本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1910(明治43) 年11月12日

 十一月十二日 土 午後十二時四十五分両国停車場発 相会スルモノ佐野 竹澤 菊地 白瀧 山本 中澤 安斎 矢崎 小林鐘 柳及拙者ノ十一人也 此夜一ノ宮海岸青松館ニ一泊ス 夜ニ入来リ会スルモノ四人 岡田 南 小林萬 青山

1910(明治43) 年9月7日

 九月七日 (第二回鹿児島旅行記) 五時前ニ目ヲ覚マシ川路君ト語ル 間モ無ク熊本駅ニ着ス 夜ハ漸クホノボノト白ム 併シ今日モ雨天ナリ 此処ハ川路君ノ任所ナレバ同君夫婦下車ス 人吉ニテ巡査部長四宮重敬ト云人弁当及焼酎三本持チ来ル 之レハ川路君が着後電話ニテ注文シ置キ呉レタルニ因ルモノナリ 焼酎ハ此地ノ名産ニシテ鹿児島ノ物ヨリモ香気アリテ佳ナリトノ評ナリ 川路君ノ報告ニテ父上ヘ土産トシテ買入レタルモノ也 是レヨリ雨霽レテ少シク暑サヲ覚ユ 山中遠山ハ雲霧ニ被ハレテ見エズ 近景ノ渓流又ハ原野ノ秋色ナド自然ノ儘ナル姿面白シ 矢嶽ノトンネルニ近ヅキ又雨フル 山中処々ニ人家アリ 稲 粟ナド作レリ 斯様ナル間ノ生活暢気ナランモ物資上ノ不自由ハ察スベシ 矢岳ヲ過ギテ下リ路トナル 最早僅三時間許ニテ着スルナルベシ 惨事ノ後父上ノ御様子如何ナラン 又御目ニ掛リテ何ト申上ベキ 吉松ニ到レバ雨又止ム 而シテ国分ニテハ照リ加治木ニテハ曇ル 重富ニ達スレバ南風俄カニ起ル 心岳寺山麓ヨリ望メバ白波遠ク連ナリテ地中海ニ於ケルミストラルノ時ノ如シ 又浪ノしぶき風ニ誘ハレテ霧ノ如ク立チ登リ汽車岸ヲ払フテ過ル様奇観ナリ 一時四十九分鹿児島ニ着ス 鮫島及吉川父子出迎フ

1910(明治43) 年9月6日

 九月六日 (第二回鹿児島旅行記) 今朝ハ曇レリ 京都ト聞テナツカシサニ窓ヨリノゾク 不相変ノキタナラシキ七条ノステーシヨンニ老爺ムサキ人少シ許マゴマゴセリ 何モドンナニ為ツテ好イト云フ理想ヲ懐キタルニハ非ザレドモ今此不潔ナル又□(原因不明)静ナル様ヲ見テハ失望セザルヲ得ズ 且此失望ハ甚ダ自分勝手ナリ 最早近郊ノ有様ヲ見ル気モ出ズ 直チニ洗面所ニ入ル 舞子 須磨ノ海白浪立チテしけノ体ナリ 姫路ヨリ雨トナル 安芸国八幡町トカ云フ辺本焼ノ赤瓦ノ家多ク又屋根ノ上ニ草ナドノ生タル家一軒モナク此辺ノ山盡ク赤土ナレバ此瓦モ必ズ此山ノ土ニテ製造セシモノナランカ 東京虎門ナル相馬家ノ蔵ノ瓦ハ此品ニ酷似セリ 東京附近ノ別荘ナドニ使用セバ最モ宜シカラント思ハル 中国筋一体ニ豊作ナリ 今ハ稲ノ穂黄バミ掛ケタリ 又山際ノ草木ハ既ニ少シク秋ノ気ヲ受ケテ黄葉紅葉彼処此処ニ混ル 土手ニハ薄女郎花ナドモ見ユ 宮島ハ時雨ニ村消エ濁リタル turquoise 色ノ海面少シモ波ナク此景却テ晴天ノ時ヨリモ趣アルガ如シ 柳井津ニテ不図川路知事夫婦乗込ム 時ニ五時頃ナリ 雨ハ切リニ降ル 同氏等ハ昨夜ノ列車ニテ西下ノ途中此先キノ処ニテ線路ニ故障ヲ生ジタル為メ引返ヘシテ此柳井津ニ一泊セシトゾ 是ヨリ四方山ノ話ニ時ヲ費シタリ 鎌倉ヲ出ル時ハ晴天ナリシト九州辺ハ天気続ト聞キ居タレバ傘ノ用意ヲナサズ 門司ニ上陸シテ停車場迄ノ間川路君ノ傘ニ入リテビシヨ濡ヲ免レタレドモ一方ノ肩ハ膚マデ雨ガ透リテ心地ワロシ 九鉄ニテハ乗客少ナク一等室テハ川路君夫婦ト拙者ノ三人ノミナリシ故昨夜ノ寝台車ヨリ楽ニテ安眠セリ

