本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





細野正信

没年月日:2008/03/11

読み:ほそのまさのぶ  美術史家、美術評論家の細野正信は3月11日午前8時58分、胆管がんのため千葉県船橋市の病院で死去した。享年81。1926(大正15)年9月11日、群馬県前橋市に生まれる。1947(昭和22)年群馬師範学校を卒業後、前橋市立第一中学校教諭を務め、翌年早稲田大学高等師範部へ入学。49年に同大学第一文学部に編入学、57年に同大学院文学研究科美術史学専攻修士課程を修了し文部省へ入省、翌年には同芸術課の日本芸術院事務局に勤務する。63年東京国立博物館へ出向。72年に同館美術課絵画室主任研究官、85年に同課建築室長となる。87年同館を定年退官し、山種美術館学芸部長となる。1997(平成9)年には高崎タワー美術館館長。2000年に同館館長を辞し、03年までヤマタネ美術顧問を務める。また1963年から71年まで女子美術大学、71年から88年まで早稲田大学で講師を務めた。2000年には船橋市教育文化功労者として表彰された。1960年代前半より『美術手帖』『萠春』誌上に展評や美術評論を執筆し、東京国立博物館在任中は、青木木米・中山高陽等の近世文人画家や司馬江漢についての論考を『MUSEUM』をはじめとする諸雑誌に発表。70年代には美術全集の刊行が相次ぐ中で、とくに狩野芳崖や横山大観といった近代日本画に関する巻の執筆・編集を担当し、美術雑誌や展覧会図録でも旺盛な執筆活動を展開、また日本美術院を主とする同時代の日本画家についての評論も行う。75年からは『日展史』全41巻、89年からは『日本美術院百年史』全15巻編纂の監修を務め、日本近代美術史に大きく与る団体の基礎資料集成を築いた功績は大きい。その著述においても近代日本画の通史のスタンダードをつくりあげ、専門家はもとより多くの美術愛好家の手引となった。主要な編著書は下記の通りである。 編集『日本の美術36 洋風版画』(至文堂、1969年) 『現代日本美術全集2 横山大観』(集英社、1971年) 『カラーブックス 竹久夢二』(保育社、1972年) 編集『近代の美術9 下村観山』(至文堂、1972年) 編集『近代の美術17 フェノロサと芳崖』(至文堂、1973年) 『カラーブックス 日本の画家 近代日本画』(保育社、1973年) 編著『日本の名画17 菱田春草』(講談社、1973年) 『読売選書 司馬江漢 江戸洋風画の悲劇的先駆者』(読売新聞社、1974年) 監修『日展史』全41巻(社団法人日展、1975~2002年) 編集『日本の名画1 狩野芳崖』(中央公論社、1976年) 『現代日本美人画全集5 伊東深水』(集英社、1977年) 富岡益太郎・吉沢忠と編著『日本の名画8 富岡鉄斎・横山大観・菱田春草』(講談社、1977年) 『皇居造営下絵 杉戸絵と襖下絵』(京都書院、1977年) 『ブック・オブ・ブックス 日本の美術52 江戸狩野と芳崖』(小学館、1978年) 『現代日本の美術4 東京画壇』(小学館、1978年) 編集『日本美術全集25 近代絵画の黎明:文晁・崋山と洋風画』(学習研究社、1979年) 監修『日本の花鳥画』全6巻(京都書院、1980~81年) 『明治花鳥画下絵集成 宮内庁内匠寮旧蔵』(京都書院、1981年) 『短冊絵300撰 内田コレクション』(芸艸堂、1981年) 浜田台児と監修『伊東深水全集』全6巻(集英社、1981~82年) 『現代日本絵巻全集16~18 東海道五十三次合作絵巻』(小学館、1982~83年) 『現代日本画全集1 堅山南風』(集英社、1983年) 編集『日本の美術232 江漢と田善』(至文堂、1985年) 『竹久夢二と抒情画家たち』(講談社、1987年) NHK取材班と共著『流転・横山大観「海山十題」』(日本放送出版協会、1987年) 『日本の美術262 江戸の狩野派』(至文堂、1988年) 監修『近代の美人画 目黒雅叙園コレクション』(京都書院、1988年) 『日本美術院百年史』全15巻(財団法人日本美術院、1989~99年) 監修『近代の日本画 花鳥風月:目黒雅叙園コレクション』(京都書院、1990年) 責任編集『昭和の文化遺産1 日本画1』(ぎょうせい、1990年) 編集『巨匠の日本画2 横山大観 遥かなる霊峰』(学習研究社、1993年) 『日本画入門 よくわかる見方・楽しみ方』(ぎょうせい、1994年) 『日本絵画の表情1 雪舟から幕末まで』(山種総合研究所、1996年) 編著『名画の秘密 日本画を楽しむ』(ぎょうせい、1998年) 監修『日本絵画の楽しみ方完全ガイド 絵画を楽しむための「20のポイント」と日本の巨匠72人の名作』(池田書店、2007年) 

