本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





植田正治

没年月日:2000/07/04

読み:うえだしょうじ  写真家の植田正治は7月4日、急性心筋梗塞のため鳥取県米子市の病院で死去した。享年87。1913(大正2)年3月27日鳥取県西伯郡境町(現 境港市)に生まれる。県立米子中学校在学中に写真に興味を持ち、1931(昭和6)年に中学を卒業後、地元のアマチュア写真団体米子写友会に入会する。32年上京しオリエンタル写真学校に学び、同年帰郷して営業写真館を開業。新興写真の影響を受けた作品を制作、『カメラ』、『アサヒカメラ』などの写真雑誌の月例懸賞に応募し入選を重ねる。33年日本海倶楽部、37年中国写真家集団の結成に参加。39年の第3回中国写真家集団展に出品した「少女四態」が第13回日本写真美術展で特選を受賞。40年第4回中国写真家集団展に「茶谷老人とその娘」を出品。これらは初期の代表作であり、複数の人物を画面に配した演出写真による、戦後確立される作風の先駆となる。戦時体制の進行とともに写真制作を中断。38年、43年の2度応召するがいずれも即日帰郷、また海軍工廠へ徴用されるが体調不良により帰郷する。終戦後、46年に写真作品の制作を再開し、47年写真家集団銀龍社に参加(会員に桑原甲子雄、石津良介、緑川洋一ら)。49年『カメラ』編集長桑原甲子雄の企画で鳥取砂丘での土門拳らとの競作が行われ、その作品が同誌9月号に掲載される。この鳥取砂丘での作品と、同誌10月号に掲載された、境港の自宅近くの砂浜で家族をモデルに撮影された「パパとママとコドモたち」他の作品などによって、砂丘や砂浜を天然のスタジオとする群像写真のスタイルを確立する。50年山陰地方の写真家たちによる写真家集団エタン派を結成。54年二科会写真部に出品した「棚の下の水面」「湖の杭」で第2回二科賞を受賞し、55年二科会写真部会員となる。以後も一貫して自宅のある境港およびカメラ店を構えた米子を拠点に活動を続け、「童暦」シリーズ(写真集、71年)や「小さな伝記」シリーズ(『カメラ毎日』連載、1974~85年)など、山陰の風土をモダンな造型感覚と独特のユーモア感覚でとらえた作品を、写真雑誌等を通じて発表。また74年『アサヒカメラ』に連載した「植田正治 写真作法」)、78年『カメラ毎日』に連載した「アマチュア諸君!」などの文章を通じてもアマチュア写真家たちに影響を与えた。75年から94年まで九州産業大学芸術学部写真学科教授、79年から83年まで島根大学教育学部非常勤講師を務める。83年メンズ・ビギの広告のために砂丘でファッション写真を撮影。これをきっかけに90年代にかけて「砂丘モード」シリーズを制作、自ら「砂丘劇場」と呼んだ砂丘での群像演出写真を現代的なモード写真として展開、それらを紹介する「植田正治 砂丘」展(渋谷PARCO 87年)が開催されるなど、広範な注目を集めた。それらと並行して、80年代半ばからは「植田正治 50年の軌跡」展(ペンタックスフォーラム 84年)、「植田正治とその仲間たち 1935-1955」(米子市立美術館 92年)、「植田正治の写真」展(東京ステーションギャラリー 93年)などの大規模な回顧展が開催され、あらためてその仕事への評価が高まり、1995(平成7)年鳥取県西伯郡岸本町に本人より寄贈を受けた作品を収蔵する植田正治写真美術館が開館した。第9回および第18回アルル国際写真フェスティバル(フランス 78・87年)、第17回フォトキナ(ドイツ、ケルン 82年)、フォト・フェスト’88(アメリカ、ヒューストン 88年)など海外での発表も多く、その独自の画面構成感覚が「UEDA-CHO(植田調)」と呼ばれ高い評価を受けた。95年から97年まで『アサヒカメラ』に「印籠カメラ写真帖」を連載するなど、晩年も、急死する直前まで新たな作品に取り組み続けた。75年日本写真協会年度賞、89年日本写真協会賞功労賞を受賞。96年フランス文化芸術勲章を受章。主な写真集に『童暦』(「映像の現代」第3巻、中央公論社 71年)、『音のない記憶』(日本カメラ社 74年)、『砂丘・子供の四季』(朝日ソノラマ 78年)、『新出雲風土記』(「日本の美 現代日本写真全集」第5巻、集英社 80年)、『植田正治ベス単写真帖 白い風』(日本カメラ社 81年)、『昭和写真・全仕事10 植田正治』(朝日新聞社 83年)、『砂丘 植田正治写真集』(PARCO出版局 86年)、『植田正治作品集』(全2巻、PARCO出版局 95年)、『植田正治写真集』(宝島社 95年)、またその文章をまとめた『植田正治 私の写真作法』(金子隆一編、TBSブリタニカ 2000年)などがある。

