本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





北岡文雄

没年月日:2007/04/22

読み:きたおかふみお  日本と中国の木版技法を融合した作風で知られる版画家の北岡文雄は4月22日、肺炎のため東京都渋谷区内の病院で死去した。享年89。1918(大正7)年1月11日東京都に生まれる。東京美術学校油画科本科3年であった1939(昭和14)年、平塚運一に習い初めて木版画を手がける。この時の作品「静岡風景」は同年の第8回日本版画協会展に出品され、以後同展への出品を続ける。初期の作品は「表現をできるだけ単純にして、対象の核心に迫る表現」が意識され、太い輪郭線に平塚の影響がみられる。42年、平塚主催の「きつつき会」に参加、43年には日本版画協会会員となり、恩地孝四郎や関野準一郎らと知り合う。45年1月新京(現、長春)にあった東北アジア文化振興会に赴任、敗戦後もしばらく安東(現、丹東)に留まり、東京美術学校に留学していた同期の田風と白山芸術学校で再会、中国木刻に出会う。白と黒による劇的リアリズムから受けた衝撃の跡は、本国への引き揚げを描いた「祖国への旅」シリーズ(47年)にみられるが、その表現は政治色や激情を交えない平明なものである。帰国後も、戦前から関わっていた「一木会」(恩地孝四郎主宰)に出席、51年には春陽会会員となる。また続けていた中国木刻風の作品から次第に抽象的作風へと傾いていく。この傾向は50年頃から明確となり、キュビスムや構成主義を経て幾何学的作風へと至るが、やがて再び写実に目覚める。その契機となったのが55年からのフランス留学である。長谷川潔のとりなしでエコール・デ・ボザールのロベール・カミに木口木版を習い、「憩うモデル」「道路工事」等を制作するが本格的な制作は帰国後の60年前後で、北海道の漁村をテーマに「海辺の老人」や「鮭網」等を制作。木口木版と並行して、板目木版による作品も手がけているが、これらは概して幻想性の強い作風となっている。札幌版画協会(現、北海道版画協会)設立にも尽力しており、56年には全道美術協会会員となる。64年フルブライト交換教授として渡米、ミネアポリス美術学校で木版画とデッサンの指導にあたるなどして一年半ほど滞在。この地の風景を描いた「ジョージタウン(ワシントンD.C.)」「樹間」などは幻想性の払拭されたクリアな写実表現となっている。このスタイルは以後北岡の制作の基本となり、日本各地に足を運び風土色溢れる風景版画を次々制作する。78年台北市国家画廊で個展を開いた後、80年には中国政府の招待により北京中央美術学院にて木版図講習と個展を開催。87年に再び同政府より招待され、同美術学院及び、四川美術学院、浙江美術学院にて木版図講習と個展開催。85年の「風土連作」や92~93年の「七曜画譜」といった装飾性の強いモノトーンの連作は、北岡風景版画の集大成ともいえる大作。88年町田市立国際版画美術館にて「北岡文雄木版画展」を開催。1990(平成2)年版画家として初めて日本美術家連盟理事長就任。93年北海道立近代美術館にて「光と風の版風景 北岡文雄の世界」展開催。90年代中頃からは海外の取材も積極的に行い、梅原画廊・NHKサービスセンターの企画により95年から、ユネスコ登録世界遺産自然文化遺産シリーズの制作を始める。97年、勲四等旭日小綬章受章。2006年、日本橋髙島屋にて米寿記念展、09年文芸春秋画廊にて回顧展が開かれる。上記以外にも、生涯を通じて日本国内のみならず、世界各地で精力的に個展を行っている。主な出版物に『木版画の技法』(雄山閣、1976年)、『版木の中の風景 北岡文雄画文集』(美術出版社、1983年)、『北岡文雄 木版画60年 版と造形の探求』(美術出版社、2003年)等がある。

