本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





久野修男

没年月日:1983/09/26

二紀会評議員の洋画家久野修男は9月26日午前0時40分、すい臓ガンのため、福岡県石川郡のアトリエで死去した。享年66。大正6(1917)年2月13日、福島県石川郡に生まれる。太平洋美術学校で油画を学び、昭和15年第27回二科展に「雪国のいで湯」で初入選。同19年に戦前の同会が解散するまで出品を続ける一方、同17年大東亜戦争美術展、43年陸軍美術展にも出品。同22年二紀会が創立されるとこれに参加し、翌年第2回展に「炭焼」を出品して褒賞を受ける。白地に薄い黄緑色を施した下地をつくり、細く黒い輪郭線でひなびた門や塀などを描きつづけ、同25年二紀会同人となり、同31年第10回展には「校倉」「瓦窯」を出品して同人優賞を受けた。翌年同会委員となり、審査員をつとめる。同51年の外遊後、ほとんど緑系一色だった画面に朱色などの暖色が入り、色彩が豊麗となっている。同55年第34回展では「南仏風景」で鍋井賞を受賞した。郷里にアトリエを構え、清澄な独自の画風を築くとともに、同地の美術振興にも努め、同52年二紀会福島支部を創立してその支部長として活躍した。

三輪晁勢

没年月日:1983/09/07

日本芸術院会員の日本画家三輪晁勢は、9月7日午前11時46分、下咽頭ガンのため京都市上京区の京都第二赤十字病院で死去した。享年82。明治34(1901)年4月30日新潟県三島郡に生まれ、本名信郎。田村宗立や小山正太郎に洋画を学んだ父大次郎の影響を受け、大正3年に与板尋常小学校を卒業した後京都に出て絵を学ぶ。同10年京都市立美術工芸学校絵画科を卒業後、京都市立絵画専門学校に入学し、同校に在学していた堂本印象に師事した。同13年同校卒業、超世と号し、昭和2年第8回帝展に「東山」で初入選する。同6年第12回帝展「春丘」は特選を受賞、翌年号を晁勢と改め、同9年第15回帝展で「舟造る砂丘」が再度特選となる。師印象の画塾東丘社の中心的存在として、同13年以来の東丘展にも出品する。同14年華中鉄道の招聘により中支、南京、杭州などを視察し、同年師に随伴して朝鮮慶州の石窟や楽浪なども回る。同17年には海軍報道班員としてフィリピン、ジャワなど南方諸島を巡り「キャビテ軍港攻撃」などの戦争記録画を制作した。戦後、京都市展、関西総合美術展、日展などでたびたび審査員をつとめ、同35年日展評議員となる。この間、同34年に京都市文化使節として3ケ月間欧米11ケ国を訪問、単身メキシコにも足をのばし、また同41年には佐和隆研らと共にインドの仏蹟を視察、45年にもオーストラリア、ニュージーランド等を巡る。同36年第4回日展出品作「朱柱」により翌37年第18回日本芸術院賞を受賞、同44年日展理事、同52年参与、同55年顧問となり、また同49年京都市文化功労者、同50年郷里の新潟県与板町の名誉町民推賞、同54年には日本芸術院会員となり勲四等旭日小綬章を受章した。また堂本画塾の東丘社を引継ぎ主宰し、小説の挿絵や舞台装置、壁画なども手がけた。風景、花鳥と幅広い画題を扱い、華やかな色彩による装飾的な画風をよくし、代表作に上記のほか「有明」(1947年)「木屋町」(1956年)「高原初秋」(1968年)「杉」(1974年)「朝の雪」(1975年)「開花鳥語」(1979年大津市西教寺壁画)などがある。同56年銀座松屋ほかで三輪晁展開催。略年譜1901 新潟県三島郡与板町に、父三輪大次郎、母頊の長男として生れる。父は翁山と称する洋画家であった。1915 京都市立美術工芸学校予科入学。1917 京都市立美術工芸学校絵画科入学。1921 京都市立美術工芸学校卒業。京都市立絵画専門学校入学。堂本印象に師事する。1923 日本美術展覧会に「静物」出品。1924 京都市立絵画専門学校卒業。超世と号する。1927 第8回帝展に「東山」初入選。1928 堂本ミツと結婚する。1931 第12回帝展に「春丘」出品、特選となる。1932 第13回帝展に「祖谷の深秋」出品。雅号を晁勢と改める。1934 第15回帝展に「舟造る砂丘」出品、特選となる。大阪高島屋で個展開催。長男晁久誕生。1936 文展に「林檎実る」出品。大阪時事新報に掲載の中山慶一作「節から出る芽」のさし絵を担当する。二女桃子誕生。1937 梅軒画廊及び大阪大丸で個展開催。新文展に「海女」出品。1939 伊東深水、上村松篁、池田遥邨らとの南京、蘇州、鎮江、抗州を視察する。師印象と伴に朝鮮の慶州、平壌を視察する。週刊朝日掲載の土師清二作「恋の象限儀」のさし絵を担当する。1940 東京三越で個展開催。1941 天理事報に掲載の松村梢風作「大和の神楽歌」のさし絵を担当する。三女桂子誕生。1942 海軍報道班員としてフィリピン、セレベス、ジャワ、スマトラ、シンガポール、仏印を視察する。大阪、京都大丸で個展開催。週刊朝日掲載の沢写久孝作「皇国頌詞」のさし絵を担当する。長谷川伸作「米艦の日本士官」のさし絵を担当する。1944 戦時特別文展に「竜田の神風」出品。1946 京都新聞に掲載の舟橋聖一作「田之助紅」のさし絵を担当する。1947 第3回日展に「有明け」出品。読物時代に掲載の吉井勇作「京洛春講」のさし絵を担当する。1949 第5回日展に「ひまわり」を招待出品。名古屋松坂屋、京都ギャラリーで素描展を開催。1950 第6回日展に「白樺の森にて」を招待出品。1951 東京丸善、京都府ギャラリーで個展開催。第7回日展に「月光の道」出品。審査員に任命される。京都新聞連載の土師清二作「利久手まり」のさし絵を担当する。1952 第8回日展に「瑠璃溪」を招待出品。1953 東京丸善、京都大丸で個展を開催。第9回日展に「岩壁」を招待出品。サンデー毎日に掲載の海音寺潮五郎作「田舎みやげ」のさし絵を担当する。同じくサンデー毎日に掲載の白井喬二作「黒田姫」のさし絵を担当する。1954 第10回日展に「家」出品。1955 第11回日展に「丘の家」出品。毎日新聞に掲載の「日本のコント」のさし絵を担当する。サンデー毎日に掲載の立野信之作明治大帝」のさし絵を担当する。1957 第13回日展に「桂・松琴亭」出品。東京高島屋で個展開催。1958 社団法人第1回日展に「古庫」出品。大阪高島屋で個展開催。1959 5月から3ケ月間、京都市文化使節として、高山市長、千宗室と共に欧米11ケ国を訪問する。第2回日展に「古橋」出品。1960 第3回日展に「土」出品。東京白木屋、京都大丸で個展開催。1961 第4回日展に「朱柱」を出品。1962 「朱柱」(日展出品作)により第18回日本芸術院賞を受賞。第5回日展に「緑窓」出品。1963 第6回日展に「トキ」出品。1964 第7回日展に「白涛」出品。大阪大丸で個展開催。1965 第8回日展に「山湖」出品。1966 佐和隆研を団長に数名と伴に印度各地を視察旅行。1967 第10回日展に「白い道」出品。1968 第11回日展に「高原初秋」出品。外務省買上げとなる。1969 日展理事に任命される。第1回改組日展に「仲秋」出品。1970 オーストラリア、ニュージーランド、フィジー、タヒチ等を旅行する。第2回日展に「仏法僧」出品。1971 第二期日展理事に任命される。第3回日展に「游」出品。1972 第4回日展に「マンゴーの女」出品。1973 新潟総合テレビ文化賞を受賞する。第5回日展に「水のほとり」出品。1974 日展理事に再任される。第6回日展に「チチの実」出品。京都市文化功労者の表彰を受ける。1975 生地、新潟県三鳥郡与板町の名誉町民第一号に推せんされる。第7回日展に「静かなるたに」出品。日展常任理事になる。1977 第9回日展に「朱いトキ」出品。京都府美術工芸功労者の表彰を受ける。1978 第10回日展に「紫陽花咲く」出品。1979 日本芸術院会員に推せんされる。勲四等旭日小綬章を受ける。第11回日展に「くるみの雨」出品。1980 日展顧問になる。第12回日展に「菖蒲」出品。1981 銀座松屋、大阪大丸、京都大丸で回顧展「華麗なる色彩の世界、三輪晁勢展」を開催する。(特集「三輪晁勢の芸術」三彩403より)

小林文次

没年月日:1983/08/28

日本大学教授で建築史学を講じた小林文治は、8月28日直腸ガンのため死去した。享年65。大正7(1918)年4月19日に生まれ、昭和16年3月東京帝国大学工学部建築学科を卒業し、同大学院に進学する。同19年3月、同科を退学。平安時代の阿弥陀堂建築を主に研究したが、戦後の同24年日本大学助教授となり、西欧も含めた建築史を講ずる。同27年からフルブライト留学生として一年間オレゴン大学に学び、アメリカ建築についても造詣を深める。その後、5年にわたる古代メソポタミア建築の研究を著書『建築の誕生』に結実させ、同35年、工学博士の学位を受けるとともに、建築学会賞を受賞、翌年日本大学教授に昇任する。同40年頃から、アメリカの都市、建築保存に力を尽くす一方、江戸時代の螺旋建築を研究課題とし、国際的範囲での調査を進める。同24年から日本建築学会理事、同25年からはイコモス(国際記念物遺跡会議)理事をつとめた。著作には『アメリカ建築』『ヨーロッパ建築序説』(ニコラウス・ペヴスナー原著を訳出)、『日本建築図集』などがある。

廣瀬不可止

没年月日:1983/08/15

二科会員の彫刻家廣瀬不可止は8月15日午前6時11分、食道ガンのため福岡市の福岡大学病院で死去した。享年79。明治36(1903)年12月4日、福岡県三井郡に生まれる。同43年福岡市警固尋常小学校に入学し大正5年卒業。同12年県立福岡中学を4年で中退して上京する。看板屋や、昭和2年ころ安永良徳、サトウハチローなどによってつくられたラリルレロ玩具製作所などで働きながら絵を学ぶ。昭和6年頃帰郷し一時博多人形師に入門。この頃から独学で彫刻を始める。同8年第20回二科展に「女」で初入選、以降同展に出品を続け、同25年同会友、同28年同会員となる。福岡にあって制作し、同9年二科西人社を創立したほか、福岡文化連盟、九州文化協会、福岡美術協会など多くの地元団体に所蔵し、郷里の美術文化の発展に尽くした。戦前は「女の首」(1935年二科展)「農婦」(1943年同展)など具象的作品を制作したが、戦後抽象に転じ「対」(1952年二科展)「歴史」(1967年同展)などの主題を幾何学的形体によって表現している。1970年代以降は再び具象的作風に転じ、簡略化した人体像による「二人」(1973、75年二科展)「立」(1980、81年同展)などの作品を制作した。木、石膏、和紙など多様な素材を積極的に使用した点でも注目される。

