本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





隅谷正峯

没年月日:1998/12/12

読み:すみたにまさみね  刀剣作家で国の重要無形文化財保持者(人間国宝)の隅谷正峯は12月12日午後1時16分、急性循環器不全のため石川県松任市の石川中央病院で死去した。享年77。大正10(1921)年1月24日、金沢で醸造業を営む隅谷友吉の長男として生まれる。旧制金沢第一中学校に在学中に日本刀に興味を抱くようになり、立命館大学理工学部機械工学科を昭和16年に卒業した後、同学に創設された日本刀鍛錬研究所で同17年より桜井正幸に師事して作刀技術を学ぶ。また、広島県尾道市にあった興国日本刀鍛錬所でも作刀研究を進めた。戦後、帰郷し、作刀禁止が解かれた同28年から制作を再開。同29年作刀許可を受け、第1回作刀技術発表会に初入選。以後39年まで全10回行われた同展に毎回出品し、優秀賞を4回、特賞を4回受賞する。同30年日本美術刀剣保存協会の新作刀技発表会に入選。同40年作刀技術発表会を引き継ぐかたちで創設された新作名刀展に第1回から出品して名誉会長賞並びに正宗賞、同41年第2回同展で正宗賞・毎日新聞社賞を受賞する。同42年、同展無鑑査となり、審査員を委嘱され、同49年第10回同展で正宗賞を受賞する。この間、同42年石川県指定無形文化財保持者となる。同46年小型たたらによる自家製鋼を研究・開発し、同50年正倉院御物の刀子の研究・模造を行うなど、各地の古今の作刀、研磨技術を研究し、同56年国指定重要無形文化財保持者に認定された。この間、同46年日本美術刀剣保存協会協議員を委嘱され、同59年には全日本刀匠会理事長に就任。平成2(1991)年には同会顧問、同4年には日本美術刀剣保存協会理事となった。主な作品に、伊勢神宮式年遷宮御神宝纏御太刀(昭和39年)、伊勢神宮式年遷宮御神宝太刀十二振(同44年)、伊勢神宮式年遷宮御神宝太刀十六振(平成元年)のほか、皇太子妃、秋篠宮真子内親王の守り刀などがある。飛鳥・奈良時代から現代にいたる刀剣技術を研究し、なかでも鎌倉期の備前伝の鍛錬法を得意とした。奈良時代に貴人が装身具に用いた「刀子(とうす)」の制作で知られた。平成3年、佐野美術館、石川県立美術館で「隅谷正峯展」が開催され、略歴などは同展図録に詳しい。 

田口善国

没年月日:1998/11/28

読み:たぐちよしくに  東京芸術大学名誉教授の漆芸家で、国の重要無形文化財(人間国宝)の田口善国は11月28日午前2時11分、心不全のため東京都文京区の日本医科大学付属病院で死去した。享年75。大正12(1923)年3月1日東京都麻布に生まれる。本名善次郎。生家は医者で、父と交遊のあった漆芸家松田権六に昭和14(1939)年に弟子入した。また、やはり父と交遊のあった奥村土牛に昭和11年から同16年まで日本画を学び、吉野富雄に古美術を学んだ。同21年第2回日展に「風呂先屏風みのりの朝」で初入選。以後、同22年第3回日展に「風呂先屏風蒔絵俵に鼠」、同23年第4回展に「蒔絵盃ピアノとルリ鳥」、同26年第7回展に「四枚折蒔絵屏風親子つばめ」で入選する。この間、同25年から2年間、東京芸術大学研究生として小場恒吉に日本文様を学び、図案などを研究する。同35年より日光東照宮拝殿蒔絵扉の復元修理に従事。同36年日本伝統工芸展に「蒔絵手箱」を出品して奨励賞を受賞し、同37年日本工芸会会員となる。同38年の同展では「平文蒔絵箱」で、翌年は「蒔絵飾箱 日蝕」で2年連続奨励賞を受賞。同43年同展では「野原蒔絵小箱」で文部大臣賞を受賞する。同53年MOA岡田茂吉賞工芸部門優秀賞を受賞。同55年大倉集古館所蔵の蒔絵「夾紵大鑑」の復元修理をする。同64年国の重要無形文化財保持者(蒔絵)に指定された。同39年中尊寺金色堂復元修理に参加。同49年から翌年まで東京芸術大学美術学部講師をつとめ、同50年同学助教授、同57年同教授となった。平成2(1990)年同学を停年退職し、同名誉教授となった。古美術品の復元修理を通して伝統的な漆芸技法を研究し、蒔絵、螺鈿の高度な技術を習得。そうした技術を生かし、動植物を主なモティーフとする斬新な意匠、表現を試みて現代的な漆器を制作した。 

