本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





島岡達三

没年月日:2007/12/11

読み:しまおかたつぞう  益子焼の陶芸家で、重要無形文化財保持者(民芸陶器・縄文象嵌)の島岡達三は12月11日午後11時5分、急性腎不全で死去した。享年88。1919(大正8)年10月27日、東京市芝区愛宕町の三代続く組紐師米吉と妻かうの長男として生まれる。父の勧めで1936(昭和11)年東京府立高等学校高等科理科に学び、39年東京工業大学窯業学科に入学、陶磁器を専攻する。東工大の前身、東京高等工業学校には、教官に板谷波山、卒業生に濱田庄司、河井寛次郎らがいた。入学後、益子に濱田を訪ね卒業後の入門を許される。その際に濱田は島岡に対し「大学にいる間から轆轤の勉強をしなさい」と助言をしている。その言葉通り、大学一年の夏期休暇は岐阜県駄知の製陶所で轆轤技法習得、二年目は夏期休暇の前半を益子の小田部製陶所で修行、後半を濱田の勧めで大阪を拠点に西日本の民窯を巡る。三年目には沖縄の壷屋で学ぶ予定となっていたが、太平洋戦争の影響で断念せざるを得なかった。41年大学を繰り上げ卒業し、翌年軍隊へ入営、その翌年にはビルマへ出征。45年ビルマで終戦を迎え、タイのナコンナヨークの捕虜収容所に入る。翌年に復員すると両親を伴い益子の濱田へ弟子入りを果たす。年に6~8回は登り窯を焚く濱田のもとで、昼間は土作りに始まる下仕事に取り組む。50年、濱田の世話で益子の栃木県窯業指導所の試験室へ技師として入所。この指導所時代、粘土や釉薬を徹底的に研究することができたという。また、この時代に濱田に学校教材として販売する複製品の原型作りの仕事が舞い込む。島岡は濱田について古代土器を学ぶために各地の博物館や大学へ赴く。特に東京大学理学部では縄文土器の第一人者である山内清男講師から縄文加工法を学ぶ。この時の経験が島岡の縄文象嵌の着想に大いに役立つ。53年指導所を退職し、独立すると濱田邸の隣に窯を築く。翌年、東京いずみ工芸展で初個展。濱田と同じ土を使い、同じように窯詰めをすると自ずと濱田と同じような作品が生まれる。島岡は名もない職人的な仕事をしようと考えていたが、濱田は個人作家として自分のものを作るように諭した。濱田のこの指摘と朝鮮李朝の古典的な彫三島の技法が縄文象嵌の着想となった。縄文象嵌は縄文土器に見るような縄目部分に泥將を埋め装飾する技法である。島岡は組紐師である父親に紐を組んでもらい素地に転がし加飾した。60年から縄文象嵌技法を本格的に行い、この技法に地元の素材を使った柿釉や黒釉などの六種の釉薬と、独自に工夫した釉薬を組み合わせ多彩な表現を展開していく。その後、個展を東京丸ビルの中央公論社画廊、大阪阪急百貨店、広島福屋等で開催。62年には日本民藝館新作展にて日本民藝館賞受賞。64年にはカナダ・アメリカで個展並びに作陶指導を行う。その後も海外での活躍が続き、68年にはロングビーチ州立大学、サン・ディエゴ州立大学夏期講座に招かれ渡米、72年にはオーストラリア政府の招聘で渡豪、視察指導をする。74年にはボストンでの個展、トロントでの講義のため、アメリカ・カナダへ歴訪。その後も精力的な活動を続け、多くの展覧会へ出品し活躍を続ける。80年、栃木県文化功労章を受章。1994(平成6)年には日本陶磁協会賞金賞を受賞。若くから陶芸指導や講演などの後継者育成や陶芸普及に尽力し、96年にはNHK教育テレビ趣味百科「陶芸に親しむ」に講師として出演、同年、重要無形文化財保持者(民芸陶器・縄文象嵌)に認定される。その後、97年には益子町陶芸メッセにて「重要無形文化財保持者認定記念島岡達三展」、98年には銀座松屋にて「傘寿記念―陶業55年の歩み島岡達三展」を開催する。99年には文化庁企画制作の工芸技術記録映画「民芸陶器(縄文象嵌)―島岡達三の技―」が完成。同年、勲四等旭日小綬章を受章、2002年栃木名誉県民の称号を授与される。翌年、第40回記念島岡達三陶業展を松屋銀座にて開催。執筆作品に『カラーブックス日本の陶磁7 益子』(保育社、1974年)、NHK趣味入門『陶芸』(日本放送出版協会、1998年)がある。

江里佐代子

没年月日:2007/10/03

読み:えりさよこ  截金師で人間国宝の江里佐代子は、滞在先のフランス東北部アミアンで10月3日、脳出血のため死去した。享年62。1945(昭和20)年7月19日、京都市の刺繍工芸京繍の老舗に生まれる。64年に京都市立日吉ヶ丘高校美術課程日本画科、66年に成安女子短期大学意匠科染色コースを卒業。74年に仏師江里康慧と結婚したことで、工房に出入りする職人から技術を学び始め、夫康慧がつくる仏像に彩色や金泥をほどこした。その後、江里は、截金技法が途絶えることを危惧していた江里家の希望をくみ、78年に北村起祥のもとに弟子入りして截金の技法を学んだ。截金は、本来、仏像や仏画を荘厳する技法であるが、江里はそれを棗、香盒、筥などの工芸品に応用し、截金技法の新しいあり方を追求していった。そうした工芸品の小さな平面には、金、銀、プラチナなどの截金線や截箔が自在に組み合わされて精緻かつ可憐な文様に結実し、完結した小世界が生み出されている。自身は、あるインタビューのなかで、高校や大学では日本画家を目指したが、女流画家の道は厳しいため、身近であった工芸美術の分野に進もうと考えていたと語っている。江里がかねてから抱いていた希望と新たに習得した截金技法とが見事に結びつき、伝統技法が現代に息を吹き返したと言えるだろう。江里は、81年のアメリカ・サンタフェでの「截金展」をかわきりに個展を開き、作品を発表していった。最初の3回までは工芸の個展であったが、1990(平成2)年からは夫康慧と合同で作品を発表し始め、伝統技法の原点と発展との二つの側面が伝えられるよう努めたという。公募展にも積極的に参加しており、82年の京都府工芸美術展では、初出品にして截金彩色屏風「萬象放輝」が大賞に選ばれたのをはじめ、86年の京展には截金衝立「コスミックウェーブ」を出品し、京都市市長賞を受賞した。83年、第30回日本伝統工芸展で、截金彩色飾小筥「たまゆら」が初入選、以降、毎年連続出品した。91年、同展において、截金彩色八角筥「花風有韻」が最高賞の日本工芸会総裁賞、2001年には截金飾筥「シルクロード幻想」が高松宮記念賞を受賞した(いずれも文化庁所蔵)。この間、86年に日本工芸正会員に認定、93年には、第40回日本伝統工芸展鑑査員、また04年には第51回同展鑑・審査員を務めている。90年「心と技―日本の伝統工芸」(北欧巡回展、文化庁主催)、「江里佐代子截金展」(ドイツ・フランクフルト JALプラザ)など国外の展覧会にも出品、截金の実演を披露するなど、よりひろく截金の魅力を伝えた。2000年以降、江里は、次々と截金の新たな展開と可能性を追求していった。頻繁に使用される香盒や棗などには、金箔が矧がれるのを防ぐために截金と漆芸を融合させた技法を応用。また、公共施設などの壁面装飾やスクリーンなどの大規模な作品にも、意欲的に取り組んだ。2000年には第13回京都美術文化賞受賞、02年に重要無形文化財「截金」保持者(人間国宝)に認定されたが、当時最年少での人間国宝認定であった。同年、第22回伝統文化ポーラ賞、03年第21回京都府文化賞功労賞、06年京都市文化功労者受賞ほか受賞多数。05年「金箔のあやなす彩りとロマン―人間国宝江里佐代子・截金の世界展」(佐野美術館ほか巡回)を開催した。07年、イギリス・大英博物館で開催された展覧会「Crafting Beauty In Modern Japan」で截金の実演と講演を行い、その後、次作研究のために訪れたフランス・アミアンで急逝。アミアン大聖堂を訪問直後のことだったという。

