本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,961 件)





不動茂弥

没年月日:2016/12/15

読み:ふどうしげや  日本画家の不動茂弥は12月15日、呼吸不全のため死去した。享年88。 1928(昭和3)年1月11日、昭和3年1月11日兵庫県三原郡賀集福井(現、南あわじ市)に生まれる。父、栗林寅市、母、この。父方の叔父は日本画家の栗林太然。生後間もなく母方の叔父で、当時京都画壇で活躍していた淡路島出身の日本画家、不動立山の養嗣子として迎えられ、以後京都で育つ。44年、京都市立絵画専門学校(45年に京都市立美術専門学校と改称。現、京都市立芸術大学)に入学。戦時中、東京近辺の陸軍の諸学校へ教材用掛図の作成に学生の勤労動員として派遣される。敗戦後の47年、学内で行なわれた作品展への出品をきっかけに三上誠や山崎隆、星野眞吾らと新たな絵画運動を唱えるグループ結成に向けて話しあうようになる。48年同校日本画科を卒業。同年3月には三上、山崎、星野、不動、田中進(竜児)、日本画に席を置きながら洋画を描いていた青山政吉、陶芸の八木一夫と鈴木治を含めた8名によるグループのパンリアルを結成し、同年5月に京都の丸善画廊でパンリアル展を開催(この時には不動と田中は作品未完のため不出品)。7月には八木と鈴木が陶芸の前衛グループ走泥社を結成するため脱退。メンバーを日本画に絞り、新たに大野秀隆(俶嵩)や下村良之介らを交え、翌年、日本画壇の旧弊打破と膠彩表現の可能性追求を掲げてパンリアル美術協会を結成、5月に京都の藤井大丸で第1回展を開催する。不動は第1回展から74年の同会退会まで出品を続けた。戦後の混乱した社会状況を捉えた「物語」(1949年)や「机上の対話」(1950年)等の人物情景にはじまり、50年代後半から布、セメント、砂、焼板等を取り入れたアッサンブラージュによる作品「自潰作用」(1957年)や「焚刑」(1962年)、古い浄瑠璃本を曼荼羅のようにコラージュした「籠城」(1966年)等を発表。67年作の「落ちる文字」以降は、日本画の特質は描線・色面・記号性にあるとする自論に基づき、エアブラシやアクリルも積極的に取り入れる。パンリアル美術協会退会後は中村正義の呼びかけに応じて75年の東京展、また星野眞吾の从展に非会員として出品する以外は、無所属で個展による発表を続ける。日本を擬人化して変容する文明の渦中にある都市をモティーフとした「極地」(1985年)、「望郷」(1987年)、「何処へ」(1987年)、記号の象徴として専ら“→”を採用し、20世紀末の世界の混迷をテーマとした「情報化時代」(1991年)、「都大路の菩薩様」(1994年)、「落ちた偶像」(1995年)を制作、一貫して日本画の現代性を追究した。 制作の一方で72年に三上誠が結核で没した直後より、星野眞吾、批評家の木村重信、中村正義と4人で編集委員会を立ち上げ『三上誠画集』(三彩社、1974年)刊行に奔走。また晩年の三上の遺志を受け、80年代には福井県立美術館学芸員の八百山登らの協力も仰ぎながら、パンリアル美術協会設立時の記録を編集、88年に『彼者誰時の肖像 パンリアル美術協会結成への胎動』を自費出版し、同協会創成期の証言者としての役割を果たした。 没した翌年の2017(平成29)年には、京都国立近代美術館で追悼展示が行なわれている。

金守世士夫

没年月日:2016/12/07

読み:かなもりよしお  郷里富山で木版画制作を続けた国画会会員、日本版画協会名誉会員の金守世士夫は、12月7日に死去した。享年94。 1922(大正11)年1月24日、富山県高岡市伏木新島に生まれる。生家は船具などを製作する鉄工場を営んでいた。東京で鉄鋼場を営む叔父を頼り上京し、帝国美術学校図案科に入学してデッサン等を学ぶ。在学中、永瀬義郎著『版画を作る人へ』を読み、版画に興味を抱くが、父の急逝により帝国美術学校を中退。1942(昭和17)年に招集されて半年間、富山連隊に属した後、中国大陸に渡る。46年、南京から復員。同年、当時富山市福光町に疎開していた棟方志功を訪ね、指導を乞うて「私の生活をみること」と言われ、しばしば棟方宅に自作の版画を持参して教えを仰ぐようになる。47年正月、折本形式の作品「版画菩薩曼荼羅」を棟方宅に持参して高い評価を得、棟方の推薦によって同年の国画会工芸部に初出品。翌年同会展に木版本「鶏合」「七福神仙」「分陀利華」「十三仏木印」を出品。その後も同会に出品を続ける。50年、棟方、畦地梅太郎、笹島喜平らと『越中版画』を創刊。同誌は第2号から『日本板画』と改題し、51年に棟方が東京に移住するのを契機に7,8合併号を刊行して休刊。以後、金守が『富山版画』として50年代半ばまで刊行を続けた。50年代に入ると作品の主題を聖書に求めるようになり、50年第24回国画会展に「物語約拿(ヨナ)」「物語我を見る活る者の井戸」を出品し褒状受賞。53年第27回国画会展に「物語イサクの犠牲」「物語エホデ・エグロン王を倒す」「物語アブラハムと三天使」を出品して国画奨学賞を受賞。57年国画会会友となる。58年ニューヨークのセント・ジェームズ教会展で「イサクの犠牲」により3等賞を受賞するが、聖書にある場面を描きながらも棟方の作風と類似しているという評を受け、物語主題から離れるべく、京都の庭を訪れて作風を模索。京都南禅寺の枯山水の庭が夕立の前後で表情を変える様子に「飽くことのない変幻自在の宇宙を発見し」、後に長くテーマとする「湖山」の着想を得た。65年国画会会員となる。68年、バンクーバーとロスアンゼルスでの技術指導のためカナダ、アメリカへ渡る。70年から翌年にかけてサンフランシスコ、ロスアンゼルス、ニューヨークでの個展のため渡米。70年、志茂太郎主宰の日本愛書会から大判で多版多色摺りの「湖山」を刊行。79年1月版画芸術院を設立する。80年、富山市文化功労賞を、81年富山県文化功労賞を受賞。また同年、スイス・バーゼルで個展を開催。82年オーストラリア美術協会の招聘により渡豪して版画指導。84年日中版画文化交流の一因として訪中。86年より88年12月和光ホールで「金守世士夫展」を開催。また、同年から毎年インドネシア・デンハサール市で版画・水墨画の指導に当たる。戦後間もない頃から棟方を介して、浜田庄司、河合寛次郎ら民芸運動に関わった人々の作品にも親しみ、日常生活を彩る版画も数多く制作。54年に畦地梅太郎の誘いによって制作を始め作り続けた蔵書票は人々に親しまれ、1994(平成6)年日本書票協会第4回志茂賞を受賞している。96年カナダ・バンクーバー市立美術学校に木版画指導のため招かれる。同年第43回富山新聞文化賞受賞。版本の作成に当たっては、河童に想を得て棟方が命名した河伯洞の号を用いた。また、棟方や柳宗悦の話を聞くうち民芸に興味を抱くようになって収集を始め、アメリカ先住民の人形やエスキモーの民芸品、アフリカの面や染織品、神像、インドネシアの染織品等のコレクターとしても知られ、「インドネシアの手仕事展」(1994年9月13日から10月31日)を富山市民芸館で開催したほか、自らの版画とアフリカの立体作品を並べた「金守世士夫とアフリカンアート展」(1994年10月15日から11月30日、黒部市美術館)などを開催した。江戸時代から続く越中売薬版画等の伝統を踏まえ、一貫して木版画を制作し、「湖山」の主題を得てからは、山と湖に蝶・花鳥ほかを配して幻想的な作風を示した。版画の複製性よりも木版ならではの表現を探求し、1枚の版木で彫りと摺りを繰り返しながら制作する「彫り進み」技法を多用するのを技法的特色とした。

