本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





徳田信保

没年月日:1995/03/06

読み:とくだしんぽ  春陽会会員の洋画家徳田信保は、3月6日午後10時5分、老衰のため名古屋市内の病院で死去した。享年86。明治41(1908)年10月25日に愛知県名古屋市に生まれ、昭和2(1927)年、愛知県第一師範学校を卒業、横井礼以に師事、同14年の第3回新文展に「城郭」が初入選した。戦後になると、春陽会会員の水谷清に師事、同23年の第25回春陽会展に初入選、以後同展に出品をつづけ、同35年に会員となった。ほかに、同46年から同52年まで、中部国際形象展に招待出品し、同56年まで稲沢女子短期大学教授として指導にあたっていた。奔放で流動的な線と暖かい色彩が共鳴するような、ナイーヴで叙情的な画風の作品を毎回出品していたが、平成7年の第72回展には、遺作として「川と牛」が出品された。

松本富太郎

没年月日:1995/02/13

読み:まつもととみたろう  近代美術協会代表の洋画家松本富太郎は2月13日午後6時48分、急性心筋こうそくのため東京都新宿区の社会保険中央総合病院で死去した。享年89。明治38(1905)年2月24日大阪此花区西九条上通1丁目120番地に生まれる。大阪市立堂島商業高等学校を卒業。青木大乗に絵画を学び、昭和3(1928)年に上京して田辺至に師事。同4年第10回帝展に「湖畔の道」で初入選。翌年も「農村の或る日」で入選する。同10年同11年文展鑑査展に「台湾の村里」で入選する。昭和10年代に台湾、満州にそれぞれ半年づつ滞在。戦後も日展に参加。同28年第9回日展に「アトリエのポーズ」を出品して岡田賞、翌年第10回日展に「みみずくを配す」を無鑑査出品する。同31年第12回日展に「山」を出品して特選を受賞する。同30年に川島理一郎、和国三造らとともに新世紀美術協会の創立に関わって活動。同31年同回第1回展に「裸婦」を出品して黒田清輝賞、同36年第6回同展で川島理一郎賞を受賞。同36年日展を退会し、翌37年新世紀美術協会をも退く。同40年3月「純粋な制作活動を」提唱して近代美術協会を創立し、同年10月大阪市立美術館で同会の第1回展を開催する。このころ、作風は具象表現から抽象へと移行。同40年現代日本美術展に出品。同47年初めて渡欧し5年間滞在する。滞欧中の同48年ル・サロン展に出品して受賞、フランス国際展金賞、フランス共和党展金賞、同49年フランス国際展会員に推挙される。また同49年ベルギー・オスタンド国際展、同51年モナコ・モンテカルロ国際展など欧州各国の美術展に出品。同51年フランス・オーヴェルニュー国際展に出品してグランプリを受賞する。同年帰国。同63年画業60 年を記念して画集『松本富太郎』(松本富太郎画集出版刊行会)を刊行する。また、同年の近代美術協会の創立25周年記念展に代表作約30点を特別陳列する。初期には、写実にもとづいた具象画を描いたが、日展退会以後は抽象表現を好み、渡欧後は西洋との対比による東洋の認識から「陀達」「斎宮女御」「存在と無」などの作品を描いた。没後の平成7年第32回近代美術協会展で追悼展が行われた。

秋元松子

没年月日:1995/01/30

読み:あきもとまつこ  光風会名誉会員の洋画家秋元松子は、1月30日午前0時5分、急性腎不全のため千葉県流山市の流山病院で死去した。享年95。明治32(1899)年6月4日、当時の千葉県東葛飾郡流山町に生まれ、跡見女学校を卒業、大正10(1921)年頃より富田温一郎に師事し、ついで岡田三郎助に師事した。昭和6(1931)年の第12回帝展に「盛夏読書」が初入選、同9年の第15回帝展に「閑庭」、同17年の第5回新文展に「早春池畔」がそれぞれ入選した。戦後は、同21年の第2回日展から出品をつづけ、同32年の第13回日展に出品した「静物」が特選となった。この作品は、形態の解釈や筆致など主観性のつよい表現ながら、色彩は中間色を基調に、美しくひびきあったものであった。また、白日会、朱葉会などにも会員として出品していたほか、同21年に光風会会員となり、同展にも出品をつづけ、平成7年の第81回展には、奔放な表現による「枯葉と土器と」が、遺作として出品された。