川瀬竹春

没年月日:1983/08/09

赤絵染付をよくした陶芸家川瀬竹春は8月9日午前8時10分、肺炎のため神奈川県平塚市高根台病院で死去した。享年89。明治27(1894)年4月27日岐阜県福束村に生まれる。本名五作。同40年愛知県瀬戸で陶芸の修業を始め同43年京都に移り初代三浦竹泉に師事。大正8年独立。中国陶磁赤絵染付祥端を主に研究し、昭和15年中国に赴く。同24年から神奈川県大磯の城山窯で制作。岐阜県大垣でも研究を進める。同30年国の無形文化財として記録作家に推される。同41年紫綬褒章、同45年勲四等瑞宝章を受章。また同44年には大垣市重要無形文化財に認定され、同50年同市より功労章を受けた。祥瑞特有の織物風の地に華やかな色彩を施した赤絵、金欄手を得意とし、中国の技法を用いながら淡然とした日本的趣をたたえた作風を示す。宮内庁への上納もたびたび行なっている。

鎌倉芳太郎

没年月日:1983/08/03

国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)で、沖縄の紅型・藍型等型絵染の研究・伝承者である鎌倉芳太郎は、8月3日午後5時50分、急性心不全のため、東京都中野区の自宅で死去した。享年84。略年譜明治31(1898)年10月19日、香川県木田郡に父鎌倉宇一、母ワイの長男として生まれた。大正7(1918)年3月、香川県師範学校本科第一部を卒業。在学中、竹内栖鳳門下の日本画家穴吹香村に写生の法を学んだ。大正10(1921)年3月、東京美術学校図画師範科を卒業。4月、文部省より沖縄県に出向を命ぜられ、沖縄県女子師範学教諭兼沖縄県立第一高等女学校教諭となる。琉球芸術の研究に没頭し、資料の収集・撮影を積む。大正12(1923)年4月、東京美術学校研究科(美術史研究室)に入学。琉球研究資料を正木直彦校長に提出、同校長の紹介で東京帝国大学の伊東忠太教授の指導を受け、研究を続ける。大正13(1924)年4月、伊東忠太博士と共同研究の名義で、財団法人啓明会より琉球芸術調査事業のため補助を受ける。同月東京美術学校助手(美術史研究室勤務)として、沖縄県に出張。首里市の援助により尚候爵家、その他首里、那覇の名家の所蔵品を調査、撮影する。大正14(1925)年3月、東京美術学校美術史研究室に帰校。9月同校で、財団法人啓明会主催の琉球芸術展覧会並びに講演会が開催され、「琉球美術工芸に就きて」と題し講演を行った。大正15(1926)年4月、沖縄本島を中心として、奄美大島、宮古島、八重山諸島を調査する。昭和2(1927)年9月、八重山より台湾に渡って調査旅行をし、上海を経て帰国、東京美術学校に帰校する。同月正木直彦校長担当の「東洋絵画史」のため、有給助手となる。昭和3(1928)年9月、財団法人啓明会創立10周年記念事業として、東京美術学校に於て展覧会及び講演会を開催、染織工芸資料3000点余を陳列し、「琉球染織に就きて」と題して講演する。昭和5(1930)年1月、山内静江と結婚、4月、東京美術学校講師となり「風俗史」の講義を担当。昭和12(1937)年1月、沖縄県に赴き、首里城、浦添城、昭屋城趾等の発掘調査を行う。10月、伊東忠太博士と共著で「南海古陶瓷」を宝雲社より刊行。昭和19(1944)年6月、東京美術学校退職(当時の官職は助教授)。昭和20(1945)年3月、自宅が戦災に遇い、蔵書・資料焼失。但し琉球関係資料は東京美術学校文庫に保管のため焼失を免れ、これが琉球染織の本格的研究の契機となった。昭和33(1958)年9月、第5回日本伝統工芸展に「琉球紅型中山風景文長着」出品入選。以後毎回出品入選する。昭和34(1959)年5月、「古琉球型紙」5冊を京都書院より刊行。昭和36(1961)年、社団法人日本工芸会の正会員となる。昭和37(1962)年5月、日本工芸会理事(2ケ年)に就任、昭和39年に再選。昭和39(1964)年9月、第11回日本伝統工芸展出品作「藍朧型印金芦文『瑲』紬地長着」が日本工芸会々長賞(奨励賞)を受ける。11月「越後糸型染」3冊、京都書院より刊行。昭和42(1967)年12月、「古琉球紅型」(色彩論)を京都書院より刊行。昭和44(1969)年6月、京都書院より「古琉球紅型」(技法論)を刊行。昭和47(1972)年2月、首里の琉球政府博物館に於て「五十年前の沖縄」の写真展を開く。4月、勲四等瑞宝章を受ける。9月、第19回日本伝統工芸展に「型絵染竹林文上布地長着」を出品、日本工芸会総裁賞を受ける。昭和48(1973)年4月、重要無形文化財技術保持者(型絵染)の個人認定を受ける。同月第9回人間国宝展に「型絵染霞文上代紬長着」を出品、以後、毎回出品する。7月「琉球王家伝来衣裳」(講談社刊行)を編集し、これに「琉球の染織工」を執筆する。昭和50(1975)年3月、京都国立近代美術館編「沖縄の工芸」(講談社刊行)に「沖縄の工芸の歴史と特質」、「沖縄の染織について」を執筆。昭和51(1976)年2月、「セレベス沖縄発掘古陶瓷」(『南海古陶瓷』の再版)を国書刊行会より刊行。4月「鎌倉芳太郎作品並びに琉球紅型資料展」を渋谷・西武百貨店にて開催。昭和57(1982)年10月、太平洋戦争で失われた沖縄の文化財のかつての姿を再現、集大成した著書「沖縄文化の遺宝」(岩波書店刊)を刊行した。昭和58(1983)年8月3日急性心不全のため死去。

松田忠一

没年月日:1983/07/31

一水会常任委員の洋画家松田忠一は、7月31日午前4時45分、脳出血のため大阪市の自宅で死去した。享年89。明治27(1894)年4月19日、島根県出雲市に生まれ、大正7年東京美術学校図画師範科を卒業する。同14年より2年間フランスに留学、昭和6年にもフランスに渡り1年間滞在。翌7年帰国して「騎士と二人の女」「馬と女」を第19回二科展に出品し初入選する。翌年から石仏や仏像を描いた作品を同第23回展まで出品。同11年に有島生馬、石井柏亭らによって創立された一水会に第1回展から出品し、同22年同会会員となる。同29年同第16回展に「阿修羅」「伎芸天」を出品して会員優賞を受賞し、同35年同会委員となり、同55年まで出品を続けている。日展にも出品しており、同29年第10回展では「阿修羅」で特選。同31年第12回展では「三月堂内陣」で岡田賞を受け、翌年より無鑑査、同41年には審査員をつとめた。一貫して京都、奈良の古仏をモチーフとし、背景に神像や飛天を描きこんで仏世界を表わしている。水墨画、書もかき、大湖とも号した。

板坂辰治

没年月日:1983/07/02

金沢美術工芸大学名誉教授、石川県美術文化協会理事の彫金家板坂辰治は、7月2日午前11時49分、脳挫傷のため、金沢市の金沢大学付属病院で死去した。享年67。大正5(1916)年1月18日石川県金沢市に生まれる。昭和13年東京美術学校工芸科彫金部を卒業。同年大阪造幣局に入り、同21年10月同局を退く。同年第2回日展に青銅製「馬」置物で初入選。同22年2月より金沢美術工芸専門学校講師をつとめ、同24年同助教授、同40年金沢美術工芸大学教授となる。日展のほか現代工芸美術展にも出品。同31年第12回日展では丈の高い円筒を大胆に削ぎ、鋭角的な大きい把手をつけた斬新な「花器」で特選に選ばれた。主に青銅を素材とし、幾何学的な形をいくつか組み合わせ、骨太な造型感賞をうかがわせる壷などを多く制作している。

桜井勇次郎

没年月日:1983/06/01

国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)で、久留米絣技術保持者会会長桜井勇二郎は、6月1日午前3時、心筋こうそくのため、福岡県筑後市の自宅で死去した。享年88。明治27(1894)年11月15日、福岡県筑後市で生まれた。明治42(1909)年、14歳で家業の久留米絣に携り、以後終生それに従事した。得意とした技術は、絣模様をあらわすための“手くびり”で、久留米絣が昭和32年4月25日に国の重要無形文化財に指定された折、その技術保持者の1人に選ばれた。昭和51年以降、久留米絣技術保持者会会長。

新村長閑子

没年月日:1983/05/14

日本工芸会正会員で東京芸術大学教授をつとめた漆芸家新村長閑子は、5月14日午後9時20分、急性心不全のため東京都杉並区の河北総合病院で死去した。享年75。明治40(1907)年8月15日石川県金沢市に生まれる。本名撰吉。東京美術学校漆工科本科在学中の昭和8年、第14回帝展に「彩漆啼鳴★箱」で初入選。同年同科を卒業して福島県立会津工業学校教諭となる。同13年石川県工芸指導所漆工科長、同25年静岡県工芸指導所長となり、同28年東京芸術大学美術学部助教授に就任する。この間、帝、文、日展、日本伝統工芸展などに出品。同35年第7回日本伝統工芸展では「漆皮台盤」で受賞している。同47年東京芸大教授となり同50年退官、その後も旧教官として指導にあたった。同39年より日本工芸会理事をつとめる。漆皮を制作し、古典的で典雅な作品を多く生んだ。代表作には、受賞作のほか、同39年大阪四天王寺の依頼により制作した「漆皮宝相華文経箱」等がある。

