本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





堀文子

没年月日:2019/02/05

読み:ほりふみこ  伝統に縛られない日本画を目指して戦前から活躍し、晩年まで旺盛な創作活動を続けた日本画家で元多摩美術大学教授の堀文子は2月5日、心不全のため神奈川県平塚市の病院で死去した。享年100。 1918(大正7)年7月2日、歴史学者の堀竹雄の三女として東京都麹町区平河町(現、千代田区平河町)に生まれる。少女時代は科学者に憧れるも、画家を志すようになり1936(昭和11)年女子美術専門学校(現、女子美術大学)に入学、日本画を専攻。在学中の39年、私淑していた福田豊四郎が組織した新美術人協会の第2回展に「原始祭」を出品し初入選。翌年女子美術専門学校を卒業、新美術人協会会員となる。福田豊四郎を介して柴田安子と知己となり、その卓越した才能に刺激を受けながら、日本画の因襲的な様式を脱して、自然の形象を幾何学的に捉えた力強い造形の作品を発表。また40年から約二年間、東京帝国大学(現、東京大学)農学部作物学研究室で農作物を観察し記録する職を得、微細に植物を観察し緻密にスケッチを行なう経験から徹底した観察眼を養う。戦後、46年に外交官の箕輪三郎と結婚。48年に新しい日本画の創造を標榜して発足した創造美術の第1回展から出品、「廃墟」「朝」「収穫の風景」「稲束の群れ」が奨励賞、続いて翌年の第2回展でも「八丈島風景A」「八丈島風景B」が奨励賞を受賞、50年に会員となる。51年創造美術が新制作協会日本画部となり、会員として参加。その年の新制作展に出品した「山と池」により、翌52年、優れた女流日本画家を対象とする上村松園賞を受賞する。新制作展でも力強い線と色彩で画面を構成した作品を発表。60年に夫を亡くし、傷心の状況から抜け出すべく61年から62年にかけてエジプト、ギリシャ、フランス、アメリカ、メキシコを歴訪。帰国後はメキシコでの様々な印象をデカルコマニーの手法を用いて作品化し、個展や新制作展で発表する。67年、都会を離れて生きることを決意して神奈川県大磯に転居すると、それまでの強い造形や色彩構成に対する意識は後退し、日本の四季や風景を繊細な筆づかいと色調で描くようになる。一方で1950年代から70年代にかけて、絵本や挿絵の仕事を精力的に手がけた。56年に創刊された『こどものとも』(福音館書店)で「ビップとちょうちょう」を担当。69年には前年に手がけた絵本『き』(谷川俊太郎詩、至光社)で第16回サンケイ児童出版文化賞を受賞。72年第9回ボローニャ国際絵本原画展で絵本『くるみわりにんぎょう』(学習研究社)がグラフィック賞を受賞。絵本作家としても人気を博すが、日本画の制作に支障をきたすことを危惧し、70年代以降は絵本制作から離れることとなる。74年、多摩美術大学教授となる。同年、創画会結成に会員として参加(1999年退会)。79年、厳しい自然の中での暮らしを志向して長野県北佐久郡中軽井沢にアトリエを建て、大磯と行き来する生活を始める。また87年よりイタリアの古都アレッツォ郊外にアトリエを構え、1992(平成4)年まで日本とイタリアを往復して制作。95年、植物学者の宮脇昭に同行してアマゾンの熱帯雨林、メキシコのタスコ、マヤ遺跡を訪ねる。80歳を過ぎて幻の高山植物ブルーポピーをたずねヒマラヤ山麓を取材。99年よりほぼ毎年、銀座の画廊ナカジマアートで「現在(ルビ:いま)」と題した新作展を開催するようになる。2001年に解離性動脈瘤で倒れるも奇跡的に回復し、その後は顕微鏡を用い、プランクトンやミジンコ等のミクロな世界に生命の美しさを見出した作品を発表。2004年、生命科学者の柳澤桂子が般若心経を現代語にした画文集『生きて死ぬ智慧』(小学館)で作画を担当、同書は約55万部のベストセラーとなる。また同年より雑誌『サライ』(小学館)に絵と文を連載、身近なモティーフを平明な筆づかいで描き、その時々の心境や思いを綴った連載は反響を呼び、その名を一層世に知らしめた。14年、堀が原画(2001年作)を描いた陶板壁画「ユートピア」が福島空港に設置。「群れない、慣れない、頼らない」を信条とする、自由で個性的な生き方は多くの人に愛された。90歳を過ぎてから美術館での個展が相次ぎ、18年までナカジマアートでの個展も継続して開催、名もなきクモや雑草の生きる姿にひかれて制作した作品を発表していた。