髙橋節郎

没年月日:2007/04/19

読み:たかはしせつろう  現代漆工芸の第一人者である髙橋節郎は、4月19日午前9時5分肺炎のため死去した。享年92。1914(大正3)年9月14日、父太一・母梅見の三男として長野県穂高町に生まれる。1938(昭和13)年東京美術学校工芸科漆工部を卒業。本来は画家志望であったが「絵では食えない」という父の反対で工芸科を選択、在学中には漆の魅力に目覚め「何も絵具で描くだけが絵ではない。漆で絵を描こう」と思い至ったという。40年東京美術学校研究科を修了、同年の紀元二六〇〇年奉祝美術展で「ひなげしの図小屏風」が初入選、翌年の第4回新文展では「木瓜の図二曲屏風」が特選を受賞し注目を浴びる。戦後は日展を中心に活躍し、51年には第7回日展「星座」で特選・朝倉賞を受賞、55年には日本橋三越にて第1回個展を開催、60年には第3回新日展「蜃気楼」で文部大臣賞を受賞と、精力的な制作活動をみせる。髙橋は“美術工芸”ではなく“工芸美術”、つまり“美術”という視点に立ち“工芸”作品の可能性を広げるという考えを持っている。これは自身も参加し61年に結成した現代工芸美術家協会の理念でもある。同協会創立者の山崎覚太郎は美術学校時代の恩師でもある。その後、新日展や日本現代工芸美術展、五都展、和光展に出品するほか、64年には日本現代工芸美術巡回メキシコ展・アメリカ展、66年には日本現代工芸美術巡回ローマ展、翌年には日本現代工芸美術巡回ロンドン展・モントリオール展に参加、海外に活躍の場を広げていく。76年東京芸術大学美術学部教授に就任、教鞭を執りながら制作を続ける。80年には社団法人日本漆工協会副会長に就任、漆工功労者として表彰される。82年には定年により同校を退官、社団法人現代工芸美術家協会副会長に就任。84年には紺綬褒章、86年には勲三等瑞宝章、1990(平成2)年には文化功労者に顕彰される。95年、東京芸術大学名誉教授に就任すると豊田市美術館の設立に伴い、髙橋の作品を展示する髙橋節郎館が併設される。97年には文化勲章を受章。同年、第18回オリンピック冬季競技大会(長野)の公式記念メダルのデザインを制作、フランスのパリで「漆の黒・光のメッセージ―現代日本の漆芸―髙橋節郎」展を開催。99年には東京銀座・和光ホールで「髙橋節郎墨彩展―ヨーロッパ・安曇野・大和路を描く―」を開催、漆芸の枠を超えた活動をみせる。2003年6月18日には長野県穂高町に残る生家に安曇野髙橋節郎記念美術館が開館。翌年には卒寿を記念し、豊田市美術館併設髙橋節郎館と安曇野髙橋節郎記念美術館、大阪阪神百貨店で「卒寿記念髙橋節郎―漆絵から鎗金へ/一九三〇-六〇年代」を開催。

岩壁冨士夫

没年月日:2007/04/19

読み:いわかべふじお  日本画家で日本美術院同人の岩壁冨士夫は4月19日午後0時20分、肝不全のため東京都世田谷区の病院で死去した。享年81。1925(大正14)年12月4日、神奈川県茅ケ崎市に生まれる。本名富士夫。1947(昭和22)年東京美術学校日本画科を卒業後は、小中学校で教鞭をとりながら院展に出品するが、落選を繰り返す。55年頃小谷津任牛に師事し、任牛門下の飛鳥会に入って研鑽を積む。56年第41回院展に「三人」が初入選、以後連続して同展に入選し、59年第44回院展「旅人」で日本美術院院友に推挙。この間飛鳥会が奥村土牛の研究会と合流し八幡会となり、土牛の指導も受ける。60年から翌年にかけ沖縄へ写生旅行を行い、以後66年まで沖縄を主題にのびやかな作風を展開する。69年にヨーロッパを巡遊、とくにポルトガルの風景との邂逅は以後の画業に決定的なものとなり、同地をテーマとしながら太い筆線と確かなデッサン力による力強い画風を確立する。75年第60回院展で「夕陽はサンタマリアに」が日本美術院賞を受賞、特待となる。77年第62回院展「モンテ・ゴールドの家族」、78年第63回「マール」、79年第64回「丘のべ」、80年第65回「望洋」、81年第66回「ビラマアール」、82年第67回「海風」と、6年連続で奨励賞を受賞する。83年第68回「マリアの家族」が再び日本美術院賞を受賞、同年同人に推挙された。84年から1989(平成元)年まで武蔵野美術大学日本画科の講師をつとめるなど、後進の育成にも力を尽くした。92年第77回院展出品作「母子」が内閣総理大臣賞を受賞。