宮野秋彦

没年月日:2016/12/07

読み:みやのあきひこ、 Miyano, Akihiko*  名古屋工業大学名誉教授で建築研究者の宮野秋彦は12月7日に死去した。享年93。 1923(大正12)年10月15日に名古屋で生まれ、1945(昭和22)年に東京工業大学工学部建築学科を卒業した。東京工業大学の助手、助教授をつとめた後、名古屋工業大学に異動し、助教授、教授をつとめた。この間、建築材料中の熱や湿気の移動に関する研究を行い、「建築物に於ける温度変動に関する研究」で62年2月12日に東京工業大学から工学博士の学位を受けた。また83年~84年には日本建築学会の副会長をつとめた。名古屋工業大学退官後は福山大学の教授となり、その後、名古屋工業大学名誉教授、日本建築学会名誉会員、中国文物学会名誉理事となる。 宮野は名古屋工業大学在職中に、多くの文化財が伝統的な倉の中で保存されてきたことに着目して、文化庁文化財保護部建造物課(当時)の文化財調査官であった半澤重信とともに全国の倉の環境調査を行い、成果を日本建築学会の大会などで長年発表し続けた。やがて研究対象を屋台蔵や遺構などにまで広げ、斉藤平蔵亡き後、建築環境工学の第一人者として、文化財における温湿度環境の整備に欠かせない専門家となった。特に86年から1990(平成2)年にかけて行われた中尊寺金色堂覆堂の改修工事では、金色堂が入るガラスケース内の新しい空調システム設計について中心的な役割を果たした。それまでの空調システムは、空調空気を金色堂のある室内に吹き出す方法であったが、風が表面の境界層を吹き飛ばして金色堂の表面を乾燥させることを避けるため、宮野は空気を強制的に動かさないで湿度を一定に保つことを提唱した。宮野の提言を受けて、改修工事ではガラスケース全体の断熱を高め、ガラス以外の壁面には調湿ボードを用い、湿度が一定値を越えた時だけ入り口に置いた除湿器が作動するシステムを採用した。除湿器だけを用いて加湿器を用いないことにしたのは、ガラスケース内で測定された長年の記録を宮野が解析して、中尊寺の環境ではガラスケース内の湿度が上がることはあっても、乾燥しすぎることはないことがわかったからである。修理委員会に於ける宮野の献身的な協力もあって、改修工事後は67%RH前後の相対湿度に、金色堂のあるガラスケース内は保たれている。 宮野はその後も、多くの文化財の保存について協力を続けた。岩手県立博物館におけるコンクリート屋根スラブ内の水分挙動を丹念に調べ、長期にわたり館内がアルカリ性性状になっていた原因を突き止め解決した。また木質系調湿材、石質系調湿材に加え土質系調湿材を対象に、調湿建材によって環境湿度の調節を図る取り組みは、博物館に加えて、対象を社寺(薬師寺玄奘三蔵院伽藍大唐西域壁画殿、静岡県指定文化財可睡斎護国塔ほか)、城郭(熊本城「細川家舟屋形」)、歴史的近代建造物(神山復生記念館)、整備事業の復原建物(富山市北代縄文広場)にも広げ、文化財の保存環境制御に多大な功績を残した。 主な著書として『建物の断熱と防湿』(学芸出版社、1981年)、『生きている地下住居』(彰国社、1988年、共著)、『屋根の知識』(日本屋根経済新聞社、1994年、共著・監修)、『屋根の物理学』(日本屋根経済新聞社、2000年)、『新版 屋根の知識』(日本屋根経済新聞社、2003年、共著・監修)がある。1972年日本建築学会賞(論文)「建築物における熱ならびに湿気伝播に関する一連の研究」、2001年勲三等瑞宝章。

島田章三

没年月日:2016/11/26

読み:しまだしょうぞう、 Shimada, Shozo*  日本芸術院会員の洋画家、島田章三は11月26日、すい臓がんのため死去した。享年83。 1933(昭和8)年7月24日、神奈川県三浦郡浦賀町に浦賀ドックのインテリアデザイナーであった父英之の三男として生まれる。40年大津尋常小学校(現、横須賀市立大津小学校)に入学するが43年に肋膜炎となり休学。同年、祖父の住む長野市に疎開。45年、横須賀に帰り、46年大津国民学校高等科に入学。在学中に佐々木雅人、金沢重治、熊谷九寿に絵を学び、神奈川県内の絵画コンクールで受賞を重ねる。49年横須賀高等学校に入学。52年に同校を卒業し東京藝術大学進学を志して川村伸雄のアトリエに通う。54年東京藝術大学油画科に入学。1年次は久保守、2年次は牛島憲之、3年次は山口薫、4年次は伊藤廉に師事。在学中の57年、柱時計を胸に抱き、顎に釣り合い人形を乗せた上向きの女性を描いた「ノイローゼ」で第31回国画会展に初入選。以後、同展に出品を続ける。同年10月サヱグサ画廊で「林敬二・島田章三二人展」を開催、12月には福島繁太郎の推薦によりフォルム画廊にて初個展を開催する。58年東京藝術大学油画科を卒業。同期生には後に前衛作家として活躍する高松次郎、中西夏之、工藤哲巳、具象画家の橋本博英、林敬二、油画修復家となった歌田眞介、山領まり、パルコのポスターで一世を風靡した山口はるみらがいる。同年、専攻科に進学し、第32回国画会展に「ひるさがり」を出品して同会会友となる。60年、同学専攻科を卒業。61年第35回国画会展に抽象化された形体と重厚なマチエールによる「うしかなし」「とりたのし」を出品して同会会員となる。同年第5回安井賞候補新人展に「うしかなし」「とりたのし」で入選。61年、大学の同級生であった田中鮎子と結婚。66年、新設された愛知県立芸術大学に恩師伊藤廉に請われて講師として赴任。67年第11回安井賞候補新人展に馬と母子を描いた「母と子のスペース」、牛に乗る女性を描いた「エウローペ」を出品して前者により安井賞を受賞。68年愛知県在外研究員として渡欧しパリを拠点にスペイン、イタリアにも巡遊。古典から現代まで広く西洋美術に接し、特にピカソ、ブラック、レジェなどキュビスムの作家らが「絵を思考している」ことを知り、「形態を再構成していく立体派を、日本人の言葉(造形)で翻訳してみたいものだ」と考え、色面・線・画肌を軸に再考。また、西洋の芸術運動がその地の生活に根ざしたものであることを知り、自らの身の回りの日常に取材してかたちを生み出す「かたちびと」のテーマへの契機を得る。69年9月に帰国し、愛知県立芸術大学助教授となる。79年藤田吉香、大沼映夫ら10名の洋画家で「明日への具象展」を設立して同人となり、同年の第1回展に「炎」「波」を出品する。同展には84年まで毎年出品。80年、「島田章三自選展」を丸栄スカイルおよび東京銀座の和光で開催。また同年、「炎」(1979年)などの作品により第3回東郷青児美術館大賞を受賞し、東郷青児美術館にて展覧会を開催する。同年アメリカへ、83年ブラジルへ旅行。また、同年池田20世紀美術館にて「島田章三の世界展」を開催。1990(平成2)年、前年の第63回国画会展出品作でブラックの名が記された鳥の絵を画面上部中央に配した室内人物画「鳥からの啓示」により第8回宮本三郎記念賞を受賞。同年愛知県立芸術大学芸術資料館館長に就任。92年同学教授を退任し、96年に名誉教授となり、2001年から07年3月までは同学学長を務める。99年、前年の第72回国画会展出品作「駅の人たち」により第55回日本芸術院賞を受賞し日本芸術院会員となる。04年文化功労者となる。07年4月から10年12月まで愛知芸術文化センター総長を務める一方、07年から11年3月まで郷里の横須賀美術館館長を務める。1950年代以降、前衛的な表現が次々と生み出される中で、島田は「表現とは形にならないものから形をつくるもの」(『島田章三』、芸術新聞社、1992年)と語り、古賀春江、香月泰男、山口薫らによる「形をリリシズムで扱う、日本に芽生えた、モダニズムの仕事」(同上)を引き継ごうと試みた。93年5月に郷里の横須賀市はまゆう会館で「島田章三展」、99年に三重県立美術館ほかで「島田章三展 かたちびと」、11年に愛知県美術館、横須賀美術館で「島田章三展」が開催されている。11年の展覧会図録には詳細な年譜と作家自身による作品解説が掲載されている。著書に『島田章三画集』(求龍堂、1980年)、『S. Shimada essays & pictures』(大日本絵画、1984年)、『島田章三 かたちびと』(美術出版社、1988年)、『島田章三画集』(ビジョン企画出版社、1992年)、『島田章三』(アートトップ叢書、芸術新聞社、1992年)、『島田章三:現代の洋画』(朝日新聞社、1996年)、『島田章三画集』(ビジョン企画出版社、1999年)、『ファイト:島田章三画文集』(求龍堂、2009年)がある。

