本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





富成忠夫

没年月日:1992/09/25

読み:とみなりただお  画家として活動する一方で植物を被写体とした写真を撮り続け、「植物写真」の分野を確立した富成忠夫は、9月25日午後0時15分、東京都千代田区の三井記念病院で死去した。享年73。大正8(1919)年8月17日、山口県下関市に生まれる。昭和17年東京美術学校油画科を卒業し、同22年自由美術家協会会員となった。同展には「アイロンをかける女」(同25年第14回)、「室内」(同26年第15回)、「黒い屍」(同27年第16回)、「ジャズ」(同28年第17回)、「崩壊」(同30年第19回)等を出品したが、同32年第21回展に「老いたユニコーン」を出品後同会を退く。同33年からは美術グループ「同時代」の活動に同45年まで参加。その後は写真の仕事に傾き、植物写真家として活躍した。代表作に写真集『森の中の展覧会』があり著書に『日本の花木』『野草ハンドブック』等がある。「週刊朝日百科・世界の植物」の編集委員をもつとめた。

三木淳

没年月日:1992/02/22

読み:みきじゅん  日本写真家協会会長、日本写真作家協会会長などをつとめた報道写真家三木淳は2月22日午前0時47分、急性心不全のため東京都港区の慈恵医大病院で死去した。享年72。大正8(1919)年9月14日岡山県児島郡藤戸町(現・倉敷市)に生まれる。岡山県立岡山第一中学校を卒業して慶応大学経済学部に入学。在学中から写真家を志し木村伊兵衛、土門拳らを知り、昭和16(1941)年土門に弟子入りして文楽人形の撮影などの助手をつとめた。同18年慶応大学を卒業して野村貿易に入社。除隊後、同22年サンニュース・フォトス社に、翌年INP通信社に入社。同24年、ライフ誌に掲載されたシベリア抑留帰還旧日本兵の写真が世界的に注目されて、同年タイムライフ社に入社した。同社には同32年まで勤務し、この間、サンフランシスコ講和条約締結に出かける「吉田首相の顔」や「マッカーサー元帥、東京を去る」等をライフ誌に発表。また、同29年には国連軍報道班員として朝鮮戦争の撮影を行った。一方、同25年集団フォトを、同27年ニッコールクラブを設立。同32年タイムライフ社を退社してフリーランスとなり、世界各国に取材して「インカとブラジリア」「メキシコ写真展」「ニューヨーク五番街物語」「サンバ・サンバ・ブラジル」「私のニューヨーク」「ビートルズのリバプール」等の展覧会を開催。写真集に『写真メキシコ-遺跡の中の青春』(教養文庫)、『サンバ・サンバ・ブラジル』(研光社)、『写真創価学会』(河出書房)、『慶応義塾』(美術出版社)、『LIFEのカメラアイ』(小学館)等があり、その足跡は『昭和写真全仕事7 三木淳』(朝日新聞社)に詳しい。同49年ニッコールクラブ会長、同56年日本写真家協会会長となり、平成元年には日本写真作家協会を設立して同協会会長となった。また、昭和52年日本大学芸術学部教授となり、以後写真教育にもつとめ、同58年師土門拳の記念館が設立されると同館の初代館長となった。世界的に認められた日本の報道写真家としては先駆的存在であり、日本写真界の指導者的役割を果たした。