直木孝次郎

没年月日:2019/02/02

読み:なおきこうじろう  大阪市立大学名誉教授で日本古代史学研究者の直木孝次郎は、老衰のため2月2日に西の京病院で亡くなった。享年100。 1919(大正8)年1月30日、兵庫県神戸市に米穀商を営む父・憲一と母・とよのあいだに次男として生まれた。第一神戸中学校(現、神戸高等学校)を経て1938(昭和13)年4月、第一高等学校文科乙類に入学、41年3月に同校を卒業し、同年4月に京都帝国大学文学部史学科に入学、43年9月に同大を繰り上げ卒業する。同年10月土浦海軍航空隊に入隊。45年9月に京都帝国大学大学院に復学し、46年3月に同大学院特別研究生、50年3月、大阪市立大学法文学部に助手として着任する。52年6月同大法文学部講師、55年1月同大文学部助教授、66年10月同大文学部教授。69年5月、『日本古代兵制史の研究』(吉川弘文館、1968年)により文学博士(京都大学)を授与される。81年3月、大阪市立大学を退職。同年4月、岡山大学文学部に教授として着任し、84年3月同大を退職、同年4月より相愛大学人文学部教授、1989(平成元)年3月同大を退職。同年4月甲子園短期大学教授、98年3月同大を退職した。 89年大阪文化賞。2004年第11回井上靖文化賞受賞。また、続日本紀研究会代表、橿原考古学研究所所員、財団法人高麗美術館理事、条里制研究会会長、財団法人大阪市文化財協会理事などを歴任した。 中学時代に『万葉集』に触れたことで古典への関心を深め、一高生時代には和辻哲郎の『古寺巡礼』を読み、法隆寺の百済観音像に強い感銘を受けたことで当初は美術史を志して日本史を専攻したという。京都大学在学中に「法隆寺資財帳の食堂及び延長焼亡以前の講堂に関する研究«法隆寺の食堂と講堂»」(『美術史学』80、1943年)を発表する。卒業論文のテーマは「上代神祇思想に関する二、三の考察」。 直木の学問的姿勢は歴史学者・津田左右吉の古典批判を継承するもので、文献を精力的に渉猟して晩年まで実証的な古代史像を提示し続けた。天照大神を祀る伊勢神宮が地方神から皇祖神、そして国家的神への転換を論証した研究や、応神・仁徳天皇の頃に大和を中心とした政治勢力に代わって河内地域に新政権が成立したとする河内政権論は、いずれも『古事記』・『日本書紀』を批判的に検証したもので、直木の代表的な研究テーマと言える。歴史や古典の歪められた解釈が政治的あるいは思想的に利用されることを危惧し、65年に家永三郎が起こした教科書裁判には家永側の証人として出廷、67年に神武天皇即位を建国記念の祝日として制定した紀元節問題では、反対の立場から各地で講演会を行い公聴会で意見を論述した。また、50年代から本格的な発掘が始まった難波宮跡をはじめ、平城京跡や大和古墳群、飛鳥池遺跡、吉野や和歌の浦など多くの遺跡や歴史的景観の保存活動で主導的な役割を果たした。2000年には長年の文化財保護活動の功績に対して第1回和島誠一賞を受賞。古代史のみならず美術史や文学にも高い関心を持ち、特に一高時代に土屋文明の指導を受けた短歌は生涯にわたって創作を続けて三冊の詩集を出版、16年には第32回朝日歌壇賞を受賞した。 代表的な著作は『日本古代国家の構造』(青木書店、1958年)、『持統天皇(人物叢書)』(吉川弘文館、1960年)、『壬申の乱(塙選書)』(塙書房、1961年)、『日本古代の氏族と天皇』(塙書房、1964年)、『奈良時代史の諸問題』(塙書房、1968年)、『奈良―古代史への旅―(岩波新書)』(岩波書店、1971年)、『倭国の誕生(日本の歴史1)』(小学館、1973年)、『夜の船出―古代史から見た萬葉集―』(塙書房、1985年)、『日本古代国家の成立』(社会思想社、1987年)、『飛鳥 その光と影』(吉川弘文館、1990年)、『新編 わたしの法隆寺』(塙書房、1994年)、『山川登美子と与謝野晶子』(塙書房、1996年)、『古代河内政権の研究』(塙書房、2005年)、『額田王(人物叢書)』(吉川弘文館、2007年)、『直木孝次郎 古代を語る』全14巻(吉川弘文館、2008~09年)『日本古代史と応神天皇』(塙書房、2015年)、『武者小路実篤とその世界』(塙書房、2016年)ほか多数。その経歴と論文・著作は『直木孝次郎先生年譜・著作目録』(「直木孝次郎先生追悼のつどい世話人会」編集、2019年)に詳しい。