津高和一

没年月日:1995/01/18

読み:つたかわいち  大阪芸術大学名誉教授の洋画家津高和ーは1月17日の兵庫県南部地震のため倒壊した家の下敷きになって死去したことが、18日に確認された。享年83。明治44(1911)年11月1日兵庫県西宮市高木西町9番6号に生まれる。昭和2(1927)年、詩作を始め、個人雑誌「貌」を創刊。同7年篠山衛生病院に衛生兵として入隊し、翌年ハルピン陸軍病院に派遣される。同11年より13年まで結核のため療養生活を送る。この間同12年詩誌「神戸詩人」の同人となる。同14年頃より絵にも興味を抱き、大阪中之島洋画研究所で学ぶ。同18年召集により満州に派遣される。戦後同21年第1回行動美術協会展に「黄昏の車庫裏」を出品。同25年行動美術関西展に出品して友山荘賞を受賞。同26年第6回行動展に「母子像」を出品して、評論家今泉篤男などにより注目される。同27年第7回行動展に「埋葬」を出品して同会会員となる。翌年第4回秀作美術展に「埋葬」を出品するとともに第1回ゲンビ展(現代美術懇談会)に出品する。同30年大阪大丸で「詩と造形」展を開催し、第3回日本国際美術展に出品。また、同年吉原治良、須田剋太、八木一夫らと国際アートクラブ関西支部を創立。戦後のアンフォルメル運動の隆盛を背景に、書との関連などから国際的に興味を抱かれた津高の作品は同31年東西交流アメリカ巡回展、スミソニアン・インスティテューションをはじめアメリカを巡回した「日本現代美術6人展」にも出品された。同32年第4回サンパウロ・ビエンナーレに出品。同年神戸そごうで「津高和一自選展」を開催する。同33年「日本現代美術展」のヨーロッパ巡回展に出品。また同年第3回現代日本美術展で優秀賞を受ける。同34年中南米に旅行し、サンパウロ、リオデジャネイロ、ブエノスアイレスなど各地で個展を開催。同35年ニューヨークのグッゲンハイム賞美術展に出品する。同37年より56年まで毎年秋自宅の庭で「対話のための作品展」を開く。同37年渡欧しミラノ、トリエステで個展を開催。同40年行動美術協会を退会する。また同年作品・エッセー集『美の生理』(天秤パブリックス)を刊行。同43年大阪芸術大学美術学科教授となる。同44年および45年、ブラジルへ旅行し、各地で個展を開催。同46年ブラジルへ旅行しサンパウロに滞在する。同50年兵庫県立近代美術館で「抽象の四人-須田剋太・津高和一・元永定正・白髪一雄」展、同54年米国ワシントンのフィリップス美術館で「岡田謙三・篠田桃紅・津高和一」展、同年大阪グランドギャラリーで「岡本太郎・元永定正・津高和一」展、同58年和歌山県立近代美術館で「津高和一・泉茂・吉原英雄」展、同63年東京池袋西武百貨店で「透明な抽象空間-津高和一展」が開催される。詩画集『動物の舌』(亜騎保・津高和一共著)(昭和36年)、素描集『架空通信』(同51年、石版画集『無の空間』『対位する空間』(二部集、同51 年)、画と論『騙された時間』(同53年)、詩画集『鳥の眼』(同61年)、画集『津高和一作品集(もうひとつのコスモス)』(同62年)がある。1950年代の初頭までは具象画を措いたが、その頃からすでに対象の形態を簡略に線でとらえ、色面と線による画面構成を行っており、以後、それが独特の詩情ある抽象画へと展開した。同60年大阪芸術大学名誉教授となり、平成3年国立国際美術館で大規模な回顧展を開催。西宮大谷記念美術館で個展を開催する準備を進めている中での被災であった。

清水錬徳

没年月日:1995/01/13

読み:しみずれんとく  独立美術協会会員の洋画家清水錬徳は、1月13日午後8時、急性心不全のため新宿区の聖母病院で死去した。享年90。明治37(1904)年2月1日石川県小松市龍助町に生まれる。本名貞吉。大正15(1926)年、上京して本郷絵画研究所で岡田三郎助、満谷国四郎に師事し、昭和3(1928)年同研究所を修了。同4年の第4回一九三O年協会展に「久世山辺」、「郊外」が初入選、また翌年の第17回二科展に「麹町風景」が入選。同7年の第2回独立展に「ニコライ堂を望む」を初出品以来、同展に入選をかさね、同15年の第10回展では、協会賞を受賞。戦後の同25年に同協会会員となり、また東洋美術学校教授もつとめ、平成4(1992)年に同協会会員功労賞を受けた。初期から、日本的なフォーヴィスムといわれるような主観的な自然観賞による風景画を多く描き、独立展最後の出品となった平成6(1994)年の第62回展の「夏山・駒ヶ岳(日野春)」まで、雄大な景観を重厚なマチエールで表現しようとした山岳風景を描きつづけた。