入江泰吉

没年月日:1992/01/16

写真家の入江泰吉は、1月16日脳こうそくのため奈良市の国立奈良病院で死去した。享年86。大和路の社寺や仏像、風物を撮り続けた入江は、明治38(1905)年11月5日奈良市に生まれた。大正12年、奈良女子師範付属高等小学校高等科を卒業、同15年写真技術修得のため大阪へ出、昭和8年大阪市南区鰻谷仲之町15に独立し写真技術一般の営業を始め、また、写真家としての活動も開始した。同12年、アマチュア写真研究会「光藝倶楽部」を創立主宰する。同16年、日本報道写真協会に加入。同19年に戦災に遇い奈良市水門町49に転居、以後、奈良風物の撮影に当り、とくに終戦直後の混乱期に古都の文化財が破壊されるのを恐れ、大和路の社寺などの撮影に専念するに至った。同23年、東京で「仏像写真展」を開催したのをはじめ、同33年には写真集『大和路』を出し写真家として本格的にデビューした。この間、国画会写真部会員として、同展に制作発表も行う。“滅びの美しさ”を主情的に表現する作風で知られ、風景撮影では古代のイメージを重んじ、自動車や電柱を徹底的に排除した。同51年、「古色大和路」「萬葉大和路」「花大和」の三部作で、写真家としては土門拳についで二人目の菊池寛賞(第24回)を受賞した。同56年、我が国では初の写真個人全集『入江泰吉写真全集』全8巻(集英社)を出版する。この他、伝教伝導文化賞、日本写真協会功労賞など受賞も多く、出版物は共著も含めて百冊を越える。没後の平成3年5月、入江泰吉の全作品8万点余を収めた奈良市写真美術館が開館した。

林忠彦

没年月日:1990/12/18

坂口安吾、織田作之助、太宰治ら無頼派作家の肖像写真で広く知られた写真家林忠彦は、12月18日午前零時27分、肝臓がんのため東京都港区の東京済生会中央病院で死去した。享年72。大正7(1918)年3月5日、山口県徳山市に生まれる。家業は祖父の代から続く営業写真館で、幼少の頃から写真に親しみ、徳山尋常小学校を経て、昭和10(1935)年に徳山商業学校を卒業すると、長男として家業を継ぐべく大阪の「中山正一写真館」に修業に出される。翌年、過労から肺結核を病み帰省。翌12年、上京して田村栄の主宰するオリエンタル写真学校に入学する。同13年同校を卒業して帰郷し家業を手伝うが、翌14年再び上京して加藤恭平が主宰する東京光芸社に入社する。内閣情報部の宣伝誌「写真週報」にルポルタージュを発表するなど報道写真家として活動を始め、「アサヒカメラ」などでも活躍。同17年大竹省二らと華北広報写真協会を結成して北京に渡り、戦時下の人々をとらえる。同21年、東京に引きあげ、カストリ雑誌ブームに乗って活躍。同22年秋山庄太郎らと写真グループ「銀竜社」を結成する。同23年、「小説新潮」に連載した文士シリーズの坂口安吾等で人気を博し、寵児となった。同28年、二科会写真部の設立に参加。後進の指導にも尽力した。同36年日本写真家協会副会長に就任。同46年写真集『日本の作家』を刊行し、同書で日本写真協会年度賞受賞。同47年「織田広喜」を二科展に出品して、同展総理大臣賞を受けた。同53年『日本の画家108人』を刊行し、翌54年、同書で毎日芸術賞及び日本写真協会年度賞を受賞。同55年には『カストリ時代』を刊行した。同56年日本写真家協会副会長を辞任し、同会名誉会員となる。同55年日本写真学園校長に就任。同63年、日本写真協会功労賞を受ける。『日本の画家』『日本の経営者』『日本の家元』など、文士シリーズに続く肖像写真と、『カストリ時代』等社会に鋭い目を注いだ写真が林の仕事の中心となし、対象の歴史性や周囲の環境を撮影された一瞬間に含みこんだ物語性のある作風を特色とした。晩年は風景写真に向かい東海道を撮影し続け、平成2(1990)年『林忠彦写真集 東海道』を刊行している。