岩下三四

没年月日:2000/07/01

読み:いわしたみつし  洋画家で日展参与および東光会副会長を務めた岩下三四は7月1日午前2時40分、肺癌のため鹿児島市の自宅で死去した。享年93。明治40(1907)年3月26日、鹿児島県大島郡喜界村に生まれる。1926(大正5)年、鹿児島第一師範学校を卒業して喜界村立湾尋常高等小学校教諭となり、翌年鹿児島市立鹿児島尋常高等小学校に赴任する。1930(昭和5)年、元同校教諭で当時東京美術学校に在学していた黒松秀志の写生姿に感銘を受け、油絵道具一式を買いそろえて制作を開始。同年、岩木三光を名乗って第8回南国美術展に出品した「海の引力」が初入選。翌年退職して上京し、東京都北豊島郡第四峡田尋常小学校に赴任。32年から熊岡美彦の熊岡洋画研究所で学び、33年の第1回東光会展に入選。同年「静物」が第14回帝展に入選。34年の第2回東光会展ではK氏奨励賞を、35年の第3回東光会展で田中奨励賞を、36年の第4回東光会展で「海と裸婦」が東光賞を受賞し、37年に東光会会員となった。40年、第四峡田尋常小学校を退職して熊岡洋画研究所講師となる。47年、鹿児島に居を構え、鹿児島師範学校(後の鹿児島大学)講師として後進の育成に努める(51年から教育学部助教授、65年から教授)。52年、「画室にて」で第8回日展特選・朝倉賞を受賞。68年から日展会員。80年から東光会理事と日展評議員、82年から日展参与、1989(平成1)年から東光会副理事長を務めた(後に副会長)。この間、55年に鹿児島美術協会を結成に参加して審査員を務めるなど、郷土の美術振興に寄与するところが大きかった。71年に鹿児島大学を退官してからは志賀学園鹿児島女子短期大学教授を務め、73年には南日本文化賞を受賞、78年鹿児島県から県民表彰を受ける。82年、勲四等旭日小綬賞を受賞。98年、長島美術館(鹿児島市)にて「岩下三四展-卆寿をこえて-」が開催され、同年『岩下三四画集』(同刊行会)が出版された。桜島、霧島や琉球踊りといった南国の風物などを、鮮やかな色彩と力強いタッチで描いた。次男国郎は洋画家で東光会会員、鹿児島国際大学教授。

徳力富吉郎

没年月日:2000/07/01

読み:とくりきとみきちろう  版画家で西本願寺絵所12代目の徳力富吉郎は7月1日午後7時50分、老衰のため京都市左京区の病院で死去した。享年98。1902(明治35)年3月22日、京都市の西本願寺絵所を代々務める徳力家に生まれる。父が森寛斎の門弟であった関係で、幼少時より父の兄弟子にあたる山元春挙に絵の手ほどきを受ける。1920(大正9)年より京都市立絵画専門学校に日本画を学び、入江波光の指導を受けた。在学中の22年、第4回帝展に「花鳥」が入選。翌年の卒業後は土田麦僊の山南塾に入る。その一方、鹿子木孟郎の下鴨画塾にも通いデッサンを学んでいる。1927(昭和2)年第6回国画創作協会展に洋画的写実を取り入れた「人形」「人形とレモン」が初入選し、後者で樗牛賞を受賞。第7回展には日本画的な装飾性を生かした「初冬」「茄子」が入選し、国画奨学金を受ける。28年に国画創作協会が解散すると新樹社の創立に参加。また平塚運一の版画講習会に参加したのをきっかけに京都の麻田辨自、浅野竹二、東京の棟方志功、下山木鉢郎らとグループ「版」を結成し、同人誌『版』を創刊する。新樹社でも日本画とともに版画を出品。29年の第10回帝展に版画「月の出」が入選し、30年から33年まで春陽会にも版画を出品する。31年には麻田辨自、浅野竹二らと版画の大衆化を目指す版画誌『大衆版画』を発刊、二号で終刊となるが、その姿勢は以後も貫かれることになる。戦後は46年に版画製作所を興し、徒弟を養成して産業的版画の量産を始める。51年、京都版画協会を結成。版画工房を主宰。72年に薬師寺吉祥天像の複製版画、また85年に西本願寺西山別院の襖絵を制作している。80年には京都市文化功労者、1992(平成4)年に京都府文化賞特別功労賞を、96年日本浮世絵協会より浮世絵奨励賞を受賞。91年には版画普及のため京都版画館を設立。主著・画集に『版画随筆』(三彩社 67年)、『日本の版画』(河原書店 68年)、『徳力富吉郎画集』(安部出版 84年)、『花竹庵の窓から』(京都新聞社 88年)、『もくはん 徳力富吉郎自選版画集』(求龍堂 93年)がある。