米倉守

没年月日:2008/02/25

読み:よねくらまもる  美術評論家で、多摩美術大学教授、松本市美術館長であった米倉守は、下咽頭癌のため、東京都三鷹市の病院で死去した。享年70。1938(昭和13)年、三重県津市に生まれる。関西学院大学を経て、関西大学文学部を卒業。卒業後、朝日新聞社に入社、同社大阪本社学芸部、ついで東京本社学芸部で美術を担当した。その後、編集委員となった。1994(平成6)年に多摩美術大学教授となり、同大学造形表現学部長を務めた。また2002年に開館した長野県の松本市美術館の館長を歴任した。新聞記者時代から、展覧会等の批評記事を数多く執筆した米倉であるが、そこには一貫して「現場」(画廊での個展、創作のアトリエ等)に対するこだわりがあった。そして書かれた美術批評は、また一貫して「一般読者」に向けられていた。その点は、米倉の批評の姿勢であり、新聞社を退いた後に書かれた、つぎのような一節からも了解される。「私は画家に呼びかける文体をとったとしても、作家自身に直接向かって書いたことは一度としてない。どうとられようと対象は一般の人たちである。もし何らかの影響が作家側にあるとすれば、一般人、一般読者に投影して、そのはるか反映が作家の制作に影を落とすやもしれない場合に限るだろう。評論家と作家の間に大きな位置を占めている一般読者という存在こそすべてである。評論家の願望を描き、作家、作品を一般大衆に語る自由はあるからだ。(中略)美は壊れやすく滅びやすく、はかない。そして事実滅びてゆくけれど、それを語り描くことが評論だと思っている。」(「靴を隔てて痒きを掻く」、『美術随想 夢なら正夢―美の賑はひに誘ふ一〇〇章』、求龍堂、2006年)米倉は、美術を「現場」から見つめつづけ、「一般読者」に向かって「批評」として発信をつづけたジャーナリストであった。上記引用した著書以外の主要な著書は、下記のとおりである。 『中村彝 運命の図像』(日動出版部、1983年) 『個の創意―現代美術の現場から』(形象社、1983年) 『評伝有元利夫 早すぎた夕映』(講談社、1986年) 『ふたりであること 評伝カミーユ・クローデル』(講談社、1991年) 『美の棲家1 東洋編』(彩樹社、1991年) 『美の棲家2 西洋編』(彩樹社、1991年) 『流産した視覚 美の現在・現代の美術』(芸術新聞社、1997年) 『両洋の眼・21世紀の絵画』(瀧悌三共著、美術年鑑社、1999年) 『非時葉控 脇村義太郎 全人翁の美のものさし』(形文社、2002年) 