佐藤亜土

没年月日:1995/01/01

読み:さとうあど  洋画家の佐藤亜土は、1月1日午後0時37分、心不全のため東京都港区の病院で死去した。享年58。昭和11(1936)年神奈川県横浜市に、画家佐藤敬、声楽家美子の長男として生まれ、同35年に慶応大学文学部美学美術史科を卒業。同37年に渡仏、以来パリで創作活動をつづけた。国内では、村松画廊、ギャルリーワタリ等で個展をかさね、同59年開催の吉井画廊の個展では、九州の装飾古墳の文様から触発されたシリーズ「古墳時代」をさらに展開し、土俗的な形態をモチーフに、明快な色彩と曲線による抽象絵画を発表した。また、同年にはグランパレ美術館、東京都美術館で開催された第10回日仏現代美術展においてフィガロ賞第一席を受賞。ほかに、写真家篠山紀信、作家の石川淳とともに版画集『巴里』を制作した。

安保健二

没年月日:1994/12/29

読み:あんぽけんじ  新制作協会会員の洋画家安保健二は12月29日午前1時30分、心不全のため横浜市鶴見区東寺尾中台の自宅で死去した。享年72。大正11(1922)年3月22日愛媛県新居浜に生まれる。昭和6(1931)年、横浜に移り住む。神奈川県立川崎中学校在学中、同校の美術部で小関利雄に師事。のち佐藤敬のアトリエで開かれていたデッサン会に通う。同17年東京美術学校油画科に入学。翌年学徒出陣し、同20年終戦をむかえて復学。同21年第1回日展に「S嬢の像」で初入選。同23年東京美術学校を卒業。同校では寺内萬治郎、小磯良平に師事した。同24年第13回新制作協会展に「黒人兵」で初入選。同27年第16回同展に「トラックと鉄屑」「壊れた自動車」を出品して新制作協会新作家賞を受賞。この頃から同30年代にかけて、工場や埋め立て地等、高度経済成長により変化していく景観をとらえている。やがて破船や船の骨組みをモティーフに、画面構成の力強い作風へと移行。同41年新制作協会会員となる。同43、44年安井賞展に出品。同47年、美術教育法研修のため渡米。同49年、英、仏に、同52年スペイン、ポルトガルに旅行。同58年ギリシャ、フランスへ、同59年スペイン、同60年フランスへ赴く。同61年オランダ、ベルギーに同62年ユーゴスラヴィアに旅行。平成元(1989)年横浜市民ギャラリーで「安保健二自選展」が開かれた。船、海、港の風景を好んで描き、おだやかで静かな趣のある作風を示した。