三尾公三

没年月日:2000/06/29

読み:みおこうぞう  洋画家三尾公三は6月29日午前7時40分大腸がんのため京都府伏見区の国立京都病院で死去した。享年76。1923(大正12)年12月3日愛知県名古屋市中区板橋町1-29に生まれる。1942(昭和17)年南山中学校を経て京都市立絵画専門学校日本画予科(現 京都市立芸術大学美術学部)に入学。山口華楊、宇田荻邨、中村大三郎、池田遥邨、上村松篁らに学ぶ。47年同校を卒業し油彩画に転ず。51年鬼頭鍋三郎を知り、光風会、日展に出品する。52年第38回光風展に「珈琲店」を出品して京都新聞社賞受賞。53年第39回光風展に「埴輪」「牛骨と土器」を出品して光風賞を受賞し翌年同会会友、59年同会会員となる。64年に退会し、新たな表現を求めてセメントを素材とする制作を試みる。同年セメントを素材とする個展を京都府ギャラリーおよび画廊紅(京都)で開催。また、同年第6回現代日本美術展コンクール部門に画面を横長の大きな色面で大胆に構成した油彩画「象Ⅰ」で入選する。66年焼き付け写真やフィルムのような画面の質感に興味を抱き、エアーブラシによる着色技法を習得するため京都工業試験所夜間部に約1年通う。これによって、木製パネルなどの滑らか表面にアクリル絵具を吹き付け、絵画でありながら写真のような質感を持つ作品を制作するようになる。67年、画廊紅(京都)で開催した個展により評論家木村重信の評価を得、第11回安井賞候補新人展に推薦される。68年第3回ジャパンアートフェスティバルに「虚構の華」を出品して文部大臣賞を受賞する。69年第9回現代日本美術展に「FICTION SPACE—B」を出品。第10回サンパウロ・ビエンナーレ(コミッショナー・小倉忠夫)に「WALL OF FICTION」など4点を出品する。75年第3回インドトリエンナーレ(コミッショナー・富山秀男)に「ON THE BEACH」ほかを出品してゴールドメダルを受賞する。79年第2回東郷青児美術館大賞受賞。81年創刊の写真週刊誌「FOCUS」(新潮社刊)の表紙絵を第1号から手がけ、女性の顔や身体の画像を傾斜させた上、遠近法に基づいて描きいれた幻想的作品で知られるようになる。この頃から大規模な個展が開催されるようになり、84年「幻想空間を描く—三尾公三展」を東京新宿の小田急百貨店、大阪梅田の大丸百貨店で開催。1989(平成1)年には東京日本橋高島屋で「夢幻の風景を描く-三尾公三展」、90年には京都市美術館で「京都の美術 昨日・きょう・明日-三尾公三・坪井明日香展」、93年には国立国際美術館で「女のいる幻想空間-三尾公三展」が開催された。こうした画業により、91年第32回毎日芸術賞、97年第47回芸術選奨文部大臣賞、98年京都府文化賞特別功労賞を受賞する。没後の2001年「美のフォーカス 三尾公三展」が京都市美術館で開催された。画集に『三尾公三画集』(講談社 81年)、『裸婦・三尾公三』(学研 84年)などがある。また、71年より母校の京都市立芸術大学助教授となり、75年同教授となった。83年に同校教授を退いた後も、死去するまで同校客員教授をつとめた。

小野具定

没年月日:2000/05/17

読み:おのぐてい  日本画家で創画会会員の小野具定は5月17日、心不全のため千葉県柏市の病院で死去した。享年87。1914(大正3)年2月16日山口県熊毛郡田布施村に生まれる。本名具定(ともさだ)。旧制中学時代には個人指導により油絵を学ぶ。1931(昭和6)年上京し、川端画学校で初め洋画を学んだのち、33年日本画に転向する。34年東京美術学校日本画科に入学、39年卒業した。この間、38年大日美術院第2回展に「小春」が入選している。卒業後は白木屋百貨店の美術部に勤めるが、徴兵検査を機に退社。40年東京青山の近衛歩兵第4連隊に入隊し、3年間そこへ勤務したのち除隊となって、43年海外報道班員としてラバウル航空隊司令部に配属、南方基地をまわって報道用スケッチを描いた。帰国後の44年、海軍報道部の要請により作戦記録画「第二ブーゲンビル島沖航空戦」を描き、第8回海洋美術展に出品。終戦後は東京や野田、柏で美術の教師を勤めながら創作活動を続ける。47年児玉希望に入門し、同年第3回日展に「木枯の頃」が入選、49年第5回日展に「蚊帳」が再入選。しかしその後は3年続けて落選する。54年新制作協会展に「沼」が入選するが、これを機に希望門下を離れ、以降は新制作協会展に出品するようになる。59年教員を辞め、画業に専念する。61年第25回新制作展より64年第28回展まで4年連続新作家賞を受賞、65年同協会会員となった。67年第31回新制作展「北辺Ⅰ」は文部省買上げとなる。74年創画会結成以後は会員として同会に出品、79年第6回展「海と霧」、80年第7回展「冬ざれ」、83年第10回展「涸れた海」等を発表する。また日本国際美術展、現代日本美術展にも出品している。房総半島沿岸の廃船や廃屋といったモティーフにはじまり、東北、北海道、山陰と北辺の漁村を題材に、白と黒のコントラストを基調とした原風景的イメージの世界を展開。晩年には「記憶の風景」シリーズを手がけ、1999(平成11)年にはそのうちの一つである「2・26の午後」で芸術選奨文部大臣賞を受賞。95年に練馬区立美術館・下関市立美術館で「刻まれた記憶 小野具定展」、没した翌年の2001年には柏市民ギャラリーで「辺境を描く 小野具定展」が開かれた。