中山公男

没年月日:2008/02/21

読み:なかやまきみお  西洋美術史家で美術評論家の中山公男は、2月21日肺気腫のため死去した。享年81。1927(昭和2)年1月3日、大阪船場の裕福な商家に五人兄弟の三男として生まれる。中学時代より書店や古本屋をめぐり、哲学、美術、文学、歴史書などの収集と読書を日課とする。44年4月、新潟高等学校に入学。47年4月、東京帝国大学文学部哲学科美学美術史学科入学、矢崎美盛に師事。高校時代からの友人丸谷才一のほか、篠田一士、永川玲二など外国文学関係者や画家の松本竣介、麻生三郎らと交友を深める。50年同学科卒業。卒業論文は、フランシス・グリューベルを中心としたフランスの戦後派美術をテーマに選ぶ。53年、同大学大学院特別研究生修了、修士論文では、初期中世の写本芸術をテーマとした。同年、女子美術大学専任講師、54年より多摩美術大学講師、日本大学芸術学部助教授として、西洋美術史、美学概論、芸術論、芸術学、彫刻史、フランス語の講義を行うほか、文化学院でも教鞭を執る。この頃、丸谷才一、篠田一士とともに『ユリイカ』のコラムを毎月号担当、「第一回ルーヴル展」(1954年)のカタログ編集委員会、続いて「朝日秀作美術展」の事務局及び選考委員会に従事、昭和30年代半ばまで携わる。59年5月、国立西洋美術館の開館にともない文部技官主任研究員として勤務、「ミロのビーナス特別公開」「ギュスターヴ・モロー展」「ルオー遺作展」などに関わる。63年から在外研究員として3ヶ月間欧州に滞在。68年万国博覧会参事を務め、同年7月国立西洋美術館を退官。83年多摩美術大学教授、87年~90年筑波大学教授、1991(平成3)年~97年明治学院大学教授を歴任する。また、86年から2005年まで群馬県立近代美術館長を務め、この間、美術館連絡協議会理事長(1995年~2001年)、全国美術館会議会長(1997年~2001年)として、美術館の不備、学芸員の処遇の改善などを訴え、美術館行政の抜本的な改革を目指した。このほか、地中海学会の設立に関わり、副会長を務めた。西洋美術にとどまらず、美術全般に幅広い知識をもち、専門家から一般の美術愛好家に向けて数々の評論、解説、エッセーを残した。変貌をテーマとした画家論『レオナルドの沈黙―美の変貌』(小沢書店、1976年)、昭和20年代から40年間にわたる論考を納めた『美しき禍い』(小沢書店、1988年)、また自伝的エッセーとして『私たちは、私たちの世代の歌を持てなかった―ある美術史家の自伝的回想』(生活の友社、2004年)などが知られるが、なかでも代表作は、日本人としていかに西洋と向き合うかという問いを発した『西洋の誘惑』(初版、新潮社、1968年・改訂版、印象社、2004年)である。自ら「被誘惑者」として語る西洋と自己、あるいは西洋と日本の対峙というテーマは、中山の思索において根幹をなす。太平洋戦争によって、読書を通じて憧憬した西洋に、理念でとらえているにもかかわらず現実には近づけない状況に直面し、西洋の受容について熟考することとなる。「思考や想像力が、ひとつの理念を生みだそうとするとき、些細な経験は無にひとしい。体験は、理念追求の力を訂正することはあっても、それを凌駕することはできない」。美術史にとって感覚的な体験が絶対であることを認めながらも、理念は体験に勝るという結論に至った中山は、理念に到達するためには、体験の背後にある「思惟体系なり審美体系なりの違い」を把握することが必要であると説く。被誘惑者にとって西洋は幻影であり、両者には容易には到達し得ない膨大な距離がある。西洋と上辺だけの対峙をする「似非モラリスト、疑似エステート」に対し、時に痛烈な批判を浴びせながら、真の西洋受容とは、その幻影を認め、その誘惑を知ることと論じた。1960年代に展開されたこの主張は、半世紀を経た今なお色あせることなく、21世紀の我々に、今度こそ幻影を「奪取」するよう促している。このほか、『モローの竪琴―世紀末の美術』(小沢書店、1980年)、『ユトリロの壁―絵画随想26篇』(実業之日本社、1984年)、『画家たちのプロムナード―近代絵画への誘い』(悠思社、1991年)、翻訳書に、ルネ・ユイグ著、中山公男・高階秀爾訳『見えるものとの対話1~3』(美術出版社、1962~63年)、アンリ・ドベルビル著、中山公男訳『印象主義の戦い』(毎日新聞社、1970年)、クラルス・ガルヴィッツ著、中山公男訳『桂冠の詩人ピカソ―1945年以降の絵画作品』(集英社、1972年)、フランシス・ポンジュ他著、中山公男訳『ピカソ―破壊と創造の巨人』(美術出版社、1976年)などがある。また新聞、美術雑誌、展覧会カタログ、美術全集等に多数の執筆を残した。詳しくは、『芸術学研究』7号(1997年)に明治学院大学文学部芸術学科編「中山公男教授 著作目録」が掲載されている。蔵書は吉野石膏財団に寄贈され、現在、約3000点あまりが中山文庫として公開されている。