長野重一

没年月日:2019/01/30

読み:ながのしげいち  写真家の長野重一は1月30日、慢性腎不全のため東京都目黒区内の病院で死去した。享年93。 1925(大正14)年3月30日大分県大分市に生まれる。生後すぐに父の叔父の戸籍に入り長野姓となる。小学校一年までは大分の生家(生野家)で育ち、1932(昭和7)年に上京、東京・高輪で養母と暮らし始めた。35年慶應幼稚舎に編入、同普通部を経て42年慶應義塾大学予科に進学。普通部在学中に本格的に写真を撮り始め、仲間と写真クラブを結成する。大学では「慶應フォトフレンズ」に入会し、OBの野島康三らの指導を受けた。47年9月に同大学経済学部を卒業。当初商社に就職するが、慶應の先輩にあたる写真家三木淳の紹介で、名取洋之助が創刊準備を進めていた『週刊サンニュース』に編集部員として採用されることになり、ひと月ほどで商社を辞めサンニュースフォトスに入社した。同社では編集および撮影助手などを務める。49年3月『週刊サンニュース』が廃刊となり、同12月、翌年6月創刊の『岩波写真文庫』に、編集責任者となった名取の誘いで加わり、撮影を担当するようになる。この間、『サンニュース』誌に初めて掲載される予定で養老院を取材したうちの一点を『アルス写真年鑑1950年版』に応募し特選を受賞、これが初の作品掲載となる。『岩波写真文庫』では共作も含め60冊あまりの撮影を担当した他、同社の総合誌『世界』の撮影も担当した。 54年に岩波を辞しフリーランスとなる。当初カメラ雑誌に技法記事を寄稿、その後週刊誌、総合誌等の仕事をてがけるようになった。56年木村伊兵衛と土門拳を顧問とする若手写真家のグループ「集団フォト」に参加、59年まで「集団フォト」展に出品。58年には初の海外取材で香港に渡航、同年初個展「香港」(富士フォトサロン、東京)を開催。60年には東ベルリンで開催された国際報道写真家会議に日本代表として出席するとともに東西ベルリンを取材、その成果を個展「ベルリン-東と西と」(富士フォトサロン)や雑誌で発表、安保闘争における権力側の象徴として機動隊をとらえた「警視庁機動隊」や高度成長期の世相を映す「五時のサラリーマン」等が注目された『アサヒカメラ』での連載「話題のフォト・ルポ」とあわせ、同年の日本写真批評家協会賞作家賞を受賞した。後年、それらの仕事は写真集『1960 長野重一写真集』(平凡社、1990年)にまとめられる。 60年代を通じてカメラ雑誌、一般誌に多くの寄稿を重ね、67年から70年にかけては『朝日ジャーナル』のグラビア頁の企画・編集を担当した。長野は、さまざまな社会事象を写真家自身の問題意識に立脚したドキュメンタリーとして撮影する自らの手法をフォトエッセイと位置づけ、客観性を過度に重視する報道写真とは一線を画した。77年にはそうした自身の方法をふまえつつ、ドキュメンタリー写真のあり方と歴史を考察した『ドキュメンタリー写真』(現代カメラ新書 No.30、朝日ソノラマ)を著している。 59年テレビ用記録映画「年輪の秘密」シリーズ(岩波映画)の『出雲かぐら』の撮影を、制作を手がけた羽仁進の誘いで担当。以後、ムービー撮影を多くてがける。撮影を担当した映画に、「東京オリンピック」(撮影と編集の一部を担当、市川崑総監督、1965年公開)、「アンデスの花嫁」(羽仁進監督、1966年公開)、人形劇映画「トッポ・ジージョのボタン戦争」(市川崑監督、1967年公開)等。また60年代末から70年代にかけコマーシャル・フィルムの撮影を多くてがけ、73年には撮影を担当したレナウン「イエイエ」のテレビCMがADC賞を受賞した。この時期、多くのコマーシャル・フィルムの仕事を大林宜彦とともにしており、後に「日本殉情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群」(1988年公開)、「北京的西瓜」(1989年公開)、「ふたり」(1991年公開)等の大林作品で撮影を担当した。 80年代には東京をモティーフとした写真の撮影を開始、それらをまとめた86年の個展「遠い視線」(ニコンサロン、東京および大阪)で伊奈信男賞(ニコンサロン年度賞)を受賞。その後も「遠い視線Ⅱ」(ニコンサロン、東京、1988年)、「東京好日」(コニカプラザ、東京、1996年)などの個展を開催。1997(平成9)年には「研究・長野重一の写真学 焼け跡から「遠い視線」まで―長野重一の原点を探る 発見して撮り、感じて写す。」(ガーディアン・ガーデン、東京)、2000年には「この国の記憶 長野重一・写真の仕事」(東京都写真美術館)と、回顧的な個展が開催された。 上記以外のおもな写真集に『ドリームエイジ』(ソノラマ写真選書10、朝日ソノラマ、1978年)、『遠い視線』(アイピーシー、1989年)、『東京好日』(平凡社、1995年)等がある。 91年および95年に日本写真協会賞年度賞(それぞれ『1960 長野重一写真集』、個展「私の出逢った半世紀」に対して)。93年に紫綬褒章、98年に勲四等旭日小綬章を受章。06年には長年の功績に対し日本写真協会賞功労賞を受賞した。