土門拳

没年月日:1990/09/15

読み:どもんけん  昭和54(1979)年9月11日、脳血栓で倒れてから療養生活を続けていた写真家土門拳は9月15日午前3時40分、心不全のため入院先の東京港区の虎の門病院で死去した。享年80。明治42(1909)年10月25日、山形県飽海郡に生まれる。大正5(1916)年、一家で東京へ移住し、同7年横浜へ移り住む。昭和3(1928)年、神奈川県立第二中学校(現横浜翠嵐高校)を卒業して逓信省の倉庫人夫として働き始めるが、画家となることを志望し、絵を描き続けていた。しかし、自らの画才に限界を感じ、同4年日本大学専門部法学科に入学。翌5年より法律勉強のため弁護士事務員となり、この間に農民組合運動に参加して検挙拘留される。同8年、母のすすめで宮内幸太郎写真場の内弟子となり、同10年、日本工房に入り名取洋之助のもとで報道写真を撮り始める。同14年日本工房を退社して外務省の外郭団体国際文化振興会の嘱宅となる。同15年、日本報道写真家協会を結成。同20年、敗戦により国際文化振興会が解散したためフリーランスの写真家となる。翌年より日本の古寺を本格的に撮り始める。同28年、肖像写真集『風貌』(アルス社)を刊行。同29年『室生寺』(美術出版社)を刊行し、同書によって翌年毎日出版文化賞、日本写真協会功労賞を受賞する。同32年広島を訪れ、原爆問題をとりあげた作品集『ヒロシマ』を翌33年に刊行。同書により第4回毎日写真賞、第2回日本写真批評家協会作家賞を受け、同34年第10回芸術選奨を受賞する。同35年『筑豊のこどもたち』を刊行し、第10回日本写真協会年度賞、第3回日本ジャーナリスト会議賞受賞。また、同36年、同書に対し第2回毎日芸術賞が贈られた。同年『法隆寺』『室生寺』同37年『春日大社』を刊行。同38年『古寺巡礼』第1集、同40年第2集、同43年第3集、同46年第4集を刊行。古社寺、仏像をモチーフに実在感あふれる作品を発表して広く知られ、同47年日本写真家協会名誉会員となった。その仕事はライフ・ワークとなった古寺巡礼と、社会問題をとらえた作品とに大別されるが、いずれにおいても「写真におけるリアリズム」を主張し、「モチーフとカメラの直結」「絶対非演出の絶対スナップ」という命題を提示して、戦後の写真界に指針を示した。昭和58年、郷里の酒田市に「土門拳記念写真美術館」が設立されている。

坂本万七

没年月日:1974/04/19

美術写真を専門とした写真家坂本万七は、4月19日胃ガンのため世田谷区の自宅で死亡した。享年74歳。明治33年1月13日広島県福山市に生れ、私立盈進商業を中退、大正8年武者小路実篤主宰の日向「新しき村」に入った。大正13年築地小劇場の舞台写真を撮り始め、昭和元年には豊島区に桃源社坂本写真場をひらいた。昭和8年より15年にかけ満蒙の古代遺跡を撮影し、また柳宗悦の民芸運動に参加して民芸品を対象に撮影した。 戦後は、一時美術研究所嘱託としてあり、美術研究調査の資料写真撮影にたずさわった。そのほか美術出版物の写真担当として、その活躍は広範囲にわたる。そして彼の自己を没却して専ら作品自体に語らせようとする制作に対する敬虔な姿勢は、斯道の専門家から高く評価されていた。また、戦前満州、中国、朝鮮などに広く撮影旅行をしているが、戦後は昭和41年ギリシャ、ローマなどを巡廻している。写真を担当した主要出版物つぎの通り。「埴輪美」(野間清六聚楽社)「法隆寺彫刻資料第一輯―法隆寺金堂釋迦三尊像」(岩波書店)。「同第二輯―法隆寺宝蔵金銅像」(同上)「日本の彫刻」(美術出版社)「土の芸術」(美術出版社)。「大徳寺」(朝日新聞社)。「薬師寺」(実業之日本社)。「國宝彫像」(徳間書店)。「日本の工芸」(読売新聞社)。「奈良六大寺大観第三巻法隆寺五重塔塑像」(岩波書店)など。

岡田紅陽

没年月日:1972/11/22

写真家岡田紅陽(本名賢治郎)は11月22日胆嚢癌のため東京虎ノ門病院で亡くなった。享年77才。1895(明治28年)8月31日新潟県十日町市に生れ、1918年7月早稲田大学法律科卒業。1921年より各府県庁や観光機関の依頼で名勝の地を撮影し、以後とりわけ富士山の写真家として国際的にも知られる。社団法人日本観光写真連盟理事長、郵政省審議会専門委員、社団法人日本写真協会常務理事を勤めていた。著書も富士山に関して、ペリカン文庫、朋文堂、社会思想社、雪華社、求竜堂より出版。