森口華弘

没年月日:2008/02/20

読み:もりぐちかこう  友禅の重要無形文化財保持者(人間国宝)である森口華弘(本名平七郎)は2月20日午後4時50分、老衰のため京都市左京区の病院で死去した。享年98。1909(明治42)年12月10日、滋賀県野洲郡守山町に父周次郎、母とめの三男として生まれる。本名は平七郎。1921(大正10)年3月、守山尋常小学校(現、守山市立吉身小学校)を卒業。24年、母の従兄坂田徳三郎の紹介で友禅師・三代中川華邨に師事し、その一方、華邨の紹介で疋田芳沼に就いて日本画を学ぶ。1934(昭和9)年、師の華邨の作風をひろめるという意味を込めて坂田徳三郎により名付けられた雅号「華弘」を用いる。2年後、1月8日に林智恵と結婚、中川家を出て一家を構え、39年1月には独立して工房をもつ。これに前後して華弘の代表的な技法である「蒔糊(まきのり)」の着想が生まれる。「蒔糊」の技術は、東京国立博物館で目にした江戸時代の撒糊技法が施された小袖と漆蒔絵の梨子地から、江戸時代より伝わる撒糊技法と漆芸の蒔絵技法と組み合わせることを着想したという。41年には丸川工芸染色株式会社に取締役・技術部長として勤務。しかし、戦争下、贅沢品禁止令、企業整備令の施行や社員の軍事工場への徴用の中、友禅の仕事は続けられなくなる。戦後、友禅の仕事を徐々に再開し、49年には市田株式会社主催の柳選会に参画、52年には京都工人社に加わり伝統工芸の保護・育成にも携わる。55年、第2回日本伝統工芸展に蒔糊を施した友禅着物「おしどり」「早春」「松」を出品し、全作入選。そのうち「早春」は朝日新聞社賞を受賞。56年、第3回日本伝統工芸展で友禅着物「薫」が文化財保護委員会委員長賞を受賞し、日本工芸会正会員となる。翌年から同展鑑査員に就任。58年には第1回個展を東京日本橋三越にて開催(以後毎年開催)。翌年、全国絹製品競技大会で通産大臣賞を受賞。60年、京都新聞文化賞を受賞。この頃から社団法人日本工芸会理事として活躍。62年には常任理事となる。翌年、「現代日本伝統工芸展」(オランダ・西ドイツ)に出品。67年、57歳の若さで国の重要無形文化財保持者に認定される。同年、「近代日本の絵画と工芸」展(京都国立近代美術館)に出品。70年には社団法人日本工芸会副理事長就任。翌年、紫綬褒章を受章、その後73年には第20回日本伝統工芸展に友禅着物(梅華文様)を出品、20周年記念特別賞を受賞。同年、「現代日本の伝統工芸展」(中国展観記念)に出品。翌年、京都市文化功労賞受賞後、「京都近代工芸秀作展」「現代日本の伝統工芸展」(ポルトガル・オーストリア・イタリア・スペイン)等に出品。76年『友禅―森口華弘撰集』(求龍堂)を刊行、「森口華弘五十年」(東京・京都 日本経済新聞社主催)を開催。80年、勲四等旭日小綬章を受章。同年、「染と織―現代の動向」展、翌年、「現代工芸の精華―京都作家秀作」展に出品。82年には「友禅・人間国宝 森口華弘展」(石川県立美術館)が開催。「人間国宝展米国展」(ボストン・シカゴ・ロサンゼルス)にも出品。翌年からも多くの作品を展覧会に出品し、「伝統工芸30年の歩み」展(東京国立近代美術館)、「現代日本の工芸―その歩みと展開」展(福井県立美術館)、「京都国立近代美術館所蔵 近代京都の日本画と工芸」展(群馬県立近代美術館)等に出品。特に85年「現代染織の美―森口華弘・宗廣力三・志村ふくみ展」(東京国立近代美術館 日本経済新聞社主催)、翌86年「人間国宝・友禅の技 森口華弘展」(滋賀県立近代美術館)と森口の歴史を振り返るような内容の展覧会も開催される。87年、京都府文化特別功労賞を受賞。その後も、「近代の潮流・京都の日本画と工芸」展(京都市美術館)、「人間国宝・友禅 森口華弘」展(守山市民ホール)、「染織の美―いろとかたち―」展(新潟市美術館)等に出品。1994(平成6)年には「伝統と創生 友禅の美 森口華弘・邦彦展」(大阪・京都大丸、読売新聞社主催)において父子の作品を一堂に展観する。翌年、滋賀県守山市の名誉市民第一号の称号を受ける。98年にはポーラ文化賞を受賞。翌年からも「京友禅―きのう・きょう・あした」展(目黒区美術館)、「開館30周年記念展Ⅰ工芸館30年のあゆみ」(東京国立近代美術館工芸館)等に出品。2007年、息子森口邦彦が友禅の重要無形文化財保持者に認定され、父子ともに友禅の重要無形保持者となる。没後の09年4月、「森口華弘・邦彦展―父子、友禅人間国宝」が滋賀県立近代美術館、東京日本橋三越にて開催される。