橋本治

没年月日:2019/01/29

読み:はしもとおさむ  小説、古典文学の現代語訳、日本の文化を縦横に論じた評論等数多くの著述を残し、いずれにおいても軽妙で独特な語り口によって読者を魅了した作家の橋本治は、1月29日、肺炎のため死去した。享年70。 1948(昭和23)年3月25日、東京都杉並区和泉の菓子店に生まれる。67年、東京大学文学部国文学科入学。2年次に駒場祭(学校祭)に発表したポスター「とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く」で注目される。73年、同学を卒業し、イラストレーターとして活動。77年、小説『桃尻娘』で第29回小説現代新人賞佳作を受賞しデビュー。1996(平成8)年、『宗教なんかこわくない!』で第9回新潮学芸賞を受賞。2002年、『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』で第1回小林秀雄賞受賞。05年、『蝶のゆくえ』で第18回柴田錬三郎賞受賞。08年、『双調平家物語』で第62回毎日出版文化賞受賞。18年『草薙の剣』で第71回野間文芸賞受賞。2021(令和3)年9月には、長編小説『人工島戦記』(ホーム社発行、集英社発売)が未完で刊行された。 また、緻密な図面に基づく編み物にも才能を発揮し、カルト的な人気を誇った。 93年から05年にわたり、『芸術新潮』に「ひらがな日本美術史(1~7)」(全119回、1995~2007年までに単行本全7巻を刊行)を連載。古代から戦後まで、時代順、1回1作品を原則とし、題名の通り肩肘張らない普段着の言葉で自身の選んだ作品について論じた。原稿の半分以上を時代背景の解説に費やすなど博識を披露し、正統的な美術史の語りにも言及しつつ(第7巻の「あとがき」では、研究生として一時期在籍した東京大学美術史学研究室において近世美術史家の山根有三に認められた逸話とともに、学問としての「美術史」との距離の取り方について述べる)、鋭い観察と想像力で作り手像に肉薄し、読者を挑発するような独断をも躊躇なく披露するなど、本著における記述は平明なだけではない。しかしながらこうした多様なアプローチの背後に貫かれていたのは、作品に対して「フィフティ・フィフティでつきあえなきゃいやだ」(「その五十四 そこら辺にあるもの 『柳橋水車図屏風』」『ひらがな日本美術史3』。芸術作品が「自分の物」ならという条件付きで記された言葉である)と「ひらがな」で述べる精神であっただろう。

