本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





三井淳生

没年月日:2000/02/16

読み:みついあつお  日本画家で仏教版画研究家の三井淳生は2月16日午前8時47分、急性心不全のため栃木県塩原町の病院で死去した。享年70。1929(昭和4)年12月18日、洋画家三井文二の長男として京都市に生まれる。はじめ篆刻をやっていたが、50年より河北倫明の指導を受け、伝統的創作版画の制作と日本版画の研究に励む。61年の歌舞伎訪ソに際し中村歌右衛門の舞台姿を捉えた木版画「八つ橋」を制作。76年、東京湯島の霊雲寺に日本仏教版画館を設立し、その館長に就任した。79年の白圭会展(日本橋三越本店)より、日本画を発表しはじめ、1992(平成4)年、初の回顧展を池袋西武アートフォーラムで開催した。簡素な背景に身近な植物などを厳格な線で描く、清潔で気品に満ちた画風で知られた。著作・画集等の出版物に『中村歌右衛門舞台姿』(京都書院 81年)、『奥村土牛筆版画』(講談社 80年)、「彫版雑稿」(『文学』49-12号 81年)、『一字一仏般若心経』(講談社 82年)、「日本の仏教版画」(『季刊仏画』1〜3号 83年)、「仏教版画の摺りと彫り」(『仏教版画』84年)、『日本の佛教版畫-祈りと護りの世界-』(岩崎美術社 86年)、『東寺の仏教版画』(東寺派出版 91年)、『芙蓉』(リトグラフ、NHKサービスセンター 92年)、『三井淳生日本画作品集-佛と花と-』(駸々堂 94年)、『聖観音』(木版手彩色、NHKサービスセンター 95年)、『ナリヤラン』(リトグラフ、NHKサービスセンター 97年)などがある。

進藤武松

没年月日:2000/02/12

読み:しんどうたけまつ  日本芸術院会員で日展顧問を務めた彫刻家の進藤武松は2月12日午後3時27分、肺炎のため神奈川県横浜市の病院で死去した。享年91。1909(明治42)年1月5日、東京都千代田区九段北に生まれる。東京物理学校を中退し、1929(昭和4)年から構造社研究所で斎藤素巌に師事。32年第6回構造社展に初入選、34年第8回構造社展で「豚」が推奨に、35年第9回構造社展で「哺乳」が構造賞を受賞する。36年「男」が文展監査展に入選し、38年「球」で第2回新文展特選を受賞。52年第8回日展の「憩う」で、53年第9回日展の「遠望」で連続して特選・朝倉賞を受賞。67年「想」で第10回新日展文部大臣賞、73年、前年の第4回改組日展に出品した「薫風」で日本芸術院賞を受賞。61年から日展評議員、68年から日本彫塑会(後に日本彫刻会)理事、75年から日展理事、83年から日本芸術院会員、84年から日本彫刻会常務理事、87年から日展顧問を務めた。85年には勲三等瑞宝章・紺綬褒章を受賞し、没後従四位が贈られた。主としてブロンズ像を手がけ、写実を主体として力強く密度ある肉付けで人体の個性や生命感を表す清楚な作風に定評があった。

浅尾丁策

没年月日:2000/01/29

読み:あさおていさく  額縁制作、絵画修復家の浅尾丁策は、1月29日午前9時55分老衰のため自宅で死去した。享年92。1907(明治40)年9月27日、東京市下谷区に生まれる。家業は、浅尾払雲堂として、父の代からはじめた洋画用の筆を製造。1924(大正13)年、東京商業学校を卒業後、一時保険会社に勤務するが、その後神田神保町の画材店竹見屋に勤める。1927(昭和2)年、独立して画材一般を扱う浅尾払雲堂を経営する。42年、戦中の物資不足を補うために、洋画家たちの賛同を得て油彩材料研究会を設立。49年には、プールヴーモデル紹介所を設立。83年労働大臣表彰。1996(平成8)年、油彩画修復家として台東区より指定無形文化財となる。生涯にわたり、額縁制作、絵画修復などによって美術界に貢献した。父祖の代からの自叙伝として、『金四郎三代記 谷中人物叢話』(86年)、『続 金四郎三代記〔戦後篇〕 昭和の若き芸術家たち』(芸術新聞社 96年)がある。

大高猛

没年月日:2000/01/22

読み:おおたかたけし  グラフィックデザイナーで、浪速短期大学名誉教授の大高猛は、1月22日午前6時5分、急性すい炎のため大阪市中央区の病院で死去した。享年73。1926(大正15)年4月20日、山口県豊浦郡豊浦町に生まれる。1948(昭和23)年、明治工業専門学校を卒業後、53年に大高デザインを設立。55年、日宣美展で特選受賞。66年、大阪万国博覧会のために、五大陸をイメージした桜の花びらのシンボルマークが選ばれる。67年から70年まで、同博覧会のアートディレクターをつとめた。69年、東京ADC賞受賞。81年、国際デザイン交流協会アートディレクターをつとめ、83年には、神戸ワイナリー環境デザイン総合ディレクターとなり、大阪府産業功労賞を受賞。1994(平成6)年、「クリエーター大高猛の仕事、私事展」(京阪百貨店)を開き、その多彩な業績が回顧された。95年、大阪市文化功労賞を受ける。そのほか、日清カップヌードルのパッケージデザイン、関西国際空港のキャラクターデザインなどを手がけ、2000年春の選抜高校野球大会の優勝メダルのデザインが、最後の仕事となった。 