原田治

没年月日:2016/11/24

読み:はらだおさむ、 Harada, Osamu*  イラストレーターの原田治は11月24日、死去した。享年70。 1946(昭和21)年4月27日、東京都築地で輸入食料品の卸売商を営む家に生まれる。小学生の頃より洋画家の川端実に師事。抽象画家を志すも、生計のための制作であってはならないという川端の助言で諦め、多摩美術大学のデザイン科に進学する。69年、同大学グラフィックデザイン科を卒業。卒業後渡米し、ニューヨークでプッシュピン・スタジオによるイラストレーションに刺激を受ける。帰国後の70年、アートディレクター堀内誠一の起用により雑誌『an・an』の創刊号でイラストレーターとしての活動を開始、以後、出版や広告の仕事が舞い込むようになる。70年代前半は雑誌や広告の内容に合わせて約10種類のスタイルを編み出し、様々な仕事の需要に応えるが、75年にコージー本舗の石井静夫が原田のイラストレーションを使った雑貨商品の製作販売を依頼したことにより、キャラクターグッズの“オサムグッズ”を開発、オリジナルのスタイルを確立する。欧米の絵本や50年代のアメリカ文化の要素を取り入れた“オサムグッズ”は、80年代にファンシーグッズ店の増加とともに全国的なブームとなった。79年、ペーター佐藤、安西水丸、新谷雅弘等とともにパレットクラブを結成。1997(平成9)年には築地にパレットクラブ・スクールを設立、エンターテインメントとしてのイラストレーションの心構えを講じる。著書に『EXTRAORDINARY LITTLE DOG』(PARCO出版、1981年)、『ぼくの美術帖』(PARCO出版、1982年)、『オサムグッズ・スタイル』(ピエ・ブックス、2005年)等。児童向け絵本の挿絵も手がけ、『かさ』(福音館書店、1992年)、『ももたろう』(小学館、1999年)、『ハイク犬』(学習研究社、2008年)等がある。没する直前の2016年7月1日から9月25日まで、弥生美術館で「オサムグッズの原田治展」が開催。また07年から10年まで『芸術新潮』に連載の美術エッセイを中心にまとめた『ぼくの美術ノート』は、没した翌年の17年2月に亜紀書房より刊行された。

内田繁

没年月日:2016/11/21

読み:うちだしげる、 Uchida, Shigeru*  インテリアデザイナーの内田繁は11月21日、膵臓がんのため死去した。享年73。 1943(昭和18)年2月27日、神奈川県横浜市に生まれる。66年桑沢デザイン研究所を卒業。69年に座り方によって椅子の形が自由に変化する「フリーフォームチェア」を制作、家具や室内空間の既成概念を問い直す姿勢を打ち出す。70年内田デザイン事務所を設立、大テーブルを採用して知らない者同士のコミュニケーションが生まれるようにした六本木のバー「バルコン」の設計(1973年)をはじめ、74年の「Uアトリエ」、77年のアパレルショールーム「吉野藤」、79年のバー「ジャレット」のインテリアを発表。「ジャレット」では、横尾忠則が描いたジャズミュージシャンのイラストレーションをタイル画にして床と腰壁に使用した。81年にパートナーの三橋いく代、西岡徹とスタジオ80を設立し、レストラン「ア タント」(1981年)、「操上スタジオ」(1983年)、バー「ル クラブ」(1985年)、季寄料理「ゆず亭」(1986年)、ショールーム「青山見本帖」(1989年)等を手がける。とくに70年代から80年代にかけて、世界的に注目を集める日本のファッションデザイナーとインテリアデザイナーが組む仕事が増える中で、内田は山本耀司のブティックを手がけ、雑多なものを排除したミニマルな空間を実現、その後の商業空間のデザインに多大な影響を与える。88年、抽象的なデザインによる椅子「セプテンバー」(1977年)がニューヨーク、メトロポリタン美術館の永久コレクションに収められる。同年毎日デザイン賞を受賞。1989(平成元)年には内田がアートディレクションを務めた博多のホテル「イル・パラッツォ」が完成、イタリアの建築家アルド・ロッシをはじめ世界各国のクリエイターが集結したことで話題を集める。またロッシとの出会いから、あらためて日本の固有文化を研究する必要性を感じ、その成果として89年に「閾 三つの二畳台目」、93年に「受庵、想庵、行庵」と題した茶室を発表、後者は95年のイタリアを皮切りに世界各地を巡回し、日本の“もてなし文化”の精神を引き継ぎながら現代の茶室をデザインしたとして高く評価された。2000年に芸術選奨文部大臣賞を受賞。07年に紫綬褒章を受ける。著作も多く、主要なものとして以下の図書が挙げられる。『住まいのインテリア』(新潮社、1986年)『インテリア・ワークス 内田繁・三橋いく代とスタジオ80』(三橋いく代、スタジオ80と共著、六耀社、1987年)『椅子の時代』(光文社、1988年)『日本のインテリア』全4巻(沖健次と共著、六耀社、1994-95年)『門司港ホテル』(アルド・ロッシと共著、六耀社、1998年)『インテリアと日本人』(晶文社、2000年)『家具の本』(晶文社、2001年)『内田繁with 三橋いく代』(三橋いく代と共著、六耀社、2003年)『茶室とインテリア』(工作舎、2005年)『普通のデザイン』(工作舎、2007年)『デザインスケープ』(工作舎、2009年)『戦後日本デザイン史』(みすず書房、2011年)

高井研一郎

没年月日:2016/11/14

読み:たかいけんいちろう、 Takai, Ken’ichiro*  漫画家の高井研一郎は11月14日、東京都内で肺炎のため死去した。享年79。 1937(昭和12)年7月18日、長崎県佐世保市生まれ。幼少期を上海で過ごす。高校時代『漫画少年』への投稿漫画で、赤塚不二夫、石ノ森章太郎と知り合う。20歳のとき、手塚治虫の薦めで漫画家を目指し上京。56年「リコちゃん」(『少女』)でデビュー。手塚治虫、赤塚不二夫のアシスタントを務める。とくに60年代の赤塚の仕事への貢献度はたかく、キャラクターの造形化をはじめ、下書き線のきれいなことは評判だった。86年林律雄原作で「総務部総務課山口六平太」(『ビッグコミック』)の連載を開始、人気を獲得。大手自動車会社で繰り広げられるサラリーマンもので、主人公の山口は社内の様々な問題を飄々とこなしていく。彼の特技は高井の趣味である手品のようで、口にくわえた吸いかけの煙草を舌でくるっと口のなかへ巻き取る。サラリーマンの応援歌ともいわれた同作は、単行本で80巻(731話)に及んだ。また武田鉄矢原作で「プロゴルファー織部金次郎」(『ビッグコミックスペリオール』)は、17年間勝ちがないゴルファーの悲哀を、中原まこと原作で「ソーギ屋ケンちゃん」では、継ぐはずではなかった家業をもり立てていく男を描いた。映画「男はつらいよ」の漫画版を林律雄の脚色で描き、桂三枝原作「桂三枝の上方落語へいらっしゃ~い」(『コミックヨシモト』)や「百年食堂」(少年画報社)など様々なジャンルを手掛けた。

濱田幸雄

没年月日:2016/10/31

読み:はまださぢお  重要無形文化財「土佐典具帖」の保持者濱田幸雄は、10月31日、すい臓がんのため死去した。享年85。 濱田幸雄は、1931(昭和6)年2月17日高知県吾川郡いの町に生まれ、46年から父・濱田秋吾に師事して伝統的な土佐典具帖紙の製作技術を習得し49年に独立した。72年土佐典具帖紙保存会会員として他の5名の技術者とともに第8回キワニス文化賞を受賞。73年「土佐典具帖紙」が記録作成等の措置を講ずべき無形文化財として選択され、濱田が所属する土佐典具帖紙保存会が関係技芸者の団体として指名される。77年経済産業大臣指定伝統的工芸品「土佐和紙」の伝統工芸士として認定される。80年「土佐和紙(土佐典具帖紙・土佐清張紙・須崎半紙・狩山障子紙・土佐薄葉雁皮紙)」が高知県保護無形文化財に指定され濱田が所属する土佐和紙技術保存会が保持団体に認定される。1991(平成3)年労働大臣表彰(卓越した技能者)93年勲六等瑞宝章を受ける。95~97年土佐和紙工芸村で研修生の指導に携わる。2001年7月12日付けで重要無形文化財「土佐典具帖」の保持者として認定される。 濱田が漉く土佐典具帖紙は、高知県仁淀川流域で生産される良質の楮を原料とし、消石灰で煮熟した後、極めて入念な除塵や小振洗浄をを行い、黄蜀葵の粘液を十分にきかせた流漉の工程では、渋引きの絹紗を張った竹簀とそれを支える檜製漆塗の桁を使用する。紙漉き動作では、簀桁を激しく揺り動かして素早く漉き、楮の繊維を薄く絡み合わせる。漉き上がった紙は「カゲロウの羽」と称されるほど薄く、繊維が均一に絡み合って美しく、かつ強靱なため、タイプライター原紙として大量に輸出され、比類のない極薄紙として知られていた。しかし、昭和30年代以降、機械漉の典具帖紙の普及に押され手漉の需要が減少したため技術者も激減した中で、濱田は土佐典具帖紙に拘り、他種の紙を漉くことを避けていた。現在、典具帖紙に代表される楮の極薄紙は、世界中の美術館博物館で文化財補修用資材として利用されている。なお97年以来製作技術の指導を受けていた孫・濱田洋直が工房を引き継いでいる。