山口長男

没年月日:1983/04/27

わが国抽象絵画の開拓者の一人である洋画家、武蔵野美術学園長の山口長男は、4月27日脳こうそくのため東京小平市の昭和病院で死去した。享年80。戦前から非具象的表現を行い、戦後も一貫して独自の抽象表現を展開した山口は、明治35(1902)年11月23日現在の韓国ソウル市に生まれた。父太平衛は鹿児島県出身である。中学時代から絵画に親しみ、大正10年上京後本郷洋画研究所へ通い、翌11年には川端画学校にも通学し、同年東京美術学校西洋画科に入学する。美校では3年から和田英作の教室に学んだ。昭和2年同校を卒業、同期生である猪熊弦一郎、牛島憲之、岡田謙三、荻須高徳らと上杜会を結成する。また、同年帰国中の佐伯祐三を訪ね、9月に荻須とともに渡仏。パリでの最初の一年間は佐伯の制作態度に大きな刺激を受け、同3年から5年までの間はしばしば彫刻家ザッキンのアトリエへ通い、その影響を示した立体派風の作品「室内」「二人像」(昭和5)等を制作する。同6年1月帰国し、同年の第18回二科展に「二人像」「彫像」が入選。同8年、第20回展を期に前衛的な作品が集められた二科展第九室に「卓上A」「卓上B」が陳列される。この頃までに独自の抽象表現に達しており、同11年の第22回二科展出品作「態」「臥」で特待。同13年二科会会友に推挙され、同年、吉原治良、桂ユキ子らと九室会を結成し翌年第1回展を開催する。戦後は同20年に再建された二科会の会員となり、同37年まで出品する。同29年第1回現代日本美術展に「作品(かたち)」を出品し安井曽太郎とともに優秀賞を受賞、その後も現代展及び日本国際美術展に出品を続け、戦後の抽象絵画開花期に強い発言力を持つに至った。また、同28年に村井正誠らと日本アブストラクト・アート・クラブを結成、翌年同会員として第18回アメリカ抽象美術展に出品したのをはじめ、サンパウロ、ヴェネツィアの両ビエンナーレ展、グッゲンハイム賞美術展などの国際展のほとんどに出品し、海外からも高く評価された。同37年には、昭和36年度芸術選奨文部大臣賞を受ける。この間、同29年から武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学)教授となり同49年までつとめた。限られた色しか用いず形を厳しく追求した山口独自の抽象表現は、戦後の同28年頃から黒の地色に黄土、赤茶色一色のみで象形文字風の形を描き始めることから出発し、ついで同30-32年にかけては垂直、水平によるかたちの組合せ(「構成」同30年)の時期を経て、同33年からは格子状のかたちがより広い色面の矩形のかたちの組合せに発展(「形の組合せ」同33年)し、次第にこのかたちが黒地のなかに大きくなり「象」(同36年)のような作品へとの展開を見せた。さらに同45年以後は、黄土色や赤茶色のかたちは画面の枠を越えた広がりを見せ、「紋」(同47年)などの作品を生んだ。同55年には、東京国立近代美術館で「山口長男・堀内正和展」が開催された。略年譜1902年 11月23日、京城府に山口太平衛の長男として生れる。父太平衛は鹿児島県川内平佐の出身。1915年 3月、京城公立日出尋常小学校を卒業する。4月、京城中学校に入学する。秋、有島武、生馬父子、京城に立寄る。有島武と父太平衛とは同郷の出で、昵懇の間柄であった。1918年 このころ、3歳年上の中村昇のスケッチ・ハイキングに同行し、水彩画を試みる。1919年 母かめ没。1921年 4月、上京し、本郷春木町の親戚が経営する下宿から本郷洋画研究所に通う。ここで横手貞美、大橋了介と知り合う。1922年 1月、東京美術学校へ入る準備のため、川端画学校にも通う。4月、東京美術学校西洋画科に入学する。1年のときは長原孝太郎による石膏デッサン、2年で小林万吾による人体デッサンの指導を受け、3年から和田英作の教室に入った。1923年 信濃町の親戚宅に移る。夏、京城に帰省して夏期休暇を過す。秋、笹塚に下宿を変える。「風景(笹塚付近)」はこのころの作品。1924年 夏ころ、池袋の姉の家に移る。1925年 7月、同級と朝日連峰を歩き、続いて中西利雄らの後を追って南アルプスに行き、甲斐駒ケ岳、仙丈岳などに登る。1926年 9月、第13回二科展に特別陳列された佐伯祐三の第一次渡仏作19点を見て感動する。1927年 3月、東京美術学校西洋画科卒業。同期生に、猪熊弦一郎、牛島憲之、岡田謙三、荻須高徳、小磯良平らがおり、彼らと上杜会を結成する。4月以降7月以前、荻須高徳と佐伯祐三を下落合のアトリエに訪ねる。9月20日、同行の荻須高徳とともに横浜からアトス2号に上船する。偶然、横手貞美と同室になり、また神戸から大橋了介が乗り込んでくる。11月初旬、パリ着。数日後ブールヴァール・デュ・モンパルナスのアトリエに佐伯祐三を訪ねる。この月、おそらく27日に藤田嗣治の誕生日のパーティに招かれる。1928年 2月、佐伯祐三、荻須高徳、横手貞美、大橋了介と、ヴィリエ・シュル・モランとサンジェルマン・シュル・モランに写生旅行をする。春、パリ市の西南の外れにあるポルト・サンクルーに移る。6月23日、佐伯祐三がパリ郊外のセーヌ県立エブラール精神病院に入院する。佐伯入院後、その看護の疲労で発熱して10日間静養し、離床後、椎名其二に案内され、中仏ドルドーニュに旅行する。ローマ時代の遺跡や洞窟内の動物壁画や線彫を見る。8月16日、佐伯祐三没。この頃、先輩の西村叡の紹介で彫刻家のオシップ・ザッキンと知り合い、その後帰国のためパリを離れるまで、ほとんど毎週のように土曜日の午後の面会日にザッキンのアトリエに通う。秋、椎名其二夫人の紹介で、横手貞美、大橋了介の三人でヴェトイユの空別荘を1年契約で借りる。石彫を試みたのは、ヴェトイユにおいてである。1930年 11月末、一時帰国のつもりで、フランスを発つ。1931年 1月、横浜に着いた後、20日程を東京の姉の家で過し京城に帰る。油絵20点。石彫6、7点を持ち帰る。3月22日、横手貞美が病没。5月、横手貞美の霊を弔うため長崎に行き、遺作展の作品選定を手伝い、また『故横手貞美滞欧遺作集』(山口長男撰、横手貞護・横手貞致編)に「横手君を想ひて」を寄稿する。9月、有島生馬に口添えを依頼して作品10点を送り、そのうち「二人像」と「彫像」が第18回二科展に入選。1932年 9月、第19回二科展に「風景」を出品する。1933年 9月、第20回二科展に「卓上A」「卓上B」を出品し、この年から前衛的な作品が集められた第9室に陳列される。1934年 9月、第21回二科展に「庭」「卓」を出品、第9室に陳列される。12月10日、父太平衛没1935年 9月、第22回二科展に「池」を出品し、第9室に陳列される。この年、在朝鮮の二科展出品者の展覧会のために京城に来た東郷青児と初めて会う。東郷青児は山口家の2階に1カ月滞在する。1936年 9月、第23回二科展に「熊」「臥」を出品し、特待となる。この時上京して初めて二科展を見る。1937年 5月、第10回上杜会展(東京府美術館)に「庭」を出品。9月、第24回二科展に「三人」「群」「杜」を出品。12月、山本発次郎氏所蔵佐伯祐三遺作展に際して、『美之図』第13巻第4号に「追懐」を寄稿。1938年 9月、第25回二科展に「象A」「象D」「象E」を出品し、会友に推挙される。10月5日、峰岸義一、吉原治良、山本敬輔、広幡憲、高橋迪章、桂ユキ子とともに発起人となり、東郷青児、藤田嗣治を顧問として九室会を結成し、その創立総会を新宿中村屋で開く。1939年 5月、九室会第1回展(日本橋・白木屋)に「作品A」「作品B」を出品する。また『九室』第1号に「感想」を寄稿する。9月、第26回二科展に「作品A」「作品B」を出品。9月20日から24日まで、油絵15点による山口長男近作展を銀座の青樹社で開く。1940年 3月、九室会第2回展(銀座・三越)に「作品1」「作品2」を出品。同月、上杜会第13回展(東京府美術館)に「作品」を出品。8月、第27回二科展に「白い円」「緑の環」を出品。10月、紀元二千六百年奉祝美術展覧会(前期)に「双輪」を出品。1941年 戦時情勢が緊迫してきたため、京城から作品を送るのが困難となり、二科展出品を中止する。1942年 札幌市出身の野村きよと結婚する。1945年 6月30日、召集され、第20師団79連隊に配属され、1カ月程訓練を受けて釜山西方の漁村三千浦に配備され砲座を築く作業に従ううち終戦を迎える。10月、二科会再結成され、新会員に挙げられる。1946年 1月8日、妻子をつれ京城を発ち日本に引き上げる。1カ月余り熊本市呉服町の親戚に仮寓した後、2月末上京して姉婿の港区芝車町75の丹宗敬陽方に落着く。この年から3年間二科会の事務を担当する。9月、第31回二科展に「線A」「線B」「線C」を出品。1947年 6月、第1回美術団体連合展(毎日新聞社主催、東京都美術館)に「象(A)」「象(B)」を出品。9月、第32回二科展に「A」「B」「C」「D」を出品し第1回会員努力賞を岡田謙三とともに受賞。同月、日本アヴァンギャルド美術家クラブが創設され、入会する。11月、「岡田謙三の作品を観る」を『みづゑ』第505号に寄稿。1948年 5月、第2回美術団体連合展に「空A」「空B」を出品。9月、第33回二科展に「作品A」「作品B」を出品。1949年 4月、二科春季展(日本橋・三越)に「楕円」を出品。5月、第3回美術団体連合展に「双ツ」を出品。9月、第34回二科展に「三ツノ円A」「三ツノ円B」を出品。この年、杉並区上高井戸1-186の知人の家に移る。1950年 4月、「想うこと」を『アトリエ』第279号に寄稿。5月、第4回美術団体連合展に「象(かたち)」を出品。9月、第35回二科展に「A」「B」を出品。1951年 5月、第5回美術団体連合展に「作品」を出品。1952年 3月、二科春季展に「作品」を出品。9月、第37回二科展に「作品」「作品」を出品。12月、国立近代美術館が開館し、その第1回展覧会「日本における近代絵画の回顧と展望」に「かたち」(1950年)を出品。この年から合板(ベニヤ板)を使い始める。1953年 5月、春季二科展に「作品A」「作品B」を出品。6月、恩地孝四郎、村井正誠、吉原治良、滝口修造らと日本アブストラクト・アート・クラブを創設する。9月、第38回二科展に「作品A」「作品B」を出品。12月、国立近代美術館の「抽象と幻想」展に「象(かたち)」を出品。この年暮に北多摩郡小平町大沼新田343藤岡別荘内(現、小平市美園町343)へ移る。1954年 3月、ニューヨークでの第18回アメリカ抽象美術展(Riverside Museum,New York)に日本アブストラクト・アート・クラブの会員として出品。4月1日、武蔵野美術学校教授となる。同月、春季二科展に「作品A」「作品B」を出品。5月、第1回現代日本美術展(毎日新聞社主催、東京都美術館)に「作品(かたち)」「作品(かたち)」を出品し、安井曾太郎とともに優秀賞を受賞する。9月、第39回二科展に「五つの線」「二つの形」「二つの組合せ」を出品。1955年 1月、「プリミティーフから近代造形へ」を『美術手帖』第90号に寄稿する。同月、1954年度選抜第6回秀作美術展(朝日新聞社主催、日本橋・三越)に「作品(かたち)」を出品。2月、国立近代美術館の「19人の作家-戦後の絵画、彫刻-」展に「かたち」(1949年)「かたち」(1951年)「二つ」(1953年)「作品A」(1954年)「かたち」(1954年)を出品。また第3回サンパウロ・ビエンナーレ展(7月開催)の日本の代表作家の一人に選ばれ、上記展覧会と併催された「サンパウロ・ビエンナーレ展出品作品展示」に「二つの組合せ」(1954年)「構成」(1955年以下同じ)「五つの線」「赤い線」「黄色いかたち」を出品。2月19日、国立近代美術館の土曜講演で「絵についての私の考え」と題して講演。4月、国立近代美術館の日米抽象美術展に「構成A」「構成B」を出品。5月、第3回日本国際美術展(毎日新聞社主催、東京都美術館)に「構成(赤)」「構成(黄)」を出品。9月、第40回二科展に「黄色い組立」「四角い構成」を出品。1956年 3月、第28回ヴェネツィア・ビエンナーレ展(6月開催)の出品作家に選ばれ、国立近代美術館での国内展示に「作品B」(1954年、以下同じ)「二つの組合せ」「かたち」「かたち」「二つのかたち」を出品。5月、第2回現代日本美術展に「平易な四角」「歪んだ四角」を出品。9月、第41回二科展に「囲繞」「散開」「曲折」「象形」を出品。11月、世界・今日の美術展(朝日新聞社主催、日本橋・高島屋)に「作品」「(組立て)」を出品。1957年 5月、第4回日本国際美術展に「抽象」を出品。9月、第42回二科展に「赤い角」「黄色い角」を出品。1958年 1月、1957年度選抜第9回秀作美術展に「黄色い角」を出品。