髙橋節郎

没年月日:2007/04/19

読み:たかはしせつろう  現代漆工芸の第一人者である髙橋節郎は、4月19日午前9時5分肺炎のため死去した。享年92。1914(大正3)年9月14日、父太一・母梅見の三男として長野県穂高町に生まれる。1938(昭和13)年東京美術学校工芸科漆工部を卒業。本来は画家志望であったが「絵では食えない」という父の反対で工芸科を選択、在学中には漆の魅力に目覚め「何も絵具で描くだけが絵ではない。漆で絵を描こう」と思い至ったという。40年東京美術学校研究科を修了、同年の紀元二六〇〇年奉祝美術展で「ひなげしの図小屏風」が初入選、翌年の第4回新文展では「木瓜の図二曲屏風」が特選を受賞し注目を浴びる。戦後は日展を中心に活躍し、51年には第7回日展「星座」で特選・朝倉賞を受賞、55年には日本橋三越にて第1回個展を開催、60年には第3回新日展「蜃気楼」で文部大臣賞を受賞と、精力的な制作活動をみせる。髙橋は“美術工芸”ではなく“工芸美術”、つまり“美術”という視点に立ち“工芸”作品の可能性を広げるという考えを持っている。これは自身も参加し61年に結成した現代工芸美術家協会の理念でもある。同協会創立者の山崎覚太郎は美術学校時代の恩師でもある。その後、新日展や日本現代工芸美術展、五都展、和光展に出品するほか、64年には日本現代工芸美術巡回メキシコ展・アメリカ展、66年には日本現代工芸美術巡回ローマ展、翌年には日本現代工芸美術巡回ロンドン展・モントリオール展に参加、海外に活躍の場を広げていく。76年東京芸術大学美術学部教授に就任、教鞭を執りながら制作を続ける。80年には社団法人日本漆工協会副会長に就任、漆工功労者として表彰される。82年には定年により同校を退官、社団法人現代工芸美術家協会副会長に就任。84年には紺綬褒章、86年には勲三等瑞宝章、1990(平成2)年には文化功労者に顕彰される。95年、東京芸術大学名誉教授に就任すると豊田市美術館の設立に伴い、髙橋の作品を展示する髙橋節郎館が併設される。97年には文化勲章を受章。同年、第18回オリンピック冬季競技大会(長野)の公式記念メダルのデザインを制作、フランスのパリで「漆の黒・光のメッセージ―現代日本の漆芸―髙橋節郎」展を開催。99年には東京銀座・和光ホールで「髙橋節郎墨彩展―ヨーロッパ・安曇野・大和路を描く―」を開催、漆芸の枠を超えた活動をみせる。2003年6月18日には長野県穂高町に残る生家に安曇野髙橋節郎記念美術館が開館。翌年には卒寿を記念し、豊田市美術館併設髙橋節郎館と安曇野髙橋節郎記念美術館、大阪阪神百貨店で「卒寿記念髙橋節郎―漆絵から鎗金へ/一九三〇-六〇年代」を開催。

三浦小平二

没年月日:2006/10/03

読み:みうらこへいじ  陶芸家で青磁の重要無形文化財保持者(人間国宝)の三浦小平二は10月3日午前1時56分に急性心筋梗塞のため死去した。享年73。1933(昭和8)年、現在の新潟県佐渡市相川に生まれる。父は佐渡無名異焼の三浦小平。1951年東京芸術大学美術学部彫刻科に入学し平櫛田中に指導を受ける。高田直彦らと陶磁器研究会(陶研)をつくり、加藤土師萌に師事し、芸大最初の窯を築く。また、父の薦めで京都の製陶会社や岐阜県陶磁器試験場にて陶技を根本から学ぶ。その後、母校に戻り、副手、非常勤講師を務めながら制作の目標を灰釉陶器から鈞窯、青磁へと定めた。76年、第23回日本伝統工芸展に出品した「青磁大鉢」において文部大臣賞を受賞。これは、作者の生地・佐渡の朱泥土の素地を轆轤成形で薄く挽き上げ、明るい青白色の青磁釉がたっぷりとかかった作品である。この作品は72年台北の故宮博物院における宋代青磁の調査から佐渡の朱泥土を使用することを思い立ち実現したという。その後、1992(平成4)年、郷里に「三浦小平二小さな美術館」を設立、93年に日本陶磁協会賞金賞、94年にはMOA岡田茂吉賞工芸部門大賞、95年には第42回日本伝統工芸展に出品した「青磁飾壺『寺院』」が日本工芸会保持者賞、96年紫綬褒章を受章。三浦の作風はアジア・アフリカの風物をモチーフとしたものが見られ、これらは本人が「創作の原点」と語った海外への旅の影響といわれている。東アフリカ牧畜民のマサイ族との出会いやアフガニスタン砂漠の中の湖バンディ・アミールの神秘的な青色の感動が作域を広げたと考えられる。97年、青磁で重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。2000年東京芸術大学名誉教授、文星芸術大学陶芸科主任教授に就任。05年文星芸術大学陶芸科客員教授にと後進の指導に心血を注いだ。06年、「[作陶50年]人間国宝三浦小平二展」を日本橋三越、新潟三越で開催した同年、逝去。没後、遺族が作品30点を佐渡市へ寄贈したことを機に、08年「[特別展]人間国宝三浦小平二の世界―青磁以前の作品、青磁の世界、画家・三浦小平二―」展が佐渡博物館、両津郷土博物館、相川郷土博物館にて開催された。