桜井浜江

没年月日:2007/02/12

読み:さくらいはまえ  洋画家の桜井浜江は、2月12日午前2時50分、急性心不全のため東京都三鷹市の病院で死去した。享年98。1908(明治41)年2月15日、山形県山形市宮町に生まれる。桜井家は周辺有数の素封家で15代続く地主。山形県立山形高等女学校(現、山形県立山形西高等学校)在学中、松本巍七郎による図画の授業で絵画に興味を持つ。1924(大正13)年に同校を卒業、26年父省三の決めた縁談を拒否して上京。女子美術学校へ入学手続きを行うが両親の承認を得られず断念。展覧会や上野図書館に通いながら、川端画学校洋画部や岡田三郎助の研究所に出入りするが雰囲気が合わず、1928(昭和3)年代々木山谷に開設された1930年協会洋画研究所に入り、里見勝蔵らの指導を受けた。30年里見らが独立美術協会を結成すると、翌年行われた第1回展に参加、入選を果たす。独立展へ出品を続ける一方、同会に属する女性画家11人らとともに34年女艸会を結成、38年の第6回展まで続けられた。この間、32年に帝大英文科出身の秋沢三郎と結婚、その文学仲間である井伏鱒二や太宰治、檀一雄などの来訪で住まいは多くの文士が集う場となっていた。39年に離婚した後も再会した太宰が仲間を連れて度々訪れ、彼女をモデルに「饗応夫人」を書いている。46年、女艸会創立会員である三岸節子らとともに日本橋の北荘画廊で現代女流画家展を開催、この時の出品者らを発起人として翌47年女流画家協会を結成。49年、北荘画廊にて初の個展を開催。戦前戦中に描いた初期作品にはフォーヴ的なものや、それとシャガール的幻想性が融合された「途上」などの他、「二人」「雪国の少年達」のようにクールでモダンなものと変遷をみせる。46年頃から描かれた「壺」の連作は作為性を殆ど留めず、ナイフのタッチが際立った作風で、荒々しいまでの桜井的厚塗り手法はここでほぼ完成される。やがて「花」、ルオーを思わせる「人物」などのシリーズを手がけ、この時期の作品の中では「象」と「花」が47年の第2回新興日本美術展に出品され読売賞を、「臥像」は51年の第19回独立展(創立20周年記念展)でプール・ブー(奨励賞)を受け準会員となった記念すべき作品である。54年独立美術協会会員となる。戦後日本の洋画界に押寄せた抽象絵画流行の波に些かも流されず、連作「樹」に取り組み始める。大胆に切り取られた構図、その大画面には幹がダイナミックに描かれ、情熱を塗り込めたような赤の色調とともにみるものを圧倒する生命力を放つ。66年第20回女流画家協会展で花椿賞受賞。60年代半ばに差し掛かる頃から山形県鶴岡市の三瀬海岸や、千葉県銚子市にある犬吠崎や屏風岩を取材した連作が開始され、色使いは多彩となりより明るい画面となる。78年頃から大樹をテーマとした100号2枚組の大作を数点制作。晩年まで大画面の作品に取り組み続けるが、90年代から再び、色・構図ともにシンプルな傾向となり、特に赤を好むようになる。やはり山や海などの自然に対する畏敬のまなざしが強く感じられる作品が中心となるが、代表作である1999(平成11)年の「雨あがる、ぶどう棚」は色彩豊かで、それまでになくドライで細やかなストロークとなっている。2002年に体調を崩し入院、それまで制作していた「富嶽」が未完のまま絶筆となった。作品集に『桜井浜江画集』(芸林社、1990年)がある。主な回顧展に「桜井浜江画業展」(1979年、山形美術館)、「桜井浜江―画業65年の軌跡」(1995年、青梅市立美術館)。没後の2008年には「生誕100年記念 桜井浜江展」が山形美術館と一宮市三岸節子記念美術館で開催された。