森田曠平

没年月日:1994/12/29

歴史に取材した作品や女性像に独自の画境を示した日本美術院同人の森田曠平は12月29日午後5時50分、心不全のため川崎市中原区の市立井田病院で死去した。享年78。大正5(1916)年4月17日京都市中京区烏丸二条下ル秋野々町に生まれる。母方の祖父茂は浜口雄幸内閣の衆議院議長や第11代京都市長をつとめ、美術品収集家でもあり、橋本関雪、土田麦僊、富田渓仙らと親交があった。10歳で結核性腹膜炎にかかるなど幼い頃から病弱で、絵や祖母のよくした能、謡曲に親しむ。昭和5(1930)年本庄尋常高等小学校を卒業し私立甲陽中学に入学するが、同7年京都府立第三中学校(現・府立山城高校)に転入。この頃より関西美術院に通い、伊谷賢蔵らにデッサンと油絵を学ぶ。同10年第l回京都市美術展洋画部に「洛北風景」で入選。東京美術学校西洋画科への進学を希望するが、病弱のため京都を離れることを許されず、京都市立絵画専門学校への入学を志して、当時京都市立美術工芸学校教師であった前田荻邨に入門する。しかし、間もなく結核が再発して進学を断念。同11年京都府立第三中学を卒業後は、独学で絵画、陶芸を制作する。同15年より小林柯白に師事して本格的に日本画を学ぶ。同18年第30回院展に「広沢の冬」で初入選。同19年安田靫彦に入門。戦後の同21年第31回院展に「比叡山」で入選し、以後同展に出品を続ける。同23年京都から小田原に転居し、翌24年より数年間、小田原市立第三中学校図画教師をつとめる。同30年横浜市に転居。翌31年多摩美術大学日本画科助教授となり、同年の第41回院展出品作「波止場」で奨励賞を受賞する。翌32年第42回院展では「磯」で再度奨励賞を受賞。同36年第46回院展では「大原女」で、同39年第49回院展では「流人島にて」で奨励賞を受賞。同40年第50回院展では「洛北仲秋」で日本美術院賞(大観賞)を受賞。同41年第51回院展に「虫あわせ」を出品して奨励賞(白寿賞・G賞)、翌年第52回院展に「歌占」を出品して奨励賞(白寿賞・G賞)、同43年第53回院展に「桜川」を出品して日本美術院賞(大観賞)と受賞を重ね、同43年日本美術院同人に推される。同48年第58回院展に「京へ」を出品して内閣総理大臣賞受賞。同51年中国を訪れ北京、西安、桂林、広州、上海等に赴く。同52年南蛮風俗を取材するためスペイン、ポルトガル、イタリアへ旅行。同53年訪欧。同54年オランダ、オーストリア、ドイツ、同55年スイス、フランス、イタリア、同56年スイス、フランス、ベルギー、同57年スイス、イタリア、イギリス、同59年スペイン、イタリア、イギリスを訪れる。同57年第67回院展に「花鎮め」を出品して文部大臣賞受賞。画集に『森田曠平』(三彩社、昭和50年)、『森田曠平文集』(大日本絵画、昭和61年)、『森田曠平自選画集 夢幻女人』(集英社、昭和54 年)、『森田曠平画文集 歴史画のこころ』(大日本絵画、同58年)などがある。

曽宮一念

没年月日:1994/12/21

元二科会会員、国画会会員として活躍し、昭和40年に失明し画業を廃したのちもエッセイスト、歌人として知られた洋画家曽宮一念は、12月21日急性心不全のため静岡県富士宮市泉町の自宅で死去した。享年101。はやくから風景画に独自の作風を示した曽宮は、明治26(1893)年9月9日東京市日本橋区漬町(現中央区日本橋浜町)に父下田喜平、母たみの子として生まれた。本名喜七。翌年、新聞社の編集長などをつとめた曽宮六佑の養子となり、同39年早稲田中学校へ入学、すでに水彩画への関心を強めており、翌年から大下藤次郎の日本水彩画会研究所へ通い大下や丸山晩霞の指導を受けた。中学卒業の同44年には赤坂溜池の白馬会研究所へ通い、同年東京美術学校西洋画科予備科に入学、同期に耳野卯三郎、寺内万治郎らがいた。美校では藤島武二、山下新太郎の指導を受け、在学中に光風会第1回展から出品、大正3年には第8回文展に「酒倉」が入選し褒状を受けた。同5年中村彝を識りその影響を受け、同年東京美術学校を卒業した。同8年、第7回光風会展に「娘」で今村奨励賞を、第9回展でも同賞を受賞した。この間、福島県石川町、兵庫県西宮町などに居住したが、同9年に上京し、翌年豊多摩郡下落合623番地にアトリエを構えた。また、同年の第8回展から二科会に出品し、同14年の第12回二科展出品作「冬日」で樗牛賞を受賞、翌年二科会会友、昭和6年二科会会員となった。ついで、昭和10年に独立美術協会会員となり、第5回独立展に「種子静物」他を発表したが、同12年には独立美術協会を離れ国画会に所属した。戦時中静岡県に疎開し、戦後は富士宮市に居を定めて制作活動を行った。同29年第1回現代日本美術展に「風の日」を出品、同展へは第4回展まで連続出品した。国画会展へも出品を続け、「雨後」(30回)、「桜島黒神」(36回)などを発表し、奔放な筆触と大胆な色調による独自の風景表現を拓いたが、同40年には緑内障による視力障害のため国画会を退会、同46年には両眼を失明し画業を廃した。この間、同33年の随筆集『海辺の熔岩』で、日本エッセイストクラブ賞を受賞するなど、すぐれた文筆の才も示した。その後は、自ら「へなぶり」と称した短歌をはじめ、詩や書に親しんだ。著作に『東京回顧』(昭和42年)、詩画集『風紋』(同52年)、『武蔵野挽歌』(同60年)などがある。また、昭和62年10月には、静岡県立美術館で画業の全容を明らかにする充実した回顧展が開催された。年譜、文献等は同展図録に詳しい。なお、本人の遺志で遺体は日本医科大学へ献体され、葬儀、告別式は行われなかった。