野島康三

没年月日:1964/08/14

国画会会員野島康三(号・熈正)は、39年(1964)8月14日、神奈川県葉山の自宅において死去した。享年75才。明治22年(1889)浦和市に生れ、慶應義塾在学中から写真研究に入り、写真家として成功し、かたわら洋画を春陽会展、国画会展に出品、また大正期、昭和初期には岸田劉生、万鉄五郎、富本憲吉、梅原龍三郎などの後援者・蒐集家として美術界に貢献した。略年譜明治22年(1889) 2月12日銀行家野島泰次郎の長男として浦和市に生れる。明治38年 慶應義塾普通部に入学。明治40年 写真を始める。第2回写真品評会、東京写真研究会第1回展に出品する。明治43年 東京写真研究会に入会する。大正元年 病気のため慶應義塾大学を退学する。大正4年 三笠写真館を開設する。大正8年 兜屋画堂を開設し、関根正二、村山槐多の遺作展を開催するとともに、中堅作家の発表の場とする。大正9年 兜屋画堂を閉鎖する。三笠写真館を移譲し、野々宮写真館を東京・九段下に開設する。大正11年 東京小石川竹早町の自邸を開放して、岸田劉生、万鉄五郎、小林徳三郎、富本憲吉などの個展を開催する。大正13年 第2回春陽会展に洋画を出品し入選する。昭和元年 国画創作協会の第2部(洋画)開設に関与し、油絵を出品して同会会友に推される。日本写真会第2回展に富本憲吉、柳宗悦の肖像を出品する。昭和2年 第6回国画創作協会展に出品する。野島主催の野々宮写真展を開催。昭和3年 国画創作協会第1部解散し、梅原龍三郎が第2部を国画会と改称して発足するのを助け、評議員として参加する。昭和4年 国画会に裸婦など出品。昭和7年 自費を投じ写真雑誌「光画」を発刊。伊奈信男、木村伊兵衛、中山岩太などなど編集に当り近代写真の樹立を目ざす。小石川自邸に李朝陶磁器展及び日本古民芸展を開催。昭和8年 写真の個展開催(銀座紀伊国屋ギャラリー)12月「光画」廃刊。昭和9年 銀座三昧堂にて写真の個展を開催。昭和10年 慶応大学カメラクラブ顧問および全日本写真連盟委員となる。昭和11年 福原信三夫妻とハワイ旅行。昭和14年 福原信三と国画会に写真部を創設。昭和28年 第2回写真の日(6月1日)に日本写真協会より表彰される。昭和38年 日本フォトセンター(株)相談役としてパークスタジオ建設を後援。昭和39年 8月14日神奈川県葉山一色の自邸で永眠。75才。11月23日より1週間有楽町フォトサロンでフジ・フィルムの協力と国画会、日本写真会、野々宮会、一色会の共催によって野島康三回顧遺作展を開催した。なお故人の遺志により、一美術愛好家として国画会の絵画、彫刻、写真、版画、工芸の5部門に「野島賞」を設定した。

中山岩太

没年月日:1949/01/20

全日本写真連盟理事、国画会同人中山岩太は1月20日脳溢血で死去した。享年55。明治28年福岡県に生れ、大正7年東京美術学校写真科を卒業した。同年渡米して加州美術学校に学び、ニユーヨークで開業した。更に大正15年渡仏し、フエミナ誌の嘱託として活躍した。昭和2年に帰朝、同4年芦屋に移り、構成的な写真その他多くの試みを発表していた。

福原信三

没年月日:1948/11/04

日本写真会々長、国画会同人福原信三は脳溢血のため11月4日品川区の自宅で死去した。享年66。明治16年東京に生れた。日本写真会を主宰し光とその階調を唱えて俳味を写真に取り入れようとした。日本美術協会第一一部委員もつとめた。

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