太田博太郎

没年月日:2007/01/19

読み:おおたひろたろう  建築史家で日本学士院会員、東京大学名誉教授の太田博太郎は1月19日午前11時20分、老衰のため東京都狛江市内の病院で死去した。享年94。1912(大正元)年11月5日、東京に生まれる。1932(昭和7)年旧制武蔵高等学校を卒業後、東京帝国大学工学部建築学科に入学。35年卒業後、法隆寺国宝保存工事事務所助手等を経て、43年東京帝国大学助教授、60年東京大学教授。73年同定年退官、同大学名誉教授。同年より74年まで武蔵野美術大学教授。74年より78年まで九州芸術工科大学学長。78年より1990(平成2)年まで武蔵学園長。92年より97年まで財団法人文化財建造物保存技術協会理事長。伊東忠太と関野貞に始まった日本建築史学を継承、大きく発展させ、戦後における研究の基礎を築いた。その研究の柱は古代・中世の寺院建築史と日本住宅史であるが、そこにとどまらない幅広い分野で活躍した。大学卒業後の数年間、法隆寺をはじめとする文化財建造物の修理工事に現場で携わるが、そこで浅野清から学んだ実証的手法と文献資料の徹底した渉猟をもとに43年、初の著作である『法隆寺建築』を上梓する。47年には日本建築史の代表的概説書として今日も広く読まれる『日本建築史序説』(彰国社)、翌48年には『図説日本住宅史』(同)を著すなど、研究者として一気に頭角を現す。54年、「日本住宅史の研究」で日本建築学会賞(論文)を受賞、57年には「中世の建築」にて工学博士号を取得している。その研究手法は機能主義的建築史学と言われるが、『書院造』(東京大学出版会、1966年)に見られるように、構造や機能の面から中世仏堂の発生や書院造の成立過程を説明し、その後の人々の日本建築史の理解に多大な影響を与えた。一方で、『南都七大寺の歴史と年表』(岩波書店、1979年)など、研究の基礎となる基本的資料の整理においても大きな実績を残しており、このような基礎資料を重視する姿勢は数多くの全集本の編集に携わったことにも表れている。その代表的成果として、『建築学大系』(彰国社、1954-64年)、『奈良六大寺大観』(岩波書店、1968―73年)、『日本建築史基礎資料集成』(中央公論美術出版、1971年-)、『大和古寺大観』(岩波書店、1976-78年)などがあり、63年には「建築学大系の刊行」で日本建築学会賞(業績)を受賞している。このような研究者の立場とともに、東大任官後も文部技官を併任した時期に十数件の文化財建造物修理工事を監督した実務者の顔を持ち、これが建造物の調査手法の体系化へとつながった。また、文化財の保存をめぐって自ら活発な働きかけを行い、近鉄車庫の建設計画を契機とする平城宮跡の保存問題では最終的に計画の中止と国費による全域買い上げを実現させた。さらには、妻籠宿保存への協力がその後の全国的な町並み保存運動や伝建制度創設につながるなど、多くの場面で先導的な役割を果たした。日本建築学会副会長、文化財保護審議会委員などを歴任し、学会と文化財行政の双方における重鎮であった。金堂や西塔をはじめとする薬師寺伽藍の復元もまた、後世に残る業績として挙げることができる。76年、「妻籠宿の保存」で毎日芸術賞特別賞受賞。84年、勲二等旭日重光章。89年、「日本建築史の広い分野にわたる顕著な研究業績」で日本建築学会大賞。97年、学士院会員。上記以外の主な著作に、『床の間』(岩波書店、1978年)、『歴史的風土の保存』(彰国社、1981年)、『建築史の先達たち』(彰国社、1983年)など。また代表的な論文は、『日本建築の特質』、『日本住宅史の研究』、『社寺建築の研究』(岩波書店、1983-86年)に収録されている。