堀越千秋

没年月日:2016/10/31

読み:ほりこしちあき、 Horikoshi, Chiaki*  スペインを拠点に活動した画家の堀越千秋は10月31日、多臓器不全のためマドリードで死去した。享年67。 1948(昭和23)年11月4日、東京都文京区駒込千駄木町に生まれる。祖父は日本画家滝和亭に師事した画家、父も小学校の図工の教師であった。69年東京藝術大学油画科に入学、田口安男のテンペラ画の授業を受ける。また在学中に解剖学者三木成夫による美術解剖学の講義に感銘を受け、その理論・思想は以後の堀越の画業のバックボーンとなる。73年大学院に進学、その年8ヶ月間にわたりヨーロッパを放浪、とくにスペインの地に魅せられる。プラド美術館ではロヒール・ファン・デル・ウェイデンの「十字架降下」を模写した。75年東京藝術大学大学院油画専攻修了。翌年スペイン政府給費留学生として渡西、マドリードの王立応用美術学校で石版画を学ぶ傍ら、テンペラ画等の様々な技法に挑戦。80年最初の個展をマドリードのエストゥーディオ・ソト・メサで開催。82年に帰国し、日本で初めての個展(東京、セントラル絵画館)を開催。84年にニューヨークに約一ヶ月間滞在、ソーホーでニューペインティングに刺激を受け、制作上の転機となる。奔放な筆致と明るい色使いで、抽象と具象の入り混じった世界を描いた。2001(平成13)年頃より埼玉県神泉村鬼石に居を構え、スペインと日本を往来するようになる。03年からは同村に“千秋窯”を拵え、焼き物に興じた。03年、装丁画を担当した『武満徹全集』(全5巻、小学館)が経済産業大臣賞を受賞、ライプチヒの「世界で最も美しい本コンクール」に日本を代表して出品される。05年絵本『ドン・キ・ホーテ・デ・千秋』(木楽舎)刊行。07年から16年まで、ANAの機内誌『翼の王国』の表紙絵を連載。また07年以降、世界的なフラメンコの踊り手である小島章司の舞踊団のための舞台美術を手がけるようになる。14年スペイン政府よりエンコミエンダ文民功労章を受章。旺盛な文筆活動でも知られ、フラメンコ専門誌『パセオフラメンコ』への連載(1986~2012年)をはじめ新聞・雑誌にエッセイを多数執筆。『渋好み純粋正統フラメンコ狂日記』(主婦の友社、1991年)、『スペイン七千夜一夜』(集英社文庫、2005年)、『絵に描けないスペイン』(幻戯書房、2008年)、『赤土色のスペイン』(弦書房、2008年)等の著作がある。14年3月から16年11月に『週刊朝日』に連載された古今東西の名品をめぐるエッセイ「美を見て死ね」は、没後の17年にエイアンドエフより単行本として刊行された。フラメンコで歌われるカンテの名手としても著名で、逝去の際、スペインの新聞はカンテ歌手の死と報じられている。生前より企画されていた画集は18年に『堀越千秋画集 千秋千万』(大原哲夫編集室)として刊行された。

三笠宮崇仁親王

没年月日:2016/10/27

読み:みかさのみやたかひとしんのう  オリエント学者で、日本オリエント学会名誉会長、中近東文化センター名誉総裁、日本・トルコ協会名誉総裁、日本赤十字社名誉副総裁、日本フォークダンス連盟名誉総裁などを務めた三笠宮崇仁親王は、東京都中央区の聖路加国際病院にて、10月27日に心不全のため薨去した。享年100。 1915(大正4)年12月2日、大正天皇と貞明皇后の第四皇子として、東京の青山御所に生まれる。昭和天皇の末弟にあたる。学習院初等科・中等科、陸軍士官学校、陸軍騎兵学校、陸軍大学校卒業後、1943(昭和18)年に支那派遣軍参謀として南京に派遣された。44年には大本営参謀となり、陸軍少佐として終戦を迎えた。 終戦後の47年、戦争への反省から歴史を学ぶことを決意し、東京大学文学部史学科の研究生になる。古代オリエント史を専攻し、その後、歴史学者として活躍し、数多くの論文や著書、翻訳書などを発表した。 54年には日本オリエント学会の創設に尽力し、54年から76年までは初代会長、76年から1996(平成8)年までは名誉会長を務め、日本の古代オリエント史研究をながらく牽引した。 55年には、皇族としてはじめて大学の講師になり、東京女子大学の教壇に立つ。大学への通勤は国鉄を利用し、昼食は必ず学生たちにまじり学生食堂で一杯20円のキツネうどんを食べるなど、三笠宮崇仁親王の庶民的で気さくな人柄を伝える逸話が数多く残されている。東京女子大学のほか、北海道大学や静岡大学、青山学院大学や天理大学、拓殖大学、東京芸術大学でも、古代オリエント史の講義を担当した。また、テレビやラジオにも積極的に出演し、古代オリエント史の普及と啓蒙につとめた。 56年に上梓した処女作『帝王と墓と民衆―オリエントのあけぼの―』(光文社)は、石原慎太郎の『太陽の季節』(新潮社)とともに56年を代表するベストセラーとなった。 また同年、戦後初の本格的な海外調査団の1つである『東京大学イラク・イラン遺跡調査団』の立ち上げに関与し、イラクのテル・サラサート遺跡において同調査団による発掘調査開始を記念した鋤入れ式にも参加している。 日本オリエント学会創立10周年の記念事業として、64年から66年にかけて行われたイスラエルのテル・ゼロ―ル遺跡の発掘調査に関しても、オリエント学会の会長として寄付金集めなどに尽力した。 79年には、三笠宮崇仁親王の発意のもと、出光佐三や佐藤栄作、石坂泰三が協力をし、日本最初の古代オリエント研究機関として中近東文化センターが東京の三鷹に創設された。三笠宮崇仁親王殿下が総裁、名誉総裁を務めた中近東文化センターは、86年以降、トルコのカマン・カレホユック遺跡の発掘調査を実施し、現在では、世界的な研究機関となっている。 著作には、『帝王と墓と民衆―オリエントのあけぼの―』(光文社、1956年)、『乾燥の国―イラン・イラクの旅―』(平凡社、1957年)、『日本のあけぼの―建国と紀元をめぐって―』(光文社、1959年)、『ここに歴史はじまる(大世界史第一巻)』(文藝春秋、1967年)、『古代オリエント史と私』(学生社、1984年)、『古代エジプトの神々―その誕生と発展―』(日本放送出版協会、1988年)、『文明のあけぼの―古代オリエントの世界―』(集英社、2002年)、『わが歴史研究の七十年』(学生社、2008年)など多数。

