本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





田中穣

没年月日:2005/04/25

読み:たなかじょう  美術評論家の田中穣は、4月25日午前4時57分、胃がんのため東京都文京区の病院で死去した。享年80。1925(大正14)年3月25日、神奈川県平塚市に生まれる。1949(昭和24)年3月、早稲田大学文学部英文科を卒業、同年読売新聞社に入社、社会部、文化部を経て、主に美術関係の記事を多く執筆するようになる。同社在職中に『藤田嗣治』(新潮社、1969年)を刊行、同年の直木賞候補となった。また、78年12月には、同紙掲載の「日本の四季」の企画執筆に対して同社長賞を受けた。81年に同社を退社、文筆活動に入ることとなった。広範な調査にもとづく画家の評伝等の執筆が多く、業績には単行書に『三岸好太郎』(日動出版、1969年)、『日本洋画の人脈』(新潮社、1972年)、『近代日本画の人脈』(新潮社、1975年)、『心淋しき巨人 東郷青児』(新潮社、1983年)、『一水会五十年史』(1989年)、『評伝 奥村土牛』(芸術新聞社、1989年)、『評伝 山本丘人』(芸術新聞社、1991年)等数多くあり、ほかに旅行記、随筆等も多く執筆した。 

皆川泰蔵

没年月日:2005/04/10

読み:みながわたいぞう  染色家の皆川泰蔵は4月10日午前11時13分、肺炎のため京都市山科区の病院で死去した。享年87。1917(大正6)年京都に生まれる。父・八田源七の友人で染色家だった山鹿清華の勧めで京都市立美術工芸学校図案科に入学。1935(昭和10)年に卒業後、染色作家の道に進んだ。38年京都市展で市長賞、41年には文展に初入選を果たした。44年、近代染色の先駆・皆川月華の長女・千恵子と結婚して皆川姓となった。終戦直後に京都・洛北大原で民家の素朴な美しさに感銘を受け、以後、昭和20年代は民家の詳細なスケッチから “染色日本の民家”をテーマに制作を続け、「和染本栖湖畔」が49年の第5回日展で特選となった。昭和30年代に入ると、京都や奈良の神社や仏閣、また庭園に視野を向け、丹念な観察からより単純化と抽象化を進めた独自の作風を確立した。66年、訪中日本工芸美術家代表団員として中国を視察。45日間の旅の間に目にした異国の文化は新たな刺激となり、その後は中国だけでなく、韓国、東南アジア、インド、中近東、ロシア(旧・ソビエト連邦)、ヨーロッパ各地を訪ね歩きながら仕事を続け、まさに自ら回顧するとおり「創作と旅の連続」であった。「対象から受けた感動の残像を、ぎりぎりまで単純化を重ね、現実の風景を抽象化し、力強く魅力に満ちた作品を制作する」皆川の姿勢は、染色芸術の神髄と見事に合致し、豊かな物質感がろう染に独特な効果によって十全に引き出された。80年「皆川泰蔵 日本の染色展」(ベルリン国立世界民族博物館ほか)。1991(平成3)年「世界を染める 皆川泰蔵展」(大丸ミュージアムKYOTOほか)。後進の育成にも力を注ぎ、66年からは鹿児島女子短期大学教授も務めた。また、京都・祇園祭の山鉾の装飾も手がけている。84年京都府文化功労賞。89年京都市文化功労者。93年勲四等瑞宝章受章。社団法人現代工芸美術家協会理事、日本現代染織造形協会理事長。 

清家清

没年月日:2005/04/08

読み:せいけきよし  建築家の清家清は4月8日午前10時、肺炎のため東京都大田区の病院で死去した。享年86。清家清は、1918(大正7)年京都市に生まれた。大阪を経て23年父清家正の神戸高等学校教授就任により神戸に移転、25年神戸市立須磨尋常小学校入学。1931(昭和6)年兵庫県立神戸第二中学校入学。36年東京美術学校建築科入学。40年東京外国語学校速成科(伊語)修了。41年東京美術学校卒業、府立高等工業学校講師(43年まで)、東京工業大学建築学科入学。42年アテネフランセ初等科修了。43年東京工業大学卒業、海軍に入る。青島方面特別根拠地隊、海軍施設本部、舞鶴海軍施設部、海軍機関学校(海軍兵学校舞鶴分校)を経て終戦を迎える。終戦時は海軍技術大尉。45年東京工業専門学校講師(~48年)。46年都立工業専門学校講師(~47年)、東京工業大学助手。47年東京工業大学講師、48年同建築材料研究所助教授、50年同建築学科助教授、62年住宅平面の規模についての建築計画的研究で工学博士、東京工業大学教授、74年同工学部長、77年東京藝術大学美術学部に配置換え、79年東京工業大学定年退官、名誉教授。80年東京藝術大学美術学部長、84年放送大学客員教授(~92年)、86年東京藝術大学定年退官、名誉教授。87年デザインシステム設立。札幌市立高等専門学校の設立に尽力し、1991(平成3)年に校長就任(~97年)。作品は住宅を中心とする。障子や畳など和風の要素を用い、日本の伝統建築が持つ線と面のコンポジションの美しさを現代住宅に表現した軽快な作品で知られる。日本の伝統をモダニズムに見事に融合した住宅作家として、戦後日本の現代住宅デザインをリードした。51年森博士の家、52年斎藤助教授の家、53年宮城教授の家、54年私の家、数学者の家。54年これら一連の住宅により日本建築学会作品賞受賞。同年来日した建築家グロピウスが斎藤助教授の家他を見学、その招きで55年渡米、欧州を回って帰国。同年、近年の日本住宅の建築設計により芸術選奨文部大臣賞受賞。その他の主な作品、受賞に60年九州工業大学記念講堂、61年東京国際見本市鉄鋼特設館、62年埼玉農林会館、小原流家元会館(74年神戸市建築文化賞)、島沢先生の家、64年東京オリンピック村メインゲート、久が原の家、66年乃村工藝社東京社屋、黄金の国舞台装置、70年日本万国博覧会国連館ほか、続私の家、東が丘の家、代々木の家、続久が原の家(77年吉田五十八賞)、71年オーストラリア政府文化賞、駒込の家、75年静清総合卸センター組合会館、77年伊豆・三津シーパラダイス(78年沼津市建築賞、79年BCS賞)、82年軽井沢プリンスホテル、89年倅の家、93年八景島シーパラダイス、94年札幌市立高等専門学校など。83年 紫綬褒章。89年勲二等瑞寶章。81~82年日本建築学会会長。89~93年東京建築士会会長。91年日本建築学会大賞、デザイン功労者。著書に、『家相の科学 建築学が発見したその真理』(光文社、1969年)、『日本の木組』(淡交社、1979年)、『やすらぎの住居学 100の発想』(情報センター出版局、1984年)など。 