内間安瑆

没年月日:2000/05/09

読み:うちまあんせい  木版画家内間安瑆は、5月9日夕刻(現地時間)、米国ニューヨーク市の病院で死去した。享年79。1921(大正10)年、沖縄県出身の両親が移住した米国カリフォルニア州ストックトンに生まれる。1940(昭和15)年に来日、44年早稲田大学建築科を中退して、絵画を独学する。52年頃から木版画制作をはじめる。54年、デモクラート美術協会の青原俊子を結婚。55年、最初の個展(銀座、養清堂画廊)を開催するとともに、日本版画協会会員となる。58年1月、東京銀座の養清堂画廊で泉茂、吉田政次と版画三人展、同年10月、同画廊で利根山光人、駒井哲郎、浜田知明等と「版画八人集」展開催。59年渡米、ニューヨークに住む。以後、日米両国での個展のほか、70年の第35回ヴェネチア・ビエンナーレ、72年のイタリアで開催された第2回国際現代木版画トリエンナーレなど、国際展にも出品をつづけた。しかし、82年に病に倒れ、以後制作は中断していた。代表作となった「Forest Byobu」(81年)にみられるように、多色木版画によって、色彩の豊かさと変化を、繊細な感覚で表現した。これは、浮世絵の伝統的な木版画技法を活用して、多色刷りの「色面織り」と称する独自の技法によって表現されたもので、米国、日本で高く評価された。

大森健二

没年月日:2000/04/22

読み:おおもりけんじ  建築家で工学博士の大森健二は4月22日午後10時、肺炎のため京都市の病院にて死去した。享年77。1923(大正12)年4月18日、京都市に生まれる。1949(昭和24)年、京都帝国大学工学部建築学科を卒業して京都府教育委員会国宝保存課に勤務し、大報恩寺本堂や平等院鳳凰堂の修理などを手がけた。56年の滋賀県教育委員会社会教育課をへて61年から京都府教育委員会文化財保護課に勤務、園城寺勧学院客殿や八坂神社本殿など、滋賀県および京都府下の数々の国宝・重要文化財建築の修理を担当した。62年、学位論文「中世建築における構造と技術の発達について」を京都大学に提出し、工学博士号を授与される。65年からは建築研究協会日本建築研究室に勤務し、その常務理事を兼ねる。68年に日本建築学会賞(論文)を、77年に密教学会賞(業績)をそれぞれ受賞している。実証的調査に基づいて建築技法を綿密に分析する研究手法は、中世建築史研究を大きく前進させただけでなく、現在でもひとつの模範とされているところである。また、中世建築技法への深い造詣を活かして、平安神宮社殿(79年)、延暦寺東塔(80年)、新勝寺大塔(84年)、湯島神社社殿(95年)などの設計を担当したことでも知られている。主著に『社寺建築の技術-中世を中心とした歴史・技法・意匠-』(理工学社 98年)がある。著作目録は『建築史学』35号(建築史学会 2000年9月)に掲載されているので、参照されたい。

古沢岩美

没年月日:2000/04/15

読み:ふるさわいわみ  洋画家古沢岩美は、4月15日午後10時28分、肺気しゅのため東京都板橋区の板橋医師会病院で死去した。享年88。古沢は、1912(明治45)年2月5日、佐賀県三養基郡旭村に生まれる。1927(昭和2)年、久留米商業学校を退学し、親類をたよって朝鮮大邱に渡るが、28年に上京して、岡田三郎助宅に寄宿する。その間、光風会展、春台美術展に出品した。34年、岡田宅を出て、東京豊島区長崎町にあった「長崎アトリエ村」に移り、ここで画家たちとの交友をひろげるとともに、前衛美術を志向するようになった。38年3月、第8回独立美術協会展に、シュルレアリスムに学んだ「蒼暮」、「地表の生理」を出品、一躍注目されるようになった。同年4月、寺田政明、小牧源太郎、北脇昇、糸園和三郎、吉井忠ら19名と創紀美術協会を創立した。しかし、同年10月に第1回展を東京で開催した後、解散。同会のメンバーの一部とともに、39年5月には美術文化協会結成に参加し、翌年第1回展から出品をつづけた。また、同年、東京朝日新聞が創立50周年記念に挿画コンクールをおこない、これに応募して当選した。に43年応召、久留米の部隊に配属され、中国大陸に送られる。終戦後、1年間捕虜生活を送り、46年復員した。47年、日本アヴァンギャルド美術家クラブ発会に参加。戦後の作品として、48年の第1回モダン・アートクラブ展に出品の「憑曲」、52年の第1回日本国際美術展に出品の「餓鬼」、56年の第2回現代日本美術展に出品の「斃卒」など、戦時中の体験と、戦後社会の混乱を告発する作品として注目された。55年に美術文化協会を退会。66年、『千夜一夜物語』(大場正史訳、河出書房、全8巻)、翌年、『カザノヴァ回想録』(窪田般彌訳、河出書房、全6巻)の挿絵をそれぞれ描いた。75年5月、山梨県西八代郡上九一色村に古沢岩美美術館が開館。82年、板橋区立美術館において「古沢岩美展」が開催され、初期から近作まで約130点によって回顧された。同展図録に、古沢自身が、「上から見れば「世間は虚仮」であろう。しかし虚仮の世間の中に不易の真実を発見してこそ芸術は存在価値があると思う。私が社会問題を取上げるのは時代の証言を残すためであり、エロチシズムを主題に選ぶのは不易への挑戦である。」という言葉を寄せている。これは、戦後から一貫した古沢芸術のテーマと姿勢をものがたるものといえる。1994(平成6)年には、郷里である佐賀県鳥栖市から、市民栄誉賞を受けた。