阿部良雄

没年月日:2007/01/17

読み:あべよしお  ボードレール研究の第一人者で東京大学名誉教授の阿部良雄は、1月17日11時30分、急性心筋梗塞のため東京都世田谷区の自宅で死去した。享年74。1932(昭和7)年5月23日、英文学者で小説家であった阿部知二の長男として東京都に生まれる。55年3月東京大学フランス文学科を卒業。同大学院を修了後、58年よりフランス政府給費留学生として3年間パリ高等師範学校(エコール・ノルマール・シュペリユール)に留学。62年、日本フランス語フランス文学会学会誌第1号に仏語論文 “Un Enterrement a Ornan” et l’habit noir baudelairien ― sur le rapport de Baudelaire et de Courbet(「オルナンの埋葬」とボードレールの黒い燕尾服―ボードレールとクールベの関係について)を発表、クールベの«オルナンの埋葬»を取り巻く同時代の批評及びボードレールがクールベに与えた影響関係の是非を検証した。同論文は、その後展開していくボードレールの美術批評研究の出発点となる。63年中央大学文学部専任講師となり、翌年同助教授となる。66年再びフランスに渡り、フランス国立科学研究所の研究員として2年間勤務、68年よりフランス国立東洋語学校講師となる。この間、碩学ジョルジュ・ブランに師事、ボードレール研究を深化させていく。4年間のフランス滞在を終えて70年に帰国、東京大学教養学部助教授となり、76年に同教授となる。コレージュ・ド・フランス客員教授、オックスフォード招聘研究員。1993(平成5)年の退官後は上智大学教授となり、98年より帝京平成大学教授をつとめた。97年から2001年まで日本フランス語フランス文学会会長。研究に対する姿勢は緻密かつ決して妥協を許さないものであった。難解と評されることもあったその文体は、時に行間から生じることのある曖昧さを徹底的に排除する態度から生まれたものである。「構造主義ないし意味論的アプローチが全盛をきわめているように見えるフランスの文学・芸術研究の領域で、本当に面白い発見はやはり徹底的に歴史学的かつ社会学的な探索から生まれてくる」(『群衆の中の芸術家』、中央公論社、1975年、あとがき)とし、一貫して歴史家としての視座にたち、ボードレールが打ち立てた「モデルニテ」概念の究明にあたった。実証的な論考は、ボードレールを軸とした19世紀フランス絵画から19世紀美術に及び、クールベ、マネ、ドラクロワ、ルドン、シャルダンなどに関する論文がある。1983年よりボードレールの個人完訳に挑み、10年をかけて『ボードレール全集』全6巻(筑摩書房)を刊行。原文に忠実かつ正確な翻訳、使用する日本語の適正さ、詳細に加えられた注釈などから、ボードレール文献の決定版となっている。同著は日仏翻訳文学賞を受賞。『シャルル・ボードレール:現代性の成立』(河出書房新社、1995年)によって東京大学人文社会系研究科博士号を取得。第8回和辻哲郎文学賞(学術部門)を受賞。同著の刊行直後にパーキンソン病をわずらい、10年あまりの闘病生活を余儀なくされた。逝去後、ボードレール研究会が追悼シンポジウム「阿部良雄先生とボードレール」(2007年5月19日、明治大学)を開催した他、『水声通信』(18号、2007年6月)が特集号「阿部良雄の仕事」を刊行し、同輩や教え子などが寄せた追悼文及びシンポジウムの発表内容を掲載している。妻は与謝野晶子の孫、文子。主要著書は、上記のものに加え、先の仏語論文の日本語版「«オルナンの埋葬»とボードレールの」を含む62年~79年までの論文・エッセーを収録した『絵画が偉大であった時代』(小沢書店、1980年)、美術と群衆、あるいは美術批評と画家との関わりを論じた『群衆の中の芸術家―ボードレールと19世紀フランス絵画』(中央公論社、1975年)他、以下の通りである。 単著: 『若いヨーロッパ:パリ留学記』(河出書房新社、1962年) 『西欧との対話:思考の原点を求めて』(河出書房新社、1972年) 『悪魔と反復:ボードレール試解』(牧神社、1975年) 『イメージの魅惑』(小沢書店、1990年) 『モデルニテの軌跡:近代美術史再構築のために』(岩波書店、1993年) など  共編著: 渡辺一夫、阿部良雄編『新しいフランス』(河出書房新社、1964年) 草野心平・阿部良雄・高階秀爾著『カンヴァス世界の名画4 クールベと写実主義』(中央公論社、1972年) 高階秀爾監修、阿部良雄編集・解説『現代世界美術全集 25人の画家5 クールベ』(講談社、1981年) 阿部良雄、与謝野文子編『バルテュス』(白水社、1986年) など  翻訳書:  ベネディクト・ニコルソン著、阿部良雄訳『クールベ画家のアトリエ』(みすず書房、1978年) 共訳『アンドレ・ブルトン集成』3、4(人文書院、1970年) ダニエル・マルシェッソー編著、阿部良雄監修・訳『マリー・ローランサン全版画』(求龍堂、1981年) カミーユ・ブールニケル他著、阿部良雄他訳『世界伝記双書 ヴァン・ゴッホ』(小学館、1983年) イヴ・ボヌフォワ著、阿部良雄、兼子正勝訳『現前とイマージュ』(朝日出版社、1985年) など