1月、ヨーロッパ巡回日本現代絵画展(外務省、国立近代美術館、毎日新聞社主催)の出品作家に選ばれ、日本橋高島屋での国内展示に「丸と線」(「B(組形)」1957年)を出品。5月、第3回現代日本美術展に「作品赤」「作品黄」を出品。なおこのときグラン・プリ作家(山口長男、安井曾太郎、脇田和、岡鹿之助、福沢一郎)の特別陳列が行われ、「かたち」(1948年)「かたち」(1949年)「かたち」(1950年)「かたち」(1954年、受賞作)「五つの線」(1954年)「交錯」(1954年)「丸と四角」(1955年)「歪んだ四角」(1956年)「黄色いかたち」(1957年)「丸と四角」(1957年)を出品。6月、第2回グッゲンハイム賞美術展(ニューヨーク・グッゲンハイム美術館)に「作品・黄」を出品。同月、国立近代美術館の「抽象絵画の展開」展に「池」(1936年)「庭A」(1936年)を出品。9月、第43回二科展に「形の組合せ」「二つの枡目」「二つの交又」「立形」を出品し、会員努力賞を受賞。同月、オーストラリア、ニュージーランド巡回日本現代美術展(外務省、国立近代美術館、毎日新聞社主催)の出品作家に選ばれ、国立近代美術館での国内展示に「丸と線」(「B(組形)」1957年)を出品。1959年 1月、国立近代美術館の「戦後の秀作」展に「かたち」(1953年)を出品。5月、世界の中の抽象イタリア・日本美術展(朝日新聞社主催、日本橋・白木屋)に「双つの山」を出品。同月、第5回日本国際美術展に「四角い目」を出品。6月、「色いろの告白私は何故茶色を使うか」を『芸術新潮』第10巻第6号に寄稿。9月、第44回二科展に「堰形」「門形」「衝立」を出品。1960年 1月、1959年度選抜第11回秀作美術展に「四角い目」を出品。5月、第4回現代日本美術展に「凝形」「展形」を出品。9月、第45回二科展に「丘形」「地形」「野形」を出品。1961年 1月、1960年度選抜第12回秀作美術展に「展形」を出品。5月、第6回日本国際美術展に「象」を出品。9月、第46回二科展に「遠心」「翔態」を出品。12月、戦後初めての個展を南画廊で開き、「転」「座」「置」「立」「重」「層」「構」「匍」などを出品。1962年 1月、1961年度選抜第13回秀作美術展に「遠心」を出品。2月、国立近代美術館の「近代日本美術代表作品シリーズ4現代絵画の展望」(会場、日本橋・三越)に「転」(1961年)を出品。4月、昭和36年度芸術選奨文部大臣賞を受賞。5月、第5回現代日本美術展に「幅」「量」を出品。6月、国立近代美術館の「近代日本の造形-油絵と彫刻」展に「転」(1961年)を出品。8月、唐津市役所のため陶板壁画「遊」を制作し、それを玄関ホールに飾る新庁舎が落成する。9月、第47回二科展に「坦」「扉」を出品。10月、1回日本アブストラクト・アート展(兜屋画廊)に出品。同月、第1回サイゴン国際美術展に2点出品。1963年 1月、1962年度選抜第14回秀作美術展に「置」を出品。3月、第7回サンパウロ・ビエンナーレ展(9月に開催)の出品作家に選ばれ、ブリヂストン美術館での国内展示会に「拡がった形」「幅」(1962年)「扉」(1962年)「方」(1963年以下同じ)「拡」「累」「充」「溢」「影」「浮」「聳」「伏」を出品。同月、ニューヨーク日本橋画廊で個展を開く。4月、国立近代美術館京都分館の「現代絵画の動向」展に「転」(1961年)を出品。5月、第7回日本国際美術展に『屏形」を出品。6月5日、「私のかたち」を読売新聞夕刊に寄稿。9月、この年から二科展出品を中止し、後に二科会から退会する。12月、神奈川県立近代美術館の「昭和初期洋画展」に「人」(1930年)「室内(B)」(1932年)「庭(A)」(1936年)を出品。1964年 1月、第15回記念選抜秀作美術展に「作品(かたち)」(1954年)を出品。5月、第6回現代日本美術展に「漠」「築」を出品。10月、国立近代美術館の「オリンピック東京大会芸術展示近代日本の名作」に「象」(1961年)を出品。1965年 2月、チューリッヒ市立美術館における「現代日本の絵画」展に「作品(かたち)」(1954年)を出品。4月、ニューヨーク近代美術館のウィリアム・リーバーマンとドロシー・ミラーが組織した「新しい日本の絵画と彫刻(The New Japanese Painting and Sculpture)」展に「遠心」(1962年)を出品。5月、第8回日本国際美術展に「連」を出品。7月、国立近代美術館の「近代日本の油絵-所蔵作品による」展に「象」(1961年)を出品。9月、国立近代美術館京都分館の「前衛絵画の先駆者たち」展に「二人像」(1930年)「人」(1930年)「庭」(1936年)「池」(1936年)「空」(1939年)を出品。11月、個展を南画廊に開き、「劃」「割」「聚」「寄」などを出品。1966年 5月、第7回現代日本美術展に「帳」「翼」を出品。6月、神奈川県立近代美術館15周年記念の「近代日本洋画の150年展」に「庭」(1936年)「平面」(1958年)を出品。1967年 5月、第9回日本国際美術展に「対」を出品。12月、「彫刻の詩人…オシップ・ザッキンのこと」を『三彩』第223号に寄稿。1968年 1月、東京国立近代美術館の「近代日本の油絵」展に「転」(1961年)、「象」(1961年)を出品。5月、第8回現代日本美術展に「劃(黄)」「劃(赤)」を出品。6月、瀬戸慶久の訪問を受けて「私の思うこと」を語り、これが武蔵野美術大学発行の『武蔵野美術』第66号に掲載される。7月、武蔵野美術大学美術資料図書館で「山口長男教授作品展」が開かれ、「人」(1930年)「二人像」(1930年)「室内(B)」(1932年)「庭(A)」(1936年)「池」(1936年)「5つの塊」(1940年)「かたち」(1954年)「赤い線」(1955年)「散開」(1956年)「堰形」(1959年)「丘形」(1960年)「立」(1961年)「浮」(1963年)「複」(1965年、以下同じ)「互」「垂」「景」「方」の油絵18点と墨の素描11点、陶磁の絵付6点を出品。9月、東京国立近代美術館の「東西美術交流展」に「転」(1961年)を出品。同月、立正佼成会団参会館地階ロビーのタイルの壁画制作を依頼される。同会館は翌年9月に竣工する。10月、日動画廊発行の『繪』第56号に佐伯祐三についての「追憶」を寄稿。12月、個展を南画廊で開き、「弧」(面-四角)「垂(赤)」「長方形-横」「竝」「軌」「紋形」「脈」などを出品。1969年 2月、「あしあと」を『芸術新潮』第230号に寄稿。5月、第9回現代日本美術展の「現代美術20年の代表作」に「かたち」(1954年)を出品。1970年 3月、大阪万国博美術展に「脈」(1968年)を出品。6月、個展を鹿児島市の山形屋で開く。同月、「佐伯と四人の画学生」を『芸術新潮』第246号に寄稿。7月、麻生三郎・大沢昌助・山口長男展(ギャラリーセゾン)。1971年 4月、東京国立近代美術館の「近代日本美術における1930年」に「二人像」「作品」を出品。同月、神奈川県立近代美術館の「戦後美術のクロニクル展」に「平面」(1958年)を出品。5月、第10回現代日本美術展の「抽象-構造としての自然」の部に「黒」「黄」「赤」を出品。9月、兵庫県立近代美術館での「開館1周年記念・毎日新聞創刊100年記念今日の100人展」に「座」(1961年)を出品。1972年 3月、ミラノでの「日本の現代美術(Arte Contemporanea del Giappone 1972)」展に「軌」(1968年)を出品。12月、個展を南画廊で開き、「紋」「黄」「赤」「漠」「画」「覆」「開」などを出品。1973年 2月、乾由明との対談「ディアローグ」が『みづゑ』第816号に掲載される。3月、麻生三郎・大沢昌助・柳原義達・山口長男四人展(ギャラリーセゾン)。5月、現代日本美術展-現代美術20年の展望(毎日新聞社主催、東京都美術館)に「黄色い組立」(1955年)と「垂」(1965年)を出品。この年、シドニーのニュー・サウス・ウエールズ美術館(Art Gallery of New South Wales,Sydney)での「表面の美術-現代日本美術の展望(The Art of Surface-A Survey of Contemporary Japanese Art)」に出品。1974年 3月、武蔵野美術大学教授を定年退職する。5月、デュッセルドルフ市立美術館(Stadtische Kunsthalle,Dusseldorf)での「日本 伝統と現代(Japan Tradition und Gegenwart)」に「分」(1966年)「弧」(1968年)「和」(1972年)を出品。同月、麻生三郎・大沢昌助・柳原義達・山口長男展(ギャラリーセゾン)。9月、デンマークのルイジアナ美術館(Louisiana Museet,Humlebaek)でのJapan pa Louisianaに「置」(1961年)「方」(1965年)「垂」(1965年)「分」(1966年)「弧」(1968年)「軌」(1968年)「和」(1972年)を出品。同月、山口長男、津高和一二人展(大阪、ギャラリー本田)。10月、『美術ジャーナル』復刊24号の座談会「絵画に於ける新しさ 画家はそれをどう考えるべきか」に、津高和一、乾由明、本田泰士、村田好夫とともに出席する。11月、スエーデンのエーテボリ美術館(Goteborgs Konstmuseum med Konsthallen)のJapan i Bildに「置」「方」「分」「弧」「軌」「和」を出品。この展覧会は翌年1月から3月までHenie-Onstad Kunstsenterでも開催される。1975年 6月、麻生三郎・大沢昌助・柳原義達・山口長男四人展(ギャラリーセゾン)。10月兵庫県立近代美術館の「開館5周年記念近代100年名画展」に「置」(1961年)を出品。11月、個展を南画廊で開き、「合」「宇」「疏」「注」「座」「撤」「偏」「塁」「接」「遮」「文」「明」「示」「侍」「伴」「軌」の16点を出品。12月、「楽しい個展」(大阪ギャラリー芦屋)に陶板画、小品の油彩、水彩、スケッチを出品。1976年 4月、個展を大阪のカサハラ画廊で開く。5月、東京都美術館の「戦前の前衛展」に「庭・B」(1934年)「White Painting」(1940年)「二人像」(1930年)を出品。6月、上杜会五十周年展(日動サロン)に「過」「貌」を出品。また同展覧会図録に「上杜会を省みる」を寄稿。1977年 2月、岡山県総合文化会館の「第15回名作展-日本の抽象絵画-」に「景」(1965年)を出品。5月11日、「作家のことば(ものに学ぶ)」を『新美術新聞』に寄稿。6月、東京セントラル美術館の「現代美術のパイオニア展」に「庭A」を出品。10月、「あれこれの想い出」を『芸術新潮』第334号に寄稿。同月、栃木県立美術館の「日本の現代美術展-国内美術と国際美術と-」に「赤」(1971年)「宇」(1975年)を出品。1978年 8月、「佐伯さんと私たち」を東京国立近代美術館ニュース『現代の眼』第285号に寄稿。10月、個展をスズカワ画廊で開く。11月、「楽しい個展」(ギャラリー芦屋)。1979年 5月、第1回非具象の世界展(佐谷画廊)に出品。同月、個展を盛岡市のMORIOKA 第一画廊で開き、「丸と線」(1957年)「置」(1961年)「寄」(1965年)「方」(1965年)「分」(1966年)「軌」(1968年)「竝」(1968年)「和」(1972年)「地」(1973年)「点」(1974年)「宇」(1975年、以下同じ)「注」「匍」「文」「遮」「過」「明」「偏」の18点を出品。6月、個展を世田谷区成城の緑蔭小舎で開く。7月、山口長男と7人の新人展(ギャラリー・ジェイコ)に出品。9月、東京都美術館の「近代日本美術の歩み展」に「かたち」(1954年)を出品。10月、神奈川県立近代美術館の「巨匠展シリーズ3現代美術・戦後展」に「平面」(1958年)「垂」(1965年)を出品。11月、福岡市美術館開館記念の「近代アジアの美術-インド・中国・日本-」展に「転」(1961年)を出品。同月、植木茂・山口長男二人展(ギャラリートーシン)が開かれ、「竝」「軌」「弧」(以上1968年)「宇」「疏」「注」「匍」「偏」(以上1979年)の油絵8点の他水彩6点を出品。1980年 4月、東京国立近代美術館と朝日新聞社の共催により「山口長男・堀内正和展」が開催される。9月、北九州市立美術館で「山口長男展」開催。1981 10月、個展をギャラリー芦屋で開く。1982 6月、小品展を緑蔭小舎で開く。11月、個展をギャラリー芦屋で開く。1983 4月27日、東京小平市の昭和病院で没。本年譜は、浅野徹編「山口長男略年譜」(「山口長男・堀内正和展」図録、東京国立近代美術館、1980年)を転載したもので、一部を添削した。