中村敬治

没年月日:2005/03/24

読み:なかむらけいじ  美術批評家の中村敬治は、東京都北区の病院で、3月24日胃癌のため死去した。遺志により、同26日、家族のみで密葬。享年68。1936(昭和11)年5月10日、山口市に生まれる。55年同志社大学文学部文化学科美学芸術学専攻に入学。59年同大学を卒業後、同大学大学院文学研究科哲学専攻修士課程に入学、62年同課程修了。同大学文学部助手を経て、66年より86年まで専任講師を務めた。その間、72年アメリカ国務省の招聘によりアメリカの現代美術を視察、76年~78年フランス政府給費研修員としてパリに留学、82年ドイツ学術交流会(DAAD)によりドイツで滞在研修。同志社大学の助手、専任講師時代から、恒常的に同時代の美術動向に触れながら、新聞や雑誌に現代美術や実験映画の批評を執筆するかたわら、京都市内の画廊で現代美術の企画展を開くなどの活動を開始、フランスから帰国後の78年以降は、読売新聞夕刊に継続的に展評を執筆した(86年まで)ほか、『美術手帖』を中心に現代美術の批評やアンディ・ウォーホルやジャスパー・ジョーンズ等の作家論を執筆、精力的に評論活動を展開した。86年4月に、大阪の万博公園にあった国立国際美術館(2004年に、大阪・中之島に移転)に主任研究官(一時期、学芸課長)として転出してからは、「近作展2-野村仁」(87年7月)、「近作展7-今村源/松井知惠」(89年11月)、「芸術と日常-反芸術/汎芸術」展(90年10月)、「パナマレンコ展」(92年8月)、「彫刻の遠心力-この十年の展開」(92年10月)等を担当したほか、パリ留学時代から親交の深かった工藤哲巳の仕事を振り返る「工藤哲巳回顧展-異議と創造」(94年10月)を開いた後、95年3月に同館を退職。同年4月に、新設準備段階にあったNTTインターコミュニケーション・センターに転出、97年4月に開館後は、同センター副館長・学芸部長として、「ビル・ヴィオラ ヴィデオ・ワークス」展(97年11月)、「荒川修作/マドリン・ギンズ展」(98年1月)、「『バベルの図書館』-文字/書物/メディア」展(98年9月)、「『針の女』-キム・スージャのヴィデオ・インスタレーション」展(2000年5月)等を企画した。01年3月に同センターを退職後は、特定の組織に属さず、より自由な立場で批評活動を続けた。01年の8月から03年3月まで『新美術新聞』に連載した「新美術時評」では、意表をつく見出しと奥の深い諧謔に溢れた批評で読者を楽しませた。大学教員から美術館を去るまでの関西での30年、そして「芸術の方が技術に盲従している場合がやたら多い」(「メディア・アートのあやうさ」『読売新聞』2001年4月11日夕刊)ことを百も承知で勤めたメディア・アートの現場(ICC)を拠点とした東京での10年。その間、国内外の美術の現場を飽くことなく(というより飽き果てるまで)渉猟し、独自の嗅覚で特異な資質の美術家たちを発掘すると同時に、洞察に富んだ鋭い批評を残した。実験映画やヴィデオ・アートについては、その草創期から詳しく、関連の上映会に足しげく通って丁寧な分析を行った。最晩年は、関東圏の若手の画家たちと自由闊達な勉強会をしばしば開いて互いを刺激しあい、亡くなる直前には「横浜のデュシャン-展示について」(『新美術新聞』2005年3月1日)と題した展評を病床で執筆、最後までその厳しい筆鋒は衰えなかった。著書として、『現代美術/パラダイム・ロスト』(書肆風の薔薇、のち水声社に改名、1988年8月)、『現代美術/パラダイム・ロストⅡ』(水声社、1997年8月)、『現代美術巷談』(水声社、2004年7月)がある。これら三冊に、70年代半ば以降の著述のほとんどが網羅されている。

