嬢ノ夜間飛行ヲ庭前ニ立チテ見物セリ 十一時頃マデ岡田君ト語ル

1916(大正5) 年12月14日

 十二月十四日 木 晴 心地ヨキ天気故久シ振ニ研究所ヲ見舞フ 十一時頃ニ出掛ケテ一時頃ニ帰レリ 二時半御写真工場ヘ赴キ見本ヲ調度ヘ運ビ寮頭ニ修整セル要部ヲ示シ又工場ヘ引返シ第三回ノ手入ヲナシ夕刻退出ス

1916(大正5) 年12月13日

 十二月十三日 水 晴 午後二時半ヨリ若宮町木村氏ヘ赴キ昨年下図ヲ作リタル肖像画ニ着手ス 五時頃帰宅直ニタクシーヲ飛バシテ浜町常盤ニ到ル 加藤正治君ノ招宴ナリ 主客十名 主賓ハ安達 寺島ノ二氏 十一時マデ快談セリ

1916(大正5) 年12月12日

 十二月十二日 火 午前晴 午後曇 午後二時頃ヨリ女学部ノ仏語科ヲ観三時頃御写真場ニ到リ第二回ノ修正ヲナシ四時過ヨリ築地明石町ナル極東時報社ヘ回ハリ鈴木貫一郎君ニ面会シ坂井氏ノ原稿 古蘭先生ノ記事ヲ渡シテ去ル 六時頃梶山氏再ビ大宮ノ件ニ付来談 後静子殿見エ亦小林萬吾君来レリ

1916(大正5) 年12月11日

 十二月十一日 月 朝雨 後霽 今朝八時曾我ヨリ電話ニテ井上ヲ見舞タル趣ヲ聞ク 九時頃太田事務所ヘ委任状ヲ渡ス 十時半頃入浴中乾来訪 午後二時頃マデ語ル 後チ Ed. Chiosone 作南洲翁ノ肖像画ヲ模写ス 此原画ハ西郷家ノ所蔵也 夕刻坂井君極東時報ヘ送ル可キ原稿ヲ持参セラル 序ニ又先師ノ逸話ヲ思ヒ出シツヽ語レリ 夜十一時迄伝仁孫ノ肖像下図ニ従事セリ (欄外 大宮事件委任状)

1916(大正5) 年12月10日

 十二月十日 日 雪空 午後雪交リノ雨 午前十一時頃丹羽林平画会開催ノ件ニ付来ル 賛助員タルコトヲ承諾シ又披露文ノ字句ヲ処々改訂セシメタリ 午後新刊ノ美術ヲ開キテ先師ヲ慕フノ情更ニ切ナリ 即チ写真ニ拠リ記憶ヲ惹ビ起シテ温容ヲ写セリ 晩餐時大山公甍去ノ由号外ニテ知リタレバ食ヲ了ヘテ青山ナル公爵邸ニ到リ悔ヲ述ブ 帰宅後画室ニ入リテ伝仁孫肖像ノ図取ヲナセリ

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