浅蔵五十吉

没年月日:1998/04/09

読み:あさくらいそきち  九谷焼の陶工で文化勲章受章者の浅蔵五十吉は4月9日午後1時25分、呼吸不全のため金沢市の金沢大学医学部付属病院で死去した。享年85。大正2(1913)2月26日、石川県能美郡寺井町に生まれる。父は先代五十吉で、10代の頃から父に師事して陶芸を学び、昭和3年に初代徳田八十吉に師事。同21年から色絵陶磁の北出塔次郎に師事する。同21年第1回日展に「青九谷水鉢」で初入選し、以後毎年出品。同27年第8回日展に「磁器長角水盤」で、同30年第11回目日展に窯変「交歓」花器で北斗賞受賞。同32年第13回目日展には「構成の美」花器を出品して特選・北斗賞を受賞する。同52年第9回改組日展に「釉彩華陽飾皿」を出品して内閣総理大臣賞受賞。同56年「佐渡の印象」により日本芸術院賞を受賞し、同59年日本芸術院会員、平成4(1992)年文化功労者となった。同8年文化勲章を受章。伝統的な技法を基礎に、花鳥を主とする独特の意匠を施し、鑑賞性と実用性の両立に留意した制作を試みる。同2年、横浜、京都、大阪、東京の高島屋で戦後から新作までの作品を展観する喜寿記念展が開催された。昭和62年には『色絵磁器・浅蔵五十吉作品集』(産経出版)が刊行されている。

寺井直次

没年月日:1998/03/21

読み:てらいなおじ  人間国宝(重要無形文化財保持者)の漆芸家寺井直次は3月21日午後0時55分、内臓疾患のため金沢市の病院で死去した。享年85。大正元(1912)年12月1日、金沢市の鍛冶職で金物商を営む家に生まれる。昭和5(1930)年石川県立工業学校漆工科描金部を卒業し、東京美術学校工芸科漆工部に入学、六角紫水・松田権六・山崎覚太郎らの指導を受ける。また在学中に日本画を金沢出身の画家田村彩天に学び、その後の工芸意匠案出の糧とする。同10年同学校を卒業、乾漆による卒業制作の「鵜文様飾筥」は翌年の改組第1回帝展に初入選するが、展覧会活動は以後しばらく休止し、財団法人理化学研究所に勤務しながらアルミを素地にした金胎漆器の技術の開発に専念した。同16年からは輸出漆器生産のため同研究所の静岡工場に工芸部長として赴任、同16年からは副工業長を勤める。戦後は依願退職して金沢に帰り、鶏などの卵の殻を細かく割り、その一つ一つを張り合わせて、柔らかな量感に富む蒔絵の卵殻技法に工夫を重ねた。創作活動再出発の第一作として卵殻を用いた「双鳩模様手筥」を制作、これが同21年の第1回日展に入選する。同23年第4回日展«鷺之図小屏風»、および同30年第 12回展に「極光」二曲屏風で特選を、 同29年第11回日展に「雷鳥の図箱」で北斗賞を受賞、同32年には日展会員となる。同25年より47年まで石川県立工業学校漆工科教諭となる。同30年からは日本伝統工芸展に出品し、主として鶉の卵殻を用いた、より繊細で華麗な作品を発表、同35年には同会理事に就任する。同43年北国文化賞、同45年金沢市文化賞を受賞。同47年石川県立輪島漆芸技術研修所初代所長となるが、翌年辞任、以後はかつて理化学研究所で研究していた金胎漆器の制作に再び取り組むようになる。同52年加賀蒔絵で石川県指定無形文化財保持者に認定。同58年に勲四等瑞宝章を受章。同60年、蒔絵で重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定、同年社団法人日本漆工協会功労賞を受賞。同63年文化庁工芸技術記録映画「蒔絵 寺井直次の卵殻のわざ」完成。平成元(1989)年中日文化賞を受賞。同4年新東京国際空港の貴賓室にかかげる漆額「極光(オーロラ)」を作成。同5年『寺井直次作品集』(能登印刷出版部)刊行。同6年石川県立美術館で「蒔絵・人間国宝 寺井直次の世界」展が開催された。

音丸耕堂

没年月日:1997/09/08

読み:おとまるこうどう  人間国宝(重要無形文化財保持者)の漆芸家音丸耕堂は、9月8日午前9時8分、肺炎のため高松市の病院で死去した。享年99。本名芳雄。明治31(1898)年、6月15日、香川県高松市に生まれる。小学校を卒業後、13歳で讃岐彫りを専門とする石井磬堂に弟子入りし、4年間讃岐彫りを学ぶ。16歳で独立自営しつつ、独学で彫漆を学び、20歳のときに香川漆器の玉楮象谷(たまかじしょうこく)の作風にひかれて私淑した。漆芸家の磯井如真、金工家の北原千鹿、大須賀喬らと交友し、大正期から昭和10年ころまで堆朱、堆黒、紅花緑葉など古来の色漆を用いた彫漆を行い、さらに緑漆と黒漆の色彩的コントラストをいかした西洋風の作風へと移行した。昭和7(1932)年第13回帝展に「彫漆双蟹手箱」で初入選。以後官展を中心に出品し、同12年上京してからは、色漆の色彩の幅を広げ、新色を用いる試みを行った。同17年第5回文展に「彫漆月の花手箱」を出品して特選受賞。戦後も日展に出品し、同24年第5回日展に「彫漆小屏風」を出品して特選を受賞する。工芸家の地位の向上を目指して香川県の工芸家たちと香風会を設立。同30年重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定される。日本工芸会の創立に参加し、日本伝統工芸展にも出品を続け、同48年第20回日本伝統工芸展に「彫漆菊水指」を出品して20周年記念特別賞を受賞。昭和51年2月東京・板橋常盤台の日本書道美術館で20余点の作品を展示する展覧会を開催した。色漆を数十回から数百回塗り重ねた厚い漆の層に文様を彫り込む彫漆の技法を完成させ、昭和52年ころから色彩の断層面を表に出した平行しま模様を用いた作品を多く制作して、伝統的工芸技術による斬新な作風を打ちだした。色漆に金銀粉を混入して塗り、漆の固まる間に金銀が沈澱して層をつくるのをいかし、文様があらわれるように研ぎ出す技法や、彫り口の傾斜の角度により、重ねた色漆の層の断面を加減して微妙な文様をあらわす技法など、彫漆による多様な表現の可能性を引きだした。同57年、後進の育成に寄与すべく「公益信託音丸漆芸研究奨励基金」を設立した。同63年東京池袋の西武アートフォーラムで「音丸耕堂鳩寿記念回顧展」が開催され、平成6(1994)年に回顧展が開催されている。