中村善策

没年月日:1983/04/27

日展参事、一水会運営委員の洋画家中村善策は、4月27日脳血栓のため東京都千代田区の東京警察病院で死去した。享年81。本名善作。一貫して風景画を描き、明快で澄んだ色調と軽快な筆触で独自の画風を築いた中村は、明治34(1901)年12月29日北海道小樽市に建築請負業中村駒吉の四男として生まれた。大正5年から海運会社に就職の側ら小樽洋画研究所に学び、同7年に神戸在勤中は神戸YMCA外国語学校英語科にも学ぶ。同13年上京し川端画学校へ通い、同年第5回中央美術展に初入選。翌14年、第12回二科展に「風景」が初入選、また、同年道展の創立会員となり、以後二科展、中央美術展、道展に制作発表を行い、昭和6年には新美術家協会に加わり同展にも出品を続ける。同11年第23回二科展に「白い燈台」「獨航船」を出品し二科特待賞を受けたが、翌12年安井曽太郎、石井柏亭らによって創立された一水会第1回展に「けむり」、「山と渓流」他を出品し一水会会員に推され、以後同展に出品するとともに、安井に大きな感化を受けた。同16年第4回新文展に「豊穣」を無鑑査出品、同18年の第6回文展では審査員をつとめる。同20年4月空襲により二科時代の作品全てを焼失した。戦後は、一水会展、日展に出品したのをはじめ、美術団体連合展、日本国際美術展、現代日本美術展にもそれぞれ第1回展から出品する。同42年第10回日展に「石狩湾の丘の邑」で文部大臣賞を受賞、翌43年の第11回日展出品作「張碓のカムイコタン」で日本芸術院賞を受けた。晩年に至るまで現場での制作を身上とし、出生地である北海道や信州地方の景色を多く描いた。この間、同33年日展評議員、同44年同理事、同48年同常務理事となり、同52年からは参与、同55年からは参事をつとめ、同53年には勲四等旭日小綬章を受章した。北海道美術協会名誉会員、大谷短大美術科教授でもあった。戦後の作品には「リンゴの花」(同27年、第1回日本国際美術展)、「Port Kobe」(同29年、第1回現代日本美術展)、「信濃」(同36年、第4回日展)、「海裳の花咲く」(同38年、第7回国際展)、「秋の散歩道」(同46年、第3回日展)、「新雪の頃」(同52年、第39回一水会展)などがある。