片山攝三

没年月日:2005/03/23

読み:かたやませつぞう  写真家の片山攝三は、3月23日肺炎のため死去した。享年91。1914(大正3)年3月22日、シベリアに生まれ、福岡県久留米市に育つ。1932(昭和7)年福岡県立中学明善校を卒業、同年東京の写真師疋田晴久のもとで写真技術を修得し、35年福岡市内で営業写真の仕事を始めた。そのかたわら、「日本写真大サロン」等の公募展に肖像写真を出品、入賞を重ねる。終戦後、福岡・観世音寺の仏像を撮影、これをきっかけとして昭和20年代に数次にわたり九州大学美学美術史研究室の仏像調査に参加、観世音寺や大分・臼杵の石仏などを撮影した。その成果はいずれも同大教授谷口鉄雄との共著『日本の石仏』(朝日新聞社、1958年)、『観世音寺』(中央公論美術出版、1964年)などにまとめられた。57年には石橋美術館で「カメラの眼 日本の石仏」展を開催、また昭和40年代にカラーフィルムで撮影した作品による『国宝 富貴寺』(大佛次郎、平田寛との共著、淡交社、1972年)が刊行されるなど、九州を中心に多くの仏像写真をてがけた。昭和30年代後半には美術家、文芸家の肖像を集中的に撮影した。35mmカメラを用い、主にその場にある光源だけを使用して撮影されたそれらの肖像は、多くがモデルの自宅や仕事場などで撮影されたこともあり、たくみな明暗の扱いとともに、自然にふるまう被写体の個性を過不足なく伝える仕事として高く評価された。一連の作品は個展「現代美術家の肖像写真展」(日本橋三越、1964年)などにおいて発表され、以後もライフワークとして継続、1994(平成6)年には『芸術家の肖像』(中央公論美術出版)にまとめられた。また福岡出身の彫刻家冨永朝堂、豊福知徳らの作品写真にも優れた仕事を残した。67年には九州産業大学教授に就任、92年まで同大学および大学院で教鞭を執った。78年には第28回日本写真協会賞功労賞、86年には第11回福岡市文化賞を受賞している。その業績を回顧する展覧会として、89年には「片山攝三写真展 モノクロームの軌跡 50年」(福岡県立美術館)が、96年には「芸術家の肖像 片山攝三写真展」(三鷹市美術ギャラリー)が開催された。 

丹下健三

没年月日:2005/03/22

読み:たんげけんぞう  建築家の丹下健三は3月22日午前2時、心不全のため東京都港区の自宅で死去した。享年91。ケンゾウ・タンゲとして日本のみならず世界でもトップクラスの建築家・都市計画家として知られた丹下健三は、1913(大正2)年大阪府堺市に生まれた。父親の転勤に伴って生後まもなく中国に移り、漢口を経て上海へ、20年上海日本人尋常小学校2年生の時に父親の出身地愛媛県今治市へ戻り、26年旧制今治中学入学、30年旧制広島高等学校理科甲類に進学。この旧制広島高校時代に芸術雑誌でみたフランス人建築家の巨匠ル・コルビジェの作品に感動したことが建築家を志すきっかけとなった。1935(昭和10)年東京帝国大学工学部建築学科入学、38年卒業、前川国男建築事務所に入る。41年東京帝国大学大学院入学、46年大学院修了、同年東京帝国大学工学部建築学科助教授。59年工学博士。大学院在学中の42年に大東亜建設記念営造計画コンペ、翌43年に在盤谷日本文化会館計画コンペで続けて一等入選。さらに49年広島市主催の広島平和記念公園コンペでも一等入選(55年完成)。51年ロンドンで開催された第8回CIAM(国際近代建築会議)に招待されて広島の計画を発表、日本を代表する建築家として海外でも知られるようになった。52年東京都庁舎コンペ一等入選(57年完成)、57年倉吉市庁舎、58年香川県庁舎、60年倉敷市庁舎。柱と梁、庇と縁の直線の構成から生まれる美、伊勢神宮や桂離宮などに代表される日本の伝統建築の美しさと力強さをモダニズムに融合させた斬新なデザインを次々と発表し、モダニズムを主導した欧米の建築界でも高い評価を受けてその一翼を担い、戦後日本の建築家の国際社会での地位確保に貢献した。関心は個別の建築デザインに止まらず、都市計画にも及んだ。61年1月「東京計画1960」発表。都市を有機体と考え、東京湾を横断する都市軸上に線上に発展する開いた都市を構想した。機能的アプローチから構造的アプローチへの転換であったと語る。61年丹下健三・都市建築設計研究所開設。64年東京大学工学部都市工学科新設、教授就任。64年東京オリンピック開催、代表作となる代々木の国立屋内総合競技場が完成した。吊り構造という新しい構造形式を採用し、構造力学者坪井善勝の協力を得て生み出された画期的で象徴的な造形の建築は世界の注目を集めた。この頃のテーマは「空間と象徴」であり、同様な造形美を誇る東京カテドラル聖マリア大聖堂、香川県立体育館が同じ年に完成している。67年山梨文化会館では、東京計画1960で試みた構造的アプローチを単体の建築で実現させて、有機的に成長する建築を提案した。70年日本万国博覧会会場マスタープランを手がけて、名実ともに日本の戦後復興と高度経済成長時代を支えた建築家となった。海外では、66年ユーゴスラビア・スコピエ都市再建震計画競技設計一等入選、その後、世界各地で数多くの建築・都市計画を手がける。主なものに、ネパール・ルンビニ釈尊生誕地聖域計画(69年~)、伊ボローニャ・フィエラ地区センター計画(71年~)、アルジェリア・オラン総合大学計画(71年~)、クウェート国際空港(79年)、伊ナポリ新都心計画(80年~)、ナイジェリア新首都都心計画(81年~)、シリア・ダマスカス国民宮殿(81年)、サウジアラビア王国国家宮殿・国王宮殿、同キングファイサル財団本部(82年)、シンガポール、マレーシアでの一連の作品などがある。また最近の作品としては、1991(平成3)年東京都新庁舎、96年フジテレビ本社ビル、05年癌研究会有明病院などが知られ、最後まで建築界に刺戟を与え続けた。74年東京大学定年退官、名誉教授。79年文化功労者。80年文化勲章。94年勲一等瑞宝章。海外では、76年西独プール・ル・メリット勲章、77年フランス国家功労勲章コマンドール、78年メキシコアギラ・アステカ勲章、79年イタリア国家有功勲章コメンダトーレ、83年フランス芸術アカデミー会員、ペルー太陽勲章グラン・オフィシェル、84年イタリア国家有功勲章グラン・オフィシェル、フランス文化芸術勲章コマンドール、89年イタリアサボイア文化勲章、96年フランスレジオン・ドヌール勲章コマンドールなど。また世界中の大学から多くの名誉博士号を受けた。62年ドイツ・シュツットガルト工科大学名誉工学博士、64年イタリア・ミラノ工科大学名誉建築学博士、70年イギリス・シェフィールド大学名誉文学博士、71年アメリカ・ハーバード大学名誉芸術博士、78年アルゼンチン・ベェノスアイレス大学名誉教授、97年中国・清華大学名誉教授、など。 