北岡高一

没年月日:1996/12/18

読み:きたおかこういち  機織りに用いる竹筬の製作者で国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)の北岡高一は12月18日午後10時、心筋こうそくのため京都市上京区小川通寺之内下ルの自宅で死去した。享年62。昭和9(1934)年2月20日京都市上京区小川通寺之内下ル射場町577番地に生まれる。生家は天正9(1581)年創業と伝えられる京都の筬(おさ)屋で、京都の重要な地場産業である絹織物のための機織り道具である筬(おさ)を製作し続けてきた。筬は縦糸の配列を整えるとともに織幅を一定に保ち、さらに縦糸と緯糸の打ち込みを堅固にするための櫛のような機能を持つ。材料により金筬と竹筬に分類され、また用途によって絹織物用の絹筬と綿織物用の綿筬等に分けられる。絹織物に用いられる竹筬は密度が高く、曲尺一寸に120枚もの羽が入る精巧なもので、金欄や爪掻き綴など濡緯(水で濡らした緯糸)を用いる高度な織物には絹筬が必須である。北岡高一は幼少時から父忠三に師事して伝統的な絹筬の製作、修理を学び、京都第一工業高校(現洛陽高校)を卒業後、家業の絹筬製作に専念した。平成3年(1991)年京都府選定保存技術筬製作の保持者として京都府教育委員会の認定を受け、同8年5月に国の重要無形文化財(筬製作・修理)保持者(人間国宝)として認定された。精緻な絹筬製作に高度な技術を示し、また、破損した筬の修理も併せて手がけ、伝統的な絹織物制作のために尽力した。

鹿島一谷

没年月日:1996/11/23

読み:かしまいっこく  布目象嵌の技術を伝承する金工家で区に指定重要無形文化財保持者(人間国宝)の鹿島一谷は11月23日午後零時20分、老衰のため東京都台東区池之端の自宅で死去した。享年98。明治31年5月11日、東京都下谷区に生まれる。父一谷光敬、祖父一谷斎光敬と金工を家業とする家の長男で本名栄一。同45年下谷高等小学校を卒業。父、祖父より布目象嵌を、後藤一乗、関口一也、関口真也父子に彫金を学び、父が早世したため20歳で独立する。昭和4(1929)年第10回帝展に一谷の名で「焔文様金具」で初入選。同7年第13回帝展に栄一の名で「朧銀布目水鴛文盆」を出品する。同24年第5回日展に「金工水牛文花器」で特選受賞。同30年社団法人日本工芸会の創立に参加し同会正会員となる。同32年3月文化財保護委員会により、記録作成等の措置を投ずるべき無形文化財布目象嵌の技術者として選択される。同39年、唐招提寺蔵国宝金亀舎利塔保存修理、同40年山形県天童市若松寺重要文化財金銅観音像懸仏保存修理に従事する。同54年国指定重要無形文化財保持者の認定を受ける。同59年、東京都日本橋三越本店で初めての個展を開催し、その後同じく日本橋三越本店で同63年、平成5、7年に個展を開催。平成2(1990)年には日本橋三越本店で「人間国宝 音丸耕堂・鹿島一谷」展を開催した。

大野昭和斎

没年月日:1996/08/30

読み:おおのしょうわさい  国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)の木工芸家大野昭和斎は8月30日午前5時36分、肺炎のため岡山県倉敷市の倉敷平成病院で死去した。享年84。明治45(1912)年3月4日岡山県総社市八代244番地に大野斎三郎の長男として生まれる。本名片岡誠喜男(かたおか・せきお)。大正9(1920)年、一家で倉敷市西阿知町に移住し、同15年西阿知尋常高等小学校を卒業して同年より父に木竹工芸の手ほどきを受ける。昭和10(1935)年文人画家柚木玉邨より「昭和斎」の号を授受。同12年中国四国九県連合展に「松造小箱」を出品して特賞受賞。同13年より岡山県工芸協会工芸展に出品し同14年同会評議員となる。同38年日本工芸会中国支部展に「桑盛器」を出品して支部長賞受賞。同40年第12回日本伝統工芸展に「欅香盆」で初入選し、以後同展に出品を続け、同43年第15回同展に「拭漆桑飾筥」で日本工芸会会長賞を受賞して、同年日本工芸会正会員となる。同49年「木創会」を創立し、伝統工芸の保護と後進の指導にあたった。同52年岡山県重要無形文化財の指定を受け、同59年には国の重要無形文化財「木工」保持者となった。また、同年日本工芸会参与となる。同60年人間国宝認定記念展として「大野昭和斎-木のこころ」展が倉敷市主催により市立美術館で開催される。平成4(1993)年『人間国宝大野昭和斎の木工芸』が至文堂より刊行され、また同年その出版記念として「傘寿 人間国宝大野昭和斎木工芸展」が倉敷三越百貨店で開催された。指物、くり物、木象嵌、すり漆等の諸技術を総合的に駆使し、伝統技術を現代の器に生かす試みを続け、木目に金箔を擦り込む「杢目沈金」の技法を創出して知られた。