朝井閑右衛門

没年月日:1983/04/23

洋画家朝井閑右衛門は、4月23日心不全のため鎌倉市の恵風園胃腸病院で死去した。享年82。油彩の厚塗りで強烈な個性を発揮し、野人画家でもあった朝井は、明治34(1901)年1月24日大阪市南区に生まれ幼名を實といった。大正9年父の死去により家督を相続し、同年、陶芸家河野公平とともに上京、本郷洋画研究所に学び、この頃から転々と友人間を流浪する生活となる。同15年第13回二科展に「廃園に於て」が初入選、昭和5年第17回二科展にも「少女K」が入選するが、同9年には第21回光風会展と第15回帝展に共に入選し、以後戦前は光風会展(同12年会員)、官展へ出品した。同11年文展鑑査展に500号の大作「丘の上」を出品し文部大臣賞を受賞。同13年には上海軍報道部の委嘱を受け上海戦線記念絵画制作のため中村研一、小磯良平、向井潤吉らと同地に赴き、同20年にも上海を訪ね同地で終戦を迎えた。戦後は同22年に井手宜通、川端実、須太剋太らと新樹会を結成し第1回展に「雨の日」などを出品、同展には同51年の第30回展後解散に至るまで、精力的に出品を続けた。一方、戦後の日展には同25年に審査員となるが出品せず、同年光風会からも離れた。日本国際美術展、現代日本美術展にはともに第1回から出品し、同37年には鳥海青児、海老原喜之助、岡鹿之助らとこの年に組織された国際形象展の同人となり、第1回展から出品した。晩年に至るまでその制作意欲は衰えず奔放な厚塗りに独自の生彩を盛った。しかし、戦前戦後を通じ常に画壇の第一線で活躍しながら画集もなく、また本格的な個展も開催することがなく、特異な生涯を貫いた。略年譜1901(明治34年)1月24日、大阪府大阪市南区に、父浅井繁熊母ヒサの長男として生まれる。幼名實。1913(大正2年)12歳3月、恵美第一尋常高等小学校尋常科を卒業。1920(大正9年)19歳1月、広島市に於て、父の死去(享年44)に伴い家督を相続。この前後から家には寄り付かず、交流していた陶芸家河野公平と後に上京、東京府北豊島郡日暮里町(現在の荒川区)の叔父方、木村家に寄寓して本郷洋画研究所に学び、この頃から、友人の間を転々とする流浪の生活となる。1925(大正14年)24歳この頃、西宮市の清水保雄宅に半年ほど逗留した後再び上京し、東京市下谷区集明館の二階を借り、アトリエに当てる。1926(大正15年)25歳9月、第13回二科に『廃園に於て』が初入選。この時、二科の出品票は、東京府豊多摩郡。1928(昭和3年)27歳この頃、神奈川県足柄下郡桃源寺の借家に住み、また早川沿いの山麓に貸別荘を借り、アトリエに当て制作する。ここで牧野信一、川崎長太郎、福田正夫、牧雅雄等を知る。1930(昭和5年)29歳9月、第17回二科展に『少女K』が入選。1932(昭和7年)31歳この頃、平岡権八郎の知遇を受け同家のアトリエに寄宿するようになる。1934(昭和9年)33歳2月、第21回光風会展に『素描する人』が入選。10月、第15回帝展に『目刺のある静物』が入選。1935(昭和10年)34歳2月、第22回光風会展に『若き弁護士の像』が入選。10月、第二部会第1回展覧会に『考古学者と其家族』が入選し、文化賞特選。1936(昭和11年)35歳4月、第23回光風会展に『画家像』『ロリルの踊り』が入選し、光風会々友となる。この頃、板橋区の通称“練馬のアトリエ村”に住むようになる。10月、昭和11年文展・鑑査展に、500号の大作『丘の上』が入選し、文部大臣賞。1937(昭和12年)36歳2月、第24回光風会展に『ナルシース』『ギタリスト』『星を高ふピエロ』を出品し、光風会々員となる。同年の光風会展目録の住所は、再び下谷区谷中真砂(島)町1-2集明館内。10月、第1回新文展に『通州の救援』が入選。1938(昭和13年)37歳2月、第25回光風会展に『放浪者』『五月のエスキース』『唄ふ人』を出品(評議員)。同展出品目録の住所は、板橋区。5月、上海軍報道部の委嘱により上海戦線記念絵画(戦争記録画)を制作のため、中村研一、小磯良平、江藤純平、柏原覚太郎、向井潤吉、南政善、鈴木栄二郎、脇田和、長坂春雄等と上海に赴く。10月、第2回文展に『生還特務隊』が入選。この年、日本大学芸術科の講師となる。1939(昭和14年)38歳7月、第1回聖戦美術展に『楊家宅望楼上の松井最高指揮官』を出品(招待・無鑑査)。10月、第3回文展に『良民救助』が入選。1940(昭和15年)39歳この年、大河内信敬、南善政と中国へ赴く。10月、紀元2600年奉祝美術展に『黎明へ』を出品。1941(昭和16年)40歳2月、第28回光風会展の審査員となるが同展は不出品。この年、永富花子(31歳)と結婚し、東京市大森区にあった永富家に大アトリエを構える。しかしこのアトリエは、やがて戦時の強制疎開により取り毀しとなる。1942(昭和17年)41歳6月1日、長女祐子が生まれる。1943(昭和18年)42歳10月、第6回文展(東京都美術館)に『春』(招待無鑑査・現在京都市美術館蔵)を出品。この年、上海に赴き、歯科医横田東一宅に寄宿する。1944(昭和19年)43歳5月13日、二女三喜が生まれる。11月に『豊取(誉ノ家族)』を出品。1945(昭和20年)44歳この年春、上海に赴き、ブロードウェイマンション714号室に住む。ここで敗戦を迎へ、翌年の引揚げまでの間を施高塔路大陸新邨に滞在する。1946(昭和21年)45歳この年春、上海から引揚げ、しばらくの間引揚寮に滞在した後、友人の間を転々とするようになるが、この頃、咽喉の疾患により横須賀の副島医院に入院し、手術回復後もしばらくの間は同院長の副島昇宅に滞在する。また秋から翌年春にかけて静岡県三島の杉本英一宅に逗留。1947(昭和22年)46歳この年、横須賀市に二軒長屋を求め、1軒をアトリエに改造し1人で住むようになる。2月、第33回光風会展の審査員となるが同展は不出品。3月、井出宜通、川端実、須田剋太等と「新樹会」を結成。5月、新憲法実施並に東京都美術館開館20周年記念・現代美術綜合展に『小港』を出品。6月、第1回新樹会油絵展に『雨の日』など9点を出品。10月、第3回日展に『灯ともし頃』を出品(招待)。この年、文芸雑誌「文體」第1号に掲載の高見順著「わが胸の底のここには」に挿絵を描く。1948(昭和23年)47歳3月、第34回光風会展に『水車』『港』を出品(審査員)。5月、第2回美術団体連合展に『古呉の景』を出品。7月、第2回新樹会展に『ばら』『ガラス台鉢』などを出品。この年、「文體」第2号の高見順著「わが胸の底のここには」続稿と、同誌第3号の北原武夫著「背徳者」続編3に挿絵を描く。1949(昭和24年)48歳5月、第3回美術団体連合展に『静物』を出品。7月、第3回新樹会展に『秋画室』などを出品。1950(昭和25年)49歳5月、第4回美術団体連合展に『新開地』を出品。7月、第4回新樹会展に『電線風景(A)』『電線風景(B)』『静物』を出品。この年、第6回日展の審査員となるが出品せず、また光風会々員名簿から、この年かぎりで消えている。1951(昭和26年)50歳1月、第2回選抜秀作美術展に『新開地』(連合展)が選抜される。8月、第5回新樹会展に『電線風景(A)』『電線風景(B)』『電線風景(C)』『ガラス台鉢』『マジョリカ台鉢』『街頭』『プラットホーム』『マーケット横』を出品する。1952(昭和27年)51歳5月、第1回日本国際美術展に『マジョリカ台鉢』『やけ跡』『シャンパンとブロンズとテラコッタ』を出品。7月、第6回新樹会展に『シャンパン瓶』『ガラス台鉢(A)』『ガラス台鉢(B)』『電線風景(トンネル)』『電線風景(ガード)』『電線風景(A)』『電線風景(B)』を出品。1953(昭和28年)52歳5月、第2回日本国際美術展に『ガラス台鉢』を出品。8月、第7回新樹会展に『電線風景』『ガラス台鉢』『ガラス台鉢とテラコッタ』『蓬莱(A)』『蓬莱(B)』『蓬莱(C)』『蓬莱(D)』の7点と『ガラス台鉢とテラコッタ(エスキース)』を3点出品。1954(昭和29年)53歳5月、第1回現代日本美術展に『ドン・キホーテの没落』を出品。8月、第8回新樹会展に『人形使いの肖像』『ばら(A)』『ばら(B)』『ばら(C)』『ばら(D)』を出品。1955(昭和30年)54歳5月、第3回日本国際美術展に『奇しきヘロデ王の怒りとサロメ』(3部作)を出品。8月、第9回新樹会展に『ガラス台鉢(A)』『ガラス台鉢(B)』『ドン・キホーテの没落』『ばら(A)』『ばら(B)』『ばら(C)』『ばら(D)』『スカパンとクリスパン』を出品。この年から昭和32年にかけて、東京都中央区鈴木医院の新築別棟(鈴木良純方)の2階をアトリエに提供されて制作する。なお田浦のアトリエには気の向くまま時々帰っていた。1956(昭和31年)55歳5月、第2回現代日本美術展に『ドン・キホーテ』を出品。8月、第10回新樹会展に『道化(恋)A』『道化(恋)B』『ばら(A)』『ばら(B)』『ばら(C)』『港(嵐)』『港(帰らぬ船)』を出品。この年、「文芸」1月号、「文学界」3月号、「雲母」5月号、9月号、10月号などの表紙を描く。1957(昭和32年)56歳1月、第8回選抜秀作美術展に『道化(恋)B』(新樹会)が選抜される。5月、第4回日本国際美術展に『道化』を出品。7月、第11回新樹会展に『ばら(A)』『ばら(B)』『ばら(C)』『ばら(D)』『ばら(E)』『仁王(紅葉)』『道化』『ガラス鉢と人形』を出品。この年、「週刊新潮」に掲載の高見順著「愛と死」「春本考」「生と性」「エロスの招宴」と、「文芸」2月号の「春の随筆全集」などに挿絵を描く。1958(昭和33年)57歳1月、第9回選抜秀作美術展に『ぱら』(新樹会)が選抜される。5月、第3回現代日本美術展に『バラの図』を出品。8月、第12回新樹会展に『新秋』『道化』などを出品。この年、中山恒明著「随筆集・学園の骨片」の表紙、扉の装訂をする。1959(昭和34年)58歳5月、第5回日本国際美術展に『紅葉水車』を出品。8月、第13回新樹会展に『バラ』『ガラス台鉢』『花束』『ファルス(A)』(現在神奈川県立近代美術館蔵)『ファルス(B)』を出品。この年、「雲母」3月号の表紙を描く。1960(昭和35年)59歳1月、第11回選抜秀作美術展に『ファルス(A)』(新樹会)が選抜される。5月、第4回現代日本美術展に『電線風景(A)』『電線風景(B)』を出品。8月、第14回新樹会展に『詩人山本太郎像』『詩人三好達治像』『詩人草野心平像』『詩人山崎栄治像』『バラ(A)』『バラ(B)』『バラ(C)』『プール』『ガラス鉢』を出品。1961(昭和36年)60歳5月、第6回日本国際美術展に『廃園において』を出品。8月、第15回新樹会展に『バラ(A)』『バラ(B)』『バラ(C)』『バラ(D)』『バラ(E)』『バラ(F)』『ドン・キホーテとサンチョパンサ、シリーズ』『ドン・キホーテ(坂)A』『独身主義の人魚とキューピッド、シリーズ(D)』を出品。1962(昭和37年)61歳5月、第5回現代日本美術展に『出発』を出品。この年春、「国際形象展」が組織され、鳥海青児、海老原喜之助、林武、森芳雄、野口彌太郎、荻須高徳、岡鹿之助、高畠達四郎、山口薫と共に同人となる。8月、第16回新樹会展に『バラ(信楽壷)』『若き萩原朔太郎』『バラ(夜明け前の)』『石と梅の実、室生犀星(われはうたへど)』『バラ(アイルランド壷)』を出品。10月、第1回国際形象展に『ガラス台鉢のある静物』『ある逃走者』『晴来る』『誘惑』を出品。1963(昭和38年)62歳1月、第14回選抜秀作美術展に『ある逃走者』(新樹会)が選抜される。5月、第7回日本国際美術展に『善雲と悪雲』を出品。8月、第17回新樹会展に『パン(A)』『パン(B)』『パン(C)』『パン(D)』『アトリエに於ける木内克』を出品。10月、第2回国際形象展(日本橋・三越)に『ドン・キホーテ』『仮面なしでは生きられない』を出品。1964(昭和39年)63歳1月、第15回記念・選抜秀作美術展に『仮面なしでは生きられない』(国際形象展)が選抜される。6月、第18回新樹会展に『序曲』『絵本(綱渡りの法の)』『パリスのさいばん』『台所(のら猫)』『パリスのさいばん』『仕事場(メキシコ犬のある)』『春(A)』『春(B)』を出品。7月、第1回太陽展(銀座・日動画廊)に『朝』『バラ』を出品。9月、第3回国際形象展に『光を求めて』『夜の旅(A)』『夜の旅(B)』『コールネシヤ』『ロバとサンチョ』『或るドン・キホーテの像』を出品。この年、新潮現代文学14、高見順著『いやな感じ・死の淵より』の装画を描く。1965(昭和40年)64歳5月、第8回日本国際美術展に『行進曲(鬼の念仏と鼻くらべ)』を出品。7月、第2回太陽展に『愛の森』『バラ』を出品。8月、第19回新樹会展に『ギター弾(A)』『ギター弾(B)』『三人の道化』『サーカス人形』『黄昏』『薔薇』『犬とピエロ』を出品。9月下旬から10月初旬まで横須賀国立病院に、10月初旬から11月下旬には東京の厚生年金病院に入院する。10月、第4回国際形象展に『ピエロ』『ピエロの行進(ミラノの参加せる)』『高く大きく』『ピエロの行進A(アンダルシヤ)』『ピエロの行進B(アンダルシヤ)』『ついにスーザホルンを持ち出した彼ら』『最後の病床における高見順』『追憶の高見順』を出品。1966(昭和41年)65歳7月、第3回太陽展に『朝・逗子鐙摺ヨットハーバーA』『朝・逗子鐙摺ヨットハーバーB』『花』を出品。8月、第20回新樹会展に『栄誉人間と人形(A)』『栄誉人間と人形(B)』『中山教授之像』『バラ』を出品。9月、高見順展(新宿・伊勢丹、日本近代文学館・毎日新聞社主催)に『最後の病床における高見順』『追憶の高見順』を出品。10月、第5回国際形象展に『偉そうな服を着た道化(A)』『偉そうな服を着た道化(B)』『逃げる道化』『頑固なろばと道化』『ろばと道化(A)』『ろばと道化(B)』『ろばと道化(C)』『二人の道化(A)』『二人の道化(B)』『二人の道化(C)』『二人の道化(D)』の11点を出品。この年、20年に亙って住んだ“田浦のアトリエ”を引き払い、鎌倉市に土地家屋を求めて転居する。この家屋は興の趣くまま徐々に改築を重ね、昭和50年にアトリエはほぼ完成する。1967(昭和42年)66歳3月、朝井閑右衛門自選近代油絵十題展(大阪・大丸)に『バラ(マイセン壷)』他14点を出品。5月、第9回日本国際美術展に『道化の埋葬』を出品。7月、第4回太陽展に『ドン・キホーテ』を出品。8月、第21回新樹会展に『白雪姫(1)』『白雪姫(2)』『白雪姫(3)』『白雪姫(4)』『白雪姫(5)』『白雪姫(6)』『白雪姫(7)』『白雪姫(8)』『白雪姫(9)』『白雪姫(10)』『キューピッド』を出品。11月、第6回国際形象展に『ばら』『小鳥と遊ぶピエロ』『上陸』『口笛のロベルト』『東方への旅』『町廻り』『宵月(A)』『宵月(B)』『春(A)』『春(B)』を出品。1968(昭和43年)67歳4月、永年に亙って別居を続けていた妻花子と協議離婚をする。5月下旬、5日間ほど東京女子医大消化器病センターへ入院する。7月、第5回太陽展に『水泳競技事始(大正12年芝公園)』『ばら』を出品。8月、第22回新樹会展に『遠い旅(A)』『遠い旅(B)』『遠い旅(C]』『遠い旅(D)』『遠い旅(E)』『サーカスに来たドン・キホーテ(A)』『サーカスに来たドン・キホーテ(B)』『打合せ』『大虎を逃がすな』を出品。10月、第7回国際形象展に『記念像制作(創生記)』『サーカス(A)』『サーカス(B)』『サーカス(C)』『サーカス(D)』『サーカス(E)』『サーカス(F)』『サーカス(G)』『サーカス(H)』『夕月(A)』『夕月(B)』『夕月(C)』『夕月(D)』『夕月(E)』の14点を出品。11月19日、戸籍氏名の「浅井實」を雅号の「朝井閑右衛門」に変更する。1969(昭和44年)68歳7月、第6回太陽展に『バラ』を出品。8月、第23回新樹会展に『ドン・キホーテ(A)』『ドン・キホーテ(B)』『ドン・キホーテ(C)』『ドン・キホーテ(D)』『ドン・キホーテ(E)』『ドン・キホーテ(F)』『ドン・キホーテ(G)』『ドン・キホーテ(H)』『ドン・キホーテ(I)』『ドン・キホーテ(J)』『ドン・キホーテ(K)』『ドン・キホーテ(L)』『ドン・キホーテ(M)』の13点を出品。10月、第8回国際形象展に『シラノ・ド・ベルジュラック(A)』『シラノ・ド・ベルジュラック(B)』『シラノ・ド・ベルジュラック(C)』『独身主義の人魚(A)(エロスに狙われる)』『独身主義の人魚(B)(エロスに狙われる)』『独身主義の人魚(C)(エロスに狙われる)』『人形図(A)』『人形図(B)』『人形図(C)』を出品。1970(昭和45年)69歳7月、第7回太陽展に『東方への道』を出品。8月、第24回新樹会展に『祭礼サーカス(1)』『祭礼サーカス(2)』『祭礼サーカス(3)』『祭礼サーカス(4)』『祭礼サーカス(5)』『祭礼サーカス(6)』『祭礼サーカス(7)』『ハナズナマック(1)』『ハナズナマック(2)』『祭礼花祭』を出品。10月、第9回国際形象展に『旅へ行く人(A)』『旅へ行く人(B)』『春』『偉大なる慈悲の物象』『春』を出品。1971(昭和46年)70歳7月、第8回太陽展に『ドン・キホーテ』を出品。8月、第25回新樹会展に『海辺の子供(A)』『海辺の子供(B)』『海辺の子供(C)』『海辺の子供(D)』『海辺の子供(E)』『バラ(紅ギヤマン瓶)』『薔薇之図(法華手楽人文壷)』を出品。9月中旬から10月初旬にかけ神奈川県の湯河原胃腸病院に入院する。9月、第10回国際形象展に『海辺の遊び』を出品。1972(昭和47年)71歳2月、「戦後日本美術の展開-具象表現の変貌」展(東京国立近代美術館)に『仮面なしでは生きられない』(1963)が出品される。6月、第9回太陽展に『ロミオとジュリエット』を出品。8月、第26回新樹会展に『練習』『悪霊と道化』『道化への道』『砂糖壷のある静物』を出品。9月、第11回国際形象展に『道化家族』『フラッテリー三兄弟』『3人の道化』を出品。1973(昭和48年)72歳7月、第10回太陽展に『森の奥』を出品。8月、第27回新樹会展に『作品(A)』『作品(B)』『作品(C)』『作品(D)』『作品(E)』『作品(F)』『ガラス台鉢』『奇蹟(甦る行路病者)』と他に『夕月』10点を出品。1974(昭和49年)73歳6月、第11回太陽展に『雪の上の祭り』を出品。8月、第28回新樹会展に『バラ(明法華壷)』『フリュートを吹く菊盛者』『フラッテリーニ』『高僧絵ノ内(A)』『高僧絵ノ内(B)』を出品。1975(昭和50年)74歳6月、第12回太陽展に『海辺の部屋(ハヤマ)』(現在ひろしま美術館蔵)『宵月』を出品。8月、第29回新樹会展に『デモンストレーション(A)』『デモンストレーション(B)』『人形(A)』『人形(B)』『人形(C)』『人形(D)』『人形(E)』『人形(F)』『バラ(法華手壷)』を出品。9月、第14回国際形象展に『ファンタジア(C)』『ファンタジア(R)』『ファンタジア(七福神の内)』『鶴亀』『とら』を出品。1976(昭和51年)75歳4月初旬から同中旬にかけて鎌倉市稲村ガ崎の恵風園胃腸病院に入院する。6月、第13回太陽展に『フランス人形』を出品。8月、第30回新樹会展(最終回)に『バラ』『絵本のある静物』『ガラス台鉢(1)』『ガラス台鉢(2)』『ガラス台鉢(3)』『ガラス台鉢(4)』『ガラス台鉢(5)』『遁走者』『FOUの像(ある生活の記録)』『ばら』『フランス人形』『薔薇(法華手楽壷)』『電線風景(1)』『電線風景(2)』『大いなる慈哀者のけい争』の15点と、旧作の“詩人の像シリーズ”から『草野心平像』『山本太郎像』『三好達治像』『萩原朔太郎像』『晩年の室生犀星』『病苦より天上へ高見順像』、また“学者の像シリーズ”から『ヨットの上の中山恒明教授』と新作の『脇村義太郎先生の像』の計23点を出品。昭和22年から続いた「新樹会」は、この年をもって解散する。9月、第15回国際形象展に『ピカソ人形の居る静物』『バラ(法華壷)』『バラ』を出品。1977(昭和52年)76歳6月、第14回太陽展に『誘惑』を出品。9月、第16回国際形象展に『祭(1)』『祭(2・おきつね)』『祭(3・鶴岡)』の3部作を出品。1978(昭和53年)77歳6月、第15回太陽展に『薔薇』を出品。この年9月、自宅の風呂場で転倒しその際右脚を捻挫する。右脚は一時回復したものの再び転倒して痛め、その後は歩行に支障をきたすようになる。1979(昭和54年)78歳4月、日本秀作美術展に『牡丹』(第10回潮音会)が出品される。6月、第16回太陽展に『薔薇(法華壷)』を出品。1980(昭和55年)79歳6月、第17回太陽展に『薔薇図』を出品。9月、第19回国際形象展に『バラ』を出品。この年、神奈川県立近代美術館の運営委員を委嘱される。1981(昭和56年)80歳6月、第18回太陽展に『薔薇』を出品。10月、第20回国際形象展に『薔薇之図』『薔薇』『薔薇』を出品。この年、草野心平詩集「第百階級」限定19部の表紙肉筆19葉を描く。1982(昭和57年)81歳6月、第19回太陽展に『バラ』を出品。この年、小品の加筆程度で、制作は殆んど行なわず「病苦百八十七日・気分快適と言う日無し」であったと言う。1983(昭和58年)82歳2月末、死の予感を訴える。狭心症の発作は頻度を増すが、3月末から『薔薇』10号の加筆に取り掛り、10回余りで仕上げ、絶筆(第20回太陽展出品)となる。翌4月19日、稲村ガ崎、恵風園胃腸病院に入院する。4月23日午後7時35分死去する。遺言により葬儀は行なわず、6月10日、鎌倉の極楽寺に埋葬される。(本年譜は、『朝井閑右衛門追想-草野心平、匠秀夫編、昭和59年、日動出版-収載の大塚信雄、門倉芳枝編「朝井閑右衛門略年譜」の一部を削除し作成したものである。)