吉原英雄

没年月日:2007/01/13

読み:よしはらひでお  現代日本を代表する版画家吉原英雄は、1月13日膵臓がんのため死去した。享年76。1931(昭和6)年1月3日、広島県因島市に生まれる。17歳のときから近所の画家のもとに出入りし、クレパス画や水彩画、専門書に触れるうち美術の世界に引き込まれ、とりわけパスキンの水彩に惹かれるようになる。浪速大学(現、大阪府立大学)合格後間もなく喀血し入院、病状が快方に向かうと、二科会会員の彫刻家上田暁に弟子入りし、上田も講師を務める大阪市立美術研究所に通うようになる。52年からは、同じく講師であった遠縁の吉原治良のアトリエに通い、本格的に絵を描き始める。芸大・美大への進学志望から転向して、公募展を目指した吉原の初出品は54年の第2回ゲンビ展であった。ゲンビの中心的存在でもあった吉原治良主導の具体美術協会結成に関わるが55年に脱退、瑛九を代表とするデモクラート美術家協会に移る。「イワンの馬鹿」や「断章」、「都会の重心」「空の標識」といったシュルレアリスティックな油彩画を出品する一方、泉茂の影響でリトグラフを始める。57年、第1回東京国際版画ビエンナーレにリトグラフ「ひまわり」を出品し池田満寿夫とともに入選、泉茂も招待作家として参加したが、これを機にデモクラートは解散する。国際展に入選すること自体が珍しかった当時にあって、58年には第1回グレンヘン国際色彩版画トリエンナーレに「潜水」が入選。この頃から抽象への移行が現れ始め、その決定的作品となる「黒い流れ」は、機械的に描かれた短い線による表現で、続けて複数の円形を並置する構図や版画の紙を破る技法等を試した後、同一画面上で二つの相似した形を並べる方法を取り始める。65年からリトグラフと銅版の併用を始め、鳥の嘴と女性の肉体、原色のストライプを組み合わせた作品を多数制作した後、68年の第6回東京国際版画ビエンナーレに招待出品し同手法による「シーソーI」で文部大臣賞を受賞。米モード誌の写真から引用したスカートの女性モチーフを反復させた構図と鮮やかなブルーが印象的な本作品は、吉原の代表作であると同時に、日本におけるポップアートの記念碑的作品ともいえる。70年、第20回芸術選奨文部大臣新人賞受賞。その後リトグラフのみによる「ミラー・オブ・ザ・ミラー」シリーズ、70年代後半には銅版による「剥奪されたもの」シリーズ等を展開。78年に京都市立芸術大学教授に就任、若手を育てる一方で、自身は「ガラステーブル」「二つの地平」などのシリーズを手がける。以降晩年にかけて展開された「モノクロームの人々」「樹の聲・人の聲」「二つの地平―残像」などのシリーズではモノクロームの作品が主となる。1994(平成6)年紫綬褒章受章、翌年京都市文化功労者の顕彰を受ける。96年京都市立芸術大学名誉教授に就任。2002年勲三等瑞宝章を受勲。03年大阪市文化功労者の顕彰を受ける。01年町田市立国際版画美術館にて「吉原英雄の世界―色彩の誘惑・形のエロス―」が、05年ふくやま美術館において「吉原英雄:ポップなアート」展が開催された。