野口園生

没年月日:1996/07/25

読み:のぐちそのお  衣裳人形作家で国の重要無形文化財保持者(人間国宝)の野口園生は7月25日午後5時10分、心不全のため静岡県伊東市大室高原の自宅で死去した。享年89。明治40(1907)年1月23日東京府下谷区谷中清水町1番地に生まれる。大正13(1924)年、東京市立女子第一技芸高等女学校(現・東京都立忍岡高校)を卒業。昭和12(1937)年堀柳女人形塾に入門し、翌13年申戌会芸術人形展に「みぞれ降る日」を出品。同14年童宝美術院人形展に「家路」を出品して奨励賞、同15年同展に「遊山」を出品して優秀賞を受ける。同18年戦時下にあって堀人形塾が解散したため、しばらく制作を中断するが、戦後再開し、同22年第3回日展に「宴の途」を出品。同23年第1回東京都工芸協会展に「秋の草」を出品して二等賞、翌年の同展には「港町」を出品して同三等賞を受賞した。同25年人形塾を開き、また同年の現代人形美術展に「雨後」を出品して朝日新聞社賞受賞。同28年の現代人形美術展では「霧の朝」で努力賞を受賞する。同30年より蒼園会を主宰し銀座松屋で展覧会を開催する。同31年日本伝統工芸展に入選して以後同展に出品を続け同34年日本工芸会会員となった。同37年日本伝統工芸展新作展に「寂秋」を出品して奨励賞受賞。以後も日本伝統工芸展、同新作展に出品を続ける。同59年喜寿記念『ごくらく一寸のぞきみ』を刊行。同61年国指定重要無形文化財保持者(衣裳人形)に認定され、同年『野口園生人形作品集』が刊行された。同62年より平成5年まで人間国宝新作展に小品の出品を続けた。日常生活に根ざした季節感、自然の情趣を大胆にデフォルメした人体によって表現し、独自のフォルムと詩情を持つ作風を示した。

本阿弥日洲

没年月日:1996/07/13

読み:ほんあみにっしゅう  刀剣研ぎ師で国指定重要無形文化財保持者の本阿弥日洲は7月13日午前7時35分、急性心不全のため東京都大田区上池台の自宅で死去した。享年88。明治41(1908)年2月23日、東京に生まれる。本名猛夫。名研ぎ師と言われた父平井千葉に幼少のころから家業の刀剣研磨・鑑定を学んだ後、本阿弥琳雅に師事して刀剣鑑定法を修練した。昭和3(1928)年本阿弥家の養子となって室町時代から続く名家である本阿弥家を継いで第23代当主となった。戦前は内務省神社局の命により伊勢神宮内陣や明治神宮内陣の宝刀の研磨を行う一方、軍刀審査員となり、また文部省の命により神社仏閣等の国宝、重要文化財刀剣の研磨に従事した。戦後は長く刀剣登録審査委員をつとめ、研師の立場から日本刀の姿、平肉の置き加減、帽子の形、焼刃の処理などについて現代刀匠の刀剣制作に助言を与え、伝統的作刀の技法を継承することに寄与した。古刀から現代刀に至る幅広い時代の刀の研磨に通暁し、特に相州物、山城物などの各伝の刀剣類の研磨を得意とした。海外に所蔵される日本の刀剣の調査、保存にも寄与し、昭和47年には米国のメトロポリタン美術館、ボストン美術館にある日本の刀剣の調査を行っている。砥石の選択、刀身の砥石への当て方、刀身の押し引きの調子、鍛造及び下地の仕上げ、拭いの材料の作り方等に卓抜な技量を示し、同50年に国の重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定された。上古刀をはじめ、美術刀剣類の研磨、刀剣鑑定に優れ、後進の指導に尽力した。