水谷愛子

没年月日:2005/03/22

読み:みずたにあいこ  日本画家で日本美術院同人の水谷愛子は3月22日午後10時49分、くも膜下出血のため横浜市港南区の病院で死去した。享年80。1924(大正13)年8月15日広島市に生まれる。1941(昭和16)年安田高等女学校(現、安田女子高等学校)を卒業し、上京して女子美術専門学校(現、女子美術大学)に入学、44年に卒業して故郷の広島に戻り、戦後の46年より母校安田高等女学校の図画講師として奉職する。49年同郷の日本画家山中雪人と結婚し、横浜市に新居を構える。同49年大智勝観の紹介で中島清之に、51年には月岡栄貴の紹介で前田青邨に師事することとなる。市内の中学で美術を教えながら創作を行い、55年第40回院展に漁師を描いた「濤聲」が初入選。その後も院展に出品を続け、87年第72回展で「母と子」、1989(平成元)年第74回展で「裕太と亮ちゃん」、90年第75回展で「亮と兄ちゃん」が日本美術院賞・大観賞、91年「理季ちゃん」で五度目の院展奨励賞を受賞。また春の院展でも春季展賞、奨励賞を受賞。2000年より日本美術院同人となる。民家をテーマにした作品群を経て、日常親愛の眼差しを向けている身近な老人や幼児を主題とし、確かなデッサン力に裏付けられた大胆な線描と温もりある色塊との生命力溢れる構成で表現した。03年に夫山中雪人が他界、翌04年に夫の遺作36点と自作31点および大下図3点を呉市立美術館に寄贈する。没後間もない05年秋には同館で「山中雪人・水谷愛子二人展」が開催された。 

蔦谷喜一

没年月日:2005/02/24

読み:つたやきいち  「きいちのぬりえ」で一世を風靡した、ぬり絵作家の蔦谷喜一は、2月24日午前8時33分、老衰のため埼玉県春日部市内の病院で死去した。享年91。1914(大正3)年2月18日、東京市京橋区新佃に紙問屋の次男として生まれる。14歳の時に京橋商業へ入学するが、授業内容に興味が持てず中退。帝展で山川秀峰の「素踊」に魅せられて挿絵画家を志し、1931(昭和6)年川端画学校に入学する。3年程で卒業した後は、クロッキー研究所に通う傍ら、長兄に勧められて菓子屋の経営を一年程経験した。39年には、大木実詩集『場末の子』(砂子屋書房)の表紙絵を担当。40年から「フジヲ」の名前でぬりえを描き始めるが、太平洋戦争の勃発とその激化により制作の困難な状況となる。その戦争の中で44年にまさと結婚、半年後の招集とともに海軍省に配属され、終戦直後には駐留米兵相手に肖像画を描き生計を立てた。47年より「きいち」の名前でぬりえを再開、石川松声堂と山海堂の二社から発売されて爆発的なブームを巻き起こした。49年には『メリーちゃん』『はなこさん』(朝日出版社)を発行。しかし60年代のTVの普及でアニメブームが訪れるとぬりえの売れ行きは急激に悪化し、美人画や日本画、掛軸なども手掛けるようになる。その後、蔦谷のファンであったグラフィックデザイナー長谷川義太郎の働きかけにより再び脚光を浴び、78年に資生堂ザ・ギンザホールでの個展をはじめ、各地で展覧会が開かれ大盛況となった。また広告や商品にも多くの作品が起用され、『わたしのきいち』(小学館)など著書も多数出版された。この第二次きいちブーム自体は平成元年頃に落ち着くが、現在でも文化屋雑貨店には蔦谷が原画を手掛けた雑貨が並び、広く親しまれている。晩年は「童女百態シリーズ」に取り組み続けていた。代表作は他に、美人画『行灯』、仏画『きいち観音』等がある。