麻生三郎

没年月日:2000/04/05

読み:あそうさぶろう  洋画家で武蔵野美術大学名誉教授の麻生三郎は、4月5日午後10時急性肺炎のため、神奈川県川崎市多摩区生田の自宅で死去した。享年87。1913(大正2)年3月23日、東京府京橋区本湊町に生まれる。1930(昭和5)年、明治学院中学部を卒業、太平洋美術学校選科に入学。同学校で、佐藤俊介(後の松本竣介)を知る。36年にエコール・ド・東京の結成に、寺田政明、吉井忠、柿手春三とともに参加。38年2月から9月まで、ヨーロッパ各地を旅行。西洋古典絵画の深さにふれたというヨーロッパ体験は、その後の表現に影響を与えた。39年、第9回独立美術協会展に出品後、美術文化協会の結成に参加。翌年の同協会第1回展に滞欧作品を出品。43年に、イタリアでの見聞をまとめた『イタリア紀行』(越後屋書房)が刊行された。同年、井上長三郎、靉光、鶴岡政男、糸園和三郎、寺田政明、大野五郎、松本竣介といった同世代の画家たち8人があつまり、麻生の言葉によれば、「自分たちの生存と意志表示の集まりとして」(「松本竣介回想」より)新人画会を結成した。44年まで、わずか3回の展覧会を開催しただけであったが、戦時下の困難な状況、つまり「あたりまえのことができない時代」(同前)のなかでの画家たちの自主的な活動として、その意義は大きいといえる。45年4月、長崎町のアトリエを空襲によって、作品とともに焼失する。47年、新人画会の他の同人たちとともに自由美術家協会に入会する。戦中から、戦後にかけては、ひたむきに子ども、妻をモデルに、身近の人間に目をむけ、また、そうした人間のいる風景にも、実在する重さを見出して、描きつづけた。それは、麻生のつぎのような言葉からも、充分につたわってくる。「人と家、土、空、川と、つまりはどこにもある人の住んでくらしている街、ちいさい路地の一角、石のすきまから出ている雑草のかたまりでもいいのだ。そのままある自然のかたちで満足して仕事をつづけた。べつにかわった風景をさがしあるいたことはないし、そのような必要もない。」(「川のある家」、79年)そうした中から、「赤い空」などのシリーズが生まれた。50年、文芸評論家佐々木基一(1914〜93)を知り、これを契機に荒正人、埴谷雄高とも交友するようになる。52年、武蔵野美術学校(現 武蔵野美術大学)で後進の指導にあたるようになる。また同年、野間宏の小説「真空地帯」の装丁を手がけた。62年、「森芳雄・麻生三郎展」を神奈川県立近代美術館で開催。63年には、第13回芸術選奨文部大臣賞を受賞。64年、自由美術家協会を退会、以後無所属として活動をつづける。79年には「麻生三郎展 1934-1979」を東京都美術館で開催。81年に武蔵野美術大学を退職。83年、『麻生三郎作品集 ASO 1983』(南天子画廊)を刊行。86年、著述集『絵そして人、時』(中央公論美術出版)を刊行。1994(平成6)年10月から翌年3月まで、初期から近作にいたる約130点によって構成された回顧展「麻生三郎展」が、神奈川県立近代美術館、茨城県近代美術館、三重県立美術館を巡回した。  麻生自身のことばによれば、「凝視と解体の力が同じくらい迫ってくるというそのことがレアリズムだとわたしは考える。」(「靉光と昭和十年代の画家たち」、67年)というように、晩年にいたるまでの作品は、黒、灰色におおわれた画面に、震えるような、神経質な線描によって描かれた人間がわずかに判別できるという独特の表現であった。これは、見つめることで思索を深め、見つめつづけた時間の集積が、画面に表れていたといえる。人間と人間のいる風景を凝視し、ヒューマニスムの精神にうらづけられたレアリストとしての姿勢を、その初期から晩年までつらぬきとおした画家であった。 

祐乗坊宣明

没年月日:2000/04/03

読み:ゆうじょうぼうのぶあき  グラフィックデザイナーで、元多摩美術大学教授の祐乗坊宣明は4月3日午後0時33分、肺炎のため東京都府中市の都立府中病院で死去した。享年87。1913(大正2)年3月25日、東京府本所区に生まれる。東京朝日新聞社出版局に入社、約30年間にわたる在社中、数多くのアーティストたちをコーディネイトする一方、1952(昭和27)9月、アートディレクターの専門的機能を社会的に確立し、推進することを目的とした東京アートディレクターズクラブ(ADC)創立に尽力した。その後、68年から現在の多摩美術大学美術学部グラフィックデザイン学科で教鞭をとるようになり、教授として1991(平成3)年3月に退職。在職中は、後進の指導に熱心に取り組み、多くのデザイナーを育成した。なお、長男英明氏は作家嵐山光三郎。