谷口良三

没年月日:1996/06/07

読み:たにぐちりょうぞう  日展評議員の陶芸家谷口良三は6月7日午後6時15分、肺がんのため京都市上京区の京都府立医科大病院で死去した。享年70。大正15(1926)年3月8日京都市東山区五条橋東6丁目に生まれる。昭和17年京都市立第二工業高校窯業科を卒業。同20年日本製鉄に勤務する。同22年四耕会を結成。翌23年京都陶芸家クラブに加入し六代清水六兵衛に師事する。同31年第5回現代日本陶芸展に「白釉線花器」を出品して第一席となる。同36年第4回日展に「線花器」を出品して北斗賞特選受賞。同39年国際陶芸展に「赫釉方壷」を招待出品する。同40年第9回日展に「碧象」を出品して菊華賞受賞。同47年ヨーロッパ、中近東に研修旅行し、同49年フランス、イタリア、スペインに赴く。同51年第62回光風会展で辻永記念賞受賞。同年東京日本橋三越本店ではじめての個展を開催する。同56年、平成3年にも同店で個展を開催。この間同52年岡山高島屋、同53年京都朝日画廊、同59年高砂市福祉センターなどで個展を開催。同56年京展に「樹想」を出品して須田賞受賞。平成元(1989)年京都府文化功労賞受賞。同2年日展評議員となり、同7年第27回日展に「夕照」を出品して内閣総理大臣賞を受賞した。同年高砂文化センターで個展を開催している。碧彩と呼ばれる独自の色合いの陶磁器を制作し、京焼に新風を吹き込んだ。昭和50年より60年まで新潟大学非常勤講師、同51年より平成6年まで金蘭短期大学非常勤講師をつとめ、後進の指導にあたった。

増村益城

没年月日:1996/04/20

読み:ますむらましき  髹漆の国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)で日本工芸会参与の漆芸家増村益城は4月20日午前2時12分、腹膜炎のため東京都豊島区の平塚胃腸病院で死去した。享年85。明治42(1910)年7月1日、熊本県上益城郡益城町(旧津森村)田原344に父増村仁五郎、マタの七男として生まれる。本名成雄(なりお)。大正6(1917)年津森尋常小学校に入学し、同12年同校を卒業して同校高等科に入学するが、翌年熊本市立商工学校漆工科に入学。その頃、同校漆工科教員には財間六郎、藤芳太直(美術史、蒔絵)、川俣熊三郎(会津漆芸)らがいた。昭和2(1927)年同校漆芸科を卒業し、同校研究所研究生となる。同4年同研究所を修了。翌5年1月、熊本市立商工学校漆工科の同期生であった山本剛史の誘いにより奈良の漆芸家辻富太郎(永斎)に師事し、同7年1月やはり山本剛史の誘いによって上京して赤地友哉に師事する。同11年第13回東京工芸品展に本名成雄の名で「皆朱輪花盆」を出品し三等賞を受賞。翌年より独立して漆芸家として作家活動を始める。同13年第3回実在工芸展、同14年第4回同展に出品。また同14年第3回日本漆芸院展に益城の名で「黒呂色平卓」を出品して第二席となる。同15年紀元2600年奉祝記念展に「乾漆八花盆」で入選。同17年第5回文展に「髹飾卓」で入選。戦後も官展に出品し、同22年第3回日展に「髹飾卓」で入選以後、日展に出品を続ける。同27年第1回漆芸作家大同会に「柿紅葉銘々皿」を出品して研究賞を受賞し、以後同展に出品を続ける。同30年第1回日本漆芸展に「溜塗文机」を出品して文大臣賞受賞。同31年より日展のほか日本伝統工芸展にも出品し、同32年第4回同展に「乾漆盛器(日の丸)を出品して日本工芸会総裁賞受賞。翌年第5回同展に「乾漆根来盤」を出品して日本工芸会奨励賞、同35年第7回同展では「髹飾線文盛器」で日本工芸会文化財保護委員会委員長賞を受賞して、同40年より同展鑑査員をつとめる。同53年重要無形文化財「髹漆」保持者に認定され、同年より人間国宝新作展にも出品する。また、同年熊本岩田屋伊勢丹で「増村益城漆芸展」が開催された。後進の育成にも尽くし、同43年より香川県漆芸研究所講師、同51年より石川県輪島漆芸研究所講師をつとめる。同62年日本工芸会参与となった。乾漆技法を用い、複雑な曲線をもつ近代的な形、絵付けをせず、朱色、黒など漆本来の色一色で仕上げる独特の仕上げにより、現代生活に根ざした作風を確立した。同56年5月東京三越本店で「増村益城髹漆展」、同62年10月には熊本県立美術館で回顧展「増村益城展」が開催され、没後の平成7年には東京国立近代美術館で遺作展が開かれた。

金重素山

没年月日:1995/12/27

読み:かねしげそざん  備前焼作家の金重素山は12月27日午後5時50分肺炎のため岡山県赤磐郡山陽町の病院で死去した。享年86。明治42(1909)年3月31日、岡山県備前市伊部1531に備前焼窯元金重楳陽(慎三郎)を父として生まれる。本名七郎左衛門。父が幼時に死去したため、兄の金重陶陽に陶芸を学び、昭和2(1927)年より陶陽の助手として専ら窯焚をつとめる。大本教を信仰し、同26年陶陽窯を離れるにあたって大本教主出口直日の招請により京都府亀岡市の大本教本部の大本窯、花明山窯を制作の場と定めた。同34年大本教本部京都府綾部の鶴山窯に築窯して独立。同39年岡山市円山に登窯を築窯した。桃山時代の伊部焼「緋襷」に魅せられその再現に力を注ぎ、独自の窯を考案して焼成を試み、同40年電気窯による「緋襷」制作を創案して翌年それを完成させた。同42年東京日本橋壺中居にて「緋襷」のみの個展を開催した。同45、47年東京日本橋三越で個展を開催。同49年山陽新聞文化賞受賞。同53年天満屋岡山店にて「金重素山展」を開催する。同57年伊部に牛神下窯を築く。同58年岡山県指定重要無形文化財保持者の認定を受けた。同59年東京、大阪、名古屋にて「備前 金重素山展」を開催するとともに岡山高島屋で「金重素山展」を開催。平成2(1990)年松阪屋本店、三越本店にて「傘寿金重素山展」を開催。同年伝統文化保存振興への貢献に対して文化庁長官表彰を受ける。同3年天満屋岡山店にて茶陶展を開催し、同年岡山県文化賞受賞。同6年三木記念賞を同7年備前市功労賞を受賞した。昭和50年、54年に日本陶芸展に推薦出品したほか、兄陶陽一門の展覧会に協賛出品しているが、特定の団体に所属せず、茶陶を中心に独自の作陶を続けた。桃山風のおおらかなフォルムと緋襷の焼成により、風格ある作風を示す一方、伝統的備前焼きの進展に寄与した。