小口正二

没年月日:2000/01/21

読み:おぐちまさじ  漆芸家で日展参与を務めた小口正二は、1月21日午前6時58分、肺炎のため長野県諏訪市の病院で死去した。享年92。1907(明治40)年7月24日、長野県諏訪郡上諏訪町に生まれる。1927(昭和2)年に山本鼎の主宰する農民美術研究所(上田市)の受講生となり、木彫を学ぶ。37年、仙台の国立工芸指導所に入り、各種漆芸技法を修得。43年「柏の図彫漆手箱」で第6回新文展に初入選し、46年「彫漆躍進魚図手筥」で第1回日展特選、59年「彫漆飾棚」で第2回新日展特選・北斗賞を受賞。彫漆技法によって抽象的な文様を力強く表す、近代的な感覚にあふれる作風を確立した。63年から日展会員、82年から日展評議員を務め、同年、彫漆パネル「夏の語らい」で第21回日本現代工芸美術展文部大臣賞を受賞。84年から日展参与を務め、同年、長野県芸術文化功労者表彰を受けた。

丸木俊

没年月日:2000/01/13

読み:まるきとし  「原爆の図」などで知られる洋画家の丸木俊は1月13日午後7時26分敗血症のため、埼玉県毛呂山町の病院で死去した。享年87。1912(明治45)年2月11日、北海道雨竜郡秩父別村に生まれる。旧姓赤松。生家は寺であった。旭川高等女学校を卒業後、上京して女子美術専門学校(現 女子美術大学)に入学し、油彩画を学ぶ。1933(昭和8)年、同校を卒業。千葉県市川市市川小学校教員となる。37年4月ソヴィエト時代のモスクワに渡り、翌年4月まで滞在。39年ミクロネシア群島に渡る。同年第26回二科展に「白樺の林」で初入選。翌年の第27回二科展には「パラオ島民集会所」を出品。二科展には43年まで出品を続ける。41年1月から6月まで再度ソヴィエトに渡る。同年、画家丸木位里と結婚。45年8月、原爆投下直後、位里の両親が在住していた広島を夫婦で訪れ、被爆後の惨状を目にする。これをきっかけとして、その後夫妻のライフワークとなる「原爆の図」の制作が始まる。同年第5回美術文化協会展に赤松俊子の名で「地球儀」「解氷期」を出品して同会同人となる。翌年第6回美術文化展にはやはり赤松俊子の名で「デッサン(1)」「デッサン(2)」「少年」「飢」「人物(A)」「人物(B)」などを出品。50年夫婦合作による「原爆の図」第一部「幽霊」第二部「火」第三部「水」が完成。翌年同図五部作が完成し、日本国内に巡回展示される。こうした業績により53年世界平和文化賞を受賞。また、同年「原爆の図」三部作が世界に巡回展示される。56年同図十部作が完成したのを記念して「原爆の図」が世界に巡回展示される。67年、世界を巡回した「原爆の図」を一堂に展示するために私財を投じて埼玉県東松山市下唐子に鉄筋モルタル1階建て約270平米の「原爆の図丸木美術館」を開館。その後も、絵画によって原爆の悲惨さを訴えるべく70年「原爆の図」八部作をアメリカで巡回展示する。73年広島市の依頼により「ひろしまの図」(広島市現代美術館蔵)を描く。75年美術団体人人展を結成し、以後同展に出品を続ける。82年に「原爆の図」第十五部「長崎」を完成させブルガリア国際具象展に出品。「原爆の図」に見られる社会問題への興味、絵画による社会への提言は原爆問題以外にも展開され、79年には「三国同盟から三里塚まで」を制作してソフィアの国際展に出品し大賞受賞。83年「沖縄の図」八部連作を完成。87年「沖縄戦-読谷三部作」、「足尾鉱毒の図二部作」を制作し、翌年「足尾鉱毒の図」第三部作「渡良瀬の洪水」第四部作「直訴と女推しだし」を制作する。1989(平成1)年には同年に中国北京市で起きた天安門事件をモティーフに「天安門事件三部作」を、90年にはソ連のチェルノブイリ原子力発電所事故をモティーフに「チェルノブイリ」「反原発」を制作。95年静岡県伊東市池田二十世紀美術館で「丸木位里・丸木俊の世界展」が開催される。96年、95年度朝日賞受賞。2000年には『原爆の国』(小峰書店)が刊行された。著書に『女絵描きの誕生』(朝日新聞社 77年)、『言いたいことがありすぎて』(筑摩書房 87年)がある。また、童画、絵本も制作し、71年国際童画ビエンナーレでゴールデンアップル賞受賞。『ひろしまのピカ』(小峰書店 80年)、『天人のはごろも』(童心社 98年)などが刊行されている。

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