塩多慶四郎

没年月日:2006/09/24

読み:しおたけいしろう  漆芸家で髹漆の重要無形文化財保持者(人間国宝)の塩多慶四郎は9月24日午後8時7分に肺炎のため死去した。享年80。1926(大正15)年1月17日、輪島市河井町の輪島塗塗師角野勝次郎の四男として生を受ける。3歳のときに母の実家である塩多家の養子に入る。塩多家も三代続く輪島塗塗師であった。1941(昭和16)年、尋常高等小学校を卒業し、養父塩多政のもとで輪島塗の修行を始める。その後、45年、滋賀県大津海軍航空隊にて終戦を迎える。同年、輪島へ復員し家業の塗師を手伝う。48年、大日本紡績大垣化学紡績工場試験室に勤務し、化学塗料の研究に従事する。その後、26歳のときに輪島へ帰郷。塩多漆器店四代目を継ぎ、本格的に輪島塗に携わり始める。64年、勝田静璋について蒔絵を学び始め、同年、第6回石川の伝統工芸展(日本工芸会石川支部の展覧会)に入選。翌年、「乾漆菓子鉢」にて第12回日本伝統工芸展に入選を果たす。また、同年、文化庁・日本工芸会共催による技術伝承者養成事業に参加した塩多は生涯の師と仰ぐ松田権六と出会う。松田の「塗りと形が良ければ加飾などいらない」との示唆に触発され、漆塗りの持つ本当の美しさを追求することになったという。その後、71年、第27回現代美術展において「乾漆古代朱盤」が技術賞を受賞したのを皮切りに受賞を重ねる。第15回石川の伝統工芸展にて「乾漆堆黒りんか盤」が日本工芸会会長賞、第23回日本伝統工芸展にて「乾漆線文盤」が日本工芸会会長賞を受賞する。78年輪島塗が重要無形文化財に指定され、輪島塗技術保存会が発足。同会会員に認定される。その後も精力的に活動を続け、第24回日本伝統工芸展にて朝日新聞社賞、第3回石川県工芸作家選抜美術展にて石川県知事賞を受賞。その後日本伝統工芸展にて監査員を務め、工芸界の発展に尽力した。86年には北國文化賞、翌年には紫綬褒章、1991(平成3)年石川テレビ賞を受賞。95年、「髹漆」にて重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。同年にはMOA岡田茂吉賞大賞を受賞、日本工芸会参与、石川県立輪島漆芸技術研究所主任講師に就任し、後進の指導に心血を注いだ。同年「乾漆蓋物 悠悠」の制作の直後に病に倒れる。96年、初の回顧展「人間国宝 塩多慶四郎の世界」を石川県輪島漆芸美術館で開催。再起を果たせぬまま逝去。

山田常山

没年月日:2005/10/19

読み:やまだじょうざん  陶芸家で「常滑焼(急須)」の重要無形文化財保持者の三代山田常山は、10月19日午後5時6分、転移性肝がんのため愛知県常滑市の病院で死去した。享年81。1924(大正13)年10月1日、愛知県常滑市に祖父・初代山田常山、父・二代常山と二代続く急須づくりを専門とする陶家の長男として生まれる。本名は稔。祖父は妥協を許さない厳しさと精緻な作風で名工と謳われ、父もその技を継承した名手として名を馳せた陶工であった。その二人に少年のころから基礎的な陶技を学び、中学に入るころには急須づくりを始める。1941(昭和16)年、愛知県立常滑工業学校窯業科を卒業。翌年、常滑にある愛知県陶器試験場に入所し、窯業に関する専門知識を学ぶ。46年からは本格的に修業するため、父・二代常山に師事する。48年、同志と常滑工芸会を設立。同年、第1回常滑陶芸展で「朱泥茶注」が常滑町長賞を受賞し、作家としてのデビューを果たす。また、この頃から父の号であった小常山を名乗る。58年、ブリュッセル万国博覧会の日本第三部陶器類でグランプリを受賞。同年、第5回日本伝統工芸展で横手タイプの朱泥の急須が初入選し、以後、同展を中心に活動を展開する。初入選は朱泥の急須であったが、その後は朱泥土に二酸化マンガンを混ぜ込んだ紫泥や烏泥、自然釉の急須を出品しつつその存在を知らしめていく。61年、名古屋の百貨店で初の個展を開催。また同年に父の死去に伴い、三代常山を襲名する。三代常山の急須は、地元で産出される粘りの強い朱泥土(田土)を用い、本体、注口、把手、蓋のすべてを、轆轤を使って成形し、それらを組み立ててつくり上げる。技法からみると、朱泥土をベースとした、朱泥、紫泥、烏泥に加え、象牙色の白泥、古常滑を祖とする自然釉や、土そのものの風合いを生かした焼き締めによる南蛮などがある。また、表面の装飾を伴う技法では、窯変を利用した緋襷や、常滑独特の海藻を用いた藻掛、炭化焼成する燻しに加え、梨の肌を思わせる梨皮や、糸を巻いたような糸目、櫛状の道具で線を引いた櫛目などがある。形のバリエーションは広く、胴部が算盤の玉のように張り出した算盤形や、鎌倉期の古常滑の壺を思わせるような肩が大きく張った鎌倉形、そのほかにも野菜や果物をはじめ、身近にあるさまざまなものから着想を得た形などがあり、煎茶具として用いる伝統的なものから、北欧のデザインに触発されたモダンなものまで、100種類以上を優に超える。また把手の付き方では、注口と一直線上に把手が付く茶銚、一般によく知られる横手や把手がなく注口だけの茶注、把手がなく注口が胴部に受け口のように付く宝瓶、注口が胴部と一体となった絞り出し茶注がある。これらには古典に敬意を表しながら、形や意匠などを試行錯誤で探った成果がしっかりと映し出され、すべてに卓越した轆轤技術があってこそ生み出される、手づくり急須のスタイルが確立されている。1993(平成5)年、日本陶磁協会賞受賞。翌年の94年には、「陶芸 ロクロによる手造り朱泥急須技法」で愛知県指定無形文化財保持者に認定される。96年、勲五等瑞宝章受章。97年には愛知県陶磁資料館で「常滑急須―山田常山三代展」が開催され、その全貌とともに、祖父や父の作品も紹介される。98年には「常滑焼(急須)」の重要無形文化財保持者に認定。2004年、旭日小授章を受章する。また三代常山は、早くから後進の指導にも積極的で、75(昭和50)年に「常滑『手造り急須』の会」が設立されると会長に就任し、30年に亘り模範的な活動を通して技術の継承に尽力し、多くの後進を育て上げるとともに、急須の発展に貢献した。 