野々村一男

没年月日:2008/02/11

読み:ののむらかずお  日本芸術院会員の彫刻家、野々村一男は2月11日午前11時33分、老衰のため名古屋市の自宅で死去した。享年101。1906(明治39)年11月15日、愛知県名古屋市西区江中町に生まれる。生家は建築業を営んでおり、家業を継ぐよう期待されたが、反対を押して上京。東京美術学校(現、東京芸術大学)彫刻科塑造部に入学し、在学中の1929(昭和4)年第10回帝展に「座女」で初入選。36年3月、同校を卒業する。36年、「彫刻芸術の既成概念を廃して価値要素を学究的に考察する」ことをめざして、早川巍一郎、加藤顕清、大須賀力らとともに日本彫刻家協会を結成。同年の文展鑑査展に「現實への飛躍」を出品。1937年7月、応召して中国大陸に渡り、38年6月に除隊。38年第2回新文展に「渡河戦」を出品して特選となる。52年第8回日展に「人間告訴」を出品し特選・朝倉賞受賞。58年第1回新日展に会員として「躍進」を出品、61年日展評議員となる。80年第12回改組日展にブロンズによる男性裸体立像「物との、はざま」を出品し、翌年同作品により日本芸術院賞受賞。81年日展理事、82年日展参事となる。88年、長年の業績により日本芸術院会員となった。1989(平成元)年喉頭がんのため声帯を失うが、制作の面では新局面を拓く。従来、重力に逆らうことなく立つ、あるいは座るポーズを基本とする男性、女性の裸体像によって抽象的概念を表現していたが、右ひざを曲げて体を地面に並行に仰向けに倒した人体をとらえた2003年の第35回改組日展出品作「サハラサバク上空にて(日没も過ぎて地平線がなく成る寸前の感)」、飛翔する人体をとらえた04年の第36回改組日展出品作「ふりそそぐ宇宙線の音を聞き我が生存の心ふくらむ」や、浮遊する人体をとらえた第37回改組日展出品作「空中遊泳」などのように、日常性から離れた状況の人体像によって生命や自然観などをあらわす作品へと移行した。02年日本橋三越で「野々村一男彫刻展」を開催し、1933年から2002年までの70年にわたる制作の過程が跡づけられた。裸体全身像をモティーフとする塑像を得意とし、一貫して官展に出品して、彫塑におけるアカデミックな表現を模索し続けた。晩年はレリーフ作品が多くなる一方、茶器などの作陶も行ったほか、1966年の開学以来、愛知県立芸術大学で教鞭を取り、後進の指導に当たった。官展出品歴:第10回帝展(1929年)「座女」、第11回帝展不出品、第12回帝展「仰ぐ者」、第13回帝展「少女坐像」、第14回帝展「思凡」、第15回帝展「生」、昭和11年文展鑑査展「現實への飛躍」、第1回新文展(1937年)「或る感情」、第2回新文展「渡河戦」(特選)、第3回新文展「青年達」、紀元2600年奉祝展(1940年)「破殻」、第4回新文展(1941年)「感」(無鑑査)、第5回新文展不出品、第6回新文展「攻防」(招待)、第1、2回日展不出品、第3回日展(1947年)「男」(招待)、第4回日展「生存者」、第5回日展「青女」、第6回日展「立女(未完)」、第7回日展「始動」、第8回日展「人間告訴」(特選・朝倉賞)、第9回日展「青年」(無鑑査)、第10回日展「島嶼」(審査員)、第11回日展「野牛」、第12回日展「女帝ト野牛(試作)」、第13回日展「感」、第1回新日展(1958年)「躍進」(会員)、第2回新日展「示行」、第3回新日展「創伸」、第4回新日展不出品、第5回新日展「青」(評議員)、第6回新日展「植物学者伊藤圭介」、第7回新日展「手を持つ男」、第8回新日展「組織なき個」、第9回新日展「火」、第10回新日展「汎」、第11回新日展(1968年)「感」、第1回改組日展(1969年)「直情」(評議員)、以後、毎年出品、第5回改組日展(1973年)「守の宇宙」、第10回改組日展(1978年)「汎」、第15回改組日展(1983年)「山の風」(参事)、第20回改組日展(1988年)不出品、第25回改組日展(1993年)「我が地球生命萌ゆ」(顧問)、第30回改組日展(1998年)「宇宙での生存の意識」、第35回改組日展(2003年)「サハラサバク上空にて(日没も過ぎて地平線がなく成る寸前の感)」、第39回改組日展(2007年)「陸と空」(レリーフ)