横山一夢

没年月日:2000/03/28

読み:よこやまいちむ  木工芸家で日展参与を務めた横山一夢は3月28日午前2時20分、肺炎のため富山県高岡市の病院で死去した。享年89。1911(明治44)年3月1日、木彫の町として知られる富山県東砺波郡井波町に生まれる。本名善作(ぜんさく)。職人の家系に生まれて木彫技術を習得し、大島五雲(二代)に師事して無名の彫刻師として寺院の改修などにも加わった。1934(昭和9)年に独立自営をはじめると職人という枠にとらわれず独自の意匠作りに励み、41年、当時職人の応募はほとんど考えられていなかった中で、第4回新文展に「鷺の衝立」を出品し初入選を果たす。以後、山崎覚太郎(富山市出身の漆芸家)の指導を受けながら文展、日展に出品を続け、戦後の混乱期も旧来の徒弟制度を越えて井波美術協会や富山県工芸作家連盟を中心に幅広い創作活動を展開することで乗り越えた。53年「響」で第9回日展北斗賞、58年「秋の調」で第1回新日展特選と受賞を重ね、63年には日展会員、71年から日展評議員、1992(平成4)年からは日展参与を努めた。この間、62年に富山県工芸文化賞を、63年に富山新聞社芸術賞、72年に黄綬褒章、75年に北日本新聞文化賞を受賞し、79年には井波町に横山一夢工芸美術館を設立した。80年「静かな朝」で第19回日本現代工芸美術展文部大臣賞を受賞、82年に国際アカデミー賞と勲四等瑞宝章を受章し、90年富山県無形文化財「木工芸木彫象嵌技術」保持者に認定された。主に鳥をモティーフとし、木目や木質の違いを活かした静かで簡潔な作風で知られた。木工芸の伝統を継承しながら近代的な装飾美の世界を築き、木彫職人の技術を美術工芸の世界に引き上げた業績が高く評価されている。長男善一は造形作家、次男幹は木工芸作家。

今城國忠

没年月日:2000/03/25

読み:いましろくにただ  彫刻家で日展参与を務めた今城國忠は3月25日午後4時26分、肺炎のため東京都八王子市の病院にて死去した。享年84。1916(大正5)年1月1日、広島県府中市府中町に出まれる。本名守治(もりじ)。1930(昭和5)年に広島県府中市府中尋常高等小学校を卒業し、36年から澤田政廣に師事して木彫を学んだ。40年の紀元二千六百年奉祝展に「守る者」が入選し、以来、文展・日展を通じて入選を繰り返す。63年第6回新日展の「ふたり」、64年第7回新日展の「女ふたり」で特選を連続受賞し、刀痕や木の質感を精緻に造形表現に折り込んでいく作風を確立。88年第18回日彫展出品の「雪の朝」で北村西望賞を受賞した。66年からはたびたび日展審査員を務め、67年には日展会員、80年から日展評議員、1992(平成4)年から日展参与を務めた。

鈴木清

没年月日:2000/03/23

読み:すずききよし  写真家の鈴木清は、3月23日多臓器不全のため川崎市中原区の病院で死去した。享年56。1943(昭和18)年11月30日福島県いわき市に生れる。69年東京綜合写真専門学校卒業。同年『カメラ毎日』に6回にわたって発表した「シリーズ・炭鉱の町」で写真家として出発し、看板描きを生業としながら写真を撮り続ける。自らが生まれ育った環境である炭鉱をテーマとしたデビュー作以降、日本やアジア各地で撮影を行い、独特の強度を持った眼差しでさまざまな風土や時代に生きる人間の生を浮き彫りにする作品を発表する。72年最初の写真集として、炭鉱や旅役者などの複数の主題をめぐる写真をまとめた『流れの歌』を刊行。以後、インドに取材した『ブラーマンの光』(76年)、路上生活者を主題とする『天幕の街』(82年)、潜在意識=夢をキーワードに港町を撮影した『夢の走り』(88年)、昭和の終わりの社会を見つめた『愚者の船』(IPC 91年)、金子光晴の小説をテキストとして編まれた『天地戯場』(92年)、自伝的な写真集と位置づけられた『修羅の圏』(94年)、小説家マルグリッド・デュラスとベトナムの風土に触発された『デュラスの領土』(98年)を刊行。八冊の写真集のうち『愚者の船』をのぞいてはいずれも自費出版。編集・装丁も自ら手がけ、さまざまなフォーマットの写真を組み合わせたり、引用を含む文章を挿入したりした重層的な「書物」としての写真集作りや、壁だけでなく床面、天井なども使った立体的な空間構成を試みた個展でのインスタレーションにも独自の方向性を示した。83 年個展・写真集「天幕の街」で第33回日本写真協会賞新人賞、1989(平成1)年写真集「夢の走り」で第1回写真の会賞、92年個展「母の溟」で第17回伊奈信男賞、95年個展・写真集「修羅の圏」で第14回土門拳賞を受賞。85年から東京綜合写真専門学校の講師を務め、多くの写真家を育てた。死去の直前まで新たな発表の構想を練り続け、死去の半年後、遺された展示構成プランによって新作も含む回顧的な個展「千の来歴。」(コニカプラザ 2000年)が開催された。