加藤舜陶

没年月日:2005/06/24

読み:かとうしゅんとう  陶芸家で「陶芸 灰釉(かいゆう)系技法」の愛知県指定無形文化財保持者の加藤舜陶は、6月24日午後1時24分、呼吸器疾患のため愛知県瀬戸市の病院で死去した。享年88。1916(大正5)年7月13日、愛知県瀬戸市で最も古い窯業地のひとつとして知られる赤津に、製陶業を営む父・二代春逸、母・としの長男として生まれる。本名は辰(しん)。生家は祖父・初代春逸の命名により屋号を舜陶園といい、その祖父は茶陶を得意とし、父は割烹食器を主に生産していた。1933(昭和8)年、瀬戸窯業学校4年修業の後、病気のため中退し、37年頃から作陶を始めるが召集を受ける。戦後、いち早く家業を復活させるとともに、個人作家としての制作も志し、三代春逸を名乗るべきところ、生まれ年の辰年にあやかり窯名を龍窯とし、舜陶園から名をとり舜陶と号する。50年の第6回日展に「黒い壺」が初入選し、以来、日展や日展系の団体展を発表の場とする。日展では瀬戸伝統の技法である織部、志野、伊羅保、鉄釉など、年ごとに技法の異なる作品を発表して注目を集め、60年の第3回新日展では「線彩花器」(現、花器「湖上の月」)で特選・北斗賞を受賞。受賞作は当時の瀬戸で盛んに使われた石炭窯が用いられたが、その窯の燃料を家業の製品と自身の作品とで使い分け、製品には石炭を、作品には薪を用いて作陶を行う。またこの頃より、石炭窯に薪を用いた灰釉作品の制作に本格的に乗り出し、土の素材感を生かした赤褐色の器体に緑色の釉薬が流れる一群の作品を生み出す。ところがしばらくすると、公害を理由に瀬戸では石炭窯の使用ができなくなり、ガス窯による灰釉作品の制作へと移行。これが転機となり、酸化コバルトを下地に灰釉を掛けた碧彩をつくり出し、灰釉技法の幅を広げる。その後、80年代に入ると、透明感ある釉調が特徴となる瀬戸伝統の御深井釉の研究に没頭。器面に線彫りや陰刻を施して酸化コバルトを象嵌する方法や、白化粧を施した後に掻き落としにより模様を描く方法など、次々に新しい技法を取り込んで灰釉の表現の幅を広げる。82年に日展評議員となり、同年、愛知県芸術文化功労賞を受賞。87年には勲四等瑞宝章を受章する。1990(平成2)年、第12回日本新工芸展で内閣総理大臣賞、翌年、第23回日展においても灰釉花器「悠映」で内閣総理大臣賞を受賞する。94年には「陶芸 灰釉系技法」で愛知県指定無形文化財保持者に認定される。2000年、中国陶磁器をはじめ、韓国、タイ、ベトナム、イランなど、作陶の源泉として収集したアジア地域の古陶磁コレクションのすべてを愛知県陶磁資料館に寄贈。同年、「加藤舜陶古陶磁コレクション―その作品とともに」が開催される。06年には瀬戸市美術館で「加藤舜陶回顧展」が開催され、その全貌が紹介される。長年にわたり、日展や新聞社が主催する公募展の審査員を務め、また、地元の瀬戸陶芸協会会長を歴任されるなど、後輩の指導・育成にも尽力した。 

皆川泰蔵

没年月日:2005/04/10

読み:みながわたいぞう  染色家の皆川泰蔵は4月10日午前11時13分、肺炎のため京都市山科区の病院で死去した。享年87。1917(大正6)年京都に生まれる。父・八田源七の友人で染色家だった山鹿清華の勧めで京都市立美術工芸学校図案科に入学。1935(昭和10)年に卒業後、染色作家の道に進んだ。38年京都市展で市長賞、41年には文展に初入選を果たした。44年、近代染色の先駆・皆川月華の長女・千恵子と結婚して皆川姓となった。終戦直後に京都・洛北大原で民家の素朴な美しさに感銘を受け、以後、昭和20年代は民家の詳細なスケッチから “染色日本の民家”をテーマに制作を続け、「和染本栖湖畔」が49年の第5回日展で特選となった。昭和30年代に入ると、京都や奈良の神社や仏閣、また庭園に視野を向け、丹念な観察からより単純化と抽象化を進めた独自の作風を確立した。66年、訪中日本工芸美術家代表団員として中国を視察。45日間の旅の間に目にした異国の文化は新たな刺激となり、その後は中国だけでなく、韓国、東南アジア、インド、中近東、ロシア(旧・ソビエト連邦)、ヨーロッパ各地を訪ね歩きながら仕事を続け、まさに自ら回顧するとおり「創作と旅の連続」であった。「対象から受けた感動の残像を、ぎりぎりまで単純化を重ね、現実の風景を抽象化し、力強く魅力に満ちた作品を制作する」皆川の姿勢は、染色芸術の神髄と見事に合致し、豊かな物質感がろう染に独特な効果によって十全に引き出された。80年「皆川泰蔵 日本の染色展」(ベルリン国立世界民族博物館ほか)。1991(平成3)年「世界を染める 皆川泰蔵展」(大丸ミュージアムKYOTOほか)。後進の育成にも力を注ぎ、66年からは鹿児島女子短期大学教授も務めた。また、京都・祇園祭の山鉾の装飾も手がけている。84年京都府文化功労賞。89年京都市文化功労者。93年勲四等瑞宝章受章。社団法人現代工芸美術家協会理事、日本現代染織造形協会理事長。 

加藤卓男

没年月日:2005/01/11

読み:かとうたくお  陶芸家で重要無形文化財保持者(工芸技術「三彩」)の加藤卓男は、1月11日午前11時45分、肺炎のため岐阜県多治見市の病院で死去した。享年87。1917(大正6)年9月12日、江戸時代から続く美濃焼窯元五代目加藤幸兵衛の長男として、岐阜県土岐郡市之倉村(現、多治見市市之倉町)に生まれる。1935(昭和10)年岐阜県立多治見工業学校(現、多治見工業高等学校)を卒業後、京都の商工省陶磁器試験所に入所。37年同試験所終業後、帰郷し家業の福寿園丸幸製陶所(現、幸兵衛窯)に勤務。翌38年より従軍。転属先の広島市で残留放射能により被爆。その後10年ほど入退院を繰り返す生活を余儀なくされたが、54年第10回日展に「黒地緑彩草花文花瓶」を出品し初入選。61年陶磁器意匠と技術の交換のため、フィンランド工芸美術学校に留学。この間、休暇を利用してはじめて中東各地の陶器の産地を訪れ、そこで古代ペルシア陶器の美に触れる。帰国後は本格的にペルシア陶、なかでもラスター彩の研究を志すようになった。63年第6回新日展に出品した「花器 碧い山」が特選北斗賞を受賞、翌64年には第3回日本現代工芸美術展で「流」が現代工芸賞を受賞。65年第8回日展で「油滴花器 煌」が再び北斗賞を受賞。作家活動の一方で続けていたペルシア陶研究の成果は、昭和50年代に自身のラスター彩作品として結実。ラスター彩とともに同じペルシア系統の青釉にも取り組み、独創的なフォルムと鮮やかな青色が融合した作品を制作した。80年には宮内庁正倉院事務所より正倉院三彩の「三彩鼓胴」と「二彩鉢」の復元制作を委嘱され、約7年間におよぶ研究と試作を経て復元に成功する。この経験と技術を生かし、自身の創意による三彩の仕事にも取り組んだ。88年紫綬褒章受章。1995(平成7)年重要無形文化財「三彩」の保持者に認定された。ペルシア陶に魅せられ、研究のため訪れた中東の古窯址発掘現場で、織部に似た陶片を発見して以来、加藤は、ペルシアから日本へと広がる壮大なやきものの技術交流と発展史へと興味を広げた。しかし、古代のペルシア陶の技法を解明、再現することにとどまらず、作家として、古陶磁研究を自己の表現の手段として昇華させ、清新な現代の陶芸を創造した点で高く評価される。朝日陶芸展をはじめとして国際的なコンペティションでたびたび審査員を務め、陶芸界のリーダー的存在として果たした役割も大きい。トルコ、イスタンブールの国立トプカプ宮殿博物館(86年)をはじめ国内外で開催した個展多数。2002年4月1日から30日まで『日本経済新聞』に「私の履歴書」を連載(『砂漠が誘う―ラスター彩遊記』日本経済新聞社、2002年加筆所収)、作品集に『ラスター彩陶 加藤卓男作品集』(小学館、1982年)がある。没後、岐阜県現代陶芸美術館で回顧展「加藤卓男の陶芸展―陶のシルクロード」(06年)が開催された。 