西村龍介

没年月日:2005/02/21

読み:にしむらりゅうすけ  点描によってヨーロッパの古城を描いた作品で知られる洋画家の西村龍介は21日午後6時38分、急性心筋梗塞のため長野県軽井沢市の病院で死去した。享年85。1920(大正9)年2月8日、山口県小野田市に生まれる。本名一男。小野田尋常小学校を経て、1935(昭和10)年山口市立大殿尋常高等小学校を卒業する。この間の34年、両親と死別。36年、上京し、38年4月、日本美術学校日本画科に入学。太田聴雨、川崎小虎、矢沢弦月らに学び、またデッサンを洋画家の林武に学ぶ。41年3月、同校を卒業と同時に出征。45年、特攻隊員として沖縄戦へと向かう途中に終戦を迎え、郷里山口市に復員する。市内の古刹瑠璃光寺の一室を画室兼居所として日本画を制作し、46年山口市八木百貨店で初めての個展を開催して日本画18点を展示する。この頃、三好正直らと山口市展、山口県展を創設する。49年、京都市立美術専門学校研究科に入学。50年同校を中途退学し、2月に上京。企業の博覧会の背景画などを描いて生計を立てつつ画家を志し、制作の準備に時間がかかる日本画から油彩画へ転向して龍介と名乗る。54年第39回二科展に「河岸」で初入選。56年第41回二科展に「月のある風景」「鳥と植物」を出品し、特待受賞。57年に二科会会友となる。59年サロン・ド・コンパレゾン展に招待出品。同年第44回二科展に「故園」「花」を出品して二科金賞を受賞。翌年二科会会員となる。63年第48回二科展に「風景(A)」「風景(B)」を出品し、同会会員努力賞を受賞。64年2月に渡欧しフランス、スペイン、イタリア、ベルギーを旅行して7月に帰国。この旅でその後の主要モティーフとなる古城、聖堂、ヴェネツィア風景などと出会う。67年サロン・ドートンヌに「風景」を招待出品。68年第53回二科展に「古城」「館」を出品して二科会青児賞を受賞。69年第54回二科展に「聖堂」「遥かなる聖堂」を出品して二度目の会員努力賞を受賞する。70年再渡欧。71年第56回二科展に「古城幻影」「城」を出品し、内閣総理大臣賞受賞。71年より82年まで毎年渡欧。83年1月「森と城と水の詩情の世界 西村龍介展」が銀座・松屋で開催され、初期から近作までが出品される。88年銀座のフジヰ画廊で西村龍介個展「水の抒情詩」を開催。89年昭和63年度(第39回)、前年の個展に対し、「日本画と洋画の技法を巧みに融合した日本的詩情豊かな独自の油彩表現を円熟の域に高め」たとして芸術選奨文部大臣賞を受賞。その後も二科展に出品を続け、97年東京八重洲の大丸ミュージアムで「喜寿記念・西村龍介展」を開催。2000年二科会を退会。同年、ハウステンボス美術館で「ヨーロッパ水辺の城 西村龍介展」を開催する。60年代の渡欧で得た古城の静かなたたずまいを、端正な構図、淡い色調の点描で描き、静謐な画風を示した。画集には『西村龍介画集』(講談社 1979年)がある。 

淀井敏夫

没年月日:2005/02/14

読み:よどいとしお  心棒に石膏を直接つける技法で細く伸びるフォルムを構成し、独自の作風を示した彫刻家淀井敏夫は2月14日、肺炎のため東京と新宿区の病院で死去した。享年93歳。1911(明治44)年2月15日、兵庫県朝来郡山口村佐中に生まれる。後、両親とともに大坂へ転居。高津小学校を経て、1928(昭和3)年大阪市工芸学校を卒業。同校で吉川政治に木彫を学ぶ。同年、上京して東京美術学校彫刻科に入学。北村西望に塑像を、関野聖雲に木彫を学ぶ。同校在学中の31年第12回帝展に「男立像」で初入選。33年東京美術学校を卒業。35年第10回国画会展に「仕事着の青年」を出品する。36年大阪市立工芸学校教諭となり、同年の第23回二科展に「若き手工業者」を出品。37年には同展に「少年」を出品する。40年、大阪市立工芸学校教諭を辞して上京。同年大阪市主催奉祝二千六百年記念展に「三船氏」「征くもの」を出品し、大阪市長賞を受賞する。41年第5回東邦彫塑院展に「少年像」、43年第6回新文展に「坐像」を出品。44年応召し翌年の終戦は堺市で迎える。48年第33回二科展に「仕事着の人」、49年第34回同展に「労人」を出品して同会準会員となる。以後も二科展で活躍し、51年同会会員となり、54年第39回展に「坐像」を出品して二科会会員努力賞を受賞。65年に渡欧し、翌年渡欧の成果をギャラリー・キューブでの個展で発表する。72年第一回平櫛田中賞を受賞し、東京の日本橋高島屋で受賞記念展が開催される。また、同年72年第57回二科展に「夏の海」「クレタの渚」「渚のエウローペ」を出品し青児賞を受賞。73年第58回二科展に「砂とロバと少年」「小さいキリン」を出品し、前者により内閣総理大臣賞を受賞する。76年第61回二科展にベンチ座る二人の人物を表した「ローマの公園(大)」および「流木と椅子で」を出品。77年「ローマの公園(大)」で日本芸術院賞を受賞、78年「ローマの公園(大)」で長野市野外彫刻賞を受賞。82年日本芸術院会員となる。85年兵庫県立近代美術館、姫路市立美術館で個展を開催。87年日本橋高島屋で「彫刻50年の歩み 淀井敏夫展」を開催する。1994(平成6)年文化功労者となる。99年あさご芸術の森美術館に淀井敏夫記念館が開館する。2001年文化勲章を受章。54年母校の東京藝術大学の講師として教鞭を取り、59年同助教授となり、65年に同教授、73年同美術学部長となって、78年に定年退官するまで、後進の指導に尽力し、定年とともに同名誉教授となった。初期には対象を再現的にとらえるアカデミックな塑像を制作したが、1950年代半ばから対象のフォルムをそぎ落とすデフォルメが行われるようになり、心棒に直接石膏をつける独自の技法を用い、複数の人体像を組み合わせて自然と人との関わりをあらわす作風となった。70年代に野外彫刻が盛んになるのに伴い、箱根彫刻の森美術館の「ローマの公園(大)」(76年)、宝塚市宝塚大橋の「渚」(78年)、釧路大規模運動公園の「飛翔」(87年)など大規模な野外彫刻も手がけた。的確な対象把握をもとに、量塊性を削いでいき、存在感や動きの中枢に迫るフォルムを創出し、抽象彫刻が出現して以降の具象彫刻の展開にひとつの指針を示した。 二科展出品歴 第23回(36年)「若き手工業者」、24回「少年」、33回(48年)「仕事着の人」、34回「労人」、35回(50年)「青年立像」、36回「画家の像」、37回「立像」、38回「坐像」、39回「坐像」(会員努力賞)、40回「★る」、41回「夏の雲」、42回「海辺・夏」、43回「人体・夏」、44回「波・群」、45回「波」、46回「渚」「キリン」、47回「破船」、48回「闘った鶏」「小さいキリン」、49回「野の鶏」、50回「アラブの夜の森」「座」、51回「聖マントヒヒ」、52回「童話も行くサッカラの道」「羊を追うトレドの山道」「浜辺の椅子」、53回「戯れる波と少年と犬」「貝殻」、54回「放つ」「法隆寺金堂炎上」、55回「海辺の女」、56回「 北の砂浜」、57回「夏の海」「クレタの渚」「渚のエウローペ」(青児賞)、58回「砂とロバと少年」(内閣総理大臣賞)「小さなキリン」、59回「ローマの公園」(石膏)、60回「牛と女と地中海」、61回「ローマの公園(大)」「流木と椅子で」、62回「夏の終わり(大)」、63回「渚(大)」、64回「渚のエウローペ(大)」、65回(80年)「海辺の母子」「K氏像」、66回「ルクソールにて」「海の鳥と少年」、67回「夏・流木と女(大)」、68回「放つ」、69回「エピダウロス・春(大)」、70回「幼いキリン・堅い土」、71回「漂泊・貝殻と雲と鳥」、72回「釧路湿原に捧ぐ」、73回「海」