昆布一夫

没年月日:1995/12/23

読み:こんぶかずお  国選定文化財保存技術保持者の漆濾紙製作者昆布一夫は12月23日午前9時37分肺炎のため死去した。享年72。大正12(1923)年1月28日奈良県吉野郡吉野町大字窪垣内に窪増太郎の三男として生まれる。幼年時から家業の宇陀紙の小版製造を手伝いながら、紙漉きの技術を学ぶ。尋常高等小学校卒業後、京都の金物店に勤め、戦後一時大阪の日本アルミに勤務するが、昭和22年2月3日紙漉きを生業とする昆布家に養子結婚し、妻京子とともに本格的に吉野紙の製作を始めた。吉野紙は薄手の楮紙でありながら、紙の腰がつよいため江戸時代より漆や油の塵を濾す紙として用いられてきた吉野地方の特産品であった。戦後、需要が減少し漉き手が減少していくなかで、昆布一夫も昭和47年に美栖紙製造に生産の中心を移す。しかし、漆工芸には必需品であるところから、伝統的な技法による漆漉紙の製作も続け、同53年5月国選定文化財保存技術保持者に認定された。高度成長期に伝統的紙漉き技法が急速に衰退するなかにあって伝統的技法を継承することに尽力した。

金重道明

没年月日:1995/12/20

読み:かねしげみちあき  日本工芸会正会員の陶芸家金重道明は、12月20日午前5時58分、呼吸不全のため岡山市の病院で死去した。享年61。昭和9(1934)年4月1日、岡山県和気郡伊部町に、備前焼の人間国宝となった金重陶陽(本名勇)の長男として生まれた。同30年、金沢市立美術短期大学工芸科を卒業、父陶陽のもとで学びながら、作陶をはじめた。当初、伝統的な備前焼からの脱却をはかるために、鋭利で、不定形なフォルムをもったオブジェを制作していた。同35年から翌年にかけて渡米、その後は轆轤を使用しながら、備前の伝統である陶土と窯変を基本にした器物を制作するようになった。以後、国内外の陶芸展に出品をかさね、同44年に日本工芸会正会員になり、同46年には第3回金重陶陽賞を、同55年には日本陶磁協会賞をそれぞれ受賞した。平成2(1990)年には、岡山県重要無形文化財に選ばれた。