金城次郎

没年月日:2004/12/24

読み:きんじょうじろう  陶芸家で、「琉球陶器」の技法で重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された金城次郎は、12月24日午後10時45分、心筋こうそくのために死去した。享年92。1911(明治44)年、沖縄県那覇市に生まれる(入籍は翌年)。25(大正14)年、那覇市壺屋の名工新垣榮徳に師事。この年、新垣を通じて生涯交流を続けた陶芸家浜田庄司と出会う。金城は戦前、沖縄の伝統的な工芸を評価した柳宗悦の民藝論の薫陶を受け制作に励んだという。1939(昭和14)年、雑誌『工藝』第99号以降、同誌でしばしば紹介される。45年召集され、読谷で飛行場建設、その後壺屋の東窯で軍需品の製作に従事する。恩納村で捕虜となり、石川の収容所に収容される。同年11月、陶器製造先遣隊の一員として壺屋に帰る。46年壺屋で米軍よりかまぼこ形兵舎を払い下げて工房を開く。窯は新垣榮徳の登り窯を共同使用した。51年、戦後窮乏した壺屋の陶工を救うべく、浜田庄司ら民芸関係者の尽力により開催された第1回琉球民藝展(於東京、日本民藝協会主催)に出品。54年第6回沖縄美術展覧会(沖展)工芸部門新設に伴い新垣栄三郎、小橋川永昌と出品。この年、新垣と第1回陶芸二人展開催。55年、第29回国画会公募展(国展)初入選。この頃、益子(栃木)、龍門司(鹿児島)の窯を訪問、その後丹波、九州などの窯を機会あるごとに視察。56年、第30回国展出品「呉須絵台付皿」が新人賞、57年第31回国画展で「抱瓶黒釉指描」が国画賞受賞、同年、国展推薦新会友となる。この年、ルーマニア国立民芸博物館に作品が永久保存される。64年第18回全国民芸大会が沖縄で開催され、浜田庄司、バーナード・リーチが壺屋を訪問。66年明治神宮例大祭奉祝第4回全国特産物奉献式に「長型花瓶」奉納。67年、第1回沖縄タイムス芸術選奨大賞受賞、日本民藝館展入選。69年リーチの再訪を受ける。同年、第43回国展会友優秀賞受賞。この年、壺屋の登窯から出る煙が公害問題として表面化、壷屋の陶工ら、窯の使用回数を減らす。71年第1回日本陶芸展入選。72年、煙害から読谷村字座喜味に移り、初めて自分の登窯を開く。同年、沖縄県指定無形文化財技能保持者に認定。73年、国画会会員となる。77年、現代の名工百人に選ばれる。78年末、脳血栓で倒れ、約4か月間静養後、手足に麻痺が残るが復帰。81年、勲六等瑞宝章受章。85年、「琉球陶器」の技法により、沖縄で初めて重要無形文化財保持者に認定された。2003(平成15)年、那覇市立壺屋焼物博物館にて「壺屋の金城次郎」展開催。卓越した轆轤の技術、線彫、指描などあらゆる壺屋の伝統的な技法を駆使し、壺屋に伝わる伝統的な器形、文様に基きながら、工夫を凝らしてバリエーション豊かな作品へと昇華させ、素朴で親しみやすい日常陶器を生涯作り続けた。躍動感溢れる魚文、海老文の線彫文様は特によく知られ、浜田庄司は、金城以外に魚や海老を笑わすことは出来ないと絶賛したという。作品集に、『金城次郎の世界』(沖縄タイムス社・読谷村、1985年)、『琉球陶器 金城次郎』(琉球新報社、1987年)、『人間国宝 金城次郎のわざ』(宮城篤正/源弘道監修、朝日新聞社、1988年)、『沖縄の陶工人間国宝金城次郎』(日本放送協会出版、1988年)、著書に『壺屋十年』(上村正美監修・構成、用美社、1988年)がある。

吉田文之

没年月日:2004/12/19

読み:よしだふみゆき  工芸家の吉田文之は12月19日午後9時50分、肺炎で死去した。享年89。 1915(大正4)年奈良県奈良市に生まれ、16歳より父・吉田立斎に師事して撥鏤や螺鈿など漆芸全般技術を修業した。1935(昭和10)年の入隊から11年間は中断を余儀なくされたが、復員後にふたたび制作に戻り、32歳で独立。以来、撥鏤の制作と研究に専念し、この技術を伝承する国内唯一の工芸家であった。64年日本伝統工芸展に出品、以来同展を中心に香合、小箱、帯留など数々の作品を発表した。撥鏤は成形した象牙を紅・紺・緑色などに染め、細かな陰刻を施す。手前から向こうへ撥ねるように彫るところから「撥ね彫り」とも呼ばれ、彫りの浅深に応じて線に抑揚が生じ、色にも濃淡がもたらされる。また、染料は象牙の上層に留まるため、刻んだ跡に素地の白が冴えて、彩色部分との対比も美しい技法である。彫られた箇所にさらに顔料で色を加えれば華やかさが増し、繧繝の効果も得られる。中国唐代に盛行し、日本へは奈良時代に伝わって正倉院宝物にも作例が見られるが、平安以降衰亡した。明治期、正倉院宝物の復元修理に父の立斎が従事して古代の技術復興を果たしたのである。吉田も修業時代に父の助手として復元修理に参加。自らも78年と83年に宮内庁の依頼により正倉院宝物で「東大寺献物帳」に記述があった紅牙撥鏤尺、紅牙撥鏤撥を復元した。吉田は染まりにくい象牙に熱による変質をできるだけ抑えながら美しい色を呈するために染色工程に工夫を重ね、ぼかしの効果や工具の考案など撥鏤技法をつねに探求し続けた。繊細さを活かしたブローチやペンダントなど現代的な装身具にも積極的に取り組んだが、伝統的な意匠のほか、宇宙や北極の景色など斬新な表現も試みていた。85年4月13日 重要無形文化財「撥鏤」の保持者に認定。

高橋介州

没年月日:2004/10/29

読み:たかはしかいしゅう  金工家で、日展参与の高橋介州は、10月29日午後0時13分、肺炎のため死去した。享年99。1905(明治38)年3月、石川県金沢市木ノ新保生まれ。本名、勇。1924(大正13)年金沢市の県外派遣実業実習生として東京美術学校(現在の東京芸術大学)の聴講生となり海野清に師事、彫金技法を学ぶ。1929(昭和4)年、金沢市産業課の金属業界指導員となる。また同年、第10回帝展に初入選し、以後、帝展、新文展に入選を重ね、戦後は日展に出品を重ねる。48年には日展会員となる。そして、62年には日展評議員となり、80年には参与となる。作家活動の一方で、41年には石川県工芸指導所所長となり、62年からは石川県美術館館長をつとめた(71年3月まで)。そして、75年には加賀金工作家協会を結成し、会長として、若手作家の育成につとめた。76年勲四等瑞宝章受章。82年には加賀象嵌技術保持者として石川県無形文化財に認定された。動物や鳥などをモチーフとした香炉に、石川県の伝統的な彫金技法「加賀象嵌」の技術をいかして模様をあらわした装飾性豊かな作品を制作した。