嘉門安雄

没年月日:2007/01/05

読み:かもんやすお  西洋美術史研究、美術評論家で、東京都現代美術館名誉館長であった嘉門安雄は、1月5日、肺炎のため東京都世田谷区の病院で死去した。享年93。1913(大正2)年、石川県に生まれる。1937(昭和12)年、東京帝国大学文学部美術史学科を卒業。西洋美術史研究者の児島喜久雄教授の助手を務めた。戦後の1947年に東京国立博物館に採用され、同館の表慶館で開催されたマチス展、ブラック展、ルオー展等を担当した。59年開館の国立西洋美術館に転じ事業課長となり、また56年からブリヂストン美術館の運営委員となり、76年12月から1995(平成7)年5月まで同美術館長を長年務め、同美術館のコレクションの収集、各種の展覧会開催の中心として活動した。その間に、東京都現代美術館の設立準備のための諮問委員会委員となり、94年から2000年まで同美術館長を務め、同年4月から同美術館名誉館長となった。また、全国美術館会議の会長、ジャポニスム学会長等も歴任した。戦後の美術復興、そして近年までの美術館人としての活動、美術書刊行による著述活動、美術ジャーナリズムにおける評論活動等、その活動は多岐にわたっていた。しかも、その学術的な関心の領域は、西洋美術史全般、日本の近代美術にまで及んでいるが、なかでもレンブラントを中心にルネッサンス期からバロック、ロココ様式の16、17世紀に広がり、さらに印象派、ファン・ゴッホまで実に広範であった。また戦後から1990年代までの長きにわたるその著述活動を示すために掲出した、下記にあげる著述等の主要業績の一覧は、嘉門安雄個人にとどまらず、一面で戦中期から近年までの日本における「西洋美術研究」史、及び美術評論等の出版の歴史を示すものとなっている。 主要著述・翻訳等一覧:(書名の前に断り書きがないものは故人による単著である。その他は、翻訳、解説、監修等を付し、刊行年順に列記した)。 『西洋美術文庫 第34巻リューベンス』(アトリヱ社、1940年)    『ナチス叢書 ナチスの美術機構』(アルス、1941年)    石井柏亭、嘉門安雄解説『マネ』(鶴亀屋、1942年)    『レムブラント』(侑秀書房、1947年)    翻訳『ブルクハルト著作集 第1巻 チチエローネ.古代篇』(筑摩書房、1948年)    『西洋の名画』(筑摩書房、1950年)    奥平英雄、大久保泰共編著『絵の歴史』(美術出版社、1952-53年)    編著『絵画の見方』(河出書房、1955年)    『図説文庫 第20巻 世界美術物語』(偕成社、1955年)    編集解説『講談社版アート・ブックス 第8巻 レンブラント』(大日本雄弁会講談社、1955年)    編集解説『講談社版アート・ブックス 第12巻 レオナルド』(大日本雄弁会講談社、1955年)    編集解説『講談社版アート・ブックス 第21巻 リューベンス』(大日本雄弁会講談社、1955年)    座右宝刊行会編『現代日本美術全集 第6巻』(執筆担当「硲伊之助」、角川書店、1955年)    座右宝刊行会編『現代日本美術全集 第8巻』(執筆担当「荻須高徳」、角川書店、1955年)    座右宝刊行会編『現代日本美術全集 第9巻』(執筆担当「東山魁夷」、角川書店、1956年)    解説『原色版美術ライブラリー 第9巻 北方ルネッサンス』(みすず書房、1956年)    解説『原色版美術ライブラリー 第10巻 北方バロック』(みすず書房、1956年)    責任編集『西洋美術史要説』(吉川弘文館、1958年)    『角川新書 北欧の美神』(角川書店、1959年)    河北倫明等著『近代の洋画人』(執筆担当「満谷国四郎」、中央公論美術出版、1959年)    編著『大原美術館作品選』(大原美術館、1960年)    監修『西洋美術史』(美術出版社、1961年、改訂増補72年)    翻訳ロバート・ゴールドウォーター著『ポール・ゴーガン』(美術出版社、1961年)    編著『講談社版日本近代絵画全集 第5巻 岸田劉生』(講談社、1962年)    編著『講談社版日本近代絵画全集 第6巻 安井曽太郎』(講談社、1962年)    編著『世界美術大系 第19巻 オランダ・フランドル美術』(講談社、1962年)    『少年少女図説シリーズ 第15巻 世界美術物語』(偕成社、1962年)    編著『世界美術全集 第33巻 西洋(9)近世Ⅰ』(角川書店、1963年)    嘉門安雄、河北倫明、町田甲一編『世界の美術』第1~8巻、別巻(講談社、1963-65年)    富永惣一、今泉篤男、嘉門安雄編『世界の名画』第1~12巻(学習研究社、1964-66年)    『日経新書 美術を見る眼』(日本経済新聞社、1964年)    