羽田登喜男

没年月日:2008/02/10

読み:はたときお  友禅の重要無形文化財保持者(人間国宝)の羽田登喜男は2月10日午後10時22分、肺炎のため京都市上京区の病院で死去した。享年97。1911(明治44)年1月14日、石川県金沢市に造園師・羽田栄太郎の三男として生まれる。1925(大正14)年、隣家の南野耕月に加賀友禅を学ぶ。1931(昭和6)年、京都にて同郷の曲子光峰に京友禅を学ぶ。以降、羽田は生涯にわたり京都で制作を行う。金沢では加賀友禅の下絵、糊置き、色挿し等一連の作業の基礎を習得し、京都では京友禅のみならず、美術工芸品の鑑賞など文化に触れることの重要性を学んだという。一般的に京友禅は工程が分業されているが、羽田はすべての工程を自身で行う制作態度をとった。43年には政府認定の京都友禅技術保存資格者となり、戦中も作品を制作。55年、第2回日本伝統工芸展において訪問着「孔雀」が初入選。翌年出品した友禅訪問着「雉子」「鴛鴦」で初めての連作が試みられる。その後も春秋をテーマに連作を残す。57年には社団法人日本工芸会正会員となり、62年には理事に就任。71年、日本伝統工芸展審査員に就任。76年には第23回日本伝統工芸展で「白夜」が東京都教育委員会賞を受賞。同年、藍綬褒章を受章。78年、京都府美術工芸功労者表彰を受ける。79年に紺綬褒章、82年に勲四等瑞宝章を受章。同年、祇園祭蟷螂山の前掛「瑞祥鶴浴之図」を制作。84年にも祇園祭蟷螂山の胴掛2面「瑞光孔雀之図」と「瑞苑浮遊之図」を制作する。86年、京都府より英国王室ダイアナ皇太子妃に贈られた振袖「瑞祥鶴浴文様」を制作。88年、友禅の重要無形文化財保持者(人間国宝)の認定を受ける。同年、社団法人日本工芸会参与。90年、京都府文化功労賞特別賞受賞、京都市文化功労者表彰を受ける。翌年、祇園祭蟷螂山見送り「瑞苑飛翔之図」を制作。92年より翌年にかけて「友禅 人間国宝 羽田登喜男」展を石川県立美術館と京都市美術館にて開催。初期の作品から最近作までの約70数点が展観された。96年、フランスのリヨン染織美術館にて「羽田家のキモノ」展が開催。99年には祇園祭蟷螂山水引「吉祥橘蟷螂図」を制作、献納。2004年、祇園祭蟷螂山後掛「瑞兆遊泳之図」を献納し全懸装品を制作完納する。これらの制作には後継者である息子羽田登も携わり、その技術伝承に努める。07年10月10日、高齢のため制作活動を終了。羽田は、「着物は身につけて初めて完成するもので、主役である女性をいかに美しくひきたたせるかが大切」と常々語り、着装を意識した制作を心がけたという。著作に『羽田登喜男作品集』(八宝堂、1966年)、『春秋雅趣』(フジアート出版、1981年)、『春秋雅趣 二』(フジアート出版、1989年)、『遊於芸』(フジアート出版、1992年)などがある。