ベル・串田

没年月日:1994/12/02

二科会理事の洋画家ベル・串田は12月2日午前5時20分心不全のため岡山市の病院で死去した。享年81。大正2(1913)年11月20日岡山県上道郡金田村(現・岡山市金田)に串田千尋、金子の長男として生まれる。本名串田岩彦。生家は祖父の代から金田村村長をつとめていた。岡山大学教育学部の前身である岡山師範学校技能科美術部を卒業し、高等女学校教諭となる。同10年より3年聞にわたり満州、朝鮮、中国をめぐる。昭和13(1938)年第25回二科展に「少女仮睡図」で初入選したのを機に退職し、画家を志して藤田嗣治、東郷青児に師事する。戦後も二科展に出品し、昭和25(1950)年第35回二科展に「お話し」「郷愁」を出品して特待となる。同32年渡仏。同36年および37年に渡米。同38年同展に「あはれ文化」を出品して同会会友に推挙される。同36年第46回同展に「田園詩集」を出品し同会会員に推される。同38年第48回同展に「ニューヨークサーカス」「ハワイアンパラダイス」を出品して会員努力賞を受賞。同41年アメリカ、オランダ、スイス、スペイン、フランスを訪れ制作。同42年フランスを経てニューヨークに渡り制作。同44年ニューヨーク、シカゴ、ニース、カンヌに渡り制作する。同48年第58回同展に「日本讃歌」を出品して同会総理大臣賞を受賞する。以後も、欧米、オーストラリア等を訪れて制作。同55年二科会監事、同59年同会理事となった。画中に蝶を描くことを好み、すべらかなマティエール、明快な彩色で風景、人物を描き、時に童画風の作風を示した。

吉野正明

没年月日:1994/12/01

二科会評議員の洋画家吉野正明は、12月1日多臓器不全のため東京都板橋区の病院で死去した。享年81。大正2(1913)年11月17日熊本県菊池市に生まれる。台北第二師範学校を卒業。昭和16年第28回二科展に初入選、以後同展に出品を続け、同35年の二科展で特選を受け、翌年二科会会友、同41年には二科会会員となった。同57年二科展会員努力賞受賞、同59年二科会評議員となる。二科展での制作発表の他、個展も数多く開催した。二科展への出品作に「雪と古城」(第67回)、「白亜の宮殿」(70回)などがあり、同63年には広島赤十字原爆病院に「ベニスの大競艇」を寄贈した。

庫田叕

没年月日:1994/12/01

読み:くらたてつ  元東京芸術大学教授の洋画家庫叕は12月1日午後8時38分、肺炎のため東京都世田谷区の木下病院で死去した。享年87。明治40(1907)年2月7日、福岡県宗像郡福開町に生まれる。本名倉田哲介(くらた・てつすけ>。大正12(1923)年宗像中学を4年で中退。翌年上京して川端画学校に入り約3年間、人体研究等を行った。昭和4(1929)年第16回二科展に倉田哲介の名で「溜池風景」「池畔風景」を初出品。同6年第18回同展に「猫と女」「白い風景」、同7年第19回同展に「三夜荘風景」を出品する。同10年師高村光太郎の推薦により青樹社で個展を開き、翌年にも青樹社で個展を開催。同12年第12回国画会展に「松」「松小品」を庫田叕の名で初出品し、同会同人となる。翌13年第2回新文展に「松と竹」で初入選し特選受賞。翌14年第3回同展には「松」を出品して再度特選となった。官展には同15年の紀元2600年奉祝展に「牡丹」、同17年第5回新文展に「龍頭」、同19年戦時特別展に「蓮」を出品した後出品せず、国画会展のほか、同14年4月求龍堂と兜屋の共同主催による三昧堂での個展、同16年求龍堂主催による資生堂での個展等、個展を中心に作品を発表。同33年国際具象派展に出品。同35年渡欧し、主にローマに滞在して同37年帰国する。同38年東京高島屋および大阪、名古屋のフォルム函廊で滞欧の成果を示す「滞イタリー展」を開催。同43年より49年まで梅原龍三郎を囲む5人の画家による臥龍会展に毎年出品する。同46年彩壺堂サロンで「石の系譜」展を開き、同年国画会を退会した。翌47年東京芸術大学油画科教授に就任。同48年同大学陳列館で旧作展を開く。同49年同大学を停年退官。同53年イタリアを再訪して翌54年日動画廊で「再訪のイタリア」をテーマとして個展を開催。同58年日本橋三越で「樹木と石と花」をテーマに個展を開いた。木、特に松のある風景を得意とし、緊密な構図と明快な色調をもつ豊かな画風を示した。