柳宗玄

没年月日:2019/01/16

読み:やなぎむねもと  西洋中世美術を専門とする美術史家で、お茶の水女子大学名誉教授の柳宗玄は1月16日、急性呼吸不全のために死去した。享年101。 1917(大正6)年2月18日、東京(千駄ヶ谷町大字原宿)生まれ。父は民藝運動の創始者・柳宗悦、母は声楽家の柳兼子。幼少期を白樺派の文人たちの集う我孫子を経て赤坂区青南小学校に入学、23年の関東大震災後は京都に移り真如堂付近で過ごす。京都府立一中から第一高等学校を経て、1939(昭和14)年、東京帝国大学法学部に入学。42年、法学部法律学科を卒業したのち、同大学文学部美学美術史学科に転入する。45年同学科を卒業し、47年東京大学文学部副手、ついで助手となる。52年フランス政府給費生としてパリに留学(エコール・デ・シャルト)、翌年にはベルギーのルーヴァン大学に移って研鑽を積み、55年に帰国。その後57年に東京藝術大学美術学部助教授に着任する。1962年フランス政府招聘による渡航研究、その折に得た知見をもとに66~70年にかけて、カッパドキア調査団を組織(文部省給費)、三回の現地調査を行った。68年、お茶の水女子大学文教育学部教授に就任。精力的に調査旅行や美術全集などの編集執筆を行いつつ後進の指導に尽力し、82年に同大学を定年退官、名誉教授となった。その後は武蔵野美術大学にて教鞭を執り、88年に退任。教壇を離れたのちも調査旅行を重ねながら旺盛な著作活動を続けた。 初期の業績において注目すべきは、得意の語学力を駆使してなされた翻訳活動(モリヤックやルネ・ユイグの来日講演録など)、50年代の渡欧で得られた現地調査による新知見の成果である。各地に点在するロマネスク・ゴシック美術関連の史蹟巡歴を行い、自らの眼で確かめ記録を写真に収めての実地検分を重ねた結果、50年代後半に早くも透徹した審美眼と独自の史観を確立させていたことは、例えば「12世紀におけるモザン美術の役割」と題された学術論文(『美術史』19・20、1956年)や一般読者向けながら、キリスト教美術の本質を的確に把握し平易な言葉で綴られた「キリスト教美術の歴史」(『月刊キリスト』1959-60年、全12回連載)、『キリスト 美術にみる生涯』(現代教養文庫、1959年、2012年新版)などに明らかであろう。 その学風にさらなる奥行きとスケールを加えたのは、上述カッパドキア調査であった。63年の渡欧中、単身トルコのカッパドキアへ赴き、イヒララ渓谷に残る壮大なキリスト教壁画に魅了され、その調査を目的に東京藝術大学で中世オリエント遺跡学術調査団を組織、メンバーには吉岡堅二、平山郁夫、平島二郎、眞室佳武、長塚安司らが名を連ねた。66,68,70年と三度にわたり実行されたこの学術調査は、67年刊行の『太陽と洞窟の谷』(朝日新聞社)、『カッパドキヤ トルコの洞窟修道院』(鹿島出版会)、『秘境のキリスト教美術』(岩波新書)という豊かな副産物をもたらした。 70年代に入ると、西欧の美術・文化の古層へ向けて思索をさらに深化させ、最も充実した時期を迎える。名著の誉れ高い『西洋の誕生』(新潮社、1971年)をはじめ、「大系世界の美術」(学習研究社、1972-75年)、「世界の聖域」(講談社、1979-82年)、「岩波美術館」(岩波書店、1981-87年)などの大型企画の立案・監修等に従事、特に「大系世界の美術」では『ロマネスク美術』『初期ヨーロッパ美術』『東方キリスト教美術』の三部作を執筆し、斬新な章立てで知られる『ロマネスク美術』の巻は、第26回毎日出版文化賞(1972年)を受賞した。「世界の聖域」では『サンティヤゴの巡礼路』の巻を、「岩波美術館」では『天と地の賛歌』他計8巻を執筆している。 現地踏破を重んじる学風はその後も変わることなく続けられ、80年代に入るとインド、中国、東南アジア、南米などに対象を拡げつつ毎年のように調査旅行を行った。東と西、古と今を自在に往還するこの時期の境地を示す著書として『虚空散華』(福武書店、1986年)が知られ、アジア・南米の「用の美」に関心を傾斜させた最晩年の遺作に『祈りとともにある形 インドの刺繍・染と民画』(みすず書房、2009年)がある。 また生涯を通じて、フランスの画家ジョルジュ・ルオーに熱い共感を抱き、その紹介に努めたことも特筆に値する。『ルオー全版画』『ルオー全絵画』(共訳、岩波書店、1979、90年)はカタログ・レゾネとして資料的価値を有し、『ルオー・キリスト聖画集』(学習研究社、1987年)はルオー絵画の本質に迫る筆者渾身の作である。 さらにまた、学界の枠を越え読書界全般への貢献として、岩波書店『図書』(1964-65、75-84年)、『学士会会報』(1965-2007年)表紙デザインと図版解説を長きにわたり担当し、人々の眼と心を愉しませた。 参考資料として、『柳宗玄教授著作目録』(柳先生古稀祝賀会編、1986年)、『柳宗玄著作選』(全6巻、八坂書房、2005-11年)がある。