吉岡健二郎

没年月日:2005/02/02

読み:よしおかけんじろう  美学者で静岡県立美術館館長、京都大学名誉教授の吉岡健二郎は、2月2日、心不全のため枚方市の自宅で死去した。享年78。1926(大正15)年5月3日東京(現在の品川区大崎)に生まれる。1944(昭和19)年、松本高等学校(旧制、理科甲類)入学、46年同校中途退学、47年京都大学文学部選科(旧制、哲学科)に入学、井島勉のもとで美学美術史を学び50年卒業、51年同本科(哲学科美学美術史専攻)を卒業、卒業論文はカント『判断力批判』の天才論に関するものであった。同年、同大学大学院(旧制)に進学し、55年4月まで在籍、同年5月から60年4月まで同大学文学部助手を勤めた。61年同志社大学文学部専任講師、62年同助教授、67年同教授となり、68年4月京都大学文学部助教授に就任、73年3月同教授(美学美術史学第一講座担任)に昇任、その間、72年5月に京都大学より文学博士学位を授与された。同大学では79年1月から80年1月まで評議員、80年1月から81年1月まで文学部長を勤め、1990(平成2)年3月に定年退官、同年4月、京都大学名誉教授の称号をおくられた。同年京都芸術短期大学教授、91年京都造形芸術大学教授(95年3月まで芸術学部長、92年6月から95年3月まで学長代行)、96年から98年まで同大学大学院芸術研究科長を勤め、また、94年1月からは静岡県立美術館館長の任にあった。2004年11月には、永年にわたって教育・研究・大学行政およびわが国の美術の発展に尽くした功績に対し瑞宝中綬章を授与された。吉岡の研究業績は、芸術学の確立者とされるK.フィードラーや、A.リーグル、D.フライらウィーン学派の美術史家の芸術思想などを足掛かりとしつつ、近代芸術学の成立事情・過程の検証と現代におけるその意義をめぐって、じつに幅広い分野にわたっており、比較的初期の成果は学位論文である著書『近代芸術学の成立と課題』(創文社、1975年)にまとめられている。「近代芸術学は人間とは何であるかという問に芸術の研究を通じて迫って行こうとする形で成立し、且つかかる問に答えることをその課題としている」(同書)といわれるように、その学風は一貫して、理論のための理論に陥ることなく、あくまでも具体的な美の現象、芸術の感動に即して芸術への学問的思索を深め、もって人間性の本質に迫ろうとするものであった。美や芸術をめぐる理論的反省と芸術作品の歴史的研究の一体性を重んじるこの姿勢は、吉岡が30年余にわたって指導に当たった京都大学文学部美学美術史学科の基調ともなった。共編著に『美学を学ぶ人のために』(世界思想社、1981年)、『La Scuola di Kyoto, Kyoto-ha(京都学派)』(Rubbettino Editore、1996年)、共著に『現代芸術 七つの提言』(やしま書房、1962年)、『芸術的世界の論理』(創文社、1972年)、『比較芸術学研究』第4巻(美術出版社、1980年)、『講座美学』第3巻(東京大学出版会、1984年)、訳著にダゴベルト・フライ『比較芸術学』(創文社、1961年)、ドニ・ユイスマン『美学』(共訳、白水社、1992年)、グザヴィエ・バラル・イ・アルテ『美術史入門』(共訳、白水社、1999年)、ヘルマン・ゼルゲル『建築美学』(中央公論美術出版、2003年)などがあり、その主要な論文は『美学』、『哲学研究』等に発表された。また吉岡の略年譜と著作目録は、『研究紀要』第11号(吉岡健二郎教授退官記念号、京都大学文学部美学美術史学研究室、1990年)、および『吉岡健二郎先生 略年譜・業績一覧(講演録)』(京都大学文学部美学美術史学研究室、2005年)に収録されている。 