編著『カラーコンパクト ルーヴル美術館』(集英社、1965年)    編著『世界の美術館 第24巻 パリ国立近代美術館』(講談社、1966年)    編著『世界美術全集 第1巻 ダ・ヴィンチ,ラファエロ/嘉門安雄執筆』(河出書房新社、1967年)    『旺文社文庫 ゴッホ:炎の人、太陽の画家』(旺文社、1967年)    『レンブラント』(中央公論美術出版、1968年)    『ヴィーナスの汗:外国美術展の舞台裏』(文芸春秋社、1968年)    編著『世界の美術館 第17巻 ロンドン国立絵画館』(講談社、1969年)    解説『ファブリ世界名画集 第13巻 ペーター・パウル・ルーベンス』(平凡社、1969年)    日本語版監修C.V.ウェッジウッド著『Time life books.巨匠の世界 ルーベンス:1577-1640』(タイムライフインターナショナル、1969年)    日本語版監修ロバート・ウオレス著『Time life books. 巨匠の世界 レンブラント:1606-1669』(タイムライフインターナショナル、1969年)    責任編集『大系世界の美術 第18巻 近代美術1 ロマンティスムの時代』(学習研究社、1971年)    富永惣一先生古稀記念会〔編〕『富永惣一先生古稀記念論文集』(掲載論文「レオナルドの『最後の晩餐』とレンブラント―レンブラント芸術成立に対する一考察」、天心社刊行会、1972年)    解説『現代世界美術全集 第16巻 モディリアーニ・ユトリロ』(集英社、1971年、普及版72年)    河北倫明、嘉門安雄解説『現代日本美術全集 第7巻 青木繁・藤島武二』(解説担当「藤島武二」、集英社、1972年、普及版73年)    責任編集『大系世界の美術 第15巻 ルネサンス美術3 北方ルネサンス』(学習研究社、1973年)    解説『ファブリ世界名画集 第81巻 ムリリョ』(平凡社、1973年)    編著『新潮美術文庫 9 レンブラント』(新潮社、1974年)    日本語版編集『リッツォーリ版世界美術全集 第10巻 レンブラント』(集英社、1974年)    日本語版編集『リッツォーリ版世界美術全集 第19巻 ゴッホ1』(集英社、1974年)    日本語版編集『リッツォーリ版世界美術全集 第20巻 ゴッホ2』(集英社、1974年)    日本語版編集『リッツォーリ版世界美術全集 第23巻 ピカソ』(集英社、1974年)    編著『ファブリ研秀世界美術全集 第14巻 ヴァン・ゴッホ』(研秀出版、1975年)    解説『世界美術全集 第12巻 ルーベンス』(集英社、1975年、普及版78年)    編集解説『双書版画と素描 第12巻 レンブラントの素描』(岩崎美術社、1975年、改訂版86年)    編著『ファブリ研秀世界美術全集 第16巻 モロー、ルドン、ムンク、アンソール、キルヒナー』(研秀出版、1976年)    解説『世界美術全集 第7巻 ラファエルロ』(集英社、1976年、普及版78年)    監修『西洋の美術:Deluxe gallery』第1~4巻(旺文社、1976-77年)    嘉門安雄、河北倫明監修『巨匠の名画』第1~9巻(学習研究社、1976-77年)    解説、林忠彦写真『日本の画家108人』(美術出版社、1978年)    編著『安井曽太郎』(日本経済新聞社、1979年)    『A&Aブックス 巨匠の横顔:モネからピカソ』(日本経済新聞社、1981年)    解説、岡村崔撮影『ミケランジェロヴァティカン宮殿壁画』(講談社、1981年)    『ゴッホの生涯』(美術公論社、1982年)    『北方の画家:大地の祈り』(美術公論社、1982年)    監訳ヒド・フックストラ編著『画集レンブラント聖書 新約篇』(学習研究社、1982年)    監訳ヒド・フックストラ編著『画集レンブラント聖書 旧約篇』(学習研究社、1984年)    『朝日選書:304 ゴッホとロートレック』(朝日新聞社、1986年)    嘉門安雄、島田紀夫共訳R.J.M.フィルポット著『River books ファン・ゴッホ』(西村書店、1989年)    翻訳ロバート・ゴールドウォーター著『BSSギャラリー 世界の巨匠 ゴーガン』(美術出版社、1990年、新装版1994年)    監修(門田邦子訳)セルジュ・ブランリ著『美の再発見シリーズ モナ・リザの微笑』(求龍堂、1996年。同シリーズは、1998年まで13冊刊行され、いずれも監修にあたっている)。    『人物文庫 ゴッホの生涯』(学陽書房、1997年) 

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