梅原猛

没年月日:2019/01/12

読み:うめはらたけし  哲学者の梅原猛は1月12日、肺炎のため自宅で亡くなった。享年93。 1925(大正14)年3月20日、宮城県仙台市に父・梅原半二と母・石川千代の間に生まれ、母の病没後は伯父夫婦のもとで育つ。東海中学校、広島高等師範学校を経て、1943(昭和18)年3月、第八高等学校文科乙類(現、名古屋大学)に入学、45年3月に同校を卒業し、同年4月、京都帝国大学文学部哲学科に入学したのち陸軍野砲兵隊に入営。終戦後の同年9月に大学に復学し、48年9月京都大学を卒業した。京都大学大学院特別研究生を経て52年10月、龍谷大学文学部に専任講師として着任。55年4月より立命館大学文学部専任講師、57年4月同大助教授、67年4月に同大教授となったが、学園紛争によって69年に立命館大学を辞職。72年4月京都市立芸術大学美術学部に教授として着任。同大では二度にわたって学長を務めた(1974年7月~80年6月、83年7月~86年3月)。86年3月京都市立芸術大学を退職、同年4月に国際日本文化研究センター創設準備室長となる。87年5月には国際日本文化研究センターが発足し初代所長に就任した(~1995年5月)。1995(平成7)年5月国際日本文化研究センター顧問。97年4月、第13代日本ペンクラブ会長(~2003年4月)。京都市立芸術大学名誉教授。 65年第19回毎日出版文化賞、69年第3回仏教伝道文化賞、72年第26回毎日出版文化賞、87年第15回大谷竹次郎賞、91年第44回中日文化賞、92年第43回NHK放送文化賞、同年文化功労者、98年第5回井上靖文化賞、99年文化勲章。叙従三位。 梅原は八高時代に哲学書を読み漁り、西田幾多郎ら京都学派に憧れて京都帝国大学に入学、哲学者の山内得立に師事した。京都帝大では西洋哲学を学んだが、最初の著作となった『仏像―心とかたち』(共著、日本放送出版協会、1965年)を契機として日本文化や仏教への関心を深める。続く『地獄の思想―日本精神の一系譜』(中公新書、1967年)で、日本における地獄思想の形成と表象を論じて一躍注目をあつめた。その後も怨霊史観で古代史を大胆に解釈した『隠された十字架―法隆寺論』(新潮社、1972年)や『水底の歌―柿本人麻呂論』(新潮社、1973年)、出雲神話を論じた「神々の流竄」(『梅原猛著作集8』集英社、1981年)、東北地方に縄文文化の基層を見いだす『日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る』(佼成出版社、1983年)など話題作を次々と発表。