須田寿

没年月日:2005/01/24

読み:すだひさし  洋画家の須田寿は1月24日午前、1時35分、肺炎のため東京都世田谷区の病院で死去した。享年98。1906(明治39年)5月25日、東京日本橋本町に生まれる。本名門井(かどい)寿。1913(大正2)年精華小学校に入学。同校在学中に遠縁にあたる日本画家下村観山のアトリエに出入りする。19年成蹊中学校に入学し、24年同校を卒業。洋画家を志し、東京美術学校西洋画科を受験するが、不合格となり川端画学校に入学する。1926(昭和元)年、東京美術学校西洋画科に入学。長原孝太郎に師事。27年、友人の大貫松三とともに中国へ旅行し北京に二ヶ月半滞在。28年東京美術学校西洋画科和田英作教室に入る。30年第11回帝国美術院展に「裸婦」で初入選。31年、親戚の須田家の養子となる。同年第12回帝展に東京美術学校の卒業制作「髪」を出品して入選。33年第14回帝展に「三人」、34年第15回帝展に「庭園小景」を出品し、官展作家としての地歩を固める。35年松田改組に伴い設置された第二部会第1回展に「庭前」を出品。36年文展鑑査展「蔭に憩う」を出品する一方、35年に石川滋彦、井手宣通、川端実ら官展若手作家が新規な試みを行う団体として設立した立陣社の趣旨に賛同して第2回展に「秋日」を出品。この頃から人物群像を穏健な写実にもとづいて描く画風が、デフォルメ等斬新な試みを取り入れた画風に変化し、37年の文展に落選する。39年第3回新文展に「親爺と子ども」が入選し、再び官展への出品を続ける。40年、阿以田治修、大久保作次郎、佐竹徳らが創設した創元会に第一回目から出品。戦後は46年春第1回日展に「暖日」、秋の第2回展に「裸童」を出品するとともに第5回創元会展にも出品。48年5月日本橋三越で「須田寿油絵個展」を開催。49年日展のあり方に疑問を抱き、退会。また創元会からも退会し、牛島憲之、飯島一次、大貫松三、榎戸庄衛、円城寺昇、山下大五郎と立軌会を創立し、以後、同会を中心に活動を続ける。この頃、ピカソやブラックなどのキュビスムに学び、対象を簡略な形態に還元して把握する画風へ移行し、70年以上におよぶ画業のなかで、大きな節目となった。50年、東京美術学校昭和6年卒業生による六窓会を創立し、54年の同会解散まで出品を続ける。52年第1回日本国際美術展に「二人」「少女の像」「鶏を抱く少年」を出品。54年9月、初めて渡欧し、フランス、イタリア、スペイン等を巡って西洋の古代美術に打たれる。帰国後、渡欧中で印象に残った異国の生活の風景、特に人と家畜のいる光景を描くようになり、牛が主要なモティーフとなる。63年、北九州の装飾古墳を見学して感銘を受け、古墳をモティーフとして描く。65年3月武蔵野美術大学造形学部教授となる。71年再渡欧。72年5月に3度目の渡欧。73年3月ギリシャ方面を旅行し、ギリシャ古典文明を探求。7月東京セントラルサロンで須田寿個展を開催。76年、須田寿教授作品展(武蔵野美術大学美術資料図書館)を自選作品により開催。77年11月須田寿自選展を東京セントラル美術館で開催。78年武蔵野美術大学を退職し、同学名誉教授となる。79年より立軌会のほかに日本秀作美術展、世田谷美術展に出品を続けたほか、日本橋高島屋、日動サロンほかで個展を開催する。82年「須田寿画集」(日本経済新聞社)を刊行、同年第6回長谷川仁記念賞受賞。85年第7回日本秀作美術展に「家族」を出品し、同年、この作品により芸術選奨文部大臣賞受賞。1993(平成5)年4月世田谷美術館で「須田寿展」が開催され、年譜、参考文献は同展図録に詳しい。2001年中村彝賞受賞。官展作家として活躍したアカデミックな画風から、立軌会創立後、再現描写にとらわれない内省的思索を絵画化する作品へと移行し、暗褐色、暗緑色を基調とする色数を限った色調と独自のマチエールを特色とする作品を制作し続けた。 