大津鎮雄

没年月日:2008/01/31

読み:おおつしずお  日展参与の洋画家大津鎮雄は1月31日午前1時30分、大動脈弁狭窄症のため東京都武蔵野市の病院で死去した。享年87。1920(大正9)年10月25日、東京市本郷区千駄木に生まれる。父が大阪商船に勤務し転勤が多かったため、幼少期は沖縄、神戸などに住み、1929(昭和4)年に吉祥寺に居を定める。この頃、父とともに東京府美術館で開催される美術団体展に赴き、洋画に興味を抱く。33年武蔵野町立第三尋常小学校を卒業し、日本美術学校(現、日本美術専門学校)初等科に入学、小島善太郎に師事して油彩画を描き始める。37年第1回一水会展に「遠望」で初入選。39年日本美術学校本科洋画科を卒業する。41年赤坂歩兵隊に入隊し、同年から43年まで一水会には従軍のため不出品。44、45年は戦争により一水会展が開催されなかった。46年3月中国から復員。同年より安井曽太郎に師事する。48年より東京日比谷のアニーパイル劇場で舞台美術のデザインを担当。49年第5回日展に「松と洋館」で初入選。以後、日展に出品を続ける。50年第12回一水会展に「夏の午後」「赤煉瓦」を出品し、一水会賞受賞。翌年、一水会会員となる。51年第7回日展に「寒木邸」を出品し日展岡田賞受賞。57年第19回一水会展に「欅」を出品し会員優賞受賞。61年から翌年まで約半年間渡欧し、以後、ヨーロッパ風景を主要なモティーフとするようになる。65年第8回社団法人日展に「裏庭」を出品して菊華賞受賞。68年日展会員および一水会委員となる。86年日展評議員となる。1991(平成3)年第23回日展に「山添いの家」を出品して文部大臣賞受賞。99年10月、「大津鎮雄油絵展 風景画の輝き―南仏の田園から」(武蔵野市文化会館アルテ展示室)が開催され、1950年代から近作までが展示される。2000年第15回小山敬三美術賞を受賞し、同年、これを記念して「小山敬三美術賞受賞記念大津鎮雄展」が日本橋高島屋で開催され、初期から近作まで約40点が展示される。01年日展参与となる。04年「画業70年記念大津鎮雄展―陽光まばゆい南フランスの自然を見つめて」(サトエ記念21世紀美術館)が開催され、没後の09年2月には同美術館で「大津鎮雄展―美しい風景を求めて・旅情を描いた画家の生涯」展が開催された。年譜は同展図録に詳しい。人物や静物を描くのに適性を持つと評した師安井曽太郎のことばに拘わらず、大津は初期から風景、しかも洋風の都市風景を好んで描き、61年のヨーロッパ旅行以後は、西欧風景を主要なモティーフとした。日展、一水会展に出品を続け、晩年は次第に西欧の地方都市を好んで描き、穏健な写実的画風を示した。