田中繁吉

没年月日:1994/11/01

創元会創立会員で同会理事長の洋画家田中繁吉は11月1日午前3時50分、肺炎のため東京都世田谷区の駒沢病院で死去した。享年96。明治31(1898)年9月13日、福岡県遠賀郡芦屋町山鹿1059に、父勘助、母かよの第12子6男として生まれる。生家は地主で郡下屈指の素封家であった。同44年山鹿尋常小学校を卒業し東筑中学校に進学。同校の美術教師で東京美術学校出身者であった藤崎某に油絵を学び東京美術判交進学を志す。大正5(1916)年春に上京し、同年東京美術学校西洋画科に入学。1年次には長原孝太郎、2年次に小林万吾、3年からは藤島武二に師事する。同級生に伊原宇三郎、前田寛治、鈴木千久馬、鈴木亜夫、田口省吾らがいる。同10年東京美術学校を卒業して同校研究科に進学。同11年第14回帝展に「ロミちゃんの庭」で初入選。前田寛治の勧めにより同15年春に渡仏。はじめアカデミー・グランショーミエールに学ぶが、のちアカデミー・ランソンに移りビシエールに師事。当時評の高まっていたキスリングに魅せられ、豊潤な色調の女性像を多く描くようになる。昭和3(1928)年7月に帰国。同年第9回帝展に「婦人像」で入選。翌4年白日会会員となる。同8年第14回帝展に「三人裸婦」を出品して特選受賞。同19年創元会創立会員となる。同32年再度渡欧し翌年帰国。同年日展評議員、同49年日展参与となる。同60年東京池袋西武アートフォーラムで「画業六十年記念田中繁吉展」が開催された。明快な色調の婦人像を得意とし、鮮やかな紫、緑などを使用した独特の色彩感覚を示した。

星崎孝之助

没年月日:1994/10/15

二紀会評議員の洋画家の星崎孝之助は、10月15日心不全のため神奈川県中郡大磯町西小磯の自宅で死去した。享年88。明治38(1905)年12月17日神奈川県小田原市に生まれる。正則英語学校を経て昭和3(1928)年渡仏し、英仏文学研究とともに油絵を学び、同6年以降、アンデパンダン展、サロン・ド・メ展及び個展で制作発表を行なった。戦後もパリを拠点に日仏聞をしばしば往来し、国内では同32年二紀会委員に迎えられた。同42年、東京日本橋の東邦画廊で個展を開催、「創生」(同31年作)などを発表した。

中尾彰

没年月日:1994/10/06

読み:なかおしょう  童画家で詩人としても活躍した中尾彰は熊本市の済生会病院新館の壁画を夫人の吉浦摩耶(本名中尾鈴子)と制作中に倒れ、10月6日午前0時30分、脳しゅようのため同病院で死去した。享年90。明治37(1904)年5月21日島根県津和野市に生まれる。大正1l(1922)年、満鉄育成学校を卒業。独学で絵を学び、昭和6(1931)年に第1回独立美術展に「静物」で初入選。後、同会に出品を続ける。また、同10年ころから文芸同人誌「日歴」に参加して詩文を発表。同12年第7回独立展に「庭」「窓」を出品して協会賞を受賞。同14年同会会友に推挙された。戦前には満州鉄道の招聴で満州に数回滞在して制作。昭和16年から子どものための美術運動を展開し、童心美術協会を創立。児童出版物に執筆するとともに、教科書や新聞の挿し絵等を数多く制作し、坪田譲治とのコンビで知られた。戦後も同21年日本童画会を結成して活動を続けた。ほか戦後の同21年独立美術協会準会員、同24年同会会員に推挙された。草木と人物を組み合わせ、パステル調の色彩を多用した詩情ある作風を示した。昭和40年代後半からはパリ、インスプルックにたびたび長期滞在して制作していた。平成4(1992)年独立美術協会会員功労賞受賞。戦前の作品は戦中に不明となり、戦後の制作も昭和40年に火災のため多くは焼失している。作品の所蔵館として郷里の島根県立博物館のほか、津和野美術館、練馬区立美術館、松江美術館などがあり、大規模な制作としては昭和53年の済生会熊本病院壁画、平成5年の諏訪中央病院壁画などがある。著書に『美しい津和野』『蓼科の花束詩集』『人生』『あかいてぶくろ』『子供の四季』等がある。