佐野猛夫

没年月日:1995/10/02

読み:さのたけお  京都市立芸術大学名誉教授で日本芸術院賞受賞のろうけつ染作家の佐野猛夫は10月2日午前4時26分、がん性腹膜炎のため京都市左京区の石野病院で死去した。享年81。大正2(1913)年10月22日、滋賀県守山町(現守山市)に生まれる。母あいの生家は西陣の刺繍業者であった。長浜尋常高等小学校在学中の大正12年ころから絵に熱中するようになり、同14年同校を卒業した翌年、京友禅の仕事をしている京都の兄宅に同居する。昭和2(1927)年京都市立工芸学校図案科に入学。山田江秀、山鹿健吉(清華)らに師事する。同5年ころより懸賞図案に応募し入賞する。同7年京都市立美術工芸学校を卒業。一時服飾図案を志したが、創作図案の道を選び、同8年第20回商工省工芸美術展図案部に創作図案「祭礼の図額」で初入選。同年第14回帝展に「大阪天満祭ノ図鑞染壁掛」で初入選。翌年の帝展には落選するが、同年山鹿清華の東宝劇場大緞帳制作に参加したことから、以後東京、大阪、神戸などで緞帳制作に携わるようになる。同10年1か月ほど沖縄に滞在して紅型や沖縄の工芸を学ぶ。同年に開設された京都市美術展に「鑞染壁掛琉球ノ女」を出品。また同年京都市美術工芸学校卒業の新人染織家集団「木旺社」の結成に参加する。同11年蒼潤社第1回美術工芸展で工芸奨励賞受賞。同12年第2回京都市展に「請雨の図染額」を出品して市長賞を受賞、同年第1回新文展に臈纈染四曲屏風「鳴禽の図」を出品。同13年第2回工芸院展に風呂先屏風「沼」を出品し工芸院賞を受賞。同15年紀元2600年奉祝展に出品するとともに、山鹿清華、皆川月華、稲垣稔二郎らによって結成された京都染織繍芸術協会に参加。同17年第7回京都市展に「土に遊ぶ染屏風」を出品して市長賞受賞。翌年より日本美術及工芸統制協会により戦時下の統制が始まるが、文部省より特別待遇の査定を受け、独自の研究を継続する。同19年奉祝京都市展に「屏風雛二題」を出品して受賞。戦後、同20年第1回京展に「木綿を織る」を出品して市長賞第二席となり、以後も同展に出品したほか、翌年から開催された日展にも参加。同21年秋、第2回日展に臈纈屏風「童女の図」を出品して特選となる。同23年初個展を京都河原町三条の朝日会館で開催。同年は京展、日展に出品せず新匠工芸会展に「蠟染布」を出品して新匠工芸会賞を受賞し同会会員に推される。また、同年京都府主催輸出工芸美術展において「蠟染更紗布」「立花壺文広幅染布」で商工大臣賞を受賞。同27年小合友之助が日展処遇問題により新匠会を退会したため、日展、新匠会を退くが、小合自身からも、また岩田藤七、高村豊周らからも日展復帰を促され、同29年第10回日展に臈纈「風景屏風」を出品して特選受賞。この頃多様な布地を用いたり、実用性を離れた自由な表現を試みたりし、昭和30年代半ばを過ぎると自然物の写実に基づく図案化から抽象図案へと展開を示した。同36年京都市立芸術大学工芸科染織専攻の助教授に就任、同38年同教授となった。同39年より自由な蠟の操作を求めてバック・ワックス技法による制作を試み、同42年京都市立美術大学のインドネシア調査旅行に参加してジャワ・パリ島を中心に染織技法の調査を行うなどして、研究を進めた。同44年第1回改組日展に「黒い潮」を出品して文部大臣賞受賞。同48年第4回改組日展に「噴煙の島」を出品して日本芸術院賞を受賞、同49年社団法人日本学士会よりアカデミア賞を受賞する。同51年よりたびたび日展常務理事をつとめたほか、同57年京都工芸美術作家協会理事長に就任した。同58年京都工芸界の高度な水準の維持に貢献し、優れた創作と育成活動をしたことが評価されて京都新聞文化賞を受賞。同63年京都府文化賞特別功労賞を受賞した。平成2(1990)年京都府文化芸術会館の主催により自選回顧展を開催。同3年作品集『佐野孟夫蠟染作品』(ふたば書房)を刊行した。伝統的な臈纈染を基礎に、より自由な表現を目指して多様な技法の研究により独自の手法を築き、水、潮をモティーフとした抽象的な作品に斬新な感性を示した。昭和41年より下村良之介、辻晋堂らとともに版画グループ「八ピキの泉」展に参加し銅版画も制作。著書に『染織入門』(昭和44年、保育社)、エスキース集『佐野猛夫倉創作の周辺』(同51年、マリア書房)がある。

今泉俊光

没年月日:1995/08/28

読み:いまいずみとしみつ  刀工の最長老で岡山県指定重要無形文化財保持者の備前刀刀工今泉俊光は8月28日午後4時24分、老衰のため岡山県邑久郡長船町長船172の自宅で死去した。享年97。明治31(1898)年4月21日、佐賀県に生まれ、大正13(1924)年に岡山県倉敷市で独学で作刀の研究を始める。昭和20(1945)年2月岡山県邑久郡長船町に移り住み、鍛刀場を開設。伝統的備前刀を中心に本格的な作刀研究に取り組み、衰退の危機にあった備前長船刀を復興させた。同34年岡山県重要無形文化財保持者の認定を受ける。同43年吉川英治賞を受賞。同52年全日本刀匠会の名誉会員となる。平成3(1991)年新作刀展覧会で特別賞を受賞。同5年には岡山市の林原美術館で「今泉俊光-作刀六十年の歩み」展が開催された。素材づくりから工夫を重ね、刃文に鎌倉時代の味わいのある独自の風格ある作風を示した。

西出大三

没年月日:1995/07/08

読み:にしでだいぞう  重要無形文化財保持者(人間国宝)で日本工芸会参与の西出大三は7月8日午前4時30分、脳こうそくのため東京都中野区の慈生会病院で死去した。享年82。大正2(1913)年6月7日石川県江沼郡橋立村字橋立に生まれ、昭和7(1932)年石川県立第一中判交を卒業して東京美術学校彫刻科に入学。木彫および古美術品の修理を学ぶ。特に仏像にほどこされた截金に興味を抱いて研究を進める。また、同7年より25年まで袈裟の研究も行った。同12年同校卒業。同13年第21回二科展に「裸婦」で入選。同21年春第1回日展に木彫「あま」を出品。同30年に国の「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」として選択された截金の技術保持者として同年より翌31年にかけて記録作成にたずさわる。同33年第5回日本伝統工芸展に「截金彩色飾合子富士」を出品して技術賞を受賞。同34年東京芸術大学で截金についての特別実習および特別講義を行って以降、国内外で截金技術の紹介を行う。同60年国の重要無形文化財保持者に選ばれた。日本工芸会理事、財団法人民族衣装文化普及協会評議員、日本七宝作家協会顧問をつとめ、截金のみならず七宝、ガラスなど従来注目されていなかった諸分野の発展、向上に尽くした。香合、合子、置物、盤などの古典的器物のほか木彫の置物、絵画にも繊細な截金装飾をほどこし、伝統技法を今日の造形に活かした。