藤田喬平

没年月日:2004/09/18

読み:ふじたきょうへい  ガラス工芸家で文化勲章受章者の藤田喬平は、9月18日午後10時13分、肺炎のため東京都千代田区の病院で死去した。享年83。1921(大正10)年4月28日東京府豊多摩群大久保町(現、東京都新宿区)に生まれる。1944(昭和19)年東京美術学校(現、東京芸術大学)工芸科彫金部卒業。46年第1回日展に、金属による立体的な造形作品「波」を出品し初入選。同年染織家の長浜重太郎が主宰する真赤土工芸会に参加し、以後10年間、同会にて作品を発表する。47年岩田工芸硝子に入社。49年同社を退社し、ガラス作家として独立。葛飾のガラス工場を時間単位で借りて、制作を行う。50年代には、同世代の工芸作家グループ展「潤工会新作工芸展」やガラス作家グループ展「PIVOT」に参加、その後多数の個展を開催し、主に百貨店を舞台にガラス作家としての地歩を固めた。64年個展で発表した「虹彩」が、同年「現代日本の工芸」展(国立近代美術館京都分館)に招待出品される。73年個展で飾筥「菖蒲」を発表、以後この「菖蒲」シリーズは晩年まで制作が続けられた。「虹彩」に代表される、流動するガラスが冷えて固まる一瞬を作品に留めた「流動ガラス」シリーズ、琳派の作品に触発され、伝統的な美意識を作品に表出させた「飾筥」シリーズによって、藤田はガラス作家としての個性を明確に打ち出していった。76年日本ガラス工芸協会会長に就任。77年以降は、ガラスの生産地として世界的に有名なヴェネツィア、ムラノ島の工房でも制作をするようになり、ヴェネツィアの伝統的な装飾ガラス技法「カンナ」を多用した作品や大型のオブジェを手がけた。1989(平成元)年日本芸術院会員となる。94年勲三等瑞宝章受章、96年宮城県宮城郡松島町に「藤田喬平美術館」が開館、97年紺綬褒章受章、同年文化功労者の顕彰を受けた。国内外の展覧会へ作品を出品し、日本を代表するガラス作家として活躍するとともに、再三に亘り日本ガラス工芸協会会長を務めるなど、多方面から日本におけるガラス・アートの活動を牽引した。2000年12月1日から31日まで『日本経済新聞』に「私の履歴書」を連載、作品集に『藤田喬平作品集:手吹ガラス』(アート社出版、1980年)、『雅の夢:藤田喬平ガラス』(京都書院、1986年)、『藤田喬平美術館・作品集』(藤田喬平美術館、1996年)、『藤田喬平のガラス』(求龍堂、2000年)。

飯塚小玕斎

没年月日:2004/09/04

読み:いいづかしょうかんさい  人間国宝(重要無形文化財保持者)の飯塚小玕斎は、9月4日、肺炎のため死去した。享年85。1919(大正8)年5月6日、東京市本郷区(現・東京都文京区)に、飯塚琅玕斎の次男として生まれる。本名・成年。1942(昭和17)年東京美術学校油画科を卒業し入隊、出征する。46年疎開先の栃木市に復員し、栃木市立高等女学校で講師を約10年間勤める。その後帰京し、81年群馬県太田市に転居した。復員後に、近代竹工芸の確立に重要な役割を担い工芸界の重鎮であった父琅玕斎の厳しい指導を受けて修業し、飯塚家の伝統のわざはもとより琅玕斎の格調を重んじる制作を学んだ。1947年第3回日展初入選。翌年の第4回日展に成年子と号して出品し、50年亡き兄が号した小玕斎を受け継いだ。53年第9回日展で北斗賞を受賞し、翌年第10回展で特選、60年第3回新日展で菊華賞を受賞、伝統技法による花籃等の制作に加え壁面の制作に挑むなど気鋭の竹工芸家として活躍した。62年日展会員。74年第17回日本伝統工芸展へ出品して以降同展を中心に活動し、第17回展文部大臣賞、翌75年第18回展で朝日新聞社賞と受賞を重ねた。その後、鑑審査委員をたびたびつとめ、理事や木竹部会長を長く勤めた。81年紫綬褒章、89年勲4等旭日小綬章を受章。琅玕斎から継承した伝統のわざを現代的な感性で洗練させ、精緻精細な竹刺し編みや束ね編み等による芸術の格調を基調とする制作を主として独自の力強い荒い編組作品の創作なども繰り広げ、今日の伝統的な竹工芸の基盤を形成した。79年から82年にかけて正倉院宝物の竹工芸品の調査研究に努め、自らの創作の世界を広げた。82年重要無形文化財「竹工芸」保持者の認定を受け、以降日本伝統工芸展を中心に後進の指導に積極的に努め、その普及と発展に尽力した。

松林猶香庵

没年月日:2004/08/14

読み:まつばやしゆうこうあん  陶芸作家で、朝日焼14世の松林猶香庵は、8月14日午後4時20分多臓器不全のため死去した。享年83。1921(大正10)年3月10日、京都府宇治市に生まれる。本名松林豊彦。1936(昭和11)年京都市立第二工業学校陶磁器科を卒業後、国立陶磁器試験所に学ぶ。39年同試験場を修了し、1年間助手を務める。試験所在籍中は、水町和三郎の指導のもとで、多くの名品に学ぶ。46年父の朝日焼13世光斎の死去に伴い、14世豊斎を継承。この頃、陶芸作家の楠部彌弌に師事し、公募展にも出品をする。47年第3回日展には「豊芽の図大鉢」を出品。しかし、松林は、通常他の窯では区別されない窯変による色彩・釉調の変化を「燔師」と「鹿背」と分けて呼ぶ、朝日焼の繊細な茶陶の中に自らの進む道を見出す。その後は朝日焼の伝統的な造形を基調としながら、独学で朝日焼の最たる特徴である御本手の「燔師」・「鹿背」と呼ぶ窯変や、梅華皮・三島などの技法をより深く追求する。52年10月大坂三越で初個展開催。以後、個展を中心に作品を発表する。55年頃から何度か国宝の茶碗「喜左右衛門井戸」を手にする機会を得る。その見事な梅華皮を念頭において梅華皮茶碗の焼成を繰り返し、65年頃自身の理想に近い梅華皮茶碗を作り出し、これによって自らの技への自信を深めていく。また作陶と並行して、窯変を決定づける窯の研究にも没頭し、52年の登窯の築窯をはじめとし、幾つもの窯を築き試行錯誤を繰り返す。75年には、不確定要素の多かった窯変の創出を意識下におくことを目的とした窯「玄窯」を完成させる。「玄窯」は、窖窯と登窯を繋げた他に例を見ない構造に加え、窯内雰囲気を観察・記録できる当時最新の装置を付けた窯である。「玄窯」完成後、松林はさらに窯変の研究を続け、朝日焼の窯変を「土と炎の出会いによる土の窯変」という独自の言葉で表現している。そして80年頃、「鹿背」に用いる土と古朝日の土をあわせることで、従来の朝日焼にはなかった窯変による「紅鹿背」と呼ぶ、ほのかな紅色の発色に成功し、これを用いた作品制作に邁進する。1994(平成6)年11月大徳寺管長福富雪底のもとで得度し、長男良周に15世豊斎を譲り、隠居名の「猶香庵」を名乗る。その後も精力的に制作を続け、各地で個展を開催し、作品を発表する。松林猶香庵の作風は、伝統を踏まえ抑制のきいた造形の上に、窯変による色彩・釉調の変化を加えることで、瀟洒かつ温雅な独自の世界を表出している。こうした松林の作品は、茶を喫するために作られた茶陶の世界において高い評価を得たものである。