足立真一郎

没年月日:1994/09/20

光風会名誉会員の洋画家足立真一郎は、9月20日午前6時、前立腺ガンのため神奈川県鎌倉市の病院で死去した。享年90。足立は、明治37(1904)年6月26日、栃木県足利市に生まれ、昭和8年、日本美術学校西洋画科を卒業。在学中の同5年、第17回光風会展に「花」2点が初入選、同7年の第19回展では、「甲州の春」「バラ」を出品、船岡賞を受ける。また、同6年の第12回帝展に「菊花」が初入選。その後も、光風会に出品をつづけ、同21年に同会会員となった。また、戦後は日展にも出品をつづけた。同32年、第13回日展に槍ヶ岳の連峰を力強くとらえた「山」を出品して以降、山岳画に徹するようになり、同35年には、日本山岳画協会会員となる。また、たびたびヨーロッパ、インド、ヒマラヤに写生旅行をする。平成5年、光風会名誉会員となるとともに、足利市民文化功労賞を受けた。

斎藤真一

没年月日:1994/09/18

盲目の女旅芸人を描いた瞽女シリーズ等で知られる洋画家の斎藤真一は9月18日午後3時46分すい臓ガンのため東京都三鷹市の杏林大学病院で死去した。享年72。大正11(1922)年7月6日、岡山県児島郡味野町(現、倉敷市児島味野)に生まれる。父藤太郎は軍人であったが、尺八の都山流の大師範であった。旧制天城中学に在学中に地元の大原美術館を見て画業に志す。独学で油絵を描くうち、同16年ころ岸田劉生の『美の本體』を読んで心酔。岡山師範学校二部を昭和17年に卒業し、同年東京美術学校師範科に入学する。翌年12月学徒出陣で入隊し、終戦後復学して同23年春に東京美術学校を卒業する。同年静岡市立第一中学校に赴任し、同年の第4回日展に「鶏小屋」で初入選。翌年岡山県味野中学校へ転任。同25年第38回光風会展に「閑窓」で初入選。同28年静岡県立伊東高校へ転任する。同34年外務省斡旋留学生としてパリへ留学。アカデミー・グラン・ショーミエールに学び、また藤田嗣治と出会う。スペイン、ドイツ、ベルギ一、イタリア等をめぐり、ジプシ一等流浪する芸人たちに興味を抱く。同35年に帰国。帰国にあたり藤田嗣治が与えた助言に従って翌36年青森県津軽地方を旅するうち、瞽女を知り、越後、信濃路のご女宿を訪ね歩いて瞽女シリーズを描く。同45年10年間制作し続けた作品を「越後瞽女日記展」として文芸春秋画廊で発表し、独自の主題、画風で注目される。同46年第14回安井賞展に「星になった瞽女≪みさお瞽女の悲しみ≫」を出品して安井賞佳作賞受賞。同48年著書『瞽女―盲目の旅芸人』で、日本エッセイストクラブ賞を受賞する。同50年代からは自らを道化師に重ね合わせ、現代の孤独を描くシリーズ、画家の養祖母内田久野をモデルとし、明治期の吉原に取材したシリーズなどを描き、また、画文集『明治吉原細見記』『絵草紙吉原炎上』などを刊行。初期には西洋の伝統的な空間表現、陰影法を用いて静物画、人物画等を描いたが、渡欧により風景の中にデフォルメした人物が散在する主想的な画風に変化し、瞽女シリーズでは遠近法、陰影法を無視し、人物像にも大胆なデフォルメを加えた感傷的な画風を示した。平成5(1993)年長年の支持者であった仲野清次郎によって山形県天童市に財団法人出羽美術館分館・斎藤真一心の美術館が開館している。