片岡球子

没年月日:2008/01/16

読み:かたおかたまこ  日本画家で日本芸術院会員、日本美術院同人の片岡球子は1月16日午後9時55分、急性心不全のため神奈川県内の病院で死去した。享年103。1905(明治38)年1月5日、北海道札幌市に、醸造家の長女として生まれる。1923(大正12)年北海道庁立札幌高等女学校(現、北海道札幌北高等学校)補習科師範部を卒業後、女子美術専門学校(現、女子美術大学)に入学。実家では進学は嫁入り支度程度に考えており、すでに結婚相手も決められていたが、26年同校日本画科高等科を卒業すると婚約を破棄して東京に残り、画家になることを決意、自活のため、横浜市立大岡尋常高等小学校(現、市立大岡小学校)教諭となる。女子美術学校在学中より松岡映丘門下の吉村忠夫に師事し、また洋画家富田温一郎にデッサンを学んだが、帝展に落選を続け、勤務先の小学校の近くに住む中島清之の勧めで院展に出品。1930(昭和5)年第17回院展に「枇杷」が初入選し日本美術院の研究会員、39年第26回院展出品の「緑蔭」で院友に推挙される。42年院展の研究会で課題「雄渾」に対して御嶽山の行者を描いた作品が小林古径に注目され、激励を受ける。46年第31回院展で「夏」が日本美術院賞を受賞。同年中島清之を介して安田靫彦に入門。続いて48年第33回院展「室内」、50年第35回「剃髪」で日本美術院賞、51年第36回「行楽」で奨励賞、52年第37回「美術部にて」で日本美術院賞・大観賞を受賞し、同人に推挙された。この間51年には量感表現を勉強するため約一年間、彫刻家で東京芸術大学教授の山本豊市に彫刻デッサンの指導を受ける。55年には大岡小学校を退職するが、小学校教師としての歳月はその作風における初々しい素朴さを培うこととなった。同年女子美術大学日本画科の専任講師となり、以後助教授を経て65年に教授となる。54年第39回院展に「歌舞伎南蛮寺門前所見」を出品するが、歌舞伎、能、雅楽など伝統芸術の集約された世界との出会いが転機となり、院展の典雅な感覚から遠い作風ながら、このテーマを掘り下げることによって現代日本画の新生面を切り拓く。61年、前年の第45回院展出品作で能の石橋に取材した「渇仰」と個展により、芸術選奨文部大臣賞を受賞。また61年の第46回院展でも「幻想」が文部大臣賞を受け、日本美術院評議員となる。いっぽう60年代には日本各地の火山を取材旅行してエネルギッシュな作品を制作、65年第8回日本国際美術展で「火山(浅間山)」が神奈川県立近代美術館賞を受賞。その後は富士山をテーマに晩年に至るまで取り組み続ける。60年代半ばには美術評論家の針生一郎を中心とする日本画研究会に参加。66年愛知県立芸術大学開校とともに日本画科主任教授となり、その剛柔併せもつ人柄は学生たちの信頼を集め、多くの俊英を育てた。また大学を移ったのを機に、66年の第51回院展に足利将軍の三部作を出品してライフワークの「面構シリーズ」を開始し、武将や浮世絵師といった歴史上の人物をテーマに、彫刻や肖像画、文献等を研究して時代考証に独自の解釈を加え、生気みなぎる力強い人物画の連作を発表する。69年女流の美術家による総合美術展「潮」を結成、83年の最終第15回展まで毎回出品。72年パリで「富嶽三十六景」による個展を開催。74年第59回院展出品作「面構(鳥文斎栄之)」により、翌75年日本芸術院賞恩賜賞を受賞。78年神奈川県文化賞を受賞。79年自作を神奈川県立近代美術館、北海道立近代美術館へ寄贈。81年より日本美術院理事をつとめる。82年日本芸術院会員となる。83年以降は裸婦の連作にも取り組み、春の院展に出品する。86年には永年の日本画による人物探究の業績が評価され、文化功労者に叙せられる。1989(平成元)年文化勲章を受章。また同年中日文化賞を受ける。92年パリの三越エトワールで回顧展を開き、2005年には百歳を記念し、神奈川県立近代美術館葉山・名古屋市美術館・茨城県近代美術館で本格的な回顧展が開催された。

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