中西夏之

没年月日:2016/10/23

読み:なかにしなつゆき、 Nakanishi, Natsuyuki*  現代美術家で、東京藝術大学名誉教授の中西夏之は、10月23日に脳梗塞のため死去した。享年81。 1935(昭和10)年7月14日、現在の東京都品川区大井町に生まれる。54年、東京都立日比谷高等学校を卒業、東京芸術大学美術学部油画科に入学。58年に同大学を卒業、同期に島田章三、高松次郎、工藤哲巳、磯部行久、山領まりがいた。58年7月、檪画廊にて個展開催。59年9月、村松画廊にて個展。63年5月、新宿第一画廊にて「赤瀬川原平・高松次郎・中西夏之展」開催。この3人をメンバーに、「ハイレッド・センター」を結成。「ハプニング」と称して、パーフォーマンスなどの発表活動をはじめる。64年1月-2月、南画廊にて、荒川修作、三木富雄、工藤哲巳、菊畑茂久馬、岡本信治郎、立石紘一とともにヤングセブン展に出品。65年、土方巽演出・振付の暗黒舞踏派公演にあたり舞台美術を担当。66年、通貨及証券模造取締法違反を問われ、被告となった赤瀬川原平の「千円札裁判」で、証言及び作品の提示を行う。69年、美学校に「中西アトリエ」を開設、72年には同学校にて「中西夏之・素描教場」を開設、翌年にかけて制作指導にあたる。75年9月、西武美術館にて「日本現代美術の展望」展に出品。 80年11月、雅陶堂ギャラリーにて個展。絵画に復帰。83年、同ギャラリーにて個展「中西夏之 紫・むらさき」を開催、油彩画シリーズ「紫・むらさき」を発表。85年7-8月、北九州市立美術館にて「中西夏之 Painting 1980―85」展を開催。1989(平成元)年4月、西武美術館にて「中西夏之展」を開催。同年4月、筑摩書房より美術論集『大括弧 緩やかにみつめるためにいつまでも佇む、装置』を刊行。95年、愛知県美術館にて「中西夏之-へ」を開催。同年11-12月、神奈川県立近代美術館にて「着陸と着水 舞踏空間から絵画場へ 中西夏之展」を開催。96年4月、東京藝術大学美術学部絵画科教授となる。97年1-3月、東京都現代美術館にて「中西夏之展―白く、強い、目前、へ」を開催。2002年、名古屋市美術館にて「中西夏之«柔らかに、還元»の絵画/思索」展を開催。同年、愛知県美術館、愛媛県立美術館にて「中西夏之展 広さと近さ-絵の姿形」を開催し、絵画作品の大規模な回顧展となった。2003年、東京藝術大学大学美術館にて「二箇所-絵画場から絵画衝動へ―中西夏之展」を開催、油彩画の他、授業のドキュメントや資料を出品。同年、同大学教授を退官。2004年、倉敷芸術科学大学芸術学部教授となる。07年に退任。2008年4月-5月、渋谷区立松濤美術館にて「中西夏之新作展 絵画の鎖・光の森」を開催。2012年10月-13年1月、DIC川村記念美術館にて「中西夏之 韻 洗濯バサミは攪拌行動を主張する 擦れ違い/遠のく紫、近づく白斑」展を開催。 60年代の「ハプニング」など反芸術的な活動から始ったが、70年代の「山上の石蹴り」のシリーズから、「紫・むらさき」のシリーズを経て、晩年まで描く自身の身体性を強く意識して、平面に向き合うという「絵画」表現の本質を追求した、現代絵画において類まれな画家であったといえる。

村井修

没年月日:2016/10/23

読み:むらいおさむ、 Murai, Osamu*  写真家の村井修は10月23日、急性心不全のため東京都内の病院で死去した。享年88。 1928(昭和3)年9月27日、愛知県知多郡(現、半田市)に生まれる。愛知県立第七中学校(現、愛知県立半田高等学校)を経て、50年東京写真工業専門学校(現、東京工芸大学)を卒業し、写真の仕事を始めた。初期より建築、彫刻などの撮影にとりくみ、建築雑誌や美術雑誌のための撮影を担当。とくに建築家の丹下健三や白井晟一、彫刻家の流政之、佐藤忠良、澄川喜一らの作品を多く手がけ、57年には流の作品をテーマとした個展「カメラでとらえた彫刻と空間」(新宿風月堂)を開催。67年には『LIFE』誌の連載テーマ「家族」の日本編を担当した。 早くから建築写真の第一線で活躍した村井だが、建築や彫刻といった造型物だけでなく、それらが置かれた空間、さらには風土や暮らしといった周囲の環境にも目を向けた独自の作風は高い評価を受けた。一貫してフリーランスの写真家として、最晩年まで約60年にわたり国内外での撮影にとりくみ、また68年から1990(平成2)年まで母校(東京写真大学・東京工芸大学)の講師として後進の指導にあたった。 その仕事は『旧帝国ホテルの実證的研究』(明石信道著、東光堂、1972年、のち写真・図版版、1994年)以降、単著もしくは写真を担当した共著として書籍にまとめられ、その主なものに『丹下健三 建築と都市』(世界文化社、1975年)、『白井晟一(現代の建築家)』(鹿島出版会、1975年)、『金壽根(現代の建築家)』(鹿島出版会、1979年)、『写真都市』(用美社、1983年)、『世界の広場と彫刻』(現代彫刻懇談会、中央公論社、1983年)、『石の記憶』(リブロポート、1989年)、『前川國男作品集 建築の方法』(美術出版社、1990年)、『そりのあるかたち 澄川喜一作品集』(平凡社、1996年)、『パリ・都市の詩学』(河出書房新社、1996年)、『フランク・ロイド・ライトの帝国ホテル』(建築資料研究社、2004年)、『京都迎賓館』(平凡社、2010年)などがある。 このうち『世界の広場と彫刻』により83年第37回毎日出版文化賞特別賞、90年には『石の記憶』により第6回東川賞国内作家賞を受賞。また長年の業績に対し2010年日本建築学会文化賞、12年には日本写真協会賞功労賞を受賞した。14年の第14回ヴェネツィア・ビエンナーレ国際建築展では韓国館の展示に写真を提供し、金獅子賞をグループ受賞している。 死去の直前に郷里で回顧展「村井修 半田写真展 めぐり逢ひ」(半田赤レンガ建物他、半田市)が開催され、自選の代表作をまとめた写真集『TIME AND LIFE 時空』(赤々舎、2016年)が出版された。

井出洋一郎

没年月日:2016/10/19

読み:いでよういちろう、 Ide, Yoichiro*  19世紀フランス絵画を専門とする美術史研究者で、美術評論家の井出洋一郎は、10月19日に胆管がんのため死去した。享年67。 1949(昭和24)年5月8日、群馬県高崎市昭和町に生まれる。上智大学外国語学部フランス語学科を卒業後、早稲田大学大学院文学研究科に進学し、78年に同大学院博士課程を満期退学(西洋美術史専攻)。同年、山梨県立美術館学芸員に採用される。在職中、同美術館のミレー・レクションを担当した。87年に退職し、私立の村内美術館(東京都八王子市)の顧問を務めるかたわら美術評論家として活動した。また、教育面では、非常勤講師として上智大学で西洋美術史を担当し、跡見学園女子大学、武蔵野美術大学、実践女子大学で博物館学等を担当した。1992(平成4)年に東京都青梅市に開設された明星大学日本文化学部生活芸術学科の助教授として勤務。その後、東京都八王子市の東京純心女子大学芸術文化学科教授となる。2009年に府中市美術館長、15年から翌年まで群馬県立近代美術館長を務めた。 その生涯において数多くの西洋美術史、欧米の美術館をめぐる啓蒙書、ガイドブックを執筆したが、本領は山梨県立美術館学芸員の時代から取り組んでいたジャン・フランソア・ミレーに関する研究であった。その成果は、ミレーを中心とする各種展覧会の企画監修に生かされたと同時に、長年にわたり取り組んでいたアルフレッド・サンスィエ著『ミレーの生涯』(角川ソフィア文庫、2014年)の翻訳監修と、『「農民画家」ミレーの真実』(NHK出版新書、2014年)に結実した。なお、主要な著作は下記のとおりである。主要著書:『西洋名画の謎-ミステリー・ギャラリー』(小学館、1991年)『美術館学入門』(明星大学出版部、1993年)(新版、2005年)『バルビゾン派』(世界美術双書)(東信堂、1993年)『美術の森の散歩道-マイ・ギャラリートーク』(小学館ライブラリー、1994年)『マイ・ギャラリートーク 美楽極楽のこころ』(小学館ライブラリー、1998年)『フランス美術鑑賞紀行パリ編(美術の旅ガイド)』(美術出版社、1998年)『フランス美術鑑賞紀行パリ近郊と南仏編(美術の旅ガイド)』(美術出版社、1998年)『世界の博物館 謎の収集』(プレイブックス・インテリジェンス)(青春出版社、2005年)『カラー版 聖書の名画を楽しく読む』(中経出版、2007年)『カラー版 ギリシャ神話の名画を楽しく読む』(中経出版、2007年)『絵画の見方・楽しみ方-巨匠の代表作でわかる』(日本文芸社、2008年)『聖書の名画はなぜこんなに面白いのか』(中経出版、2010年)『ギリシャ神話の名画はなぜこんなに面白いのか』(中経出版、2010年)『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』(中経出版、2011年)『印象派の名画はなぜこんなに面白いのか』(中経出版、2012年)『ルネサンスの名画はなぜこんなに面白いのか』(中経出版、2013年)『ミレーの名画はなぜこんなに面白いのか』(中経出版、2014年)『「農民画家」ミレーの真実』(NHK出版新書、2014年)アルフレッド・サンスィエ著、井出洋一郎監訳『ミレーの生涯』(角川ソフィア文庫、2014年)『名画のネコはなんでも知っている』(エクスナレッジ、2015年)『知れば知るほど面白い聖書の“名画”』(KADOKAWA、2016年)