中原淳一

没年月日:1983/04/19

服飾雑誌「それいゆ」「ひまわり」の挿絵で知られ、服飾美術家として活躍した中原淳一は、4月19日午後2時25分、脳こうそくのため、千葉県館山市の館山病院で死去した。享年70。大正2(1913)年2月16日、香川県に生まれ、間もなく徳島に移り住む。小学校2年生で父と死別。少年期から、文学、戯曲を耽読し、また、画家を志す。日本美術学校在学中の昭和7(1932)年2月、自作のフランス人形約30点を展示した個展を銀座松屋で開き、好評を得る。この個展の特集が雑誌「少女の友」に掲載されたのがきっかけとなって、同誌の挿絵、表紙を描くようになる。同誌には、吉屋信子、川端康成などが寄稿していた。中原の描く、黒目がちでうるんだような大きな瞳を持つ感傷的な少女像は「昭和の夢二」として一世を風靡する。同15年5月同社を退き、海軍に応召し、終戦後間もなく帰国。戦後の婦人たちに夢を与える雑誌をめざしてひまわり社を設立し、季刊誌「それいゆ」を創刊。同22年1月に月刊少女雑誌「ひまわり」の出版を始める。これらに発表された服飾、室内装飾、髪型などのデザインは、戦後の自由な空気の中で、次々と新しい流行を生み出した。同26年4月から1年半パリに留学。帰国後、「ひまわり」を廃刊し、「ジュニアそれいゆ」を創刊する。同34年8月、過労から来る心臓発作にみまわれ、2年間の入院と約10年にわたる療養生活を余儀なくされる。同45年、隔月雑誌「女の部屋」を創刊して再起を期したが、再び病に倒れ、1年で廃刊。そののちは、館山市で療養生活を続けていた。雑誌の他に、『愉しく、新しく』(昭和28年)、『あなたがもっと美しくなるために』などの単行本も著し、視覚芸術にとどまらず、美しく生活するための総合的なアイデアを提起して、独自の足跡を残した。