坂高麗左衛門

没年月日:2004/07/26

読み:さかこうらいざえもん  陶芸作家で萩焼宗家坂窯の十二代坂高麗左衛門(本名、坂達雄)は、7月26日午前7時45分、脳挫傷のため山口県萩市内の病院で死去した。享年54。1949(昭和24)年8月11日、東京都新宿区に山中關とオヨの長男として生まれる。76年に東京芸術大学絵画科日本画専攻を卒業し、同大大学院美術研究科絵画専攻に進学。78年の課程修了後も、同大芸術資料館にて重文「浄瑠璃寺吉祥天厨子絵」の臨模研究や80年の国宝「観心寺木造如意輪観音坐像」復元事業に参加して彩色を担当するなど、日本中世絵画を対象に制作研究を継続した。82年、前年に没した十一代坂高麗左衛門(本名、信夫)の息女素子と婚姻を結び、また彼女の母幸子の養子となって萩藩御用窯の系譜をひく坂窯を後継した。83年の京都市工業試験場窯業科陶磁器研修生を修了後、84年から萩での作陶生活に入った。翌年の日本工芸会山口支部伝統工芸新作展から本格的な発表活動を開始。以降、日本画の制作研究で体得した運筆や賦彩の表現技法を造形思考の核に据え、萩伝統の陶技と絵画的意匠の総体的融合をめざした造形表現を追求し、作陶活動を展開した。個展活動は、86年の柿傅ギャラリー(東京)と玉屋(福岡)での初個展以来、88年5月29日の十二代襲名前に2回、襲名後は生前49回におよんだ。公募展への出品活動では、87年の第34回日本伝統工芸展で自ら開発した「陶彩」技法を用いた径41cmの「萩夏秋草八角陶筥」が初入選し、88年の日本工芸会山口支部伝統工芸新作展ではNHK山口放送局賞を受賞するなど、新進作家として早くから注目された。以後日本伝統工芸展において、89(平成元)年の第36回展に「萩茶碗」、92年の第39回展には「萩茶碗」が、そして94年の第41回展では「萩櫛目面取茶碗」がそれぞれ入選し、同年日本工芸会正会員となった。また、89年には田部美術館大賞茶の湯造形展にも入選している。90年から99年にかけては萩女子短期大学講師として陶芸指導にあたった。97年7月には「やきもの探訪-萩焼に日本画を」が NHKで放送(BS2)されている。2001年に山口県文化功労賞を受賞。作品は、坂窯伝統の井戸形茶碗をはじめ、萩焼の陶胎を用いながらも釉下に多彩な色料を施して器面を華やかに彩った茶碗・水指・香炉・花入・皿・筥・壺など多種の器形を制作し、ことに晩年の装飾は温雅な美質をそなえた抒情性のある絵画的表現を特長とした。

藤代松雄

没年月日:2004/06/12

読み:ふじしろまつお  刀剣研磨師で人間国宝の藤代松雄は6月12日、脳こうそくのため死去した。享年90。 1914(大正3)年4月21日、刀剣研磨師である藤代福太郎の三男として東京神田に生まれる。「早研ぎの名人」といわれた父に1927(昭和2)年より刀剣の研磨技術を習う。51年より『名刀図鑑』を刊行、写真技術を最高度に利用して茎の銘やこれまで再現不可能であった地の状態、刃中の働きなどを写し、戦後の刀剣愛好家の啓蒙に寄与した。55年日光二荒山神社所蔵の御神刀「山金造波文蛭巻大太刀(禰々切丸)」(重要文化財)を研磨。61年『日本刀工辞典』改訂版を刊行、同書は元来兄義雄の著作(37年刊)であり、これに共著という形で版を重ねることで新たな資料を加え、より完全な銘の辞典の完成を目指した。70年美術刀剣研磨技術保存会を結成、88年からは同会の幹事長を務める。1990(平成2)年 国宝 短刀 来国光(名物有楽来)、93年吉備津神社所蔵の大太刀 法光「吉備津丸」を研磨。96年重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。98年勲四等旭日小綬章受章。

清水卯一

没年月日:2004/02/18

読み:しみずういち  陶芸家で鉄釉陶器の重要無形文化財保持者の清水卯一は、2月18日午後11時、大腸がんのため滋賀県滋賀郡志賀町(現、大津市)八屋町の自宅で死去した。享年77。1926(大正15)年3月5日、京都市東山区五条橋に、京焼陶磁器卸問屋を営む父清水卯之助、母モトの長男として生まれる。11歳のときに父が病死し、1938(昭和13)年に家業を継ぐため立命館商業学校へ入学するが、作陶に興味を抱き、近隣の轆轤師宮本鉄太郎らを知る。40年には同校を2年修了とともに中退し、14歳で石黒宗麿に師事し、通い弟子となる。しかし戦時体制の強化に伴い、数ヶ月で五条坂から八瀬への通い弟子を中断し、自宅に轆轤場を設けて作陶を始める。翌年、伏見の国立陶磁器試験場に伝習生として入所し、日根野作三、水町和三郎らの指導を受ける。43年には京都市立工業試験場窯業部の助手となるが、終戦を機に辞職し、自宅を工房にして作陶を再開。47年、前衛的な陶芸家集団「四耕会」の結成に参加。また49年には、「緑陶会」「京都陶芸家クラブ」などの結成にも参加する。51年には第7回日展に初入選し、以後、55年の第11回展まで出品。同年、第2回日本伝統工芸展に石黒の推薦を受けて出品し、以後、活動の場とし、57年には日本工芸会正会員となる。翌年の第5回展の奨励賞をはじめ、第7回展では日本工芸会総裁賞、第9回展では優秀賞朝日新聞社賞を受賞するなど、若手の実力派としてふさわしい創作性豊かな作品を発表し評価を得る。またこの間、55年には日本陶磁協会が新設した第1回日本陶磁協会賞を受賞。海外展においても、59年のブリュッセル万国博覧会でグランプリ受賞をはじめ、62年のプラハでの国際陶芸展で金賞、63年のワシントン国際陶磁器展で最高賞、67年イスタンブール国際陶芸展でグランプリを受賞するなど、めざましい活躍をみせる。この頃の作品は主に、鉄釉や柿釉、天目などの鉄釉系技法に基づくもので、轆轤挽きによる端正なフォルムと融合させて独自の世界をつくり上げた。70年には、滋賀県志賀町の蓬莱山麓へ工房を移転し、念願であった登窯を築窯。またガス窯も設けて蓬莱窯と名付け、さまざまな作品を制作する場とする。この移転が転機となり、自宅周辺で採集した陶磁器に適した土や釉薬を新たな素材として加え、さらに作域を広げる。73年の第20回日本伝統工芸展では、蓬莱の地土を使った「青瓷大鉢」の評価と、これまでのすぐれた制作の展開に対する評価によって20周年記念特別賞を受賞。その後も土と釉薬の研究に情熱を傾け、青瓷、鉄耀、蓬莱耀、蓬莱磁など、伝統的な技術と豊かな創造力による意欲的な作品を次々に発表し高い評価を受ける。85年には石黒宗麿に続いて二人目となる、「鉄釉技法」で重要無形文化財保持者に認定される。1989(平成元)年、ポーラ伝統文化振興財団が記録映画「伝統工芸の名匠シリーズ・清水卯一のわざ-土と炎と人と」を制作。92年には京都市文化功労者表彰を受ける。99年、1940年から1998年までの作品147点を滋賀県立近代美術館に寄贈。とくに認定後は、日ごろの仕事の積み重ねを大切にする姿勢を説きながら、若手陶芸家の指導に蓬莱窯を開放するなどして、積極的に後進の育成にも尽力した。