伊藤継郎

没年月日:1994/09/17

新制作協会会員で、元京都市立美術大学教授の洋画家伊藤継郎は9月17日午前7時41分、老衰のため神戸市西区病院で死去した。享年86。明治40(1907)年10月15日伊藤粂太郎、津起の次男として生まれる。父は大日本紡績会社の重役を務めた。大正8(1919)年、天王寺第二高等小学校に入学、同10年福島商業学校に入学する。同12年、松原三五郎主宰の天彩画塾に入る。同13年福島商業学校を卒業。同年天彩画塾が閉鎖されるのに伴い、赤松麟作主宰の赤松洋画塾に入る。同15年同塾は赤松洋画研究所と改称。昭和4(1929)年赤松洋画研究所展に「池のある森」「網引き」を出品。同5年第17回二科展に「座像」で初入選する。同年兵庫県美術家連盟の設立に参加。同6年赤松洋画研究所展に「家族の園」「少女」を出品して、丹平賞受賞。この頃から鍋井克之を知り、信濃橋洋画研究所に通い始める。同年第5回全国西洋画展に「庭」「室内の会話」「裸婦」を出品して朝日奨励賞受賞。同10年第22回二科展に「ドヤドヤ(四天王寺の裸祭り)」「親子の行商人」「鳥籠を売る親子」を出品し特待となる。同12年二科会会友に推されるが、同16年同会を退き、小磯良平、猪熊弦一郎らの誘いにより第6回新制作派協会展に「デッサンA」「デッサンB」「デッサンC」「デッサンE」「デッサンF」「室内と女」「森と少女」「静物と子供」「子供の国」を出品し会員に推される。同19年8月満洲へ出征、同20年終戦と共にシベリアに抑留され、同21年復員。同22年より新制作展に出展を続ける。同23年芦屋市美術協会の設立に参加し、この頃より自宅アトリエで研究会を開いて、小磯良平、上村松篁らと交友する。日本国際美術展、現代日本美術展にも出品。同36年鍋井克之の誘いにより京都美術学校(現、京都市立芸術大学)西洋画科教授となる。同年カンボジア、インドなど、東南アジアに旅行。同42年フランス、スペイン、ギリシア、イタリアへ、同44年イタリアへ旅行。同45年京都市立芸術大学を退職して大手前女子短期大学教授となる。同48年スペインへ、同52年フランス、モナコへ、同62年南フランスコルシカ島へ赴く。平成元年神戸サンパル市民ギャラリーで「伊藤継郎の世界」展、同3年梅田近代美術館で「伊藤継郎展」、同4年2月奈良そごう、3月神戸そごうで「伊藤継郎」展を開催。同5年、大阪府が設立を予定している現代美術館のために作品350点余りを同府に寄贈した。アトリエは昭和5年に建てた当時のまま残されていたが、平成7年1月の阪神大震災により倒壊した。日常的なモティーフを好んで描き、時に工芸的と評される重厚なマティエール、地味な彩色等に特色を示した。

西村千太郎

没年月日:1994/07/21

二科会会員の洋画家西村千太郎は、7月21日脳こうそくのため名古屋市内の病院で死去した。享年87。明治40(1907)年3月12日名古屋市中区元場町三ノ切35(現中区大須3-18)に生まれた。横井礼二の指導する緑ケ丘研究所で洋画を学び、はじめ春陽会展へ出品したが第16回展から二科展へ出品、昭和28年第38回二科展に「過ぎたるは及ばず」で二科賞を受賞し、同36年二科会会員に推挙された。また、同42年-51年の間、名古屋造形芸術短期大学教授をつとめた他、自宅に研究所を設けるなど後進の指導にも尽力した。

水野富美夫

没年月日:1994/06/19

アフリカ在住の洋画家水野富美夫は現地時間の6月19日午前4時心不全のためケニアの首都ナイロビのナイロビ病院で死去した。享年76。大正6(1917)年6月20日東京芝に生まれる。昭和6(1931)年宮本三郎洋画研究所に学び、同21年白日会会友となり翌22年第23回同展で会友奨励賞受賞。翌23年同会会員となる。同25年第6回日展に「梅林」で初入選。同40年東南アジア、欧州等をめぐった後、エチオピアに滞在し、以後エチオピアの風景、女性を描き続ける。同42年一時帰国し野沢デパートで帰朝展を開催。同43年本格的にエチオピアに移住しアディスアベパに住んで制作し、白日会展に出品を続けた。同45年の大阪万国博覧会ではエチオピア館に特別出品。同61年からケニアの首都ナイロビに移り住み、同62年からは日本各地で「エチオピアの光と影」などと題して個展を開き作品を発表していた。

to page top