フィールドワークを重視し、仮説から論を展開する梅原の手法に対しては、実証性や史料解釈の面から批判的な意見も少なくなかったが、斬新な切り口で古典や歴史、宗教、日本文化を縦横無尽に論じた著作は数多くの読者を獲得、また、歌舞伎や能の戯曲を執筆するなど晩年まで多彩な分野で活躍した。 『仏像―心とかたち』で梅原は精神史的側面から仏像を読み解いて独自の芸術論を切り開き、以降、芸術や作家に関する著作を数多く執筆した。梅原の芸術論は作品の造形が人間の精神的な営為を象徴するものと見る、あるいは作家・芸術家の生い立ちやその人間性に強い関心を寄せるものであった。主な著作に夭折した画家・三橋節子に関する『湖の伝説 画家・三橋節子の愛と死』(新潮社、1977年)や浮世絵師・写楽を歌川豊国と同一人物であると論じた『写楽 仮名の悲劇』(新潮社、1987年)、江戸時代の仏師・円空の作例を網羅的に訪ね歩いた『歓喜する円空』(新潮社、2006年)があるほか、監修を手掛けた『人間の美術』全10巻(学習研究社、1989~91年)では自身も『1 縄文の神秘:縄文時代』・『4 平城の爛熟:奈良時代』・『10 浮世と情念:江戸時代2』・『7 バサラと幽玄:室町時代』を執筆。岡本太郎や横尾忠則をはじめとする作家とも交流が深く、京都市立芸術大学時代の同僚には秋野不矩や石本正、安田謙、藤平伸、三浦景生ら、学生には森村泰昌や山本容子、森田りえ子らがいた。2001年以後、梅原と関わりの深い作家による展覧会が断続的に開かれ、2014年には「梅原猛と25人のアーティスト―梅原猛 卆寿記念―」(高島屋京都店ほか)が開催された。作家らとの対談集に『梅原猛対談集 芸術の世界』(講談社、1980年)、『美の奇神たち 梅原猛対話集』(淡交社、2013年)がある。また、自身でも書を手掛け藤平や三浦らとの個展も開催している。 そのほかの著書に『笑いの構造』(角川書店、1972年)、『美と宗教の発見:創造的日本文化論(講談社文庫)』(講談社、1976年)、『空海の思想について(講談社学術文庫)』(講談社、1980年)、『梅原猛著作集』全20巻(集英社、1981~83年)、『海人と天皇 日本とは何か』(朝日新聞社、1991年)、『梅原猛著作集』全20巻(小学館、2000~03年)、『天皇家の“ふるさと”日向をゆく』(新潮社、2000年)など、ほか多数。死後、国際日本文化研究センターから『梅原猛先生追悼集―天翔ける心』(2020年)が出されたほか、『ユリイカ 4月臨時増刊号』736(2019年3月)や『芸術新潮』832(2019年4月)で特集が組まれた。