1910(明治43) 年9月5日

 九月五日 (第二回鹿児島旅行記) 鎌倉ヲ発ス 午後四時四十三分大船発急行車ニ乗ル 此度ノ旅行程気乗ノセヌ旅ハ無シ 初綱祐変死ノ報知ニ接シタル時ハ直チニ出発ノ心組ナリシガ親類回ハリニ一両日費シ居ル内ニ汽車不通トナリ其後復旧工事手間取リ其レニ葬儀ハ勿論忌祭モ終了セシニ依リ用事トテハ全後事ノ相談計リトナリタレバ愈急ギ帰スルノ必要ナキニ至レリ 何シロ面白カラヌ旅ナリ 此春ノ時ハ久シ振ニ故人ヤ故郷ヲ見ルヲ楽ミ居タル事ナレバ不快ノ念ハ毛頭ナカリシカド今回ハ全ク之レト反対ナリ 定メ無キ浮世ノ様トハ如斯状態ヲ云フナルベシ 出発ノ際ハ上天気ナリシガ箱根山北辺ニ差シ掛リ雨トナル 小山ニテ夜ニ入ル 此山中処々ニ水害ノ跡ヲ見ル 小山ヲ過ギテ間モ無ク停車ス 復旧工事不完全ナルガ為メ線路ニ故障ヲ生ジタルナリ 停車凡三十分間許 此間窓前ニ鈴虫ノ声切ニ聞ユ 此山中夜ハ静ニシテ雨中ニ虫鳴キ吾ハ運命ニ導ビカレテ只西ヘ西へト走リ去ルノ身トナル ―無哉―運命―秋ノ哀―嗚呼ツラキ旅ナル哉

1910(明治43) 年4月18日

 四月十八日 雨 (鹿児島旅行記) 午前諸氏ニ面会ス 島津 大牟礼二氏ト語ル 五時頃ヨリ島津男ノ案内ニテ浄光明寺西郷翁ノ墓ニ参詣ス 夫レヨリ折田一郎君ヲ訪ヒ伯母様ニモ御目ニ掛リ九時頃帰宿ス 島津男待受居ラレ十一時過マデ差シ向ヒニテ雑談 後荷造ヲナシ二時ニ至ル

1910(明治43) 年4月17日

 四月十七日 (鹿児島旅行記) 岡見 隈元 堺 鵜木 鮫島 十二時半鶴鳴館ニ於関屋君ト食事 島津 四時頃杉本ニテ撮影 柿本寺乾鵜木会合 夜食島津 大牟礼又鶴鳴館ニ於テ 夕刻高商生徒ヘ電報ヲ発ス

1910(明治43) 年4月16日

 四月十六日 (鹿児島旅行記) 清田高等小学校長 大牟礼 古城 島津 鮫島 吉川 十一時高小ニ於テ講話 大 島ト三人ニテ鶴鳴館ニ於テ食事 志士遺物展覧会 杉本父上 島 大四人撮影 鍛冶屋町乾方及篠崎方ヘ回リ柿本寺ニテ銭別ノ宴 十二時半帰宿

1910(明治43) 年4月15日

 四月十五日 (鹿児島旅行記) 谷山焼物屋 窪田 鮫島 吉川 島津 父上 昼食ハ焼物屋 鮫島 窪田ト共ニス 午後吉川方展覧 五時頃ヨリ吉 鮫同行島津男邸ニテ馳走アリ 児玉利純氏ノ琵琶ヲ聴ク 十二時過