暮田延美

没年月日:1995/04/02

読み:くれたのぶよし  東京芸術大学名誉教授の染織家暮田延美は4月2日午後2時47分、肝不全のため神奈川県茅ヶ崎市の茅ヶ崎徳洲会病院で死去した。享年85。明治43(1910)年1月9日群馬県桐生市新宿一丁目411番に生まれる。大正14(1925)年群馬県立桐生中学校に入学し、昭和4(1929)年に同校を卒業して東京美術学校工芸科図案部に入学する。同9年3月に同校を卒業して同年6月より東京高島屋百貨店宣伝部に入るが同10年9月に退職して大阪府商工技手となり、府立工業奨励館に勤務する。同13年1月同館を退職して制作に入る。同15年東京高島屋の依頼によりサンフランシスコ万国博覧会日本館の室内装飾デザインを担当。同16年東京高島屋図案部の嘱託により創作梁繍図案の制作を行う。また同年文展に入選する。戦後は図案家として自営し染織、印刷、室内装飾を行い、同27年みやこ染桂屋株式会社に染織技術部長として在籍する。この間主婦の友社発刊の『染織手芸』、婦人画報社刊行の『染めもの全書』に執筆した。同35年『家庭百科事典』 (暁教育図書社出版)のうち染織全般を執筆。同42年8月東京芸術大学美術学部教授となり、同52年定年退職するまで同校で後進の指導にあたった。この間、同50年7月から8月までフランス、ドイツ、オーストリア、東欧諸国を訪れ、諸国の染織、デザインを調査している。

月山貞一

没年月日:1995/04/01

読み:がっさんていいち  国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)の刀工月山貞一は4月1日午前7時50分、心不全のため奈良県桜井市の済生会中和病院で死去した。享年87。明治40(1907)年11月8目、大阪市東区鎗屋町に刀鍛冶月山貞勝の第三子として生まれる。本名昇(のぼる)。月山家は鎌倉時代に発祥した出羽月山鍛冶を祖とし、享和元年に生まれ家業を継いで月山鍛冶となった月山貞吉(本名奥山弥八郎)が天保4年ころに大阪に移住したことに始まる大阪月山家の正系に当たる。大正7(1918)年、初代貞一の死去のころから父貞勝より刀工を学び、同12年16歳で大阪美術協会展に貞光の銘で初入選。昭和2年から3年にわたり、内務省神宮司庁の依頼により父とともに皇大神宮式年御料神宝太刀58振、鉾43柄の制作にあたる。同4年父とともに昭和天皇の佩刀、大元帥刀を制作。同10年大阪から奈良吉野山に鍛刀場を移し、同18年奈良樫原の月山日本刀鍛錬場に移る。同年12月父の死去に伴い、大阪陸軍造兵廠軍刀鍛錬所の責任者となる。同20年8月敗戦後、マッカーサー指令により刀剣製造が禁止され、伝統技術衰退の危機をむかえるが、その中にあって同23年財団法人日本美術刀剣保存協会が設立され、同29年武器製造法令により文化財保護委員会から作刀許可を受けて日本刀制作の伝統保存が計られるようになるまで、刀鍛冶の火を守り続けた。同31年刀銘貞光を貞照とし、同41年祖父の銘を受けて二代貞一を襲名。この間の同40年奈良県桜井市茅原に月山日本刀鍛錬道場を開設する。同42年第3回新作名刀展に名槍「日本号」を写した作品を出品して文化庁長官賞ならびに正宗賞を受賞。同44年第5回同展に「相州伝切物埋忠明寿」により3年連続最高賞、正宗賞・文化庁長官賞を受賞し、同45年より同展に無鑑査出品、審査委員にも推された。同45年奈良県無形文化財保持者として認定され、翌46年国指定重要無形文化財「日本刀」保持者の認定を受けた。同年この認定を記念して神戸三越で「人間国宝月山貞一展」を開催。同48年自伝『日本刀に生きる』を刀剣春秋社より刊行。同年東京上野松坂屋で「人間国宝月山貞一展」、同54年北海道旭川市マルカツで「人間国宝月山貞一展」、同56年山形市松坂屋で「人間国宝月山貞一展」が開催された。大和系の柾目鍛え、相州系の大板目鍛え、山城系の小木目鍛えなど大和、相州、山城、備前、美濃の五地方に伝わる独自の鉄の鍛え方である五ケ伝の鍛法、近世に登場した大阪新刀鍛冶の作風をすべて身につけた上、月山家家伝の独自の地肌模様「綾杉伝」と刀工彫刻を伝承し、現代刀工界の最高峰として活躍し、後進の育成にも努めた。全日本刀匠会理事長、美術刀剣匠会長などを歴任。同63年米国ボストン美術館で「月山歴代と伝統」展を開催するなど、伝統技術の海外紹介にも積極的に当たった。古刀の模造のほか、「伊勢神宮式年御料太刀」など社寺の奉納刀に多くの名作を生んだ。

to page top