六角鬼丈

没年月日:2019/01/12

読み:ろっかくきじょう  建築家で東京藝術大学名誉教授の六角鬼丈は1月12日、病気療養中のところ東京都内の自宅で死去した。享年77。 1941(昭和16)年6月22日、漆芸家の六角穎雄(号は大壌)の長男として東京市小石川区(現、文京区)に生まれる。本名は正廣。漆芸家で芸術院会員の六角紫水は祖父。都立武蔵丘高等学校を経て東京藝術大学美術学部建築科に進学、同科教授の吉村順三をはじめ、山本学治、天野太郎、茂木計一郎らから建築設計の薫陶を受けた。 65年に卒業、磯崎新アトリエに入り、ユーゴスラビアの「スコピエ都心再建計画」(1966年)や日本万博博覧会の「お祭り広場」(1970年)など壮大な規模の建築構想に携わるとともに、ミラノトリエンナーレ出品の「エレクトリックラビリンス」(1968年)に象徴される磯崎の前衛的な建築思想に関わった。68年、在籍中に手がけた「クレバスの家(自邸)」(1967年)が植田実編集の『都市住宅』(鹿島出版会)創刊号に掲載され、建築家としてデビューを果たす。69年に独立、「八卦ハウス(石黒邸)」(1970年)を発表し、脱近代を志向した新進の建築家として注目された。また設計事務所を営む傍ら、70年代に「自邸計画」と題した自己の内面を追究した概念的かつ個性的な住宅構想の連作を建築専門誌上で立て続けに発表して新世代の建築家の旗手としての頭角を現した。74年以降、生涯の作家名となる鬼丈を号する。 78年、同世代の建築家3人(石山修武、毛綱毅曠、石井和紘)と「婆娑羅」と称する同人グループを結成、80年代にかけて「空環集住器(石河邸)」(1983年)や「樹根混住器(塚田邸)」(1980年、1984年)等、その名が示すとおり身体的感受性に依拠した設計理念と強烈な造形表現を特徴とする創作活動を精力的に展開した。また、この時期には「雑創の森学園」(1977年、1982年)、「金光教福岡高宮教会」(1980年)、「大雪山展望塔」(1984年)、「東京武道館」(1989年)等大型の教育・文化施設を手がけ、当時全盛を迎えつつあったポストモダニズムの建築家の中心的な存在と目されるようになった。中でも「東京武道館」は、設計競技から完成まで5年を費やした労作であるとともに、武道を藝術になぞらえて、水墨画に通じる「雲海山人」と五輪書(宮本武蔵)から着想した「地水火風空」の二語を設計理念に据え、造形的には刀装や家紋を想起させる菱形を構成単位として丹念にまとめ上げた、六角の創作活動の前半を締めくくる重要な作品である。 85年以降、理念的な下地となる東洋思想的な観念と自身が抱える二律背反の〓藤をかけて、自らの創作の姿勢を「新鬼流八道(ジキルハイド)」と称する。 1991(平成3)年、茂木計一郎の退職を受けて母校の教授に着任、同年に開設された取手キャンパス整備の掉尾を飾る「東京藝術大学大学美術館取手館」(1994年)、また上野キャンパスの「東京藝術大学大学美術館本館」(1999年)の設計を手がけるとともに上野キャンパス再編計画の立案に携わり、在職中を通じて同キャンパスの再整備に尽力した。2004年に美術学部長となり、09年に定年退職。教育者としても少数精鋭の学校ならではの濃密な設計指導で手腕を発揮し、大学院の同研究室からは中村竜治、西澤徹夫、宮崎晃吉、中川エリカら、現在多彩な活躍をみせる若手建築家を輩出した。 91年以降、建築家としては「知る区ロード杉並」(1993年)、「立山博物館まんだら遊苑」(1995年)、「感覚ミュージアム」(2000年)等、五感に訴えることを主題とした公園規模の作品に軸足を移す。00年に清華大学客員教授、藝大退職後の09年に北京中央美術学院特任教授に着任し、都市計画規模のプロジェクトを立ち上げるなど中国へも活躍の場を広げた。 79年「雑創の森学園」で吉田五十八賞、91年「東京武道館」で日本建築学会賞作品賞を受賞。作家論・作品集に『日本の建築家3 六角鬼丈 奇の力』(丸善出版、1985年)、『現代建築 空間と方法25 六角鬼丈』(同朋舎出版、1986年)、著作に『新鬼流八道ジキルハイド―叛モダニズム独話』(住まいの図書館出版局、1990年)がある。

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