馬場彬

没年月日:2000/03/19

読み:ばばあきら  画家の馬場彬は3月19日午後10時、いん頭がんのため秋田市楢山本町の自宅で死去した。享年67。1932(昭和7)年6月22日、東京都新宿区上落合に生まれる。55年東京芸術大学美術学部洋画科を卒業。美術団体に属すことなく、55年に開設されたサトウ画廊の相談役を開設時からつとめ、56年の初個展から同画廊で多くの個展を開催して作品を世に問うた。60年第12回読売アンデパンダン展に「作品(肖像の主題による)」を出品。同年神奈川県立近代美術館で開催された第4回シェル美術賞展に油彩画の「作品No.1」「作品No.2」「作品No.3」「作品No.4」を出品し3席となり、62年第5回同展(東京日本橋白木屋)では1席となる。同年集団αを結成しその第1回展を開催する。集団αは翌年に第2、3回展を開催した後、解散となる。67年第9回日本国際美術展に「館」を出品。74年サンパウロで行われた「コスモス«セリグラフによるイメージの実験»展」、77年モスクワ国際美術展に出品するなど、国際展にも参加した。80年横浜市民ギャラリーでそれまでの画業を跡づける「馬場彬展」を開催。81年東京国立近代美術館で開催された「1960年代-現代美術の転換期」展、および同年東京都美術館で開催された「精神の幾何学」展に出品。その後、すい臓ガンにより手術を受け、余命の限られていることを知らされるが、84年に心機一転して当時の西ドイツに渡り、86年までケルンに滞在する。帰国の年、東京のMギャラリーで個展を開催して滞欧作を発表。88年には池田20世紀美術館で「馬場彬の世界展」が開催され、80年の「馬場彬展」以降の作品を中心とする大規模な展観がなされた。年譜は同展図録に詳しい。初期から、平板な色面の幾何学的形体をモティーフに色と形が画面に作り出す調和、均衡、動きを模索し、吉仲太造、深沢幸雄らとともに戦後の抽象絵画の主要な作家のひとりとして活躍した。画集に版画集『PINK & GRAT』(75年)、版画集『GRAY OF GRAY』(81年)などがある。

下田治

没年月日:2000/03/15

読み:しもだおさむ  彫刻家の下田治は、3月15日午後6時(現地時間)急性白血病のため米国ニューヨーク市内の病院で死去した。享年75。1924(大正13)年、旧満州に生まれ、47(昭和22)年、立教大学を卒業後、パリのアカデミー・グラン・ショーミエールに学んだ。渡米後、ホノルル、ロスアンジェルス、ニューヨークで個展を開く一方、70年からは、アルブライト・ノックス・メンバース・ギャラリーでのグループ展、72年ロックフェラーセンターでの「彫刻家境界グループ展」などに参加した。国内でも、札幌芸術の森野外美術館に「ダイナモ」(90年)、慶応義塾大学湘南藤沢キャンパスに「The wing of Minerva」(96年)が設置された。1996(平成8)年、東京の現代彫刻センター、高崎市美術館での個展が最後の発表となったが、97年には「かみつく犬」によって、第28回中原悌二郎賞を受賞した。70年代を中心に、ニューヨークから最新の美術界の動向を伝える記事を、新聞雑誌にたびたび寄稿する一方、作家としては、幾何学的で明快なフォルムによる、ダイナミックな抽象彫刻によって評価された。

橋本博英

没年月日:2000/03/04

読み:はしもとひろひで  洋画家橋本博英は、3月4日午前4時40分、肺せんがんのため東京都新宿区の病院で死去した。享年66。1933(昭和8)年12月23日、内務省に勤務する父の赴任地であった岐阜県岐阜市に生まれる。幼少時を東京で過ごした後、父の転勤により富山県富山市に移り、ここで中学、高校時代を過ごす。54年、東京芸術大学美術学部油画科に入学、同大学4年に進級のおり、伊藤廉教室に入り、58年に卒業。67年7月から1年間、フランスに留学。帰国後、阿佐ヶ谷美術学園、代々木ゼミナール、東京造形大学などで指導にあたる。74年3月、同世代の井上悟、大沼映夫、加賀美勣、進藤蕃など11名とともに「黎の会」を結成、東京セントラル美術館で第1回展開催、以後毎年出品をつづける。76年7月、2会場(京王梅田画廊銀座店、泰明画廊)をつかって個展開催、約30点を出品。同年12月、『油絵をシステムで学ぶ』(飯田達夫共著、美術出版社)を刊行。79年8月、富山県民会館美術館にて「橋本博英自選展」開催、これにあわせて作品集を刊行。81年7月、大阪、梅田近代美術館にて「杜の会」結成に参加。83年4月、「富山を描く-100人100点展」(富山県立近代美術館)に「越中八尾早春」を出品、同美術館に収蔵される。1990(平成2)年、画文集『風景の習作と制作』を刊行、これにあわせて出版記念展(富山青木画廊)開催。97年8月、「橋本博英展-光と風のコンチェルト」開催(高崎市美術館等)。明快で、美しく響きあう色面によって構成された風景画は、骨格のある具象表現として質の高いもので、気品と安定感を感じさせた。それは、既成の美術団体に属することなく、また流行にながされることなく、油彩画の伝統を基礎から学ぼうとした姿勢にうらづけられたものであった。