後藤純男

没年月日:2016/10/18

読み:ごとうすみお、 Goto, Sumio*  日本画家の後藤純男は10月18日、敗血症のため死去した。享年86。 1930(昭和5)年1月21日、千葉県東葛飾郡関宿町木間ヶ瀬(現、野田市木間ヶ瀬)の無量寿院に、真言宗住職であった父幸男、母喜代の間に8人兄弟の次男として生まれる。32年12月埼玉県北葛飾郡金杉村(現、松伏町)へ転居。36年金杉尋常高等小学校(現、松伏町立金杉小学校)へ入学、小学校時代より絵を描くことを好み、休み時間には校庭で白墨や〓石で絵を描いていたという。42年真言宗豊山派の豊山中学校(現、日本大学豊山中学校)へ入学。同校在学中に真言宗僧としての修業を開始する傍ら、画家になることを考え始める。45年埼玉県立粕壁中学校(現、埼玉県立春日部高等学校)へ転入。美術部に入り、美術教師の松田、長坂、また近所に住んでいた日本画家、伊藤青郊に絵の手ほどきを受ける。46年3月同校卒業後、東京美術学校を受験するも失敗。青郊の師、川崎小虎の紹介で山本丘人に師事し、本格的に絵の勉強をはじめる。47年再び東京美術学校を受験するも失敗、学制変更により受験資格を失い進学を断念する。4月には埼玉県川辺小学校の教員となり、翌年より3年間埼玉県葛飾中学校教師を務めた。その傍ら、49年師である丘人の紹介で日本美術院同人の田中青坪に師事。翌50年4月第5回日本美術院小品展に「田園風景」で初入選を果たす。しかし秋の院展では落選がつづき、52年9月第37回院展に「風景」で初入選を果たした。この間、埼玉県北葛飾郡宝珠花村立宝珠花中学校、千葉県川間村立川間中学校(現、野田市立川間中学校)などで教鞭を執ったが、院展入選を機に画家として身を立てる決意をし、教師生活を終える。54年3月第9回小品展出品の「残る雪」で奨励賞受賞(10、18、21、24~27回でも受賞)。9月の第39回院展へは「灯ともし頃」を出品し院友に推挙される。この頃の作品は田園や村落など、身近な風景が題材とされた。55年頃からは関西や四国の真言宗寺院などへ繰り返し写生旅行に出かけ、入念なスケッチを積み重ねる。また60年頃からは北海道各地へ写生旅行に出かけ、約10年にわたり同地へ通い続けた。60年11月田中恂子と結婚。62年9月第47回院展出品の「懸崖」で奨励賞受賞(51~53、55、57、58回でも受賞)。63年4月第18回春季展へ「宵」を出品、この頃より北海道の層雲峡を中心とした渓谷や滝の連作が開始される。色数を抑え、ゴツゴツとした岩や鋭く刺々しい樹木など、やや抽象化されたモチーフで画面が構成され、神秘性や峻厳さの感じられる作風を示した。65年9月第50回院展へ「寂韻」を出品、日本美術院賞受賞(54回でも受賞)。特待に推挙される。69年4月第24回春季展へ「閑影」を出品。以後奈良や京都の古寺を題材に、大気や光の変化によって見せる表情を捉えた作品を発表する。70年9月第4回現代美術選抜展に「淙想」(第54回院展、1969年)が選抜される(以後も7、11、21回に選抜)。74年2月日本美術院同人推挙。76年9月第61回院展へ出品した「仲秋」で文部大臣賞を受賞。10月にはギャラリーヤエスにて初の個展を開催。79年7月中国へ巡回した「現代日本絵画展」の代表団のひとりとして初めて訪中、以後毎年のように中国へ出かける。80年2月日本美術院評議員に推挙。3月第2回日本秀作美術展に「晩鐘室生」(第64回院展、1979年)が選抜される(以後4~15、18、20、22回にも選抜)。82年9月第67回院展へ北京の天壇祈年殿を描いた「雷鳴」を出品、以後中国の広大な自然や田園、民家などをモチーフにした作品を発表する。同年中国・西安美術学院名誉教授となる。86年9月第71回院展へ出品した「江南水路の朝」で内閣総理大臣賞受賞。87年12月福岡教育大学(美術学科)の非常勤講師となる(12月~1988年3月、同年10月~89年3月まで)。88年4月高野山真言宗東京別院の落慶を記念し、襖絵24面を制作、奉納する。また1993(平成5)年には奈良・長谷寺、99年には東京・高幡不動尊金剛寺の襖絵も揮毫した。88年10月東京藝術大学美術学部の教授となり、97年3月退官、2016年名誉教授となる。91年6月日本美術院監事。92年3月第47回春の院展へ「斑鳩立秋」を出品、この頃より再び日本の風景を題材とした作品が多くなる。とりわけ2000年代以降は大和の古寺が見せる四季折々の表情を多く描いた。95年5月フランス・パリにて個展(三越エトワール)開催。97年9月北海道空知郡上富良野町に後藤純男美術館を開館。00年4月日本美術院理事となる。また同年3月には埼玉県北葛飾郡松伏町より名誉町民の称号が、11月には北海道空知郡上富良野町より社会貢献賞が贈られる。01年1月中国・西安美術学院に後藤純男工作室落成。06年旭日小綬章綬章。16年6月「大和の雪」(第97回院展、12年)で第72回日本芸術院賞・恩賜賞を受賞。また同年には北海道空知郡上富良野町特別名誉町民、千葉県流山市名誉市民となった。

富山治夫

没年月日:2016/10/15

読み:とみやまはるお、 Tomiyama, Haruo*  写真家の富山治夫は10月15日、肺がんのため死去した。享年81。 1935(昭和10)年2月25日、東京市神田区(現、東京都千代田区)に生まれる。中学卒業後すぐに働き始め、のち都立小石川高校定時制に学ぶが57年に中退。独学で写真技術を習得し、60年『女性自身』誌の嘱託写真家となる。その後朝日新聞出版写真部に移り、嘱託としてさまざまな撮影に従事。64年から『朝日ジャーナル』誌上で連載の始まった「現代語感」の写真を担当。世相を反映した新聞等の記事の見出しから選ばれた漢字二文字の言葉をテーマに、大江健三郎や安倍公房らが担当したエッセーと写真とによる社会時評で、富山はこの連載に発表した写真により評価を高め、65年第9回日本写真批評家協会賞新人賞を受賞した。また66年「現代写真の10人」展(国立近代美術館、東京)にも同作を出品。この年にフリーランスとなり、以後、国内外でさまざまな取材撮影を行う。それらの成果は主に雑誌、新聞等に発表された他、写真集としてまとめられたものも多い。その主なものに、『現代語感』(中央公論社、1971年)、『人間革命の記録』(写真評論社、1973年、石元泰博との共著)、『佐渡島』(朝日新聞社、1979年)、『京劇』(全2巻、平凡社、1980年、杉浦康平他との共著)、『禅修行』(曹洞宗宗務庁、2002年)、『現代語感 OUR DAY』(講談社、2004年)などがある。 同時代の社会への批評的な視点にもとづく「現代語感」シリーズはライフワークとして続けられ、78年には個展「JAPAN TODAY 現代語感」(インターナショナル・センター・オブ・フォトグラフィー、ニューヨーク)を開催、90年代には『月刊現代』(講談社)に「新・現代語感」を連載、2008(平成20)年には個展「現代語感OUR DAY:1960―2008」(JCIIフォトサロン、東京)が開催された。その一方で、地方の風土や伝統文化を主題にとりくまれた作品への評価も高く、第9回講談社出版文化賞(1978年、『日本カメラ』連載の「佐渡」に対し)、第30回日本写真協会賞年度賞(1980年、写真集『佐渡島』に対し)、芸術選奨文部大臣新人賞(1981年、写真集『京劇』に対し)などの受賞がある。佐渡の長期取材を通して同地で昭和初期に活動した写真家近藤福男のガラス乾板に出会い、それらをもとに編纂した写真集『近藤福雄写真集:佐渡万華鏡:1917―1945』(郷土出版社、1994年)を出版、同書により第45回日本写真協会賞文化振興賞(1995年、財団法人佐渡博物館と共同受賞)を受賞した。また一連の功績に対し、03年に紫綬褒章、12年に旭日小綬章を受章した。