1910(明治43) 年4月8日

 四月八日 (鹿児島旅行記) 朝□□(原文不明)師範学校長 工業学校長 大牟礼武次郎(花瓶掛物持参) 吉川 吉川方ニテ昼食 三時四十分頃師範学校 四時半頃高見舎 夜食平之町

1910(明治43) 年4月5日

 四月五日 曇 (鹿児島旅行記) 熊本駅ニテ頭ヲ上グレバ夜ハ既ニ明ケタリ 併シネムサニ堪ズ又眠ル 七時頃八代ニ着シ弁当ヲ買ヒ又鹿児島ヘ電報ヲ発ス 是等ハ皆昨夜鉄道給仕ニ頼ミ置キタルナリ 面ヲ洗ヒ飯ヲ食ヒ人心地附キタルハ八時ナリ 今日ハ有名ナル隈川ニ沿フテ進ム 此景色一ト口ニ云ヘバ山高水清ナレドモ似寄ノ場所ヲ云ヘバ水流ト山間人家ノ配置ナド一寸大和吉野川ノ或ル場所ニ似テ今少シ大ナリ 只此隈川ノ流ハ岩ニセカルヽ所少ナク渦キ流ルヽナリ 水ノ色ハ今日ハ淡緑色ニ見ユ 沿岸ノ杉ノ色ナドハ夏時ノ雨後ノ緑色ノ如ク鮮ナリ 山ノ絶頂ノアタリ迄菜ノ花ノ咲ケルハ美シ 其他処々ニ桃山桜ナド咲ケリ 又川ヲ下ル舟ノカヂヲ執ル為メカカイノ幅広キヤウナモノヲヘサキニ突キ出シ流レ行ク様中々奇ナリ 南渓ノ紀行ヲ思ヒ出ス 今朝九時頃ヨリ半熟ノ白身ノ如キ雲ノ間ヨリ時時弱キ日光ヲ漏ラス 十時頃大畑(オコバ)ト云フ駅ニ着ス 此処ニテ松葉線ニ上リ汽車苦シ気ニ徐行ス 此辺ノ風景ハ前ノ渓間ト一変シ全ク広大ナル山中ノ様トナル 重畳セル連山ヲ四方ニ眺メ地図的美観ト云フ可シ 線路附近ニハ大森林ハ見エズ 大体ニ於テ薄原ニ松樹ヲ振リ散ラシタルモノナリ 昇リツメタル処ヲ矢嶽ト云フ 停車場ノ掲示ニ依レバ鹿児島四九哩三分 長崎二二一哩 門司一八九哩五分ノ距離ニ在リ 此辺ニ村落アリ 田モ作レリ 牛ヲ使ヒ耕ス所「迫太郎」ヲ設ケタル又皮付ノ儘ナル幹枝ヲ組ミテ十間余ノ橋ヲ渓流ニ架シタルナド最モ風致アリ 是ヨリ少許ノ間大樹ヲ路傍ニ見ル 茲ニ始メテ深林ヲ切リ開キタル姿アリ 此山中無数ノトンネルヲ過ギタレドモ矢嶽駅ヲ出デタル処ノモノ一番長シ 凡四分間ヲ費シタ事上リナレバ之レニ倍スト云フ 吉松ニテ給仕サンドウヰツチト炭酸水トヲ持来ル 此列車ニハ食堂車モナク又此辺ノ駅ニハ弁当モナシト聞キ無拠上リノ食堂車ト此処ニテ出遇フコトヽナリ居レルヲ幸前以テ給仕ニ頼ミ置キテ右ノサンドウヰツチ等ヲ受取レルナリ 大抵ノ旅客ハ昼食ヲ爰ニシテ鹿児島マデ押通スモノト察セラル 汽車ハ国分ヘ向ツテ次第ニ下ル 下ルニ随ヒ山ハ盡ク植林サレテ松杉楠ノ如キモノ繁茂セリ 其間ニ点々山桜ノ若葉ガ見ユル抔ハ丸デ初秋ノ光景デアル 国府駅ニテハ何処カ多年耳ニセル八幡宮ナルカト八方望メドモ分ラズ 知ラヌ土地トテ止ヲ得ザル次第哉 重富駅ニ到レバ突然大牟礼時文君出迎ヒトシテ態々来レルアリ 又久シ振ニテノ面会ニテ嬉シキ事譬フルニモノナシ 又鹿児島ニ着スレバ島津貴暢君 吉川 鮫島ノ二氏満面喜色ヲ浮ベテ吾ヲ迎フ