田中一松

没年月日:1983/04/19

元東京国立文化財研究所長、文化財保護審議会委員田中一松は、4月19日午前6時30分、老衰のため、東京都杉並区の駒崎病院で死去。享年87。明治28(1895)年12月23日、山形県鶴岡市に生まる。山形県鶴岡中学校(当時庄内中学校)、第一高等学校第一部文科を経て、大正7(1918)年9月東京帝国大学文学部に入学、同12年3月美学美術史学科を卒業、同13年12月東京帝室博物館美術課嘱託(同15年12月まで)、同15年12月古社寺保存計画調査嘱託、昭和10年3月国宝保存に関する調査嘱託、翌11年10月重要美術品等調査委員会臨時委員、同20年10月社会教育局国宝保存に関する調査嘱託、同22年5月国立博物館の事務嘱託、同年8月文部技官任官、国立博物館勤務、同25年9月文化財保護委員会保存部美術工芸課勤務、同年12月文化財専門審議会専門委員(同41年2月まで)、同27年10月東京国立文化財研究所美術部長、翌28年11月東京国立文化財研究所長、同33年7月欧州巡回日本古美術展派遣団長として渡欧、帰途インドの美術遺跡、博物館を視察(同34年3月まで)、同40年3月東京国立文化財研究所長退官、同年4月国華社主幹(同52年8月まで)、同41年2月文化財保護委員会委員(同43年6月まで)、同42年勲三等旭日中綬章受章、同43年6月文化財保護審議会委員(同51年6月まで)、同47年8月高松塚古墳総合学術調査会副会長(同48年4月まで)、同48年4月浮世絵に関する国際シンポジューム出席及び東洋美術品コレクション調査等のためアメリカ合衆国に出張(5月12日まで)、その間、5月アメリカ合衆国フリア美術館よりフリア・メダルを受賞、同49年11月勲二等瑞宝章受章、同52年8月国華社編集顧問、その間、女子美術専門学校、日本大学、東北大学、早稲田大学、金沢美術工芸大学、東京大学等の講師および、日本中国文化交流協会、トキワ松学園、中央美術学園、栃木県立美術館、根津美術館、畠山記念館、出光美術館、頴川美術館、山種美術館、致道美術館、博物館明治村、本間美術館等の役員を勤めた。同58年4月19日死去に際し従四位に叙せられた。以上の経歴が示すように、終始一貫してわが国文化財保護の行政に従事し、主として絵画作品の実査研究を行った。その研究領域は広範にわたり、仏教美術をはじめ、倭絵、絵巻物、水墨画、宋元画、宗達・光琳派、南画にまで及んでいる。そして、その学識は多くの研究者を養成、指導し、その学恩に浴すものは少くない。研究業績としては、大正9年以来、種々の学界誌や書籍に発表されているが、その主要な論文は昭和33年の還暦記念出版『日本絵画史の展望』(美術出版社)、同41年の古希記念出版『日本絵画論集』(中央公論美術出版)、没後同60年及び61年に出版される『田中一松絵画史論集』上・下(同上)に収録されている。また、編集ないし監修の主な全集には『日本絵巻物集成』(1929~32年)、『宋元名画集』正続(1928~32・38年)、『東山水墨画集』(1934~36年)、『日本絵巻物集成』改訂版(1942~44年)、『続日本絵巻物集成』(1942~45年)、『池大雅画譜』(1956~59年)、『日本絵巻物全集』(1958~69年)、『日本美術全史』上下(1959・60年)、『水墨美術大系』(1973~76年)、『新修日本絵巻物全集』(1975~80年)などがあり、そのほか、早くから雑誌「国華」の編集に関与して、昭和40年より同50年にいたる間には主幹として多くの新出作品の紹介につとめた。また、詩文や和歌をよくし、書画を巧みにした文人であった。

青木滋芳

没年月日:1983/04/17

染色工芸家、日展評議員、現代工芸作家協会顧問の青木滋芳は、4月17日午後2時35分、肝臓がんのため、千葉市亥鼻の千葉大付属病院で死去した。享年68。大正3(1914)年5月25日東京市四谷に生まれ、昭和13(1938)年3月東京美術学校工芸科図案部卒業。昭和27(1952)年の第8回日展出品作「染色二曲屏風キャベツと蓮根」が特選となり、翌昭和28(1953)年の第9回日展から無鑑査出品となる。昭和34(1959)年第2回新日展で審査員、昭和35(1960)年第3回新日展で日展会員となった。昭和37(1962)年の日本現代工芸美術家協会創立に参画、以後同会においても活躍、日展系の工芸作家として知られる。作品中東京芸大所蔵となっているものは第1回日本現代工芸美術展(昭和37年)出品作の染色二曲衝立「縞のある多角形」、第6回新日展(昭和38年)出品作の染色二曲屏風「翔」、改組第11回日展(昭和54年)出品作の「PARED DE LADRILLO(アルゼンチン風景)」。第8回現代工芸展(昭和44年)出品作「古刹」は千葉県立美術館蔵品となった。昭和52(1976)年に千葉県教育功労者(芸術文化)、昭和57(1982)年に紺綬褒章を受章する。

常盤大空

没年月日:1983/04/14

日本美術院同人の日本画家常盤大空は、4月14日脳軟化症のため東京都杉並区の前田病院で死去した。享年70。大正2(1913)年10月20日福島県東白川郡に醤油醸造業の家に生まれ、同7年県立石川中学校卒業後上京、川端画学校日本画科に入り、主に岡村葵園の指導を受け同12年に卒業する。昭和15年再興院展第25回に「木の間の秋」が初入選、同18年にも「さいかちの虫」で入選するが戦時下のためいったん帰郷し教職につき、翌年応召する。戦後も教職に復帰したが、同25年画業に専念するため再上京、同25年の第37回院展に「麦秋」が入選、この頃から堅山南風に師事し以後院展への出品を続ける。同35年第45回院展出品作「古代頌」は、終生のライト・モチーフの出発を示唆したもので、翌年第46回展に「伝承」で奨励賞を初受賞。同37年第47回展には中国殷時代の青銅器をモチーフとした「殷賦考」を出品、古代祭器の抽象的な文様を独自に再構成する表現を示し日本美術院賞を受賞する。同38年第48回展には「西域碑」でモチーフを中国から西域シルクロードへと拡大し、翌年の第49回展に「長安の人」で二度目の日本美術院賞を受賞、その後も連続受賞を重ね同42年日本美術院同人に推挙される。以後も独自のモンタージュ手法による白描風の表現を展開、題材も中央アジアからオリエント世界へと拡大された。同49年第59回展に「怒号(蒙古襲来)」で文部大臣賞を受賞する。再興院展出品目録昭和15年 木の間の秋昭和18年 さいかちの虫昭和27年 麦秋昭和28年 岩礁昭和29年 磐梯昭和30年 甲子谿昭和33年 陵原昭和35年 古代頌(左・右)昭和36年 伝承 奨励賞(白寿賞)昭和37年 殷賦考 日本美術院賞(大観賞)昭和38年 西域碑 奨励賞(白寿賞・G賞)昭和39年 長安の人 日本美術院賞(大観賞)昭和40年 流砂想々 奨励賞(白寿賞・G賞)昭和41年 讃正倉院 奨励賞(白寿賞・G賞)昭和42年 華厳 奨励賞(白寿賞・G賞)/同人推挙昭和43年 天馬将来叙昭和44年 胡歌昭和45年 黒飆(カラブラン)昭和46年 ’72東京昭和47年 赤い芥子(サマルカンド叙事詩)昭和48年 天山を越えて(シルクロード抄)昭和49年 怒号(蒙古襲来) 文部大臣賞昭和50年 カイバル峠(アレキサンダー大王印度遠征)昭和51年 果て遠き琵琶歌昭和52年 壮大なる白日の詩(ペルセポリス)昭和53年 逃避昭和55年 西方浄土変相讃賦

龍一之介

没年月日:1983/03/24

新芸術協会会長の洋画家龍一之介は3月24日午前7時35分、肝臓ガンのため東京都新宿区の国立病院医療センターで死去した。享年70。大正2(1913)年2月25日福岡県三池郡に生まれる。本名一。福岡市住吉小学校を卒業し、同15年父と共に上京。武蔵商業に入るが中退。太平洋美術学校で絵を学び、昭和10年第22回光風会展に「静物」で初入選。翌年第13回白日会展に「新宿風景」で初入選、また第4回旺玄社展にも初入選し同展には第8回展まで出品を続ける。この間、同13年から牧野虎雄に師事。同15年より戦地に赴き、18年帰国し中島飛行機荻窪写真部長となる。同21年同志と新生派美術協会を創立、同23年には同会を発展解消して現代美術協会を創立する。同25年渡仏し抽象画を研究。同40年新芸術協会を創立し、同50年同会長となる。同53年には同会員と共にフランス、ル・サロン展に出品し翌年同会員となった。自由な画風で知られ、代表作には「トレドへの道」「雲の桜島」などがある。没後同59年9月ギャルリ・アルカンシエルで回顧展が開かれた。

近藤豊

没年月日:1983/03/17

京都市立芸術大学教授の陶芸家近藤豊は、3月17日京都市山科の自宅で縊死した。死亡推定時刻は同日午前10時ころ。制作上の悩みが原因かとみられている。昭和7(1932)年12月9日、京都市東山区に陶芸家近藤悠三の長男として生まれる。同30年京都市立芸術大学陶磁器科を卒業、同32年同専攻科を修了する。富本憲吉、藤本能道、および父に師事。同36年同大助手となる。同37年米国インディアナ大学講師として渡米し、翌年欧米各地を視察して帰国。同46年京都市立芸大助教授、のち同教授となる。新匠会展富本賞、京都秀作展新人賞のほか現代朝日陶芸展、米国デポー陶芸展でも受賞。同42年日本陶磁協会賞、同53年「粉華三島鉢」で日本伝統工芸展奨励賞を受賞している。アメリカ、ニュージーランド、オーストラリアなどでも作品を発表し、国際的にも活躍していた。新匠会会員、日本工芸会会員。墨流し、飛鉋、印花、灰釉などを得意としたが、近年は信楽土と赤土を合わせた土の素地に刻印し、黒化粧土をかけた華三島の作品を多く制作し、古典的技術と作風の中に幾何学的文様による現代感覚をもりこんだ作風を示した。

米良道博

没年月日:1983/03/16

一陽会創立会員の洋画家米良道博は、3月16日脳こうそくのため大阪府羽曳野市の城山病院で死去した。享年79。号道伯。明治36(1903)年11月10日和歌山県東牟婁郡に生まれ、大正12年和歌山師範学校を卒業、昭和2年大阪へ出て信濃橋洋画研究所に学び、小出楢重、鍋井克之らに指導を受ける。同4年第16回二科展に初入選し以後同展に出品、同14年第26回展に「結髪」「夏の夕」を出品し特待となり、同16年の第28回展に「街道市」を出品し二科会会友に推挙さる。戦後、同22年の二科展から復帰し翌年二科会会員となる。同30年に二科会を退会し、鈴木信太郎、野間仁根、高岡徳太郎ら同志と一陽会を結成、同年の第1回展に「壷のある静物」を出品する。以後、同展に出品するとともに、同35年からは全関西美術展の審査に携わった。また、同50年には那智山青岸渡寺三重の塔の壁画を完成した。初期一陽展への出品には「室内裸婦」(3回)、「窓と裸女」(4回)などの裸体表現や、「富嶽日輪」(9回)などの富士の連作がある。

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