久保田一竹

没年月日:2003/04/26

読み:くぼたいっちく  染織家久保田一竹は4月26日午後4時50分、多臓器不全のため山梨県の病院で死去した。享年86。 1916(大正5)年10月7日東京の神田に生まれる。小学校の教師に絵の才能を見いだされ、1931(昭和6)年、親元を離れ友禅師小林清に入門した。34年には大橋月皎に人物画を学び、36年には北川春耕に山水と水墨画を学んだ。20歳のとき帝室博物館(現、東京国立博物館)で室町時代に栄え江戸時代に途絶えた幻の染色「辻が花」の小裂に出会い魅了される。太平洋戦争での徴兵、シベリア抑留により一時制作中断を余儀なくされたが、約20年をかけて61年、独自の染色法「一竹辻が花」を完成させた。83年パリ・チェルヌスキ美術館での「一竹辻が花展」を皮切りに海外でも活躍するようになり、88年にはバチカン宮殿にて上演された創作能「イエズスの洗礼」の衣装制作を手がけ、1990(平成2)年フランスよりフランス芸術文化勲章シェヴァリエ章を受章、96年にはワシントンDCスミソニアン国立自然史博物館にて個展を開いた。国内でも、93年に文化庁長官賞を受賞、94年に自作品を展示した久保田一竹美術館を開館し、久保田一竹作品集『一竹辻が花 光の響』(小学館刊)を出版した。95年からは創作能をも手がけるようになり、活動の場は多岐にわたった。化学染料を駆使した、他に類を見ない鮮やかで重厚な色合いで知られた。

松井康成

没年月日:2003/04/11

読み:まついこうせい  陶芸家で、「練上手(ねりあげで)」の技法で重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された松井康成は、4月11日午後4時42分、急性呼吸器不全のため死去した。享年75。1927(昭和2)年5月20日、長野県北佐久郡本牧村生まれ。本名宮城美明(みめい)。52年明治大学文学部文学科卒業。同年、茨城県笠間の浄土宗月崇寺(げっそうじ)住職の長女松井秀子と結婚、松井姓となる。57年月崇寺第二十三世住職となる。60年月崇寺境内に窯を築き、古陶磁の研究に基づく倣古作品を制作していたが、陶芸家田村耕一のすすめで、68年頃からは練上手の技法に専念するようになる。69年第9回伝統工芸新作展に「練上手大鉢」が初入選し、奨励賞を受賞。同年、第16回日本伝統工芸展に「練上手壺」を出品し、初入選。70年第10回伝統工芸新作展に「練上手辰砂鉢」を出品し、日本工芸会賞を受賞。71年第18回日本伝統工芸展に「練上線文鉢」を出品し、日本工芸会総裁賞受賞。73年第2回日本陶芸展(公募部門第1部)に「練上線文鉢」を出品し、最優秀作品賞・秩父宮賜杯受賞。74年日本陶磁協会賞を受賞。75年第22回日本伝統工芸展に「練上壺」を出品し、NHK会長賞を受賞。76年「嘯裂(しょうれつ)」と「象裂瓷(しょうれつじ)」をあいついで発表。「嘯裂」とは、器の表面を刷毛や櫛などで荒らし、傷を入れることによって生じるひび割れを模様に見立てたもので、また、「象裂瓷」とは異なる種類の色土を二層、三層に重ね、成形後に深く切込みを入れて下層の色土が見えるようにする技法である。いずれも土そのものの粗く厳しい質感をあらわしたもので、それまでの練上にはない、松井康成独自の作品世界を示すものとして高く評価された。79年から現代工藝展(資生堂ギャラリー)に参加。83年からは「堆瓷(ついじ)」と呼ぶ、彩泥の技法による作品を発表。85年には「破調練上」を発表。86年第2回藤原啓記念賞を受賞。87年には「風白地(ふうはくじ)」と呼ぶ、器の表面に粗い砂を強く吹き付けることによって荒涼とした雰囲気を表現した作品を発表。1990(平成2)年日本工芸会常任理事となる。同年、日本陶磁協会金賞受賞。91年第4回MOA岡田茂吉賞大賞受賞。92年には、釉薬による光沢と鮮やかな色土による華麗な「萃瓷(すいじ)」を発表。93年「練上手」の技法により重要無形文化財保持者に認定される。同年、パリで松井康成展開催(三越エトワール)。同年、茨城新聞社より茨城賞受賞。94年「人間国宝松井康成練上の美」展開催(朝日新聞社主催、日本橋高島屋ほか)。同年、茨城県より特別功績賞受賞。96年「玻璃光(はりこう)」と呼ぶ、焼成後にダイヤモンドの粉末で研磨した、滑らかでしっとりとした光沢を放つ作品を発表。同年、茨城県近代美術館にて「変貌する土――松井康成の世界」展開催。99年平成11年度重要無形文化財「練上手」伝承者養成研修会の講師を勤める(翌年も)。練上手の作品は色の異なる土を組み合わせて成形するため、土の収縮率の違いなどから、焼成の段階で割れる可能性が高いが、松井康成は少量でも発色の良い呈色剤を加えることにより、同じ性質でも色の異なる土を作り出す工夫をし、色彩豊かな練上げ作品を制作した。そして、「嘯裂(しょうれつ)」、「象裂瓷(しょうれつじ)」、「堆瓷(ついじ)」、「風白地(ふうはくじ)」、「萃瓷(すいじ)」、「玻璃光(はりこう)」などの技法を新たに創案し、多彩な作品を制作、練上の技法による表現の可能性を広げ、それまでには見られない独自の作品世界を切り開いていった。作品集に、『松井康成陶瓷作品集』(講談社、1984年)、『松井康成練上作品集1985―1990』(講談社、1990年)。また、著書に『松井康成随想集:無のかたち』(講談社、1980年)、『宇宙性』(講談社、1994年)。

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