1910(明治43) 年4月4日

 四月四日 曇 (鹿児島旅行記) 夜ノ白々明ケニ京都駅ニ着ス 降ル人乗ル人ノ声ニ目ヲ覚マス 須磨明石ノ景色モ薄ボンヤリニテ差シテ面白ク感ゼズ 姫路ノ手前ニテ朝飯ヲ済マス 姫路ニテ新渡戸博士乗車 同氏ニハ演説ノ為メ福岡ヘ出向カルヽナリト 談亡友横山壮二郎ノ事ニ及ビ遺族ヘノ伝言ナドヲ聴ケリ 笠岡ト云ヘル辺入江有リテ目先変ル 此処ニテ昼食ヲ始ム 此辺処々ニ塩田ヲ見ル 山ハ赤禿ノ山多シ 尾ノ道ハ小舟ナド泛ベテ遊ブニハ好キ所ナラン乎 久シ振ニテ広島市ヲ望ム 此附近ノ民家石垣ヲ築キ一廊ヲ構ヘ白壁ニ柱ナドノ外部ニ現ハレタル部分ヲ赤味勝ノ褐色ニ塗リタルハ何トナク清潔ニ見ユ 日清戦役ノ当時マデハ宮島ヘ渡ルニ普通ノ渡船ナリシガ此頃ハ此処ニモ停車場アリ 又小蒸汽ニテ往復ヲナスト云フ 広島ヨリ西ハ汽車海岸ヲ縫フテ行ク故見晴殊ノ外ヨロシ 岩国ヲ過ギ川ヲ渡リテ後大勢ノ女子供頭カラ白布ヲ被リ列ヲ整ヘテ田舎道ヲ通ルヲ見タリ 珍ラシキ風俗ナリ 葬儀カト思ルレドモ棺ノ如キモノハ見エズ 何ノ儀式ナリシ乎 徳山ト云フ処モ景色好キ所ナリ 此処ニ停車中晩食ノ為食堂ニ入ル 是ヨリ次第ニ日暮トナル 今日過ギタル場所ヲ晴天ノ時カ又ハ雨中ニ眺メタランニハ一層興味アリシコトナルベキニ惜キ事ナリ 今日モ亦「八笑人」ヲ読ム 乗合ノ外国人等ニ気兼ヲシテ可笑サヲコラヘ難儀セリ 八時過下関ニ着ス 荷物ハ赤帽ニ托シ置キ其儘定刻迄待合ニ居リテ所謂連絡船ナル大形ノ蒸汽ボートニ乗レバ荷物ハ赤帽附添ニテ甲板上ニ在リ 其処デ酒手ヲ渡ス 此一段大ニ欧羅巴風也 門司ニテ新渡戸博士ニ別レ英人一人ノ連ガ出来又美術校今回卒業ノ長野靖彦ニ遇フ 此英人ハ今朝京都ニテ乗込タルモノナルが先刻ヨリ切リニ新渡戸氏ニ何カ話シ掛ケ居タリシニ同氏ニ離レテ拙者ニ近キタリ 併シ先が少シモ仏語ヲ話セヌト云フノデ英語ニテヤルコトナレバ困難ハ申迄モナシ 此者ハ商業ノ為メ西比利亜ヲ経テ日本ニ来リ居ルコト僅ニ中三日ニシテ明日午後長崎出帆ノ露船ニテ上海ヘ向フナリト 是レコソ全ク「和蘭陀元気」ト謂フ可キモノナラン 門司発車マデ二時間許待タネバナラズ此英人ト長野ヲ誘ヒ停車場前ノ茶見世ニテ麦酒ヲ飲ム 拙者ガ画カキナル事ヲ知リテ英人如才ナクターナ バーン・ジヨーンズナドノコトヲ語ル 序ニ記ス 日本ノ汽車モ一等ハ設備モ一ト通ニナリタレドモ停車場ニビユツフエノ無キハ不自由ナリ 又汽車中ノ食堂ニモ飲物ナドノ不備ナルハ遺憾ナリ 外国人ナドハ困ル事ナルベシ 今一層遊散的ニ計画セラレ度キ心地ス 夜三時頃鳥栖駅ニテ彼ノ英人ト別レタリ

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