今竹七郎

没年月日:2000/02/26

読み:いまたけしちろう  グラフィックデザイナーで洋画家の今竹七郎は2月26日午前3時41分、呼吸不全のため兵庫県西宮市内の病院で死去した。享年94。1905(明治38)年神戸市下山手に生まれ、幼少より神戸の欧風化した雰囲気の中で育つ。1926(大正15)年関西で初めて創刊された少女雑誌『乙女の園』の挿画を描く。1927(昭和2)年神戸大丸百貨店意匠部に入社、飾窓、店内装飾、催場の構成などを担当、翌年には宣伝部付のデザイナーとなる。近代都市化の進む20年代の大阪・神戸を舞台にグラフィックデザインの仕事を始め、以後専ら阪神間を活動の拠点とする。29年新興写真運動を実践した中山岩太らとともに、神戸商業美術研究会を設立。30年大阪高島屋の宣伝部に入社。35年明治チョコレートの新聞広告で大毎東日産業美術展の第1位商工大臣賞を受賞。都会的感覚溢れるランランポマードの新聞広告(36~49年)等で独自のスタイルを確立していく。一方で、デザイン広告誌『広告界』に37年「シュールレアリスムと商業美術」の論説を寄せ、39年より同誌に「素描教室」と題してデザイン造形に関する解説を2年にわたり寄稿するなど、理論家としての側面を発揮する。戦後は終戦と同時に神戸元町に独自のスタジオ「日本デザイン」を開設、のち大阪へ移転し48年に「今竹造形美術研究室」と改称。51年には看護婦姿の少女をあしらった近江兄弟社のメンソレータムトレードマークや関西電力の社章を発表。54年国際印刷美術展で通産大臣賞受賞。1991(平成3)年兵庫県文化賞を受賞。画家の片手間仕事であったグラフィックデザインを自立した領域にまで高めたパイオニアとして知られる一方、31年に林重義が主宰する月曜会に入り、35年第5回独立展に「枯木のある風景」を出品、入選するなど絵画制作にも精力を傾け、39年には春陽会に初入選、同会を主な作品発表の場とする。53年の「摩天楼」以降は一貫して抽象表現をとり、具体美術協会の指導者吉原治良とも親密な交際があった。そのデザインと絵画における活動の全容については、89年に兵庫県立近代美術館と西武百貨東京池袋店で開かれた「今竹七郎の世界」展、同年刊行の画集『昭和のモダニズム 今竹七郎の世界』、98年西宮市大谷記念美術館で開催の「モダンデザイン・絵画の先駆者 今竹七郎展」等で紹介されている。

田邊一竹齋

没年月日:2000/02/24

読み:たなべいっちくさい  竹工芸作家で日展参与を務めた田邊一竹齋は、2月24日午後8時35分、低酸素血症のため大阪府堺市の病院で死去した。享年89。1910(明治43)年5月9日、大阪府堺市に生まれる。本名利雄(としお)。幼少より父、田邊常雄(初代竹雲齋)より竹工芸を学ぶ。1931(昭和6)年、「蟠龍図網代方盆」が第12回帝展に初入選し、以来帝展、文展、日展に入選を繰り返す。はじめ小竹雲齋を号し、37年に父が没すると二代竹雲齋を襲名。52年「螺旋紋花籃」で第8回日展特選・朝倉賞を受賞。60年からたびたび日展審査員を努める。61年から日展会員、76年から日展評議員、1992(平成4)年から日展参与を務めた。この間、59年には大阪府芸術賞を受賞し、73年には堺市より有功賞を授与されている。また、78年の日本新工芸家連盟の結成に参加し、80年「花籃」で第2回日本新工芸展内閣総理大臣賞を受賞。同年、竹芸家同志11名による「竹人会」を創立。81年に勲四等瑞宝章、83年に紺綬褒章を受章。85年には東京国立近代美術館の「竹の工芸-近代に於ける展開-」展に出品し、第1回日工会展に参加した91年には、長男小竹(本名久雄)の三代竹雲齋襲名にともない、一竹齋と改号。レース編みのように繊細な「透かし編み技法」を生み出し、竹工芸の伝統に根ざした格調高い作風で知られた。次男節雄(号陽太)も竹工芸家。

内田武夫

没年月日:2000/02/21

読み:うちだたけお  洋画家で、武蔵野大学名誉教授の内田武夫は、2月21日午後10時47分肺炎のため横浜市青葉区の病院で死去した。享年86。1913(大正2)年5月10日、東京市四谷区左門町に生まれる。1933(昭和8)年、帝国美術学校西洋画科に入学。在学中の36年に新制作派協会が結成され、その第1回展に出品。翌年の第回展では、新作家賞を受賞。38年、同美術学校卒業、また同協会の第3回展でも新作家賞受賞。41年、同協会の会員となる。53年、同協会の事務所を引き受ける。同年、武蔵野美術学校で後進の指導にあたる。84年、武蔵野美術大学を退職。88年、『内田武夫画集』(日本経済新聞社)を刊行、あわせて自薦展(銀座セントラル美術館)を開催。1993(平成5)年、小山敬三賞受賞、日本橋高島屋にて受賞記念展を開催した。堅実な描写力にささえられた作品は、つねに妥協をゆるさない強さと誠実さが感じられ、上質な写実表現であった。

斉藤吉郎

没年月日:2000/02/18

読み:さいとうきちろう  彫刻家で日展参与を務めた斉藤吉郎(号素石)は、2月18日午前9時55分、急性心筋梗塞のため東京都板橋区の病院で死去した。享年88。1911(明治44)年3月8日、北海道小樽市に生まれる。北海道庁立小樽中学を卒業後、1937(昭和12)年から東京の構造社研究所で斎藤素巌に師事。40年の第13回構造社展に初入選し、同年「土器を持つ女」で紀元二千六百年奉祝展に入選。43年第16回構造社展で研究賞、49年「凝視」で第5回日展特選、52年「粧い」で第8回日展特選・朝倉賞を受賞。61年からたびたび日展審査員を務め、62年に日展会員、68年から日展評議員、1992(平成4)年から日展参与を努めた。75年には紺綬褒章を受章している。主にブロンズ像を手がけ、写実を基調としながら、流れるような線で全体を優雅にまとめる作風に定評があった。

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