吾妻兼治郎

没年月日:2016/10/14

読み:あづまけんじろう、 Azuma, Kenjiro*  彫刻家の吾妻兼治郎は10月14日、イタリア、ミラノの自宅で死去した。享年90。 1926(大正15)年3月12日、山形県山形市銅町に生まれる。生家は代々青銅鋳造業を営んでいた。兼治郎は少年期から祖父や父の仕事をみながら粘土で動物などをつくっていた。1943(昭和18)年海軍予科練に入り、鹿児島県鹿屋海軍航空隊で訓練を受けていたが敗戦、45年9月故郷に戻る。47年山形東高等学校の定時制で学びながら、彫刻家をめざすようになる。当時、山形美術館学芸員の木村重道の指導があった。49年東京藝術大学美術学部彫刻家の第1期生として入学。木村の紹介で在学中は美術評論家の今泉篤男宅に書生として住み込む。53年第2回日本国際美術展で展示されたイタリア現代彫刻、特にマリノ・マリーニに魅了される。53年新制作展に「オランダの水夫」など3点が初入選する。54年東京藝大に新設された専攻科へ進み、56年同大副手となる。 吾妻は今泉の薦めもあり、マリーニに彫刻を学ぶことをめざす。そのためにはイタリア政府奨学金を獲得することが必要で、語学に励み、56年9月念願のミラノにわたる。国立ブレラ美術学校彫刻科マリノ・マリーニ教室には世界各国から学生17名が在籍していた。マリーニは助手を務める実力をもつ吾妻に「日本の優れた伝統」を大切にするよう説く。58年山形市の丸久百貨展で初個展。4年間マリーニ風の造形を手掛けていた吾妻は、師の影響から脱するべく苦闘し、60年冬、薪棚からくずれた木っ端の形から代表作となる「無(MU)」のシリーズが誕生する。61年4月ミラノのミニマ画廊で個展を開催(ブロンズ5点、石膏3点、油彩画8点)。個展は好評で、以後ローマやベルギー、スペイン、スイスなどの展覧会に招待され、吾妻のイタリアでの制作は活発になる。64年ドクメンタ3に出品。65年イタリアのビエラをはじめとして4カ所で個展を開催する。68年国際ジュエリー展(チェコスロバキア)で金賞受賞。69年第19回国際彫刻ビエンナーレ(フィレンツェ)で金賞受賞。71年サンタ・マルガレーテン国際彫刻シンポジウム(オーストリア)に参加。74年現代彫刻センター(東京)他で個展。同年毎日芸術賞受賞。83年個展(ドルドレヒト美術館、オランダ)、立体55点、リトグラフ8点などを展示。84年4月、山形市庁舎前に«MU1000»(高さ4m)を設置。以後、スランプに陥り、翌年「有(YU)」シリーズを手掛け始める。88年7月、吾妻兼治郎展が西武美術館(池袋)を皮切りに国内5館を巡回、彫刻85点をはじめ総165点が展示。1990(平成2)年ロレンツェリ・アート(ミラノ)で個展、42点を展示。95年紫綬褒章受章。 96年ミラノ市からアンブロジーノ文化功労銀賞授与。99年から東京藝大客員教授(2002年まで)。同年「YU847」で第30回中原悌二郎受賞。2010年吾妻兼治郎1948―2010展(マテーラ市、南イタリア)が市内の石窟や美術館で開催、彫刻102点、デッサン50点などからなる大回顧展となる。晩年はマリーニ夫人から譲られた師のアトリエで制作をした。イタリアでの活動については、村山鎮雄著『彫刻家吾妻兼治郎の歩み』(私家版、2017年)が詳しい。

小嶋一浩

没年月日:2016/10/13

読み:こじまかずひろ、 Kojima, Kazuhiro*  建築家の小嶋一浩は10月13日食道癌のため死去した。享年57。 1958(昭和33)年12月1日、大阪に生まれる。82年に京都大学工学部建築学科を卒業後、東京大学大学院修士課程にて原広司研究室で学ぶ。86年、同大学博士課程在学中に、研究室の同級生と建築家集団「シーラカンス」を共同設立(1998年に「シーラカンスアンドアソシエイツ」に改組、2005年に「CAt(シーラカンスアンドアソシエイツトウキョウ)」と「CAn(シーラカンスアンドアソシエイツナゴヤ)」へ更に改組)。個人が設計を指揮するのではなく、集団で議論を重ねながら設計を進めるという「コラボレイション」の方法を取る。 特に学校建築の分野で活躍し、代表作に千葉市立打瀬小学校(1995年)、千葉市立美浜打瀬小学校(2006年)、宇土市立宇土小学校(2011年)、流山市立おおたかの森小・中学校・おおたかの森センター・こども図書館(2015年)などがある。 千葉市立打瀬小学校では、児童が自発的な行為を展開できる空間を生み出すことを試み、教室・ワークスペース・中庭・アルコーブ・パスをひとまとめにした単位を校舎敷地に散りばめ、その間に多様な使い方ができる外部空間を設計した。オープンスクール(個々の生徒の興味・適性・能力に応じた教育制度)の概念を具体化した先鋭的な設計が評価され、1997(平成9)年に日本建築学会賞(作品)を受賞した。 その10年後、同じ幕張新都心地区に計画した千葉市立美浜打瀬小学校では、この概念をさらに発展させ、児童の経路の在り方、音・温熱環境、多様な学習形態、将来の施設転用を重視した設計が行われた。建物は2枚の厚いスラブから構成され、その上に教室・プール・アリーナ・ウッドデッキなどを配置し、流動的で多様な居場所を許容する空間を作り上げた。 熊本県宇土市立宇土小学校では長いスラブにL形の壁を配置することによって開放的な空間を作り上げ、温暖な立地に配慮して、全開可能な開口部を設置するなど、風通しを考慮した設計が行われている。この校舎は2013年に村野藤吾賞、14年に日本建築家協会賞を受賞している。 L形の壁によって作り上げられた流動的な空間構成と開放的な空間を実現する全開可能な開口部という要素は、地域施設との複合である「流山市立おおたかの森小・中学校・おおたかの森センター・こども図書館」で引き続き設計の要点となった。さらに、校舎と隣接する街と森との関係性に配慮した設計が行われ、「建物のどの場所からも、この森や周辺の街並みが感じられるような開放的な空間が実現されていることは、この規模を思えば驚くべきことである」と評価され、16年に日本建築学会賞(作品)を受賞した。 この他、人間の行為と動線を手掛かりにして、多様な使われ方ができる空間を生み出すことを中核の概念として、ビッグハート出雲(1999年)などの公共施設、スペースブロック上新庄(1998年)などの集合住宅の設計を手掛けた。 大学での教育にも尽力し、2005~11年に東京理科大学教授、11年から横浜国立大学大学院Y-GSA教授を務めた。

大森運夫

没年月日:2016/09/29

読み:おおもりかずお、 Oomori, Kazuo*  日本画家で創画会会員の大森運夫は9月29日、老衰のため死去した。享年99。 1917(大正6)年9月23日、愛知県八名郡三上村(現、豊川市三上町)に農家の長男として生まれる。1937(昭和12)年愛知県立岡崎師範学校(現、愛知教育大学)を首席で卒業し、小学校教員となる。その後、40年広島高等師範学校(現、広島大学)に進むが、翌年肺結核のため中退。帰郷して療養生活を送った後、再び郷里で教鞭をとるようになるが、50年、当時新進作家として脚光を浴びていた中村正義と出会い、その影響で日本画を描き始める。翌年中村正義、平川敏夫、星野眞吾、高畑郁子らと画塾・中日美術教室を開設。51年第15回新制作展に「校庭」が初入選、また同年第7回日展に「稲荷前」が初入選するも、以後は新制作展で入選を重ね、骨太な筆致で風景や人物を描く。58年中部日本画総合展で最高賞を受賞。61年には教員を退職、翌年神奈川県川崎市に移り住んでいた中村正義の宅地内に転居し、画業に専念。同年第26回新制作展で、東京の山谷周辺を根城にする日雇労務者や浮浪者を題材とした「ふきだまり」三連作が新作家賞を受賞。66年第1回神奈川県展で、“オッペシ”と呼ばれる漁婦を主題とした「九十九里」が大賞を受賞、その賞金でフランス、スペイン、モロッコ、スイス、イタリア、ユーゴスラビアの6カ国を巡り、ロマネスク美術に啓発されて人物表現のデフォルメを押し進める。66年第30回新制作展「九十九里浜」二連作、67年第31回「モロッコ」三連作、70年第34回展では山形県庄内地方に伝わる黒川能に取材した「灯翳」「爾宴」が新作家賞を受賞し、71年新制作協会会員となった。以後も同展に「能登神雷譜」二連作(第36回展)、「佐渡冥界の譜」(第37回展)等、土俗的な郷愁を宿した作品を発表する。75年第3回山種美術館賞展で「山の夜神楽」が大賞を受賞。74年新制作協会日本画部会員による創画会結成に参加し、以後会員として活動。土俗祭儀、東北地方の“おばこ”、人形浄瑠璃、ロマネスク美術等、そのモティーフは変遷を辿るが、一貫して人間の根底にひそむ強い生命力や祈りをテーマとし続けた。85年には当時の創画会中堅作家であった池田幹雄、上野泰郎、小野具定、小嶋悠司、滝沢具幸、毛利武彦、渡辺學とともに地の会を結成、その第1回展から最終回の第12回展(1996年)まで毎回出品する。1992(平成4)年豊橋市美術博物館で初の回顧展を開催。96年には求龍堂より『大森運夫画集』が刊行。晩年には作品を豊川市桜ヶ丘ミュージアムに寄贈し、2010年に同館にて受贈記念展が開催される。亡くなる年の春には百寿を記念し、豊橋市のほの国百貨店で新作を中心とした個展が開催されたばかりであった。