加藤卓男

没年月日:2005/01/11

読み:かとうたくお  陶芸家で重要無形文化財保持者(工芸技術「三彩」)の加藤卓男は、1月11日午前11時45分、肺炎のため岐阜県多治見市の病院で死去した。享年87。1917(大正6)年9月12日、江戸時代から続く美濃焼窯元五代目加藤幸兵衛の長男として、岐阜県土岐郡市之倉村(現、多治見市市之倉町)に生まれる。1935(昭和10)年岐阜県立多治見工業学校(現、多治見工業高等学校)を卒業後、京都の商工省陶磁器試験所に入所。37年同試験所終業後、帰郷し家業の福寿園丸幸製陶所(現、幸兵衛窯)に勤務。翌38年より従軍。転属先の広島市で残留放射能により被爆。その後10年ほど入退院を繰り返す生活を余儀なくされたが、54年第10回日展に「黒地緑彩草花文花瓶」を出品し初入選。61年陶磁器意匠と技術の交換のため、フィンランド工芸美術学校に留学。この間、休暇を利用してはじめて中東各地の陶器の産地を訪れ、そこで古代ペルシア陶器の美に触れる。帰国後は本格的にペルシア陶、なかでもラスター彩の研究を志すようになった。63年第6回新日展に出品した「花器 碧い山」が特選北斗賞を受賞、翌64年には第3回日本現代工芸美術展で「流」が現代工芸賞を受賞。65年第8回日展で「油滴花器 煌」が再び北斗賞を受賞。作家活動の一方で続けていたペルシア陶研究の成果は、昭和50年代に自身のラスター彩作品として結実。ラスター彩とともに同じペルシア系統の青釉にも取り組み、独創的なフォルムと鮮やかな青色が融合した作品を制作した。80年には宮内庁正倉院事務所より正倉院三彩の「三彩鼓胴」と「二彩鉢」の復元制作を委嘱され、約7年間におよぶ研究と試作を経て復元に成功する。この経験と技術を生かし、自身の創意による三彩の仕事にも取り組んだ。88年紫綬褒章受章。1995(平成7)年重要無形文化財「三彩」の保持者に認定された。ペルシア陶に魅せられ、研究のため訪れた中東の古窯址発掘現場で、織部に似た陶片を発見して以来、加藤は、ペルシアから日本へと広がる壮大なやきものの技術交流と発展史へと興味を広げた。しかし、古代のペルシア陶の技法を解明、再現することにとどまらず、作家として、古陶磁研究を自己の表現の手段として昇華させ、清新な現代の陶芸を創造した点で高く評価される。朝日陶芸展をはじめとして国際的なコンペティションでたびたび審査員を務め、陶芸界のリーダー的存在として果たした役割も大きい。トルコ、イスタンブールの国立トプカプ宮殿博物館(86年)をはじめ国内外で開催した個展多数。2002年4月1日から30日まで『日本経済新聞』に「私の履歴書」を連載(『砂漠が誘う―ラスター彩遊記』日本経済新聞社、2002年加筆所収)、作品集に『ラスター彩陶 加藤卓男作品集』(小学館、1982年)がある。没後、岐阜県現代陶芸美術館で回顧展「加藤卓男の陶芸展―陶のシルクロード」(06年)が開催された。 

川面稜一

没年月日:2005/01/09

読み:かわもりょういち  日本画家であり、建造物彩色の国選定保存技術保持者の川面稜一氏は、1月9日、脳梗塞のため死去した。享年91。1914(大正3)年、大阪市曽根崎に生まれる。1934(昭和9)年、京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)を卒業。40年、絵画専門学校時代の恩師である入江波光より、文部省紀元2600年事業・法隆寺金堂解体修理に伴う壁画模写事業に、助手の一人として参加を要請される。戦時下の応召のため一旦現場を離れるが、47年に復帰。この事業では、安田靱彦を筆頭とする東京班と入江波光を筆頭とする京都班とに分かれ、東京班は壁画の印刷の上に胡粉をひいて厚彩色仕上げとしたのに対し、京都班は壁画をコロタイプ印刷したものを下敷きに壁画の引き写しを行い、薄彩色仕上げとした。50年、文化財保護委員会美術工芸課の委嘱を受け、56年の京都・平等院鳳凰堂中堂扉絵をはじめとする五ヶ寺の所蔵する美術作品の模写事業を立案し、60年には京都・醍醐寺五重塔初重壁画、62年京都・法界寺阿弥陀堂壁画、63年奈良・室生寺金堂壁画及び金堂諸像の板光背、66年京都・海住山寺五重塔内陣扉絵など、次々と重要な美術作品の現状模写を行った。平等院鳳凰堂中堂の扉絵模写を手掛けた際に翼楼の柱の朱塗を依頼されたのが、「建造物彩色」というそれまでにはなかった新しいジャンルの確立、そして氏がその第一人者となる契機となった。柱をはじめとする建築部材の現存する彩色を、綿密に調査した上でそれを尊重しつつ修理・復元彩色を施す「建造物彩色」は、60年代頃になってようやく定着を見せ始める。その皮切りとなった事業が、68年の京都・六波羅蜜寺本堂の向拝の復原彩色事業であった。その後、京都・北野天満宮本殿中門、西本願寺唐門、二条城唐門などをはじめ数多くの建造物の復原彩色を手掛け、72年には、二条城二の丸御殿襖絵の模写事業が開始された。三十年を経た現在もなお継続中のこの事業では、経年変化を見せる建築と新しく模写を行った襖絵とが調和するように、制作当初と考えられる彩色を復元しつつ、それに一定の古色を付す「古色復元模写」の手法が初めて取り入れられた。84年、有限会社川面美術研究所を設立。その後も、京都・清水寺三重塔、富貴寺大堂内部壁画の彩色復元など、携わった事業は数多く、建造物彩色の草分けとしてその業績は特筆に値する。84年、京都府文化財保護基金より文化功労賞を受賞。86年、内閣総理大臣より木杯授与。1997(平成9)年、建造物彩色選定保存技術保持者に認定。2000年、日本建築学会より建築学会文化賞を受賞。また、養父野村芳光が祇園都をどりの舞台美術を担当していた縁により、それを継承し長年にわたって背景画制作を行った。92年、舞台美術協会より伊藤熹朔賞受賞。その他、美術作品のレプリカ製作にも携わった。

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