塗師祥一郎

没年月日:2016/09/21

読み:ぬししょういちろう、 Nushi, Shoichiro*  雪深い北国を描いた風景画で知られる日本芸術院会員、日展顧問の洋画家塗師祥一郎は9月21日、病気のため死去した。享年84。 1932(昭和7)年4月24日、石川県小松市に陶芸家塗師淡斉の長男として生まれる。誕生間も無く父の仕事のため埼玉県大宮に転居するが、戦況悪化により小松に疎開。47年北国現代美術展に「静物」を出品して吉川賞を受賞し、画家を志す。50年金沢美術短期大学に入学。同学に集中講義に来ていた小絲源太郎に出会う。52年に第8回日展に「展望」で初入選。同年第38回光風会展に「構内」「いこい」で初入選。同年、大学を卒業し、大宮に転居して小絲源太郎に師事する。62年第48回光風会展に瀬戸の採土場に取材した「土」を出品しクサカベ賞受賞。63年光風会会友となる。64年から約10年間、ほぼ毎年丸善画廊で個展を開催。60年代後半から北国の集落や雪景を描くようになり、66年第52回光風会展に「北の町」を出品して光風会会友賞を受賞、同年同会会員となる。同年第9回日展に「雪景」を出品し特選受賞。67年フランス、スペイン、イタリアを2ヶ月間かけて巡遊。それまで憧憬を持って見ていた西洋の風景画に描かれているのが日常的風景であったことを知り、日本の風景を描くことの意義を確認する。同年光風会を退会し、翔陽会を結成して、第1回展から10回展まで出品を続ける。71年第3回日展に越後の集落を描いた「村」を出品して特選受賞。翌年から日展出品依嘱となり、77年日展会員となる。同年、岡田又三郎らを中心に設立された日洋展に参加し、87年同会常任委員となる。82年第14回日展に「待春の水辺」を出品して日展会員賞受賞。1990(平成2)年日展評議員となる。97年第29回日展に雪深い山間の集落を描いた「山村」を出品して文部大臣賞受賞。2003年、前年の第34回日展出品作「春を待つ山間」で日本芸術院賞を受賞し、日本芸術院会員となる。05年フランス国民美術協会の招待によりルーブル美術館のカルーゼル・ド・ルーブルで作品を展示。2007年より埼玉県美術家協会会長を務めた。74年からほぼ毎年上野松坂屋で「塗師祥一郎洋画展」を開催し、82年、89年、09年には三越で展覧会を開催している。また、没後間もない16年10月4日から16日まで、埼玉県立近代美術館で同館所蔵品による「塗師祥一郎追悼展」が開催された。『塗師祥一郎画集1947―2006』(求龍堂、2006年)が刊行されている。

加藤九祚

没年月日:2016/09/11

読み:かとうきゅうぞう  国立民族学博物館名誉教授で人類学者の加藤九祚は、仏教遺跡の発掘調査で滞在していたウズベキスタンの病院で9月11日(日本時間9月12日)死去した。享年94。シルクロードに憧れ、シルクロードを遊歴し、ついに生涯発掘の場をアムダリヤ河畔に見いだし、その現場で生涯を終えた学究の歩みは、波瀾の歴史を背負う苦難の道そのものであった。 1922(大正11)年5月18日、韓国、慶尚北道漆谷(テルコク)郡若木面(ヤンモクミヨン)に生まれる。1932(昭和7)年、宇部で働く兄をたよって来日。山口県宇部市立宇部小学校に入学、韓国姓李を加藤に改称。その後、乙種長門工業学校を経て39年に宇部鉄工所に入社する。太平洋戦争が始まった41年に横浜に移住、横浜第一中学校で高等学校入学者検定試験を受け合格。42年、上智大学予科に入学し、ドイツ語を学び、翌43年に予科を仮卒業する。44年、仙台の工兵第二連隊に志願入隊し、陸軍工兵学校(松戸)を経て工兵見習士官となり、関東軍の第101連隊に配属され、ついで第139師団の工兵連隊に転属する。45年、満州東南部敦化飛行場で武装解除を受け、ソ連軍の捕虜としてシベリアの収容所を転々とする。50年に明優丸で舞鶴に上陸、帰国をはたす。翌51年に上智大学文学部ドイツ文学科に復学し、『リルケ詩論』を学ぶ。53年、卒論『ロシアにおけるゲーテ像』(ドイツ語)を書き上げ卒業。恩師で神学者の小林珍雄の紹介によって平凡社に入社し、『世界百科辞典』などの編集に関わる一方で『シベリアの歴史』(紀伊國屋新書、1963年)や訳書『西域の秘宝を求めて』(新時代社、1969年)を出版した。71年に平凡社を退職するが、その直前に出版された岡正雄の編になるネフスキーの論集『月と不死』(東洋文庫・185)の末尾に「ニコライ・ネフスキーの生涯」という長大な解説を付した。この解説が5年後熟成し、『天の蛇 ニコライ・ネフスキーの生涯』(河出書房、1976年)として結実し、大佛次郎賞に輝いた。退職したあと念願のシルクロードの旅にでる。旅の模様は『ユーラシア文明の旅』(新潮選書、1974年)に記された。この旅の途次に出合った梅棹忠夫に招かれて75年に国立民俗博物館教授に就任し、ソ連とモンゴルの民俗学標本収集と研究に従事する。83年に論考「北東アジア民族学史の研究―江戸時代日本人の観察記録を中心として」によって大阪大学学術博士号を取得する。86年、国立民族博物館を定年退職した後、相愛大学人文学部教授に就任し、ついで88年、創価大学文学部教授となり、創価大学シルクロード学術調査団を組織し、同学シルクロード研究センター長に就任する。その間にウズベキスタンとキルギスで発掘調査をおこない、日本の中央アジアにおける発掘調査活動の基盤をつくる。1995(平成7)年に『中央アジア歴史群像』(岩波新書)を上梓。98年に創価大学を退職すると、自費でウズベキスタン科学アカデミー考古学研究所と共同でテルメズ郊外のカラテパの仏教遺跡の発掘に着手する。意気に賛同した奈良薬師寺が「テルメズ仏教跡発掘基金」を創設して支援をした。この支援は逝去の日を迎えるまでつづけられた。 99年、南方熊楠賞を受賞。2001年、加藤九祚が一人で編み上げる年報『アイハヌム』(東海大学出版)を創刊する。ロシアや中央アジアに関する発掘活動の成果や活躍する考古学者の自伝、希少な論文・書籍を自在に翻訳紹介するこの活動は編集者の退職によって幕を下ろす12年までつづいた。その間09年に、この活動は「アカデミズムの外で達成された学問的業績」として高く評価されパピルス賞が贈られた。加藤九祚が古曳正夫・前田耕作とともに「オクサス学会」を創設したのもこの年である。「自由な発想と囚われない言葉、憶見や仮説の交錯からこれまでにはないなにものかが泡立ち始める思考の活動の場を生みだす」ことが狙いであった。10年、国際シンポジウム「ウズベキスタンの古代文明及び仏教―日本文化の源流を尋ねて」を東洋大学と奈良大学の協力をえて東京と奈良で開催する。同年、「ウズベキスタンにおける考古学を通じた学術交流の促進」によって外務大臣表彰を受けた。11年にはエドヴァルド・ルトヴェラゼの雄作『考古学が語るシルクロード史』(原題:中央アジアの文明・国家・文化)を翻訳出版(平凡社)、同年、瑞宝小綬章を受ける。書き下ろし『シルクロードの古代都市―アムダリヤ遺跡の旅』(岩波新書、2013年)が最後の著作となった。 16年9月3日、立正大学ウズベキスタン学術調査隊とともに終生愛してやまなかったカラテパへ入ったのが最後の旅となった。「オクサス学会紀要」3号(2017年6月)はその冒頭に、「労働者であり、学究であり、思索の人であり、行動の人であり、夢見る人であり、文筆の人であり、大地を掘り下げる人であり、人間をこよなく愛する人であり、酒盃に詩の言葉を浮かべた人であり、ひたすら人びとに愛された人」加藤九祚に追悼の言葉を捧げている。

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